紫の月の二十二日⑧~商売繁盛~
2019.11/18 更新分 1/1
「アスタ、お疲れ様です」
おやっさんやデルスたちの手にも無事に『ギバ骨ラーメン』が渡り、それから半刻ほどが過ぎた頃、今度は《銀の壺》の面々がやってきてくれた。
俺たちの屋台に並んでくれたのは、ラダジッドを含めた5名である。残りの半数は、隣のレビたちの屋台に並んでいるようだった。
「いらっしゃいませ。5人前でよろしいですか?」
「いえ。10人前、お願いします」
どうやらメンバーの全員が、この新メニューの味を確かめたいと考えてくれたようだ。それで『キミュス骨ラーメン』のほうにも並んでいるということは、どうやら味比べを敢行しようという考えであるのかもしれなかった。
「10人前ですね。ありがとうございます。6人前ずつお出ししているので、少々お待ちください」
マルフィラ=ナハムは火鉢に炭を追加して、鍋の熱が戻るのを待ってから、6人前の麺を投じた。さすがパスタで修練を積んだだけあって、このあたりの所作は危なげがない。
ということで、俺は10人前の麺が茹であがるまでの5分間、ラダジッドたちと歓談を楽しむことになった。
「日中は、ずっとシュミラル=リリンたちと過ごしていたのでしょう? 如何でしたか?」
「はい。きわめて、有意義でした。復活祭の時期、やってきたこと、正しい、思います」
大事な同胞であるシュミラル=リリンと復活祭をともにできるというのは、大きな喜びであるのだろう。俺も、自分のことのように嬉しく思うことができた。
「また、リリン家の人々、絆、深められたこと、得難い、思っています。ヴィナ・ルウ=リリン、ギラン=リリン、ウル・レイ=リリン、皆、好ましい、思います」
「リリン家の方々は、みなさん魅力的ですよね。子供たちも可愛いですし」
「はい。故郷、子供たち、思い出します」
「あ、ラダジッドはお子さんがいるのですよね。……家族と復活祭を過ごせないのは、ちょっと寂しくないですか?」
「はい。ですが、我々、故郷、いないこと、多いです。家族、復活祭、過ごせる確率、3分の1です」
1年を旅に費やし、半年を故郷で過ごすという生活であるのだから、そういう計算になるのだろう。そしてこのたびは天のはからいによって、復活祭の時期をジェノスで過ごすことになったわけである。
「それじゃあラダジッドたちは、色々な土地で復活祭を迎えているわけですね。そのほとんどは、西の王国になるわけですか?」
「はい。北の領地、留まる期間、短いので、おおよそ西の領地です。また、西と東の間、自由国境地帯ですので、そこを通る期間、復活祭、ぶつからないよう、調整しています」
「ああ、シムからセルヴァまでは往復4ヶ月もかかるので、調整しないと辺境の真ん中で復活祭を迎えることになってしまうのですね」
「はい。ですが、森辺の道、切り開かれたため、今後、往復3ヶ月です」
「なるほど」と、俺は破顔してみせる。ラダジッドとも言葉を交わす機会が増えて、こんな何気ない会話でも楽しく感じられてならない俺であるのだった。
「また、南の建築屋、傀儡使いの一行、森辺のさまざまな氏族、語ること、できました。それもまた、きわめて有意義です」
「そうですよね。俺もまざりたかったぐらいです」
「アスタ、まざらないですか?」
単刀直入に、問われてしまった。
俺は笑顔のまま、「そうですね」と答えてみせる。
「俺は商売の準備があるので、祝日の昼下がりは集落に戻るべきだと考えていたのですが……今日の賑わいを見て、ずいぶん心を動かされてしまいました」
「では、まざりますか?」
「はい。前向きに検討しているさなかです」
下ごしらえの仕事に関しては、集落の頼もしいかまど番たちに任せることができる。だけどやっぱり復活祭の時期はいつもと勝手が違う部分も多いので、不測の事態に備えて最終決断を下せる人間を控えさせるべきだと思うのだ。
現在のかまど番の中で、そこまでの責任を担うことができるのは、俺、トゥール=ディン、ユン=スドラの3名であろう。そして、トゥール=ディンには自分の仕事があるので、除外となる。そうすると、あとは俺とユン=スドラのみだ。
