第八話 揺籃のかまど番(上)
2019.9/30 更新分 1/1 ・10/5 一部、文章を修正
・今回は、群像演舞が全7話で、本編が全3話となります。
その日は朝から、ナハムの集落が騒がしいように感じられた。
時は、金の月の5日のことである。マルフィラ=ナハムは朝からずっとひとりで薪割りの仕事に励んでいたので、しばらくは家人たちが何に騒いでいるのかもわからなかった。
「ああ、マルフィラ、あんたはまだ薪を割ってのかい。いい加減に疲れたろう?」
ピコの葉の詰まった草籠を手に、母親がこちらに近づいてくる。そちらに向かって、マルフィラ=ナハムは「う、ううん」と首を振ってみせた。
「べ、べ、別に疲れてはいないよ。わ、わたしは腕力ぐらいしか自慢するものがないから、ま、薪割りの仕事ぐらいはきちんと果たさないと」
「いいから、少しお休みよ。なんなら、こっちの仕事を手伝っておくれ」
「ピ、ピ、ピコの葉を干すんだね? そ、それじゃあ敷物を持ってこないと」
マルフィラ=ナハムは鉈を置き、小屋から敷物を引っ張り出した。
それをいそいそと地面に広げていると、母親が苦笑まじりに呼びかけてくる。
「あんたはけっこう気がきくし、細かい仕事だって苦手じゃないんだから、腕力ぐらいしか自慢するものがないなんてことはないと思うよ」
「そ、そ、そんなことないよ。こ、この前も水瓶を壊して、そこら中を水びたしにしちゃったし」
「あれはきっと、水瓶が古くなってたんだよ。さ、それじゃあ仕事に取りかかろうかね」
広げた敷物の上に、ピコの葉を均等に広げていく。それはべつだん難しい仕事でもなかったので、母親はマルフィラ=ナハムに休憩を与えるために手伝いを言いつけてくれたのだろう。
まだ緑色をしていて香りも薄いピコの葉にまみれながら、マルフィラ=ナハムは母親の顔をうかがった。
「あ、あ、あのさ、今日はなんだか、集落が騒がしくない? な、何か特別なことでもあったっけ?」
「特別なことって、そりゃあ余所の氏族の狩人がやってくるって話だろう。昨日の夜、家長がそう言ってたじゃないか」
その話は、確かに晩餐の場でされていた。なんでも「ギバの血抜きと肉の解体」なる仕事の手ほどきをするために、フォウの狩人がナハムの集落を訪れる、という話であったのだ。
「そ、そ、それだけで、みんなこんなにざわざわしてるの? そ、その狩人たちは、親切心でやってきてくれるんでしょう?」
「だけどあたしらは、ファの家の行いに反対している立場だからね。ラヴィッツの集落にはファの女狩人みずからがやってくるみたいだし、そりゃあちょっとは警戒しておく必要があるんだろうさ」
マルフィラ=ナハムには、いまひとつ理解し難い話であった。
そもそもの最初から、マルフィラ=ナハムはファの家が巻き起こした騒動というものが、きちんと理解できていなかったのだ。
ことの起こりは、7ヶ月前。青の月に行われた家長会議によって、その騒動の内容が各氏族に伝えられたのだった。
ファの家は、外界で生まれた異郷の人間を家人として迎え、宿場町でギバの料理を売る仕事をしている。それで大きな富を得れば、森辺の民はこれまで以上に幸福な生を得ることができるだろう――と、ファの家長である女狩人は、家長会議でそのように語っていたらしい。
また、美味なる食事というものは、それ自体が森辺の民に大きな力と喜びをもたらすのだというのが、ファの家長の主張であった。それでこのたび、その言葉の真偽をはかってもらうために、すべての氏族に「ギバの血抜きと肉の解体」と「美味なる料理の作り方」を手ほどきしたいと、そのように言い出してきたのだ。
「だ、だ、だったら、ファの家の申し出を断ればよかったんじゃないのかなあ? ラ、ラ、ラヴィッツの家長は、ファの家を嫌ってるんでしょう?」
「これは、ラヴィッツだけの問題じゃないんだよ。なにせファの家っていうのは、ラヴィッツと血の縁を絶って行方をくらませた氏族なんだからね。ラヴィッツを親筋とするあたしたちだって、他人事ではいられないのさ」
