揺籃のかまど番(下)
2019.10/2 更新分 1/1
それからは、たゆみない修練の日々が続いた。
母親がアスタから習い覚えた、6種の料理を研鑽する日々である。
『ギバ・スープ』、『ギバ・ステーキ』、『ギバの肉団子』、『肉野菜炒め』、『ギバ肉の果実酒煮込み』――そして、『焼きポイタン』という6種の料理だ。
この中でもっとも難渋したのは、『ギバ肉の果実酒煮込み』である。
その料理は幾度となく取り組んでみても、まったく納得のいく味に仕上がらなかったのだ。
もちろん他の料理だって、改善の余地はいくらでもあるのだろうと思う。しかし、『ギバ肉の果実酒煮込み』は完成形が見えなかった。食材の分量や火加減などをいくら試行錯誤してみても、何か欠けているように思えてならない。それでも家族らは喜んで食べてくれていたが、マルフィラ=ナハムとしては泥沼の中でもがいているような心地であった。
そこに光明が差したのは、月が巡って茶の月を迎えてからであった。
その日はナハムとヴィンによって、婚儀の祝宴が行われることになっていたのだ。
ヴィンというのは、ここ数ヶ月でラヴィッツの眷族となった氏族である。もともとはファの家の行いに賛同していた立場であったのだが、このままでは氏が滅ぶと覚悟を決めて、ラヴィッツの眷族になることを願い出てきたのだった。
現在のところはヴィンの女衆がラヴィッツに嫁入りをしただけで、ナハムとヴィンによる婚儀はこれが初めてのことであった。
つまり、ナハムとヴィンが初めて血の縁を結ぶ、重要な儀式なのである。婚儀をあげるのはどちらも分家の人間であったが、その日はすべての血族がラヴィッツの集落に集められて、盛大な祝宴を開くことになった。
「しかも今回は、美味なる料理の手ほどきを受けてから、初めての祝宴だからね。なかなかの騒ぎになりそうじゃないか」
母親は、そのように言っていた。
その言葉が、マルフィラ=ナハムに天啓をもたらしたのだった。
「か、か、母さん。そ、それじゃあその日の祝宴では、普段以上の食材が使われるのかなあ?」
「うん? そりゃあ祝宴では、豪勢な宴料理を準備するのが習わしだからね。ここ最近は銅貨にも困ってないし、タラパやティノやミャームーぐらいは準備してやらないと」
そんな風に答えてから、母親もはたと思い至ったようだった。
「ああ、そうか。あたしらはファの家のアスタから、ギバ肉とアリアとポイタンの扱い方しか習ってないんだよね。まあ、あれだけ立派な汁物料理を作れるようになったんだから、そいつに色々とぶちこんでやれば――」
「そ、そ、それならわたしに、タラパやティノやミャームーの使い方を考えさせてもらえないかな?」
「あんたに?」と、母親は軽く眉をひそめた。
「うん……まあ、あんたはずいぶんとかまど仕事が得意になったみたいだしね。あたしらが扱うよりは、よほど上手にやれそうだ」
そんな経緯で、マルフィラ=ナハムはナハムの家で準備する料理の取り仕切り役を任されることになった。
仕事場は、ラヴィッツの集落のかまど小屋である。手が空いた女衆はいつでも作業を始めてよいという連絡を受けていたので、昼下がりには母親や末妹とともにラヴィッツの集落を訪れることになった。
「おやおや、もう宴料理を作ろうというのかい?」
ラヴィッツの本家で待ちかまえていたのは、家長の伴侶たるリリ=ラヴィッツであった。小柄でふくよかな体格をした、とても柔和そうだが厳格なる一面を持つ女衆である。
「ええ。このたびは扱いなれない野菜を使うので、それでも立派な宴料理を準備できるように、力を尽くしたいと思います。家の仕事が済みましたら、分家の者たちもやってくる手はずになっておりますので」
母親がそのように答えると、リリ=ラヴィッツは「なるほどねえ」とにっこり微笑んだ。
