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異世界料理道  作者: EDA
第四十六章 群像演舞~五ノ巻~
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    風の神の子ら(下)

2019.10/6 更新分 1/1

 それから《銀の壺》は、若きシュミラルを団長として、活動を再開させることになった。

 当時のシュミラルは20歳であり、団長の座を担うべき人間はあらためて論じ合うべきではないかと提案したが、その言葉に賛同する人間はいなかった。


『アヴェラルの後継者に相応しいのは、シュミラルだ。それはシュミラルがアヴェラルの息子だからという理由ではなく、商人としての力量から、そのように思う』


『いや、しかし……』


『それに我々は、アヴェラルと同じぐらい齢を重ねてしまっている。誰もが遠からぬうちに、息子に仕事を託そうと考えていたのだ。それでは団長の座を担ったところで数年限りのことであるのだから、ここはやはり若い人間がその座を担うべきであろうと思う』


 そんな言葉に諭されて、シュミラルは団長の座を担うことになった。

 それはそれで、ラダジッドも心から賛同できたのであるが――自分の身に副団長の座が回ってきたことは、想像の外であった。


『ラダジッドはこの中でもっとも新参であるが、商人としての力量は申し分ない。シュミラルの右腕に相応しいのは、やはりラダジッドであろう』


 ラダジッドは大いに悩んだが、最終的にはその提案を受け入れることにした。

 確かに他の団員たちが代替わりするのであれば、それらの者たちに副団長を任せるわけにもいかないし――それにやっぱり、自分の手でシュミラルを支えたいという気持ちが強かったのである。


(商人としての力量は、すでにシュミラルのほうがまさっているぐらいだろう。しかし、シュミラルは……こんな若さで、すべての家族を失ってしまったのだ。とうてい放っておくことはできん)


 そうして《銀の壺》は、行商を再開させたわけであるが――シュミラルを筆頭とする団員たちの働きによって、大きな問題が持ち上がることはなかった。

 アヴェラルの作りあげた《銀の壺》の名を、決して汚してはならない。誰もが強くそのように念じていたのだろう。それらの熱意が取引先の相手にも伝わったのか、若いシュミラルが団長の座を継いだと聞いても、商売を取りやめようとする人間は現れなかった。


 年を食った団員たちは最初に宣言していた通り、年を重ねるごとにひとりずつその座を息子たちに譲り始めたが、それで《銀の壺》の力が衰えることはなかった。

 そして、シュミラルの活躍が若い人間の心を動かしたのか、新たに入団を願う者も続出した。シュミラルとラダジッドは厳しい目でそれらの者たちの力量をはかり、見込みのある人間だけに入団を許した。


 そうしてシュミラルが団長となって2度の行商を果たし、3年ほどが経過した頃には、団員の数も10名となり、荷車の数は5台となっていた。

 これはアヴェラルが生前に目標としていた数字である。

 シュミラルがそれを成し遂げたのは、23歳の時分であった。


(本当に、シュミラルというのは大した男だ。アヴェラルも、東方神のみもとで誇らしく思っていることだろう)


 しかしラダジッドは、ひとつの懸念を抱いていた。

 シュミラルの、私生活においてのことである。

 ジの藩に住まう団員に聞いたところによると、シュミラルは故郷で過ごす半年間を、ずっと採掘の仕事にあてているのだという話であった。


 もちろん他の団員たちも、故郷では採掘の仕事に励んでいる。半年もの間を遊んで暮らすわけにはいかないし、次の行商を行うのにも元手は必要であるのだ。

 しかしシュミラルは、半年間のほとんどすべてを採掘場で過ごしているのだという。《銀の壺》の行商は順調であるのだから、そこまで身を削る必要はないはずだった。


『べつだん私は、無理をしているわけではない。他に為すべきことも見当たらないから、少しでも多くの銅貨を確保しておこうと考えただけのことだ』


 シュミラルは、そのように言っていたらしい。

 ラダジッドとしては、忸怩たる思いであった。


『私もシュミラルを、家に誘ってはいるのだ。実際に、何度かは家に招くこともできたしな。しかし……それでシュミラルの孤独を癒やせたかどうかは、わからない。余所の家に客人として招かれても、シュミラルはいっそうの孤独感にとらわれてしまうのではないだろうか?』


