紫の月の二十二日②~結集~
2019.11/12 更新分 1/1
「……先日の晩餐会から、まだ4日しか経ってはいないのですよね。なんだかもう、10日や半月は過ぎたような心地でした」
やわらかい声で、フェルメスはそのように言葉を重ねた。
きっと襟巻きの下では、可憐な少女のように微笑んでいるのだろう。不思議な色合いをしたヘーゼル・アイは、とても楽しげにきらめいている。
「あちらには、ジザ=ルウやゲオル=ザザたちもいらっしゃいましたね。東の民たちと歓談しているさなかであったので、声をかけるのは控えておいたのですが……察するに、あれが《銀の壺》なる一団なのでしょうか?」
「はい、そうです。ゲオル=ザザたちとは、この場で初めて顔をあわせることになりました」
「ゲオル=ザザたちも僕と同じように、復活祭の視察におもむいてきたわけですね。これで北の氏族も町の人間と絆を深めることがかなえば、ジェノスの行く末もいっそう安らかなものとなることでしょう」
フェルメスは、相変わらず優雅で物腰もやわらかかった。
その不思議な色合いをした瞳が、ふっとアイ=ファのほうに向けられる。
「ところでそれは、シムの猫であるようですね。ファの家に、また新たな家人を迎え入れることになったのでしょうか?」
「いや、これは……ゆえあって、一時的に預かっているだけだ。ファの家人に迎えるかどうかは、これから判じることになる」
すると、フェルメスから3歩ほど離れた場所に退いていたピノが、歌うような調子で声をあげた。
「ファの家のお人らにそんな厄介者を押しつけちまったのは、このアタシですねェ。心から、申し訳なく思っておりますよォ」
フェルメスは、いくぶんきょとんとした感じにそちらを振り返る。
まるで、それでようやくピノの存在に気づいたかのような素振りである。
「あなたが、ファの家にこの猫を? 見たところ、旅芸人の御方であるようですが……」
「えェ、アタシは《ギャムレイの一座》の軽業師、ピノってェ風来坊でございますよォ」
ピノの黒瞳は、探るようにフェルメスを見つめていた。
いっぽうフェルメスは、「ああ」と目を細めて微笑む。
「なるほど、《ギャムレイの一座》の御方でしたか。この年もジェノスにやってこられたのですね」
「おやァ、アタシらをご存知で?」
「はい。あなたがたは昨年の復活祭を終えたのち、モルガの森辺にてギバを捕獲したのだと聞いています」
フェルメスは、森辺の民に関する資料をすべて通読していたので、その一件についても了承済みであったのだ。
ピノは「ふうん……?」と小首を傾げてから、フェルメスと俺の顔を見比べた。
それから、ふわりと風に流されたような風情で、後ずさる。
「それじゃあアタシは、いったん失礼しましょうかねェ。また肉が焼ける頃にお邪魔いたしますよォ」
「あ、はい。みなさんにもよろしくお伝えください」
ピノは「はいなァ」と気安く手を振って、人混みの向こうに消えていった。
フェルメスはこちらに向きなおり、いくぶん申し訳なさそうに眉を下げる。
「もしかしたら、あの御方との語らいを邪魔してしまいましたか? それなら、お詫びを申しあげます」
「あ、いえ。ピノとは復活祭が終わるまで、いくらでも語らうことができますので」
なんとなく、本日ピノを森辺にお招きする、とは言いにくい雰囲気であった。こちらも色々と立て込んでいるので、フェルメスのお相手までしているゆとりはなかったのだ。
「そういえば、例の傀儡使いたちもジェノスに到着したようですね。とりあえず、ひとたび彼女たちを城下町の広場に招いてみてはどうかという話になっているようですよ」
と、フェルメスはあっさり話題を転じてしまった。
どうやらピノには、好奇心を刺激されなかったらしい。あのように特異な存在をスルーできるというのは、あまり普通でないように思えたが――俺としては、肩透かしの感も否めなかった。
(まあ、熱烈な好奇心を抱かれるよりは、マシか)
そんな風にこっそり考える俺に、フェルメスは目だけで微笑みかけてくる。
「傀儡使いたちがやってきてから、もう何日か経っているのでしょう? 『森辺のかまど番アスタ』の評判は如何なのでしょうね」
