紫の月の二十二日⑥~邂逅~
2019.11/16 更新分 1/1 ・11/18 誤字を修正
途中でルウの集落に立ち寄って、ドンダ=ルウに挨拶をしたのちに、俺たちはいざファの家を目指すことになった。
2台の荷車のうち、片方に乗っている面々はお役御免であるので、そのままそれぞれの家に帰っていく。ライエルファム=スドラもルウ家でそちらの荷車に乗り換えて、ファの家に向かうのは俺とアイ=ファとユン=スドラ、そしてピノとロロの5名のみであった。
ファの家の敷地に荷車を乗り入れると、家の前にいくつかの人影が見える。人影と、犬たちの影である。そうして荷車を近づけていくと、追いかけっこに興じていた犬たちは玄関の前にずらりと整列した。
「戻ったぞ。ずいぶん長く、留守にしてしまったな」
アイ=ファが御者台から降りると、3頭の犬たちが喜び勇んで殺到する。アイ=ファは膝をつき、順番にその頭を撫でていった。
昨晩はドーラ家に宿泊したので、俺たちが家に戻るのは丸一日以上ぶりであったのだ。犬たちの尻尾の振り具合が、その喜びの度合いを如実に示していた。
「お疲れ様、アイ=ファ。宿場町は、どうだった?」
家の前に控えていた女衆のひとりが、そのように微笑みかけてくる。それは、アイ=ファの幼馴染であるサリス・ラン=フォウであった。あともうひとり、若めだが既婚の女衆が控えており、その他はアイム=フォウを筆頭とする男女の幼子たちだ。預けていたブレイブたちをファの家に送りがてら、遊びに来てくれたらしい。
「宿場町は、昨年以上の賑わいだった。次の祝日を楽しみにしているといい」
「ええ。他の家人も、みんな楽しみにしているわ」
フォウの血族も、家に居残る人間と宿場町に下りる人間で、ローテーションを組んでいるのだ。特に今回は『ギバの丸焼き』の仕事もあったので、完全に自由な身である人間は数えるぐらいしかいないはずだった。
「さて。それじゃあ、いよいよご対面だな」
黒猫を肩に乗せた俺が荷台から降りようとすると、アイ=ファが「待て」と鋭く声をあげた。
そして、3頭の家人たちをあらためて整列させ、アイ=ファがそれを守るような位置取りで立ちはだかる。
「よし。ゆっくりと降りるのだぞ。そやつが何か不穏な動きを見せるようであれば、私が何としてでも阻止してみせよう」
「うん。了解だよ」
俺は黒猫を刺激しないように、そろそろと地面に降り立った。
ブレイブとジルベとドゥルムアの3頭は、きょとんとした目で俺を見やっている。そしてそれ以上に不思議そうな顔をしていたのは、やはりサリス・ラン=フォウたちのほうだった。
「その獣は、何でしょう? 見たことのない姿です」
「これは、シムの猫なる獣です。ゆえあって、ファの家で預かることになっているのですが……とりあえず、両陣営とも興奮したりはしてないみたいだな」
「気を抜くなよ。そやつの俊敏さだけは、馬鹿にできぬものがあるからな」
俺はブレイブたちから2メートルほどの距離を取った場所で、膝を折ってみせた。
目線の高さが同じになり、黒猫と犬たちは正面から相対する。
犬たちはきょとんとしたままであり、黒猫は――知らん顔で、大あくびをしていた。
「その犬たちは、よォくしつけられてるみたいだねェ。これなら、諍いを起こすこともないだろうさァ」
と、荷台からピノの声が聞こえてくる。
するとサリス・ラン=フォウたちは、今度こそ驚きの声をあげた。
「ア、アスタ、その御方たちは……?」
「あ、ご紹介が遅れました。こちらは《ギャムレイの一座》の座員である、ピノとロロです。《ギャムレイの一座》は、ご存知ですよね?」
「《ギャムレイの一座》……ああ、ルウ家の狩人たちと森に入り、幼きギバを捕まえたという者たちですか」
