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異世界料理道  作者: EDA
第四十六章 群像演舞~五ノ巻~
795/1681

    勇敢なるもの(下)

2019.9/18 更新分 1/1 ・9/29 誤字を修正

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 休息の期間を終えて、狩人としての仕事が再開されてからも、ブレイブの充足した日々に大きな変化は生じなかった。

 いまのところは、アイ=ファやブレイブが大きな手傷を負うこともなく、日々を過ごすことができている。もう1頭の猟犬がいれば――という願いは日を追うごとに強まるばかりであったが、森辺の民もさらなる猟犬を買いつけようという気持ちは持っているようであったので、そこに期待をかける他なかった。


 そこに驚くべき変転が訪れたのは、休息の期間を終えて数日後のことであった。

 アイ=ファとともに森を巡っていると、どこからともなく遠雷のような音色が響きわたってきたのだ。

 そして、それと同時にブレイブも異変の兆候を知覚していた。

 足の裏から、恐るべき脈動が伝わってきたのだ。

 それはまるで、地面の下で眠る巨人が身じろぎをしようとしているかのような感覚であった。


「これは、ギバの遠鳴きだ。何か異変が起きようとしている」


 鋭い声でつぶやいたアイ=ファは、ブレイブのもとに屈み込んできた。


「我らは、どうするべきであろうな。木の上にでも身を潜めるべきであろうか」


 大地が身じろぎしようとしているのに、木の上に登るのは危険が増すばかりである。

 ブレイブは懸命に、アイ=ファの瞳を見つめ返すことになった。


「そうだな。木の上ではいざというときに逃げることも難しくなる。とにかくブレイブは、ギバの気配にだけ注意しておけ」


 ギバはあちこちで走り回っている様子であったが、さしあたっては危険な範囲にまで接近している個体はなかった。

 ギバも同じ異変を察して、普段は発さない雄叫びを轟かせているのだろう。それはまるで、大地の下の巨人に慈悲を乞うているかのような様相であった。


 そして――大地が揺れ動いた。

 最初にどすんと衝撃がやってきたかと思うと、間髪を入れずに世界が鳴動する。

 アイ=ファはブレイブの首を抱え込みながら、「地震いか……!」と緊迫した声をあげていた。


「この場は岩場からも川からも遠いので、大きな危険が迫ることはあるまい。ブレイブよ、お前はギバに集中するのだ」


 そのとき、暴れ狂っていたギバの1頭が、こちらにぐっと近づいてくるのを感じた。

 我を失ったギバの酸味がかった香りが、ぐんぐんと近づいてくる。こちらに向かってきているのは偶然であるのだろうが、危険なことに変わりはなかった。


 ブレイブは低くうなりながら、ギバの迫り来る方向に視線を向けてみせる。

 揺れ動く大地の上で、アイ=ファは鋭く瞳を光らせた。


「よし。お前はここで身を潜めておけ。刀を振るうのに不都合のある場所ではない」


 アイ=ファは膝立ちのまま、刀を引き抜いた。

 そして、その刀がブレイブに届かぬ位置まで離れていく。

 ギバはもう、目の前にまで迫っていた。

 ブレイブは、渾身の力で咆哮をあげる。

 それに呼応するように、ギバは雷鳴のごとき咆哮をあげた。


 これでアイ=ファにも、ギバの正確な方向が伝わったはずだ。

 木陰にまで移動しようとしていたアイ=ファはそこで動きを止め、ブレイブのほうに向きなおった。


 茂みを踏み越えて、ギバが出現する。

 その鼻先は、ブレイブに向けられていた。

 アイ=ファには身体の右側を向けている格好である。


 膝立ちであったアイ=ファは、片足で地を蹴った。

 真っ直ぐに突き出された刀の切っ先が、ギバの咽喉もとを寸断する。

 そのままの勢いで突進してくるギバの巨体を、ブレイブはなんとか回避してみせた。

 ギバは頭から大樹の幹に突っ込み、動かなくなる。このような状況でも、アイ=ファの刀は正確にギバの咽喉笛を叩き斬ったようだった。