「まあ、家の仕事をおろそかにしていないなら、好きにしておくれ。……ルウやファの家なんかではこういう祝宴のとき、朝から宴料理の準備に取りかかるという話だからねえ」
「朝からですか。そんなに手間のかかる料理なんて、ちょっと想像がつかないですねえ」
そんな言葉を交わしたのちに、一同は本家のかまど小屋へと導かれた。
かつてはファの家のアスタが、この場で母親やリリ=ラヴィッツたちに料理の手ほどきをしたのである。そのように考えると、マルフィラ=ナハムはむやみに昂揚してしまった。
「食材は、タラパとティノとミャームーを準備しているよ。量はあるんで、好きなように使っておくれ」
「えっ! こんなにたくさんの野菜を準備してくださったのですか?」
かまど小屋の食料庫にて、母親は驚きの声をあげることになった。確かにその場にはタラパもティノもミャームーも、これまで見たこともないほどの量が山積みにされていたのである。
「ラヴィッツの家は、ファの家の仕事を手伝うことで、これまで以上の銅貨を手にすることになったからねえ。その中からいくらかを、今日の祝宴でつかうことにしたんだよ」
「そうなのですねえ……だけどこの前は、ナハムとヴィンにまで薬の余分を配ってくださったところですのに……」
「あたしはラヴィッツの血族の代表としてファの家の仕事を手伝うことになったんだから、その代価を血族で分け合うのは当たり前のことだろう? それを独り占めしちまったら、かつてのスン家と何も変わらないじゃないか」
そう言って、リリ=ラヴィッツはにこやかに微笑んだ。
いつも柔和な面持ちでありながら、実はどこかに怖い部分のあるリリ=ラヴィッツであるのだが、これが親筋の度量というものであるのだろう。母親のかたわらにひっそりと控えながら、マルフィラ=ナハムも内心で感銘を受けることになった。
また、それと同時にマルフィラ=ナハムは、目の前に積まれた食材の山のほうに大きく胸を騒がせてしまっていた。まさか、これほど大量の食材が準備されているとは考えてもいなかったのである。
「いちおうあたしも、ティノやタラパやミャームーの使い方ってやつを、アスタに聞いてみたんだけどねえ。これらはみんな使い勝手がいいんで、そんなに悩む必要はないって言われたよ。ティノもタラパも焼くより煮込むほうが簡単だって話だねえ」
「そうですか。それなら、あんたの考えも上手くいくかもしれないね」
と、母親がマルフィラ=ナハムに向かって言うと、リリ=ラヴィッツも視線を差し向けてきた。
「あんたは、ナハム本家の三姉だったね。何か考えがあったのかい?」
「は、は、はい。わ、わたしたちは、以前に習い覚えた『ギバ肉の果実酒煮込み』を作る予定でした。そ、そ、それで、その料理にタラパとミャームーを使ってみようと考えたのです」
「タラパとミャームーを?」
「は、は、はい。あ、あの料理には、何か肝心なものが欠けているような気がしてしまって……タ、タラパとミャームーを使えば、それを埋められるのではないかと考えついたのです」
リリ=ラヴィッツは糸のように目を細めて、再び「ふうん……?」とつぶやいた。
「煮込み料理に、タラパとミャームーをねえ……それは、あんたが考えついたのかい?」
「は、は、はい。は、初めての試みですので、上手くいくかはわかりませんけれども……」
リリ=ラヴィッツは、しばらく無言でマルフィラ=ナハムを見つめていた。
その末に、「そうかい」と口の端を吊り上げる。
「それじゃあ、好きなようにやってみな。アスタから習った料理にタラパやミャームーを使うのは初めてなんだから、どんな出来になっても文句を言う人間はいないさ」
