紫の月の二十五日①~ご招待~
2019.12/4 更新分 1/1
無事に屋台の商売を終えた俺たちは、森辺に戻って明日の下準備に取りかかることになった。
フォウの家から戻されたティアは修練に励み、ブレイブたちはアイ=ファと戯れる。そして黒猫はファの家に帰りつくなり広間で昼寝を始めるというのも、ここ数日の通例であった。
「あの黒猫を預かってから、今日で5日目か。そろそろ決断を下してもいい頃合いじゃないかな?」
屋外のかまどで『ギバ・カレー』のスパイスを仕上げながら、俺はアイ=ファにそのように問うてみた。
3頭の家人に囲まれて、その頭を順番に撫でくり回していたアイ=ファは、たちまち仏頂面となってこちらに向きなおる。
「家人を増やすか否かというのは、そのように容易く決められるものではない。ましてやあやつは、ブレイブたちのように仕事を果たせるわけでもないのだからな」
「うん。だけどジルベだって、もともとは仕事をさせるために引き取ったわけじゃないだろう? 結果的には、番犬として働くことになったけどさ」
しかしジルベが番犬としての仕事を果たしたのは、《颶風党》に襲撃された際ぐらいである。そもそも現在の森辺においては、侵入者とも無縁な生活が確立されているのだ。
「よく考えると、ジルベとあの黒猫は経緯が少し似てるんだよな。ジルベもこのままだと護衛犬としての仕事を果たせそうにないから、ファの家に譲りたいっていう話が持ち上がったわけだしさ」
「うむ……」
「ジルベのときは、アイ=ファもそこまで悩まなかっただろう? やっぱりあの黒猫には、家人としての情を抱くのが難しいっていう話なのかな?」
「そういうわけではないのだが……トトスや猟犬というものは、森辺において速やかに受け入れられることになった。それはもともと、森辺の民と相通ずる資質が備わっていたゆえなのではないだろうか?」
「うん。もともとの種として、相性がよかったのかもしれないな。それで、あの黒猫にはそういう部分を感じないってわけか」
アイ=ファは返答に困った様子で、口をへの字にしてしまった。
ブレイブはちょっと心配そうな眼差しで、そんなアイ=ファの手の甲をぺろぺろと舐めている。
「まあ、ピノたちは復活祭が終わるまでジェノスにいるんだろうからな。答えは、それまでに出せばいいんだろうと思うよ」
そんな感じで、黒猫の話題は早々に打ち切ることにした。
やがて下りの四の刻の半が近づくと、アイ=ファは荷車の準備を始めた。宿場町まで、おやっさんたちを迎えに行くのだ。
アイ=ファが家を出る頃合いには下準備や明日の打ち合わせも完了したので、手伝いの女衆らもそれぞれの家に戻っていく。かまど小屋に残されるのは、俺ひとりである。復活祭が始まって以来、ほんのわずかな時間でも俺が独りきりになるというのは、きわめて珍しいシチュエーションであった。
とはいえ、かまど小屋のすぐ外ではブレイブたちがくつろいでいるし、どこかの木の上ではティアが修練に励んでいるはずである。エアポケットのような孤独の時間をひそかに楽しみながら、俺は晩餐の準備に取りかかることにした。
それから30分ほどが経過すると、家の前の道を何台もの荷車が駆けていく気配がした。家と道の間には大きな広場が存在するので、1台や2台であれば聞き逃すことも多いのであるが、このたびはかなりの台数であったのだろう。建築屋の人々は、最初にスン家の祭祀堂を確認する手はずになっていたのだ。
俺はひとり、静かに仕事を進めていく。
休息の期間はこの時間帯もアイ=ファがともにいてくれたので、黙々と調理に従事するというのは、本当にひさかたぶりのことであった。
