第五話 東の美食家(上)
2019.9/12 更新分 1/1
『こちらのギャマの香味焼きには、いくつかの問題が見受けられるように感じられる』
その日の晩餐を終えた後、アルヴァッハは屋敷の料理長にそのように告げてみせた。
『まず、焼き加減についてであるが、事前に表面を炙り焼きにして、そののちに蒸し焼きをほどこすという手順に関しては、我も好ましく思っている。それは、ギャマの肉をもっとも美味に仕上げる手法のひとつであろう。しかし、肉を蒸すにあたっては、火にかける時間というものがもっとも肝要となる。たとえ焦げつく心配がなかろうとも、無用に熱を加え続ければ、水分も脂分も外に逃げてしまうのだ。ギャマの肉を生焼けで出すわけにはいかないと考える弱気の心が、料理長の判断を誤らせたのではないだろうか? どれだけ香草で立派な味を施そうとも、肝心の肉が本来の瑞々しさを失ってしまっては、確たる調和を得られるわけがない。その一点を、まずはきわめて残念に思っている』
『はい。厨をお預かりする身として、返す言葉もございません』
『それに、味付けに関しても十全とは評せないというのが、偽らざる真情である。香草の組み合わせそのものに過不足はないように思われるが、ただし、塩気の弱さが調和を欠いてしまっている。香草のもたらす辛みと塩のもたらす辛みは似て異なるものであるのだから、その調和にはひときわ注意を払うべきであろう。なおかつ、塩というのは味の根幹のひとつであるのだから、それを軸に味を組み立てるのが本道であろうと思われる。塩は事前にもみこむのか、あるいは後から添加するのか、添加するとしたら粒のまま振りかけるのか、水に溶いて塗り付けるのか、それらの調理法が肉にもたらす影響を入念に確認した上で味の基盤を構築し、その上で香草の組み合わせや分量を見極めれば、このような不始末を防ぐこともかなおう。言うなれば、塩は最初に纏う下帯のごとき存在であり、香草はその次に纏う装束のごとき存在であるのだ。下帯の巻き方が不十分であれば、どのように立派な装束を纏おうとも、着心地の悪さは否めないものであろう』
『はい。アルヴァッハ様のご慧眼には身の縮む思いでございます』
『むろん、香草を下味にもちいて、後から塩を使用するという調理方法を誤りであるとする気持ちはない。装束の上から下帯を巻くというのはなかなか許される行いではなかろうが、調理の方法というのは千差万別である。たとえ本道から外れた調理方法であろうとも、最終的に味の調和が完成されていれば、それは正しき行いであるのだ。料理の道に正道も邪道もないと、我はそのように信じている。……ただし、正道を知らぬ人間が邪道に手を染めるのは、怠惰であり傲慢であろう。正道を極めぬ者に、邪道を極めることはかなわぬのだ。ゆえに、正道をおざなりにすることは許されない。多彩な味を生み出す香草を十全に使いこなすには、塩や砂糖といった基本の調味料をまず十全に使いこなす必要が生じるのである。然して、この料理は香草の配分が申し分ないだけに、塩の加減がもたらす不調和が大きな無念を生み出してしまうのだ。また、塩気を増やせば香草の配分も見直す必要が生じるのであろうから、結果、この香草の配分も十全ではなくなるのだろうと察せられる』
『はい。すべては私の不徳でございます』
『では、次に汁物料理についてであるが――』
そうしてアルヴァッハが言葉を重ねようとすると、かたわらの伴侶が『もう十分です』と声をあげた。
『これ以上あなたに語らせておいたら、夜が明けてしまいます。料理長、あなたはもうお下がりなさい。私は本日の晩餐も、心から満足することができました』
『過分なお言葉、ありがとうございます。……それでは、失礼いたします』
敷物に膝をついていた料理長は、深々と一礼してから食堂を出ていった。
アルヴァッハはギャマの乳酒で唇と咽喉を潤してから、伴侶を振り返る。
『まだシャスカ料理と香草料理と肉料理の論評しか済ませていないのに、どうして料理長を下がらせてしまったのだ?』