 ジの藩に住まう団員は、そんな風に言っていた。


『だったらシュミラルは、どこかで相手を見つけて婚儀をあげればいいではないか。そうすれば、伴侶の家族はシュミラルの家族となるのだからな』


 ラダジッドがそのように反論しても、その団員は首を横に振っていた。


『しかしシュミラルは、すべての家族を病魔で失ってしまったのだ。婚儀をあげても、また同じことの繰り返しになるかもしれん……という気持ちが生じてしまうのではないだろうか』


『まだ訪れていない不幸を恐れて進むことをためらうなど、シュミラルらしからぬ行いだ。あやつはあれほどまでに、果断な一面を有しているではないか?』


『私には、わからない。すべてはシュミラルの心次第であるからな』


 確かにシュミラルのいない場でそのようなことを論じ合っても、詮無きことであった。

 当時のラダジッドは、すでに2番目の子を授かっていた。他の家族にも不幸はなく、《銀の壺》の活動のおかげで暮らしぶりは向上する一方だ。

 そうして自分が幸福であればあるほどに、ラダジッドは胸が痛んでしまうのだった。


(どうしてシュミラルばかりが、そのような不幸を背負わなければならないのだ。シュミラルには、もっと幸福になる権利があるはずだ)


 そんな風に考えたラダジッドは、ある日、ジの藩の採掘場まで出向くことにした。

 べつだん、ギの民がジの藩の採掘場で働くことは禁じられていない。そのような真似をしても益はないので、誰も為そうとしないだけのことである。前日は同胞の家に逗留し、朝から半日をかけて採掘場まで出向いてみると、受付をしていた男にもたいそういぶかられることになった。


『いまはちょうど、中天の休憩中だ。午後から仕事に加わるがいい』


 そんな風に言い渡されて、ラダジッドは採掘現場に乗り込んでいった。

 岩場に切り開かれた道を進んでいくと、坑道の前には見張りの人間が立っている。その人間に休憩の場所を聞いて、そちらに足を向けてみると――行く先から、横笛の音が聞こえてきた。