しかしもちろん、それを苦にしているわけではない。休息の期間でなければ、この時間帯は独りきりであるのが普通であったのだ。
俺はおやっさんたちに喜んでもらえるように、心を込めて仕事を続けた。
再び荷車の駆ける音色が聞こえてきたのは、最初にその音を聞いてから、たっぷり一刻ぐらいが経過したのち――窓から差し込む陽光が、ずいぶん頼りなげになってきた頃合いであった。
やがて外から、「わあ」とか「ひゃあ」とかいう声が聞こえてくる。おそらく、ジルベの巨体に驚いたのだろう。裕福な生まれであるらしいディアルにとっても、獅子犬というのはそれなりに物珍しいものであるという話であったのだ。
その声を合図に、俺は作業の手を止めて、開け放しにしておいた戸板のほうに向きなおる。
まずは、愛しき家長の姿があらわにされた。
「待たせたな。時間が惜しかったので、宿場町からそのままスン家に向かったのだ」
「うん。荷車の音が聞こえたから、そうだろうと思ったよ。祭祀堂は、どうだった?」
「それよりも、まずは客人と挨拶を交わすべきであろう」
アイ=ファがかまど小屋に足を踏み入れ、客人たちに入室を許した。
バランのおやっさんとその伴侶、長男とその伴侶、次男と末妹。そして、アルダス、ディアル、ラービスで、総勢は9名である。
先頭で入ってきたおやっさんは俺に目礼をしてから、かまど小屋の様子をしげしげと見回した。
「ふむ。以前にも、ひとたびは覗かせてもらったはずだが……やはり、立派な厨だな」
このかまど小屋は、近在の男衆が休息の期間にこしらえてくれた建物なのである。母屋のほうを再建してもらう際に、おやっさんたちはこの建物も検分していたはずであった。
末妹も、おやっさんに劣らぬ好奇心をあらわにして、かまど小屋の内部を見回していく。その末に、「あ」と意外そうな声をあげた。
「ヴァイラスの神像だ。森辺の民でも、こんなの飾るんだね」
宿場町で購入した、木彫りの小さな神像である。それは最初からかまど小屋に置いていたので、大地震の被害も免れたのだった。
「うん。火神ヴァイラスはかまどの守り神って聞いたからさ。俺以外にも、何人か買っていたよ」
「ふーん」と言いながら、末妹は俺のほうに視線を向けてきた。
そして、いぶかしそうに首を傾げる。
「ところで、あんたはどうしてひとりなの? 他の人は、もう帰っちゃったの?」
「え? 他の人って? ファの家のかまど番は、俺ひとりだけど」
「うん、それは父さんから聞いてるけど……でも、親族の人間か何かに手伝ってもらったんじゃないの?」
「親族というのも、いないんだよね。ファの家の家人は、俺と家長のアイ=ファだけなんだ」
「えー!」と言ったきり、末妹は言葉を失ってしまった。
するとその代わりに、彼女の母親が身を乗り出してくる。
「そ、それじゃあ今日の晩餐も、あなたがおひとりで作ったっていうのかい? あたしらは、9人もいるんですよ?」
「はい。けっこう大急ぎになりましたけど、ご満足いただけたら幸いです」
バラン家の人々は、みんなそれぞれ目を丸くしてしまっていた。
その中で、アルダスが「そうか」と楽しげに目を細める。
「俺もネルウィアに家族はないけど、アスタたちは親戚の類いもなかったんだな。これだけの客人を招くんだから、てっきりそういう連中に手伝いを頼むんだろうと思ってたよ」
「はい。近所の方々に手伝いを頼むことも考えたのですが、森辺ではその場合、手伝いをした人間も同じ場所で晩餐を取らないといけない習わしなのですよね。それだとちょっと窮屈かなと思い、今日はひとりで取り組むことにした次第です」
「そうなんだな。いっそうの感謝を込めて、アスタの心尽くしを噛みしめさせていただくよ」
そんな風に言ってから、アルダスはディアルを振り返った。
