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異世界料理道  作者: EDA
第四十七章 太陽神の復活祭、再び(上)
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紫の月の二十二日⑤~一段落~

2019.11/15 更新分 1/1

 楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまうものである。

《銀の壺》と建築屋が居揃ったその場所で会話をしている間に、半刻ばかりの自由時間はすぐに終わりを迎えることになってしまった。


「それじゃあ俺たちは、そろそろ失礼いたしますね。また夜にお会いいたしましょう」


「なんだ、もう戻っちまうのかよ? アスタたちは、さっき来たばかりじゃないか」


「申し訳ありません。またいずれ、ゆっくり語らせてください」


 シュミラル=リリンやリコたちにも挨拶をして、きびすを返す。もちろん俺としても後ろ髪を引かれる思いであったが、森辺では数々の仕事が待ち受けているのである。


 通りのほうは混雑しているので、屋台の裏側を通って自分たちの屋台を目指すことにする。青空食堂と隣接した屋台はルウ家の領分であり、そこではすでにレイナ=ルウたちが帰り支度を始めていた。


「やあ、お疲れ様。レイナ=ルウとシーラ=ルウは、集落に戻るんだよね?」


「はい。リミやララたちは、このまま宿場町に居残るそうです。町の人々と絆を深める、またとない機会ですからね」


 ルウルウを荷車に繋ぎながら、レイナ=ルウは笑顔でそう言った。


「ただ、このまま宿場町に居残るというのは、家に戻って下ごしらえの仕事を果たすのと変わらないぐらい力を使いそうなところですよね。特にリミは、夜の屋台の当番ですし」


「うん。だけどリミ=ルウなら、疲れよりも楽しい気持ちのほうがまさるはずさ」


 ただし、仕事を終えて集落に戻る荷車の中で、ころりと寝入ってしまうかもしれない。そうして体内の力を1グラムも残らずに使い果たしたら、さぞかし楽しい夢が見られそうなところであった。


 ちなみにこちらのメンバーだと、トゥール=ディンは宿場町に居残る予定になっている。夜に屋台を出す祝日だけは、さすがにファの家の下ごしらえを手伝うゆとりがなかったので、当番から外れてもらっていたのだが、菓子の下ごしらえだけならばそこまで急いで帰る必要もないので、下りの三の刻ぐらいまでは居残るつもりだと言っていたのだ。


「で、ふたりはけっきょく、集落に戻るのかな?」


 レイナ=ルウに別れを告げて、自分たちの屋台を目指しながら、俺はマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアの両名に聞いてみた。彼女たちも下ごしらえの当番ではなかったので、このまま宿場町に居残ることは可能であったのだ。

 しかしレイ=マトゥアは、笑顔で「はい」とうなずいていた。


「夜の仕事に備えて、昼の間は身を休めようと思います。だって、商売の後はあちこち屋台を巡ったり、また《ギャムレイの一座》の天幕に出向いたりする予定なのでしょう?」


「うん。俺はそうしようと考えているよ」


「でしたら、それにも備えたく思います! そんな楽しいことが待っているのに、眠たくなってしまったらもったいないですから!」


 レイ=マトゥアはあくまで、屈託がなかった。

 その無邪気な笑顔にこちらも微笑みを誘われながら、俺はマルフィラ=ナハムを振り返る。


「マルフィラ=ナハムは? レイ=マトゥアと同じような考えなのかな?」


「あ、い、いえ、わたしは……い、家で幼子たちの面倒を見ている姉の手伝いをしようかと思って……きょ、今日は多くの家人が町に下りているので、家では人手が足りていないはずですし……」


「えー! それじゃあわたしだけ、自分のことしか考えてないみたいですね!」


 レイ=マトゥアが大きな声をあげると、マルフィラ=ナハムはびっくりしたように目を泳がせた。


「も、も、申し訳ありません。け、決してそのような意味で言ったのではないですが……」


「あはは、冗談ですよー。でも、やっぱりマルフィラ=ナハムは立派だと思います!」


 レイ=マトゥアは、子犬が甘えるように笑っている。それに対するマルフィラ=ナハムは、ぎこちないながらもほっとした様子で口をほころばせていた。なんだか本当に、やんちゃな妹と生真面目な姉、という構図になってきたようである。


