~中日~①ルティムの友
2014.9/22 更新分 1/2
2014.9/25 章タイトルを「迷い惑える三日間~中日~」に改題いたしました。
2015.2/18 誤字修正
カミュア=ヨシュとの対面を果たした、その翌日。
俺たちは、朝からルティムの集落を訪れることになった。
有り体に言って、俺とアイ=ファだけではもうあの素っ頓狂なおっさんを扱いきれなくなってしまったのである。
ルウの集落よりさらに南にあるルティムの集落を目指しながら、俺は昨晩の素っ頓狂な会話をずっと頭の中で反芻していた。
◇
「どうして俺が宿場町で店を開かなくてはならないんですか!?」
「それはもちろん、森辺の民がさらなる力と豊かさを手に入れるためだよ」
「……それと店を開くことの因果関係がさっぱりわかりません」
「どうしてだい? アスタだって異国生まれとはいえ、立派な集落の一員じゃないか? 君が豊かになることは即ち森辺の豊かさに直結しているのではないかな?」
「そんなことはないです。俺ひとりが豊かになったところで、それは集落に還元されません。ファの家は俺とアイ=ファのふたりしか家人がいないから、豊かになれるのは俺たちふたりだけになってしまいます」
「うん? それはどういう意味かな?」
それで俺は、森辺の民が血の繋がりによって絆を深めている一族なのだということを説いて聞かせることになった。
あと、どうせそのようなことは承知の上だろうが、森辺においては「商業」というものが事実上存在しないのだから、血族でもない人間同士の間で富が行き来することはほぼありえないのだ、と。
しかし、カミュアの微笑みは消え去らない。
「今ひとつ承服しかねるねえ。それでは、血の繋がりのない相手はどうでもいい、ということなのかな? 君たちは、自分たちふたりさえ幸福ならば、よその家の人間などどうなってもかまいはしないと考えているのだろうか?」
「それは極論です。俺たちにだって、友人や知人ぐらいならいます。だけど、俺たちが豊かになったって、それはそれらの人々には還元されないでしょう?」
「君が富を独占するならね。どこかの族長筋の人たちみたいに」
このあたりになると、もうアイ=ファはすっかり狩人の眼光になりかけてしまっていた。
それはそうだろう。俺だって、怒りの感情でこそないものの、不審感で爆発しそうである。
「ふうむ。俺は世間話の延長として、頭にふっと閃いた妙案を提示したに過ぎないのだが、君たちはずいぶん過剰な拒絶反応を示すのだねえ」
「……それはそうでしょう。世間話の延長としては、話が突拍子もなさすぎますよ」
「そうかなあ。咄嗟に閃いたにしては、なかなかの妙案だと思うのだけれども。宿場町に店を出すなんて、そんな難しい話でもないことだしね」
あくまで呑気たらしく言いながら、カミュアは上げかけていた腰を降ろし、無精髭の生えた下顎を撫ですさった。
「わかった。順序立てて説明しよう。俺がまず思ったのは、ギバの肉の価値についてなんだよ」
「……肉の価値?」
「君たちはギバの角や牙や毛皮を売って糧にしている。ならば何故その肉を売らないのか、ということだ」
「……ギバの肉なんて、町では誰も食べないでしょう? 森辺の民は《ギバ喰い》として怖れられてるぐらいなんですから」
「怖れているのはジェノスの民だけだよ。旅人やよその地から移住してきた人間たちは、その印象に引きずられているだけに過ぎない」
「だから……」
「では聞くが、森辺の民が《ギバ喰い》として怖れられているのは、正しいことなのかな? 嬉しいことなのかな? 誇らしいことなのかな? もしもそうであるというのなら、確かに町の人間にギバの肉の美味さを知られたくないというのも理解はできる。俺の話は忘れてもらってもかまわない。……しかし、そうでないというのなら、肉を売らない理由がわからなくなってしまうね」
ギバの肉がそういう対象に成り得たのはこのひと月ていどの出来事であるのだ――という反論は、この際、意味を成さなかっただろう。
確かに、牙や角は売るのに肉を売ってはいけない、という法はないと思う。
