勇敢なるもの(中)
2019.9/17 更新分 1/1
ファの家人として迎えられた彼は、ブレイブという名を授かることになった。
意味は、「勇気」や「勇敢」といったものであるらしい。そのように名づけてくれたのはファの家人であるアスタであったが、彼は心からその名を気に入ることができた。
ファの家には、2名の人間しか家人はなかった。家長にして狩人にしてブレイブの主人であるアイ=ファと、かまど番のアスタである。
もう1頭、ギルルと呼ばれるトトスも家人とされており、ブレイブは4番目の家人であるとのことだ。ブレイブにとっても人間やトトスは決して傷つけてはならない存在とされていたが、こうまで同列の家人として扱われるとは、想像の外であった。
しかし何にせよ、それは充足した日々の幕開けであった。
アイ=ファは猟犬の主人に相応しい狩人であり、そして、ギバ狩りというのは生命を賭した誇り高い仕事であったのである。
ギバというのは、やはり恐るべき力を持つ獣であった。
個体によって大きさはさまざまであるが、たいていはブレイブよりも大きく、怪力にして俊足である。平地であればまだしも、足場の悪い森の中においては、猟犬に負けないほど素早く動くことのできる獣であった。
それに加えて、ギバというのは厄介な気性をしていた。
平時においては用心深く、人間や猟犬の気配を察するや、飛ぶような勢いで逃げ出してしまう。それでいて、空腹であったり手傷を負っていたりすると、信じ難いほど凶暴になって、有無を言わさずに襲いかかってくるのだ。これはもはや、まったく性質の異なる2種の獣を同時に相手取るようなものであった。
しかしブレイブも、猟犬として厳しく訓練された身である。
獲物が厄介であればあるほど、彼の闘志はたぎってやまなかった。
それに、ブレイブの役割はあくまでも狩人の補佐であった。
相手がもう少し小ぶりな獲物であれば、ブレイブの牙と爪で仕留めることもかなおうが、たいていのギバは巨大であったし、毛皮も肉も骨も頑丈である。ブレイブが自分の力のみで仕留めることができるのは、せいぜい自分よりも小さな幼体のギバぐらいのものであろう。
しかもギバには、鋭い角に牙という武器があるのだ。
あのようなもので身体をつらぬかれたら、一撃で生命を落とすことになってしまう。もしもブレイブが狩人の力を借りずしてギバを仕留めるとしたら、ひたすら逃げ回って相手の力が尽きるのを待つぐらいの策しか思いつかなかった。
だが、ブレイブのもとには常に頼もしき主人の姿がある。
アイ=ファのように力のある狩人とともにある限り、ブレイブがそのような窮地に陥ることはなかった。
(このアイ=ファというのは、森辺でも指折りの力を持つ狩人であるに違いない)
ブレイブは、そのように確信していた。
狩り場におけるブレイブの役割は、主に2点である。
ひとつは、逃げるギバを罠まで追い込むこと。
もうひとつは、我を失ったギバの接近をアイ=ファに告げることであった。
ブレイブに、ギバを仕留める力はない。しかし猟犬は、人間よりも優れた鼻と耳を持ち、野を駆ける速度も勝っている。その能力を駆使して、人間には果たせない仕事を果たすのだ。
アイ=ファよりも早くギバの存在を察知して、それが平時のギバであるか凶暴なギバであるかを嗅ぎ分ける。ギバは怒ると不快な酸味がかった香りを発するので、それを遠方から嗅ぎ分けるのは難しくない。そうして相手が平時のギバであれば、アイ=ファの指示で罠まで追い込み、凶暴なギバであれば、アイ=ファに危険を告げる。基本の仕事は、そのような段取りであった。
ただし、そういった段取りがきちんと確立されたのは、ブレイブが森に出て数日が経過したのちのことである。
何せアイ=ファは、猟犬を扱うのも初めてであったのだ。