「ああ、お疲れ様でした、アスタ。もういつでも出発できますよ」


 と、ファの屋台まで戻ってみると、そこにはユン=スドラやライエルファム=スドラたちが待ちかまえていた。見れば、ギルルはすでに荷車に繋がれている。


「ああ、ありがとう。今日のユン=スドラはフォウの血族の取り仕切り役なのに、こっちの面倒まで見てくれたのかい?」


「あ、言われてみれば、そうでしたね。勝手な真似をして申し訳ありませんでした」


「とんでもない。すごく助かるよ。どうもありがとう」


 俺がそのように答えると、ユン=スドラはとても嬉しそうに微笑んでくれた。

 ユン=スドラだけは、このまま下ごしらえから夜の商売までぶっ続けで手伝ってもらう予定になっている。本人が、そのように希望した結果である。


「ディンやリッドの方々はみんな宿場町に居残るそうなので、森辺に戻る荷車はギルルとファファの2台だけです。もう1台は、トゥール=ディンが戻るときに乗って帰る手はずになっています」


「了解。それじゃあ、帰ろうか」


 フォウの血族も半数がたは居残るようで、その場にはユン=スドラとライエルファム=スドラとフォウの男女が1名ずつしか控えていなかった。こちらの4名と合計した8名で、2台の荷車と3台の屋台を運ぶことにする。ディンの家が借りつけた屋台は、ルウの血族の人々が運んでくれていた。


「それじゃあユーミにルイア、また夜にね。ジョウ=ランも、頑張って」


「うん。気をつけて帰ってねー」


 ユーミたちは、『キミュスの丸焼き』の第二陣に取りかかっているさなかであった。スタートが遅かった分、宿屋のメンバーはまだしばらくこの仕事に勤しむことになるのだ。

 

 そうして俺たちは帰路を辿ることになったわけであるが、街道は人間がひしめいているので、屋台や荷車を持ち出すのもひと苦労である。ふるまいの果実酒に酔いどれる人々と衝突しないように気をつけながら、俺たちは慎重に《キミュスの尻尾亭》を目指すことにした。


「あ、そうだ。森辺にはピノたちもご一緒するんだった。悪いけど、先に行っててもらえるかな?」


 マルフィラ=ナハムたちに荷車と屋台を託し、俺はアイ=ファとともに《ギャムレイの一座》の天幕へと引き返す。

 今日は見世物も休業であるので、天幕は静まりかえっている。そうして俺たちが入り口の前に辿り着くと、それを待ちかまえていたようなタイミングで幕が開かれた。


「お待ちしていたよォ、アスタにアイ=ファ。もう出発かァい?」


「あ、はい。お待たせしてしまって、どうも申し訳ありません」


「こんなのはアタシの我が儘なんだから、アスタが詫びる必要なんてありゃしないよォ」


 赤い唇を吊り上げて、ピノが微笑む。

 そのかたわらに、ひょろりとした人影が進み出てきた。


「あ、ど、どうも。おひさしぶりです、森辺のみなさん」


 それは、パントマイムの達人たる《騎士王》のロロであった。

 甲冑姿で町を練り歩く姿は見ていたが、素顔を拝見するのはこれが初めてである。俺は笑顔で「おひさしぶりです」と挨拶をしてみせた。


「ようやくお会いできましたね。お元気なような何よりです」


「あ、いえ、そんな、僕なんて、身体の丈夫さぐらいしか取り柄がないので……ど、どうもすみません」


 と、理由もなくぺこぺこと頭を下げ始める。そんな仕草も、懐かしい限りであった。

 ロロは、俺とそんなに年齢も変わらなそうな娘さんである。ただ、男ものの装束を纏っており、腰には鞘に収められた木剣を下げている。それで背丈は俺と同じぐらいもあり、おまけに起伏のないひょろひょろとした体格をしているために、一見では男の子のように見えてしまう。

 しかし、きょろんとした目が印象的なその顔はなかなか愛嬌があって、見る者を微笑ましい心地にしてくれるのだった。


 それに彼女はこう見えて、森辺の狩人を闘技の力比べで打ち負かせるような力量を有しているのである。ルウ家の祝宴では数多くの狩人たちが土をつけられ、最終的には勇者のラウ=レイが名乗りをあげるまで、その快進撃は止まらなかったのだった。


