紫の月の二十六日①~中天の日~
2019.12/6 更新分 1/1
明けて翌日――太陽神の復活祭における2度目の祝日、『中天の日』である。
朝の仕事を片付けて、川での行水まで済ませて家に戻ってみると、そこにはすでに手伝いを頼んでいた女衆および護衛役の狩人たちが集結していた。
「今日は朝から、ありがとうございます。それでは、出発しましょう」
普段であれば料理の下ごしらえを始めるところであるが、本日は『ギバの丸焼き』のために宿場町へと直行だ。
荷車には、昨晩ファの家に宿泊したディアルとラービスも同乗している。さすがに彼女たちが川で水浴びをするとは思えなかったので、出発直前まで家で休んでもらっていたのだが、それでもディアルはいくぶん眠たげな面持ちであった。
「昨日はアイ=ファと、じっくり語らえたかい?」
御者台で手綱を握っているアイ=ファの耳をはばかって、俺はこっそり問うてみた。
子供のように目をこすっていたディアルは、「うん」と無防備な笑顔をさらす。
「そんなに長い時間ではなかったけど、アイ=ファとふたりきりで語らうのは初めてだったからね。すごく楽しかったよ」
「そっか。ふたりの交流が深まったんなら、何よりだよ」
「うん。昔はけっこういがみあっちゃったりもしてたけど、僕、アイ=ファのことも大好きだよ」
そんな言葉を聞かせてもらえるだけで、俺としては大満足であった。
ぴょんとはねた寝ぐせを指先で撫でつけながら、ディアルは俺の顔を覗き込んでくる。
「そういうアスタは、どうだったのさ? ラービスとふたりきりで、気詰まりじゃなかったならいいんだけど……」
「気詰まりなことなんて、まったくなかったよ。森辺の民にも、寡黙な人は多いからね」
何せ俺は、ダルム=ルウやディック=ドムとも一夜を明かした経験があるのだ。たとえ同胞ならぬ異国の民であっても、ラービスがことさら扱いにくい人間だなどとは思わなかった。
「こっちも疲れてたから、半刻も経たずに寝ちゃったと思うけどね。ディアルの家のこととか、あれこれ聞かせていただいたよ」
「えー! なんか、僕のことでおかしなことを言ってたりしなかっただろうね?」
「もちろんさ。でも、ディアルは小さな頃からやんちゃだったみたいだね」
ディアルは「ちぇっ」と少しだけ頬を赤くしたが、それでも嬉しそうな表情であった。
「まあ、アスタとラービスが仲良くなってくれたら、嬉しいよ。またいつか、おたがいがもっと時間のあるときに、招待してもらえる?」
「うん。そのときを楽しみにしているよ」
そうしてディアルが満面に笑みを浮かべたとき、ルウの集落に到着した。
そちらで待ちかまえていた荷車と合流し、速やかに宿場町へと進路を取る。
《キミュスの尻尾亭》と《南の大樹亭》で屋台を借り受け、露店区域を目指してみると、そこにはすでにジェノス城の人々が段取りをつけた7台の屋台が準備されていた。
「お待ちしていました。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
そのように挨拶してくれたのは、『暁の日』に見届け人として参上したジェノス城の使者であった。本日も、この御仁が見届け人としての役割を果たすのだろう。
「それじゃあ、僕たちは城下町に戻るね! アスタたちも、頑張って!」
ディアルはぶんぶんと手を振りながら、ラービスとともに街道を北上していった。
俺たちは、いざ『ギバの丸焼き』の準備である。
「それでは各自、よろしくお願いします。架台の組み上げが終わったら、火鉢に火を入れる前に声をかけてください」
この日、俺が責任者としての仕事を果たすのは、3台分の屋台であった。
14台の屋台のうち、7台はルウの血族、2台はフォウの血族、あとは1台ずつをディンとリッドがそれぞれ担当することになったのだ。
3台分の屋台であれば、かまど番は6名が必要となる。
俺が選出したのは、マルフィラ=ナハムとラヴィッツの女衆、レイ=マトゥアとガズの女衆、そしてフェイ=ベイムとラッツの女衆という組み合わせであった。すでに経験のあるマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアの他に、各氏族の親筋の女衆を選出したということだ。