いちおうシュミラルにひと通りの手ほどきは受けていたようであるが、アイ=ファはこれまで独りきりでギバ狩りの仕事を果たしていたのである。むしろ、わずか数日で段取りを確立させることができたのは、アイ=ファが狩人として並々ならぬ力を持っているゆえだと思われた。
(それにアイ=ファは、牧場の人間たちよりもすみやかに、私の考えを汲み取ってくれる。まるで、言葉が通じているかのようだ)
たとえば仕事の最中に、こんなことがあった。
森の中で、凶暴なギバの気配を察知した際のことである。すでにギバはこちらに突進してきていたので、ブレイブは取り急ぎ、アイ=ファに危急を告げることになった。
「飢えたギバが、こちらに向かってきているのだな。では、ブレイブはそちらの茂みに潜んでおけ」
凶暴なギバが相手では、ブレイブが下手に動くとアイ=ファの邪魔になる恐れがある。よって、こういう際にはアイ=ファが正面から相手取るというのが、これまでの段取りであった。
もちろんアイ=ファも、ただ漫然とギバの到着を待ち受けるわけではない。十分に刀を振るえる場所にまで移動して、木陰に身を潜めるというのが、常套手段であった。
その日もアイ=ファは、大樹の背に隠れてギバを待ち受けた。
ブレイブは茂みの中に身を潜めて、アイ=ファの姿を横から見やる格好である。
しばらくして、ギバが茂みを蹴散らしながら出現した。
そこは割り合いに開けた場所であったので、いっそうの勢いをつけながら、アイ=ファの隠れた大樹へと突進していく。
アイ=ファはついさきほどギバ寄せの実というものを扱っていたので、その香りに引き寄せられているのだろう。
しかし、今日のギバはとりわけ我を失っているらしく、そのままではアイ=ファの隠れている大樹に正面から衝突しそうな勢いであった。
普段であれば、ギバが大樹の脇を抜けたところでアイ=ファが刀を振り下ろすのであるが、ギバが大樹に衝突してしまったら、どうなるであろうか? その衝撃でアイ=ファが体勢を崩して、次の対応に手間取ったりはしないだろうか?
そのように考えたブレイブは、咄嗟に咆哮をあげてみせた。
大樹に迫り寄っていたギバが、ものすごい勢いでブレイブのほうに向きなおる。
そうしてギバが、方向を転じようとした瞬間――雷のごとき俊敏さで大樹の陰から飛び出したアイ=ファが、下からえぐるようにギバの咽喉笛を斬り裂いた。
もんどりうって倒れ込んだギバの傷口から、赤い鮮血があふれかえる。
びくびくと痙攣するギバの巨体を見下ろしながら、アイ=ファは油断なく刀をかまえていたが、やがて息をつくとブレイブのほうに向きなおってきた。
「もうよいぞ。いきなり吠えるので驚いたが……何か理由でもあったのか?」
「…………」
「うむ。お前が意味もなく吠えたてることはあるまいな。何か相応の理由があって、ギバの注意を引きつけるべきだと考えたのであろう」
「…………」
「うむ。これは意外に、有効な手であるやもしれんぞ」
次の機会から、ブレイブは身を潜めずに、最初から咆哮をあげることになった。
ブレイブがやかましくしていれば、凶暴なギバはこちらに向かってくる。そうして木陰に潜んだアイ=ファが横合いから斬りかかるというのが、新しく考案された作法であった。
「いつだったか、ギバが私ではなく茂みに潜んだブレイブに突進していくこともあったからな。あのときは、お前がギバに踏み潰されてしまうのではないかと、たいそう肝を冷やすことになってしまったし……それならば、最初から姿を現していたほうが、まだしも安全であるのかもしれん」
アイ=ファはそのように語りながら、ブレイブの首筋を力強く、情愛に満ちた所作で撫でてくれた。
「お前が立つ場所と私の潜む場所に十分な距離を保っておけば、万が一ギバを討ちもらしたとしても、お前が逃げるゆとりはあろう。今後もしばらく、このやり方を試してみようかと思うが、どうであろうな?」
