東の美食家(中)
2019.9/13 更新分 1/1 ・2020.5/12 誤字を修正
翌日である。
朝から執務に取り組んでいたアルヴァッハのもとに両親の帰宅が告げられたのは、中天を迎えてからのことであった。
軽食を取るために食堂へと向かおうとしていたアルヴァッハは、その足で広間へと向かう。するとそこには両親のみならず、『ド』の藩主の第一子息たるナナクエムの姿もあった。
『ナナクエム。今度は貴殿が、我らの家を訪れたのか』
『うむ。間もなく太陽神の復活祭であるので、その前に挨拶をさせてもらおうと思ってな』
ナナクエムは、アルヴァッハにとっては無二の朋友である。いずれはアルヴァッハとナナクエムがそれぞれの領地の藩主となって、ゲルドの民を導いていかなくてはならないのだ。その結束を高めるために、両名は幼少のみぎりから交流を重ねてきていた。
『しかし、まずは藩主殿から貴殿に話があるようだ。それが終わるまで、我は横に控えていよう』
『うむ。このたびの会合は如何であっただろうか?』
アルヴァッハは父親たる藩主に向きなおったが、そこには憤懣やるかたない眼光が待ちかまえていた。
『アルヴァッハよ。我はおぬしに、藩主の名代としてつつがなく過ごすようにと言いつけたはずだ』
『うむ。その約定を違えた覚えはないが、父君は何をお怒りであるのだろうか?』
『料理長が、暇を願い出てきたのだ。自分には、この屋敷の厨を預かる資格はない、などと言いたててな』
『なるほど』と、アルヴァッハはうなずいてみせた。
父親は、いっそうの憤激を双眸にたぎらせる。
『なるほどではない。これで何名の料理番が屋敷を去ったと思っておるのだ? このたびの料理長などは、半年ももたなかったではないか』
『料理長にも、思うところがあったのであろう。かの者は、なんと申し出ているのであろうか?』
『いまはひたすら修練に打ち込んで、いずれ必ず藩主の屋敷の厨を預かるのに相応しい力量を身につけてみせる、などと言っておった。それが何だというのだ』
『やはりそれだけの気概を持った料理人であったのだな。あの者がいずれ相応の力量を身につけることを、心待ちにしたく思う』
『いい加減にせよ』と、父親は重々しくつぶやいた。
さすがに表情を動かすような真似はしないが、はっきりと怒りのにじんだ所作である。
『藩主の屋敷を辞そうというのだから、それぐらいの言葉を準備するのは当然であろう。それで再び姿を現した料理番が、これまでに存在したであろうか?』
『我の記憶では、まだ存在しないように思う』
『当たり前だ。誰が好きこのんで、このように気難しい人間のいる屋敷で働きたいと思うものか!』
ついに父親が怒号をあげると、その伴侶たるアルヴァッハの母親が『藩主様』と静かに声をあげた。
『声を荒らげるのは、つつしみに欠けましょう。まずは旅装を解いて、落ち着かれるがよろしいかと思います』
『しかし、こやつをどうにかせぬことには、我らはいずれ生のシャスカをかじることになろう!』
『そのときは、わたくしが厨に立ちましょう。まあ、頑迷なる息子を納得させられるような料理は、とうてい準備できませんでしょうけれども』
そんな風に言いながら、母親の目にはアルヴァッハをからかうような光がたたえられていた。
『さあ、とにかくこちらに……アルヴァッハは、ナナクエム殿をお願いいたします』
両親は、供の者を率いて広間を出ていった。
脇に下がっていたナナクエムは、『やれやれ』とアルヴァッハに近づいてくる。
『貴殿は、相変わらずのようだな。我も助太刀をするべく駆けつけたつもりであったが、遅きに失したようだ』
『ふむ。助太刀とは、なんの話であろうか?』
『このような騒ぎが起きぬように、貴殿を掣肘しようと考えていたのだ。ジェノスから戻って以来、貴殿の難儀な性格に磨きがかかったようだという評判であったからな』
アルヴァッハは溜め息をこらえながら、広間の出口を指し示してみせた。
『ともあれ、貴殿を歓迎しよう。昼の軽食は執務の間に、ナナクエムの分も準備させるように』
ひっそりと控えていた侍女が、『はい』と応じてくる。
そちらにうなずき返してから、アルヴァッハはナナクエムを回廊に連れ出した。