 とても哀切な音色である。

 旅のさなかでもないのに郷愁感をかきたてられてやまないような、そんな音色であった。

 そうして、休憩場所として切り開かれた広場に辿り着くと、横笛を吹いているのはシュミラルであった。


 シュミラルは広場の片隅で横笛を吹き、休憩中の男たちは思い思いにくつろぎながら、その音色を聞いている。横笛の音はよく響くので、奏者のもとに集う必要もないのだ。


 ラダジッドも、しばしその音色に聞きほれてしまった。

 もうシュミラルと出会って7年ぐらいが経過していたが、その横笛の音色を聞く機会など1度としてなかったのである。


 やがてシュミラルが1曲を吹き終えると、何人かの男たちが控えめに手を叩いた。休憩場所で騒ぐことは禁じられているのだろう。

 ラダジッドは我に返り、シュミラルのもとまで駆けつけることにした。


『シュミラル、ひさかたぶりだな』


 片膝を立てて座り込んでいたシュミラルは、ちょっときょとんとした感じに目を見開きながら、ラダジッドを見上げてきた。


『ラダジッドではないか。このような場所で、何をしているのだ?』


『ここは採掘場なのだから、働きに来たに決まっている。そのついでに、お前の顔を見にきたのだ』


 そんな風に答えながら、ラダジッドはシュミラルのかたわらに腰を下ろした。

 シュミラルはまだ困惑気味の目つきで、横笛を腰帯にはさみ込む。


『よくわからないな。私などの顔を見るために、わざわざジの藩の採掘場にまでやってきたのか?』


『顔を見るのはついでと言ったはずだ。私に来られて、何か迷惑なことでもあるか?』


『迷惑なことなど、ありはしないが……横笛の音を聞かれたのは、いささか気恥ずかしいかもしれない』


『気恥ずかしい? 何故だ?』


『横笛には、さまざまな感情がこぼれてしまうからな』


 そう言って、シュミラルはわずかに目を細めた。

 確かに、羞恥をこらえているような仕草である。


『しかし、わざわざ訪ねてきてくれたことは、嬉しく思う。そして、ラダジッドを心配させてしまったのなら、謝罪しよう』


『私はべつだん、心配などをしていたわけでは……』


『それ以外に、私を訪ねる理由などあるのだろうか? ……しかし、心配せずとも、私は大丈夫だ。私は早くに魂を返してしまった家族の分まで、強く生きようと考えている』


 そうしてシュミラルは、さきほどとは少し異なる感じに目を細めた。


『それに私には、《銀の壺》の同胞があるのだ。それだけで、余人よりもよほど幸福だと言えるだろう。だから、心配には及ばない』


 そのように言われては、ラダジッドも二の句が告げなかった。

 しかし、シュミラルを家に招くよりは、こうして自分から訪ねるほうが正しい行いであったのかもしれない――と思うことはできた。


 ラダジッドは、シュミラルの存在に支えられている。

 それと同じように、シュミラルもラダジッドの存在を支えにしてくれているのだろう。

 その上で、自分にできることは限りがあるのだ。

 シュミラルがラダジッドの家族の代わりにはなれないように、ラダジッドにもその役はつとまらない。すべての家族を失ったシュミラルが、どのようにその孤独を癒やすのか――ラダジッドは、友として、仲間として、かけがえのない同胞として、それを見守ることしかできないのかもしれなかった。


(私の妹は、とっくの昔に婚儀をあげてしまったしな。まあ、そうでなくとも、あいつにシュミラルの嫁はつとまるまいが……)


 それでもいつかは、シュミラルに相応しい伴侶というものが現れるだろう。

 ラダジッドとしては、その日が一刻も早く訪れるのを願うことしかできなかった。


 そして――

 その日が訪れたのは、それから2年後のことであった。


 シュミラルと出会ってから9年が経ち、新しい顔ぶれで4度目の行商に臨んだ際のことである。

 当時のシュミラルは25歳、ラダジッドは28歳であった。

 場所はジェノスの宿場町、その露店区域においてのことだ。

 シュミラルはその地において、運命の相手に巡りあうことになったのだった。


「……あの娘、美麗でした」


 最初、シュミラルはそんな風に言っていた。ギバ料理という珍しい屋台で、南の民の一団と悶着になりかけた、その帰り道のことである。

 シュミラルの声が聞こえていたのは自分だけであったようなので、ラダジッドは「何でしょう?」と聞き返してみせた。


「いえ。あの娘、美麗、思っただけです」


「あの娘とは? 誰でしょう?」


「……ギバ料理、屋台、娘です」


 ラダジッドには、いまひとつ承服しかねる言葉であった。


「あの娘、肉、多いです。美麗、相応しくない、思います」


「そうですか?」と、シュミラルは目を見開いた。

 ずいぶん驚いている様子である。


「肉、多い……気づきませんでした。確かに、そうかもしれません」


「悪い人間、思いません。ただ、美麗、相応しくない、思います」


「はい。……ですが、私、美しい、思いました。理由、わかりません」


 その理由がわかったのは、数日後のことであった。

 シュミラル自らが、そのように主張してきたのである。


「私、あの娘、表情、声、仕草、美しい、思います。よって、外見、美麗、感じた、思います。ようやく、納得できました」


「……私、納得できません。美麗、言葉、間違っていませんか?」


 シュミラルはもどかしそうに首を横に振ると、ラダジッドに耳打ちしてきた。


『言葉は間違っていない。内面が美しい人間は、外見も美しく見えるのではないだろうか? たとえ東の民よりも太い身体をしていたとしても、私はあの娘を美しいと感じたのだ』