ただし、それらの眷族であるヴィン、ダゴラ、ミーム、アウロ、およびスンの女衆も、手伝いではなく見物人という名目で1名ずつ集まっている。彼女たちに賃金は発生しないが、『ギバの丸焼き』の調理方法を学ぶために、それぞれの家から派遣されてきたのだ。
それに触発されたのか、ルウの取り仕切る屋台においても、サウティやダイを親筋とする氏族の人々を、見物人として招いていた。サウティの血族などは、以前にジザ=ルウから提案された通り、前夜からルウの血族の家に宿泊していたので、そのほとんどがまとめて朝から宿場町に下りていたのだった。
「おはようございます、ダリ=サウティ。そちらは、かなりの人数であるようですね」
「うむ。これでも、『滅落の日』にやってくる分と二手に分かれた人数であるのだがな」
ダリ=サウティはそのように言っていたが、男女あわせて30名近い人数であるようだ。これで、『暁の日』には参ずることのできなかったフェイ、ダダ、タムルといった眷族の人々も、晴れて初参加ということである。
ダリ=サウティとお目見えできたので、アイ=ファはトトスの早駆け大会の一件について、御礼を申し述べていた。
ダリ=サウティは、「礼には及ばん」と大らかに微笑む。
「これはファの家のみならず、森辺の民のすべてに関わってくる話だと言ったはずだ。俺たちはもう少し、あのフェルメスという貴族について深く知るべきなのだろう」
「うむ。族長たるダリ=サウティにそのように言ってもらえることを、きわめて心強く思っている」
「ドンダ=ルウやグラフ=ザザとて、思いは同じであるはずだ。ただ、素直な心情をさらすことをよしとしていないだけであろうよ」
そんな風に言ってから、ダリ=サウティはずらりと並ぶ屋台を見回した。
「それにしても、14台もの屋台でギバの肉が焼かれるというのは……なかなかに目を見張るものがあるな」
「はい。とても感慨深く思います」
俺がそのように答えたとき、フェイ=ベイムが架台の設置が完了した旨を告げてきた。
俺の取り仕切る3台の屋台も、これで準備が整ったようだ。俺は全員に、火鉢に火を入れるように指示を出した。
マルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアは2度目の参加であるので、俺はフェイ=ベイムとラッツの女衆に真ん中の屋台を任せて、そこを本拠地にすることにした。
ギバの幼体は2体しか準備できなかったので、レイ=マトゥアの班だけは半身の枝肉を焼いてもらっている。休息の期間中であるフォウ、ディン、リッドの屋台はもちろんすべてが枝肉であったし、ルウの血族のほうは7台中の3台がギバの幼体であった。
何にせよ、肉の重量はそれぞれ30キロ目安である。それが屋台14台分であるから――総重量は、420キロ。丸焼きにする過程で水分と脂分が抜けて、1割ぐらいの目方は減ずるとしても、やはりなかなかの質量であろう。これだけのギバ肉をふるまっても、決して持て余すことはないと、ジェノス城の人々は考えたのだった。
「さすがにそのぶんは、キミュスの肉を減らすことになったみたいだけどね! ま、余計な仕事が減ったって喜んでる人間も多いんじゃないのかな」
前日、そのように語っていたのは、レビたちの向こう側の屋台で働いていたユーミであった。
「どっちみち、宿の厨ではキミュスを焼くことになるわけだしさ。屋台の仕事を取りやめたい人間はいるかって商会長から触れが回されたんだけど、それですぐに話はまとまったみたいだよ」
宿屋の人々もジェノス城から手間賃を頂戴して、『キミュスの丸焼き』を作製していたわけであるが、格段に割のいい仕事というわけでもないのだ。ファの家にしてみても、手間賃の中から6名のかまど番に給与を支払ったら、手もとに残るのはほどほどの額であった。
そんな経緯もあって、《キミュスの尻尾亭》は『キミュスの丸焼き』をふるまう仕事を辞退することになった。それならば、夜に備えてより多くのラーメンを準備したほうが、儲けや宣伝に繋がると判断した結果である。今頃レビとラーズは、宿の厨で麺をこねていることであろう。
14台の屋台では、『ギバの丸焼き』が着々と焼かれている。この時間はまだ町の人々もやってきていないのだが、森辺の民だけでけっこうな熱気である。
