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異世界料理道  作者: EDA
第四十六章 群像演舞~五ノ巻~
788/1680

    城下町の風雲児(下)

2019.9/11 更新分 1/1

 それからしばらくは、怒涛の日々であった。

 カミュア=ヨシュが、サイクレウスの罪を暴きたてるための証人を探しにジェノスを出る、と告げて何日も経たぬうちに、森辺の民アスタがリフレイアにさらわれて、ザッシュマから助力を願われることになったのだ。


 本来であれば、ポルアースが加担するのはもっと後になってからのはずであった。

 カミュア=ヨシュがジェノスに戻ったら、最後の打ち合わせをする予定であったのだ。


 当時、ジェノスにおいては年に1度の大きな会合が行われており、名だたる貴族はすべてジェノス城に詰めていた。領主たるマルスタインや、メルフリード、サイクレウス、そしてポルアースの父や兄たちも身動きが取れない中、そんな騒ぎが勃発してしまったのである。


 しかし、ポルアースが迷うことはなかった。

 それに力を貸したらポイタンの加工方法を教えるべし、とザッシュマに入念に確認をした上で、アスタなる人物の救出活動に力を尽くしてみせたのである。


 当時のザッシュマが、自分に対していくぶん呆れていたことは、自覚していた。とにかくポルアースは一番の最初からポイタンの加工方法に固執していたので、なんと欲の皮が突っ張った貴族であるのだと思われていたことだろう。


 だが、ポルアースにしてみれば、それこそが唯一の光明であり、生命綱でもあったのだ。

 ダレイムに大きな富をもたらすという交渉の材料がない限り、父や兄を納得させることはできないだろう。もしもそれが実現かなわず、ただポルアースがトゥラン伯爵家にたてついたという結果だけが残されたら、下手をするとメリムともども放逐されてしまうかもしれない。それぐらいの覚悟でもって、ポルアースはその行いに手を染めていたのだった。


 結果として、ポルアースは勝利した。

 見事にアスタを救出し、ポイタンの加工方法を獲得し――そして、森辺の民と絆を結ぶことがかなったのである。


(まさか森辺の民が、本当にあんな清らかな心を持つ一族だったとはなあ)


 ポルアースが最初に顔をあわせた森辺の民は、アイ=ファという女狩人であった。

 風聞の通り、浅黒い肌と猛々しい雰囲気を有する、いかにも蛮族めいた娘である。が、その容姿はたいそう美しく、城下町の装束を纏わせてみると、まるで異国の姫君のごとき優美さであったのだった。


 さらに言葉を交わしてみると、彼女がなかなか好ましい人柄であることが知れた。貴族に対する口のきき方は知らないし、そもそも貴族を敬おうという気持ちも持ち合わせていない様子であったものの、ひとりの人間としての礼節や、人情や、善良さなどは、むしろ城下町の貴族たちよりも上回っているぐらいに感じられたのだ。


 その後に数多くの森辺の民と相対してみても、ポルアースのそういった印象は強まるばかりであった。

 彼らはきわめて純真であり、清廉であり、そして誇り高い一族であったのだ。格式というものに頓着しないポルアースにしてみれば、そういった美徳こそが肝要であったのだった。


 ともあれ、メルフリードとカミュア=ヨシュと森辺の民と、そしてポルアースの尽力が実って、サイクレウスを失脚させることがかなった。

 ジェノスと森辺は平穏な日常を、ダレイムは大きな富を手中にすることがかなったのだ。


 ずいぶんと苦い顔をしていた父や兄たちにも、それでようやく心から納得してもらうことができた。

 トゥラン伯爵家が没落したかたわらで、ダレイム伯爵家は宿場町を統治するサトゥラス伯爵家と手を携えて、激動の時代を迎えることになったのである。


 そして――その激動の時代は、いまもなお同じぐらいの激烈さで継続していたのだった。


                       ◇


「ああもう、身体がいくつあっても足りないなあ」


 その日もポルアースは、朝から忙しく立ち働いていた。

 トゥラン伯爵家にまつわる騒動が終結し、1年半ほどが過ぎて、紫の月の半ばとなった頃合いである。


 この1年半ほどで、実にさまざまな出来事が起きていた。

 まずポルアースは、ついに官職を賜ることがかなった。外務官と、森辺の民との調停役という、ふたつの仕事の補佐官である。

 あくまで補佐官であるものの、ポルアースの果たすべき仕事は多い。外務官などはただでさえ多忙な職務であるし、調停役のメルフリードも近衛兵団の団長との兼任であるから、自然とポルアースにも大きな責任がのしかかってきたのだ。