『……シュミラルは、何をむきになっているのだ? あの娘が美しかろうが醜かろうが、大した話ではなかろう』


『いや。あの娘を醜いと言われるのは、とても不本意に思う』


 と、シュミラルは眉をひそめる始末であった。

 シュミラルがここまで表情を動かすのは、珍しい話である。ラダジッドとしても、捨て置くことができなくなってしまった。


『いったい何だというのだ? まさか、異国の民に恋情を抱いたわけではあるまいな? しかもあの娘はただ異国の民なだけではなく、蛮族として知られる森辺の民であるのだぞ?』


『恋情……これは、恋情なのだろうか?』


『知らん。私としては、そうでないことを願うばかりだ』


 しかし、ラダジッドの願いが聞き届けられることはなかった。

 シュミラルが、その娘――森辺の民ヴィナ=ルウに抱いていたのは、まぎれもなく恋情であったのである。


 シュミラルは、大いに思い悩むことになった。

 そして、それを見守るラダジッドたちも、その苦悩を分かち合うことになった。


 シュミラルが婚儀をあげて新しい家族を得ることは、団員の誰もが願っていたことであるのだ。

 しかしそれが異国の民となると、話が違ってくる。しかも相手は、勇猛と名高い森辺の民である。森辺の民がシムへの嫁入りなど許すとは思えなかったし、かといってシュミラルが婿入りをすれば《銀の壺》として働けなくなってしまう。それではラダジッドたちも、手放しで祝福することはできなかった。


(しかし……それでも私たちは、祝福するべきなのだろうか? シュミラルの孤独がそれで解消されるなら、快く送ってやるべきなのだろうか?)


 そんな風に考えてから、ラダジッドは(いや!)とひとりでかぶりを振った。


(シュミラルは行商人として世界を巡ることを、何より愛しているのだ。シュミラルがこの生活を捨てるとは思えないし……それを捨てたことで、シュミラルが幸福になれるとは思えん)


 それではいったい、どうするべきなのか。ラダジッドには、皆目見当もつかなかった。

 そうして、ジェノスを出立する日取りが迫ってきた頃、シュミラルはついに決断したのである。


『私はルウの家に、婿入りを願おうかと思う』


 夜、宿屋の大部屋にて、シュミラルはそのように宣言した。

 10名の団員は、全員が顔をそろえている。表情を崩す者はいなかったが、しかし平穏な気持ちでいられる者もいないはずだった。


『それでは西の王国に神を移して、《銀の壺》をやめてしまうおつもりなのですか?』


 そのように問い質したのは、1番の新参である若者であった。

 そちらに向かって、シュミラルは『いや』と首を振る。


『むろん、婿入りするには神を移す必要があろう。しかし私は、《銀の壺》で働き続けたいと願っている』


『西の民となったら、行商は続けられないでしょう? いや、西の民というよりは、森辺の民ですね。彼らは私たちが考えていた以上に清廉な人々であったようですが、それだけに、狩人の仕事に誇りを抱いているように思います。シュミラルが森辺に婿入りしたならば、狩人として生きることを求められるのではないでしょうか?』


『森辺に留まる間は狩人としての仕事を果たし、それ以外では《銀の壺》の一員として働きたいと願っている。私は、そのように伝えるつもりだ』


 そう言って、シュミラルは深く頭を垂れた。


『もちろん、私が西の民となったらマヒュドラと取り引きをすることも難しくなるので、皆には大きな迷惑をかけてしまうことになるだろう。しかし私は、それに代わる販路を見出して、同じだけの富が得られるように力を尽くそうと考えている。どうにか、肯じてもらえないだろうか?』