「かなりの好評であるようですよ。日に3度はお披露目しているという話です」
「それは何よりですね。まあ、彼女たちの腕であれば、それが当然なのでしょう」
と、フェルメスはヘーゼル・アイに悪戯小僧のような光を閃かせた。
「ところで彼女たちの演目に、僕がこよなく愛する物語は含まれていたのでしょうか?」
「ああ、『聖アレシュの苦難』というやつですね。残念ながら、リコたちが修練した演目には含まれていないそうです。あまりに古い物語なので、リコたちはその筋書きもよくは知らないとのことでしたね」
「そうですか。それは残念です。確かにあれは、古い古い御伽噺ですので……いまとなっては、知る人間も減ってきているのかもしれません」
フェルメスの瞳が、ふっと遠くを見るような眼差しに変じた。
その物語に、思いを馳せているのだろうか。
「あのような物語が風化してしまうのは、惜しいような気もしますが……それも致し方のないことなのでしょう。新たな物語が生まれるかたわらで、古き物語はゆっくりと消え去っていく。それは人の世においても同じことです」
「ええ、まあ、そうなのでしょうね。……でも、たとえ人々の記憶から完全に消え去ってしまったとしても、そういった物語が存在した事実が動くわけではありません。その物語が存在したことによって、新たな物語が生まれたということもあるのでしょうから、決して無意味ではないのだと思います」
「……ええ、その通りですね」と、フェルメスはまた無邪気に目を細めた。
「僕も、そのように思います。アスタと意見を同じくすることができて、心から嬉しく思います」
「あ、いえ、俺なんかはその場の思いつきを口にしているだけですので……」
「深い思索から生まれようとも、その場の思いつきで生まれようとも、真理の重さに変わりはありません。やはりアスタには、ガズラン=ルティムにも劣らぬ明哲さが備わっているのでしょう」
そんな途方もないことを言ってから、フェルメスはすみやかに身を引いた。
「あまり長居をしてはお邪魔でしょうから、僕もいったん失礼させていただきます。まだしばらくはこの賑わいを検分させていただきますが、どうぞお気になさらないでください」
「承知いたしました。どうぞお気をつけて」
フェルメスとジェムドもまた、人混みの向こうに消えていく。
俺が「ふう」と息をつくと、アイ=ファがすかさず顔を寄せてきた。
「大丈夫か、アスタよ?」
「え、何がだ? ご覧の通り、俺は元気いっぱいだよ」
アイ=ファは眉をきゅっと寄せつつ、俺の瞳を覗き込んできた。
すると、その肩の黒猫も「なあ」と小さく声をあげる。それがいささか心配げな声であるように聞こえたのは、俺の思い込みであろうか。
「べつだん、不穏な会話ではなかっただろ? 何も心配することはないさ」
それでもアイ=ファはしばらく俺の瞳を見つめてから、無言のままに身を引いた。
ギバを刺した鉄串を回していたマルフィラ=ナハムと、火鉢の火の確認をしていたレイ=マトゥアも、いささか心配そうに俺を見やっている。
「このような日にまで、王都の貴族が姿を現すとは思ってもいませんでした。貴族たちも、この時期は忙しくしているという話なのですよね?」
「うん。だけどあのお人らは、ジェノスの様子を検分するのがお仕事だからね。ああやって宿場町にまでやってくるのも、お仕事の一環なんだろうと思うよ」
そして俺たちの仕事は、この『ギバの丸焼き』の配布である。フェルメスと親睦を深めるというのは俺の中の大きな課題であったが、それに取り組むのはまた別の機会を待ちたかった。
「いい具合に仕上がってきたね。これなら中天には、しっかり間に合うと思うよ」
「そ、そ、そうですか。な、何も不備がなければ、幸いです」
何も不備などあろうはずもない。『ギバの丸焼き』においてもっとも重要なのは、長きの単純作業に耐える根気と集中力であるのだ。その一点において、森辺のかまど番というものは実に優秀な資質を備えていたのだった。
「よお、やっているな」と、また屋台の向こうから声をかけられた。
誰かと思えば、デルスとワッズである。ワッズは大あくびをしており、デルスは仏頂面であった。
「いらっしゃいませ。もう間もなく、肉を配る頃合いですよ」