「そ、そ、それならいっそう、断るべきだったんじゃない?」
すると、母親は顔をあげて苦笑を浮かべた。
「決めたのは、家長たちだからね。ファの家の行いには賛同できなくても、美味なる食事とかいうやつには興味を引かれてるんだろうさ」
その、美味なる食事というものに関しても、マルフィラ=ナハムはあまり理解できていなかった。
いや、それはほとんどの人間がそうであったのだろう。その美味なる食事というものを口にしたのは、家長会議に参加した家長と供の男衆のみであったのである。
7ヶ月ほど前、家長会議から戻ってきた彼らが静かに昂揚していたのは記憶に留めている。マルフィラ=ナハムの父親たるナハムの家長などは、あまり心情を家族にさらす人間ではなかったのに、「驚くべきものを食べさせられた」と何度も口にしていたのである。
しかしそれでも、ラヴィッツを親筋とする氏族はファの家の行いに賛同しようとはしなかった。
また、同じ立場であるザザやベイムといった氏族が「ギバの血抜きと肉の解体」と「美味なる食事の作り方」を手ほどきされたと伝え聞いても、そこに自ら名乗りをあげようとはしなかったのだ。
それから7ヶ月ほどが経過して、ついにファの家とその行いに賛同する氏族の者たちが、休息の期間を使ってこちらに乗り込んでくることになった――というのが、このたびの騒ぎの顛末であった。
「で、で、でも、女衆が乗り込んでくるのは、まだ先の話なんだよね?」
「ああ。よくわからないけど、ダイとかいう氏族への手ほどきが済んだら、こっちにやってくるみたいだね。まあ、10日はかからないって話らしいよ」
「そ、そ、そっかあ……わ、わたしなんかには、そんな難しそうな仕事はつとまらないだろうなあ」
「あんまりややこしい話だったら、家長たちも無理にやらせようとはしないだろうさ。かまど仕事にばっかり時間をかけることはできないんだからね」
母親も、このたびの一件には関心が薄いようだった。
やはり、「美味なる食事」というものの正体をつかみかねているのだろう。食事というのはその日の生命を得る神聖な行いであり、味の善し悪しなどに文句をつけるのは、森辺の習わしにもそぐわない行いであるはずだった。
それからしばらくして、中天である。
約束通り、フォウの狩人たちがナハムの集落にやってきた。人数は2名で、分家の家長とその家人であるという話であった。
「ラヴィッツとヴィンの集落にも、俺たちの同胞が出向いている。これからしばらく、よろしくお願いする」
そうして狩人たちは、森に入っていった。
が、その日に新しい仕事の成果がもたらされることはなかった。
「……血抜きというのは、意外に厄介な仕事であるようだ……ギバの生命がまだあるうちに、咽喉を掻き切って血を抜かなければならないらしい……」
その夜に、兄のモラ=ナハムが重々しい声でそのように語らっていた。
「……罠に掛かったギバであればまだしも、こちらに牙を剥いてくるギバに手加減をすることなどはできん……美味なる食事などというもののために、自分の生命を危険にさらすことは許されないのだからな……」
「そ、そ、それは当然の話だよね。ぜ、絶対に無理をしたりしないでね?」
「当たり前だ……そのように愚かな狩人は、ナハムには存在しない……」
家長たる父親も、無言でうなずいていた。
そんなふたりの姿を、3歳になる幼子が不思議そうに見比べている。この幼子はモラ=ナハムの子であり、母親は1年と少し前に病魔で魂を返してしまったため、他の家人が力を合わせて面倒を見ていた。
そんな幼子の頭に、モラ=ナハムの手がぽんとのせられる。幼子の頭など簡単に包み込めてしまいそうな、大きな手である。
「俺たちはナハムの狩人として、正しき有り様を血族に伝えていかなくてはならないのだからな……何も案ずることはない……」
言葉の意味はわからなかろうが、幼子は嬉しそうに微笑んでいる。
それを見守るモラ=ナハムの瞳にも、とてもやわらかい光が浮かべられていた。
それから、3日後のことである。
