第二話 再生の光
2020.1/1 更新分 1/1
・あけましておめでとうございます。本年も当作におつきあいいただけたら幸いです。
・今回の更新はここまでとなります。更新再開まで少々お待ちくださいませ。
「なんだ、また貴様か」
シュミラルがその店に足を踏み入れるなり、険悪な声が投げつけられてくる。
店の奥に設えられた受付台に陣取った店主の男は、反感を剥き出しにした目つきでシュミラルをにらみつけてきた。
「俺の店は東の民の出入りを禁じていると、何度同じことを言わせるつもりだ? 痛い目を見ないうちに、とっとと出ていくがいい」
「はい。ですが、西の領土において、東と南の民、諍い、起こすこと、禁じられています」
シュミラルがそのように反論すると、店主の男は「けっ」と咽喉を鳴らした。
「諍いを起こさぬように、俺は東の民を遠ざけているのだ。衛兵どもだって、俺の言い分のほうが正しいと認めることだろう」
「ですが、私、猟犬、売ってほしい、願っています」
「くどい!」と、男は握った拳を受付台に叩きつけた。
すでに50歳は越えていそうな、南の生まれの男である。頭には丸い帽子をかぶっており、そこからもしゃもしゃと褐色の髪がこぼれている。日焼けで赤みを帯びた顔は半分がた豊かな髭に隠されており、立派な眉毛の下に光る緑色の瞳は炯々と燃えていた。
「俺の大事な猟犬を、東の民なんぞに売るものか! さあ、とっとと出ていけ! 出ていかなければ、衛兵を呼びつけるぞ!」
「……承知しました。また、出直します」
「明日も明後日も、出入りは禁止だ! 黒い顔をした神のもとに魂を返すがいい!」
シュミラルは一礼して、きびすを返した。
その過程で、壁際に設置された檻が視界に入る。巨大な檻の中でくつろいでいるのは、いずれも立派な体躯をした猟犬たちであった。
それらの猟犬たちにも目礼をしてから、シュミラルは店の外に出る。
すると、店の前で待ちかまえていたラダジッドがすかさず身を寄せてきた。
「怒鳴り声、往来まで、聞こえました。シュミラル、あきらめるべきではないでしょうか?」
「いえ。猟犬、あきらめること、できません」
往来には、大勢の人々が行き交っている。ここは西の王都アルグラッドの、ダーム公爵領であった。西竜海に面したこの領地は交易で発展しており、しかも現在は復活祭のさなかであったのだ。日を増すごとに、町の活気は増していっているように感じられた。
その賑わいを心地好く思いながら、シュミラルはたったいま出てきた店の看板に視線を巡らせる。
その看板には、西の言葉で「猟犬・宝石・雑貨」と刻みつけられていた。
猟犬に宝石に雑貨というのは奇妙な取り合わせであったが、その理由はシュミラルにも検討がついていた。南の王国ジャガルにおいて特産物とされているのは、鋼の武器や鉄具、木造りの細工物、そして陶磁の器であったのだ。この店では、そういう特産物を除外した物品を取り扱っている、ということであるのだろう。
このダームにおいて、南の商人はそのほとんどが海路で訪れている。西の王都とジャガルの間には、ゼラド大公国がが立ちはだかっているためである。ゼラドはもともと西の王都で疎まれていた大公家が追いやられた辺境の地であったのだが、大きな鉱山を発見したことを契機に繁栄し、そしていつしか大公国を名乗って西の王国から独立してしまったのであった。
もちろん西の王国から独立したといっても、彼らが西方神の子であることに変わりはない。ゼラド大公家の人々は自分たちこそが西の王国の正統な支配者だと主張して、現王家と対立しているのである。
周囲の辺境領地を支配下においたゼラド大公国は、いまや看過できぬ一大勢力にのしあがっている。そして彼らは豊潤なる鉱物を取引材料として、南の王国とも強い絆を結ぶに至ったのだった。
そんなゼラド大公国が立ちはだかっている以上、ジャガルから陸路で王都に向かうことは難しくなる。よってジャガルは、海路でもって王都と交易を為しているわけであった。
たとえゼラド大公国と懇意にしていても、西の王国はそれ自体が友国であるのだ。南の王国の言い分としては、「ゼラドも王都も同じ西の友」ということになるのだろう。ゼラドと王都の諍いには干渉しないという盟約のもとに、南の王国は双方と友好的な関係を保持していたのだった。