ゲルやドにおいて、藩主とその臣下は藩主の屋敷において執務に取り組んでいる。もちろん執務と居住の空間は棟が分けられていたが、同じ敷地の建物であるのだ。
西の王国においては、これが「城」と呼ばれるのだろう。藩主の屋敷も石塀に囲まれた堅牢なる建物であり、いざというときには外敵を迎え撃てるような造りをしている。が、ゲルドの長い歴史の中で、ここまで外敵に踏み込まれたという記録はなかった。
(マヒュドラとは友好的な関係を築いているし、仇敵たるジャガルは南の果てであるのだから、当然だ。だから、やはり……もう一方の友好国であるセルヴァとの関係が肝要であるのだろう)
ゲルドとセルヴァの関係は、端的に言って薄氷の上に成り立っていた。ゲルドはもともとマヒュドラと絆が深いために、西の民からは忌避されていたのだ。
なおかつ昨今では、ゲルドの山賊が西の民を襲うという一件が深刻化していた。ゲルドの辺境には貧しい人間が多く、それが忌まわしき山賊と化して、セルヴァの領地や旅人を襲うようになってしまったのだった。
『……山賊の討伐に関しては、このたびの会合でどのように語られたのであろうか?』
煉瓦造りの回廊を歩きながらアルヴァッハが問うてみると、ナナクエムは真剣な眼差しで『うむ』とうなずいた。
『やはり、セルヴァ付近の街道の見回りを強化するしかすべはないようだ。長々とのびる街道のすべてを監視するのは、尋常でない労苦であろうが……山賊を放置するわけにはいかぬからな』
『では、山賊の拠点を探索するという案は通らなかったのか』
『拠点を探索するすべがないからな。というか、下手をすると辺境区域のほとんどの村落が、山賊の拠点と見なされてしまう恐れがある。逆に言えば、山賊だけを生業にしている人間はおらず、貧しき人間が糧を得るために、生業のかたわらで無法を働いているという公算が高かろう』
『しかし、山賊の罪を見逃すわけにはいくまい』
『だから、見回りを強化して山賊の蛮行を食い止めるしかない。ゲルドの藩主が本気で山賊を取り締まろうと考えていると知れれば、刀を置く人間も多かろう』
それは正論であったが、腑に落ちない点もあった。
『では、刀を置いた人間はどうなるのであろうか? 山賊として糧を得ることができなくなったならば、飢えで魂を返す人間が増えてしまうのではないだろうか?』
『それはそうかもしれんが……貴殿とて、山賊の罪を見逃すわけにはいかぬと言っていたではないか』
『しかし、貧しさが罪人を生んでいるというのなら、その原因を取り除かぬ限り、問題を解決することはできまい。ゲルドの領民が飢えで苦しんでいるのならば、それを救うのは藩主の役割ではないだろうか?』
ナナクエムは小さく息をつきながら、首を横に振った。
『至言だな。その言葉は、我々の父親たる藩主たちに聞かせるべきであろう』
『うむ。必ずそうしよう』
ひとまず話が落ち着いたところで、執務の間に到着した。
アルヴァッハは藩主の跡取りであるので、執務の間もゆったりと大きく作られている。また、東の王国に椅子を使う習わしはなかったので、そこにも毛皮の敷物が敷きつめられており、奥のほうには大ぶりの座卓と書類を収めるための棚が設えられていた。
『太陽神の復活祭も、目前に迫ったな』
敷物に腰を下ろすなり、ナナクエムはそう言った。
おそらく、堅苦しい話は後に取っておこう、という意思表示であるのだろう。アルヴァッハとしても、異存はなかった。
『うむ。この年も平穏に復活祭を迎えられることを喜ばしく思っている』
『このゲルの藩主の屋敷においては、平穏と言えるのであろうか? せっかくの復活祭であるというのに、料理長を失ってしまったのであろう?』
『……またその話を蒸し返そうという心づもりであるのか?』
『今日の我にとっては、それが本題であったからな』
ナナクエムは礼儀正しい無表情であったが、その声にはアルヴァッハを揶揄する響きが込められていた。
『藩主殿も家人たちも、気の毒なことだ。年に1度の復活祭であるというのに、大事な料理長を失ってしまったのだからな。藩主殿も、それでいっそう憤慨することになったのではないだろうか?』