「そら、お前さんもアスタとはひさびさなんだろ? 思うぞんぶん、挨拶すりゃあいいじゃないか」
「う、うん……アイ=ファにもさっき謝ったんだけど、今日は無理やり押しかけちゃってごめんね?」
と、ディアルはおずおずとした様子で俺を見やってくる。まるで、耳を下げた子犬のようだ。そういえば、彼女はかなり早い段階から犬タイプだと目していた相手であった。
「無理やりって? そんなことは、なかったと思うけど」
「で、でもさ、僕はネルウィアのお人らが羨ましくって、アスタに八つ当たりしちゃったじゃん? それからアスタとは会えないままだったから……」
と、ディアルはいっそうもじもじしてしまう。思いのままに爆発してしまうのも、それを反省してしゅんとしてしまうのも、南の民らしい直情さであるのだろう。
「それをずっと気にしてたのかい? そんなの、気にすることなかったのに」
「……アスタは本当に、怒ってないの?」
「怒ってないよ。ディアルらしいなあと思ってたぐらいさ」
「ぼ、僕がわがままなのは当たり前、みたいな風に言わないでよー」
と、ディアルは顔を真っ赤にしてしまった。
俺は微笑みを誘発されたが、アイ=ファの視線にややひんやりとしたものを感じ、慌てて表情を引きしめる。
「ともあれ、晩餐の準備は間もなく整いますので、家のほうでお待ちください。日没までにはお届けできるかと思います」
アイ=ファの案内によって、客人たちはかまど小屋を出ていった。
今度は最後尾となったおやっさんが、じろりと俺をねめつけてくる。
「俺も、お前さんがひとりで準備をしているなどとは思っていなかった。ただでさえ慌ただしい復活祭のさなかに、余計な苦労をかけてしまったな」
「いえ、まったく余計でも苦労でもありません。自分が楽しんでやっていることですので、どうかお気になさらないでください」
おやっさんは顎を引くように礼をしてから、かまど小屋を後にした。
俺は、ラストスパートである。確かにひとりでこれだけの晩餐をこしらえるというのは生半可な仕事ではなかったので、けっこう時間もぎりぎりであったのだ。
それでも仕事が粗くなってしまわぬよう、細心の注意を払って作業を進めていく。
しばらくすると、アイ=ファがひとりで戻ってきた。ディアルがいるおかげで、客人たちだけでも大いに盛り上がっているとのことだ。
「かまど仕事は手伝えぬが、料理を運ぶ仕事ぐらいは手伝うべきであろう。こちらの鉄鍋などは、お前ひとりで運ぶことも難しかろうからな」
「ありがとう、助かるよ」
ということで、おおよそ日没と同時に晩餐を仕上げることのできた俺は、アイ=ファとともにそれを母屋に運び込むことになった。
人々は、広間でぐるりと車座を作っている。俺とアイ=ファが中心の鍋敷きに鉄鍋を下ろすと、さっそくディアルが小さな鼻をひくつかせた。
「うーん、いい匂い! これは、ミソの料理だね!」
「うん。やっぱりミソは、使い勝手がいいからね」
おやっさんの伴侶が配膳の手伝いを提案したが、それはアイ=ファに却下された。客人に仕事を手伝わせるというのは、やはり森辺の習わしにそぐわぬ行いであるのだ。伴侶は残念そうにしていたが、次々に運び込まれる料理を目にすると、その顔には喜びの表情が蘇っていった。
最後に、暗くなるまで修練に励んでいたティアも呼び寄せれば、準備も万端である。これが初見であるご家族たちはティアの登場に目を剥いていたが、口に出しては何も言わなかった。
「今日は多くの客人をファの家に招くことになり、光栄に思っている。家人アスタの心尽くしを楽しんでもらえたら、幸いに思う」
上座に陣取ったアイ=ファが、厳粛なる面持ちでそのように挨拶をした。