(よって、ジャガルとの目ぼしい交易については、すでにこのダームにおいても確立されている。ゆえに、まだ交易の道筋が確立していなかった猟犬や宝石や雑貨についてを、この店が一手に担うことになったのだろう)
それが、シュミラルの見解であった。
これだけ栄えたダームの港町に、猟犬を扱う店はここ一軒であったのだ。猟犬などは鉄具や陶器や細工物ほど入荷の多いものではなかろうから、この一軒で事足りてしまうのだと思われる。よってシュミラルは、何としてでもこの店の主人を懐柔しなければならなかったのだった。
(この地において、私はようやく目的のものを見出すことになったのだ。王都からジェノスに向かう道中で、猟犬よりもギバ狩りに有用な存在を見出すことはかなわないだろう。だから……決してあきらめるわけにはいかない)
シュミラルは、拳ひとつ分ほど長身である友の顔を見上げることになった。
「ラダジッド。私、最後の手段、用いよう、考えています」
「……本気ですか、シュミラル?」
「はい。決めていたこと、ひと月、早まるだけですので」
ラダジッドは、肺の中身を絞り出すように溜め息をついた。
『……どうせシュミラルは、私の忠告など聞いてはくれないのだろうしな。正直に言って、胸を引き裂かれるような思いだ』
西の言葉では心情を伝えきれないと判断したのだろう。ラダジッドは、東の言葉でそのように言いたてた。
精一杯の気持ちを込めて、シュミラルはそれに答えてみせる。
『こんな私を見捨てずにいてくれたラダジッドたちには、本当に感謝している。私がどのような運命を辿ろうとも、ラダジッドたちは魂を返すその瞬間まで、かけがえのない友であり、同胞だ』
ラダジッドはわずかに眉をひそめながら、シュミラルを見つめ返してきた。
その黒い瞳には、さまざまな感情があふれかえっている。たとえ表情を動かすことはなくとも、それを見誤ることはなかった。
『今日はもう、紫の月の28日であるのだぞ。せめて、銀の月を迎えてからにしてはどうだろうか?』
『いや。その間に猟犬が売れてしまっては、意味がなくなってしまう。西の神官たちとて多忙の身であろうから、今日のうちに話をつけて、なるべく早い日取りで儀式を果たしてもらおうと考えている』
『こんな年の終わりに、猟犬などというものを買い求める人間が現れるとは思えんがな』
ラダジッドはきびすを返して、往来の人混みへと身を投じた。
その後を追いながら、シュミラルはラダジッドの背中に声を投げかける。
『私は、ラダジッドを怒らせてしまっただろうか?』
『怒ることでシュミラルが気持ちを変えてくれるのならば、いくらでも怒ってみせよう。……しかし、私が怒ったところで結果は変わらないではないか』
シュミラルが横に並ぶと、ラダジッドは横目で視線を送ってきた。
その瞳には、子供がすねているような光が灯されている。
『西方神の神殿は、たしかこちらであったはずだ。今日のうちに話をつけるのではなかったのか?』
シュミラルは、思わず口をほころばせてしまった。
いっぽうラダジッドは、ますますすねたような目つきになっている。
『表情を崩すのは、まだ早かろうが? いまのシュミラルは、まだ東方神の子であるのだぞ』
『そうだな。しかし、ラダジッドの目もとにも、ぞんぶんに感情はこぼれているようだ』
そうしてシュミラルは、かけがえのない友とともに港町の街路を進んでいった。
◇
それから3日後――紫の月の31日である。
その日も、すでに終わりが近づいている。ダームの港町は夜の闇に包まれて、あとは太陽神の再生を待つばかりであった。
ただし、年の終わりに人々が眠ることはない。たいていの人間は、夜を徹して騒ぎに騒ぎ、日の出を待ち望むものであるのだ。人々は街路にまで椅子や卓を持ち出して、陽気に騒ぎながら酒杯を交わしている。このダームにはさまざまな土地からの人間が訪れていたが、王国の民である限りはこの習わしに変わりはなかった。
そんな熱気をかき分けるようにして、シュミラルは街路を歩いている。
ラダジッドを含む《銀の星》の団員たちは、無言でその後を追従していた。これはシュミラル個人の問題であるのだから、皆は心置きなく『滅落の日』を楽しんでほしいと言い含めたのだが、誰ひとりとして肯じてくれなかったのだ。
