東の美食家(下)
2019.9/14 更新分 1/1
その夜である。
無事に帰還した両親と客人たるナナクエムを加えて、アルヴァッハたちは11名で晩餐を囲むことになった。
『料理長が屋敷を出てしまったために、この夜は他の料理番たちが晩餐を準備することになりました。ですが、その者たちもゲルで屈指の腕を持つ料理番であるので、きっと客人たるナナクエム殿にもご満足いただけるでしょう』
アルヴァッハの母親が、事前にそのように告げていた。
母親が取りなしてくれたのか、父親は沈黙を守っている。が、父親が激昂したことは他の家人にも伝わっているのだろう。誰もが普段以上に取りすました顔をしており、余計な口をきこうともしなかった。
(何にせよ、我は口をつぐむ他あるまい。どのように不手際を指摘しても、ただちに料理の質が上がるわけではないのだからな)
アルヴァッハは、暗澹たる気持ちで敷物の料理を見回した。
ナナクエムという客人を迎えているために、普段以上に豪勢な晩餐である。分厚く切り分けられたギャマの香味焼きに、川魚と香草と山菜の汁物料理、魚醤をまぶされたシャスカ料理に、山菜と香草の和え物などなど、品数も十分であった。
『このシャスカ、なんだかめずらしいいろをしてるね』
姉の隣に座した甥子が、小声でそのように言っている。今日のシャスカは香草か何かが練り込まれており、淡い朱色をしていたのだ。
(おおかた、チットの実かイラの葉でも練り込んでいるのであろう。とりたてて珍しい作法ではない)
伴侶が取り分けてくれたシャスカ料理を、アルヴァッハは何の気もなく口に運んだ。
その瞬間、大きな違和感が舌の上を走り抜ける。それは魚醤と香草で辛めに仕上げられていたが、朱色のシャスカからはまろやかな甘みが感じられたのだ。
(香草ではなく、甘い果実を練り込んでいたのか。香草の風味がややぶつかってしまっているが……魚醤の塩気とは相性がいいようだ)
魚醤とは、魚を発酵させて作る調味料である。ゲルドにおいては海の民とも通商を行っていたので、この魚醤もジェノスとの通商に持ち出すべきか議論が交わされていた。
(しかし、香草の組み合わせを吟味すれば、もっと確かな調和を得られることだろう。シャスカを甘く仕上げるというのは面白い試みであるが、これでは不十分だ)
どれだけ口をつぐもうとも、そういった想念は頭にあふれてしまう。
家人たちが静かに語らう声を聞きながら、アルヴァッハは次なる料理に手をのばした。黄色く濁った汁物料理である。
(これほど黄色みを帯びるのは珍しいな。まさか、シシの実でも使っているのであろうか)
シシの実は鮮烈な辛みを持つ香辛料であるが、熱を通すと辛みが消えてしまうために、汁物料理ではまず使われることもない。
それではこの色合いは何なのであろうかと不審に思いながら、アルヴァッハが汁物料理をすすってみると――そこにはまた、意想外の味わいが待ち受けていた。
(この風味は……やはり、シシの実なのか?)
あまり覚えのない、もったりとした風味である。もしかしたら、それは辛みを消されたシシの実の風味なのかもしれなかった。
シシの実は微量でも強い辛みを持つので、これほどどっさりと使われることもない。ゆえに、これほど強く風味を感じる機会もなかったのだ。熱を通して辛みを消すことで、大量のシシの実を使うことに成功した――というのが、答えであるようだった。
そして、シシの実から辛さが消されている分、他の香草で辛みが加えられている。
しかし、その香草の配分には、また不手際が感じられた。チットの実とイラの葉が両方使われているようであるが、まだまだシシの実の豊かな風味に負けてしまっているのだ。ここはさらに複数の香草を使って対抗すれば、さらなる奥深さが望めそうなところであった。
(なんだか、ちぐはぐな料理ばかりだな。皆は何も気にならないのであろうか?)