『しかし、あの者の料理には不手際が多かった。現在この屋敷で雇い入れているどの料理番が新たな料理長になろうとも、おそらく仕上がりに大きな差は生まれないように思う』
『そうか。だが、貴殿が同じ調子で文句を言いたてていれば、その他の料理番たちも逃げ散ってしまうのではないだろうか?』
アルヴァッハには、咄嗟に反論することができなかった。
ナナクエムの紫色をした双眸に、今度はアルヴァッハをなだめるような光が浮かぶ。
『もとより我々は、美食などというものに固執する一族ではなかったはずだ。これだけ豊かな山に囲まれて、その恵みを口にできるだけで、またとない幸福であるのだからな。そんな中で、どうして貴殿だけが、美食などというものに固執するようになってしまったのであろうか?』
『……我は何も、美食のために無用の銅貨をついやすべきであるなどと言いたてているわけではない。ただ、美味なる食事を求めるのは、人間として当然の行いであろう? そして、最善の結果を追い求めるというのも、人間の正しき姿であるはずだ』
『これまでの料理長たちも、その結果を供してきたのではないだろうか?』
『しかし、我を心から納得させられるような料理を供する人間は、ひとりとして存在しなかった。料理人を名乗るのであれば、それは怠惰であり傲慢ではないだろうか?』
『……それで貴殿は、異国の地においてついに理想の料理人と巡りあってしまったわけか』
ナナクエムは、また小さく息をついた。
『森辺の料理人アスタに、城下町の料理人ヴァルカス……この両名は、貴殿を心から満足させたのであろう? 貴殿があれだけ賞賛の言葉のみを並べ立てる姿は、これまでに見たことがなかったからな』
『うむ。それにジェノス城の料理長たるダイアも、それに匹敵する腕であったように思う。ただ……あれはおそらく、西の民の好みに強く合致しているのであろう。あの者の腕が悪いのではなく、ほんの少しだけ我の好みから外れているだけであるのだ』
相手は生粋の西の民であるのだから、そうしてアルヴァッハの好みから外れてしまうのが当然の話であった。そんな出自の差をものともせず、アルヴァッハの胸を射抜くことのできたアスタやヴァルカスのほうが、規格外であるのだ。
(しかしそれは、おそらく上下ではなく左右の差であるのだろう。我が西の民であったなら、ダイアの料理もアスタたちの料理と同じように感銘を受けていた……そのように思わせる完成度が、ダイアの料理には確かに存在したのだ)
そうしてアルヴァッハが遠きジェノスへと思いを馳せている間に、ナナクエムはまた溜め息をついていた。
『まったくもって、不幸な出会いをしてしまったものだな』
『不幸な出会い? 何故であろうか? 我はアスタやヴァルカスの料理を食して、またとなき幸福な心地を得られたのだ』
『しかし、あの者たちをこの屋敷に連れ帰ることはできんし、貴殿とてそうたびたびジェノスを訪れることはできん。ならば、そうやって思い悩むようになってしまっただけ、不幸ではないか。もちろん、大事な料理長を失ってしまった、貴殿の一族もな』
アルヴァッハが言葉を失ったとき、扉が外から叩かれた。
昼の軽食を携えた侍女たちが、しずしずと入室してくる。そのうちのひとりが、主人と客人のために新しいギギの茶を準備してくれた。
『こちらの軽食をもちまして、料理長はお屋敷を辞することになりました。のちほど、お詫びの言葉をお届けしたいとのことです』
そんな言葉を残して、侍女たちは退室していった。
敷物に並べられたのは、シャスカ料理と菓子である。あくまで軽食であるので、ごくささやかな分量だ。
『それでは、貴殿が文句を言いたてる料理長の心尽くしをいただこう』
ナナクエムは食前の礼をほどこしてから、シャスカ料理の皿を取り上げた。
白いシャスカに油がまぶされて、つやつやと照り輝いている。具材は小さく切り分けられたギャマの肉と何種かの野菜で、それに細かく挽いた赤と緑の香草が彩りと香りを添えていた。
『うむ、美味であるな。少なくとも、我の屋敷の料理長よりは確かな腕を持っているようだ』
ナナクエムの感想を聞きながら、アルヴァッハもその料理を口にした。