そして、俺とアイ=ファは口の中で食前の文言を唱え、ジャガルの客人たちは腹のあたりに手を置いて目礼をする。それでようやく、晩餐の開始であった。
「こちらで鍋の料理を取り分けますので、大皿の料理を先にお召し上がりください」
俺が土鍋の蓋を開けると、ディアルが「うわあ」とはしゃいだ声をあげた。
「いい匂い! それって、シャスカの料理なの?」
「シャスカ?」と、長男が眉をひそめた。
「確かに香りはいいけど、シャスカなんて聞いたこともねえな。西の王国の食材なのか?」
「いえ、シャスカは東の王国から届けられた食材です」
「へえ」と言って、長男は口をつぐんだ。
すると横合いから、おやっさんがとげのある視線を突きつける。
「文句があるなら、食わんでいい。その分は、俺たちが楽しませてもらうからな」
「だから、文句なんて言ってねえだろ。シムの香草の料理だって、宿場町でさんざん口にしてるんだからさ」
すると今度は、末妹が皮肉っぽい笑みとともに発言する。
「初めてギバ料理の屋台に出向いたとき、兄さんはシムの香草を使った料理なんて絶対に御免だ、なんて言ってたんだよ。なのに、1回食べたら毎日食べるようになっちゃったんだよねー」
「うるせえな。余計なことを言うんじゃねえよ」
「あはは」と笑い声をあげたのは、ディアルであった。
「気持ちはわかるよ! 僕も最初はシムの食材って聞いて、いやーな気分だったもん。でも、ぎばかれーは美味しいから、食べずにはいられないよねー」
「うん、まあな」と、長男は頭をかいた。
森辺の女衆には脂下がってしまい、伴侶に静かな圧力をかけられていた彼であるが、ディアルに対してはいささか勝手が違うように見受けられた。彼らしくもなく、どこか距離を置いているような雰囲気すら感じられる。
(なんだろう。活発な女の子が苦手ってわけでもないだろうにな)
心の片隅でそのように考えながら、俺はシャスカ料理の補足をしておくことにした。
「このシャスカというのは、西の領土でもかなり珍しがられている料理なのですよ。まだ南のお生まれの方々では口にした人間も少ないかと思いますので、ご感想をいただけたら嬉しく思います」
建築屋の送別会においても、宴で出せるほどの量を確保できなかったため、シャスカ料理は披露できなかったのだ。おやっさんとアルダスも、興味津々で俺の手もとを覗き込んでいた。
俺は、土鍋で炊かれたシャスカを木皿に盛りつけていく。ギバのバラ肉とネェノン、それにブナシメジモドキとシイタケモドキを使った、『タウ油仕立ての炊き込みシャスカ』である。シイタケモドキはシイタケに似た味わいであるが、色は鮮やかなオレンジ色であるので、ニンジンに似たネェノンとともに、視覚的な彩りを添えてくれていた。
ほかほかの炊き込みシャスカを回していくと、客人の多くはうっとりと目を細めていた。シム産のシャスカはともかく、タウ油の織り成す芳香にはあらがい難い魅力があるのだろう。それを見込んでの、献立であった。
真っ先に炊き込みシャスカを口にしたアルダスは、「うん!」と満足そうな声をあげる。
「確かに食べなれない料理だけど、タウ油や砂糖の使い方は申し分ないな! ナウディスのジャガル料理にだって負けてないよ!」
「そう言っていただけるのは光栄です。ちなみにこちらの料理では、ニャッタの蒸留酒も使っておりますよ」
「ニャッタの蒸留酒か! こっちで買うと、そいつも相当に値が張るんだろ? 《南の大樹亭》でも注文できるらしいけど、とうてい手を出せる値段じゃなかったよ」
すると、笑顔で炊き込みシャスカを頬張っていたディアルが、「あ」とラービスを振り返った。
「そういえば、手土産を渡すのを忘れてたよ。ラービス、お願いね」