「そう思って、急いで駆けつけてきたのだ。こいつが昨晩、馬鹿騒ぎをしたせいで、こんな時間まで眠りこけることになってしまったからな」
「何だよお。デルスだって、楽しそうにしてたじゃねえかあ」
「何が楽しいものか。まさか南の王国の外で、あんなやつらと夜を明かすことになろうとはな」
あんなやつらとは、もちろん建築屋の一行についてであろう。
ワッズはにやにやと笑いながら、低い位置にあるデルスの肩を小突いた。
「ネルウィアの連中には、デルスのことも知れ渡ってたみたいでなあ。だけどみんな気のいい連中だから、最後には楽しく酒を酌み交わせたよお」
「それは何よりでした。おやっさんの息子さんたちとも、和解できましたか?」
「和解っていうか、上の坊主はデルスのことを怖がってたみたいだなあ。デルスが家にいたころは、亡くなった親父さんとしょっちゅう大声で怒鳴り合ってたみたいだからよお」
「おい、余計なことを言うな」と、デルスはますます顔をしかめてしまう。
当事者にとっては笑いごとではないのだろうが、傍から聞いている分には微笑ましく感じられなくもないエピソードである。
「そういえば、おやっさんたちはまだいらっしゃっていないのですよね。まだ宿屋でお過ごしなのでしょうか?」
「知らん。俺には関係ない話だ」
すると、横を向いたワッズが「おお?」とおかしな声をあげた。
「なんだか腕っぷしの強そうな連中がぞろぞろやってきたなあ。あの格好は、森辺の民だろお?」
覗いてみると、確かに森辺の民の一団がこちらに近づいてきていた。あれは――族長筋ならぬ氏族の人々のようである。その中に、つるつるの禿頭を見出した俺は、「アイ=ファ」と呼びかけることになった。
「それに、マルフィラ=ナハムも。ついに、デイ=ラヴィッツのご登場だぞ」
「そ、そ、そうですか。よ、予定通り、ラヴィッツの方々もいらっしゃったのですね」
鉄串の担当をレイ=マトゥアと交代しながら、マルフィラ=ナハムはあたふたと視線をさまよわせる。
デルスは「ふん」と鼻を鳴らして、きびすを返した。
「俺たちの見知った相手ではないようだな。ルウ家の連中にでも挨拶をしてくるか」
「あ、食堂のほうに最長老がいらっしゃいますよ。東の方々もいらっしゃいますけども」
「東の連中が、西の地で喧嘩を売ってくることもないだろうよ」
それだけ言って、デルスはさっさと立ち去ってしまった。
ワッズものんびりとした足取りでその後を追い、代わりに俺たちの前に立ったのは、デイ=ラヴィッツとその伴侶たるリリ=ラヴィッツである。
「お、お、お疲れ様です、ラヴィッツのみなさん。きょ、今日は宿場町で働くことを許していただき、こ、心から感謝しています」
「……それは、家長同士で話し合って決めたことだ。お前なんぞに礼を言われる筋合いはない」
愛想もへったくれもない声で言い、デイ=ラヴィッツは屋台の内側を見回してきた。
その目がアイ=ファを捕らえるや、額にひょっとこのような皺が刻まれる。
「何だ。お前は何を肩に乗せている?」
「これは、シムの猫なる獣だ。……ひさしいな、デイ=ラヴィッツよ」
「そんな挨拶はどうでもいい。それは何だと問うているのだ」
「だから、猫なる獣だ。ゆえあって、ファの家で預かることとなった。こやつが悪さをしなければ、家人に迎えるべきか検討しようと考えている」
「なんだと?」と、デイ=ラヴィッツは片方の眉を吊り上げた。そうすると、ますますひょっとこのような顔になってしまう。
「どうしてお前はそうやって、得体の知れないものを森辺に招き入れようとするのだ。ファの家を、得体の知れないもので埋め尽くそうという考えであるのか?」
「アスタやティアは、得体の知れないものではない。むろん、族長らが否というのなら、その言葉に従う所存だ」
「にゃう」と、黒猫が非難がましく声をあげた。
アイ=ファは横目で、そちらをねめつける。
「森辺には、森辺の掟が存在する。それを不服と思うなら、最初から森辺の家人となる資格はない」
「なうう……」
「なんだ、すっかり家人として手懐けているではないか」
「そのようなことはない。……というか、デイ=ラヴィッツもそのような話をするために、宿場町まで下りてきたわけではあるまい?」