今回は北の集落の人々も前日からディンやリッドの家に泊まり込んでいたので、それらの人々も屋台を取り囲んでいるのだ。そこにはハヴィラやダナの人々も姿を見せていたので、きっとみんな『ギバの丸焼き』の作り方を学ぼうとしているのだろう。そう考えれば、これにて森辺のすべての氏族に、『ギバの丸焼き』の作り方が伝授されることになるのだった。
「おお、やっているな、お前たち!」
と、いきなり街道のほうから、若い男性の元気な声が投げかけられてくる。
誰かと思えば、ラッツの家長である。「お前たち」というのは、屋台で仕事に励んでいたラッツの女衆と、そのさまを見物していた眷族の女衆にかけられた言葉であった。
「お早いお越しでしたね、家長。肉が焼けるには、まだまだ時間がかかるはずですよ」
物怖じしないラッツの女衆がそのように言い返すと、「わかっている!」と若き家長は笑い声をあげた。
「しかし今日は、ジェノスの領主が姿を見せるのであろうが? どうせ顔などは隠しているという話であったが、いちおう見届けておこうと考えたのだ!」
そう、今日はジェノス侯爵マルスタインを乗せたトトス車が宿場町を練り歩く、パレードの日であったのだ。いちおうその一件も、森辺の連絡網で周知されていたのだった。
「おお、アスタにアイ=ファ、挨拶が遅れてしまったな。うちの女衆らに、手抜かりはなかろうな?」
屋台の中を覗き込みながら、ラッツの家長はそのように問うてきた。
アイ=ファは「うむ」とうなずくばかりであったので、俺がもう少々言葉を添えさせていただく。
「いまのところ、まったく問題はありません。もう二刻もすれば立派な丸焼きが完成しますので、どうぞ楽しみにしていてください」
「そうか。俺の血族も美味い料理に関しての熱情は、決してガズやマトゥアの人間に負けていないはずだからな。よろしく手ほどきをお願いするぞ!」
このラッツの若き家長は、俺がガズの血族であるレイ=マトゥアを取り立てたことに、いくぶん対抗意識めいたものを抱いていたようであったのだ。古くから近在に住まうラッツとガズの血族は、いい意味でライバル関係のようなものを構築している様子もあった。
「次の収穫祭は、わたしたちもガズやベイムの血族とともに行おうと考えています。その場において、レイ=マトゥアだけが『ギバの丸焼き』の取り仕切り役を担うというのは、家長としても口惜しい気持ちであったのかもしれません」
先日、ラッツの女衆はこっそりそのように耳打ちしてくれていたのだった。
「それで今回、わたしとフェイ=ベイムも手ほどきを受けることになれば、レイ=マトゥアとともに取り仕切ることがかなうでしょう? アスタから手伝いの頼みをされたとき、家長はたいそう嬉しそうにしておられました」
ラッツの女衆は笑いながら語らっていたので、そんなに深刻な話ではなかったのであろうが、俺としては人事に関して、いっそう気配りをしなければなあと思うことしきりであった。それと同時に、対抗意識というものを嫉妬などの負の感情に転換しない森辺の民の清廉さを、心から得難く思うことになった。
それからしばらくすると、街道は続々と賑わい始めた。
他なる氏族の人々や、それに宿場町の人々も、往来に姿を見せ始めたのである。それはやはり貴族のパレードが目当てであったようで、『暁の日』よりも早い時間からの賑わいであった。
「アスタ、お疲れ様です」
と、そんな中で声をかけてくれたのは、《銀の壺》を率いるラダジッドであった。
「おはようございます。みなさんも、貴族の行列の見物ですか?」
「いえ。森辺の民、語らい、来ました」
どうやら城下町への通行証を備えているラダジッドたちは、貴族のパレードにも興味が薄いようだ。まあ、パレードといっても人目にさらされるのは兵士たちの姿ばかりであるし、肝心のマルスタインも甲冑姿であるのだから、さもありなんといったところであった。
「リリン家での晩餐は、如何でしたか? 他の血族の方々も、多少は来られたのでしょう?」
「はい。とても、充実しました。いまだ、余韻、ひたっています」
無表情ながらも、ラダジッドの黒い瞳には明るい光が躍っている。バランのおやっさんたちを招いたファの家にも劣らぬ、楽しき一夜であったのだろう。