「…………」
「よし。お前の俊敏さでは危険もなかろうが、くれぐれも油断するのではないぞ」
斯様にして、アイ=ファはブレイブの心情をあますところなく汲み取ってくれるのだった。
これは、森辺の民の特性であるのだろうか。どうやら異国の生まれであるらしいアスタよりも、アイ=ファを筆頭とする生粋の森辺の民のほうが、猟犬と心を通じ合わせられるように感じられた。
しかしやっぱり、その中でもアイ=ファは別格である。
アイ=ファは本当に、人間と猟犬の区別もなく、ブレイブを家人として認めてくれていたのだった。
アイ=ファは普段から、ブレイブにしきりに語りかけていた。なおかつ、アイ=ファは人の目が多い場所では無口になりがちであったので、ブレイブとふたりきりになったときほど、饒舌になるようであった。
特に顕著であったのは、アスタが仕事で出かけた後である。
アスタが家を出るまでは、数多くの人間がファの家に寄り集まるのだ。そうしてアスタが家を出ると同時に、それらの人々も姿を消す。トトスのギルルさえもがアスタとともに家を離れてしまうため、そうなると家にはアイ=ファとブレイブしか残されないのだった。
ある日は薪割りの仕事に励みながら、ある日は家や外の木陰でゆったりとくつろぎながら、アイ=ファはさまざまなことを語ってくれた。
「私はアスタを家人として迎えるまで、2年ほどをひとりで過ごしていたのだ。母は13歳の頃に、父は15歳の頃に亡くしてしまったのでな」
「…………」
「なおかつその時代、私は族長筋のスン家と悪縁を結んでしまっていた。ゆえに、ジバ婆やリミ=ルウやサリス・ラン=フォウといった友たちとも、絆を絶たなくてはならなかったのだ。それが辛くなかったといえば……大きな虚言になってしまおう」
「…………」
「そんな私を救ってくれたのは、アスタであった。あやつはファの家人になったばかりではなく、私がジバ婆やリミ=ルウと絆を結びなおす契機を作ってくれたのだ。そののちに、スン家の罪を暴く際にも、アスタの力は欠かせなかったであろうし……それを思えば、私がサリス・ラン=フォウや他の氏族の者たちと絆を結びなおせたのも、やはりアスタのおかげなのであろうな」
どこか遠くを見るような眼差しであったアイ=ファが、そこでふっとブレイブを見つめてくる。
こういうときのアイ=ファは狩人らしい厳しさや力強さも内に潜めて、とてもやわらかい表情になっていた。
「それ以前に、私が他者を受け入れようという気持ちになれたのだって、アスタのおかげなのだろうと思う。アスタの持つ深い情愛の心や、あの屈託のない笑顔などが、私の心をやわらかく溶かしてくれたのだ」
「…………」
「いまでこそ、あやつはあのように立派な立ち居振る舞いをしているが、私と出会った頃などは、それはもう腹立たしい男であったのだ。ものの道理はわきまえていないし、ずけずけとものを言うし、男衆のくせに刀のひとつも振れないし……1度など、寝ぼけて私を食おうとしたのだぞ? あのときは、本当に叩き斬ってくれようかと思ったほどだ」
「…………」
「だけどアスタは、そんな頃からとても思いやりに満ちた人間だった。それに……大事な人間を失う痛みを知る人間だった。故郷も家族もすべてなくしてしまったのだと語っていたときの、あの悲しげな眼差し……あれを見ていなかったら、私も翌朝にはアスタを放り出していたろうと思う。その胸に満ちた絶望を懸命に押し殺しているアスタの姿を見て、私は放っておけなくなってしまったのだ」
「…………」
「しかし気づけば、救われているのは私のほうだった。本当に……不思議なやつであるのだ、あやつは」
そう言って、アイ=ファはそっとブレイブの首を抱きすくめてきた。
アイ=ファの体内に脈打つ生命力が、とても温かく感じられる。