「はい」と木皿を置いたラービスが、壁際に置いていた荷袋を取り上げた。そこから取り出された灰色の土瓶に、アルダスや長男が目を輝かせる。
「おい! そいつはニャッタの蒸留酒じゃないのか?」
「うん。ママリアの蒸留酒と迷ったけど、南のお人らが招かれるなら、こっちのほうがいいかなと思って……でもこれは、ファの家への手土産だからね」
ラービスから受け取った2本の土瓶を、ディアルはあらためてアイ=ファへと送り届けた。
アイ=ファは小首を傾げつつ、封のされた土瓶の口に鼻を寄せる。
「食料庫にも、同じ土瓶が並べられていたな。アスタが料理で使っている、ジャガルの酒か」
「うん。家にあるのに、飲んだことがないの?」
「うむ。最近は、酒をたしなむ機会も減ったのでな」
そんな風に言いながら、アイ=ファは中央に土瓶を並べた。
「よければ、客人たちに楽しんでもらいたく思う。それで、礼を失することにはならぬだろうか?」
「うん。手土産をその場で振る舞うってのは、ジャガルでも普通のことだけど。でも、せっかくだからアイ=ファにも飲んでもらいたいかな。アスタはたしか、飲めないんだもんね?」
「うん。酒は20歳になってから、と決めているからね」
それは俺の故郷の法であったが、いちおう遵守するつもりでいた。この地の人々は若年からの飲酒が許されていたが、そうでない土地で生まれ育った俺が真似をすると、健康に悪影響が出てしまいかねないからだ。そのように説明すると、アイ=ファも快く俺の判断を受け入れてくれたのだった。
ということで、ニャッタの蒸留酒はバラン家の末妹を除く5名とアルダスとアイ=ファにのみふるまわれることになった。
酒杯でそれをあおった長男は、「うーん」とご満悦の声をあげる。
「ジェノスの果実酒は絶品だけど、やっぱり俺たちにはニャッタだよな! こいつを口にするのはひさびさだから、また格別だ!」
「あーあ。けっきょく酒盛りが始まっちゃったよ」
ひとり酒をたしなまない末妹は、そのようにぼやいていた。
そんな彼女に、俺は新たな皿を差し出してみせる。
「そのぶん、料理を楽しんでおくれよ。はい、汁物料理だよ」
「あ、うん。ありがとう」
汁物料理は、豚汁ならぬ『ギバ汁』である。こちらにもジャガル産のキノコがふんだんに使われており、ゴボウやコンニャクや長ネギが存在しない分は、ジャガイモのごときチャッチ、ニンジンのごときネェノン、白菜のごときティンファ、ダイコンのごときシィマなどで、豪勢に仕上げていた。
(雨季になったら、ゴボウに似たレギィが使えるんだけどな。ギバ汁にも炊き込みシャスカにも、早くレギィを使いたいもんだ)
俺がそのように考えている間に、末妹が『ギバ汁』を口にした。
そのふくよかな顔に、ぱあっと明るい笑みが広げられる。あの、《ギャムレイの一座》の天幕で見せたのと同じ、屈託のない魅力的な笑顔である。
「これ、美味しいね! 屋台でもミソの汁物料理は売られてたけど、それともちょっと味が違うみたい!」
ユン=スドラは青空食堂で働くさなか、こういった笑顔をたびたび目にしていたのだろう。だからきっと、モルン=ルティムに似た純真さを感じ取ることになったのだ。
「ありがとう。屋台で売られている料理にはギバの臓物が使われてるんだよね。それ以外の味付けも、ところどころは違うはずだけどさ」
「うん、あっちはあっちで美味しいけどね。あたしは、こっちのほうが好きかなあ」
やはり彼女はことさら笑顔を隠していたわけではなく、常に素直な心情をさらしていただけなのだろう。そして、俺の料理でこれほど無邪気な笑顔を見せてくれることが、俺には嬉しくてたまらなかった。
「あ、おい、ニャッタばっかり飲むんじゃねえよ。瓶は2本しかないんだから、いつもの調子で飲んでたら、あっという間になくなっちまうぞ」