「それで、俺に肉屋でも開業しろっていうんですか? そんな商売が、本当に成立するとでも?」
「いきなり売っても売れないだろうね。だからまずはこの肉の美味さを知らしめる必要がある。だから、アスタに店を開けばいいと提案させていただいたのさ。……肉屋ではなく、料理屋をね」
「…………」
「それが成功すれば、ギバの肉は商品たりうる。君の料理の美味さが宿場町に知れ渡れば、ギバの肉が臭くて不味い、という間違った情報を書き換えることができるじゃないか? それでギバ肉が銅貨と交換できる商品にまで成り上がれば、君の成功も森辺に還元されるだろう?」
カミュアは、ひたすらに楽しそうな顔つきをしている。
本当に、世間話にでも興じているような表情だ。
「ギバの牙や角なんて、1頭分でもせいぜい銅貨の白1枚分ぐらいにしかならない。毛皮だって、そのていどだ。生命をかけて狩りをする報酬として、それはあまりに不当な額だよ。……俺はね、それが以前からずっと気に入らなかったのさ」
「だけど――森辺の民は、そうやって80年もの間、森辺での生活を続けてきたんです。それを今さらぶち壊すような真似をしてしまうのは――」
「アスタ。失礼だが、君はもしかしてまだ森辺の民として迎え入れられてから、そんなに月日が経っていないのではなかろうか? 宿場町の知り合いみんなに聞いてみたのだけれども、これまでに森辺の装束を纏った異国人などはひとりとして見かけたことはない、という答えだったのだよねえ」
「……だったら、どうだって言うんですか?」
「君はもしかしたら、俺以上に森辺の生活について疎いかもしれない、という可能性を示唆しているだけさ」
にんまりと笑いながら、カミュアはそう言った。
「アイ=ファの首には、狩人としての誇りがたんまりぶら下がっている。そして、ルウ家はあれほどの眷族を有する大きな氏族だ。そして、褒賞金をせしめているスン家は言わずもがな。……さて、アスタはそれらの他の氏族と交流を結んだことはあるのかな?」
ない。
しかし、それがどうしてこの男に察せられてしまうのだ?
「答えは簡単。森辺の民の一般的な生活を知っていれば、豊かさを否定するような言葉が飛び出すはずはない、ということを俺は知ってしまっているからさ」
「一般的な――生活? だけど、森辺の民ですらないあなたには、そんなことを知る手段なんて――」
「ないよ。だからこれは、憶測でしかない。もしも間違っていたのならば、是非ともアイ=ファに否定してもらいたいものだ」
アイ=ファは、答えない。
ただ――その燃える瞳には、怒り以外の激情も宿っているように、俺には感じられてしまった。
「多くの森辺の民がアリアとポイタンしか食そうとしないのは、それだけの富しか有していないからだ。アイ=ファのような蓄えを有しているのはごく一部であり、民の多くは貧しさにあえいでいる。清貧ではなく、本当に貧しいのだ。だから、アリアやポイタンすら買うこともできず、ギバの肉ばかりを喰らって早死にする人間も少なくない――と、俺は推測している。これまでに宿場町で収集した情報と、実際に森辺に足を運んで目に収めてきた情報を統合して、俺はそういう結論に至った。この認識は間違っているのかな、アイ=ファ?」
「……力を持つ氏族は豊かな暮らしをして、力を持たない氏族は貧しい生活をする。それは、当たり前のことだ」
「それはつまり、肉しか食うものがなくて早死にする人間も、中にはその肉すら得られずに餓死する人間も森辺には存在する、という解釈でいいのかな?」
「……そうならないように強く生きろ、と私は育てられた」
「そうなる危険性があるから、そう育てられたわけだね」
何だろう。
あまり他家とは交流のないアイ=ファよりも、森辺の民ですらないカミュアのほうが、森辺の内情に通じているのではないか、と――そんな錯覚すら覚えてしまう。
「外側にいたほうが見えやすい情景もある、ということだよ」
カミュアはまだ微笑していたが、その表情が、また変化していた。
垂れ気味の目を少し細めて、ゆったりと笑っている。その紫色の瞳に浮かぶのは、ひどく透き通った、老いた哲人のような光で――こいつは、こんなにうさんくさい男なのに――