(ユン=スドラにだって、自由時間を楽しんでほしいからな。残りの祝日は、どちらか片方だけが集落に戻るように検討してみよう)
とはいえ、俺が1度も集落に戻らないまま夜を迎えるというのは、やはり心配なところであるので、トゥール=ディンのように下りの三の刻ぐらいを目途に帰ればいいだろう。それでも十分に、宿場町に集まった人々と濃密な時間を過ごせるはずだった。
「その日、楽しみです。アスタ、もっと語らいたい、願っています」
そんなありがたい言葉を残して、ラダジッドも青空食堂に立ち去っていった。
その後もお客が途切れることはないので、麺の茹であげもノンストップである。俺は「ふう」とひと息つきながら、相方のマルフィラ=ナハムを振り返った。
「売れ行きは順調だね。疲れのほうは大丈夫かな?」
「は、は、はい。か、身体の奥底から力がみなぎってくるかのようです」
新たな麺を茹であげながら、マルフィラ=ナハムはぎこちなく微笑んだ。
「や、やっぱり夜が近づいているからでしょうか。な、なんとなく、祝宴のさなかにあるような気分なのです」
「ああ、気持ちはわかるよ。やっぱり昼とは、感覚が違うよね」
あたりはすでに、だいぶん闇が深くなってきている。
それからほどなくして、街道に明かりが灯されることになった。
街道の真ん中に等間隔で置かれた壺に、衛兵たちが火を灯していくのだ。そうして暗がりに炎の列が浮かびあがると、人々は「太陽神に!」という歓声をほとばしらせた。
「日没だね。営業開始から、だいたい一刻ぐらい経ったのかな」
すると、仕事に励んでいるレビたちの向こうから、「おーい」という声が聞こえてきた。屋台を引いたユーミたちがやってきたのだ。
「やってるね! 去年以上の客入りみたいじゃん!」
「うん、本当にね。……ルイアもジョウ=ランも、お疲れ様」
職場体験に臨んだジョウ=ランの、これが最後の大仕事である。ジョウ=ランは普段通りの和やかな笑顔で「お疲れ様です」と挨拶を返してくれた。
「レビとラーズも、お疲れ様です。商売のほうは、如何ですか?」
「順調すぎて、おっかないぐらいだよ」
そんな風に答えてから、レビは俺のほうを振り返ってきた。
「なあ、アスタ。ようやく日が暮れたところだってのに、こっちはもう料理が尽きちまいそうなんだよな」
「うん、そうだろうね。こっちより50食分少ないなら、そろそろ終わりを迎える頃かなと思ってたよ」
何せこちらでも、麺の残りは70食分ていどであったのだ。このまま客足の勢いが落ちなければ、あと半刻ていどで売り切れる目算であった。
「まいったなあ。俺たちも、せめてアスタたちと同じぐらいは準備するべきなんじゃねえのかな、親父?」
「そいつは、ご主人と相談だねえ。『キミュスの丸焼き』の仕事だって、いったん引き受けたからには断れないんだろうしさ」
「出汁やタレを準備する手間は、それほど変わらねえよな。問題は、やっぱり麺か……うん、ミラノ=マスに相談させてもらおう」
するとユーミが、「景気のいい話だね!」と大きな声をあげた。
「あたしらも、負けてらんないや。さ、とっとと準備を始めちまおう!」
ユーミたちは、このたびも『お好み焼き』を販売していた。手づかみで食べられるように、焼きたての『お好み焼き』を作り置きの薄い生地にはさんで折りたたむという、《西風亭》のオリジナルメニューである。
新たなギバ料理が隣で売りに出されて、客足はそちらにも流れていく。しかし、こちらの客足が落ちたという実感はなかった。特に、2分半の茹で時間が生じるラーメンの屋台においては、1度としてお客が途切れることもなかったのだ。
(フル回転で料理を出してたら、そりゃあ売り切れるのが当然だよな)
6人前を仕上げるのに2分半ならば、200人前で――ざっと、83分である。間に湯をわかしなおす手間などが生じるとしても、一刻半も経たぬ内に料理が売り切れるというのは、自然の摂理というものであった。
(さて、料理が売り切れる前に、馴染みのお客さんたちが来てくれるといいんだけど……)
俺がそんな風に考えたとき、まるで天に祈りが通じたかのように、新たな一団がどやどやとやってきた。ドーラ家の若い面々と、布屋や鍋屋のご主人およびご家族たちである。