アルダスが、長男の手から灰色の土瓶を取り上げる。この場には、彼らが持参してくれた果実酒の土瓶もどっさり置かれているのだ。長男は、不満そうに「ちぇっ」と舌を鳴らした。
「ニャッタがなくなったら、果実酒を飲めばいいじゃねえか。飲みてえ気持ちを我慢する必要はねえだろ?」
「お楽しみは、後に取っておくもんなんだよ。お前さんは、そういうせっかちなところがいけねえな。弟のほうが、よっぽどどっしりしてるじゃねえか」
「こいつは、口が重いだけだろ。内心では、ニャッタを飲みたがってるに決まってらあ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ両名に、末妹が「ちょっと!」と大きな声を張り上げた。
「料理より酒が大事なんだったら、どこで食べても一緒じゃん! アルダスは、森辺の料理を楽しみにしてたんじゃないの?」
「もちろん、料理も楽しんでるよ。ていうか、料理をぞんぶんに楽しむために、酒の存在が大事になってくるんだよ」
そんな風に言ってから、アルダスは申し訳なさそうに俺を見てきた。
「本当だぞ? アスタの料理を二の次にしたりはしてないからな?」
「はい。森辺でも、晩餐で酒を大事にする方々は大勢いらっしゃいますよ」
今日も朝から働いていたアルダスたちにとって、酒というのはとっておきのご褒美であるのだろう。俺の父親も呑兵衛であったので、晩酌の重要性というものは理解しているつもりであった。
「酒も料理も、ぞんぶんにお楽しみください。こちらの煮つけは、もうお食べになりましたか?」
「いや、まだだな。うん、こいつも美味そうだ」
酒で騒いでいたのはアルダスと長男のみであったので、それ以外の人々はもりもりと食事を進めていた。
その中で、おやっさんの伴侶が満面の笑みで声をあげてくる。
「どの料理も美味しゅうございますねえ。特にこのマロリアの料理なんかは、絶品ですよお」
「マロリア?」と反問しつつ、俺は伴侶の指し示す皿に目をやった。そこに盛られているのは、エビチリを模した『マロールチリ』である。
「ああ、それは西の王都から運び込まれる、マロールという食材を使っているのですよね。ジャガルでは、マロリアと呼ばれているのですか?」
「へえ、そうなんですかあ。このぷりぷりとした食べ心地は、マロリアに間違いないと思うんですけどねえ」
すると、ディアルが「ああ」と反応した。
「それはね、海でとれるのがマロールで、川でとれるのがマロリアって呼ばれてるらしいよ。見た目もだいたい同じみたいだから、きっと親戚なんだろうね」
「おやまあ、そうなんですかあ。ネルウィアは海から遠いんで、そんな話は聞いたこともありませんでしたよお」
「僕の暮らしていたゼランドだって、海なんかとは無縁だったけどね。ジェノスの人たちに教えてもらったのさ」
すると、果実酒をあおっていた長男が上目づかいにディアルを見やった。
「あんたは、城下町で暮らしてるんだってな。それで、貴族連中とも懇意にしてるんだろ。それでよく、俺たちなんかと晩餐を囲もうって気になれたな」
「え? 僕は貴族を商売相手にしてるだけで、身分は平民だよ。ゼランドの鉄具屋だって説明したよね?」
「でも、城下町では着飾って、貴族と一緒に晩餐を囲んでるんだろ?」
ディアルはいくぶん心配そうな面持ちになりながら、答えた。
「そりゃあ貴族とつきあうには、あっちの流儀に合わせないといけないけど……僕、何か失礼なことしちゃったかな?」
「そんなんじゃないよ。兄さんは、ただ貴族ってやつが苦手なだけさ」
末妹が、あっけらかんとした様子で口をはさんだ。