「森辺に来られるのは、ピノとロロのおふたりだけですか?」


「あァ。他の連中は、大神の民なんざに興味はないからねェ。コイツはひとりで退屈そうにしてたから、アタシが引っ張ってきたのさァ」


「ご、ご迷惑でしたら、戻ります。僕なんて、いてもお邪魔なだけでしょうから……」


「そんなことはありませんよ。ようやくお会いできたのですから、ご一緒できたら嬉しいです」


 俺がそのように答えると、ロロはしまりのない顔で、にへらっと笑った。いかにも気弱げで、なおかつ愛嬌にあふれた笑顔だ。


(うーん。こうしてみると、マルフィラ=ナハムとはそんなに似てないみたいだな)


 マルフィラ=ナハムと出会った当初、俺はこのロロを連想していたのである。ひょろりとした長身に自信なさげな態度というのが、両名の主たる共通点であった。

 しかし、俺もマルフィラ=ナハムと短からぬ時間を過ごし、ずいぶん性根が知れてきた。マルフィラ=ナハムは自信なさげで、自己評価も必要以上に低いように見受けられるが、それでも芯はしっかりとした女衆なのである。


 それに比べると、このロロはクラゲのようにふにゃふにゃとしていた。マルフィラ=ナハムよりも年長なのであろうが、ロロのほうが幼げな気性をしているように感じられる。それに、気弱なことは気弱であるのだが、それでいてカミュア=ヨシュのようにのほほんとした雰囲気を感じなくもなかった。


(だけどまあ、なかなか魅力的なお人ではあるよな)


 俺がそんな風に内心でひとりごちたとき、ピノが「さァて」と声をあげた。


「それじゃあ、荷車の準備をするからねェ。ちょいと待ってておくんなさいよォ」


「あ、おふたりだけなら、こちらの荷車でご一緒しませんか? この賑わいでは、荷車を引っ張り出すのもひと苦労でしょう」


「えェ? アタシらみたいな下賤の輩を荷車に乗せたら、馬鹿が伝染っちまうんじゃないのかねェ」


「俺は旅芸人の方々を、下賤の輩だなんて思っていません。宿場町に戻るのは下りの四の刻の半になりますが、それでよろしければどうぞ」


 ピノはしばし黙考したのちに、にっと微笑んだ。


「それじゃあ、お言葉に甘えようかねェ。帰りは、歩きでもかまわないからさァ」


「それでは、行きましょう」


 4名連れとなった俺たちは、あらためて街道に繰り出すことになった。

 そこかしこに置かれた酒樽を囲んで、人々は談笑のさなかである。そこに多数の森辺の民が入り混じっているのが、やはり新鮮な光景であった。


「まさか、こんなにたくさんの森辺の民が、町に下りてくるなんてねェ。去年とはあまりに様子が違うんで、アタシはビックリしちまったよォ」


「ええ。正直なところ、俺も驚いています。それと同時に、嬉しくてなりませんね」


 並み居る人々をひらひらと回避しながら、ピノは危なげなく街道を歩いている。その小さな姿を見下ろしつつ、俺は「そういえば」と胸中の疑念を呈してみせた。


「けっきょくピノたちは、『ギバの丸焼き』を口にしていないのですか? 最後まで姿をお見かけしなかったように思うのですが」


「あァ、あまりの賑わいに度肝を抜かれちまってねェ。顔を出す機会を逃しちまったのさァ」


 振袖のような袂をゆらゆらとひらめかしつつ、ピノはそう言った。


「それに、アタシらがギバ肉をいただいちまったら、町のお人らの取り分が減っちまうだろォ? だからなおさら、手を出しにくかったのさァ」


「うむ? お前たちが遠慮をする必要はあるまい?」


 アイ=ファが口をはさむと、ピノは「いえいえェ」と愉快げに言った。


「そこはやっぱり、線を引く必要があるんでさァ。流れ者の旅芸人が町のお人らのお楽しみを邪魔立てするってェのは、やっぱりつつしむべきなんでねェ」


「では、リコたちもギバ肉を口にしていないのだろうか?」


「おそらくねェ。ま、アイツらどう振る舞うかは、アイツらの勝手でさァ」


「そうか」と、アイ=ファは難しい顔をした。


「ならばやはり、我々はもっと多くのギバ肉を準備するべきなのであろうな。森辺の民も旅芸人も遠慮なく口にできるぐらいのギバ肉を準備すれば、より多くの喜びを分かち合えることであろう」