やはりサリス・ラン=フォウたちにとっては、黒猫よりもピノのほうが驚きに値するようだ。いっぽう幼子たちといえば、興味津々の面持ちで黒猫とピノの姿を見比べている。
「ピノたちは、ティアに挨拶をするために出向いてきたのです。ティアは、修練中ですか?」
「はい。かまど小屋のそばで、木登りをしているはずです。こちらに呼んできましょうか?」
「いえ、こちらから出向くので、それには及びません。……アイ=ファ、ブレイブたちはどうだろう?」
厳しい面持ちで立ちはだかっていたアイ=ファは、「うむ……」と考え深げにうなずいた。
「もとよりブレイブとドゥルムアは、私の命令なしに獣を襲うことはない。そしてジルベは……敵意のないものに牙を剥くことはなかろうな」
「うん。一緒に留守番をする機会も多いだろうから、ジルベとの相性が気になるところだな」
俺は膝立ちのまま、ジルベの方向にわずかに近づいてみた。
しかし、両名の反応は変わらない。ジルベはそれよりも、俺に飛びつきたくてうずうずしているように見受けられた。
「アイ=ファ、ちょっと黒猫をお願いできるか?」
俺はアイ=ファに黒猫を手渡して、ジルベに手を差しのべてみせた。
「おいで、ジルベ」
「ばうっ!」と元気に吠えてから、ジルベは俺に飛びかかってきた。
ジルベは俺よりも重量のある大型犬であるが、人間とじゃれる際の力加減はきちんと心得ている。俺は後ろに突き倒されることなく、胸もとに鼻を寄せてくるジルベを思うさま撫で回してやった。
「よしよし、いい子だな。……黒猫の反応はどうだ?」
「無関心だな。ジルベたちには、何の興味もないようだ」
いくぶん不服そうに、アイ=ファはそう言った。
確かに黒猫は、興味なさげに俺たちがじゃれあうさまを見守っている。
「とりあえず、いまのところは問題なし、か。それじゃあ、家に入れてみようか」
人々の視線を集めながら、俺たちはファの家の玄関に向かおうとした。
そこに、ピノが追いついてくる。
「アスタ、こいつをお忘れだよォ」
それは荷車に仕舞っておいた、木製の皿であった。昨日ピノから託された、黒猫のためのトイレである。
その皿に新しい砂をいれてから、いざ玄関の戸板を開ける。
すると――黒猫は、アイ=ファの手から広間の床に降り立った。
そうしてぐるぐると広間を一周したかと思うと、壁際の窓の下で足を止めて、丸くなる。昨晩のドーラ家では、ついぞ見せなかった姿であった。
「うーん。匂いか何かで、ここが俺たちの家だってことを感知したのかな」
「……こやつは土間ではなく、床の上で過ごす獣であるのか?」
アイ=ファの問いに、ピノは「さァ?」と肩をすくめた。
「あいにくアタシも、猫なんざを飼ったことはないんでねェ。ま、足の裏が汚れてないなら、床の上でもかまわないんじゃないのかァい?」
「こやつは常に私たちの肩に乗っていたのだから、足の裏が汚れる道理もない」
やっぱりアイ=ファは、いくぶん不服そうな面持ちであった。
まあ、初めてファの家を訪れた黒猫が我が物顔で居眠りを始めたのだから、アイ=ファとしては礼節を説きたい心情であるのだろう。しかし俺としては、いかにも猫らしい気ままさだなあと思うことしきりであった。
「とりあえず、いまはそっとしておこうか。俺たちも、ひまな身体じゃないからな」
俺はトイレ用の木皿を土間に置いて、玄関を閉めさせていただいた。
黒猫が、俺を追ってくる様子もない。犬は人につき、猫は家につく、の格言を体現しているのだろうか。それならそれで、いっそ扱いやすいぐらいかもしれなかった。
「それではわたしたちは、これで失礼しますね。アイ=ファ、また明日」