「私はこれほどに幸福であるのに、同じだけの幸福をアスタに与えることができているのか……こうしてアスタの姿が見えなくなってしまうと、時おり不安に見舞われてしまう。あの能天気な笑顔を目にすれば、このような気持ちもすぐに消えてくれるのだがな」
ブレイブに、人間の言葉でアイ=ファを慰めることはできない。
ただ、アイ=ファがこうして内心を吐露することで、少しでも楽になることを願うばかりであった。
そんなアイ=ファも、ひとたび中天を迎えて森に向かえば、もう勇猛なる狩人である。
どれだけやわらかい内面をさらそうとも、それでアイ=ファが仕事をおろそかにすることは1度としてなかった。
(アイ=ファのような主人と巡りあうことができて、私は本当に幸福だ。しかし……)
ブレイブは一点だけ、危惧していることがあった。
それはやはり、ギバ狩りの危険性についてであった。
日を重ねるごとに、アイ=ファとブレイブはギバ狩りの作法を確立させて、確かな成果をあげられるようになっていった。
しかしそうしてすべての不手際が解消されていくうちに、解消のしようがない部分も浮き彫りにされていったのであった。
(せめてもう1頭、私と同等の力を持つ猟犬がいれば、それらの危険も回避できるように思うのだが……それは、かなわぬ願いなのであろうか?)
この森はあまりに広大であり、そして、ギバの数は多すぎた。ブレイブが危惧するのは、複数のギバを相手取るときの対処であった。
たとえばブレイブがギバを追っている際、別なるギバがアイ=ファに迫ったらどうなるか。それは、アイ=ファが単身で相手取ることになる。もちろんアイ=ファであれば、どのように巨大なギバでもそうそう後れを取ることはなかろうが――それでも、危険なことに変わりはなかった。
それに、最初から複数のギバに囲まれた際も、たいそう難渋することになる。ブレイブが囮になって待ち伏せをするというやり口も、ギバが複数であった場合は役に立たないのだ。1度などは、アイ=ファがブレイブを抱えて木に登り、難を逃れるという事態にも至っていたのだった。
「お前が危地を察してくれたおかげで、難を逃れることができたな」
アイ=ファはそのように言ってくれていたが、ブレイブとしては不本意であった。猟犬が2頭いれば、片方が走り回って複数のギバを引きつけ、もう片方とアイ=ファが1頭ずつ始末していく、という手段も可能であるのだ。
(ギバ狩りというのは、これほどに危険な仕事であったのだ。だから、あのリャダ=ルウという狩人も、あれだけの力を持ちながら深手を負うことになったのだろう。アイ=ファは2年以上もひとりで仕事を続けることができるほどの、類い稀なる力を持つ狩人であるのだろうが……それでも、2頭の猟犬がかたわらにあれば、もっと安全に仕事を続けられるはずだ)
そんな思いを胸に、ブレイブは日々を生きることになった。
そうして、ふた月ほどが過ぎたとき――その者が、ファの家にやってきた。
ファの家の5番目の家人、獅子犬のジルベである。
「今日からこやつも、ファの家人として招くことになった。決して諍いなどを起こすのではないぞ?」
町から戻ったアイ=ファには、そのように申しつけられることになった。
その足もとに、黒くて巨大な犬が控えている。これほどに巨大な犬は、ブレイブも目にしたことがなかった。
(鼻をつまんでいたならば、これが犬とは思えぬほどであろうな)
ジルベはやたらと肉厚な身体をしていた。体長や体高などはブレイブとさほど変わらなそうであるのに、重量は倍ぐらいもありそうであったのだ。頭は大きく、四肢は短く、首の周りにもさもさと毛が生えている。鼻先もぺしゃんと潰れており、人間のように平たい顔になっていた。
「ジルベは猟犬ではなく、人間を守る護衛犬として育てられてきたそうだ。よって、ギバ狩りの仕事を手伝わせることはできまいが、同じ家の家人として仲良く過ごすのだぞ」