「そうだな。族長たちが了承するなら、俺は喜んで仕事に励むよ」


 そこで会話は終わったかに見えた。

 が、ピノが「それにねェ」と低くつぶやく。


「あの、頭巾と襟巻きでお顔を隠したお人が、じーっと屋台の様子をうかがってたろォ? そんな中、のこのこ姿を現す気にはなれなかったってェのも、正直なところだねェ」


「え……そうだったのですか?」


「あァ。あのお人は、どうせ貴族か何かなんだろォ? アタシは、貴族ってモンが苦手でねェ」


 体重を感じさせない軽やかさで歩を進めつつ、ピノが横目で俺を見上げてきた。


「しょせんアタシらは、王国を捨てた根無し草。王国を取り仕切る貴族や王族なんてモンとは、水と油なのさァ。あっちだって、旅芸人のロクデナシなんざに用事はないだろうしねェ」


「そうですか……でも、ニーヤなんかは城下町の通行証を持っているのでしょう? あれを発行できるのは、貴族だけなんじゃないですか?」


「そりゃあ、人それぞれってモンだねェ。旅芸人ってェのは好き勝手に生きるのが信条なんだから、おのおの好きにすりゃあいいのさァ。ただ、アタシは貴族なんざとお近づきになる気はないってこったよォ」


 それはまあ、理解できなくもない言い分であった。

 ピノは俺を見やったまま、妖しく唇を吊り上げる。


「ま、アタシらのことなんざ、気にかけるだけ無駄ってモンさァ。明日には正反対のことを言いたててるかもしれない、ロクデナシの集まりなんだからねェ」


「それでも俺は、気にかけますよ。いまのところ、ピノたちに信頼を裏切られたことはありませんからね」


「あァら、お優しい。うっかり惚れちまいそうだァ」


 ピノは、けらけらと笑い声をたてた。

 これも我が愛しき家長が嫌いそうなジョークであるが、アイ=ファは機嫌を損ねた様子もなく、ただ小さく溜め息をついている。どうやらピノは、アイ=ファを不快にさせないツボを熟知しているようだった。


 そうして俺たちは、《キミュスの尻尾亭》に到着する寸前で、先行の人々に追いつくことができた。

《キミュスの尻尾亭》もたいそうな賑わいで、入り口の前に出された椅子や卓では多くの人々が果実酒と『キミュスの丸焼き』を楽しんでいる。そしてその中には、なんとバードゥ=フォウの姿もあった。


「ああ、ようやく戻ったのか。ご苦労だったな、お前たち」


 ユン=スドラの率いるフォウの血族の面々が、敬意を込めて一礼する。その姿を見返しながら、バードゥ=フォウは照れ隠しのように微笑んだ。


「家人たちを働かせておきながら、家長の俺がこのように身を休めているのは、やはり心苦しいものだな」


「とんでもありません。それもまた、森辺の民には必要な行いであるはずです」


 もちろんユン=スドラは、明るい笑顔でそのように答えていた。

 バードゥ=フォウのかたわらには、フォウの若き男衆の姿もある。『ギバの丸焼き』が尽きるまではかまど番たちの働きを見届けて、その後にこちらまで移動をしたのだそうだ。何にせよ、町の人々と絆を深めるのは、森辺の民にとって大事な行いであるはずだった。


「さっきは美味いギバ肉をありがとうな! 仕事が終わったんなら、あんたたちも休んでいけよ!」


「おお、男ばかりで華やかさが足りていなかったからな!」


 町の人々も陽気に呼びかけてきてくれたが、今日のところは森辺に仕事を待たせている身である。俺たちは丁寧に辞去の挨拶をして、その場を離れることになった。

 宿の仕事を手伝っていたレイトに案内を頼んで、6台の屋台を返却する。これでようやく、帰宅の準備が整った。


「それではピノたちは、こちらにどうぞ」


 2台の荷車に対して10名の人間であるので、荷台にはゆとりがある。いちおうユン=スドラは昨年からのつきあいであるし、ライエルファム=スドラも昨日ピノと言葉を交わす機会があったので、そのおふたりに同乗を願うことにした。