 なおかつ、そのふたつの職務はそれぞれ連動する部分があった。

 すなわち、食材の流通に関してである。

 もともと外務官というのは余所の領地や異国との通商を司る職務であるが、そこから得た食材をどのようにジェノス内で流通させるかも、ポルアースの仕事になってしまっていたのである。

 そして食材の流通に関しては、森辺の民に協力を依頼している。その窓口となるのも、おおよそはポルアースであるのだった。


 言ってみれば、ポルアースは食材の流通を管理するために、ふたつの職務の補佐官を兼任しているような状態にあった。

 が、これはポルアースが自らそのように仕向けた面もある。サイクレウスに阻害されていた食材の流通を活性化させることにより、何やら面白い道筋が見えてきたのだ。


 それは、ジェノスを美食の町として発展させるという計略であった。

 ジェノスにおいては、シムともジャガルとも交易が盛んである。なおかつ、王都アルグラッドやバナームやバルドといった、さまざまな領地とも通商を行っている。その結果として、なかなか他に類を見ないほどに、さまざまな食材が集まる領地と成り得たのである。

 その基盤を作ったのは、サイクレウスであった。美食に固執していたサイクレウスが築きあげた販売経路が、ジェノスに思わぬ富と可能性をもたらしたのだった。


(ジェノスが美食の町として知られるようになれば、いっそうの豊かさを手中にできるのではないだろうか)


 それが、ポルアースの抱いた野心であった。

 基本の部分では、マルスタインも賛同を示してくれている。そうであるからこそ、食材の流通に関してをポルアースに任せてくれたのだ。


 もちろんそれは、平坦な道ではなかった。

 森辺の民や城下町の料理人たちにも協力を仰いで、ようやく基盤ができあがったぐらいの段階である。


(ようやく落ち着いたかな、というところで、また新たな通商の話が持ち上がってしまうんだもんなあ。嬉しい悲鳴で咽喉がかれてしまいそうだよ)


 ここ最近の話だけでも、ジャガルからミソという新しい食材を買いつけたり、シムのゲルド領から通商の話を持ちかけられたりしている。シャスカや香草の販売経路ももう少し強化しなければいけない頃合いだし、北の民の移住の関係でジャガルの王都とも縁が深まって、そちらでも何か新しい話が生じるかもしれない。そうして気づけば太陽神の復活祭が目前に迫り、ポルアースとしては頭が沸騰しそうな心地であった。


(来る日も来る日も屋敷でぼけっとしていたあの頃が、嘘みたいな賑やかさだな)


 しかしもちろんポルアースも、あの頃に戻りたいなどとは微塵も考えていなかった。

 ポルアースは、ついに熱情をぶつける先を見出したのだ。これで文句を言いたてたら、西方神に炎の槍を繰り出されてしまうところであろう。


 安穏とした日々と引き換えに、ポルアースは充足した日々を手にすることができた。

 よって、ポルアースは掛け値なしに幸福であるのだった。


「ポルアース様、そろそろ会議堂におもむく刻限ではないでしょうか?」


 ポルアースの仕事を手伝っていた若者が、そのように呼びかけてくる。補佐官の補佐ともいうべきこういった人間が、最近では10名ぐらいにふくれあがっていた。それでもおっつかないほどに、仕事が激増しているのだ。


