紫の月の二十一日③~黒き小さなもの~
2019.10/26 更新分 1/1
内幕で仕切られた通路を数メートルほど進むと、ついにギバのエリアへと到着した。
1年前、ピノたちがルウ家の狩人とともに森に入り、捕獲したギバである。
その姿に、俺たちは大きな驚きを禁じ得なかった。
「え……こ、これがあのときのギバなのですか?」
「そうだよォ。何かおかしなところでもあるかァい?」
何もおかしなところはない。黒褐色の短い毛並みに、雄々しく反り立った角と牙。ずんぐりとした胴体に、短めの四肢。頭頂部から背中にまで生えのびた、モヒカンを思わせる硬そうなたてがみ――すべてが俺たちの知る、ギバの姿だ。
ただおかしいのは、その大きさであった。
縄を張られた雑木林の中でゆったりとくつろいだそのギバは、体長が1・5メートルほどにも及んでいたのである。
丸っこい胴体にはみっしりと肉がついていたので、重量も100キロではきかないだろう。森辺においても、中型以上と認定されるサイズであった。
「ギ、ギバというのは、たった1年でこれほど大きくなってしまうものなのですか? 森から持ち帰ったときは、こんな小さな赤ん坊でしたよね?」
獣使いのシャントゥが、幼いギバを愛おしげに抱いていた姿は、いまでも脳裏にくっきりと残されている。あのギバの体長は、せいぜい30センチていどであったはずだった。
「さあてねェ、何せアタシらはギバを育てるのも初めてなもんだから、こいつが並より大きいのか小さいのかも判断がつかないんだよォ。そういう話は、狩人サンがたに聞くべきじゃないかねェ?」
「いや。俺たちも、ギバが1年でどれだけの成長を遂げるかなどは、知るすべもない。……しかし、ギバというのはどれだけ狩りたてようとも、なかなか数が減じたりはしないものだからな。やはり、人間よりは早く育つものであるのだろう」
そんな風に言いながら、ライエルファム=スドラは真剣な眼差しをギバに注いでいた。
「……何にせよ、このギバが人間を襲うことはないのだろう。さきほどの黒猿と同じように、とても穏やかな眼差しをしているようだ」
「そりゃあもちろん、アタシやシャントゥ爺が手塩にかけて育てたギバですからねェ。どんなに腹を空かそうとも、人間様に牙を剥くことはありゃしませんよォ」
確かにそのギバは、とても穏やかな目つきをしていた。
これだけ大勢の人間に囲まれながら、恐れる様子も気を立てる様子もない。森辺の狩人から聞き及ぶギバとは、まったく掛け離れた姿であった。
「ふーん、すごいねー! 人間に育てられると、ギバはこんなに大人しくなるんだー!」
リミ=ルウは、はしゃいだ声をあげている。その腕に取りすがったターラも、恐怖ではなく好奇心に満ちた目でギバを見つめていた。
「だったら森のギバたちも、リミたちが仲良くしてあげたら大人しくなるのかなあ?」
「それは無理だな。すべてのギバに自由を与えたら、森の恵みは喰らい尽くされてしまうのだ。それではいずれ、森が死に絶えることとなろう」
アイ=ファがひざまずき、リミ=ルウの無邪気な顔を間近から見つめつつ、言った。
「そうして森が死に絶えれば、ギバは外界に出ることになる。さすれば今度は外界の恵みを巡って、人間と争うことになってしまうのだ」
「あァ、確かにコイツは、底抜けに大喰らいなんだよねェ。こんな大喰らいが千や万も控えてるってェんなら、どうしたって間引く必要があるんだろうさァ」
そう言って、ピノもリミ=ルウに微笑みかけた。
ちょっと普段とは異なる、幼子をあやす母親のごとき表情である。
「アルグラの獅子やガージェの豹なんかも、放っておいたら人間に害を為す存在だからねェ。人間様がこの世を統べようってんなら、どうしたって刃を交えることになっちまうもんなのさァ」