「そういえば、ライエルファム=スドラはいったん集落に戻られるのですね」


「うむ。俺は家に伴侶と子供たちを残している身だからな。リィは気兼ねなく仕事を果たすようにと言ってくれたが……俺の気持ちが、それでは収まらんのだ」


 ライエルファム=スドラは昨日の昼からドーラ家の晩餐会まで同行しており、いったん家に戻ってから、今日の朝方にまたやってきたのだ。家で家族と過ごしたいという気持ちと、変わりつつある宿場町の様相を見届けたいという気持ちで、板挟みにされているのだろう。


「ホドゥレイル=スドラとアスラ=スドラが大きくなったら、みんなで一緒に宿場町まで来られますもんね。その日を、待ち遠しく思います」


「うむ。俺も同じように思っている。その頃には、俺も狩人の仕事から身を引いているやもしれんな」


 そう言って、ライエルファム=スドラはくしゃりと笑顔になった。

 ライエルファム=スドラは、もう10年も経たぬうちに50歳を超える年齢であるのだ。元気に育った双子の姉弟を初老のライエルファム=スドラがあやす姿を想像すると、微笑ましくてならなかった。


 そうしてアイ=ファの運転するギルルの荷車は、森辺へと通じる道をのぼり始めた。

 それに揺られながら、ピノは鼻歌でも歌いそうな様子である。


「あァ、もうすぐ大神の民の娘っ子とご対面できるんだねェ。なんだか胸が高鳴ってきちまったよォ」


「ふむ。お前はどうしてそのように、大神の民に固執しているのであろうな?」


 ライエルファム=スドラが問いかけると、ピノは「そうだねェ」と視線をさまよわせた。


「それはやっぱり、風聞でしか聞いたことのない大神の民ってェのがどんなシロモノなのか、そいつが気になっちまうんだろうねェ。これで待ち受けてるのが猿みたいな蛮族だったら、拍子抜けだけどさァ」


「猿というのはお前たちの同胞である黒猿しか知らんが、大神の民というのは狩人の魂を持つ一族であるようだぞ」


「ふゥん。だから、森辺の民とは相性がよかったってェわけかい」


 仕事中でないためか、ピノは年長のライエルファム=スドラに対しても気さくな様子であった。なかなかに興味深い組み合わせであり、なおかつ、おたがいに警戒心を抱いている様子はないようだ。


「そ、その猫は、本当にあなたに懐いているようですね」


 と、俺のほうにはロロが語りかけてくる。

 そのきょろんとした目は、俺の肩に鎮座する黒猫を怖々と見やっていた。


「はい。相性がよかったのでしょうかね。最初から、こんな風に懐いてくれています」


「す、すごいですね。その猫はピノやシャントゥの言うこともまったく聞かなくて、みんな痛い目にあわされていたのに……」


「そうらしいですね。ロロも引っかかれてしまったのですか?」


「あ、いえ、僕は……天幕中を追い回されることになりました」


 すると、ライエルファム=スドラと語らっていたピノがこちらに向きなおってきた。


「それでアンタは、最後まで逃げきってみせたもんねェ。猫よりすばしっこく動ける人間がいるなんて、アタシは想像もしてなかったよォ」


「え? だ、だけど、ピノだって引っかかれたりはしていないでしょう?」


「アタシはソイツがあきらめるまで、のらりくらりとかわしてただけだからねェ。こんなすばしっこい猫なんざと追いかけっこに興じるなんざ、考えただけで疲れちまうよォ」


 黒猫は、知ったことかとばかりにあくびをしている。つわものぞろいの《ギャムレイの一座》を苦悩させるなど、なかなかに大した器量なのかもしれなかった。


「でも、この黒猫は逃げ出したりしなかったのですか? そんなにすばしっこいのなら、いくらでも逃げられそうな感じがしますけれど」


 俺がそのように尋ねると、ピノは「あァ」と肩をすくめた。


「ソイツはきっと、野ッ原に逃げ出すよりはアタシらと一緒にいるほうが、食いっぱぐれもないってわかってたんだろうねェ。それでいて、アタシらには悪さばかりするんだから、まったく小憎たらしいヤツさァ」