「今日はシュミラル=リリンたちも、宿場町には下りないそうですね。ちょっと残念ですが、そのぶんまで晩餐で語らえたのなら、何よりです」
「はい。シュミラル=リリン、血族、語らうべきでしょう。我々、ともに、ジェノス、出立し、長きの時間、過ごすのですから、本来、そちら、重んじるべきです」
そのように言ってから、ラダジッドはぴくりと口もとを震わせた。微笑をこらえているときの仕草である。
「しかし、我々、『暁の日』、ともにできましたし、晩餐、招かれました。ギラン=リリン、取り計らい、感謝しています」
「はい。ギラン=リリンは、血族との絆も《銀の壺》のみなさんとの絆も、等しく重んじておられるのでしょう。本当に、尊敬すべきお人だと思います」
今日はリリン本家の人々が集落に居残って、幼子の面倒を見ているのである。聞くところによると、ムファやマァムなど家人の少ない血族もひとところに集まって、ともにその仕事を果たしているのだそうだ。
宿場町に下りる人々は復活祭を楽しみ、集落に居残る人々は貴重な休日を血族と過ごす。どちらにせよ、それは幸福な時間であるはずだった。
「それにしても、屋台、すごい数です」
と、そのように言いながら、ラダジッドは左右の屋台を見回した。
まだ五の刻には猶予があったので、宿屋の屋台は出されていない。14台の屋台すべてで、『ギバの丸焼き』が焼かれているのだ。表の側から見ても、それは壮観であるはずだった。
「今日は前回の、倍の量を準備していますからね。森辺の民のお人らも、それほど遠慮をする必要はなくなることでしょう。どうか、喜びを分かち合ってください」
「はい。楽しみ、しています」
そうしてラダジッドたちは、青空食堂のほうに立ち去っていった。本日もその場所にはジバ婆さんが車椅子を出しており、さきほどからひっきりなしに森辺や宿場町の人々が挨拶に出向いていたのだった。
この時点で、森辺の民の数は『暁の日』に負けていないように感じられる。バードゥ=フォウやランの家長も前回とは異なる顔ぶれの家人を率いてやってきていたし、ジョウ=ランなどはユーミの到着を待ちわびて、さきほどから屋台の周囲をうろうろとしていた。
「そんなに気になるなら、《西風亭》まで迎えに行けばいいじゃないか。別にいまさら、サムスに文句を言われたりはしないだろう?」
「はい。ですが、ユーミとこの場所で待ち合わせをしてしまったのです。こんなことなら、《西風亭》で待ち合わせをするべきでした」
と、ジョウ=ランは切なげに溜め息をついていた。森辺の民の価値観に照らしあわせると、待ち合わせ場所を勝手に変更することは許されない、ということなのだろう。
「まあ、五の刻になる前には来るはずさ。……そういえば、《西風亭》での仕事はどうだったのかな? ずっと気になっていたのに、なかなかジョウ=ランと顔をあわせる機会がなかったんだよね」
「はい。とても満ち足りた日々でした。ユーミと朝から夜まで過ごしていたのですから楽しいのは当然なのでしょうが、それを抜きにしても、目新しい仕事を手伝うというのは、とても楽しく感じられました」
こんなことをさらっと言われてしまったら、ユーミだって赤面を禁じ得ないだろう。正直さを美徳とする森辺の民としても、赤裸々に過ぎるジョウ=ランなのである。
(ジョウ=ランは、すっかりユーミと添い遂げる気持ちが固まっているように見えちゃうよなあ。まあ、俺が詮索することじゃないんだけど)
ユーミが現れたのは、それから四半刻ほどが経過してからのことであった。
本日も、ルイアをともなっての登場である。ジョウ=ランが喜色満面でそれを出迎えると、ユーミはさっそく「何さ?」と顔を赤くした。
「あんたの手伝い期間は、もう終わったでしょ? あたしらはこれから仕事なんだから、邪魔しないでよね」
「もちろんです。ユーミたちの仕事を邪魔しないように気をつけながら、絆を深めさせてもらいたく思います」
「もう!」といっそう顔を赤くするユーミの腕を、ルイアがにまにまと笑いながら肘でつついている。森辺の集落ではあまり目にする機会のない、年頃の男女の微笑ましいやりとりであった。