「ふーん……ヒューイやサラと一緒に暮らしてるあなたたちは、それで悲しくなったりはしないの?」
リミ=ルウの瞳は、どこか真剣な光を帯びているようだった。
それをかわすように、ピノはくいっと唇を吊り上げて、普段通りの不敵な表情をこしらえる。
「そういう難しいことを考えたくないから、アタシらは根無し草として生きてるのさァ。獅子も豹も黒猿もギバも、人の世では忌まれる存在だけれども、アタシらと一緒なら気ままに生きていくことができるしねェ」
「我々は、同じ森の子であるギバを忌んだりはしない。ただ、その日の生命を得るために、おたがいの生命をぶつけあっているのみであるのだ」
「ああ、狩人サンってのは、そうなんだろうねェ。マサラやドラッゴの狩人サンだって、豹や獅子を忌んだりはしていないだろうからさァ。……人間に害を為す獣を忌むってェのは、石の都の理なんでしょうよォ」
いよいよ愉快そうに笑いながら、ピノはひらりと身をひるがえした。
「ま、アタシらはそんな理からも背を向けたはみだしモンだから、なァんもエラそうなことは言えませんよォ。凶悪な獣を手なずけて悦に入る、ひねくれモンの集まりってことさァ」
「うむ。しかしこうして生きたギバの姿をさらすことで、何らかの意味を生むことはあるのだろう。何にせよ、森を離れたこやつはすでに森の子ではないのだから、お前たちの同胞として生きていく他あるまい」
そんな風に言いたてたのは、ライエルファム=スドラであった。
「そうそう」と、ピノは歌うように応じる。
「言ってみりゃあ、そのギバは聖域を離れた大神の民みたいなモンなんでしょうよォ。山を下りた狼が犬に転じたってェのと同じように、そいつもギバでない何かに転じたってェことなんでしょうねェ。姿かたちは一緒でも、魂の色合いはもう別モンなんだと思いますよォ」
「ふむ。お前たちも、大神の民というものを知っているのだな」
「そりゃあもちろんさァ。なかなかお目にかかる機会はありゃしませんけどねェ」
ライエルファム=スドラは口をつぐみ、俺とアイ=ファのほうを見やってきた。
そういえば、ティアの存在はまだ打ち明けていなかったのだ。これはべつだん秘密ごとではなかったので、いまが打ち明けるタイミングなのかもしれなかった。
「実はその大神の民に連なる娘さんを、ファの家でお預かりしているのですよね」
通路を歩き出そうとしていたピノが立ち止まり、こちらを振り返ってきた。
その顔には、ピノとしては珍しくきょとんとした表情が浮かべられている。
「大神の民に連なる者って……そいつは、なんの話かねェ? 大神の民ってェのは、外界の人間と交わらないのが信条だろォ?」
「はい。ただちょっとわけあって、森辺に身を寄せているのです。怪我が治ったら、聖域に戻る予定なのですが――」
俺の言葉が終わる前に、ピノがとんと地を蹴った。
次の瞬間には、俺の目の前にその姿が迫っている。頭ひとつぶん低い位置から、ピノは俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「森辺において、虚言は罪だよねェ? ってことは、アタシをからかってるんじゃなく……本当に、大神の民の娘っ子が森辺に身を寄せてるってェのかい?」
「え、ええ。あくまで、一時的にですけれども」
俺の返答に、ピノは「へえッ!」と声を張り上げた。
切れ長の目が大きく見開かれて、黒い瞳をあらわにしている。それは黒い宝石のようにきらめいて、好奇心を爆発させていた。
「なんてトンデモない話だろうねェ! 大神の民が、森辺の客分! カミュアの旦那やリコたちは、そいつを承知してるのかい?」
「はい。どちらもすでに、顔をあわせておりますよ」