まるで、ジバ=ルウのように明哲な眼差しになってしまっていた。
「森辺の民は、清廉な一族だ。ジェノスの田畑を守るため、ギバを飢えさせないために、モルガの山の恵みを収穫することは禁じる――という約定があるのだろう? そんな一方的な約定を守って自分たちが飢え死にしてしまう人間がいるなんて、卑俗な俺には理解できないことだった。しかも、生命をかけてギバを狩っても、その代価は銅貨が1枚だか2枚。そんな生活が正しいとは、俺には思えない。森辺の民は、もっと豊かな生活をするべきだ」
「だけど……身にあまる富は、人間を堕落させます。それこそ、スン家の人間みたいに……」
「それは、己の力や生きる意志とは無関係な道筋から得た富だったからではないのかな。少なくとも、俺はアイ=ファやドンダ=ルウという人物が堕落しているようには見えない。たとえば、アイ=ファの首飾りに100頭分の牙や角が増えたところで、彼女は狩人としての仕事を放棄してしまうだろうかね?」
しないだろう――アイ=ファならば。
ドンダ=ルウだって、しないと思う。
特にルウ家の人間は、あれだけ毎日大量のギバを狩りながら、ちょっとした野菜を買い集めたり、ちょっとした装飾品を娘たちに買い与えるばかりで、それ以外に富を浪費している気配がない。狩人としての仕事を怠る気配もない。ただひたすらにギバを狩り続け、己の誇りを胸に掲げている。
そして、俺は――シン=ルウのことを思い出していた。
たったひとりで5人もの家族を養っていかなければならない、あの少年を。
もちろん、ルウの眷族を頼れば、飢えて死ぬことはないだろう。
しかし、彼は危険な『贄狩り』に手を出してまで、家族を守ろうと考えたのだ。
そして、もしも彼がルウの眷族ではなく、ファの家のように血縁の薄い生まれであったのなら――5人もの家族を養うには、2日に1頭以上のペースでギバを狩らなくては、人数分のアリアやポイタンを得ることすらできなくなってしまうのだ。
「どうだろうね。森辺の民はもっと豊かになるべきだ、という俺の意見は、君たちにとって筋違いなものでしかないのだろうか?」
「だけど……それでも……俺の目に、森辺の民は不幸な生を送っているようには、見えません」
水場で見かける名も知れぬ女衆や、少人数で森に向かう勇壮な男衆。
交流はなくとも、外を出歩けばそういった人々を見かける機会は多い。
彼らはみんな、ルウ家の人々ほどではないにせよ、明るく、強く、澄んだ眼差しを有していた。
いかに貧しくとも、いかに差別されていようとも、俺には彼らが不幸な人間だとは、思えない。
「俺にも、そう見えるよ。森辺の民は、本当に誇り高い一族だ。……だからこそ、俺は彼らに豊かな暮らしを送ってもらいたいと思ったのさ」
そう言って、カミュアはその不思議な眼差しをまぶたの裏に包み隠した。
そうして次に目を開いたときには、もうその顔には最前までのすっとぼけた笑顔が復活してしまっていた。
「だけどまあ、俺もその場の思いつきを口にしたに過ぎない。後の判断は君たちにおまかせするよ。森辺の行く末を決めるのは、森辺に住まう君たちだ! 自分たちの正しいと思う道を突き進んでくれたまえ!」
「……本当にそれが、この場での思いつきだと言い張るつもりなんですか、あなたは?」
得体の知れない激情にとらわれつつ、俺はカミュアの飄々とした顔をにらみつけてしまった。
「あなたはもしかして、昨日の宴で俺が料理人であるということを知って――それで、最初から俺の料理の腕を確かめる目的で、こんな風に晩餐をねだったんじゃないんですか……?」
「それはうがった見方だねえ。……ただまあ、宴で狂喜しながらギバ肉を食べている人々の姿を見て、そんなに美味い肉なら角や牙と一緒に売ってしまえばいいのじゃないかという着想を得たのは、否定しないよ」
まったく悪びれた様子もなく、カミュアはそう言った。
俺は、混乱してしまっている。
たぶんアイ=ファも、混乱してしまっている。
この男は――いったい、何なのだ?