夕刻に、マルフィラ=ナハムがかまど小屋で母親たちと仕事に励んでいると、モラ=ナハムが巨大な肉塊を手にやってきた。
「邪魔をする……今日の分のギバ肉は、もう使ってしまったか……?」
「いや、ちょうどこれから肉を持ってこようと思っていたところだよ」
「ならば、これを使うがいい……血抜きというものに成功したギバ肉だ……手をかけたのは、フォウの狩人たちだがな……」
台の上にギバ肉を置いて、モラ=ナハムはさっさと出ていってしまった。
マルフィラ=ナハムは、家族たちと顔を見合わせる。フォウの狩人たちがやってきて4日目にして、ついに「血抜き」というものに成功したのである。
「ふうん。血抜きとかいうから、血の色が消えるのかと思ってたけど、そんなことはないみたいだね」
台に置かれたギバ肉をしげしげと見やりながら、母親はそう言った。
12歳になったばかりの末妹も、「そうだね」と首を傾げている。
「見た目はちっとも変わってないみたい。ね、マルフィラ姉はどう思う?」
5人兄妹の末っ子である末妹は、誰よりものびのびと育っており、性格も気さくであった。マルフィラ=ナハムは、「そ、そ、そうだね」と答えてみせる。
「み、み、見た目も香りも、何も変わってないんじゃないかなあ。た、た、たぶんだけど」
「マルフィラ姉は、肉の香りを嗅ぎ分けられるの? 生のギバ肉なんて、もともと大して香りなんてしないじゃん」
末妹は、愉快そうに笑い声をあげた。
それから、ギバ肉を切り分けるための小刀を取り上げる。
「まあ、いいからとっとと作っちゃおうよ。うかうかしてると、日が沈んじゃうからね」
末妹の手によって、ギバ肉はざくざくと切り分けられていった。
その間に、マルフィラ=ナハムはかまどの火をおこし、母親はアリアを切り分けていく。
「それじゃあせっかくだから、今日は半分の肉を煮込んで、もう半分は焼いてみようか」
「えー? 面倒臭いから、煮込むだけでいいんじゃない?」
「でもたしか、ポイタンと一緒に煮込んでしまうと、血抜きをした肉も台無しだ……とか、誰かが言ってたらしいんだよね」
母親の言葉に従って、半分の肉は串焼きにされることになった。
アリアとポイタンを放り込んだ鍋をかき回しながら、末妹は「うーん」と首をひねっている。
「でも、ポイタンを煮込むのをやめたら、鍋は肉とアリアだけになっちゃうよね。それじゃあちょっと、物足りなくない?」
「まあ、ファやルウだったらもっとたくさんの野菜を使ってるんだろうさ。それに最近では、ファの仕事を手伝ってる氏族もけっこうな銅貨を手にしてるみたいだしね」
「ふーん。それじゃあけっきょく美味なる食事なんて、銅貨を余分に持ってる氏族しか楽しむことはできないんじゃないかなあ」
そんな言葉を交わしている間に、晩餐は完成した。
家にそれを運び込むと、すでに家人は勢ぞろいしている。父親たる家長、長兄のモラ=ナハム、その子である3歳の幼子、長姉とその伴侶、その子である2歳の幼子、という6名だ。次姉は幼き頃に病魔で魂を返してしまったので、現在のナハム本家の家人はこれですべてである。
「今日は、血抜きをした肉というものを使っているそうですね。どのような仕上がりであるのか、楽しみです」
真っ直ぐに背筋をのばした長姉が、そう言った。長姉はモラ=ナハムと似たところが多く、あまり感情をあらわにしないので、その言葉とは裏腹に平坦な口調であった。
長姉の婿である男衆は分家の生まれであり、おっとりとした気性であるが、口数はあまり多くない。晩餐の場を賑やかすのは、おおむね末妹や母親の役割であった。
「それでは、晩餐を開始する」
家長が食前の文言を唱え、家人が復唱する。
そうして、まずは煮汁をすすった末妹が「へえ」と目を丸くした。
「確かになんだか、味が違うね。何がどう違うのかは、ちょっと説明しにくいんだけど」
同じものを口にしたマルフィラ=ナハムは、「そ、そ、そうだね」と賛同してみせた。
「は、は、鼻に抜けていく風味が、全然違うんじゃないかな。く、く、臭みが消えたっていうのかな? こ、こう、鼻の奥にひっかかるような嫌な感じがなくなったっていうか……」