 しばらくして、大地の鳴動はじょじょに遠ざかっていった。

 あちこちから聞こえていたギバの遠鳴きも、いつしか静まっている。

 それを確認してから、アイ=ファは颯爽と立ち上がった。


「家に戻るぞ、ブレイブよ。これほどの大きな地震いでは、ファの家も危ういやもしれん」


 どうやらこのギバは、腐肉喰らいのムントに捧げるらしい。しかし、主人たるアイ=ファがそのように判断したのなら、ブレイブにも異存はなかった。

 アイ=ファとともに森を駆けて、ファの家を目指す。かなり奥まった場所にまで踏み入っていたので、それには相応の時間と労力が必要とされた。


 それでも幸いなことに、新たなギバと遭遇することなく、森を抜けることができた。

 森辺に切り開かれた道を走り、ファの家がたたずむ場所に踏み込むと――まずは、アスタとジルベとティアの姿が見えた。


「アスタ!」と、アイ=ファが悲鳴まじりの声をあげる。

 そうしてアイ=ファは、驚きの表情で振り返ったアスタに抱きついた。


「無事だったのだな、アスタ。ここまで戻る間、ずっとお前の身を案じていたのだぞ」


「うん。アイ=ファも無事でよかったよ」


 アスタはおずおずと、アイ=ファの背中に手を回していた。

 その間に、ジルベがブレイブのもとに近づいてくる。その大きな瞳には、安堵と恐怖の色が複雑に渦巻いていた。


(そうか。お前は家の中にいたのだったな)


 ファの家は、倒壊してしまっていた。

 ジルベが判断を間違えていたら、その下敷きにされてしまっていたところであろう。恐怖を覚えるのも当然である。ブレイブもその平たい顔に自分の顔をすりつけて、身体の大きな弟分をあやしてやることにした。


 そののちには、ティアが倒壊した家に潜り込んでアイ=ファたちに叱りつけられるという一幕もあったが、ともあれ家人は全員無事であった。トトスのギルルものちほど誰かに連れてこられるという話である。


(しかし……ファの家は、潰れてしまった)


 ブレイブにとっての第二の故郷、帰るべき場所が、消えてなくなってしまったのだ。

 ブレイブがファの家の家人となって、すでに3回ほど月は巡っている。それらの日々の思い出が詰まったファの家が、無残に倒壊してしまったのだった。


 ブレイブの胸には、えもいわれぬ悲しみが満ちていた。このような行く末が訪れるなど、ブレイブは想像だにしていなかったのだ。

 すると、瓦礫をかき分けて家財を引っ張り出していたアイ=ファが、うろんげな面持ちで近づいてきた。


「どうしたのだ、ブレイブよ? そのように悲しげな目をするものではない」


 すると、引っ張り出された家財をまとめていたアスタも近づいてきた。


「犬は人に付き、猫は家に付くっていうけれど、やっぱり家がなくなってしまったのが悲しいんじゃないかな。今日の夜はどこで過ごすんだろうって心配してるのかもしれないぞ」


「家を建てなおすまでは、フォウの家が寝所を与えてくれると申し出てくれたのだ。何も心配する必要はないぞ、ブレイブよ」


 そう言って、アイ=ファはブレイブの首筋を優しく撫でてくれた。

 フォウの人間がそのように言っていたことは、ブレイブもそばで聞いていた。それでもなお、ブレイブは失われたファの家を惜しまずにはいられなかったのだ。

 しかし、アイ=ファの手の平から感じられる深い情愛の念が、ブレイブを元気づけてくれた。


「この場所には、必ずまたファの家を建ててみせよう。すべての家人が無事であったのだから、何も案ずることはない。私たちは新しい家で、また新たな時間を刻んでいくのだ」


 そのように語るアイ=ファの瞳には、普段以上に優しい光が灯されていた。

 アイ=ファこそ、生まれたときからこの家で過ごしていたのである。その胸には、ブレイブ以上の悲哀が満ちているはずだった。

 それでもアイ=ファは自分の悲しみに打ち沈むこともなく、ブレイブを思いやってくれている。ブレイブはアイ=ファの強靭さと情の深さに胸を震わせながら、そのなめらかな頬をぺろりとなめてみせた。