「あ、あ、ありがとうございます。み、みなさんに喜んでいただけるように、励みます」
そうして、調理は開始された。
とはいえ、すべてが手探りの状態である。いきなり大量の食材を使って大失敗をしたら目もあてられないので、マルフィラ=ナハムはまず味見用の料理をこしらえることにした。
「ああ、ひとつ伝えておこうかねえ」
と、マルフィラ=ナハムたちが作業を開始したところで、リリ=ラヴィッツがそのように言いたててきた。
「ミャームーの香りを強く出したいときは、最初にギバの脂で炒めればいいって、アスタはそんな風に言っていたよ」
「ギ、ギ、ギバの脂ですか。しょ、承知しました。ご、ご助言、ありがとうございます」
リリ=ラヴィッツの言葉にならい、マルフィラ=ナハムは薄く切り分けたミャームーをギバの脂で炒めてみた。
とたんに、懐かしい香りがかまどの間を満たしていく。ナハムやラヴィッツでは祝宴の際にしか嗅ぐことのできない、ミャームーの香りである。
「うーん、いい匂い! ミャームーの匂いって、お腹が空いちゃうよねー」
リリ=ラヴィッツの耳を気にしながら、末妹がそのように囁きかけてきた。リリ=ラヴィッツは家に戻ろうとせず、ずっとその場でマルフィラ=ナハムたちの働きっぷりを眺めていたのだ。
マルフィラ=ナハムも落ち着かないものを感じながら、作業を進めていく。ミャームーが焦げつかないうちに、今度は細かく切り刻んだアリアを加えて、色が変わるまでじっくり炒めるのだ。
その間に、母親は肉の表面を焼いてくれている。あとはその肉をこちらの鉄鍋にまとめて、塩とピコの葉を加えたのち、果実酒で煮込めば完成であるのだが――そこに、タラパを加えることにした。
「ねえねえ、マルフィラ姉はこの料理の酸っぱさが気になるって言ってたんだよね? そこにタラパを入れたら、余計に酸っぱくなっちゃうんじゃない?」
作業を手伝ってくれていた末妹が、そのように問うてきた。
マルフィラ=ナハムは「え、ええと……」と言葉を探す。
「そ、そ、それは確かにそうだと思うんだけど……で、でも、タラパって煮込むと甘みが出てくるでしょう? あ、あの甘みが、酸味を抑えてくれるんじゃないかなあ」
「えー? タラパって甘くなるっけ? 煮込むと少し酸っぱさが薄まるぐらいじゃない?」
「う、うん。だ、だからそれが、タラパの甘みのせいだと思うんだけど……ち、違うのかなあ? そ、それに、タラパの酸味と果実酒の酸味が重なることで、もっと口あたりがよくなるんじゃないかって思ったんだけど……」
「うーん、わかんない! でもまあ、マルフィラ姉の好きにやってみたらいいよ!」
そう言って、末妹は無邪気に微笑んだ。
料理が完成するにはかなりの時間がかかるので、その間に本番用の下準備を進めることにする。血族の全員に配るには、かなりの量のアリアを細かく刻まなければならないのだった。
「……あたしはルウやファの家で、下ごしらえの仕事ってやつも見物させてもらってるんだけどねえ」
と、リリ=ラヴィッツがふいにそのようなことを言いだした。
「あんたのやってることは、ルウ家での下ごしらえとよく似てるよ。あっちは焼いた肉じゃなく、肉団子を平べったくしたようなものを煮込むんだけどさ」
「そ、そ、そうなのですか? そ、それではこれも、肉団子の味に合うのでしょうか?」
「うん。だけど、肉団子だとそこまで長々と煮込む必要はないから……やっぱり別の料理ってことになるのかねえ」
確かに、肉団子をそこまで長く煮込んだら、形が崩れてしまいそうなところであった。
なおかつ、長い時間を煮込まないならば、肉の出汁が煮汁に溶け込まない。それでは、別種の料理となろう。
(でも……ルウ家の人間が作ってるってことは、別種の美味しさがあるのかな? 肉と煮汁におたがいの美味しさを溶け込ませる料理ではなく、肉の美味しさを際立たせるための煮汁……ということなのかもしれない)