「お疲れ様です、アスタ。日中にも負けず、盛況なようですね」
日中には言葉を交わす機会のなかった上の兄君が、はにかむように微笑みかけてくる。ドーラ家では親族を集めてお祝いをするので、抜け出せるのは3名の子たちだけなのだった。
「いらっしゃいませ。よかったら、こちらもお召し上がりください」
「ええ、もちろん。これは夜にしか出せない料理なのでしょう? 親父なんかは、たいそう口惜しそうにしていましたよ」
「はい。ドーラの親父さんにも、いずれどうにかして食べていただこうと考えています」
狙い目は、やはりドーラ家に集結する『滅落の日』であろう。昨年は年越しそばを供した俺であるが、そこに『ギバ骨ラーメン』も混入させようかと目論んでいるさなかであった。
そうしてターラたちも全員が『ギバ骨ラーメン』を購入してくれたので、また着々と残弾は減じていった。
そのタイミングで現れたのは、ピノとシャントゥとニーヤである。
「お疲れさァん。アタシたちも、料理を買わせていただくよォ」
夜間は天幕で見世物があるため、自由に動けるのはこの3名のみであるのだ。
ピノはさきほど別れたばかりであったが、俺は心を込めて「いらっしゃいませ」と挨拶してみせた。
「こちらは夜だけの特別献立です。よかったら、如何ですか?」
「ふゥん、ソイツは興味深いねェ。天幕の連中は汁物をすするのも難しいけど、アタシらだけでこっそりいただいちまおうかァ」
見世物をする座員たちは、客の切れ間に食事をするしかないのだろう。想像しただけで、慌ただしい限りであった。
「そちらの見世物は、日没と同時に始められるのでしょう? こちらは下りの五の刻から商売を始めていますので、今後は事前にお買いあげいただいたら如何でしょう?」
「そうしたいのは山々だけど、時間ぎりぎりまで動かない怠け者が多いんでねェ。ま、アタシらがソイツを食った自慢をしてやりゃあ、ちっとは心を入れ替えるかもしれないねェ」
そんな風に言ってから、ピノはかたわらの若者をじろりとねめつけた。
「で、アンタは何を、キョロキョロしてるのさァ? まさか、衛兵サンに目をつけられるような悪さでもしでかしたわけじゃないだろうねェ」
「う、うるせえな、そんなんじゃねえよ。とっとと買って、とっとと戻ろうぜ」
「とっとと戻ろうたって、アタシらは全員分の食事を買って帰るんだよォ? そんな簡単にはいかないさァ」
そのとき、「やあ」というとぼけた声が横からあがった。
ニーヤはギクリと身をすくめ、ピノは「あァ」と薄く笑う。
「カミュアの旦那、ご無沙汰だねェ。最初に挨拶をして以来、ちっともつれないじゃないかァ?」
「俺もあちこち挨拶回りが忙しくてね。あとで見世物を拝見に行くよ」
カミュア=ヨシュは、普段通りにのほほんと笑っていた。
獣使いの老人シャントゥとも挨拶を交わし、最後にニーヤへと視線を向ける。
「ニーヤとは、初日も顔をあわせなかったよね。元気そうで何よりだ」
「あ、ああ、まあね」と、ニーヤはマルフィラ=ナハムにも負けない勢いで視線を泳がせた。
「あ、甘い菓子! ナチャラは、菓子を食いたいって言ってたよな! 俺が買いつけてくるよ!」
と、ニーヤはそそくさとトゥール=ディンの屋台へと消え去ってしまった。ニーヤがアイ=ファに軽口のひとつも届けないまま退散するというのは、これが初めてかもしれなかった。
「やれやれ。どうも俺は、彼に嫌われてしまっているようだねえ」
カミュア=ヨシュが苦笑まじりに言うと、ピノは「ははン」と鼻で笑った。
「嫌ってるんじゃなくて、怖がってるの間違いだろォ? そりゃまァ、アンタみたいにお強いお人を敵に回したら、誰だって生きた心地がしないさァ」
「敵に回るだなんて、とんでもない。俺は《ギャムレイの一座》の全員を、大事な友だと思っているよ」
「ふふン。狼や獅子に手を差しのべられたって、ちっぽけなギーズはその爪の鋭さに震えあがっちまうモンさァ」
よく考えれば、ピノとカミュア=ヨシュが言葉を交わすさまを目にするのも、これが初めてのことだった。