それから、さらに半刻ほどが経過し――ついに、上りの五の刻に至った。
街道の北の果てから、物々しい一団が近づいてくる。往来の人々は、いくぶん畏敬の込められた歓声とともに、街道の左右に身を寄せることになった。
「ふむ。あの中に、ジェノスの領主も潜んでいるということだな」
護衛役として屋台のそばにいたフォウの男衆が、低くつぶやく。
その間に、城下町からの一団は宿場町の領土に踏み入っていた。
先頭を歩くのは去年と同様に、近衛兵団の団長たるメルフリードである。メルフリードの甲冑姿を目にするのはひさびさであったが、やはりけっこうな迫力であった。
メルフリードの背後には何台ものトトス車が続き、その左右は長槍を掲げた兵士たちに厳重に守られている。きっと車の中にはエウリフィアやオディフィアも控えているのであろうが、外界からその姿を確認することはかなわなかった。
車の数は20台を超え、その真ん中あたりが俺たちの屋台を過ぎたぐらいで、行進は止められた。
しばらくして、先頭の車の屋根に、人影が浮かびあがる。純白の甲冑を纏った、マルスタインであろう。
「サトゥラス領の領民たちよ! そして、我がジェノスを訪れしセルヴァ、ジャガル、シムの客人たちよ! ついに太陽神の滅落と復活は、5日の後に迫ってきた!」
威風堂々としたマルスタインの声が響きわたる。マルスタインがこれほどの声を張り上げる姿を見るのは、1年でこの日だけかもしれなかった。
そして、マルスタインがさらに何か言いかけたとき――ひゅんっと、小さくて黒い影がよぎった気がした。
それと同時に、マルスタインの姿が沈み込む。その理由を察する前に、俺はアイ=ファに腕を握られていた。
「身を伏せよ。賊だ」
「ぞ、賊?」
それでも俺は状況を理解しきれていなかったが、アイ=ファの力強い指先によって、半ば強引に座らされてしまっていた。
「お前たちもだ! 屋台の陰に、身を伏せよ!」
他の女衆も、慌てた様子で屈み込むことになった。
そして屋台の前には、ずらりと狩人たちが立ち並ぶ。護衛役の6名ではなく、往来に散っていた見物人の狩人たちである。その中には、ラッツやベイムの家長の姿も見えた。
「何者かが、領主に矢を放ったのだな。ずいぶん愉快な真似をするではないか」
普段通りの陽気な顔で笑いつつ、ラッツの家長は爛々と双眸を燃やしていた。
いっぽうベイムの家長は底光りする目で周囲を見回してから、屋台の内側を覗き込んでくる。
「アスタよ。放っておいたら、肉が焦げついてしまうのではないか?」
「あ、そ、そうですね。レイ=マトゥア、火鉢を外に出すように、伝言を回して。火鉢は熱いから、火傷をしないように気をつけてね」
そのように告げてから逆側の屋台に目を向けると、マルフィラ=ナハムはとっくに火鉢を回収していた。その向こう側では、ジョウ=ランがユーミとルイアを庇いながら、腰の刀に手をかけている。
俺は呼吸を整えつつ、中腰の体勢で屋台の外に視線を走らせているアイ=ファの顔を見上げた。
「ど、どうだ? なんか、あんまり騒ぎにはなってないみたいだけど……」
「町の人間は、何が起きたかもわかってはいないようだな。しかし、あちらのほうはけっこうな騒ぎであるようだぞ」
あちらのほうとは、もちろんトトス車の先頭付近ということだろう。確かに、人々の不審げなざわめきの向こう側に、狂騒の気配ともいうべきものが感じられた。
「賊は、南の側に逃げたのかもしれん。ならば、こちらの者たちは大人しくしているべきであろう。これだけの人間が我を失ったら、余計に危うくなってしまうであろうからな」
青い瞳を鋭くきらめかしつつ、アイ=ファは沈着そのものであった。
俺はアイ=ファの表情をうかがいつつ、そろそろと顔をあげていく。その目が屋台の台の上に出て、街道の様子を見回せる高さに到達しても、アイ=ファは何も言わなかった。ということは、こちらに危険が迫っている気配もないのだろう。
アイ=ファの肩に乗っていた黒猫は、狩人の放つ緊迫した気配を嫌うかのように、俺の肩に飛び移ってくる。その際も、アイ=ファは文句を口にしなかった。