マルフィラ=ナハムは、なんだか背中がむずむずとしてしまった。
それがどういう美味しさであるのか、知りたくてたまらなくなってきてしまったのである。
「あ、あ、あの、それはどういう作り方であるのでしょうか?」
「うん? それって、ルウ家の料理のことかい? そうだねえ……肉の扱いの他は、煮込み料理と大きな違いはないように思うよ。刻んだミャームーとアリアを炒めて、タラパと果実酒を一緒に煮込んで、塩とピコの葉で味付けをして……ああ、だけど、あれはタラパのほうをたっぷり使って、果実酒はちょろっとしか入れてなかったねえ」
「その後に、肉団子のような肉を投じるのですか?」
「ああ。表面を焼いた肉を煮汁で煮込んで、それで中まで熱が通ったら完成ってことだね。宿場町で、ぎばばーがーとか呼ばれてる料理だよ」
そうしてリリ=ラヴィッツは、にんまりと微笑んだ。
「よかったら、そっちの料理も作ってみたらどうだい? もうすぐラヴィッツの女衆も集まるから、肉やアリアを刻む仕事はそっちに任せられるしねえ」
「う、うちの娘に、ラヴィッツの準備する料理の取り仕切りまで任されるのですか?」
母親が驚いた声をあげると、リリ=ラヴィッツは「ああ」とうなずいた。
「煮込みの料理だけじゃあ、あれだけのタラパは使いきれないだろう? ヴィンの女衆にはいつもの汁物料理とポイタンの準備を頼んでいたから、タラパやミャームーはどんな風に使うか決めかねてたんだよ」
「あ、し、汁物料理でしたら――」と言いかけたマルフィラ=ナハムが慌てて口をつぐむと、リリ=ラヴィッツは「なんだい?」と楽しそうに目を細めた。
「あ、い、いえ、汁物料理にも、ほんのちょっぴりだけミャームーを使ったら、美味しくなるんじゃないかと思ったのですけれど……わ、わたしも実際に試したことがあるわけではないので、よくわかりません」
「汁物料理に、ミャームーをね。でもそれは、べつだんおかしな作り方じゃないだろう? これまでだって、タラパやティノやミャームーは、みんな汁物料理にぶちこんでいたんだからさ」
「は、は、はい。で、ですがこれまでは、そこにポイタンも投じていました。ポ、ポイタンを入れると味がもったりしますし、そもそもこれまではギバの臭みが強かったので、ど、どれだけミャームーを入れても味が壊れることはなかったと思うのです」
「味が、壊れる……?」
「は、は、はい。で、ですが、ギバの臭みがなくなって、ポイタンを入れなくなった汁物料理に、あまりたくさんのミャームーを入れると、せっかくの風味がかき消されてしまうように思います。い、いまの汁物料理は、とても繊細な味ですので」
「繊細な味、ねえ……」
リリ=ラヴィッツは、いよいよ愉快そうに微笑んだ。
「うん、わかったよ。それじゃあ汁物料理にどれぐらいのミャームーを使うかは、あんたに決めてもらおうか」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
「ちょっと!」と、母親が慌てたような声をあげた。
「あんた、わかってるのかい? 今日の婚儀は、とりわけ大事な婚儀なんだよ? こんな日に、もしも不出来な宴料理を出しちまったら――」
「あたしらは、血抜きをしていないギバ肉とポイタンを使って宴料理をこしらえていたんだよ? それより不出来じゃない限り、誰も文句を言ったりはしないさ」
リリ=ラヴィッツが、母親の言葉をさえぎってそう言った。
「試しに、あんたが取り仕切ってごらん。今日はナハムとヴィンの婚儀なんだし、あたしよりもナハムの人間が取り仕切るほうが相応だろうさ」