 すると、星読みをたしなむ年配の男が『では……』と声をあげた。他の団員たちが代替わりした現在、彼だけは《銀の壺》に留まっていたのだ。


『シュミラルが、新たな商団を作りあげるというのは如何でしょう? シュミラルほどの才覚をお持ちであれば、西の王国で力のある行商人を集めることも難しくはないかと思われます』


 シュミラルは、とても苦しげに眉をひそめた。


『本来であれば、そうするべきなのであろうが……しかし私は、《銀の壺》を失いたくないと思っている。たとえ西方神に神を移したとしても、皆はかけがえのない同胞であるのだ』


『そうですよ! シュミラルがいなくなってしまうのであれば、私だって《銀の壺》に入団した意味がなくなってしまいます!』


 若い団員を筆頭に、全員が不満の声をあげた。

 年配の団員は、『そうですか』と満足げに目を細める。


『ならば、この場の全員が納得できる道を探す他ありますまい。……副団長たるラダジッドは、どのようにお考えなのでしょうか?』


『……うむ。まるで悪夢を見ているような心地だな』


 そうしてひとつ息をついてから、ラダジッドは言葉を重ねた。


『しかし、なんとか道を探す他あるまい。我々は、運命をともにする同胞であるのだからな』


                    ◇


 それから、長きの時が過ぎ――シュミラルはついに、ヴィナ=ルウと婚儀をあげることになった。

 シュミラルがヴィナ=ルウを見初めてから、すでに1年と4ヶ月ていどが過ぎている。そのうちの半年はジェノスを離れていたので、残りの時間でシュミラルは自らの望みを果たすことになったのである。


(まさか本当に、こんな話を実現させてしまうとはな)


 シュミラルは、《銀の壺》として活動を続けることも、森辺の族長ドンダ=ルウに認めさせていた。なおかつ、マヒュドラの商売においても、取り引きを継続したいと言ってもらえている。これだけ無茶な話でありながら、シュミラルは何を損なうことなく、希望通りの結果をつかみ取ってみせたのだった。


(いや、ただひとつ、シュミラルは団長の座を手放すことになってしまったが……それでもこのようなことは、決して誰にも真似できぬだろう。シュミラルだからこそ、成し遂げることがかなったのだ)


 ラダジッドは内心で、そのようにひとりごちた。

 現在は、リリンの家において開かれた祝宴のさなかである。シュミラルが正式な家人と認められてリリンの氏を授かったことも、その末にヴィナ=ルウと結ばれたということも、今日の昼下がりに聞いたばかりで、ラダジッドはまだまったく平穏な気持ちを取り戻せていなかった。


 盛大なかがり火に照らされながら、人々は料理と果実酒を楽しんでいる。《銀の壺》の団員と、リリンの家人たちと、リリンの血族であるルウやルティムやレイの人々と、ファの人々――人数はせいぜい30名ほどのはずであったが、その倍ぐらいの人間が集まっているのではないか思えるほどの賑やかさであった。


 これが森辺の民の持つ、強靭なる生命力の表れであるのだ。

 ラダジッドとしては、森そのものの腕に抱かれているような心地であった。


(それに、シュミラルも……いや、シュミラル=リリンも森辺の民に相応しい力を手に入れたのだ)


 同じ敷物に座したシュミラル=リリンの姿を、ラダジッドはそっと盗み見た。

 ラダジッドがシュミラル=リリンに再会したのは、およそ10ヶ月ぶりである。その10ヶ月ほどで、シュミラル=リリンは驚くべき変貌を果たしていたのだった。


 外見上に、そこまでの変化があったわけではない。また、他の狩人たちのように猛々しい生命力を発散させているわけでもない。しかしシュミラル=リリンは、明らかに大きな変化を遂げていた。