街道にたたずむ人々は、不審顔で手近な人々と語らっている。どうしてマルスタインがいきなり倒れてしまったのか、どうして立ち上がろうとしないのか、どうしてその周囲からは喧噪の気配が伝わってくるのか、何も理解していないのだろう。俺自身、ラッツの家長の独白がなければ、マルスタインに矢が射かけられたなどとは判断できていなかった。
(マルスタインは無事なんだろうか? 甲冑を纏っているから、そんなひどいことにはならないと思うけど……)
胸苦しい時間が、刻々と過ぎていった。
そして――俺はいきなり、アイ=ファによって頭を抑えつけられることになった。
「身を伏せよ。背後から、おかしな気配がする」
言いざまに、アイ=ファは俺を背中にかばう格好で、屋台の裏の雑木林へと向きなおった。
そして、街道の側にいた狩人たちの何名かも、屋台を迂回してこちらに駆けつけてくる。アイ=ファと同じ気配を、雑木林の向こう側から感知したのだろう。
そのとき――雑木林の向こう側から、草を踏む足音が聞こえてきた。
腰に手をのばしかけたアイ=ファは、途中でその動きを取りやめる。
「チム=スドラ。賊を捕らえたのだな」
「うむ。いきなりこやつが斬りかかってきたのだ。何かから逃げようとしていたようだな」
それは、雑木林に潜んで護衛役の仕事を果たしていた、チム=スドラであった。
小柄なチム=スドラが、自分よりもひと回りは図体のでかい男を、肩に担いでいる。そしてチム=スドラは、逆側の手に抜き身の短剣と弓を握りしめていた。
「この弓は、こやつが肩に引っ掛けていたものだ。何にせよ、いきなり斬りかかってきたのだから、無法者であろう」
チム=スドラは無造作に、男の身体を地面に転がした。
褐色の髪で、象牙色の肌をした、西の民の男である。ただ、白目を剥いて昏倒していたため、瞳の色はわからなかった。
チム=スドラは男の腰に下げられていた鞘を留め具ごと引きちぎると、抜き身の短剣をそこに収めた。その短剣で、斬りかかられたということなのだろう。
「さて。無法者は、衛兵に引き渡せばよいのだったな。俺自身が、こやつを詰め所という場所まで連れていくべきなのであろうか?」
「いや、その必要はないようだな」
アイ=ファの言葉に応えるように、雑木林からさらなる人影が飛び出してきた。3名ばかりの、白装束の衛兵たちである。
「失礼する。この奥に控えていた森辺の民から、事情を聞いた。そこなる無法者が、南の方角から逃げてきたのだな?」
「うむ。何用かと問う前に斬りかかられたので、やむなく叩きのめすことになった。気は失っているが、手傷などは負っていないはずだ」
「感謝する。この者は、ジェノス侯に矢を射かけた無法者だ」
房飾りをつけた小隊長らしい人物が指示を送ると、ひとりは街道に出て南の方角に走り出し、もうひとりは革紐で男の腕をくくり始めた。
「のちほど、詳しく事情を聞かせてもらおうと思う。それまで、他言は無用で願いたい。……それに、こやつには仲間がいるかもしれん。森辺の民が捕縛に協力したと知れれば、いらぬ災いを招くこととなろう」
「うむ。それは何より、避けたく思う」
「では、またのちほど」
ふたりの兵士は左右から男を抱えあげて、雑木林の向こうに消えていった。
それからしばらくして、ようやくマルスタインの声が響きわたる。
「たったいま、わたしに矢を射かけた無法者が捕らえられた! 恐れ多くもセルヴァの国王陛下に爵位を賜った人間に刀を向けるのは、許されざる大罪である! このような無法は今日限りであると信じたい!」
街道は驚愕のざわめきに包まれ、俺は安堵の息をついた。マルスタインの声は、さきほどと同じ力強さを保ったままであったのだ。きっと追撃を警戒して、車の中に避難していたのだろう。
「また、たとえどのように無法な真似をたくらむ人間が現れても、ジェノスには屈強の兵団が控えている! 領民も、客人も、何を危ぶむことなく、太陽神の復活祭を楽しんでもらいたい! 心正しくある限り、西方神が加護を与えてくれよう!」
遠くにうかがい見える甲冑姿のマルスタインが、天高く右腕を突き上げた。
「それでは、キミュスの肉とギバの肉、そしてママリアの酒でもって、復活の儀を寿ごうではないか! ……太陽神に!」
一拍の空白ののち、「太陽神に!」の声が唱和された。
そうして思いがけないアクシデントを乗り越えて、その日のキミュス肉と果実酒が配布されることになった。