そのように言いながら、アイ=ファは身を屈めてジルベの首筋をまさぐった。
「ジルベよ、これはファの家人であるブレイブだ。お前たちが何年を生きてきたのかは知るすべもないが、この家においてはブレイブが先達となる。兄のように敬い、森辺における暮らしを学ぶがいい」
ジルベは黒くて大きな目を、ぱちくりと瞬かせていた。
おそらくは、ブレイブよりも年少であろう。その大きな身体には猟犬にも負けない生命力が感じられるが、ずいぶんと無邪気な性格をしているようである。
(しかしどこかに、危うげな気配も感じられる。おそらくこやつは主人の命令さえあれば、相手が犬でも人間でもトトスでも噛み殺すことができるのだろう)
それは、猟犬には許されない所業であった。猟犬は、まず同胞と人間とトトスに害を為さないことを、徹底的に教育されるのである。
(それにあの平たい顔は、獲物に噛みつくのにずいぶんと便利そうだ。ギバの胴体に噛みつこうとも、呼吸を妨げられずに済むのではないだろうか)
しかしアイ=ファは、ジルベにギバ狩りの仕事を任せるつもりはない様子である。
これほどに力を持つ犬を放っておくというのは、あまりに惜しい話であった。
(では、私が力を見てやるとするか)
しかしその前に、まずは挨拶である。
その潰れた鼻先にブレイブが鼻先を寄せてみせると、ジルベは無邪気そうに瞳を輝かせた。
人間を守るのが仕事だということは、ブレイブと同じように一定期間は他の同胞とともに訓練を受けていたのだろう。なおかつ、すでにアイ=ファのことを主人と認めている様子であるし、ブレイブに対して何の警戒心も抱いていないようだった。
挨拶を済ませたブレイブが身をひるがえすと、ジルベは長い毛を揺らしながら後をついてくる。首の周りだけではなく、全身の体毛が長いのだ。森に入るとすれば、その毛は短く切りそろえる必要があるだろう。
が、そのような心配はするだけ無駄であった。
ジルベに猟犬の資質がないことは、すぐに知れてしまったのである。
(こやつは、こんなにも鈍足であるのか)
ブレイブが少し力を込めると、ジルベの巨体はすぐに遠ざかってしまった。
ジルベはあまりに巨体であるためか、せいぜい人間ていどの速さでしか走ることができなかったのだった。
なおかつ、いくらも走らないうちに、舌を出して大きく喘いでいる。持久力といったものが欠落しているようだ。
(つまりこやつは、人間から人間を守るために訓練されたということなのだな。よって、人間よりも俊敏に走る必要もないということであるのだろう)
ブレイブが歩調をゆるめると、ジルベがかたわらに追いついてきた。
とても楽しげな様子である。どうやら同じ犬とたわむれることに大きな喜びを見出しているらしい。もしかしたら訓練を終えた後は、長きの時間を人間とだけ過ごしてきたのかもしれなかった。
「どうやら上手くやっていけそうだな。これなら、ひと安心だ」
アイ=ファの隣にたたずんだアスタが、笑顔でそのように言っていた。
アイ=ファも「そうだな」と穏やかな眼差しでブレイブたちを見守っている。
もちろんブレイブとしても、同じ犬であるジルベが家人として迎えられるのは、大きな喜びであった。
しかし、それと同時に失望したのも事実である。ブレイブが足を止めると、ジルベは少し心配そうな様子で大きな顔を寄せてきた。
(案ずるな。私は私の都合で思い悩んでいるだけだ。お前に罪はない)
ジルベは甘えるように、鼻先をこすりつけてきた。
ずいぶんと大きな弟ができたものである。
もとより、猟犬ならぬジルベに期待をかけたのは、ブレイブの都合であったのだ。今後は同じファの家人として、絆を深めていきたいところであった。
そうしてファの家は、ふたりと3頭で日々を生きていくことになった。