が、実に自然なたたずまいである。それに何だか、両者の間には深い絆を感じてやまなかった。
「それじゃあ、天幕のぼんくらどもが腹を空かせてるんで、またのちほどねェ。アスタ、そっちの料理は最後にいただくよォ」
と、ピノとシャントゥも別の屋台に足を向けた。
カミュア=ヨシュだけはその場に留まり、『ギバ骨ラーメン』の完成を待つ。幸い、屋台に並んでいるのは4名のみであったので、カミュア=ヨシュにもすぐに料理をお届けすることができた。
「うん、こいつは美味いね。夜しか食べられないのが惜しいほどだ」
『ギバ骨ラーメン』を受け取ったカミュア=ヨシュは、列から外れて立ち食いを始めた。立ち話を好むカミュア=ヨシュには、よくあることである。
するとそのとき、隣の屋台からレビの声があがった。
「申し訳ない! 今夜の料理は、これでおしまいだ! また明日にでも食べに来てくれよ!」
ついに、『キミュス骨ラーメン』が売り切れたらしい。こちらはすでに150食分を突破していたので、なかなか粘ったほうであろう。あちらは普段から昼にも出している献立であるので、こちらよりは客足もゆるやかであったのかもしれなかった。
しかしそれでも、屋台に並ぼうとしていたお客たちはブーイングをあげている。斯様にして、根強い固定客をつかんでいる『キミュス骨ラーメン』なのである。
「いやあ、まいったまいった。嬉しい悲鳴ってのは、こういうときにあげるもんなのかね」
複雑そうな笑みを浮かべながら、レビは後片付けを始める。その姿を見やりながら、カミュア=ヨシュは「ふうん」と声をあげた。
「まだ日が沈んだばかりなのに、もう売り切れか。このらーめんという料理の人気は大したものだねえ」
「はい。俺の故郷でも人気の料理でしたからね」
「うん、本当に大したものだよ。あちらでもギバ料理の屋台は賑わってたけど、やっぱりこの一画の賑わいには及ばないしねえ」
あちらとは、露店区域の南側である。そちらでは《南の大樹亭》を筆頭に、さまざまな宿屋がギバ料理を出しているはずだった。
「それに、森辺の民もけっこうな数が居残っているようだね。ほら、ちょうどこちらに近づいてくるようだよ」
しばらくすると、きわめて賑やかな一団が接近してきた。ダン=ルティムにラッド=リッド、ラウ=レイにヤミル=レイ、それにラッツやガズの家長たちという、なかなかに濃い顔ぶれである。
「おお! それは、ぎばこつらーめんではないか! アスタ、俺たちも1杯ずついただくぞ!」
「え? 屋台で料理を買ってくださるのですか?」
ダン=ルティムは、「当たり前ではないか!」と大きな声をあげた。
「家に戻るまで空腹をこらえることなどできようはずもないし、今日は多くの家人が町に下りているのだから、居残った者たちに晩餐の準備まで負わせることはできまい! どの氏族でも、そのように考えているのではないか?」
「うむ。少なくとも、俺たちはそうしているぞ。これを銅貨の無駄とほざく者はあるまい!」
そのように答えたのは、ラッド=リッドではなくラッツの家長であった。まあ、豪放さにかけては彼も同レベルなのである。
「そうだったのですね。他の方々はお姿を見ていないので、みんな森辺に戻ってから晩餐にするのかと思っていました」
「他の連中は、町の人間が売っているギバ料理を口にしているのであろうよ。俺たちも、すでにいくつか口にしたしな」
「うむ! なかなか愉快な料理もあったし、さして美味くもない料理もあったぞ!」
今度は、ラッド=リッドである。誰もが昼から飲んでいるので、豪放さも2割増しであるようだ。
それにしても、驚くべきはその言葉の内容であった。
森辺の民たちが、町の人々が売っているギバ料理を口にしているなどとは、俺にとって想像の外だったのである。
「何も驚くことはあるまい! 町の人間がどのようなギバ料理を売っているのか、気にならないわけがないではないか! ギバを使っているせいか、城下町で口にした料理よりも美味いと思えるものもあったぞ!」
「そうですか。俺も後で他の屋台を巡る予定だったので、とても楽しみです」
俺がそのように答えたとき、「あらァ」という楽しげな声が響いた。