「ああ、そうか。《銀の壺》の面々と会合だったね。ええと、それじゃあこっちの資料の作成は君に任せてもいいかな?」


「承知いたしました。あ、宿屋の寄り合いに関しては如何いたしましょう?」


「今回は特に目新しい食材もないから、誰か若い人間に参席させるとしよう。あ、ミソ料理の売れ行きに関しては、きちんと確認させるようにね」


 そうしてポルアースはお付きの武官とともに、会議堂へと向かうことになった。

 そちらで待ち受けていたのは、トルストとリフレイアである。まだ約束の刻限には多少の猶予があったので、彼らは従者を侍らせつつ、控えの間でお茶を楽しんでいた。


「ようこそ、ポルアース。朝からずいぶんと上気したお顔ね」


「ええ、ちょっと色々と立て込んでいたもので……そちらはお元気そうで何よりです」


 最近のリフレイアは、見るたびに風格を増しているように感じられた。

 森辺の民とあらためて和解を果たし、貴族の世界における社交を許されて――そののちに、彼女は大罪人たる父親と叔父を失うことになった。それらの経験が、彼女に大きな影響を及ぼしたのだろう。もう数年もすれば、伯爵家の当主に相応しい貴婦人に成長しそうなところであった。


 いっぽうリフレイアの後見人であるトルストは、相変わらずくたびれた顔をしている。が、これは彼の常態であるのだ。いかにも弱々しげで、貴族とは思えぬほど腰の低い御仁であるが、彼がなかなかのしぶとさや胆力を有していることを、ポルアースはこの1年半ほどで理解していた。


 そんな彼らを取り巻いているのは、武官のムスルと従者のサンジュラ、そして侍女のシフォン=チェルである。本人たちはあまり自覚がないようだが、それはきわめて個性的なる一団であった。


「《銀の壺》から仕入れた食材には、なんの不備も見られなかったそうですね。彼らに確認したい事項は昨晩のうちに書面で届けられたかと思いますが、何か追加したいことなどはありましたでしょうか?」


「ああ、いえ……強いて言うならば、森辺に切り開かれた街道の使い心地について、意見を求めたく思うのですが……わたくしどもがそのような話に口を出すのは、僭越でありましょうか?」


「いえいえ、とんでもない! それはもっともな話ですね。僕もうっかり見過ごしておりました。確認事項につけ加えることにいたしましょう」


 茶を出してくれたシフォン=チェルに「ありがとう」と笑顔を返してから、ポルアースは身を乗り出した。


「モルガの森を抜けた先に宿場を建立するという話も、じわじわ進んでいるようですね。井戸を掘って水場を確保することもできたようですし、次はいよいよ建物の建造です」


「はあ……ですが、あちらには周囲に町もないため、人足や衛兵を手配するのもひと苦労というお話ではありませんでしたか?」


「そうなのですよね。それに、トゥランの再建を二の次にするわけにもいきませんし、同時に作業を進めるのも困難の極みでありましょう。ここは長期的な視野で取り組むしかないのでしょうね」


 すると、リフレイアがくすくすと笑い声をたてた。


「ポルアース、あなたはトゥランの再建や宿場の建立にまで首を突っ込もうというお考えなの? いくらあなたでも、それでは手に余ってしまうのではないかしら?」


「いえいえ、何も差し出口をきくつもりはありません。ただ、人間を動かすには食事が必要でしょう? そういう大きな工事が開始されれば、大勢の人足を雇うことになるのですからね。それらの人々にどういった形で食事を準備するか、という話になると、僕の職務にも大きく関わってくるのですよ」


「本当に、ポルアース殿の働きっぷりには感嘆するばかりでございます」


 と、トルストはたるんだ頬を震わせながら息をつく。

「何を仰っているのですか」と、ポルアースは笑ってみせた。


「トルスト殿などはリフレイア姫の後見人として、トゥラン伯爵家の立て直しに尽力されてきたではないですか。トルスト殿の苦労を思えば、僕の苦労など些細なものです」


「わたくしには、とうていそのように思えませんな。わたくしなどは食材の通商を管理するだけで手一杯であるのに、ポルアース殿はそれに加えて食材の流通や森辺の方々との調停にまで関わっておられるのでしょう? まったくもって、信じ難いお話だと思われます」