「そうだぞ!」という大きな声にびっくりして振り返ると、横から大柄な狩人が進み出てきた。ラッツの若き家長である。
「俺たちにとっては、ひさかたぶりの宿場町であるのだ! というか、生まれて初めてのやつだっているのではないか? 町の連中と正しき絆を結びなおすと決めたからには、俺たちも相応の振る舞いをするべきであろうよ!」
そんな風に言いたててから、ラッツの家長は俺とアイ=ファに陽気に笑いかけてきた。
「息災そうだな、アイ=ファにアスタよ! そのギバも、実に美味そうな感じに焼きあがっているではないか!」
「あ、はい。中天には配り始めますので」
「うむ。しかし、俺たちがあまり欲ばると、町の連中の取り分がなくなってしまおうな。何せ、この人数であるのだ」
この人数と言われても、屋台の内側からは全容を把握しきれない。それぐらいの人数であったのだ。
「この人数では荷車にも乗りきれなかったから、大半の連中は歩いて町まで下ってきたのだ! 今日という日は、ほとんどの氏族が狩人の仕事を休んでいるかもしれんな!」
「きっとそうなのでしょうね。今日は町でも、日中に働くことを禁じられている人々が多いのですよ」
そう考えると、森辺の民までもが知らずうち、ジェノスの習わしに従っている感がなくもなかった。
森辺の狩人も猟犬を手に入れて以来、仕事を休むゆとりと必要性が生まれたのだ。ならば、こうして祝日に休んで復活祭を楽しむというのは、理にかなっているような気もした。
「いっそ俺たちは、『キミュスの丸焼き』とかいうやつを口にするべきかもしれんな。こんなことでもなければ口にする機会もないのだから、それも一興だ!」
ラッツの家長は、実に楽しげな様子であった。
そしてその後には、さまざまな氏族の人々が挨拶をしてくれた。ラッツの眷族であるミームとアウロ、ガズとマトゥア、ベイムとダゴラ そしてスン――本当に、すべての氏族が集結してしまいそうな勢いである。
そして最後のほうで、モアイのごとき大男、モラ=ナハムがのそりと出現した。ラヴィッツの眷族たるナハムとヴィンも、もちろん参じていたのである。
「……マルフィラ、力を尽くしているか?」
「う、う、うん。ど、道具さえそろえることができれば、ラヴィッツの祝宴でも『ギバの丸焼き』を準備できると思うよ」
「へー! だけど、ただ焼いただけのギバが、そんなに美味しいの?」
と、小さな人影がモラ=ナハムの背後からひょこりと現れた。
金褐色の髪をした、なかなか可愛らしい娘さんである。くりくりとした丸い瞳は、どこかリミ=ルウやレイ=マトゥアと似た無邪気さをたたえている。
「そ、そ、それは自分で確かめてみればいいよ。ラ、ラ、ラヴィッツの人たちだって、そのつもりなんだろうし」
「うん、そうだよね! 今日は干し肉も食べてこなかったから、お腹ぺこぺこなんだー!」
そう言って、その娘さんは淡い茶色の瞳を俺のほうに向けてきた。
好奇心に満ちみちた眼差しである。ナハムの血族なのであろうが、髪の色以外はモラ=ナハムともマルフィラ=ナハムとも似たところはなかった。
「あ、こ、これは末の妹です」と、マルフィラ=ナハムが慌てた様子で声をあげる。
その言葉に俺が「えっ!」と驚くと、末妹は屈託なく微笑んだ。
「すごい驚きかた! あたしそんなに、マルフィラ姉とかモラ兄と似てないですかー?」
「え、あ、うん。まあ、妹さんとは思わなかったよ」
「いいんです! 集落でも、しょっちゅう言われてますから!」
末妹は、にこーっと微笑んだ。そういう部分が、まったく似ていないのである。
「それじゃあ頑張ってね、マルフィラ姉! あたしは、あちこち見て回るから!」
子ウサギのように身をひるがえす妹を、モラ=ナハムはのしのしと追いかけていく。それを見送っていたレイ=マトゥアは、「あはは」とマルフィラ=ナハムに笑いかけた。
「すごく元気な妹ですね! わたしよりも、少し若いぐらいでしょうか?」
「は、は、はい。レ、レイ=マトゥアのひとつ下であるはずです」
「12歳ですかー。それならこれから、背がのびるのかもしれませんね」
そんな風に言ってから、レイ=マトゥアはいっそう楽しそうに笑顔を作った。