「はァん! リコたちはともかく、カミュアの旦那は人が悪いねェ! あんなのほほんと笑いながら、そんな愉快な話を隠していたのかい! ああもう、次に会ったらあのとぼけたお顔をひっぱたいてやらないと、とうてい気が済まないねェ!」
「あ、いや、カミュアも打ち明ける機会を逃しただけなのではないですか? まだ軽く挨拶をしただけなのでしょう?」
「いーや! あのお人は、こうしてアタシらが驚くのをほくそ笑んでるに決まってるさァ! なんなら、銅貨10枚を賭けたってかまわないねェ!」
森辺で賭け事は推奨されていないし、そもそもあまり分のいい賭けではないようだ。あのカミュア=ヨシュであれば、そういった悪戯心をぞんぶんに備え持っているはずだった。
「……アタシらも、その娘っ子にご挨拶させてもらうことはできるのかねェ?」
と、いくぶん声のトーンを落としながら、ピノはそのように言葉を重ねた。
わずかに身を引き、上目遣いに俺を見やっている。なんというか、菓子をねだる幼子のような仕草である。
「王国の法を破るような真似をしなければ、べつだん顔をあわせることは禁じられたりしていませんけれども……でも、会ってどうしようというのです?」
「なんも企んじゃいないよォ。その娘っ子が聖域を捨てたってェんなら、是が非でも一緒に連れ回したいところだけどねェ。いずれ聖域に戻るってェんなら、大神の民がそんな話に興味を持つわけもないしさァ」
「それでも、会いたいのですか?」
「そりゃあ会いたいさァ。こんなのは、一生にいっぺんの機会かもしれないだろォ?」
ピノがこれほどまでに個人的な願いを申し出てくるのは、きわめて珍しいような気がした。
俺としては、ピノの真情を疑う気はない。が、俺ごときが安請け合いしていい話ではないはずなので、最愛なる家長へと視線をパスする。
アイ=ファはしばらくピノの姿を見やってから、「承知した」と言った。
「念のために、族長ドンダ=ルウに話を通させてもらおう。それで許しが出たならば、ファの家を訪れるがよい」
「ありがとさァん!」と、ピノは両手を大きく広げた。
幅広の袂が、ライオウの翼のようにふわりと広がる。
「ホントにありがたい話だねェ。アンタの顔中に接吻してやりたい気分だよォ」
「うむ。不思議と、お前の戯れ言は腹が立たぬな」
「そりゃあ節度をわきまえているからねェ。本当にそんな真似をしたら、せっかくの約束を反故にされちまうだろうしさァ」
と、最後は彼女らしく、にいっと唇を吊り上げるピノであった。
すると、通路の最果てからまた「おおい!」とラッド=リッドの声が聞こえてくる。
「いつまでギバにかまけておるのだ? いい加減に待ちくたびれてしまったぞ!」
その声に応じて歩を進めると、途中で木の上の岩蜥蜴と出くわした。シャントゥの荷車を引いていた、2頭の大蜥蜴である。尻尾を含めれば3メートルはあろうかという巨体であるので、それも間近で見れば圧巻だ。
そうして突き当たりには幕があり、その手前にアルンとアミンの姿があった。この先はおそらく曲芸を見せる広間であるので、俺たちが追いつくのを待っていてくれたのだろう。
「そ、それではどうぞ。こちらは、獣使いの舞台でございます」
双子のようによく似た幼子のかたわれ、おそらく女児のアミンと思われるほうが口上を述べて、幕を開けてくれた。
そこに足を踏み入れるなり、ラッド=リッドや何名かの者たちは「おお!」と驚きの声をあげる。そして、リミ=ルウとターラは歓声をほとばしらせた。
「わーい! ヒューイにサラ、ひさしぶりー!」
そこは5メートル四方ぐらいの、内幕で仕切られた広間であった。
切り開かれたスペースであるために、樹木が生えたりはしていない。その真ん中に、獣使いのシャントゥと2頭の獣が立ちはだかっていた。