「本当にね。最近のあなたの活躍っぷりといったら、ジェノスで他に類を見ないことでしょう」


 リフレイアもゆったりと微笑みながら、そのように言いたててきた。

 これも最近の彼女が獲得した、新しい表情である。


「僕などは、しょせん補佐官でありますからね。その身軽な立場を利用して、あちこち走り回っているだけのことです。僕のせいで余計な仕事が増えるばかりだと、メルフリード殿や外務官殿をうんざりさせてしまっていないか、いささか心配なところでありますよ」


「そう……でも、わたしは本当に感心しているのよ、ポルアース。あなたがこれほどの才覚を持ち合わせていただなんて、わたしはこれっぽっちも想像していなかったもの」


「才覚ですか。そのようなものの持ち合わせがないために、僕は人一倍走り回る羽目になっているだけだと思うのですが」


「謙遜ね。あなたが非才の身であったなら、わたしなんてどうしていいかもわからなくなってしまうわ」


 そう言って、リフレイアは色の淡い瞳でポルアースをじっと見つめてきた。


「すべての運命は、あの夜から転じることになったのよね。……ポルアース、あなたが森辺の民に助力をして、わたしの手からアスタを救い出してくれたことを、心から感謝しているわ」


 ポルアースは返事に困って、「はあ」とうなずいてみせた。

 その場には、リフレイアの命令でアスタをさらったムスルとサンジュラが顔をそろえているのだ。なおかつ、その救出劇のさなか、ポルアースに飛びかかろうとしてアイ=ファに叩きのめされることになったムスルなどは、悔恨いっぱいの表情でうつむいてしまっていた。


「あの夜にあなたが決断していなかったら、アスタは父様たちによって亡き者にされていたかもしれない……そんな風に考えたら、わたしはぞっとしてしまうのよ。もしもそんなことになっていたら、わたしやムスルやサンジュラは罪を贖うこともできず、ジェノスは森辺の民を失っていたかもしれないのですからね」


「それはあまりに不吉な想像ですね! 訪れることのなかった不幸な未来など、想像するだけ損というものですよ」


 場を取りなすためにポルアースが笑ってみせると、リフレイアはひそやかに微笑んだ。


「あなたは強いわね、ポルアース。あなたのその強さと明るさは、わたしにとってひそかな憧れだった……なんて言ったら、あなたは驚いてしまうかしら」


「はあ……それはまあ、驚きを禁じ得ないところでありますね」


「まあ、戯れ言と思って聞き流してくれればいいわ。そろそろ約束の刻限ではないかしら?」


 まるでその声が聞こえていたかのように、従者が《銀の壺》の到着を告げてきた。

 会合のための部屋に移動して、《銀の壺》の面々と言葉を交わす。忙しい中、無理に時間を捻出しての会合であったが、それに見合うだけの情報は得られた。シムの人間というのはなかなか気心を知ることが難しいのであるが、森辺の民と深い縁を持つ彼らは、ポルアースとも忌憚なく言葉を交わしてくれる希少な存在であったのだ。