「これはこれは、みなサンおそろいで。そっちのお人は、おひさしぶりでございますねェ」
料理の運搬を終えたピノが、再びやってきてくれたのだ。そんなピノに呼びかけられたのは、ラウ=レイである。ヤミル=レイの肩に手を回そうとして手の甲をつねられていたラウ=レイは、こちらも酒気に染まった顔で「うむ?」と小首を傾げた。
「おお、お前か! 今日は昼から町に下りていたのに、その素っ頓狂な姿を見たのはこれが初めてだな! 息災なようで、何よりだ!」
「はいなァ、そちらサンもねェ」
ルウの血族の多くは、以前の祝宴でピノたちと顔をあわせているのだ。ダン=ルティムも陽気に挨拶を交わし、他の人々は初対面の挨拶を交わすことになった。
遅れてシャントゥもやってきたが、ニーヤは現れない。それはこの場にカミュア=ヨシュが居残っているためなのだろうか。まあ、かつてはラウ=レイとも揉めたようだし、今日のところは退いておいたほうが、彼の身のためなのかもしれなかった。
そうして多くのお客を迎えたために、我が『ギバ骨ラーメン』の屋台も無事に完売の運びとなった。森辺の民が出している7つの屋台の中では、一番乗りである。やはりこれは、初物の強みであろう。
「それじゃあ俺たちも、食堂のほうを手伝おうか」
鉄鍋や木箱を荷車に収納したのち、俺とマルフィラ=ナハムは青空食堂に向かう。肩に黒猫を乗せたアイ=ファも同様である。俺たちの後をついて歩いていたアイ=ファは、溜め息まじりに言った。
「アスタよ、こやつはお前の仕事が一段落したと見て、そちらに飛び移る機を探っているようだ」
「そっか。まあ、そいつはあんまり毛も落ちないみたいだから、こっちの仕事なら問題ないかな」
俺は笑いながら、アイ=ファの肩から黒猫の身体をすくい取った。
黒猫は満足そうに、「にゃあ」と鳴く。昼下がりにぐっすり休んだためか、日が暮れても元気いっぱいの様子であった。
青空食堂は、大いに賑わっている。もともとの座席も、拡張した敷物も、ほとんど満員御礼だ。その場には、祝宴のごとき熱気が渦巻いていた。
(まあ、復活祭なんだから、祝宴そのものか)
なおかつその場には、さきほど料理を買いつけてくれたダン=ルティムたちも混じっている。数名ずつに分かれてあちこちに散っているので、町の人々にすっかり溶け込んでいるかのようだった。
それにジバ婆さんも、いつの間にか車椅子を客席に寄せて、町の人々と語らっている。ルド=ルウ、ジザ=ルウ、ガズラン=ルティムの3名も、立ったままではあるがその場に居並んでいた。
いっぽうレビは客席を回って空いた皿を回収しており、足の悪いラーズは皿洗いに励んでいる。彼らも座席が必要な料理を扱っているために、食堂の管理の責任を負っているのだ。そうしてお客だけではなく従業員のほうも、森辺の民と町の人間が混在しているわけであった。
(俺が初めて宿場町に下りた頃には、考えられなかった光景だよな)
俺はしみじみと思いながら、かたわらのアイ=ファを振り返った。
アイ=ファもいくぶん目をすがめつつ、食堂の様相を見やっている。言葉を交わさずとも、アイ=ファが同じ感慨を噛みしめていることは察せられた。
「さて、それじゃあ俺も、仕事に励もうかな」
黒猫を肩に乗せたまま、俺も皿の回収を受け持つことにした。
その行きがけで、あちこちのお客から声をかけられる。名前を知るほど親しい人々はすでに席を離れた後であったが、多くは顔見知りのお客である。それに、一見のお客でも遠慮なく声をかけてもらえるのが、ありがたいばかりであった。
「なあ、さっき向こうで、傀儡の劇ってやつを見てきたぞ。あれは全部、本当のことなのか?」
「ええ。多少の脚色はされていますが、筋書きは事実の通りです」
ここ最近では定番のやりとりも交わされる。すると、ダン=ルティムと同じ卓を囲んでいた見知らぬお客が、「あれ?」と声をあげた。
「そういえば、さっきの劇にはあんたそっくりの傀儡も出ていたな。ひょっとしたら、あれは……」
「うむ! それは俺のことであろうな! 俺はルティムの先代家長、ダン=ルティムという者だ!」
「へえ、本当かよ? なんだか、信じられねえなあ!」