「そしてまた、君の料理を賜って、この味なら宿場町で戦える、と確信したのもまた事実だ。……だけど、俺の心情なんて、この際はどうでもいいのじゃないかなあ? 大事なのは、森辺の民にとって正しい道はどちらか、ということなのじゃないかい?」
長いマントをたなびかせて、カミュアはふわりと立ち上がる。
「何にせよ、どんな道を選ぶかは君たちの自由だ。もう少し詳しい話を聞いてみたいな思ったときは、いつでも訪ねてきてくれおくれよ。俺は来月の15日まで、《キミュスの尻尾亭》という宿に腰を落ち着けているからさ。また下見で森辺を訪れたときには、俺からもこちらに寄らせていただくことにするよ。――君たちが、俺を受け容れてくれるのならば」
◇
そうして俺たちは、ガズラン=ルティムを訪れることになった。
俺が知る森辺の民では、もっとも誠実で公正で、なおかつ柔軟な思考の持ち主である、という見込みのもと、彼を訪れたのだ。
新婚生活2日目の新郎を訪れるには相当の罪悪感がともなったが、それでも彼は快く俺たちを迎え入れてくれた。
「婚儀の前後3日ずつは、夫も嫁も仕事を休んでもよいというのがルティムのしきたりでね。そんな折にあなたたちを客人として迎え入れることができたのは、とても喜ばしいことです」
そんな言葉すらかけてくれたが、やっぱり気分はお邪魔虫である。
だけど――正直に言って、俺もアイ=ファも完全に頭が煮詰まってしまっていたのだ。
カミュア=ヨシュという人間を、俺たちだけで料理するのは不可能だ。
だから俺たちは、片道1時間半もかけて、このルティムの集落を訪れたのだった。
ルウの集落のような広場は見当たらない。ただ、5戸ばかりの大きめな家屋が一箇所に密集している。婚儀の前にも何度か訪れたことのある、俺にとってはすでに馴染みの場所だった。
その中でもひときわ大きな建物を訪ね、俺たちは屋内へと導かれる。中天にはまだ時間があったので、家長ダン=ルティムはまだ眠りこけているらしい。
俺たちは、カミュア=ヨシュとの会話をなるべく正確に、包み隠さずガズラン=ルティムへと語って聞かせた。
この人物に腹芸など必要ないし、そんなものが必要なら最初から頼ろうとも思わない。
ガズラン=ルティムは終始落ち着いた面持ちで、途中で余計な意見や質問を差しはさんだりもせず、俺たちの話をただ静かに最後まで聞いてくれた。
その末に、彼の口から放たれたのは――
「実に驚くべき話です」という言葉だった。
「これまでに、そのような形で森辺に関わろうとした都の人間は存在しなかったでしょう。本当に――驚くべき話です」
ここは広間ではなく、ガズラン=ルティムと妻のための個室だった。
アマ・ミン=ルティムは席を外し、室には俺たち3人しかいない。
「どう思いますか? あのカミュア=ヨシュという男の言葉を、俺たちはどう受け止めればいいのでしょう……?」
「どう受け止めるかは、あなたがた次第です。ただ、私がどう受け止めるか、ということが知りたいのなら――」
そんな馬鹿げた話はありません。
とでも言ってもらえたなら、俺もアイ=ファも楽になれたのかもしれない。
しかし、現実は非情であった。
「――実に理にかなった話だと、私には思えてしまいます」と、ガズラン=ルティムはきっぱりそう言い切ってくれたのだった。
「そうですか……」
「はい。ギバの肉を銅貨に替えてはいけないという法はありませんし、そのためにはギバ肉の味を知ってもらう必要があるでしょう。そして、森辺の民はもっと豊かな生活を手に入れるべきだ、という話においても――私は、まったくの同意見です」
ガズラン=ルティムの瞳に、迷いはなかった。
カミュア=ヨシュが、もしもこのような眼差しを持つ人間だったら、俺は一も二もなく彼の提案に飛びついていたかもしれない。
だけどそれは、言ってもしかたのないことだ。
もともとの個人の資質、というだけでなく。
ガズラン=ルティムは森辺の民であり、カミュア=ヨシュは石の都の住人であるのだから。
「ありあまる富は、人間を堕落させるかもしれない――という俺の考えは、やっぱり森辺の民への侮辱になってしまうのでしょうか?」
「いえ。スン家の堕落を知っている人間ならば、まずはそう考えるのが自然です。しかしそれは、はんばーぐと同じ話なのではないですかね」
「ハ、ハンバーグですか?」
「はい。自分を律する気持ちがなければ、その味に溺れて歯を弱めてしまうかもしれない。薬も過ぎれば毒となる。はんばーぐもありあまる富も、私には同じ存在に感じられます」
ガズラン=ルティムが、静かに微笑む。
「たとえば、80年前にこの森辺へと移り住んだ当時、民たちの多くは貧しさにあえいでいたはずです。ろくな武器もなく、ギバの習性も知らず、森での収穫を禁じられ――多くの人間がギバとの戦いと、そして飢えによって死んでいったのだと、私はジバ=ルウから聞いています」