やがてシュミラルが足を止めたのは、賑やかな街路を抜けて、小高い丘の上まで到達したのちのことだった。
眼下には、海辺の情景が広がっている。岸のぎりぎりまではかがり火が焚かれているために、明るい地上と暗い海面が綺麗に二分されていた。
そんな幻想的な情景を見下ろしながら、ひとつの人影が酒の土瓶を傾けている。
シュミラルは安堵の息をついてから、「失礼します」と声をかけた。
「おくつろぎのところ、申し訳ありません。しばし、よろしいでしょうか?」
丘の上に座り込んでいた人影が、うろんげにこちらを振り返った。
月の明かりに照らし出されるのは、丸い帽子をかぶった南の民の姿である。
「貴様か……ついに毒蛇の本性を剥き出しにして、俺を襲おうという魂胆か?」
「いえ。襲う理由、ありません」
「ふん。だったら何のために、それほどの仲間を引き連れてきおったのだ?」
南の民がこのような暗がりで東の民に囲まれては、さぞかし危機感をあおられることだろう。シュミラルが目をやると、ラダジッドたちは少しだけ後方に下がっていった。
「彼ら、私、同胞です。決して、害意、ありません」
「知ったことか。用事がないなら、消え失せるがいい。この年最後の酒が不味くなるわ」
「申し訳ありません。今日、店、休業であったので、昼から、あなたのこと、探していました」
「東の黒蛇らしい執念だな。しかし、貴様なんぞと商売をする気はない」
「はい。ですが、こちら、見ていただきたく思います」
シュミラルは革の外套の前を開いて、両腕を解放した。
左腕は大きく横にのばし、右の拳を心臓の上に置く。
「私、シュミラル、西方神の子であること、誓います」
男はぎゅっと眉をひそめて、シュミラルの姿をねめつけてきた。
「……それは、何の真似だ? 何よりも神聖な神への宣誓を踏みにじる気か?」
「いえ。今日の朝、神、移す儀式、果たしました。私、西方神の子として、生まれ変わったのです」
男の眉間に、深い深い皺が刻まれる。
その末に、男は地面を拳で殴打した。
「馬鹿を抜かすな! そんな簡単に神を乗り換えられるものか! まさか貴様は、猟犬を買い取ったのちに、また東方神に神を乗り換えようというつもりではあるまいな!」
「それこそ、許されぬ所業でしょう。私、魂、返すまで、西方神の子として、生きます」
闇の中で、緑色の瞳が火のように燃えていた。
「貴様、正気か? たかだか猟犬を買うためだけに、貴様は神と故郷を捨てたというのか?」
「はい。ですが、もともと、神、移すつもりであったので、時期、早まっただけです」
「……何故だ?」と、男は低く言い捨てた。
「このご時世に、神を移す理由など思いつかん。貴様はいったい何のために、そんな馬鹿げた真似をしたのだ?」
「説明、必要でしょうか?」
「必要だ。貴様が神をも恐れぬ愚者であるなら、虚偽の宣誓をしたという可能性もあるのだからな。そのような不届き者を相手に商売をするつもりはない」
シュミラルはひとつ息をついてから、男のほうに歩を進めた。
それでようやく、男の表情がしっかりと見て取れるようになる。男の顔には、強い猜疑の表情が浮かべられていた。
「……私、西の女性、懸想したのです。婿入り、願うには、神、移す他、なかったのです」
「ふざけたことを抜かすな。女のために神を移す人間などいるものか。神など移さずとも、子を生すことは許されているではないか」
「いえ。その女性、厳しい掟のもと、生きているのです。婚儀、あげぬまま、子、生すこと、許されません」
「なんだそれは。貴族の姫君か何かか?」
「いえ。ジェノスの領土、住まう、森辺の民です。説明、難しいですが……森辺の民、自由開拓民、似た一族です。王国の法、だけでなく、一族の掟、守っているのです」
「そんな蛮族の娘のために、神と故郷を捨てようというのか?」
「森辺の民、蛮族、ありません。勇猛ですが、清廉です。言葉、取り消し、要求します」
シュミラルが詰め寄ると、男は強い眼光でそれに応じてきた。
「……貴様、本気でそんな言葉を抜かしておるのか?」
「本気です。私への侮辱、かまいませんが、森辺の民への侮辱、許せません。言葉、取り消し、要求します」