「あはは。それじゃあ余計にわかんないよ」
笑いながら、末妹は焼いた肉をつまみあげた。
それを口にした瞬間、その目がさきほどよりも大きく見開かれる。
「こっちは、もっと違うみたいだね! ほらほら、マルフィラ姉も食べてみてよ!」
「う、うん。わ、わかった」
マルフィラ=ナハムはせわしなく、肉の切れ端を口に放り込む。
とたんに、脂の甘さが口に広がった。
ピコの葉に漬ける前に焼いた肉であるので、肉と脂の味が直接的に伝わってくる。そこにはやはり、鼻にひっかかるような嫌な臭みがなく、とても心地好く感じられた。
「す、す、すごく食べやすいね。い、嫌な臭みがなくなったから、いままで隠れていた肉の味が表に強く出てきたみたい」
「うん、あたしはこの肉、好きだなー! ねえねえ、これが美味なる食事っていうやつなの?」
末妹に問われたのは、父親たる家長である。
家長は厳しい面持ちのまま、「いや」と首を振った。
「俺が家長会議で口にしたのは、もっと特別な何かだった。……しかし、それに近づいたことは確かなのだろう」
「へー! なんか、あたしも美味なる食事ってやつに興味が出てきちゃったなー!」
他の家人は、黙々と晩餐を食していた。
最初に楽しみだと発言した長姉も、とりたてて感想はないようである。ふたりの幼子たちは煮汁をすすりながら、いくぶん不思議そうに小首を傾げていた。
まあ、彼らはこの7ヶ月間で、さんざん美味なる食事の評判を聞かされてきたのである。ファの家のアスタは食事を作るために貴族のもとまで招かれただとか、宿場町での商売はきわめて順調に進んでいるだとか、ついに町の人間もギバ肉で食事を作り始めただとか、そういう話は逐一すべての氏族に伝えられていたのだった。
(でも、美味なる料理を口にするだけで、森辺の民がより大きな喜びと力を手に入れられるっていうのは……やっぱりよくわからないなあ)
マルフィラ=ナハムにしてみても、その時点ではそれぐらいの感想しか抱くことはできなかった。
そこにさらなる衝撃がもたらされたのは、数日後のことである。
血抜きの手ほどきというものが開始されてから、8日目――金の月の12日に、ついにファの家のアスタがラヴィッツの集落にやってきたのだった。
「ナハムからは、あたしと分家の女衆が出向くことになったからね。あんたたちは、家の仕事をよろしく頼むよ」
母親はそんな言葉を残して、ラヴィッツの集落に向かっていった。
マルフィラ=ナハムとともにギバの毛皮をなめしながら、末妹は「ちぇー」と口をとがらせている。
「あたしもそのファの家のアスタってやつ、見てみたかったなあ。男衆のくせにかまど仕事しかしないなんて、いったいどんなやつなんだろう」
「さ、さ、さあ? 宿場町で見る若い男とあまり変わらないって、父さんとかは言ってたよね」
「そんなやつが、よく森辺の家人になれたよねー。ギバを狩れない男衆なんて、誰も嫁にもらえなそうじゃん」
そうして昼下がりに家を出た母親が戻ってきたのは、太陽が大きく西に傾いた頃だった。
マルフィラ=ナハムたちが晩餐の支度を始めたところで、せわしなくかまど小屋に踏み入ってきたのである。
「ギバの肉にはまだ手をつけていないね? 今日はあたしが取り仕切るから、その通りに作ってみておくれよ」
母親は、何やら顔を紅潮させていた。
末妹は、きょとんとした顔でそれを見返す。
「どうしたの? 美味なる食事っていうのが、そんなにすごかったの?」
「……あたしひとりじゃよくわからないから、みんなの意見を聞きたいんだよ」
そんな風に言いながら、母親は大きな包みを台の上に置いた。家を出る際に、ポイタンを詰め込んでいった包みである。その中身を覗き込んだ末妹は「えー?」と目を丸くした。
「何これ? なんか、白い粉がぎっしり詰まってるけど!」
「それが、ポイタンなんだよ。ああ、まずはそいつの作り方を教えないといけないか……いやいや、やっぱり湯をわかすのが先だろうね。マルフィラ、かまどのひとつで湯をわかしておくれ」