そうしてマルフィラ=ナハムは、3種の料理の取り仕切り役を担うことになった。
というか、あとはおそらく『ギバ・ステーキ』を準備するぐらいなのだろう。これまでの祝宴では焼いた肉と汁物料理ぐらいしか準備していなかったのだから、これでも十分すぎるぐらいの品数であった。
マルフィラ=ナハムはあちこちのかまど小屋を駆け巡り、なんとかそれらの仕事を果たしてみせた。
その仕上がりに満足できたかというと、やはり難しいところである。数ヶ月に1度しか触れる機会のない食材を扱うというのは、かなり難儀な話であった。
だがしかし、祝宴に集まった人々はみんな満足そうにそれらの料理を食べてくれていたので、マルフィラ=ナハムも胸を撫でおろすことができた。
(美味なる料理を作りあげるって、こんなに難しい仕事だったんだなあ。もっともっと、わたしも頑張らないと)
それからは、また鍛錬の日々であった。
相変わらず、使える食材には限りがあったが、学ぶべき事項が尽きることはなかった。火加減、塩加減、分量の加減に始まって、ギバ肉の部位ごとの扱いや、果てには臓物の扱いまで、修練の余地はいくらでも残されていたのである。
また、収穫祭や婚儀の祝宴では、さらに数多くの野菜を使うことが許された。
チャッチ、ネェノン、ギーゴといった、これまでにも何度かは口にしたことのある野菜たちである。それらをこれまでの食材とどのように組み合わせて使うべきか、そこでも大いに頭を悩ませることになった。
それらの食材に関して、手掛かりを与えてくれたのはリリ=ラヴィッツである。
リリ=ラヴィッツはおよそ3日に1度の割合でファの家に出向いたので、そこで得た知識を惜しみなく血族に伝えてくれたのだった。
マルフィラ=ナハムにしてみれば、まだ見ぬファの家のアスタに手ほどきをされている気分である。
しかしリリ=ラヴィッツによると、それらもほんの初歩の手ほどきにすぎないのだという話であった。
「何せ宿場町には、これまで目にしたこともなかった食材があふれかえっているからねえ。そういうもんに手を出すのはまだ早いだろうから、あたしは自分の見知った野菜だけを買うようにしているんだよ」
リリ=ラヴィッツは、そんな風に語っていた。
リリ=ラヴィッツがファの家の仕事を手伝うようになって以来、その帰りがけに眷族の分まで買い出しの仕事を果たしてくれていたので、マルフィラ=ナハムはここしばらく宿場町に下りていなかった。それに、美味なる料理の素晴らしさを思い知らされるまでは目新しい食材などに興味は引かれていなかったので、それ以前の記憶もおぼろげであった。
(まあ、わたしが目新しい食材なんかに興味を抱いたって、しかたないしな。それよりもまず、チャッチやネェノンやギーゴなんかを使いこなせるようにならないと)
そうして日々は、瞬く間に過ぎていった。
変転が訪れたのは、マルフィラ=ナハムが美味なる料理と出会ってから、およそ半年後――青の月を迎えてからである。
青の月の10日。ついに家長会議にて、ファの家の行いの是非が問われることになったのだ。
アスタたちが宿場町で行っている商売は、森辺の民にとって益となるのか、害となるのか、それが結論づけられるのである。
それで宿場町の商売が取りやめられることになっても、美味なる食事を作ることまで禁じられたりはしないのだろうが――それでもマルフィラ=ナハムは、眠れぬ夜を過ごすことになってしまった。
「大丈夫だってば! 家長たちだって、いまさら臭みのあるギバ肉でこしらえたポイタン汁なんてすすりたくないでしょ!」
末妹などは、そう言っていた。
その答えが示されたのは、翌朝のことだった。
スンの集落から帰還した家長が、「すべて認められた」と告げてくれたのである。