「わたし、マルフィラ=ナハムは喋りやすいなーって思ってたんです。それはもしかしたら、マルフィラ=ナハムにああいう妹がいたからなのかもしれませんね」
「しゃ、しゃ、喋りやすいですか? そ、そんな風に言われたのは、初めてです」
「喋りやすいですよー。わたし、マルフィラ=ナハムのこと、大好きです」
マルフィラ=ナハムは怒涛の勢いで目を泳がせたが、最終的にはレイ=マトゥアの笑顔に視線を定めて、ぎこちなく微笑んだ。
「あ、あ、ありがとうございます。そ、そんな風に言ってもらえたのは初めてなので、すごく嬉しいです」
「えへへ。最近はマルフィラ=ナハムと一緒に働く機会が増えて、わたしも嬉しく思っていました」
なんとも微笑ましいやりとりである。
俺が温かい気持ちでそれを眺めていると、「あの……」と別の人間が呼びかけてきた。誰かと思えば、リコである。
「あ、リコ。いつの間にか、来てたんだね」
「はい。昨晩はラッツの家にお邪魔していたので、さきほどのみなさんと一緒に下りてきたのです」
リコのかたわらには、もちろんベルトンとヴァン=デイロも控えていた。ヴァン=デイロはアイ=ファと目礼を交わし、ベルトンはそっぽを向いている。
「こんなにたくさんの森辺の方々が町に下りるのは、おそらく初めてだろうというお話でしたね。みなさん、宿場町がどのような様子であるのかと、とても楽しみにされているご様子でした」
「うん。普段は女衆が屋台の手伝いや買い出しで下りてくるぐらいだからね。男衆の中には、本当に初めての宿場町っていう人もいるんじゃないかなあ」
そんな風に答えながら、俺は屋台の外を見回してみた。
あまりの大人数であったために、人々はかなり遠くのほうまで散った様子である。そうでもしなければ、屋台の前の街道は森辺の民で埋め尽くされてしまっていたことだろう。
それでもやはり、かなりの比率で森辺の民が入り混じっている。その中で、ラッツの家長を始めとする豪胆な男衆などは、早くも果実酒の樽に群がっていた。
そうすると、嫌でも町の人々と顔を突き合わせることになる。昨年のダン=ルティムのように、笑顔で酒を酌み交わせるように祈るばかりである。
「すごいなあ。昼のうちから、こんなにたくさんの人たちが下りてくるとは想像してなかったよ」
俺が呼びかけると、アイ=ファは「そうだな」とうなずいた。
「無法者と諍いが起きぬか、いささか心配なところであるが……しかしまずは、多くの森辺の民がこのような心情に至ったことを喜ぶべきであろう」
「うん。俺もそう思うよ」
俺がそのように答えたとき、新たな一団が屋台の前に立った。
それもまた、俺たちが待ち焦がれていた人々である。
「ああ、シュミラル=リリンにヴィナ・ルウ=リリン。それに、ギラン=リリンとウル・レイ=リリンも……ようこそいらっしゃいました」
「うむ。息災なようだな、アイ=ファにアスタよ」
目もとの笑い皺を深くしながら、ギラン=リリンが微笑んだ。そのかたわらで、3名の家人はいずれも穏やかに微笑んでいる。
「リリンは幼子が多く、家人の全員が町に下りることはできんのでな。今日は本家、次回は分家と、日を分けることにした。そら、お前も挨拶をするがいい」
ギラン=リリンが、足もとの愛息を抱きあげた。たしか5歳になったばかりの、本家の長兄である。宿場町の熱気にあてられたのか、その男の子は頬を赤く火照らせながら、ぺこりと頭を下げてきた。
「それで行きがけには、ルティムの家にも立ち寄ったのだが……ああ、ようやく追いついてきたな」
そんなギラン=リリンの言葉とともに姿を現したのは、ガズラン=ルティムとモルン=ルティム、それにディック=ドムである。シュミラル=リリンとガズラン=ルティムが立ち並ぶと、俺の胸にはえもいわれぬ喜びがあふれかえった。
「ようこそです。『ギバの丸焼き』の配布に間に合いましたね」
「はい。ここに至るまで、多くの氏族の人間と出くわすことになったので、挨拶を交わしていたら時間がかかってしまいました」
ゆったりと微笑みながら、ガズラン=ルティムはそう言った。
「こちらには、ラッツやラヴィッツの家長らもいるようですね。本当に、すべての氏族の人間が下りてきているのかもしれません」