サリス・ラン=フォウたちは、徒歩でファの家を辞去していった。
その背中を見送ってから、俺はピノに向きなおる。
「お待たせしました。それでは、ティアを紹介します。……あ、ティアというのは、うちで預かっている大神の民の名前です」
「はいなァ。よろしくお願いするよォ」
ピノはうきうきと振袖のような袂を振っていた。
きょときょとと視線を泳がせているロロと、ギルルの手綱を預けていたユン=スドラも引き連れて、母屋の裏のかまど小屋を目指す。かまど小屋にはさまざまな氏族からかまど番が集まって、下ごしらえの仕事に励んでくれているはずだった。
「それではわたしが皆の様子を見てきますので、アスタはピノたちに付き添ってあげてください。何かあったら、すぐに声をおかけします」
気のきくユン=スドラがそのように言い残して、単身かまど小屋へと向かった。
荷車から解放したギルルの手綱を手近な木の枝に結んでから、アイ=ファは頭上に視線を巡らせる。
「ティアよ、修練のさなかであろうが、お前に引きあわせたい人間がいる。こちらに姿を見せてもらいたい」
すると、高くのびた樹木の梢から、ティアの声が応じてきた。
「姿を見せてもいいのか? それは、町の人間であろう?」
「うむ。ドンダ=ルウの了承は得ている。これまで通り、それぞれの法と掟に従って、言葉を交わすがいい」
がさがさと梢が揺れたかと思うと、そこからティアの姿が飛び出してきた。
3メートルほどの高みから、俺たちの目の前にふわりと降り立つ。その姿に、ロロが「ふわあ」と素っ頓狂な声をあげた。
「す、すごく身軽なのですね。まるで、ゼッタみたいです。さすがは大神の民ですねえ」
ゼッタとは《ギャムレイの一座》の座員であり、「人獣の子」という異名を持つ謎の存在である。
ロロの驚きなど歯牙にもかけず、ティアはいつも通りの純真な眼差しでピノたちを見やっていた。
「ティアに、何の話であろうか? ティアは、修練のさなかであったのだが」
「あァ、お忙しいところを申し訳なかったねェ。アタシは旅芸人の、ピノってモンだよォ。コッチのひょろひょろしたのは、アタシの連れでロロってモンさァ」
ピノは黒い瞳をきらめかせながら、ティアの姿を一心に見つめ返している。
ピノの目に、このティアはどのように映っているのだろう。
背丈は、ピノよりもわずかに小さいぐらいである。12歳という年齢よりも幼く見えて、胴体も手足も細っこい。しかし、その小さな身体には森辺の狩人にも負けない生命力がみなぎっているのだ。
髪や肌はくすんだ赤褐色に染めあげられており、瞳はそれよりも鮮やかなガーネットのごとき輝きを有している。頬と手の甲と足の甲には、大神の民であることを示す渦巻模様の刻印が刻みつけられており、鼻は小さく、口は大きく、なかなか可愛らしい顔立ちをしている。なおかつ、その身に纏っているのは、町で買い求めたワンピースのごとき装束であった。
だけどやっぱり、ティアを町の人間と見間違う者はいないだろう。長きの時間をともにしている俺でさえ、ティアの鮮烈な生命力や、動物めいた無邪気さには、なかなか慣れることができないのだ。森辺の民よりもなお、ティアは野生の魂を備えた存在であるのだった。
「うン……大神の民に相応しいお姿だねェ」
やがてピノは、しみじみとした口調でそう言った。
「アタシは以前、山の中で野生の銀獅子に出くわしたことがあるんだけど……それにも負けない神々しさを感じちまうよォ」
「よくわからないが、お前はティアに何の用なのだ? ティアは、町の人間とは友にも同胞にもなれぬ身であるのだ」
そんな風に言ってから、ティアは食い入るようにピノを見つめた。