『理由は申し上げたでしょう? このままでは、本当に夜が明けてしまいそうだからです』
敷物の上で膝をそろえた伴侶は、静かに光る切れ長の目でアルヴァッハを見返してきた。
『今日は藩主様がご不在なのですから、私が声をあげる他ありませんでした。皆も安堵の息をついていることでしょう』
アルヴァッハの父母たる藩主とその伴侶は、朋友たる『ド』の領地まで出向いていたため、不在であった。食堂の敷物に集結しているのは、それを除く一族の家人たちである。
婿を取った姉夫婦とその子供、未婚の弟が2名、妹が1名で、アルヴァッハと伴侶を加えて総勢は8名だ。アルヴァッハはそれらの顔を見回してみたが、誰もが無表情であったので内心を計ることは難しかった。
『料理長も、気の毒に。このままでは、また1年ともたずに屋敷を出ることになってしまうのではないでしょうか?』
伴侶が、さらに言いたててくる。彼女はとても怜悧で美しい女性であったが、その内にはゲルの民に相応しい果断な気性を秘めているのだ。
『我は、藩主の屋敷の料理長に相応しい腕を身につけてほしいと願っているだけである。何も間違ったことをしているつもりはない』
『それでも文句をつけるのは、あなただけではないですか。私たちは晩餐の仕上がりを不満に思ったことなど、1度としてありません。彼らはゲルの領地において、屈指の腕を持つ料理人たちなのですからね』
『それは確かに、彼らもゲルにおいて屈指の腕なのだろうとは思う。しかし、そうであるからこそ、我はさらなる飛躍を期待しているのである』
『期待するのはご自由ですが、あなたにしか判断のつかない微細な話を延々と聞かされる料理長の心情を考えるべきではないでしょうか?』
『しかし、そういう微細な点こそが料理の仕上がりを大きく分けるのであろうと、我は考えている』
『まったくもう……』と、伴侶は小さく息をついた。
『まるで頑是ない幼子をしつけているような心地です。あなたは西の領土に出向いて以来、ますます料理の仕上がりに不満を持つようになってしまったのではないですか?』
それはその通りであったので、アルヴァッハも返す言葉がなかった。
アルヴァッハは西の領土において、卓越した腕を持つ料理人たちと巡りあうことになったのだ。彼らと比べてしまうと、どうしても屋敷で出される料理には不備が目立ってしまうのだった。
『不思議な話ですね。西と東では扱う食材も異なるでしょうに、兄様はそうまで心を奪われることになってしまったのですか?』
末の妹がそのように問うてきたので、アルヴァッハは力を込めて『うむ』とうなずいてみせた。
『その者たちの手掛けた料理は、またとない調和を完成させていた。東の生まれである我にとっては馴染みのない料理もあったが、そのような区分けなど意味をなさないほどの完成度であったのだ。たとえば、「ギバ・カツ」なる料理などは――』
『それではけっきょく夜が明けてしまいますよ。料理の出来に満足しようと不満を持とうと、あなたの口は止まらないのですね』
伴侶に、ぴしゃりとたしなめられてしまった。
そうして伴侶はアルヴァッハを黙らせたのちに、静かだが力のある眼差しで家人たちを見回していく。
『それでは、寝所に戻ることにしましょう。皆、よき眠りを』
『よき眠りを』と、一同は手を組み合わせて一礼する。
なんとなく鬱屈した気持ちでアルヴァッハが腰を上げると、姉夫婦の子がちょこちょこと近づいてきた。
『ねえ。おじさまのおへやに行ってもいい?』
『うむ? 我に何か用事であろうか?』
『ううん。でも、かあさまはおばさまとおはなしがあるっていうから』
アルヴァッハが目を向けると、伴侶は『ええ』とうなずいた。
『先日に買いつけた飾り物や宴衣装を拝見する約束をしています。幼子には退屈でしょうから、あなたにおまかせいたしましょう』
次代の藩主たるアルヴァッハに対して、遠慮のない言い様である。
しかしアルヴァッハは彼女のそういう果断な気性も愛おしく思っていたので、べつだん不満は生じなかった。
『了承した。では、我の寝所に来るがいい』
『うん、ありがとう』