「美味なる料理も、宿場町での商売も、町の人間と正しき絆を結ぶべきだという話も、ファの家の主張はすべて正しい行いであると認められることになった」
その言葉を聞いて、マルフィラ=ナハムはへなへなとくずおれてしまった。
あまり感情を出さない家長が「どうしたのだ!」と驚きながら、その身を支えてくれたものである。
「ご、ご、ごめんなさい。き、昨日はあまり眠れなかったもので……」
「お前はそれほどに気を病んでいたのか? たとえファの家の主張が退けられようとも、美味なる料理の存在まで否定されることなどはなかろうが」
そう言って、家長は静かに微笑んでくれた。
「美味なる料理が俺たちに大きな力と喜びを与えてくれるという事実は、この半年ほどで思い知らされているのだからな。……これからも、かまど番の仕事に励むがいい」
「は、は、はい。み、みんなに喜んでもらえるように、力を尽くします」
そうして平穏な日々が戻ってきた――かに思われた。
しかし、マルフィラ=ナハムにとっての本当の変転は、その後に思いも寄らぬ方向から迫り寄ってきたのである。
それは、家長会議を終えてから数日後、大きな地震いによって分家の家屋が崩落し、その再建に取り組んでいるさなかのことであった。朝の早くから家長がラヴィッツの家に呼び出され、戻ってきたときにはリリ=ラヴィッツを引き連れていたのだった。
「マルフィラよ、少し話がある。手を休めて、こちらに来るがいい」
木材を運んでいたマルフィラ=ナハムはそれを目的の場所に設置してから、家長とリリ=ラヴィッツのもとに向かった。
家長は厳しく引き締まった面持ちをしており、リリ=ラヴィッツは柔和に微笑んでいる。しかしそれはいつものことであったので、ふたりの内心を推し量ることは難しかった。
「たったいま、ラヴィッツとナハムとヴィンの家長で話し合いをしてもらって、ひとつの話が取り決められたんだよ。それで、あんたの力を貸してもらいたいってことになったのさ」
「は、は、はい。ラ、ラヴィッツやヴィンでも家が崩れてしまったのですよね。わ、わたしでよければ、どこにでも出向きます」
「いや、そういう話じゃないんだよ。実はまた、ファの家から提案を持ちかけられてねえ」
そう言って、リリ=ラヴィッツはにんまりと微笑んだ。
「どうやらアスタの仕事を手伝っていたディンの家人が、自分で屋台を出すことになったそうなんだよ。それでその穴を埋めるために、ラヴィッツの血族から人手を借りたいと願われたわけさ」
「な、な、なるほど。い、家を建てなおす仕事のさなかに、それは大変ですね」
「……それであたしは、あんたに出向いてほしいんだけどねえ」
「そ、そ、そうですか。ディ、ディンの家人の代わりに、わたしがファの家の仕事を――」
そこまで言いかけて、マルフィラ=ナハムは「ええっ!?」と文字通り飛び上がることになった。
「ど、ど、どうしてわたしなどが? そ、そ、それは森辺の行く末を左右するほどの、大事な仕事であるのでしょう?」
「何を言っているんだい。ファの家の行いの是非を見定めるって仕事は、もう終わったろう? いまはただ、かまど番としての仕事を手伝うってだけの話さ」
リリ=ラヴィッツは、実に楽しげな面持ちであった。
「それにあんたは最初っから、ファの家の仕事を手伝うことを望んでたんじゃないのかい? あたしはこの家長から、そんな風に聞いてるんだけどねえ」
「そ、そ、それはその通りですが……で、で、でも、わたしのような若輩者が、ファの家の手伝いをするだなんて……」
「でも、あんたは力が強いし、手先も器用だ。それにいまじゃあ、ラヴィッツの血族で一番のかまど番なんじゃないのかねえ?」
「そ、そ、そんなことはないと思います。わ、わたしはいまだに、満足のいく料理のひとつも作れていませんし……」