ジルベという家人が増えても、その暮らしぶりに変わりはなかった。アスタが町に下り、アイ=ファとブレイブが森に入っている間、ジルベは家を守るのが仕事であったのだ。これはどうやら、牧場にもいた番犬と同じような仕事であるようだった。
ひとつ驚かされたのは、ジルベが肉以外の食べ物を食することであった。
アスタの言葉から鑑みるに、それは獅子犬もしくは護衛犬の特性であるらしい。
「俺の故郷では、犬も雑食だったんだよね。だから、肉しか食べないブレイブのほうが、俺には珍しく感じられるかな」
ブレイブとジルベの食事を見守りながら、アスタはそのように言っていた。
アイ=ファも穏やかに目を細めつつ、「そうなのか」と相槌を打つ。
「うん。でも、もとはやっぱり肉食だったのかな? 人間と一緒に暮らすうちに、同じものを食べるようになったのかもしれない」
「では、ブレイブも肉以外のものを食せるようになるのであろうか?」
「いやあ、それはどうだろう。いきなり食べさせてしまったら、やっぱり健康に害が出ちゃいそうだな」
「では、つつしむべきであろうな」
言われずとも、ブレイブは肉以外のものを口にする気など毛頭なかった。
猟犬は肉を食べ、トトスは草葉を食べ、人間や獅子犬はさまざまなものを食べる。それはそれだけの話であり、考えを改める理由などどこにも存在しなかった。
かくして、ファの家は滞りなく新たな家人を迎え入れることができたわけであるが――新たな騒ぎが巻き起こるのに、数日とはかからなかった。
アイ=ファたちが「聖域の民」と呼ぶ、ティアの登場である。
ティアの存在は、ジルベ以上の驚きをブレイブにもたらした。
これがいったいどういう存在であるのか、ブレイブには見当をつけることもできなかったのだ。
(確かに人間の姿をしているし、人間としての言葉も使っている。しかし……この奇妙な気配は、いったい何なのだ?)
森辺の民というのも、ブレイブにとっては不可思議な存在であった。
このティアは、その不可思議さをさらに凝縮したかのような存在であったのだった。
ティアから感じるのは、野生の獣の気配である。
森辺の民も森の一部であるかのような気配を纏っていたが、それをいうならばティアなどは森そのものであった。それとも、彼女の故郷が森ではなく山だというのなら、山そのものと評するべきであるのだろうか。とにかくブレイブにとって、ティアは大自然の生命力そのものであるように感じられてしまったのだった。
(ギバやムントよりも野の獣めいた気配を持ちながら、人間の姿で人間の言葉を喋る、このように不可思議なものがこの世には存在したのか)
ティアは友にも同胞にもなれぬ存在であり、傷が癒えたのちには故郷の山に戻すという話である。ならば、ブレイブがティアに頓着する理由もなかったが――しかし、このように不可思議な存在を黙殺することも難しかった。
ある日のこと、ティアがひとりでぼんやりとしていたので、ブレイブがこっそり近づいてみると、彼女はこのように言い放った。
「お前はそんなに、ティアのことが物珍しいのか? 心配せずとも、ティアがアスタやアイ=ファに害を為すことはないぞ」
「…………」
「うむ。ティアはアスタたち森辺の民に、大きな恩義を感じているのだ。この恩義を踏みにじるぐらいであれば、ティアはいつでもこの魂を大神に返そうと思っている」
「…………」
「ああ、ティアの故郷にも、お前と似た獣がいたのだ。まあ、お前とヴァルブの狼では、町の人間と『赤の民』ぐらい掛け離れた存在であるのかもしれないが……それでもきっと、祖先を同じくするものであるのだろう。ティアの一族とヴァルブの一族は友であったので、お前のことは好ましく思える」
「…………」
「とはいえ、お前も外界の民であることに変わりはない。ティアとお前は友にも同胞にもなれぬ身であるのだから、何もかまいつける必要はないぞ。ティアのことは気にせずに、お前はお前の生を生きるがいい」