まだ5歳になったばかりの甥子は覚束ない所作で指先を組み合わせて、一礼した。
それから、混じりけのない黒い瞳でアルヴァッハをじっと見上げてくる。
『かんしゃのれい、これであってる?』
『合っている。まだ指が短いので、難儀なようだな』
アルヴァッハは、甥子の小さな身体を片腕ですくいあげた。
アルヴァッハはゲルの民としても大柄なほうなので、このていどの重さは無きに等しい。甥子はアルヴァッハの肩に手をかけながら、宙に垂れた足を嬉しそうにぷらぷらと揺らした。
(……西の貴族であれば、このように幼子を抱きあげる機会もないのだろうか)
食堂を出て自分の寝所に向かいながら、アルヴァッハはそのように考えた。
アルヴァッハは先日、初めて西の王国の貴族の世話になったのだ。そもそも西の王国とは交流らしい交流もなかったので、それはきわめて物珍しい体験であった。
噂で聞いていた通り、西の貴族というのはずいぶんと格式を重んじているようであった。むろんゲルドの人間とてそれは同様であるが、彼らは内情よりも外面を重んじているように感じられたのだ。
ゲルドの人間は、外面よりも内情を重んじている。というか、外面などは誰もが静謐を保っているので、内情こそが肝要なのである。信頼とは、心と心で結ぶものであり、そこに上辺だけの言葉や笑顔などは必要ない。にこにこと笑って美辞麗句を並べたてつつ内心で舌を出すような行いは、ゲルドの人間にとってもっとも忌むべきものであるのだった。
(外面と内情が乖離している人間が、そこまで多かったようには思わないが……たとえばセルヴァの領主たるマルスタインなどは、なかなかに内心を読むのが難しかった。あやつを心から信頼するには、長きの時間が必要になるかもしれん)
ただし、その子息たるメルフリードや、メルフリードの補佐官たるポルアースなどは、早い段階で信頼することができた。メルフリードは愛想笑いなどと無縁な実直なる武人であり、ポルアースは内情をそのまま表面に出す明け透けな人間であるように感じられたのだ。
(むろんポルアースとて、我らの機嫌をうかがうために愛想をふりまいていた面もあるのだろうが……それが不愉快には感じられなかった。それはおそらく、我らと正しき絆を結びたいという心情がにじんでいたためであるのだろう)
それに比べると、ジェノス侯爵マルスタインやサトゥラス伯爵ルイドロスなどは、儀礼的な笑顔であるように感じられた。貴族として、ここは笑う場面であるから笑う、とでもいうかのような気配を感じたのだ。
もちろん彼らは西の貴族であるのだから、それが正しき行いであるのだろう。自分たちがあちらの作法を真似ることができないように、彼らがこちらの作法を真似ることもできないはずだ。異なる王国で育った人間同士、そこは長きの時間をかけて理解を深めていく他ない。そんな中、メルフリードやポルアースのような人間がジェノスにいてくれたことを、アルヴァッハたちは感謝するべきであるはずだった。
(それに、やはり……森辺の民だな)
森辺の民も西の王国の住人であるのだから、感情はきわめて豊かである。
しかしそれこそ、彼らはありのままの内情をさらけ出しているように感じられた。
聞くところによると、彼らは虚言を罪にしているという。
また、王国の法とは別に自分たちだけの掟を作り、己を厳しく律しているのだという話であった。
(森辺の民を前にすると、自分たちこそが虚飾にまみれているのではないかという心地にさせられてしまう。よくもあのように野生の魂を保持した者たちが、西の王国の貴族たちと絆を深められたものだ)
そういえば、森辺の集落には聖域の民などというとんでもない存在が居座っていた。
聖域の民こそ、虚飾の対極に位置する存在であろう。彼らは文明社会に背を向けて、野の中で獣のように生き、大神アムスホルンの目覚めを待つ一族なのである。
大神アムスホルンが目覚めるとき、この地には魔術の根源たる精霊たちも復活する。その精霊たちと調和できるように、聖域の民は肉体と魂を清らかに保たなければならないのだ。
森辺の民は、そんな聖域の民ともどこか通ずる部分があるように感じられた。