「それでは、今後ともよろしくね」


《銀の壺》を送り出し、「ふう」と息をつく。

 リフレイアは優雅な所作で席を立ちながら、ポルアースを見やってきた。


「ポルアースはこの後も予定が詰まっているのかしら? よければ、昼の軽食をご一緒しない?」


「ああ、それはありがたい申し出ですが、僕は雑用を片付けた後、いったん家に戻らなければならないのです」


「家に? 今度は家でどなたかを迎えるのかしら?」


「いえ。伴侶と軽食を取る約束をしているのです」


 リフレイアは「そう」と微笑んだ。


「それでは、遠慮しなければならないわね。機会があったら、いずれ伴侶ともども招待させていただくわ」


「ありがとうございます。それでは、失礼いたしますね」


 ポルアースはもとの仕事場に舞い戻っていくつかの職務を遂行したのち、息つく間もなくダレイム伯爵邸を目指した。

 自宅で伴侶とともに息をつくために、仕事を前倒しでぎゅうぎゅうに詰め込んだのだ。自分で組んだ日程であるので、不満の持ちようなどあるはずもなかった。


「あなた、お疲れ様です」


 家に戻ると、メリムが笑顔で出迎えてくれた。

 疲れが吹き飛ぶような、あどけない笑顔である。ポルアースが身に過ぎた仕事を背負い込めるのも、メリムの存在あってのことであったのだった。


「今日もお疲れでしょう? ああ、こんなに汗をおかきになられて」


 庭園の席についたポルアースに、メリムがなよやかな指先をのばしてくる。その手の織布に額の汗をぬぐわれると、心からの幸福感がポルアースの胸を満たしてくれた。


「ご要望通り、甘い菓子を準備してもらいましたけれど、このようにお疲れであったらきちんとした食事のほうがよろしかったでしょうか?」


「いやいや、疲れているときこそ、甘い菓子が頭と身体にしみるのだよ。昼の軽食に菓子を食するというのは、意外に理にかなっているのじゃないのかな」


 ポルアースがそのように答えたとき、ふたつの人影が庭園の席に近づいてきた。

 その姿に、ポルアースは「おや」と目を丸くする。


「ヤンとニコラじゃないか。今日は宿場町じゃなかったのかな?」


「はい。復活祭に向けた新しい料理と菓子の手ほどきは完了しましたので、しばらくはお屋敷の仕事に専念できるかと思われます」


 ヤンは、うやうやしく頭を下げた。宿場町における食材の流通を活性化させるために、この生真面目な初老の料理長にも骨を折ってもらっているのだ。


「ニコラも元気そうだね。料理の修練は順調かな?」


 ニコラは不愛想な面持ちで、無言のままに一礼した。

 いささか不遜であるかもしれないが、これは仕方のない話であろう。もともとアルフォン子爵家の息女であったニコラは、彼女の祖母たるマティーラの死にまつわる騒動によって貴族としての身分を剥奪され、ポルアースのもとで働くことになってしまったのである。


 しかしヤンから聞いた話によると、彼女は懸命に働いているらしい。現在は罪人として捕縛されている姉と想い人が釈放されたとき、自分がしっかり支えられるように――と、彼女はそんな一念で日々を過ごしている様子であるのだ。


(あれはたしか、サイクレウスを失脚させてすぐの出来事であったからな。彼女ももう、1年以上はここで働いているわけか)


 折しもヤンが多忙になってきた頃であったので、彼女にはシェイラとともにそちらの仕事を手伝ってもらっていた。ヤンいわく、調理助手としてはニコラのほうが筋がいいらしい。ならば、いずれはダレイム伯爵家お抱えの料理人として務まるように励んでもらいたいものであった。


「それじゃあ今日は、ヤンが手ずから菓子を準備してくれたのだね。それは楽しみだ」


「あ、いえ……本日はメリム様からのご提案で、こちらのニコラに仕事を任せることに相成りました」


 真面目くさった面持ちで、ヤンがまた一礼する。

「へえ」と感心しながらメリムを振り返ると、そちらにはなんとも魅力的な笑顔が待ち受けていた。


「最近はニコラもずいぶん頑張っているという話でしたので、そのように提案させていただきました。あなたもニコラがどれだけの腕を身につけたか、楽しみでしょう?」


「うん、それは楽しみだね」


 ポルアースは本心からそのように答えたが、ニコラが普段以上に不愛想に見えるのは、もしかしたら緊張も相まっているのかもしれなかった。

 ともあれ、休息の時間は限られている。ポルアースは、さっそくニコラの心尽くしを準備してもらうことにした。


 香り高いギギの茶と、銀色の蓋がかぶせられた皿が卓の上に並べられる。

 その蓋が取り除かれると、メリムが「まあ」とはしゃいだ声をあげた。


「これは素敵ですわね。日の光を浴びて、菓子が光り輝いていますわ」


「うん、本当だねえ」


 ポルアースも、なかなかの驚きに見舞われることになった。ニコラに菓子作りの手ほどきをしたのはヤンなのであろうが、それはこれまで目にしたこともない造作をしていたのだ。


