~箸休め~ 第一話 ひそやかな邂逅
2019.11/25 更新分 1/1
・書籍版第19巻およびコミックス第3巻の発売を祝して、ショートストーリーを公開いたします。
・本編の更新再開はもう少々お待ちくださいませ。
その娘がヤンのもとに連れてこられたのは、およそ1年と3ヶ月前――トゥラン伯爵家にまつわる騒動が一段落して、すぐのことだった。
ダレイム伯爵家の厨において、ヤンはその日の晩餐の下準備をしていた。そこに、侍女のシェイラがその娘をともなってやってきたのだ。
「あの、ヤン様……こちらが本日からヤン様の仕事を手伝うこととなった、ニコラです」
困惑気味の顔をしたシェイラのかたわらで、そのニコラという娘は反抗心を剥き出しにしていた。彼女は貴族でありながら、大きな罪を犯したために、平民として生きることになった身の上であったのだ。
まだ若年のシェイラには、こういった相手をどのように扱うべきか、迷う部分もあるだろう。
しかし、シェイラの3倍近くも生きてきたヤンにとっては、心を動かされることでもなかった。貴族は最初から貴族として生まれつくが、最後まで貴族でいられるとは限らないのだ。特に近年ではトゥラン伯爵家を中心とした権勢争いが盛んであったため、身分と財産を失って没落する貴族というのも、そう珍しくはなかったのである。
(それに、この娘は自らの悪行で身を持ち崩したのだ。ならば、情をかける理由もあるまい)
実直さだけが取り柄であると自負しているヤンは、そのように考えた。
そして、そんな内心はおくびにも出さず、ヤンは平常通りに一礼してみせる。
「初めまして。わたしはこちらの厨で料理長をつとめている、ヤンと申します」
「……初めまして。ニコラと申します」
口調や物腰こそ丁寧であったものの、やはりその顔には険悪な表情が浮かべられている。貴族が平民として生きるというのは、屈辱の限りであるのだろう。
(それにこの娘は、魂を返した祖母の手首を、刃物で切り落としたのだと聞く。姉の行く末を思うゆえの、やむをえない所業であったそうだが……それでもやはり、もともと気性の荒い娘であるのだろう)
そうしてヤンが無言で検分していると、ニコラは「あの」と尖った声をあげた。
「それでわたしは、どのような仕事を果たせばよろしいのでしょうか?」
「ああ……あなたには、宿場町における仕事を手伝ってもらおうと考えています」
「宿場町? 伯爵家の料理長であるあなたが、何故そのような場所で?」
「事情があってのことです。しかし、あなたの意に沿わないようであれば、別の仕事を準備しましょう」
とたんにニコラは、眉を吊り上げて言い放った。
「どのような仕事でも、わたしは必ず果たしてみせます! 貴族の娘だからといって、侮らないでください!」
「何も侮ってはいません。しかしあなたは、今日からこの家に仕える身であるのです。その態度は、それに相応しいと言えるでしょうか?」
ニコラは幼子のように唇をとがらせながら、わずかばかりに頭を下げた。
「……申し訳ありません。以後はあらためますので、お許しいただけたらありがたく思います」
「その言葉に偽りがなければ、何も問題はありません。ですが、宿場町においては市井の人々を相手に働くことになるのです。そちらに失礼があるようでは、この仕事はつとまりません」
ニコラは唇を噛みながら、小さく肩を震わせた。
「……わたしは貴族の生まれであるから、しもじもの人間を見下しているとお思いでしょうか? でしたら、それは誤解です。そのような身分で人をはかることを、わたしは何より厭わしく思っています」
「そうですか。では、わたしを見下しているわけではない、ということですね」
「当然です。わたしは……仕事に落ち度がないようにと、気を張っていただけです。失礼があったのなら、何度でもお詫びいたします」
ヤンは内心で、「おや」と思った。ニコラは相変わらず険しい面持ちをしていたが、その場しのぎの言い訳をしているようには見えなかったのである。
「真剣な気持ちで仕事に臨むというのは得難いことですが、そうまで肩肘を張る必要はありません。もう少し、力を抜くとよろしいでしょう」
「でも、わたしは――!」と、ニコラはそこで言葉を呑み込んだ。
ヤンは「どうしました?」と、うながしてみせる。
「今日からは、わたしがあなたの上役となるのです。何か思うところがあるならば、包み隠さずお聞かせ願いたく思います」
「……何もそのように、大層な話ではありません。ただ、わたしは……泥水をすすってでも生き抜かなくてはならないのです」
ヤンはそれで、ニコラの心情をいくぶん理解できたような気がした。
ニコラの姉は、彼女よりも大きな罪を犯して、禁固の刑に処されてしまったのだ。この姉妹は他に身寄りがないという話であったので、ニコラが市井の人間として身を立てなければ、いずれ釈放されるであろう姉を迎えることもできないのだろう。
(それに、ニコラの想い人であった庭師の若者も、投獄されてしまったという話だったな。その庭師は、ニコラの悪行に手を貸しただけだという話だったが……やはり、平民が貴族や衛兵を欺いたということで、ニコラよりも重い刑に処されてしまったのか)
ならば、ニコラが王国の身分制度に反感を抱くのも当然の話である。
それに、もともと身分制度を重んじるような人間であれば、庭師に恋心を寄せるはずもなかった。
(それならば、彼女が宿場町の民に失礼を働く心配もないか)
ヤンは穏やかな気持ちで、ニコラの姿を見やった。
するとニコラは険しい面持ちのまま、頬を赤く染める。
「ど、どうしてそのように笑うのですか?」
「笑っていましたか? それは失礼いたしました。では、仕事の段取りを説明しますので、手をお清めください」
ニコラは赤い顔でヤンをにらみつけてから、厨の端に準備されている水瓶のほうに向かっていった。
その小さな後ろ姿を見送りながら、シェイラがヤンに囁きかけてくる。
「あの……きっと彼女は、見た目ほど荒っぽい人間ではないように思います。きっと繊細な気性をしているゆえに、感情がこぼれやすいのではないでしょうか?」
「ええ。わたしもそのように思います」
ヤンがそのように答えると、シェイラは嬉しそうに口をほころばせた。
ニコラとともに、シェイラもヤンの仕事を手伝う予定であったのだ。シェイラはとても柔和な気性で、思いやりのある娘であったので、心に深い傷を負っているであろうニコラの仕事仲間としては最適であるように感じられた。
(わたしの厨も、これまで以上に騒々しくなりそうだな)
ヤンは心中で、そのようにつぶやいた。
ヤンは森辺の料理人たちと手を携えて、宿場町に目新しい食材を普及させるという仕事に取り組んでいるさなかであったのだ。
五十の齢を間近に控えて、自分の人生がこれほど騒々しくなることなど、ヤンは想像もしていなかったのだが――思いがけないほど、それらの日々はヤンの心を躍らせていた。
(このように騒々しい日々に身を置いていれば、ニコラも悲しんでいる時間はなかなかないことだろう)
仏頂面でこちらに戻ってくるニコラの姿を見やりながら、ヤンはそのように考えた。