                        ◇


 それから新たなファの家が建てられるまで、5日ほどの時間がかけられた。

 ブレイブには判然としなかったが、アイ=ファたちの会話を聞く限り、それは驚くほどの迅速さであったようである。ブレイブにとっても馴染みの深いジャガルの男たちが寄り集まって、その新しい家を完成させたのだった。


(西の王国にも、これほど多くの南の民がいるものであるのだな)


 ともあれ、ファの家は蘇った。

 基本的に外観は変わらないが、いくぶん大きくなったようである。ブレイブたちのくつろぐ土間という空間も、以前よりは広々としたようだった。


 この家で、ブレイブたちは新しい思い出を積み上げていくのだ。

 そのように考えると、温かい感情が胸の中に広がった。トトスのギルルは内心を読むこともできなかったが、アイ=ファもアスタもジルベもとても幸福そうにしていた。


 そうして、数日後のことである。

 この時期は、ブレイブにとって息つく間もないぐらいの変転に満ちていた。

 ファの家が再建されたわずか数日後、ついに新たな猟犬がファの家人に迎えられたのだった。


 新たな猟犬は、ドゥルムアと名付けられた。

 名付けたのはアイ=ファで、意味は『疾き矢』であるとのことだ。


 その名に相応しく、ドゥルムアはとても足の速い猟犬であった。

 平地においても森においても、ブレイブよりも俊敏に動ける猟犬であったのだ。ブレイブにとって、これほど心強い同胞はなかった。


 ブレイブよりもいくぶん細身であり、体毛は黒と茶のまだらである。

 ちょっと取りすました性格をしており、ジルベなどは少し馴染むのに時間が必要であるように感じられた。生まれ育った牧場の環境か、それとも単なる個体差であるのか、ドゥルムアは身内に対しても少しよそよそしいところのある気性であったのだった。


 が、ブレイブが案ずるほどのことではなかった。

 数日も経つと、ドゥルムアはすっかりアイ=ファに魅了されて、あっさりと角が取れてしまったのだった。


 気づけばジルベとも屈託なくじゃれあうようになり、ブレイブとしてはほっとしたものである。ただ仕事をともにするだけではなく、喜びも苦しみも正しく分かち合うというのがファの家の家訓であるのだった。


 そうして仕事の面においては、最初から申し分なかった。

 ドゥルムアが家人に招かれた時期は、休息の期間が明けてから半月も経っておらず、ギバの数もまだまだ少なかったのであるが、それでもブレイブは確かな感触を得ることができた。アイ=ファであれば2頭の猟犬を扱うことにも不自由はなかったし、そうして2頭の猟犬がそろったことで、理想的な狩猟の作法を完成させることがかなったのだった。


 森辺で働く猟犬にとってもっとも重要であったのは、やはり気配を探る鋭敏さと、そして足の速さであったのだ。

 ドゥルムアは、その両方をきちんと持ち合わせていた。ブレイブとは異なる牧場の生まれであるようだが、正しい訓練を受けてきたのであろう。凶暴なるギバに怯えることもないし、主人たるアイ=ファの判断を疑うこともない。これでギバ狩りの仕事は、今後も盤石であるはずだった。


(この身の力が尽きるまで、私はファの家で猟犬として働ける。これほどに誇らしい生は、他にない)