「いつもは威張りくさってるくせに、肝っ玉が小さいんだよね。いつまでたっても、デルス叔父さんにビクビクしてるしさ」
「ビ、ビクビクなんてしてねえよ。それに、あの人は家族の縁を切られたんだから、もう叔父さんじゃねえだろ?」
「いいじゃん、べつに。だいたいさー、それを言ったら森辺の民だって貴族を相手にしてるんじゃないの? この家にだって、わざわざ貴族が晩餐を食べに来たっていう話なんだしさ」
「ええ? まさか、そんなことはねえだろう。そんな話を、なんでお前が知ってるんだよ?」
「『暁の日』に、森辺の女の子から聞いたんだよ。ほら、あの、ちっちゃくて細くて可愛い娘……ああ、レイ=マトゥアだっけ。まさか、森辺の民が嘘をついたりはしないよね?」
それは俺に向けられた質問であったので、「うん」とうなずいてみせた。
「森辺の集落の視察っていう名目で、貴族をお招きしたことがあるね。けっこう突然の話だったので、俺たちも驚かされたよ」
「それも、けっこうな身分な貴族だったんでしょ?」
「そうだね。王都の外交官と、ジェノス侯爵家の第一子息だったから、俺が知る限りではかなりの身分かな」
長男は、あんぐりと口を開けてしまっていた。
それを横目で見ながら、末妹は「ふふん」と鼻で笑う。
「ね? 貴族がどうのこうのとか、考えるだけ無駄なんだよ。それに、アスタが城下町に招かれてたって話は、最初から父さんにさんざん聞かされてたじゃん」
「そ、それはそうだけどよ……」
「だからあんたも、気にすることないよ。貴族がおっかない存在だとしても、あんたはおっかない存在じゃないからね」
末妹はディアルに視線を戻したが、そちらはまだ少し心配そうな表情であった。
「僕、本当に失礼なことをしたりしてないかな? 正直に言っちゃうと、僕はアスタたちと知り合うまで、けっこう高慢な人間だったから……」
「ふうん? あたしらのことを、見下してるの?」
「見下したりはしてないよ! 絶対に!」
「だったら、いいじゃん」と、末妹は明るく笑った。
すると、無言で成り行きを見守っていたラービスが発言する。
「ディアル様は、決して余人を見下したりはしません。ただ、宿場町などには無法者が多く潜んでいるので用心するようにと、厳しく教育されてきた身であるのです」
「へえ、本当にいいとこのお嬢様だったんだね。それで、アスタたちと出会って何か変わったの?」
「はい。ジェノスにおいて危険な蛮族とされていた森辺の民が、町の人間よりも誠実な人柄を有していると知り、生まれや身分で人を判ずるのは無益であると悟られたのでしょう。よって、あなたがたを見下したりする道理はありません」
「も、もういいよ。なんか、恥ずかしいから」
と、ディアルがいくぶん頬を染めながら、ラービスの分厚い肩を揺さぶった。
末妹は、愉快そうに声をあげる。
「あたしらが見下されてるなんてこれっぽっちも思ってなかったから、大丈夫だよ。ただ、兄さんが貴族にビクビクしてるだけでさ」
「だから、ビクビクなんかしてねえって!」
長男がムキになって声をあげると、アルダスや女性陣が笑い声をあげた。
さすがは南の民が集まっただけあって、賑やかな晩餐である。おやっさんや次男などはほとんど口をきいていないように思えたが、そのぶん誰よりも料理を楽しんでくれている様子であった。
また、寡黙なのはアイ=ファも同様であり、ティアもこういう場では存在感を消してしまう。
それでもそこに流れるのは、賑やかで、なおかつ和やかな空気であった。
メイトンや他のメンバーを招いた氏族の家でも、同じような空気が形成されていることだろう。
熱気の渦巻く復活祭のさなかに、俺はとても温かくて居心地のよいひとときをプレゼントされたような心地であった。