「旧知の方々も、お初にお目にかかる方々も、ようこそおいでくださった。どうぞこの老いぼれの芸をご堪能あれ」
シャントゥが、とても穏やかな面持ちでそのように言いたてた。
白い髭を胸もとまで垂らした、仙人のようなご老人である。痩せた身体には黒と灰色がまだらになった、ボロ布のような長衣を纏っている。
その両脇に控えているのは、アルグラの銀獅子たるヒューイと、ガージェの豹たるサラであった。
初見の人々には、その姿だけで驚嘆に値するだろう。淡い灰色の毛並みと水色の瞳を持つヒューイも、豹柄の毛並みにサーベルタイガーのごとき牙を持つサラも、この近在ではまずお目にかかる機会のない獣であった。
それにやっぱり、猫科の大型獣というのは、独特の優美さを持っているように感じられる。とても雄々しいのに、どこか優雅さが漂うそのたたずまいは、黒猿やギバとも一線を画する存在であった。
「なんと力にあふれた獣だ。これが野にあれば、ギバに劣らぬ脅威となろうな」
チム=スドラが感じ入ったようにつぶやくと、伴侶のイーア・フォウ=スドラが「そうですね」と笑顔で応じた。
「でもあの獣たちは、猟犬のように賢そうな眼差しをしています。人間と心を通じ合わせているのでしょうね」
そうして、サラとヒューイの芸が始められた。
シャントゥの投じたボールでリフティングをしたり、口笛に応じてさまざまな動きを見せたりと、やはり見事なものである。初見の人々はもちろん、1年ぶりの俺たちも、ぞんぶんに楽しむことができた。
「さて。どなたかこのサラの上に乗ってみたいという御方はおられませんかな?」
シャントゥがそのように呼びかけると、リミ=ルウとターラが同時に「はーい!」と手を上げた。
他にも、ユン=スドラやレイ=マトゥアが手を上げている。さらにはイーア・フォウ=スドラまでもが挙手をしていたので、チム=スドラはびっくりまなこになっていた。
「イーア・フォウは、あの獣に乗りたいのか?」
「はい。……婚儀をあげた人間としては、つつしむべきだったでしょうか」
イーア・フォウ=スドラはちょっと恥ずかしそうに頬を染めながら、手を下ろしてしまった。
が、たとえ婚儀をあげているとはいえ、イーア・フォウ=スドラはユン=スドラと1歳しか変わらないはずだった。それに、ユン=スドラが生誕の日を迎えたので、現在は同じ16歳である。べつだん、このような場で遠慮をするべき年齢ではないように思える。
「いや、何も責めているつもりはないのだが……しかし、あれほどの素早さで動く獣に乗るとなると、いくばくかは危険がつきまとうのであろうし……」
「何も危ういことはございません。うっかり手を離してしまわれても、ヒューイがお助けいたしますので」
と、シャントゥがチム=スドラに微笑みかけた。
「それでもご心配でしたら、ご一緒に乗られては如何でしょう? おふたりとも小柄であられるので、サラも文句は言いますまい」
「いや、俺は……」と最初は遠慮をしていたチム=スドラであったが、やはり伴侶の願いをかなえたいという気持ちがまさったのだろう。最終的には、ともにサラの背に乗ることになった。
スドラ家の若夫婦を乗せたサラは、さきほどまでと変わらぬ力強さで、広間の中を駆け回る。イーア・フォウ=スドラは年齢相応の可愛らしい歓声をあげ、チム=スドラも口をほころばせていた。
「すごいすごーい! それじゃあ次は、ユン=スドラたちが乗りなよー!」
「あ、いえ、よければリミ=ルウとターラがどうぞ」
「リミたちは去年も乗らせてもらったから、最後でいいよ! ね、ターラ?」
「うん! お先にどうぞー」
ということで、お次はユン=スドラとレイ=マトゥアのコンビであった。
それを見守りながら、ラッド=リッドがうずうずと巨体を揺すっている。