 ブレイブは、心から満足することができた。

 アイ=ファもドゥルムアも、同じように考えているはずであった。


 ただしかし、人間には人間の世界における苦楽というものも存在した。

 そちらに関しては、ブレイブたちの力の及ぶ話ではない。アイ=ファたちが人間としての苦悩に見舞われた際などは、忸怩たる思いを噛みしめることになってしまった。


 たとえば、ファの家が盗賊団というものに強襲された際である。

 その日もブレイブとドゥルムアは、アイ=ファとともにギバ狩りに励んでいた。そこに、無茶苦茶に吹き鳴らされる笛の音によって、危急を知らされたのだった。


 慌てて家に戻ってみると、アスタの姿がなく、ジルベは昏睡していた。

 森辺の女衆の話によると、ジルベは毒の武器というもので傷つけられてしまったらしい。


 そのときのアイ=ファの怒りたるや、目も当てられないほどであった。

 家人であるジルベを傷つけられ、アスタもまた見知らぬ何者かに追われてしまっているというのだ。アイ=ファの内に脈打つ生命力が、炎そのものとなって吹き荒れるかのようであった。


 その炎に焼き滅ぼされるようにして、罪人たちは捕らえられることになった。

 ブレイブも、いちおうはその仕事に貢献している。森の端に潜んだ見知らぬ人間たちの香りを避けながら、アイ=ファをアスタのもとまで導いたのは、ブレイブなのである。


 幸いなことに、アスタは傷ひとつ負っていなかった。

 その代わりに、トトスのギルルはジルベと同じ毒に犯され、そしてティアは生命が危うくなるほどの深手を負ってしまっていた。


 ただ、ジルベとギルルはその日の内に元気を取り戻すことができた。

 危うかったのは、やはりティアである。ティアはシュミラルに治療されながら、しばらく生死の境をさまようことになったのだ。


 その間、アイ=ファとアスタは仕事を休んで、ずっとティアに付き添っていた。

 ブレイブたちには、何を為すこともかなわない。ただ、土間でひっそりとティアの回復を祈るばかりである。ティアは友にも同胞にもなれぬ身とされていたが、アイ=ファたちが彼女の回復を望んでいるのであれば、ブレイブたちもそれに従うばかりであった。


 そのように、アイ=ファとアスタが人間ならではの苦楽というものに見舞われることは多かった。

 もっとも、「苦」よりは「楽」のほうが多かったのだろう。森辺ではたびたび祝宴というものが行われて、そのたびにアスタたちはたいそう幸福そうな表情を見せていたのだった。


 祝宴のが行われている間、猟犬はずっと土間で過ごすことになる。場所はおおよそルウかフォウの集落であったので、そのたびに他の家の猟犬たちと顔をあわせることができるというのが、ブレイブたちにとっての数少ない楽しみであった。

 しかしそういった際にも、アイ=ファたちは必ず1度か2度はブレイブたちの様子を見に来てくれた。祝宴に参加できないブレイブたちのことを、ずいぶん気づかってくれている様子である。


 しかしべつだん、ブレイブたちの側に不満はなかった。だいたいそういう日はギバ狩りの仕事も休むか早めに切り上げることになっていたので、夕刻ぐらいまでは人間たちの慌ただしい様子を見物することができるのだ。そういう熱気を吸い込むだけで、なんとなく浮き立った心地になってくるし、日が暮れた後は睡魔に見舞われるので、祝宴に参加したいという気持ちがわきたつこともない。それよりも、アイ=ファたちが幸福な心地でいることを嬉しく思うばかりであった。


 斯様にして、人間の側には大きな浮き沈みがあれど、ブレイブたちの日々は平穏に過ぎていった。

 そんな中、ここ最近でもっとも気になるのは、「王都の外交官」というものであった。その人間については、アイ=ファとアスタの間で何度となく名があげられていたのだった。


 ブレイブも、その人間のことは何度か見かけている。

 しかしブレイブには、なんら興味を引かれることのない存在であった。

 その人間から特別な気配を感じることはなかったし、また、相手がブレイブたちに何の興味も持っていないということが、ひしひしと感じられた。そのフェルメスという人間にとって、犬というのは木々や石ころに等しい存在であるのだろう。


(いや……もしかしたら、このフェルメスにとっては人間さえもが木々や石ころに等しい存在であるのだろうか?)