また、そうでなければ聖域の民が森辺の集落に留まろうとはしなかっただろう。不浄の中に身を置いて魂が穢れるぐらいであれば、彼らはその前に自らの生命を絶つはずであった。
(森辺の民は、清廉なる存在だ。その真情を疑うことなど、おこがましき所業であろう。むしろ我々のほうこそが、その真情を裏切らぬように気を引き締めなければなるまい)
アルヴァッハがそのように考えたところで、寝所に到着した。
次の間に控えていた従者にうなずきかけてから、部屋に踏み入る。暖炉に火の入れられた寝所は、ほどよく温められていた。
『さあ、好きにくつろぐがいい』
ムフルの大熊の毛皮が敷きつめられた床に、甥子を下ろす。
甥子は物珍しそうに、きょろきょろと視線をさまよわせた。そういえば、同じ屋敷で暮らしながら、甥子を寝所に招いたのは初めてのことかもしれなかった。
『かざりものがいっぱいだね。あれはなに?』
『あれは北の民から買いつけた、海獅子なる獣の牙だ』
『それじゃあ、これは? すごくきれいだね』
『それは草原の民から買いつけた織物だ。星の海を漂う運命伸ミザの意匠だと聞いている』
壁や棚に飾られたそれらのものをひと通り鑑賞してから、甥子はようやく腰を下ろした。
『おじさまは、いろんなとちのひととなかよくしてるんだね。やっぱり、あとつぎさまだから?』
『次代の藩主としての責務は重く考えているが、この部屋の飾り物は我が買いつけたものではない。歴代の藩主の蒐集品であろう』
『ふうん。でも、ジェノスっていうとちにはいったんでしょう? ジェノスのかざりものもあるの?』
『ジェノスから買いつけた飾り物は、それだ』
アルヴァッハの指し示した壁には、白い花のごとき飾り物が飾られていた。
光沢が出るほどに研磨された、ギバの角と牙である。それを何十本も使って、巨大な花のような形に組み合わせているのだ。その中央には黒い石がきらめいていたが、それは草原の民から買いつけた宝石であるという話であった。
『あとは、ギバの毛皮を持てるだけ持ち帰り、家人に配ったはずだ。ジェノスには、食材の他に特産品というものは存在しないようだった』
『そっか。でも、ギバのにくはもちかえらなかったんだね』
『うむ……ギバの腸詰肉というものは買いつけたのだが、あまり量は運べなかったため、帰るまでの間に食べ尽くしてしまったのだ』
甥子は、いくぶん眉を下げてしまった。
『ぼくも、ギバのにくをたべてみたかった。ギバのにくは、すごくおいしいんでしょう?』
『うむ。しかし、ギャマやムフルの味をそこまで大きく上回るわけではない。ギバの肉を美味なる料理に仕上げるには、やはり確かな腕を持つ料理人が必要であるのだ』
『そっか……でも、たべてみたかったなあ』
甥子はしょんぼりと肩を落とす。
年長の人間としては、あまり感情を表にさらさぬようにとたしなめるべき場面であったが、さしものアルヴァッハも申し訳なさが先に立ってしまった。もともとギバの腸詰肉は、故郷の家人たちのために買いつけたものであったのだが、帰り道でジェノスと森辺を思うよすがに、ついつい食べ尽くしてしまったのである。
『通商が始まれば、大量の腸詰肉を持ち帰ることができる。先日はトトスに荷車を引かせていなかったため、微々たる量しか運ぶことができなかったのだ』
『そうなの? ギバのにくもかいつけるの?』
『うむ。こちらではギャマの腸詰肉を準備して、それと交換をする予定でいる』
『それなら、よかった』と、甥子は瞳を輝かせた。
アルヴァッハは手をのばし、その小さな頭を撫でてみせる。
『ねえ。ジェノスって、どんなところだったの?』
『うむ? それは晩餐の席などで、さんざん話したように思うが』
『そのときは、きぞくとかのはなしばかりだったでしょう? ほかにも、いろいろききたい』
アルヴァッハは、記憶をまさぐることになった。
現在は紫の月の中ほどであったので、ジェノスを離れてから半月以上の日が経っていたのだ。
『そうだな……ジェノスというのは、温暖な土地だった。暖炉に火を灯す必要もなく、外套の下は袖のない装束で過ごせるほどであった』