 フワノかあるいはポイタンの生地が、丸く大きく焼きあげられている。おそらくはキミュスの卵も使われているのだろう。ほのかに黄色みがかった色彩である。

 ただ、その表面がつやつやと照り輝いていた。

 黄色みがかった生地の上に、透明の膜が張っているのだ。うっすらと白みを帯びたその膜は、液体のような艶やかさを持ちながら、溶け崩れることもなくぴったりと生地に張りついているようだった。


「これは不思議な見た目だね。このつやつやと照り輝いているのは、いったい何なのかな?」


「そちらは、チャッチの粉でこしらえた特別仕立ての生地となります」


 ニコラではなく、ヤンがそのように答えてくれた。

 ポルアースは「なるほど!」と膝を打つ。


「チャッチの粉でこしらえたということは、つまりあれだね! アスタ殿が以前に考案した、チャッチもちという菓子を取り入れたわけだ!」


「はい。森辺においてはチャッチもちでブレの実や果実などを包む菓子を考案しているさなかだと聞き……ならば、フワノの生地を包むのも妙案なのではないかと思った次第でございます」


 あまり笑顔を見せることのないヤンが、そこでやわらかい微笑をたたえた。


「こちらの菓子はつい先日完成させたばかりのものとなりますが、ニコラには最初から修練を積ませておりました。わたしが手掛けた菓子と比べても、大きな遜色はないかと思われます」


「それはますます楽しみだ! さっそくいただいてみようかな」


「はい」と、緊張した面持ちでニコラが調理刀を取り上げる。

 透明の膜も黄色みがかった生地も、さしたる抵抗も見せずに寸断された。切り分けられた生地の表面には、あちこちに赤い粒が散っている。


 ニコラの手によって、切り分けられた菓子が小皿に移される。ポルアースはメリムと微笑みを交わしてから、突き匙を手に取った。


「まあ……これは美味ですわ。ねえ、あなた?」


「うん! 掛け値なしに、美味なる菓子だね!」


 その菓子は、口に入れると生地がやわらかくほどけた。

 そうして生地からは、乳脂とパナムの蜜の風味が香りたつ。それは、森辺のかまど番がこしらえる「ケーキ」という菓子に劣らぬほどのやわらかさと芳しさであった。


 赤い粒は、砂糖とともに煮込まれたラマムの実であった。もともと甘いラマムの実がさらに甘くなり、そして小気味のいい食感を加えている。それに、煮込んだのちに火で炙っているのだろうか、若干の香ばしさが感じられて、それが甘さをいっそう際立たせているようだった。


 そして、チャッチの粉の膜である。

 そのぷりぷりとした噛み心地が、さらなる楽しさを演出していた。

 このひと工夫がなかったら、まあ上出来ではあるものの、ごくありきたりの焼き菓子である。森辺の民によって不可思議な菓子を味わわされた現在では、いささかならず物足りなく感じられてしまったことだろう。

 やわらかな生地と、瑞々しい果実と、弾力のあるチャッチ餅。その3種の食感が、この菓子を特別なものに仕立てあげていた。


「いやあ、本当に美味だよ。かなりの甘さだけれど、それが苦いギギの茶とよく合うね! これならば、城下町でも宿場町でも、ともに人気を博することができるのじゃないかな」