「ただ……お前は不思議な空気を纏っているな。町の人間とも森辺の民とも違う、なんだか奇妙な空気だ」
「あァ、アタシも厳密には、町の人間を名乗れない身の上だからねェ」
そう言って、ピノは赤い唇を吊り上げた。
「アタシとこっちのロロは、町から町へと流れゆく、旅芸人ってェ身の上なんだよォ。ただ、そんな風に根無し草を気取っても、大神の民であるアンタには関わりのないこったろうねェ」
「うむ。お前は奇妙な人間であるようだが、ティアの同胞ではない。ならば、町の人間と同じようなものだ」
そんな風に言ってから、ティアはふいに口もとをほころばせた。
「でも、お前のことは嫌いではない。森辺の民ほどではないが、何か……ティアたちと少し似た空気を持っているようにも感じられる」
「そいつは光栄なこったねェ。それに、なんて素敵なお顔で笑うんだい。それこそ、野生の銀獅子が笑ったみたいなお顔じゃないかァ」
ピノはうっとりと目を細めて、長く編んだ三つ編みの黒髪をまさぐった。
「アンタはいずれ、お山に帰るんだろォ? そうじゃなかったら、是が非でも連れ帰りたいところだけど……うン、だけどソイツは、野生に育った銀獅子を連れ帰ろうとするのとおんなじことなんだろうねェ」
「よくわからないが、ティアは大神の子であるのだ。聖域を離れて生きていくことはできない」
「あァ、重々承知しているよォ。どうせ聖域を離れたら、アンタも普通の人間になっちまうんだろうしねェ。今のまんまのアンタを手に入れたいってのは、どうしたってかなうことのない願いなのさァ」
ピノはやはり、普段よりも幼子めいた面持ちになっていた。
その隣で、ロロはじーっとティアの姿を見つめている。
「ま、こんな風におしゃべりできるだけで、アタシにはとびっきりの贅沢だよォ。アスタにアイ=ファ、ありがとうねェ」
「いえ、とんでもない。……そういえば、ティアにまつわる話で、ひとつお伝えしておくことがありました」
これは、カミュア=ヨシュから伝え聞いた話である。ティアのことを聞いていなかったのなら、きっとこの話も耳にしていないだろう。
「ティアは怪我を負ったために、森辺でそれを癒やすことになったのですが、その後にまた深手を負ってしまったのです。森辺を襲った盗賊団に、刀で背中を斬られてしまったのですね」
「はン? 森辺を襲おうだなんて、そんな間抜けが存在するのかァい? そんなモン、腹を空かせた獅子の口に頭を突っ込むようなモンじゃないかァ」
「ええ。その首領が、森辺の民に恨みを持つ人間であったのです。それで……その配下の者たちは、かつてカミュアと《ギャムレイの一座》のみなさんが捕縛したという山の民だったのですよね」
「あン?」と、ピノは眉をひそめた。
「あたしらが捕縛した山の民って、ソイツは何の話だい? まァ、山の民には無法者が多いから、アタシらも何度か世話をかけられてるけどさァ」
「俺も詳しくは知りませんが、前身は《ターレスの月》という山賊であったようです」
「あ」と、ロロが声をあげた。
「そ、それはあれですよ。僕たちが、カミュア=ヨシュと初めて出会ったときに出くわした盗賊団です。ほら、ニーヤが別の盗賊団の女首領にまんまと騙された……」
「あァ、そんなこともあったねェ。だけど、山の民の盗賊団なんて、森辺のお人らには何の関わりもないだろォ?」
「はい。その首領が、ジェノスの貴族であった人物なんです。同じ鉱山で苦役の刑に処されていたところを、以前の大地震で脱走することになって……それで新しい盗賊団を結成したその連中が、森辺を襲うことになったのです」
ピノはその場で、軽やかにステップを踏んだ。
どうやらそれは、地団駄を踏んだということであるようだった。