「う、う、うん。わ、わかった」
マルフィラ=ナハムは大急ぎで、鍋にいっぱいの水を煮立ててみせた。
湯が煮立ったところで、母親が「よし」とうなずく。
「それじゃあ、燃えている薪を半分ぐらい、かきだしておくれ」
「え? ど、どうして?」
「ギバの肉とアリアは、もっと弱い火で煮込まないといけないんだよ。だから、ええと……その火が半分ぐらいの大きさになるようにしておくれ。火の先っぽが鉄鍋の底にぶつからないぐらいの加減でね」
まったくわけもわからないまま、マルフィラ=ナハムは母親の指示に従った。
「それで、まずはギバ肉と塩だけを入れて……これでしばらくしたら、浮かんでくるあぶくを木皿ですくうんだよ。火が弱くなってきたら、さっきかきだした分から薪を入れなおしてね」
「なーんか、面倒くさそうだね! どうしてアリアは鍋に入れないの?」
「ギバ肉は長い時間をかけて煮込まないといけないから、アリアは後からで十分だって話だよ。そうだねえ……一刻ってのがどれぐらいの時間なのかはよくわからないけど、あの太陽が半分沈むぐらいまでは、ギバ肉だけを煮込むことにしよう」
「えー! そんなに長い時間、煮込まないといけないの? なんか、さっぱりわかんないなー」
ぼやく末妹をよそに、さらなる手ほどきが開始された。
粉と化したポイタンの処理である。それは、水を加えて溶かしてから、鉄鍋で焼きあげるという話であった。
あとはひたすら、肉を煮込む鍋の世話である。普段からは考えられないぐらいの時間、鍋を火にかけたのち、ようやくアリアを投じ入れて、また煮込むのだ。
その間、煮汁の表面に浮かんだあぶくは入念に除去していく。火の大きさも弱くなりすぎないように維持しなければならないし、これはなかなかの手間であった。
そうして最後に、母親は奇妙なことをした。
完成した煮汁を木皿ですくって味見をすると、塩やピコの葉を後から加えだしたのである。
「うん……まあ、これでさっきと同じような味になったのかねえ……うん、これでいいことにしよう」
ぶつぶつとつぶやいてから、母親はマルフィラ=ナハムたちを振り返ってきた。
「さあ、これで完成だよ。家のほうに運んでおくれ」
「はいはい。すっかり日も暮れちゃったし、みんなお腹を空かせて待ってるよ」
かまど小屋を出てみると、とっぷりと日は暮れていた。
棒に吊るした鉄鍋を、末妹とふたりで家に運んでいく。母親は、焼いたポイタンをのせた皿と燭台を手に、ふたりを導いてくれた。
「……ずいぶんと時間がかかったな」
広間に入ると、家長から厳しい眼差しを向けられた。
ただ、晩餐が遅れたことに怒っているようではない。ファの家のアスタがやってきたことは知れ渡っていたので、その成果を心待ちにしていたのだろうか。
「今日は、ファの家のアスタから習い覚えた技で晩餐をこしらえたそうですね。どのような仕上がりであるのか、楽しみです」
いつぞやと同じように、長姉はそう言っていた。
今日の晩餐は、肉とアリアを煮込んだ鍋と、焼いたポイタンのみである。それらが広間に並べられていくと、長姉の伴侶がぎょっとしたように目を剥いた。
「この、白くて丸くて平たいものは、なんであろうか? このような野菜は、見たこともないのだが……」
「それは野菜ではなく、ポイタンだよ。家長だったら、知ってるはずだね?」
母親に目を向けられて、家長は「うむ」とうなずいた。
「家長会議でも、これと同じものが出された。これ自体に大した味はないので、他の食事の合間に口にせよ、とのことだ」
そのように語ってから、家長は食前の文言を口にした。
それを復唱したのちに、家人は木皿を取り上げる。
ポイタンを入れていない、奇妙な煮汁である。
煮汁はいくぶん白濁しているが、ポイタンが入っていないので水のようにさらさらとしている。それになんだか、表面が脂でてらてらと光っているようだった。
(これが本当に、美味なる食事っていうものなのかなあ)
内心で首を傾げながら、マルフィラ=ナハムは煮汁をすすった。
瞬間――これまで感じたことのなかった感覚が、舌の上を走り抜けた。