『へえ。そんなにあたたかいんだ?』
『うむ。それゆえに、草木の色合いもずいぶん異なっていた。ゲルドの山のように暗い色合いはしておらず、葉も花もきわめて鮮やかな色合いであったように思う』
アルヴァッハがそれを思い知ったのは、もちろん森辺の集落におもむいた際であった。モルガの森には驚くほどの熱気と生命力が満ちており、森辺の民はその中で暮らしていたのだった。
『温暖な気候というのは、人間の心持ちにも影響を与えるのだろうか。ジェノスやその近在の土地に暮らす人間たちは、我々よりも穏やかで大らかな気性をしているように感じられた。悪く言うならば、いささか警戒心が希薄であったかもしれん』
『でも、もりべのかりうどはすごくつよそうだったんでしょう?』
『森辺の民は、特別だ。モルガの森辺はジェノスの領土だが、同時に語ることは難しい。……このような話を聞いていて、楽しいのか?』
甥子は、『うん』とうなずいた。
その黒い瞳には、思いがけないほど明るい光が灯されている。どうやら心からアルヴァッハの話を楽しんでいる様子である。
『……森辺の民も大らかではあるのであろうが、彼らの信頼を裏切る者には決して容赦しないだろう。我は森辺の民たちに、ゲルドの民と変わらぬ果断さを感じてやまなかった』
『でも、もりべのたみはそんなにつよそうだったの? ゲルドのたみよりも? マヒュドラのたみよりも?』
『そうだな。ひとりひとりの力量という意味においては、森辺の狩人に勝るものはなかろう。たとえば、ゲルドやマヒュドラで最強の剣士を準備したとしても……森辺で最強の狩人にはあらがうすべがないように思う』
『すごいなあ』と、甥子はいっそう瞳を輝かせた。
いまにもその小さな顔が笑みを浮かべてしまいそうである。
『お前はどうして、森辺の民にそこまで関心を抱いているのだ?』
『だって、ゲルドやマヒュドラのたみよりもつよいにんげんがいるなんて、しんじられないんだもん』
そのように言ってから、甥子は身を乗り出してきた。
『でもぼくは、もりべのたみだけをきにしてるわけじゃないよ。セルヴァのほかのりょうちとか、ジギのそうげんとか、マヒュドラにもいってみたいとおもってる』
『そうなのか。ゲルの民としては、珍しい考え方であるように思う』
『うん。かあさまにも、あなたはジギのたみみたいだっていわれたよ。ジギのたみは、こきょうにいるよりもたびをしているじかんのほうがながいんでしょう?』
『すべての草原の民が旅商人として働いているわけではなかろうが、そういう人間が多いのは事実である』
『いいなあ。ぼくもいろんなばしょにいってみたい。……だから、ジェノスにいったおじさまのことが、すごくうらやましかったの』
『そうか』と、アルヴァッハは再び甥子の頭に手を置いた。
『ならばお前は、西の言葉を習得するべきであろうな。言葉が通じなければ、異国の民と心を通わせるのは困難である』
『にしのことばをおぼえたら、ぼくもあちこちいけるようになるの?』
『我々はこれから、ジェノスと通商を行うようになる。西の言葉さえ習得すれば、いずれはジェノスに荷を運ぶ商団に加わることもできよう』
『だったらぼくも、にしのことばをおぼえたい』
アルヴァッハは、口もとが笑みの形に変じるのを抑制することになった。
『大いに励むがいい。我々は、お前が一人前に育つまで、ジェノスとの絆が断ち切れないように励むとしよう』
『うん』とうなずき、甥子はアルヴァッハの膝にもたれかかってきた。
『ねえ、もっとジェノスやもりべのおはなしをきかせて?』
『では、森辺で出されたギバ料理の素晴らしさについて語ろう。以前にも晩餐で語ったはずだが、あれではまだ半分も伝えきってはいないのだ』
そうしてアルヴァッハは、甥子がうつらうつらと舟を漕ぎ出すまで、ギバ料理について語ることになった。
次にアルヴァッハがギバ料理を口にすることができるのは、どんなに早くともひと月以上は後のことである。その事実がアルヴァッハの心に影を落としていることは明白であった。