 雰囲気は、むしろ以前よりも沈着さが増したぐらいである。あの優しげでやわらかい雰囲気はそのままに、どっしりと根を張った大樹のような風格が備わっていたのだった。


「……どうかしましたか、ラダジッド?」


 と、伴侶たるヴィナ・ルウ=リリンと低く言葉を交わしていたシュミラル=リリンが、ふいにこちらを振り返ってきた。


「いえ。シュミラル=リリンの変化、検分していただけです。……狩人、視線、敏感ですね」


「ラダジッド、からかっていますか?」


 シュミラル=リリンは、はにかむように微笑んだ。

 その笑顔も、10ヶ月前よりはるかに自然になっている。シュミラル=リリンの魅力的な人柄がそのまま表出したような笑顔であった。


(どれだけ変わっても、シュミラル=リリンはシュミラル=リリンのままであるのだ。それは当たり前のことなのだろうが……なんと得難きことであるだろう)


 そのとき、小さな人影がちょこちょこと駆け寄ってきた。


「お仕事、やっと終わったよー!」


 元気いっぱいの声とともに、ヴィナ・ルウ=リリンを後ろから羽交い絞めにする。それはヴィナ・ルウ=リリンの妹であるリミ=ルウであり、続いて他の姉妹たちもこちらに近づいてきた。


「お疲れ様ねぇ、リミ、レイナ、ララ……今日はリリンの家のために、どうもありがとう……」


「なーに言ってんのさ! ルウとリリンは血族だし、このお人らはシュミラル=リリンの同胞なんだからね!」


 真っ赤な髪を頭の天辺で結んだララ=ルウが、ラダジッドたちにも笑いかけてくる。ヴィナ・ルウ=リリンの妹たちは、ひときわ強い生命力と明るい気性と清廉なる魂を有しているように感じられた。

 シュミラル=リリンは穏やかに微笑みながら、それらの姉妹を見回していく。


「お疲れ様です、レイナ=ルウ、ララ=ルウ、リミ=ルウ。皆、宴料理、口にできましたか?」


「ルドたちが運んできてくれたから、ちょっぴりね! でも、まだお腹ぺこぺこー!」


「では、ヴィナ・ルウ、ともに、かまど、巡ってはどうでしょう?」


「えー? だけどヴィナ姉は、客人のお相手をしなくちゃいけないんでしょ?」


「役目、十分、果たしました。それに、ラダジッドたち、さまざまな相手、言葉、交わしてほしい、思います。そろそろ、頃合いでしょう」


 この姉妹たちはヴィナ・ルウ=リリンと離れて暮らすことになってしまったため、その心情を思いやっているのだろう。シュミラル=リリンとは、そういう人間であるのだった。

 ヴィナ・ルウ=リリンはそんな伴侶のことを愛おしげに見つめてから、「そう……」と立ち上がる。


「それじゃあわたしは、かまどをひと巡りしてくるわねぇ……他のお客人たちにも挨拶をしておきたいし……」


「はい。またのちほど」


 4人の娘らが、敷物を離れていく。

 それを見送っているさなか、ラダジッドの胸中に抑え難い衝動が走り抜けた。


「私、ヴィナ・ルウ=リリン、伝えたいこと、思い出しました。しばし、失礼します」


 ちょっと驚いた顔をするシュミラル=リリンたちをその場に残し、ラダジッドはヴィナ・ルウ=リリンたちを追いかけた。


「ヴィナ・ルウ=リリン、しばし、よろしいですか?」


 かまどで料理を受け取っている妹たちを見守っていたヴィナ・ルウ=リリンが、やわらかい笑みを浮かべてラダジッドを振り返る。


「あらぁ、どうしたのかしらぁ……わたしに何かご用事……?」


「はい。ひとつだけ、伝えておきたい、思ったのです」


 シュミラル=リリンと再会できた喜びや、祝宴の熱気や、果実酒の酒気や――さまざまなものが、ラダジッドを昂揚させていたのだろう。ラダジッドは、胸中からせり上がってきた言葉を、そのまま口にすることになった。