塩の味が感じられる。
ピコの葉の味が感じられる。
ギバ肉の味が感じられる。
アリアの味が感じられる。
ギバ肉の臭みとポイタンのどろりとした食感が消えたことにより、すべての味が明瞭に浮かびあがってきたのだろうか。
それらの味がおたがいの味に絡み合い、未知なる味を作りあげているかのようだった。
しかもマルフィラ=ナハムはまだ煮汁をすすっただけで、肉もアリアも口にしていないのだ。
そうであるにも拘わらず、きわめて豊かな味わいが口の中に広がっている。
すべての滋養が、この煮汁に溶け込んでいる、ということなのだろうか。
マルフィラ=ナハムは木匙を落としてしまわないように気をつけながら、淡い褐色に煮込まれたギバ肉をすくいあげてみた。
ギバ肉の部位は、背中である。肉についた脂は半透明の白色で、何かぷるんと照り輝いていた。
それを口に入れて噛みしめると、煮汁から感じられたギバ肉の味がより鮮明に浮かびあがる。
ギバ肉とは、これほどまでに美味な味わいであったのだ。
焼いた肉からも感じられたそんな思いが、いっそうの重みをともなってマルフィラ=ナハムの胸を満たしていった。
それからアリアも食してみると、こちらもまったく異なる味わいである。
普段は強い火でさっと熱を通すぐらいなので、もっとシャキシャキとした食感であったのだ。
しかし食感そのものは、べつだんどうでもかまわなかった。あのしっかりとした歯ごたえのほうが好みであるという人間がいてもおかしくはないだろう。
よって、やはり重要なのは味のほうだった。
しんなりとやわらかくなったアリアの内側に、ギバ肉や塩やピコの葉の味や風味がしっかりとしみこんでいるのだ。
それをギバ肉とともに食すると、また美味である。
昨日までと同じ材料であるということが信じられないぐらい、それは別なる味わいに変わり果てていたのだった。
「あ、あ、あの、これって……」
家族の様子を見回したマルフィラ=ナハムは、そこで言葉を呑み込んでしまった。
家族たちは、全員が驚きの表情で煮汁をすすっていたのである。
その中で、比較的沈着な面持ちをしていた家長が、マルフィラ=ナハムを見やってきた。
「塩とピコの葉とアリアしか使っていないのだから、俺が家長会議で食したものには遠く及ばん。……しかしこれが、美味なる食事というものであるのだろう」
「そ、そ、そうだよね? こ、これが美味しいっていうことなんだよね?」
「うむ。お前たちは、しっかりと仕事を果たすことがかなったのだろう。俺たちも何とか、自力で血抜きというものをこなせるように励まねばならんな」
そう言って、家長は珍しくも微笑を浮かべた。
マルフィラ=ナハムも、ぎこちなく微笑を返してみせた。
その間も、他の家族は一心に晩餐を食している。
次にマルフィラ=ナハムを振り返ってきたのは、長姉であった。
「この食事には、なかなか驚かされました。ご覧なさい、幼子たちも目の色を変えて煮汁をすすっています」
そのように語る長姉も、いつになくやわらかい表情になっていた。
末妹などは、満面の笑みである。
「これは本当に、美味しいね! 焼いた肉も美味しかったけど、それ以上かも!」
「肉を焼くのにも、肉の切り方や味の付け方があるんだって、ファの家のアスタは言っていたよ。それは、おいおい手ほどきしてくれるという話だね」
そのように答えながら、母親は複雑そうに笑っていた。
「やっぱりこれは、美味しいんだよねえ? 普段のポイタンを入れてる煮汁とはあまりにも違ってるから、あたしには判断がつけられなかったんだよ」
「どうしてさ? ポイタンが入っていようとなかろうと、これはすっごく美味しいじゃん!」
無言で食事を続けているモラ=ナハムと長姉の婿にも、異論はないようだった。
こうしてナハム本家の家人たちは、ついに美味なる食事というものを口にすることになったのである。
後から聞いた話によると、それはファの家のアスタが女狩人アイ=ファに初めて食べさせたギバ料理――『ギバ・スープ』である、とのことであった。