「そのぼんくらどもが森辺を襲って、このティアって娘っ子に深手を負わせたってェのかい? 深手って、どんなていどの深手だったのさァ?」
「生死に関わるほどの深手でした。ティアぐらい生命力のある人間じゃなかったら、まず間違いなく魂を返していたそうです」
「あァもう、なんて腹立たしい話だろうねェ! そんなことなら、衛兵なんざに引き渡さないで、みィんな火だるまにしちまうべきだったよォ!」
ピノは本気で怒った様子で、怒りのステップを踏み倒した。
そののちに、いくぶん悄然とした様子でティアに向きなおる。
「アタシらがハンパな真似をしたせいで、アンタに痛い目を見させちまったんだねェ。心から詫びさせてもらいたい気分だよォ」
「うむ。ティアにはいまひとつ、アスタの語った言葉が理解しきれなかったのだが」
「要するに、ティアを傷つけたあいつらは、かつてピノたちが捕らえた罪人だったんだよ。それで、罰を受けていたのに逃げ出して、俺たちに襲いかかってきたってわけだね」
「なるほど。罰から逃げるなどとは、本当に恥知らずな者たちであったのだな」
そんな風に言ってから、ティアはピノたちの姿を見比べた。
「しかし、あいつらは森辺の民ほどではないが、それなりの力を持つ人間たちだった。あのような者たちを打ち負かしたのなら、お前たちもなかなかの力を持っているのだな」
「あァ、このロロは《剣王》の異名を持つ剣士だからねえ。自慢の木剣で、山賊どもを何人も眠らせてたよォ」
「や、やめてくださいよ。ピノだって、得意の棒術で僕以上の数を倒していたじゃないですか」
どうやらこの両名も、山賊の捕縛には大きく貢献していたようだった。
それにしても、山の民を打ち負かすことができるなどとは、やはり大した力量である。そんな両名のことを、ティアは「ふむ」と思案顔で見やっていた。
「しかし、お前たちが詫びる必要などはない。過去に何があったとしても、アスタを襲うと決めたのはあいつらなのだからな。悪いのは、すべてあいつらであるのだ」
「そんな風に言ってもらえるのは、ありがたいけどさァ。でも、アイツらがアンタにそんな真似をしたかと思うと、やっぱり腹が煮えちまうよォ」
「でも、そこで深手を負っていなかったら、ティアはとっくに聖域に戻っていたでしょうからね。そうしたら、ピノとティアはこうして顔をあわせることもできなかったのですよ」
俺がそのように口をはさむと、珍しくもピノはじっとりとした目で俺を見やってきた。
「だったら、この娘っ子がひどい目にあったことを喜べってェのかァい? なんだか、今日のアスタはいつもより意地悪な気がするねェ」
「あ、それは申し訳ありません。ただ俺は、まったく接点がなかったように思えたティアとピノたちにも、人知れぬご縁があったんだなあと思っただけなのです」
「そりゃあ、まァ……世捨て人の旅芸人と大神の民でも、この世界に生きる人間ってことに変わりはないからねェ。どこかで運命は繋がってるモンさァ」
そう言って、ピノはティアのほうに視線を戻した。
「でも、これじゃあ腹が収まらないねェ。何かアタシらで、アンタの力になれることはないもんかねェ?」
「だから、お前たちが気に病む必要などはない。ただ、ティアはそろそろ修練に戻りたく思う」
「修練」と、ピノが繰り返した。
「だったらアタシらが、そのお手伝いをできないかねェ? 木登りしてるだけじゃあ退屈だろォ?」
ティアの目が、くりんと大きく見開かれた。
「お前たちが森辺の狩人ぐらいの力を持っているならば、修練の役に立つかもしれない。だけど、お前たちがそのような苦労をする必要はないと思う」