男は、しばらく黙りこくったのち――火でもついたかのように、大笑した。
「なんだ、その面は? それで怒りをあらわにしておるつもりか? まるで菓子を取り上げられた幼子のような顔ではないか! そんな顔で、相手を怯ませられるものか!」
「怯ませる、必要、感じていません。ただ、言葉、取り消し、願っています」
「つくづく貴様らは、顔を動かすことができぬようだな! そんなことで、西の民がつとまるのか?」
男は肩を揺らして笑いながら、また土瓶の酒をあおった。
それから、自分の脇の地面を手の平で叩く。
「ひとまず座れ。貴様のようにひょろ長いやつを見上げていると、首が疲れてかなわんのだ」
「座る、かまいませんが、言葉、取り消し、願えますか?」
「ふん。蛇のような執念深さにも変わりはなしか。……俺は森辺の民などというものは聞いたこともない。蛮族と言ったのは、貴様が自由開拓民などを持ち出したためだ。森辺の民とやらが蛮族でないと言い張るのなら、さきほどの言葉は取り消そう」
「ありがとうございます」と一礼してから、シュミラルは男のかたわらに座した。
もとの背丈が異なるので、それでも頭ひとつぶんぐらいは身長差が生じている。男はあぐらをかいた膝の上に頬杖をついて、シュミラルの顔を見上げてきた。
「それで貴様は、どうしてそうまでして猟犬を買いつけようとしておるのだ? それも婿入りと関係があるのか?」
「はい。森辺の民、狩人の一族です。私、狩人として、生きるため、強い力、必要であるのです」
「商人である貴様が、狩人だと? そんなものは、お得意の毒草で何とかすればいいではないか」
「シム、草原において、狩人、毒草、使いません。森辺の民、同様、思います」
「ならば、鉄の罠などはどうだ? 猟犬だけが、狩りの手段ではあるまい」
「森辺の狩人、さまざまな手段、講じている、思われます。鉄、使わずとも、類似の罠、すでに存在している、可能性、高いです。猟犬、もっとも有用、思われます」
そこでシュミラルは、あまり論理的でない言葉もつけ加えることにした。
「それに……猟犬、私、初めて見ましたが、何か、トトス、通ずるもの、感じたのです。森辺の民、トトス、心、通じ合わせているので、猟犬も、同様である、期待しています」
「ふん。そうでなければ、なかなか猟犬を使いこなせはしなかろうな」
男はふてぶてしく笑いながら、豊かな顎髭をまさぐった。
その緑色の瞳は、揶揄するようにシュミラルを見つめている。
「何にせよ、女などのために神と故郷を捨てようとは、酔狂なことだ。黒い顔をした東方神も、呆れて溜め息をついているだろうよ」
「はい。そうかもしれません」
そのように答えてから、シュミラルはかねてよりの疑問を口にすることにした。
「私からも、質問、よろしいでしょうか?」
「なんだ。女を口説き落とす手段など、こちらが教示してもらいたいぐらいだぞ」
「いえ。あなた、商売についてです。ダーム、南の商人、多く訪れますが、居住し、店を開く人間、ほとんど存在しない、思います」
男はうろんげに顔をしかめつつ、土瓶のふちの酒をなめた。
「……俺の店で扱っている商品は、長らくダームで買い叩かれていた。鉄具や陶器や細工物ほど、猟犬や宝石の価値がわかる人間が少ないためだ。特に宝石や銀細工などは、シムの品が至高だなどとされていたからな。そんな連中にジャガルの猟犬や宝石の価値を叩き込むには、腰を据えて取り掛かる他なかろうが?」
「なるほど、道理です。しかし、あなた、家族、いないのですか? 商船、使おうとも、ダーム、ジャガル、遠いはずです。また、数ヶ月、店、空けること、難しいはずです」
「俺はもう、10年がたはダームで暮らしている。家族連中とは縁が切れているので、何も不都合はない」
そう言って、男は丘の下の情景に視線を転じた。
暗い海面は、闇そのもののように凪いでいる。
「……俺はもともと、船乗りだったのだ。故郷で過ごすよりも、海の上で過ごすほうが長いぐらいだった。そのうち女房は愛想を尽かして家を出ていき、子供らもそれぞれ巣立ったが……誰も船乗りを志そうとはしなかった。そうして家が空っぽになるなり、あんなに楽しかった船旅がつまらなくなっちまったのさ」