「老人よ! スドラのふたりを乗せられるならば、俺の重さにも耐えられるのではないだろうか?」
「ええ、問題はありますまい。お乗りになられますかな?」
「是非とも、お願いしたい!」
誰もが《ギャムレイの一座》の曲芸を満喫しているようで、何よりである。
俺とアイ=ファは広間の隅に引っ込んで、皆が楽しんでいる姿を見守ることにした。
「ずいぶんな時間が経ってしまったな。晩餐の準備は大丈夫なのか?」
「うん。下ごしらえは済ませてあるからな。これだけ人手があれば、問題はないさ」
そのとき、何かが引き裂かれるような音色が、頭上から響いた。
アイ=ファがハッとしたように顔を上げ――その姿が、闇に包まれる。俺は目を見開いているはずなのに、一瞬で視界が閉ざされてしまったのだ。
「うわ! な、なんだ?」
「おのれ!」と、アイ=ファの声が響く。
それと同時に、視界が開けた。
で、何かつむじ風のようなものが、鼻先を通りすぎていく。それは、アイ=ファが振り払った右手の指先であった。
「アスタから離れよ! さもなくば……ただでは済まさぬぞ!」
アイ=ファが、怒りの声をあげる。
俺の右肩あたりから、何者かが「にゃあ」と答えた。
「いまの声は、ひょっとして……」
おそるおそる、俺は右方向に首をねじ曲げてみた。
想像していた通りのものが、俺の右肩にちょこんと鎮座ましましている。
それは、真っ黒の毛並みに青い瞳を持つ、とても小さな子猫であった。
「あァ、こいつはすまないねェ。また檻から逃げ出しちまったのかい」
と、広間の外にいたはずのピノが、いつの間にか俺のすぐそばにたたずんでいた。
人々は、きょとんとした面持ちで俺たちを見やっている。サラも動きを止めており、その背中で子供のようにはしゃいでいたラッド=リッドも太い首を傾げていた。
「どうしたのだ、アイ=ファよ? 無法者でも現れたかと思ったではないか」
「無法者ではなく、獣だ。これも、お前たちの芸であるのか?」
「いえいえ、こいつはただの、無駄飯喰らいだよォ。お客に悪さをしないように、しっかり閉じ込めておいたはずなんだけどねェ」
ピノは苦笑めいた表情で、そのように言いたてた。
そして、シャントゥやラッド=リッドたちのほうを振り返る。
「こっちはアタシがなんとかするんで、どうぞ楽しんでくださいなァ」
「そうか! では、頼むぞ、ガージェの豹よ!」
ラッド=リッドを乗せたサラが、再び広間を駆け始める。
それを横目に、俺たちはこのハプニングを解決することになった。
「えーと、これは猫という獣ですよね? 俺も故郷で見たことがあります」
「そうそう、こいつはシムの黒猫だよォ。べつだん見世物にするような獣じゃないんだけど、ちょいとわけあって押しつけられることになっちまったのさァ」
「……これが、猫なる獣であるのか」
アイ=ファはとげのある目で、俺の右肩をにらみ据えた。
「何にせよ、断りもなく私の家人に触れるのは無礼であろう。すみやかに取り除いてもらいたい」
「はいなァ。ちょいと待っておくんなさいよォ。……そら、こっちに下りといでェ。言うことを聞いたら、肉の切れ端でもくれてやるからさァ」
ピノがちょちょいと指先で招こうとすると、黒猫は全身の毛を逆立てて、シャーッと威嚇した。
その姿に、アイ=ファはいっそう険悪な表情になってしまう。
「こやつはなりは小さいが、ずいぶん荒い気性をしているようだ。私が手を出してもかまわぬか?」
「ああ、ちょいとお待ちを。コイツはけっこう鋭い爪を持ってるもんで、無理に引き離そうとすると、アスタがひっかかれちまうかもしれないんでねェ」
「……お前はヴァムダの黒猿とさえ、心を通じ合わせているのであろうが? それなのに、このような小さき獣に言うことをきかせることもできぬのか?」