「いやァ、アタシはお役に立ちたいんだよォ。大神の民と手合わせをしたなんて言ったら、一生の語り草だしねェ」
ピノは普段の調子を取り戻して、赤い唇をにっと吊り上げた。
「アタシらのふたりがかりだったら、森辺のお人らにもそう見劣りはしないんじゃないかねェ。アスタ、グリギの棒でも余ってたら、貸してもらえるかァい?」
「あ、はいはい。ちょっとお待ちくださいね」
グリギの棒であれば、鉄鍋を吊るして運ぶために何本も予備がある。食料庫から持ち出してきたグリギの棒を受け渡すと、ピノは宿場町で見せる余興のようにそれを振り回した。
「うン、いい感じだねェ。ロロ、アンタにもつきあってもらうよォ」
「は、はい。でもきっと、僕なんてすぐに打ち負かされてしまいます」
ロロは気弱げに微笑みながら、木剣を鞘から抜いた。
そんなふたりの姿を見比べながら、ティアは「ふむ」と小首を傾げる。
「こうしてみると、お前たちは森辺の狩人にも負けぬ力を持っているように思えてきた。地べたでは、ティアに勝ち目はないかもしれない。あちらの木々が深い場所で相手をしてもらえたら、嬉しく思う」
「ご随意にィ。それじゃあ、アスタとアイ=ファはまたのちほどねェ」
ピノはご機嫌な様子で、ティアとともに立ち去ろうとした。
するとアイ=ファが、先頭のティアに「待て」と声をかける。
「お前はずいぶんと、嬉しそうな顔をしているな。手合わせの相手を求めていたのか?」
「うむ。やはり木登りをしているだけでは、なかなか十分な力は取り戻せぬからな」
「だったら、そのように言えばいいではないか。この近在の氏族は休息の期間にあるのだから、手は空いているのだぞ」
「しかしアイ=ファたちは、色々と忙しいのだろう? フォウの者たちも、そのように言っていたぞ」
そう言って、ティアはにこりと微笑んだ。
「森辺の民は、森辺の民としての仕事を果たしてもらいたく思う。ティアは森辺の民が好きだから、それを邪魔したくはないのだ」
アイ=ファは小さく溜め息をついてから、言った。
「それでも、手が空く時間ぐらいはある。それに、ルウ家の世話になっているレム=ドムも、お前とは手合わせを願っていたはずだ。あやつも以前より、ずいぶん力をつけたようだぞ」
「そうか。仕事の邪魔にならないのなら、もちろん力を貸してほしいと思うが……しかし、アイ=ファたちは優しいから、無理をしてでもティアの世話を焼こうとするかもしれない。だから、言いたくなかったのだ」
「少なくとも、私は無理をしたりはしない。これからは、包み隠さず心情を述べるがいい」
「わかった」と、最後に純真な笑顔を見せてから、ティアは茂みの向こうに消えていった。
ピノとロロもそれに続き、後には俺とアイ=ファだけが残される。かまど小屋に向かう前に、俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
「そりゃあアイ=ファは優しいけれど、ティアだってそれに負けてないよな」
「ティアは、アイ=ファたちと言っていた。ことさら私の名前をあげるな」
照れ隠しのように、アイ=ファは俺の足を軽く蹴ってきた。
そのスキンシップを心地好く思いながら、俺は「さて!」と声をあげてみせる。
「それじゃあ俺も、仕事に励もうかな。アイ=ファは、ブレイブたちと修練だろ?」
「うむ。私もブレイブたちも、休んでばかりでは身体がなまってしまうからな」
というわけで、俺たちもそれぞれの仕事に取りかかることになった。
『暁の日』は、いまだ折り返し地点であるのだ。為すべきことは、まだ山ほど残されている。
しかし、ピノとティアの邂逅というのは、そんな俺の心にひと時の安らぎを与えてくれたように思えてならなかった。