「はい。俺が見かけていないのは……サウティとダイの血族だけだと思います」
「ダイの人々は、向こうでバードゥ=フォウらと語らっていました。ダリ=サウティは間違いなくやってくるでしょうから、どうやら勢ぞろいも夢ではないようですね」
ガズラン=ルティムの目は、満足そうに細められていた。
きっとさきほどの俺やアイ=ファと同じ感慨を噛みしめているのだろう。
「荷車も、まったく足りていないようです。ラウ=レイにヤミル=レイ、それにバルシャやミケルたちなども、徒歩で道を下っていたので、間もなく到着するかと思います」
「そうですか。本当にすごいですね。……あ、シュミラル=リリン、あちらに《銀の壺》の方々がいらっしゃいますよ」
「はい。ですが、急ぐ理由、ありません。今日、どちらも、休日ですので」
そう言って、シュミラル=リリンはやわらかく微笑んだ。
「私たち、このまま夜まで、宿場町、留まる予定です。交流、深めたい、思います」
「そうなのですね。ラダジッドたちも、思わず笑顔になってしまいそうです」
「それもまた、一興です」
可笑しそうに目を細めてから、シュミラル=リリンはアイ=ファのほうに視線を転じた。
「ところで、アイ=ファ、何故、猫、乗せていますか?」
「これは、ゆえあって預かることになったのだ。……昨日からもう、何度同じ言葉を繰り返したかわからぬな」
仏頂面で答えてから、アイ=ファはわずかに身を乗り出した。
「待て。そういえば、お前はシムの生まれであったな。この猫というものについて、何か注意するべきことでもあれば、教えてもらいたい」
「はい。とりたてて、注意、必要ありません。というか、注意する段階、過ぎています」
「ふむ。注意する段階を過ぎている、とは?」
「はい。シムの猫、獰猛です。相手、気に食わなければ、牙、剥きます。そして、逃げ出します。そのように、大人しくしている、アイ=ファ、懐いている、証です」
アイ=ファは口をへの字にして、左肩の黒猫をねめつけた。
黒猫はすました顔で、「にゃあ」と鳴く。
「また、シムにおいて、黒、神聖な色なので、黒猫、吉なる存在、されています。森辺において、どうかわかりませんが、ファの家、幸い、もたらすかもしれません」
「……お前は何故に、こやつに肩入れするのであろうか?」
「肩入れ、していません。事実、語っています」
そう言って、シュミラル=リリンはまたやわらかく微笑んだ。
「なおかつ、黒猫、警戒心、強く、なかなか懐かない、言われています。アイ=ファ、善良なる魂、感じ取り、心、許したのでしょう」
「いや。こやつはそもそも、アスタに懐いておったのだ。私に対しては……そうしたほうが得だと考えているように思えてならん」
「では、アスタ、善良な魂、感じ取ったのでしょう」
シュミラル=リリンの黒い瞳が、俺のほうに向けられる。
いくぶん照れ臭くなりながら、俺はそちらに笑顔を返してみせた。
「俺より善良な人間なんて、いくらでもいることでしょう。俺の目の前にいる御方なんて、その筆頭です」
「いえ。アスタ、かないません。アスタ、善良のみならず、勇敢、そして、聡明です」
「いえいえ、その言葉はそっくりお返しいたしますよ」
すると、ヴィナ・ルウ=リリンが「もう……」と笑いを含んだ声をあげて、シュミラル=リリンの腕にからみついた。
「ちょっとひさびさだからって、またアスタと楽しそうにたわむれちゃって……あまり伴侶をないがしろにしないでもらえるかしらぁ……?」
「まったくだな。ひさびさといっても、10日も空いてはいないではないか」
ギラン=リリンは愉快そうに笑い、ウル・レイ=リリンもくすくすと忍び笑いをもらした。
それからギラン=リリンは、晴れ渡った天空へと目を向ける。
「さて……そろそろ中天だな。俺たちは毎日ギバの肉を腹に収めているのだから、まずは町の人間に譲るべきであろうよ」
ギラン=リリンの言う通り、『ギバの丸焼き』もすっかり仕上がったように思えた。
いまだ姿を見せていない人々もいるのだが、あとはギバ肉が尽きる前に参じてくれることを祈るしかない。シュミラル=リリンたちから授かった温かい気持ちを胸に、俺はギバ肉を切り分ける準備を始めることにした。