「シュミラル=リリン、《銀の壺》、愛していました。かつての団長、父親、心より、敬愛していました。そして、父親、跡を継ぎ、団長、つとめていたこと、誇り、思っていたはずです。しかし、シュミラル=リリン、あなた、婚儀、あげるため、団長の座、捨てたのです」


 ヴィナ・ルウ=リリンは同じ表情のまま、ラダジッドの言葉を聞いてくれていた。

 ラダジッドは、さらに言葉を重ねてみせる。


「つまり、シュミラル=リリン、それだけ、あなたのこと、愛しているのです。あなた、運命の相手だったのです。あなた、シュミラル=リリン、出会ったこと、私、祝福します。末永き幸福、心より、祈ります」


「ありがとう……それをわざわざ伝えに来てくれたのねぇ……」


「はい。伝えずに、いられませんでした」


 ヴィナ・ルウ=リリンは目を細めて、さらにやわらかく微笑した。

 慈愛に満ちた、女神のごとき微笑みである。


「本当にありがとう……わたしはシュミラルに見初めてもらった身だけれど……いまでは同じぐらい強い気持ちで、シュミラルを愛しているつもりよぉ……大事な団長の座を捨てたシュミラルと、比べることなんてできないかもしれないけれど……」


「いえ、そのようなこと、ありません。私、あなた、信じること、できます」


 ラダジッドは初めて、ヴィナ・ルウ=リリンのことを美しいと感じていた。

 その表情や、声や、仕草が美しいと言っていたシュミラル=リリンの言葉を、ようやく心から理解することができた。

 ヴィナ・ルウ=リリンは、こんなにも清廉で、情愛深く、そして燃えあがらんばかりの生命力にあふれた人間であったのだった。


「シュミラル=リリン、半年後、必ず、無事、戻ります。私、約束します。どうか、シュミラル=リリン、信じて、待っていてください。……そして、あなたも、壮健のまま、シュミラル=リリン、迎えてください」


「ええ、もちろんよぉ……シュミラルとあなたたちの無事を、毎日森辺で祈らせていただくわぁ……」


「はい。ありがとうございます」


 ラダジッドは深々と一礼し、最後にヴィナ・ルウ=リリンの笑顔を目に焼きつけてから、きびすを返すことにした。

 敷物では、シュミラル=リリンたちも席を立とうとしている。ヴィナ・ルウ=リリンたちとは別に、他の敷物やかまどを巡ろうとしているようだった。


「ラダジッド、どうしましたか? ヴィナ・ルウ、何の用事だったのです?」


 シュミラル=リリンに問われたので、ラダジッドは「はい」とうなずいてみせた。


「シュミラル=リリン、どれほど、ヴィナ・ルウ=リリン、愛しているか、伝えてきました」


「ラダジッド、また、からかっているのですか?」


 そのように言ってから、シュミラル=リリンはわずかに目を見開いた。


「いえ……軽口、違うのですか?」


「はい。軽口、違います」


 ラダジッドがそのように答えると、シュミラル=リリンは気恥ずかしそうに口もとをほころばせた。


「それでは、余計、気恥ずかしいです」


 シュミラル=リリンの黒い瞳は、純朴な少年のようにきらめいていた。

 それはまるで、初めてラダジッドと出会ったときのような眼差しであった。

 ラダジッドはふいに目頭が熱くなり、それをこらえるために暗い天空を振り仰いだ。


(シュミラル=リリンは、もう一生分の不幸や苦しみを味わわされたはずだ。どうかこの先は、その分まで幸福な行く末を……西方神よ、東方神よ、運命神ミザよ……シュミラル=リリンの行く末を、明るく照らしたまえ)


 天空には、さまざまな星図が描かれている。

 占星師ならぬラダジッドにその意味を読み取ることはかなわなかったが、今度こそ、シュミラル=リリンの明るい行く末を信じることができた。

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