と、今度はダン=ルティムが質問責めにされることになった。ダン=ルティムはアイ=ファと異なり、町の人々の注目を集めることも苦にはなっていない様子である。
そうして俺が、街道に面した客席に歩を進めたとき、肩の黒猫が「なあ」と鳴いた。どことなく、俺を呼んでいるような声の響きである。
「どうしたんだ? トイレだったら、あっちに雑木林があるぞ」
「何を言っているのだ」とばかりに、黒猫は俺を見やっている。
すると、街道のほうから大柄な人影が近づいてきた。
「ど、どうも。お仕事、お疲れ様です」
「あれ? あなたは……ガーデルじゃないですか」
それは護民兵団の兵士にして現在は休養中の、ガーデルであった。まだ2回しか顔をあわせていない相手であるが、ぐりぐりの巻き毛と大きな身体、それに左腕を吊った姿で、見違える恐れもない。大きな負傷と引き換えに、大罪人シルエルを討ち取った功労者である。
「こんな時間に、どうされたのですか? 城下町の城門は、日没とともに行き来ができなくなってしまうのでしょう?」
「は、はい。今日は、宿場町で宿を取りました。こちらの屋台の様子を、見ておきたかったので……」
気弱そうに目を伏せたまま、ガーデルはそう言った。
見た限り、連れの人間はいない。それもそのはずで、この時期の兵士たちは休日もなく働き詰めであるという話であったのだった。
「ふむ。わざわざ宿を取ってまで、森辺の民の屋台の様子を見届けたかったということか?」
と、いきなりアイ=ファの声が背後から響いたので、俺は飛び上がるほど驚いてしまった。猫のように気配を感じさせないアイ=ファなのである。
ガーデルは「はい」と、わずかに口をほころばせる。
「以前に来たときも大層な賑わいでしたが、復活祭が始まったらどのような騒ぎになるのかと……それが気になって、ついつい覗きに来てしまいました」
「そのように気にかけてもらえることは、ありがたく思う。お前はいつも、デヴィアスに無理やり連れてこられているような様子であったからな」
「そうですね。でも、俺自身もあなたがたのことは、ずっと気になっていたのです」
ガーデルはようやく目を上げると、俺たちではなく食堂の様子を見回した。
色の淡いその瞳には、どこか満足そうな光が浮かんでいる。
「本当に、すごい賑わいですね……俺はいちおう城下町の生まれなので、こういった粗野な熱気には、いささか圧倒されてしまいます」
「そうなのですね。護民兵団の方々も、かなりの熱気をお持ちのようでしたが」
「あれは、隊長殿に感化されたのでしょう。隊長殿は、ああいうお人ですから……」
そんな風に言いながら、ガーデルはおずおずと俺を見やってきた。
「アスタ殿は、貴き方々に厨番を申しつけられるようなお人ですし……王都の外交官にも目をかけられているでしょう? だから……俺などとは住む世界が違うのかな、などと考えていました」
「ええ? あなたは城下町の民なのでしょう? 俺なんかにそのような気持ちを抱くいわれはないように思うのですが」
「俺なんて、貴族に仕える侍女の子供に過ぎません。べつだん生活に不自由したことはありませんけれど……城下町では、下賤といっていいような生まれです」
そう言って、ガーデルは弱々しく微笑んだ。
「アスタ殿は、こういう粗野な熱気の中に生きるお人であったのですね。おかしな言葉に聞こえるかもしれませんが……俺はなんだか、ほっとしました」
「はあ……」
俺にはいまひとつ、ガーデルの心情を理解することが難しかった。俺が考えていた以上に、彼は複雑で繊細な気性のようである。
(でも、そんなに俺のことを気にかけてくれていたなんて、ちっとも気づかなかったな)
そんな思いを胸に、俺は明るく笑いかけてみせた。
「もしも身体がおつらくなかったら、昼の屋台にも来てやってください。あと、じきに城下町では、森辺の民の傀儡の劇がお披露目されるはずです。それをご覧いただけたら、もっと俺たちのことを知ってもらえるかもしれません」
「そうですか。楽しみにしています」
ガーデルは、ちょっと子供っぽい顔で微笑んだ。
さまざまな人々との出会いや交流に恵まれた『暁の日』の、それも大事な一幕であった。