そのように思って視線を巡らせてみたが、べつだん普段と異なる様子を見せている人間はいなかった。ナナクエムも含めて、みんな満足そうにこれらの料理を味わっているようだ。
『あなた、どうかされたのですか?』
かたわらの伴侶が、低い声で問うてくる。
アルヴァッハは『いや……』と曖昧に答えつつ、別なる料理の皿を取った。ギャマ肉の香味焼きである。
その肉料理も、素通りできぬ不可解さを有していた。
肉の表面にはほどよい香ばしさがあり、食感が心地好い。なんらかの衣を纏わせたのちに、香草で風味をつけた油で揚げ焼きにしているのであろう。森辺で食した『ギバ・カツ』ほどではないにせよ、その薄い衣が素晴らしい風味と食感を生み出しているのだ。
火加減も、まあ悪くはない。もっとやわらかく仕上げられれば至高であろうが、昨晩の肉料理ほど不備が目立つわけではなかった。
ただ問題は、うっすらと感じられる甘さである。
香味焼きであるのだから、香草がふんだんに使われており、辛みもきいている。その裏側に潜んだ甘さが、わずかに調和を乱していた。
しかし、ただ調和を乱しているわけではない。この甘さを除去するのではなく、もう少し手を加えれば極上の調和が得られるのではないかと、そんな気配をひしひしと感じてしまうのだ。
それはアルヴァッハにとって、きわめてもどかしい仕打ちであった。よって、黙りこくっていることも難しくなってしまった。
『これは……屋敷に仕える料理番たちの手掛けた料理であるのだろうか?』
家人たちが、ぴたりと口をつぐんでしまった。
その中で、藩主たる父親が重々しい声をあげる。
『我の伴侶が、そのように告げていたはずだ。おぬしはまた、何か文句をつけようという心づもりであるのか?』
『いや、文句ではなく……何か、違和感を覚えたのだ。この屋敷に仕える料理番の作法はわきまえているつもりであるが、これらの料理はそのどれとも合致しないように思える』
『作法?』と、末の妹が小首を傾げた。
『べつだん見覚えのない食材が使われているわけでもないし、どの料理も美味だと思います。何かおかしなところでもあったでしょうか?』
すると、甥子が『でも』と声をあげた。
『このしるものりょうりには、たくさんのシシのみがつかわれてるよね。ぼく、こんなにたくさんのシシのみがつかわれてるりょうりははじめてかも』
『なんだ、お前までアルヴァッハのようなことを言いたてるのか? シシの実など、何も珍しい食材ではあるまい』
と、父親が不満げに言いたてたが、その語調はごく穏やかであった。父親は、初孫である甥子を溺愛しているのだ。
『我も文句を言いたてているわけではない。ただ、見知らぬ作法で作られた料理ばかりであるので、不審に思ったのだ。これは本当に、屋敷の料理番たちがこしらえた料理であるのだろうか?』
アルヴァッハが言葉を重ねると、母親が『ええ』とうなずいた。
『これはまぎれもなく、この屋敷の料理番たちが準備した晩餐となります。……ただし、そのうちのひとりは今日から厨に入ったので、それが影響しているのかもしれません』
『今日から? しかし、厨に入ったばかりの料理番が、料理の内容に口出しすることはあるまい』
『いえ。今日の晩餐に関しては、その新しい料理番が取り仕切っているのです。……他の料理番たちはあなたの不興を買うことを危惧していたので、喜んでその座を譲ったようですよ』
アルヴァッハは、しばし言葉を失うことになった。
『ならば、見知らぬ作法で晩餐が作られてもおかしなことはない。それはいったい、どういう素性の料理番であるのだろうか?』
『では、少し早いですが、その者を呼んでみましょうか。どのみち晩餐を終えた後には挨拶をさせるのが習わしなのですからね』
母親の言葉に従って、侍女がその料理番を食堂に案内してきた。
その姿を見て、家人の何名かが驚きの声をもらす。それは、まだごく年若い娘であったのだった。
『お前が……今日の厨仕事を取り仕切ったのか?』
『左様でございます』と、敷物の上で膝をそろえた少女が、深々と一礼する。
おそらくは、マヒュドラの血も入っているのだろう。ひとつに束ねた髪は金色がかっており、切れ長の目に瞬くのは、深い紫色をした瞳だ。ただ、肌の色ははっきりと黒く、ゲルドにおいては珍しくもない風貌であった。
『……お前は、ずいぶん年若いように見えるな』
『恐縮でございます。私は、13歳となります』
『13歳で、これほどの料理を仕上げたのか。それは、驚くべき手腕であるな』
『恐縮でございます』と繰り返しながら、その娘はアルヴァッハの顔をじっと見つめ返してきた。
光の強い、いかにも果断な気性をしていそうな眼差しである。それになんだか、そこには挑むような気概も感じられた。
『確かに、その若さを考えれば驚くべき手腕であろう。しかし、このように年若き人間を、確たる理由もなく雇い入れることはあるまいな』
そのように言いたてたのは、藩主たる父親であった。
その瞳が、かたわらに座した母親に向けられる。