どうやらこのティアは、アイ=ファや森辺の民以上に、ブレイブの心情を見て取ることができる様子であった。
(私は本当に、この世のことなど何も知らなかったのだな。森辺の民に、聖域の民に、獅子犬に、ギバ……すべてが、想像の外だった。世界には、これほどに不可思議な存在が満ちあふれていたのだ)
そんな感慨を胸に、ブレイブはティアのもとを離れることになった。
ティアが登場したことによって、アスタたちはいっそう騒がしい日々を送ることになった様子である。
しかしそれでも、ブレイブの生活が脅かされることにはならなかった。中天になればアイ=ファとともに森へ入って、ギバ狩りの仕事を果たす。ティアが現れてから数日後には休息の期間というものを迎えることになってしまったが、その間もアイ=ファやアスタやジルベと過ごし、いっそう平穏そのものの日々であった。
しかしまた、ブレイブは休息の期間を迎えることによって、アスタがどれだけ多忙な日々を送っているかを知ることになった。
朝から宿場町に向かうまでと、宿場町から戻って夜を迎えるまで、アスタはほとんど休むことなく、ずっと働き詰めであったのだ。
宿場町に下りている間の行動は不明であるが、もちろんそちらでも遊び呆けているわけはないだろう。ブレイブが最初の日に垣間見た通り、そちらでもかまど番としての仕事を果たしているはずだった。
そんなアスタが身を休めることができるのは、どうやら晩餐を終えた後の時間のみであるようだった。
たいていはブレイブのほうが先に眠ってしまうので、それを確認するのに時間がかかってしまったが、ときおりアスタがくつろいだ声でアイ=ファと語らうのが聞こえてきたのである。
「ティアは、寝たみたいだな。……アイ=ファは、大丈夫か?」
「大丈夫とは? お前に心配をかけるようなことは、何も起きていないように思うが」
「いや、ティアをファの家に迎えて以来、アイ=ファはずっと気を張っているように感じられるからさ。もちろん、聖域の民なんていうとんでもない客人を迎えてるんだから、気を抜けないのは当然なんだろうけど……」
「うむ。しかしべつだん、こやつが悪さをするのではないかと疑っているわけではないからな。気苦労というほどのものではない」
「そっか。でも、ティアの目があると、アイ=ファはなかなか表情を崩してくれないよな。……いやいや、アイ=ファの凛々しい面持ちに文句があるわけじゃないんだけどさ」
「…………」
「だからそうやって、ときどきやわらかい表情を見せてくれると、すごくほっとするんだよ」
「馬鹿者」とアイ=ファは答えていたが、その声にはとても幸福そうな響きが込められていた。きっとブレイブにもときおり見せてくれる、あのやわらかい表情でアスタと語らっているのだろう。
驚くべきことに、アイ=ファとアスタは夫婦ではなかったのだった。
最初に顔をあわせたときから、ブレイブは両名が夫婦であると信じて疑っていなかった。人間が人間に情愛を向けるとき、そこには独特の甘い香りが生じるものであるのだが、アイ=ファとアスタはブレイブがこれまで嗅ぎ取ったことがないほどの、甘やかな香りを発していたのである。
これほどの情愛を傾けている相手と同じ家で暮らしながら、伴侶の絆を結ばないというのは、実に信じ難い話であった。
しかしそれは、どうやらアイ=ファが狩人であるためであるらしい。伴侶を迎えて子を生すと狩人として働けなくなってしまうため、アイ=ファは婚儀をあげないのだという話であったのだ。
(私とて、アイ=ファのように立派な主人を失うことなど、想像したくもないが……アイ=ファであれば、子を育てながら狩人としての仕事を果たすことも可能なのではないだろうか?)
何にせよ、ブレイブとしてはアイ=ファとアスタの幸福な行く末を願いたいところであった。