「……はい」
「しかし先人たちは誇りをもって森に生き、やがてギバを狩るすべを習得しました。その牙と角で鋼を買い、鍋を買い、食糧を買い、布を買い、今のような暮らしを打ち立てることに成功したのです。ルウやルティムの家ならば、アリアやポイタンや日常の品だけでは使いきれない富を得て、もっとさまざまな食糧や、女衆の飾り物をも手にすることが許されるようになりました。ジバ=ルウのような80年前の苦しい生活を知る御方が、このような暮らしを幸福だと感じてくれているならば――豊かさが即ち堕落への道、ということにはならないと思います」
「はい」としか答えようがなかった。
俺の気持ちは、ガズラン=ルティムの言葉によってだんだんと明瞭さを増していく。
隣りで静かに彼の言葉を聞いているアイ=ファは――どうなのだろう。
「……これは、たとえばの話ですが……」と、ガズラン=ルティムがさらに考え深げな声をあげる。
「アスタが宿場町で成功をおさめ、ギバの肉までもが銅貨に替えられるようになったら――その肉を売ることができるのは、今のところはあなたから血抜きと解体の技を習得したルウの眷族のみです」
「はい」
「その富が、今のスン家をも上回るほど膨大になりうれば、やはりギバを狩ることこそが豊かな生活への正しき道筋である、と示すことにはならないでしょうか?」
俺は、愕然とすることになった。
ガズラン=ルティムは、ふっと微笑む。
「そのカミュア=ヨシュという人物の思惑はわかりません。ただ、その人物はスン家の力を失墜させようと目論んでいる節がある、というお話でしたので。自分が彼なら、どう考えるか――肉を売るという行為はスンの家に何をもたらすのか、ということを考えてみただけです。ただしその考えに至るには、血抜きと解体の技術を学んだのはルウの眷族のみである、という真実を事前に知っておく必要がありますが」
それぐらいのことは、すでにあの男も突き止めているのかもしれない。
それよりも、俺にとってはガズラン=ルティムがそんな考えに行き着いた、ということのほうがよっぽど驚きであり、衝撃的だった。
「あなたは……あなたはすごい人ですね、ガズラン=ルティム。俺はそこまで考えを巡らせることはできませんでした」
「すごくはありません。私にできるのは思いを巡らせることと、ギバを狩ることだけです」
そうしてガズラン=ルティムは、その真っ直ぐな眼差しで俺を見つめ返してきた。
「ただ、私はそのカミュア=ヨシュという人物を直接は知りません。顔を合わせたこともない人間を信頼することはできません。私が信頼できるのはあなたがただけです、アスタにアイ=ファ。……あなたたちは、この話をどのように受け止めているのでしょうか?」
それに応じたのは、アイ=ファであった。
強く、烈しい光をたたえた青い瞳が、ガズラン=ルティムの実直そうな面を見すえる。
「私は、あなたのように大きな理想は語れない。どのような未来がやってきても、スン家の人間たちがそう簡単に志を取り戻せるとも思えない」
「はい」
「だが――もしも私とアスタが決断することによって、森辺に少しでも恵みをもたらすことができるのならば……そんなに誇らしいことはないと思っている」
「……そうですか」と、ガズラン=ルティムは微笑んだ。
そうして、俺を振り返る。
「俺もアイ=ファと同意見ですが、だけどやっぱり、カミュア=ヨシュという人間は得体が知れなすぎます。彼の話にどこか落とし穴はないのか、それをしっかり確認できるまでは、うかうかと話に乗るわけにはいかないと思います」
「そうですね。それはもっともだと思います」と、ガズラン=ルティムは大きくうなずいた。
「アイ=ファ。アスタ。あなたがたにとって正しい道筋が見つかり、その上でルティムの力が必要になったときは、またいつでもこの家を訪ねてください。あなたがたは眷族ではありませんが、信頼できる友として、ルティムの家はいつでも門戸を開くでしょう」
「はい。ありがとうございます。本当に――ありがとうございます」
俺はほとんど無意識のうちに右手を差しだしてしまい、慌ててそれを引っ込めた。
「すいません。俺の国では、友誼を示すのにおたがいの手を握り合う風習があるんですけど、この森辺にはそんな習慣は存在しませんよね」
「手を、握り合う、ですか?」
けげんそうに首を傾げながら、ガズラン=ルティムが右手を差しのべてくる。
その、狩人としての大きくて力強い手を、俺は渾身の力で握りしめた。
同じぐらいの力が、ぐっと返ってくる。
「アスタ。あなたの力は、私の考えよりも遥かに強大であったのかもしれません。だけど私は、あなたの存在を薬にしたいと考えています」
そんな言葉を最後に、俺たちはルティムの家を退去することになった。