「コイツとは、まだ半月ていどのつきあいなんでねェ。それに、ご覧の通り気性が荒いもんだから、アタシやシャントゥ爺の言葉を聞こうともしないんでさァ」
さしものピノも、いくぶん困り気味の様子であった。
右肩にわずかな重みと温もりを感じつつ、俺は「えーと」と言葉を探す。
「さっき、押しつけられたって言ってましたよね。どういう経緯で、この子猫を預かることになったのですか?」
「うン? ああ、半月ぐらい前に、街道で無法者に襲われちまってさァ。ま、そいつらはひっくくって町の衛兵サンらに引き渡したんだけど……そいつらの荷車に、この黒猫が居座ってたってわけだねェ」
「へえ。盗賊が猫を飼っていたんですか?」
「いやァ、盗賊どもが言うには、奪ったお宝のひとつみたいだねェ。猫ってェのはシムにしかいないから、西では売り物になるのさァ。で、本当だったらこの馬鹿猫も、他のお宝と一緒に押収されるはずだったんだけど、捕まえようとする衛兵サンのお顔をバリバリひっかいちまってねェ。怒った衛兵サンが斬り捨てようとしたもんで、アタシらが慌てて引き取ることになっちまったってわけだよォ」
ならば、ピノたちに恩義を感じそうなものだが、あまり温かな関係は築けていない様子である。
「コイツがもうちっと大人しい気性だったら、他の獣と一緒に働いてもらおうと思ったんだけどねェ。お客の顔でもひっかいちまったら一大事だから、檻に閉じ込めさせていただいたのさァ。いずれシムにおもむいたときにでも、放してやろうと考えてたんだけどねェ」
「……そのように凶暴な獣であるのなら、即刻アスタのもとから引き離してもらいたい」
「ううン、腹でも空かせれば、大人しく下りてくると思うんだけどさァ……」
そう言いかけたピノが、うろんげに眉をひそめた。
「……ていうか、そいつはアスタの肩で、ずいぶん大人しくしてるねェ。どこかひっかかれたりはしなかったのかァい?」
「ええ。最初は顔に飛びかかられましたけど、爪は引っ込めておいてくれたみたいですね」
「へえ……そいつに飛びかかられた人間は、のきなみ痛い目を見てるんだけどねェ。ぼんくら吟遊詩人なんざ、おもいきり顔面を掻きむしられたもんさァ」
ピノは背伸びをして、黒猫の顔を覗き込んだ。
黒猫は、たちまち「グルル……」と咽喉を鳴らす。
「ん……コイツはずいぶん、アスタに懐いちまったみたいだねェ」
「そうなんですか? 俺はこれまで、猫に懐かれたこともないのですけれど」
「アタシはこれでも、シャントゥ爺に獣使いの手ほどきをされてる身だからねェ。目を見りゃあ、それぐらいのことはわかるのさァ」
そのとき、周囲の人々がわっと歓声をあげた。
振り返ると、広間の奥から新たな獣が登場したところだった。ヒューイとサラの子、ドルイである。
ドルイもまた、大きく成長していた。
ほとんど母親のサラと変わらないぐらいの体格である。1年前はもふもふとしたぬいぐるみのような姿であったのに、申し訳ていどであったたてがみも見事に生えそろい、実に立派な姿であった。
「わあ! ドルイ、こんなに大きくなったんだー!」
リミ=ルウたちは大喜びで、ドルイがくわえた草籠に割り銭を放り入れていた。
銀獅子と豹の血を継ぐドルイは、両方の特徴を備えている。灰色の毛並みには斑点が浮かび、口からはサーベルタイガーのような牙を覗かせているのだ。レオポンやライガーなどであれば画像で見たことのある俺であったが、獅子のたてがみとサーベルタイガーのごとき牙を持つ獣は初見であったので、まるで神話の存在みたいに神々しく感じられてしまった。
「成長が早いのは、ギバだけじゃなかったんだな。ドルイ、俺の分もお願いするよ」
俺が銅貨を投じると、ドルイは危なげもなく草籠でキャッチした。