「……では、そのように小憎たらしい存在を、私たちに押しつけようというつもりであったのだな?」


 御者台から、すかさずアイ=ファが声をあげてくる。

 ピノは「いえいえェ」と、それこそ猫のように笑った。


「アスタやアイ=ファのもとだったら、そんな悪さはしないと見込んでのお願いでさァ。もしもコイツが悪さをするようだったら、煮るなり焼くなり好きにしておくれよォ」


「どうして我々が、そのような罰を下す役割を負わねばならんのだ」


 きっとアイ=ファは人知れず、唇をとがらせていることだろう。

 その背中を見やりながら、ピノは声を殺して笑っている。


(そうか。よく考えたら、ピノもおもいっきり猫タイプだな)


 しかしまあ、それをアイ=ファに告げても、心を慰められることはないだろう。

 しかし、アイ=ファにアリシュナにヤミル=レイにピノと、俺がイメージする猫タイプの人間を並べたててみると、それはなかなかに強烈な魅力を持つ顔ぶれであるように思えてならなかった。


「うン? アタシの顔に、何かついてるかァい?」


 と、俺の視線に気づいたピノが、こちらを振り返ってくる。

 俺は「いえいえ」と手を振ってみせた。


「ぶしつけですみません。でも、ピノが楽しそうで何よりです」


「そりゃあ、アタシはご機嫌だけどさァ。……そういうアンタは、どうなんだい?」


「え? もちろん俺も、元気いっぱいですよ。待望の復活祭が、ついに始まったのですからね」


「うン、そいつはわかってるんだけどさァ……」


 と、ピノが膝を進めて、俺の瞳を覗き込んできた。

 人形めいた美貌が目の前に迫り、俺は思わずドギマギしてしまう。


「御身には指一本触れないんで、ご勘弁しておくれよォ。……うン、やっぱりねェ」


「な、何がでしょう? 俺の顔がどうかしましたか?」


「瞳にぽつんと、暗い影が浮かんでるよォ。……アスタはそんなに、あの襟巻き野郎の存在を苦にしてるのかァい?」


 それは、あまりに意想外な言葉であった。


「いえ。得意か不得意かでいえば、あまり得意なタイプではないかもしれませんけれど……そこまで気に病んでいるつもりはありませんよ」


「ふゥん。だったら、無意識の内に苦しんでるのかねェ」


 ピノは身を引くと、剥き出しの真っ白い足であぐらをかいた。


「人相見なんて、アタシの領分じゃないけどさァ。アスタのいつもキラキラしてるお目々がそんな風に曇っちまうと、やっぱりやるせないねェ。森辺のお人らも、気が気でないんじゃないのかァい?」


「……それはもしかして、フェルメスのことですか? ピノもフェルメスにお会いしたのですか?」


 ユン=スドラは別の屋台で働いていたので、フェルメスの接近にも気づいていなかったのだ。その顔には、いくぶん心配そうな表情が浮かべられていた。

 ピノは後ろの壁に寄りかかり、「ふン」と小さく鼻を鳴らす。


「名前なんざ知らないし、べつだん知りたいとも思わないねェ。だからアタシは、貴族なんざいけ好かないってんだよォ」


「貴族は、関係ないかもしれませんね。あのお人は、生まれや素性とは関わりのない部分で、少し変わり者なのだと思います」


 俺が明るくつとめた声でそのように告げてみせると、ピノは「あァ、そうかい」と肩をすくめた。


「ま、アタシには関係ないこった。何にせよ、アンタをそんな目つきにさせる人間とは、これぽっちも関わりたいとは思えないねェ」


 ピノもまた、独自の感性でフェルメスに反感を抱いたようだった。

 それは残念な話であったが――ただ俺は、別の角度から嬉しい気持ちを抱くことができた。


「ありがとうございます。ピノがそんなに俺のことを気にかけてくれているなんて、なんだか光栄です」


「ああン?」と、ピノは眉をひそめた。

 それから、赤い唇に苦笑をたたえる。


「まったく、イヤんなるぐらい真っ直ぐなお人だねェ、アンタは。日陰者のアタシには、眩しくて見てられないよォ」


「それは困りますね。これからも、ピノとは親しくおつきあいをさせていただきたく思います」


「はいはい、どうぞご勝手にィ」と、ピノはそっぽを向いて、血のように赤い舌をちらりと見せた。

 ただ、その切れ長の目もとには、微笑のさざなみが漂っている。それはなんだか、くすぐったいのをこらえているような表情に思えてならなかった。

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[気になる点] >おそらくねェ。ま、アイツらどう振る舞うかは、アイツらの勝手でさァ アイツら"が" ですね
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