 ブレイブが唯一気にかかったのは、その点であった。

 フェルメスはいつも大勢の人間に囲まれており、如才なく言葉を交わしているようであるが、何とはなしに、誰とも心を通い合わせていないように見えてしまうのだ。


 たとえば木々や石ころに語りかける人間などを見かけたら、同じような心地になるのかもしれない。

 それは、言葉の通じないブレイブたちに語りかけながら、心を通じ合わせることのできるアイ=ファとは、対極的な存在であるように感じられてならなかった。


(まあ、私にとってはどうでもいい相手だ。問題は、アイ=ファたちにとって、あやつがどうでもいい存在ではない、ということなのだろうな)


 ブレイブにはいまひとつ理解しきれていなかったが、森辺の民はあのフェルメスという人間と正しく絆を結ばなければならないようだった。


(それはきっと、犬やトトスと心を通い合わせるよりも難儀な話であるのだろう。何せ相手は、こちらを木々や石ころとしか思っていないのだからな)


 しかし、アスタやアイ=ファたちであれば、どのような苦難でも乗り越えることができるだろう。

 ブレイブとしてはそれを信じて、陰ながら正しい行く末が訪れることを願うしかなかった。


 そうして日々は移ろっていき――ブレイブは、2度目の収穫祭というものを迎えることになった。

 収穫祭というのは、森辺の民が母なる森に感謝を捧げるための祝宴である。この祝宴の翌日から、狩人たちは休息の期間を迎えるのだった。


 この段階で、ブレイブがファの家人となって8回ほど月が巡っていた。

 ドゥルムアが家人となってからは、5回ほどであろうか。ドゥルムアは前回の休息の期間が明けてすぐに森辺へとやってきたので、これが初めての収穫祭であった。


 アスタは朝からフォウの集落に出向き、ギルルとティアもそれに同行したので、ファの家にはアイ=ファと3頭の犬だけが居残っていた。

 アイ=ファもじきに後を追わなければならないようであるが、その前に薪と香草を集める仕事だけは済ませて、現在は薪割りに励んでいた。


 その横顔が、いつも以上に真剣であるように感じられる。

 薪割りという仕事にそこまでの真剣さは必要ないはずであるので、何か他のことを考えているのだろう。

 ジルベとドゥルムアは少し離れたところで追いかけっこに興じていたので、アイ=ファのその表情に気づいたのはブレイブのみであった。


 なんとなく、気になる表情である。

 よって、アイ=ファが鉈を置き、割った薪を蔓草でくくり始めたところで、ブレイブは鼻先を寄せてみることにした。


「うむ? どうしたのだ、ブレイブよ?」


「…………」


「そうか。狩人の力比べについて思いを馳せていたので、いささか気迫がこぼれてしまったやもしれんな」


 アイ=ファは蔓草をきゅっと結んでから、ブレイブに微笑みかけてきた。


「案ずるな。収穫祭においては力比べというものが行われるので、いささか気を張っていただけであるのだ。近在の氏族の狩人たちも、日を追うごとに力をつけてきているようだからな」


「…………」


「うむ。もちろん狩人の力比べというものは、負けて恥になるものではない。おのれの力を余すことなく母なる森と同胞らに示すことができれば、それでよいのだ。勝敗というのはその先に待っているものであるのだから、勝つことばかりに固執するのは決して正しくはない行いとなろう」