この分なら、いずれは両親に劣らぬ芸を身につけることだろう。身体だって、まだまだ大きくなりそうなところであった。
「やっぱりねェ。アイ=ファも、ご覧になったろォ?」
笑いを含んだピノの声に、アイ=ファは「うむ……」と不服そうに応じた。
なんの話だろうと思って振り返ると、ピノは悪戯小僧のような目つきで唇を吊り上げていた。
「いやねェ、アスタが楽しそうにしていると、そいつも楽しそうに目を輝かせてたんでさァ。まるで、アスタのことを母親とでも思ってるような風だねェ」
「はあ。父親じゃなくて、母親ですか。まあ、かまど番の俺にはそちらのほうが相応しいのかもしれませんが」
「いやいや、たいていの獣は父親じゃなく母親に育てられるもんだから、親といえばすなわち母親ってことさァ。尻尾もぴこぴこ振り回して、いまにも頬ずりでもしそうな風情だねェ」
そうしてピノは、ほっそりとした腰に手をあてて、俺に微笑みかけてきた。
「ものは相談なんだけどさァ、そいつを引き取る気はないかい?」
「え? ファの家で、この子猫をですか? でも……うちには3頭も犬がおりますので……」
「へェ、犬が? でもまあ西の貴族様なんかは、犬でも猫でも飼い放題って聞くからねェ。べつだん、相性は悪くないと思うよォ」
「いえ、ですが……」
「正直に言って、アタシらもそいつを持て余してたんでさァ。シムの野っ原に放したところで、そんな子猫が生きていけるかは怪しいもんだし、かといって、アタシやシャントゥ爺にしつけられないなら、芸を仕込むこともできないだろォ? 一生を檻の中で過ごすぐらいなら、野垂れ死ぬほうが幸いってもんだけど……できればそいつにも、幸せな行く末ってやつを迎えてほしいんだよねェ」
「ならば、貴族にでも売り払えばよいのではないか? 多くの銅貨を持つ貴族のもとであれば、飢えに苦しむこともあるまい」
アイ=ファが文句を言いたてると、ピノは流し目でそちらを見た。
「芸の他には銅貨をいただかないってェのが、アタシらの信条でねェ。でも、たとえばタダで受け渡したとしても、こいつが相手を主人と認めなきゃあ、あれこれ悪さをしたあげく、毛皮になめされちまうのがオチだろうねェ。そんなのは、幸せな行く末とは言えないだろォ?」
「それはそうかもしれんが……」
「2、3日でも、様子を見てやっちゃあくれないかねェ? もしもコイツがファの家でも悪さをするようなら、もちろんアタシらが引き取るさァ。コイツと健やかな関係を築けるかどうか、見定めてやっちゃあもらえないもんかねェ?」
アイ=ファは唇を引き結び、黒猫のほうに顔を寄せた。
また威嚇の声をあげるかと思いきや、黒猫は「みゃあ」と甘えたような声を出す。それでアイ=ファは、いっそう深く眉を寄せることになった。
「……2、3日だな? こやつがファの家の家人にひとたびでも悪さをしたならば、決して許すことはできんぞ?」
「そいつはもう、そちらの裁量におまかせするよォ。毛皮になめすなり犬の餌にするなり、ご随意にィ」
アイ=ファは深々と溜め息をついてから、俺を振り返った。
「アスタも、それで異存はないか? お前が望まぬなら、無理に預かろうとは思わん」
「現時点で、異存はないよ。ただ、肩に乗せたまま料理は作れないから、きちんとしつけられるかどうかだな。ブレイブたちと上手くやっていけるかどうかも、気になるところだし」
「うむ。私とて、そう易々と家人を増やすつもりはない」
ともあれ、この黒猫はファの家にいったん持ち帰ることが決定したようである。
黒猫は「なーお」と満足そうに声をあげると、俺の頬をぺろりとなめてきた。
その小さな舌はブレイブたちよりもざらざらとしており、まるで湿った紙ヤスリか何かのようだったが、その刺激は心地好くなくもなかった。