『屋敷の従者や料理番の雇用に関しては、おぬしに一任している。この娘は、どのようなゆえあって雇い入れることになったのであろうか?』
『この娘は、3年ほど前までこの屋敷で働いていた料理長の娘となります』
その返答に驚いたのは、アルヴァッハであった。
『それでは、お前は料理人たる父親に手ほどきをされて、これほどまでの腕を身につけたということか』
『左様でございます』
『……お前は何という名であるのだ?』
『私の名は、プラティカ=ゲル=アーマァヤと申します』
『なるほど』と、アルヴァッハは年若き料理人プラティカの顔を見据えた。
『その氏には、確かに聞き覚えがある。しかし、あの頃にお前の父親が供していた料理とは、ずいぶん作法が異なっているようだな』
『はい。こちらのお屋敷を辞してより後、私と父は西の王国を放浪して、料理の修練を積んでおりました。そうして新たな作法を身につけるに至ったのでございます』
その言葉に、他の家人たちも驚きの声をあげていた。
その中で、アルヴァッハの伴侶が探るような視線をプラティカに突きつける。
『料理の修練のためだけに、西の王国を放浪していたのですか? それは、ずいぶんと尋常ならざる行いであるでしょうね』
『恐縮です。父は西の王国の作法を取り入れることで、さらなる高みを望むことができるのではないかと考えました。その結果は、今宵皆様が口にされた通りとなります』
そうしてプラティカは、また挑むような眼差しをアルヴァッハに突きつけてきた。
『私は若輩者ですが、持てる力をすべて振り絞って、本日の晩餐を作らせていただきました。ご満足いただけたでしょうか?』
『……その前に、問うておきたいことがある。ともに修練を積んだお前の父親は、どうしたのだ?』
『父は病魔で、魂を返しました。今日よりふた月ほど前、西の王国からゲルドに戻ろうとしていたさなかのことでございます』
『そうか』と、アルヴァッハは息をついた。
『それでお前は父親の意志を継ぎ、この屋敷を訪れたということだな。お前の父親の料理を口にできぬことを、心より残念に思う』
『はい。父も最期まで、アルヴァッハ様に自分の料理を食べていただきたいと願っておりました。父はアルヴァッハ様のご慧眼に感服し、さらなる高みを目指すことを決意したのです』
プラティカの紫色をした瞳は、いよいよ激しく火のように燃えていた。
『父は志半ばで倒れることになりましたが、私はその技のすべてを受け継いだものと自負しております。アルヴァッハ様にご満足いただくことはかないましたでしょうか?』
『満足は、していない』
アルヴァッハの言葉に、家人たちはまたざわめいた。
父親が何か声をあげようとしたが、それは母親に止められる。アルヴァッハの伴侶とナナクエムは、左右からアルヴァッハの姿を見つめていた。
『西の王国にて修練を積んだだけあって、いずれの料理にも興味深い細工が凝らされていた。が、その細工をもっとも望ましい形で仕上げるための力量が、決定的に不足している。また、これで十全と思っているならば、お前は自らが作りあげようとしている料理の完成形を正しく把握できておらぬのだろう。このように不完全な料理に満足することはできぬ』
プラティカは、鞭で打たれたように身をすくませた。
そして、膝にのせた手をぎゅっと握りしめながら、深く頭を垂れる。
『左様で……ございますか』
『うむ。お前は西の王国で得た目新しい作法に振り回されて、足もとがおろそかになってしまっているのであろう。お前が作ろうとしている料理には大きな可能性を感じるが、お前がそれを手掛けるには力量が足りていない。あまりにも未熟であり、あまりにも稚拙である』
『あなた』と、伴侶がアルヴァッハの腕に手をかけてきた。
理由はわかっている。深くうつむいたプラティカの顔から、敷物に涙がこぼされていたのだ。
『返す言葉も……ございません。不出来な料理をお出ししてしまったことを……深くお詫びいたします』
『我はまだ、どういう部分が不出来であったかを評していない。それでもお前は、自分の料理が不出来であったと認めてしまうのであろうか?』
『アルヴァッハ様のお言葉に間違いはないと……父は常々、そのように言っておりました。アルヴァッハ様が不出来とお感じになられたのなら、それが真実であるのでしょう……至らぬ我が身を、口惜しく思うばかりでございます……』
『なるほど。それもまた、お前が未熟である証なのであろう。料理人とは、他者の言葉ではなく自分の舌こそを重んじるべきであるのだ。お前が自分の舌を信じ、これこそが至高の料理であると断じられていれば、我の言葉などに心を乱されることもあるまい』
『いいかげんにせよ』と、父親が感情を殺した声をあげた。
『このように年若い料理番がこれだけの晩餐を準備してみせたというのに、どうしておぬしはそれを誹謗するような言葉しか口に出せぬのだ』
『我はこれらの料理に満足したかと問われたので、それに答えたのみである。まだこれらの料理の美点も欠点も口にはしていない』
『それではまた、これらの料理に長々と文句をつける気か? せっかくの新しい料理番を、我々はまた失ってしまうということだな』