「…………」


「それでも私は、強く勝ちたいと願っている。それが浅ましき固執になってしまわないように、自らを律していたのだ」


 そう言って、アイ=ファは家の壁にもたれつつ腰を下ろした。

 ブレイブは短い尻尾を振りながら、そのかたわらに控えてみせる。


「私は元来、負けず嫌いな人間であるからな。ダン=ルティムに敗れたときも、ジザ=ルウを傷つけてしまったときも、たいそう口惜しく思うことになってしまった。思うに、それまでは父ギルとしか力比べを行うことがなかったため、力比べに対する正しき心持ちというやつが、まだまだ未熟であるのであろう」


「…………」


「それに、私は……アスタに相応しい人間でありたいと願っている。その思いが、いっそう勝ちたいという執念を生み出してしまうのやもしれんな」


 アイ=ファの声は落ち着いていたが、その表情はいくぶん頼りなげになっていた。

 アイ=ファがごく稀に見せる、幼子のごとき表情である。


「そんな話を他者が聞いたら、何を馬鹿なと笑うことだろう。しかし私は、アスタの心を強く縛ってまで、狩人として生きている。いや……アスタだけではなく、自分の心を縛ってまで、この道を歩いているのだ。そうであるからこそ、狩人として強くありたいと願うのは……やっぱり何か、筋違いな話であるのだろうか」


「…………」


「私は、狩人だ。狩人としての誇りが、この身を支えてくれている。狩人として生きることによって、私は充足し、幸福な生を歩むことができているのだ。しかし、私は――」


 と、アイ=ファはふいにブレイブの首を抱え込むと、ひそやかな声を囁きかけてきた。

 それから身を引いたアイ=ファは、妙齢の娘に相応しい表情で、ほんのりと頬を染めていた。


「――だからそれまでは、狩人として悔いのないように生きたいと願っている。それでこのように、強く勝ちたいと願ってしまうのであろうな」


「…………」


「まあ、私の勝ちたいと願う気持ちが浅ましき固執であれば、母なる森が見逃すこともないだろう。私は自らを律しつつ、この身の力をすべて振り絞ってみせよう」


 アイ=ファは立ち上がり、蔓草でくくられた薪の束をひっつかんだ。


「では、そろそろフォウの集落に向かわなければな。その後は、宿場町まで客人らを迎えに行かねばならぬのだ」


 アイ=ファはすでに、いつもの力強さを取り戻していた。

 ただその青い瞳に、やわらかい輝きの余韻が残されている。それはすなわち、アスタに対する深い情愛の念に他ならなかった。


(何も案ずることはない。アイ=ファはアイ=ファの思うままに生きればよいのだ)


 ブレイブにとって、アイ=ファは生涯の主人なのである。

 もしもアイ=ファが狩人の仕事から退く日が来るのであれば、アイ=ファの命令で他の狩人の仕事を手伝うことになろう。それでもアイ=ファがブレイブの主人であることに変わりはなかった。


(もしもアイ=ファが子を生したら、私はその子が育つまで猟犬として働けているのだろうか? まあ……私が老いぼれてしまっていたのなら、アイ=ファやアスタたちとともに、その子の育つ姿を見守る他あるまい)


 ブレイブは、ジェノスの城下町という場所で別れた老犬たちのことを思い出していた。

 猟犬の仕事から退き、安穏と過ごすのも、意外と悪いことではないのかもしれない。ブレイブは、初めてそのように思うことになった。


 しかしブレイブは、まだ若いのだ。

 この力が尽きるまでは、猟犬として働いてみせよう。

 アイ=ファとて、そう簡単に狩人としての仕事から退くことはないはずだ。1年後か、5年後か、10年後か――あるいはそれが半月後や半年後であったとしても、ブレイブの為すべきことに変わりはない。ブレイブはファの家人としての役目を全うするばかりであった。

 そんな風に考えながら、ブレイブは追いかけっこに興じている兄弟たちを呼び寄せるために、「ばうっ」とひと声吠えることにした。

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