「それでも祝宴なんかで一番立派な料理を作ることができていたのは、あんたのはずさ。誰に聞いたって、そんな風に答えるはずだよ」
そこでリリ=ラヴィッツは、糸のように細い目をきらりと光らせた。
「あたしらとしても、不出来な人間を出すわけにはいかないんだよ。ファの家の仕事を手伝うなら手伝うで、他の氏族に負けない人間を出さないと面目が立たないからねえ。ラヴィッツの血族はファの家と悪縁があるために、あえて不出来な人間を差し出した……なんて勘繰られたら、こんなに不愉快なことはないだろう?」
「そ、そ、それはそうなのでしょうれども……」
「だからあたしは、あんたを選んだのさ。どれだけ若くっても、あんたは血族で一番のかまど番だからね」
と、リリ=ラヴィッツは表情をやわらげる。
というか、最初からずっと柔和な笑顔であるのだが、その心情は絶え間なく変化を続けているように感じられた。
「それにあたしらは、町でギバ肉を売るっていう仕事も受け持つことになったろう? そうしたら、ようやく目新しい食材に手を出せるぐらいの富を得られるはずさ。でも、その使い道を習い覚えるには、しっかりとした力を持つかまど番がアスタに手ほどきされなきゃいけない。あたしひとりでそんな大役を担うことはできそうにないから、あんたにも力を貸してほしいんだよ」
「うむ。つまりそれは、血族に大きな喜びをもたらせるかどうかという、きわめて重要な役割であるのだ」
厳しい声で、家長がそう言った。
マルフィラ=ナハムはぞんぶんに目を泳がせつつ、そちらを振り返る。
「だ、だ、だけどそれなら、いっそうきちんとした人を選ぶべきじゃあ……」
「リリ=ラヴィッツは、それがお前であると判断したのだ」
そう言って、家長はマルフィラ=ナハムの肩に手を置いてきた。
大きくて、とても温かい手の平である。
「お前にそのような大役が与えられることを、俺は誇らしく思っている。だからお前にも、どうか覚悟を固めてほしい」
「ほ、ほ、本当に、わたしなんかでいいのですか?」
「あんたじゃないと、駄目なんだよ」
父親の代わりに、リリ=ラヴィッツがそう答えた。
しかし父親の瞳も、同じ思いを語っているようだった。
マルフィラ=ナハムの心臓は、どくどくと高鳴っている。
半年前に捨て去ったはずの期待と願望が、倍する勢いで胸に満ちていたのだった。
「わ、わ、わかりました。わ、わたしのような未熟者では、ご迷惑をかけることも多いかと思いますが……ラ、ラ、ラヴィッツの血族のひとりとして、ち、ち、力を惜しまずに取り組むことを、お約束いたします」
そうしてマルフィラ=ナハムは、ファの家の商売を手伝うことになった。
それがどれほどの喜びと刺激に満ちたものであるのか、マルフィラ=ナハムには想像することも難しかったが、ただひとつ、はっきりしていることがあった。
(わたしはようやく、ファの家のアスタが作ったものを口にすることができるんだ。そして、アスタ自身から料理の手ほどきしてもらうことができるんだ)
それが、幸福でないはずがなかった。
マルフィラ=ナハムの価値観を根底からくつがえすことになったファの家のアスタと、ついに相まみえることがかなうのだ。
気づいたとき、マルフィラ=ナハムはまた滂沱たる涙を流してしまい、父親とリリ=ラヴィッツをたいそう驚かせることになってしまった。
(ファの家のアスタって、いったいどんな人なんだろう……あんまり怖そうな人じゃないといいなあ)
父親とリリ=ラヴィッツの声を聞きながら、マルフィラ=ナハムはぼんやりとそのように考えた。
涙が止まらないために、世界は霞んでしまっている。そこに朝の陽光がにじんで、マルフィラ=ナハムは全身が温かい光に包み込まれているような心地であった。