しかしやっぱり、喜びよりも失望のほうが先に立ってしまう。この料理も、塩加減と火加減がせっかくの調和を乱してしまっているようだった。
『我の忠言が用を為していないということは、やはり一朝一夕でどうにかなるような話ではないのだろう。あの者は、根本から自分の学んできたものを見直す必要があるのだ』
『手厳しいな。藩主の跡取りにそうまで言われては、料理長も暇を願い出るしかあるまいよ』
シャスカ料理を食べ終えて、お次は甘い菓子である。
こちらは豆を挽いてこしらえた団子であった。生地の中には砂糖や香草と一緒に煮込まれた果実が隠されており、団子そのものには香草で風味をつけられた油が掛けられている。
やはりそちらも、アルヴァッハを満足させることはできなかった。
『こちらの菓子においては、香草までもが調和を崩してしまっている。上に掛けられた油と内側に練り込まれた果実を別々に食すれば美味であろうが、同時に食することでたがいの風味がぶつかってしまっているのだ。また、果実をこれほどに甘く仕上げるのであれば、生地のほうはもっと甘さを控えるべきであろう。生地が舌に触れたとき、ほんのりと甘く感じるていどで十分であるのに、果実にも負けない甘さを加えてしまっている。これは砂糖の無駄遣いと評する他ない仕上がりである』
『ますます辛辣だな。しかも、的外れでないのが厄介なところだ』
ギギの茶で口を湿してから、ナナクエムはそう言った。
『我はなんの不満もなくこの菓子を食していたのに、貴殿の文句を耳にすると、確かにそうなのかもしれないという心地になってくる。だからきっと、貴殿の言葉は的を射ているのであろう』
『うむ。我の正しさを認めてもらえるのであろうか?』
『正しければ良いという話ではない。貴殿が口をつぐんでいれば、我らは何の不満もなく食事を楽しめるのだからな。貴殿の舌は、鋭敏に過ぎるということだ』
『……では、我が口をつぐんでいれば、それで万事は解決するということだな』
アルヴァッハの言葉に、ナナクエムはうろんげに目を細めた。
『それができれば、世話はなかろう。貴殿は料理に感じた不満を黙っていられるような性分ではあるまい?』
『しかし、さきほど父上が述べていた通り、屋敷を出た料理番たちが再び戻ってくることはなかった。ならば、我がどれだけ論評を述べたてようとも、意味はない。むしろ、家族たちに迷惑をかける分、害悪でしかないということだ』
ナナクエムは茶の杯を置き、わずかに身を乗り出してきた。
『アルヴァッハよ、貴殿らしくないではないか。貴殿はずいぶんと、力をなくしているように見えるぞ』
『……貴殿の言っていたことが正しかったのであろうか。遠き異国で理想の料理人と巡りあってしまったのは、誰にとっても不幸なことであったのかもしれぬ』
ナナクエムは腕を組み、しばらく黙りこくってから発言した。
『ますます貴殿らしくない言い草だ。そのような弱気をさらすのは、貴殿に似合わぬぞ』
『しかし、貴殿とて我を掣肘するために訪れたのであろう?』
『我の言葉など歯牙にもかけぬのが、アルヴァッハ=ゲル=ドルムフタンという人間であろうが? 貴殿の朋友として、そのように弱気な姿を見せられるのは不本意である』
『いや、しかし……』
『最近の貴殿は文句をつけるばかりであったようだが、これまでは同じぐらい賞賛の言葉も述べていたはずだ。それは料理人たちにとって、大きな喜びや励みであったことであろう。貴殿が口をつぐむということは、そういった喜びや励みを与える機会をもなくしてしまうということであるのだ』
『では、我にどうせよというのであろうか?』
アルヴァッハが反問すると、ナナクエムは不満そうな目つきをしながら『知らん』と言い捨てた。
『そのようなことは、自分で考えるべきであろう。我の朋友たるアルヴァッハは、どれだけ困難な道でも己で切り開く強靭さを有していたはずだ』
思いも寄らぬ反論を受けて、アルヴァッハは大いに思い悩むことになった。
しかし、何をどうすれば解決するのか。そもそもこれは、藩主の跡取りたる自分が真剣に思い悩むような話であるのか。それすらも、アルヴァッハには判然としなかったのだった。