「それで、故郷、離れたのですか?」
「ふん。故郷は離れたが、貴様のように神を移したわけではない。俺がくたばったら、魂が向かうのは南の大地だ。……しかしそれまでは、どこでどのように過ごそうとも変わりはあるまい。それなら、商売の目途が立つこの地で暮らすほうが利口だと考えたまでだ」
男は皮肉っぽく笑いながら、シュミラルのほうを振り返ってきた。
「貴様は望む場所に婿入りできたら、旅商人としての生も捨てるわけか?」
「いえ。1年、狩人として、半年、商人として、交互、生きるつもりです」
「ますます酔狂だな。その半年で、女房は貴様に愛想を尽かしちまうかもしれんぞ」
「そうならないよう、最大限、努力します」
「ふん。神を捨てた人間が女に捨てられては、冗談にもならんからな」
男は勢いよく土瓶を傾けてから、それをシュミラルに突き出してきた。
「飲め。ニャッタの蒸留酒だ。東の神を捨てたのなら、南の酒を嫌がる理由はあるまい」
シュミラルは、迷うことなくそれを口にした。
しかし、あまりの酒精の強さに、思わずむせてしまう。しかもその酒は、ギャマの乳酒や西の果実酒ともまったく似たところのない独特の風味を有していた。
「……甘み、酸味、存在しない酒、初めてです」
「馬鹿野郎。ニャッタの甘さがわからねえのか? 果実や砂糖だけが甘みじゃねえんだよ」
男は笑い、自分も酒を口にした。
そのとき背後から、低い詠唱の声が聞こえてくる。
振り返ると、ラダジッドたちがこちらに背中を向ける格好で、草むらに膝をついていた。
その向こう側――丘の下に広がる港町や雑木林が、朝の光に照らされつつある。ついに、太陽神が再生したのだ。
「海、西側であること、残念です」
「ふん。西竜海が、東にあってたまるかよ。そのぶん日没には大層な景色を拝めるんだから、文句はないだろうが」
詠唱をあげるラダジッドたちの背中を見やりながら、男はそのように言いたてた。
「しかし、気味の悪いうなり声だな。東の連中は、あんな具合に太陽神の再生を祝福するのか」
「はい。私、西の習わし、まだ知りません」
「はん。俺なんざ、南の習わしも忘れちまったよ」
世界を包み込む黄金色の輝きに目を細めながら、男はそう言った。
同じ情景を目に焼きつけてから、シュミラルは男を振り返る。
「私、1年半の後、再び、この地、訪れます。あなた、再会、楽しみにしています」
「あん? まるで別れの挨拶のようだな」
「はい。王都、商売、済んだので、猟犬、買い取ったのち、出立する予定です。……私、魂、奪われた女性、ジェノス、待っていますので」
男もシュミラルのほうを振り返り、にんまりと微笑んだ。
「もういっぺん、馬鹿野郎と言わせてもらうか。そんな簡単に出立できると思ってたんなら、ずいぶん間が抜けているな」
「はい。出立、難しいでしょうか?」
「出立したいなら好きにすりゃいいが、お前さんは猟犬の扱い方をわきまえているのか? まさか、あいつらを山だの森だのに連れていくだけで、勝手に獲物を捕らえてくれるとでも思っているのか?」
いつの間にか、敬称が「貴様」から「お前さん」に変わっていた。
しかし今は、そのようなことにもかかずらってはいられない。
「確かに、失念していました。猟犬、扱い方、手ほどきしていただけますか?」
「お代をいただけりゃあ、ぞんぶんにな。ただし、ずぶの素人が相手だったら、たっぷり半月は必要だろうな」
「半月……」と、シュミラルは絶句してしまった。
男は、心から愉快そうに笑い声をあげる。
「なかなか顔を動かすのも板についてきたじゃねえか! ま、半月ていどの遅刻で愛想を尽かすような女だったら、最初から縁がなかったってことだ」
シュミラルは、深々と溜め息をつくことになった。
しかし、失意を上回る喜びと昂揚が、胸の中では躍っている。シュミラルは、ようやく森辺に婿入りするための第1歩目を踏み出せたところであったのだった。
(次の復活祭では、ヴィナ=ルウとともに再生の光を迎えることがかなうだろうか)
そんな風に考えながら、シュミラルは再び男のほうを振り返った。
男は、陽気に笑っている。
その笑顔もまた、シュミラルにとっては忘れられない記憶として刻みつけられるのであろうと思われた。