『いえ!』と、プラティカが面を上げた。
まだ幼さを残した顔が、涙に濡れている。しかしその紫色の瞳は、さきほどよりも強い光をたたえていた。
『私はどれだけの歳月がかかろうとも、必ずやアルヴァッハ様にご満足いただけるような料理を作りあげるのだと、父の魂に誓いました。もしもお許しいただけるのでしたら、今後もこちらのお屋敷で働かせていただきたく願っております』
『ふむ。その心意気は得難く思うが、なかなか難しい話であろうな』
アルヴァッハの言葉に、プラティカはますます勇猛なる目つきになった。
『何故でございますか? 私は……私はそれほどに、取るに足らない存在であるのでしょうか?』
『いや、その逆である。現在のこの屋敷において、お前より優れた力を持つ料理番は他にいない。お前がこのまま屋敷で働き続けても、確たる成長は見込めぬことであろう。しかもお前は、他の料理番には馴染みのない西の作法を取り入れた料理人であるのだから、なおさらにな』
そうしてアルヴァッハは、ようやく胸の内を明かすことになった。
『よって、お前は西の王国で修練を積むべきではないだろうか?』
『西の王国で……? もはやあの地に、私の学ぶ場所は残されていないかと思われます』
『では、お前はジェノスに足を踏み入れたことがあるのであろうか? ……いや、たとえジェノスに出向いたとしても、森辺の集落や城下町に足を踏み入れることは、なかなかかなうまい』
プラティカは、うろんげに眉をひそめた。
ずいぶん表情が動いてしまっているが、それを指摘しようとする人間はいない。
『ジェノス……この1年ばかりで、ギバ料理というものが評判となっている地ですね。父も興味を引かれた様子でしたが、私たちはセルヴァでも北寄りの領地を巡っておりましたので、足を運ぶ機会はございませんでした』
『風土が異なれば食材の質も異なるので、その判断は正しいように思う。しかしあの地には、風土や食材の差異にも左右されない料理人が存在するのだ』
アスタやヴァルカスは数多くの人間に指南していると聞くし、森辺の女衆らがどれだけ見事な手腕を持っているかは、アルヴァッハも思い知らされていた。
あの地におもむけば、このプラティカも才能を開花させるに違いない。さしたる理由もなく、アルヴァッハはそのように直観していた。
『我らは間もなく、ジェノスとの通商を開始する。さすれば、お前をあの地に送り届けることもかなおう。そうしてお前がこの屋敷の料理長として相応しい力を身につけることを、我は強く願っているが……藩主たる父上は、どのようにお考えであろうか?』
『ふん。ようやく自分の立場を思い出したようだな』
父親は、表情が動くのを懸命にこらえている様子で言い捨てた。
『そのような話を、直ちに決められるわけがなかろう。そしていまは、晩餐のさなかであるのだ。おぬしが余計な言葉を重ねているせいで、すっかり料理が冷めてしまったわ』
『申し訳ございません。すぐに新しいものとお取り替えいたします』
プラティカが腰を上げようとすると、父親は『よい』とそれを制した。
『このように見事な料理を塵芥にしてしまうのは忍びない。また、これだけの食材を無駄にするのは許されぬ贅沢であろう』
『ええ。本当に、どれも見事な料理です』
母親が、とても静かな視線をプラティカに差し向ける。
『あなたのような料理番に屋敷の厨をまかせることができたら、私たちもひと安心です。あなたがその立場に相応しい力を身につけることを、心より願っています』
『……ご期待に添えるように、誠心誠意つとめさせていただく所存でございます』
母親は、満足そうにうなずいた。
その姿を眺めていたアルヴァッハは、ふっとあることを思い出す。『ジ』の藩から嫁いできた母親は、それなりに星読みをたしなむ人間であったのだ。
(もしかしたら、我もこの娘も母上の手の平で踊らされていたのであろうか)
そのようにも思ったが、アルヴァッハは気にしないことにした。
星図がどのような動きを見せていたとしても、アルヴァッハの考えに変わりはない。このプラティカが立派な料理人に育つことは、誰にとっても幸福なことであるはずだった。
(これでまた、ジェノスに出向く楽しみがひとつ増えたというものだ)
アルヴァッハがそのように考えていると、ナナクエムが顔を近づけてきた。
『アルヴァッハ。貴殿はいまにも笑みを浮かべそうな様子をしているぞ』
『うむ。自覚はしているので、心配には及ばない』
『べつだん、心配などはしていない。恥をかくのも叱責されるのも貴殿であるのだからな』
そのように言いたてるナナクエムこそ、苦笑でも浮かべそうな様子であった。
両名がジェノスに出向くのは、早くとも銀の月に入ってからとなる。今度は荷車を引いていかなければならないので、到着するのはさらに次の月となろう。
このプラティカがアスタやヴァルカスたちの料理を口にしたならば、いったいどれほどの衝撃を受けることになるのか。アルヴァッハは、いまから楽しみでならなかった。