「過分なお言葉、ありがとうございます。……実を申しますと、こちらは宿場町にて提供するために考案した菓子であるのです」


「そうだろうと思ったよ! これならば、《タントの恵み亭》の主人も心から満足することだろう!」


「恐縮です」と微笑むヤンのかたわらで、ニコラはほっと息をついていた。

 そちらに目をやりながら、メリムが新たな微笑をのぼらせる。


「あなたは本当に、素晴らしい腕を身につけたのですね、ニコラ。これがヤンの手による菓子だと言われても、わたくしは疑いもしなかったことでしょう」


「いえ……とんでもありません」


「いや、僕も同じ気持ちだよ。これからも、ヤンの仕事をしっかりと補佐してくれたまえ。いずれは僕の子や孫にも美味なる菓子をこしらえてくれたら、嬉しい限りだね」


 ニコラはハッとした様子で、ポルアースを見つめてきた。

 その唇が、言葉を発することを迷うかのように小さく震える。


「あたし……いえ、わたしはこの先も、こちらのお屋敷で働き続けることを許していただけるのでしょうか……?」


「うん? それを決めるのは僕の父君だけれども、このように素晴らしい腕を持つ料理人を手放す理由はないだろうね。この先、ジェノスにおいてはますます料理人の価値というものが上がっていくのだろうからさ」


 ポルアースは一考の末、このようにつけ加えることにした。


「君の姉君が釈放されたあかつきには、ともに手を携えて頑張ってほしいと願っているよ。かつて貴族であった身としては、人に仕えるのも不服であるだろうけれども、こればかりは致し方のないことだからねえ」


 今度こそ、ニコラは愕然とした様子で立ちすくんだ。


「わ……わたしの姉までも、こちらで働かせていただけるのでしょうか……?」


「僕としては、そのように考えているよ。もちろん、他にあてがあるというのなら、決して無理強いはできないけれど――」


「あてなんて、あるわけがありません!」


 大きな声でわめいてから、ニコラは深くうつむいてしまった。

 足もとの石畳に、ぽたぽたと黒いしみが作られていく。その姿を見て、ポルアースは少し反省することになった。


「姉君の去就については、君も不安だったのだろうね。これまでは確たることを言ってあげることができず、申し訳なく思っているよ」


「…………」


「いちおう言い訳させてもらうと、僕は君たちの恨みを買っているんじゃないかと心配していたのだよ。何せ、君たちの罪を暴いてしまったのは、僕の手引きで調査に励んでいたカミュア殿だからね。だから、君が身を立てられるぐらいの力をつけたら、別の働き場所に送り出してあげるべきかとも考えていたのだよ。でも、君がこの先もここで働きたいと思ってくれているのなら――」


「罪人となった貴族に、まともな働き口なんてあるわけがありません。あなたの厚意がなかったら、わたしはどこかで野垂れ死んでいたはずです」


 涙声で、ニコラはポルアースの言葉をさえぎった。


「それに……わたしたちは、実際に罪を犯していました。それを暴かれて恨むほど、腐った性根はしていないつもりです」


「そうか」と、ポルアースは笑ってみせた。


「君の真情を疑ってしまって、申し訳なかったね。それじゃあこの先も、よろしくお願いするよ。……ヤン、彼女を少し休ませてあげてくれるかな。あとは、こちらでやっておくからさ」


「かしこまりました」と一礼し、ヤンはニコラの背にそっと手を当てた。

 そうして年齢の離れた師弟が屋敷のほうに戻っていくのを見届けてから、ポルアースは息をつく。


「ううむ。色々と考えが足りていなかったなあ。ニコラには気の毒なことをしてしまったよ」


「まあ……あなたは、そのように考えるのですね」


 メリムは優しく微笑みながら、ポルアースの手に自分の手を重ねてきた。


「わたくしは、誇らしさで胸がいっぱいです。いったいどうしたら、あなたのようにお優しく振る舞うことがかなうのでしょう」


「何を言っているのさ。僕が迂闊なばっかりに、ニコラを泣かせてしまったのを見ていなかったのかい?」


「人というのは、悲しいときにだけ涙を流すものではありませんよ、ポルアース」


 年齢よりも幼く見えるメリムであるが、そういう笑い方をすると、とても大人びて見える。

 そして、幼げであっても大人びていても、ポルアースにとってはこの世でもっとも愛おしい存在であった。


「でも、他者にお優しく振る舞うには、度量というものが必要なのでしょうね。あなたほどのお力がなければ、そうまで他者を優しく抱きとめることは難しいのかもしれません」


「さっきから、ずいぶんと僕を持ち上げてくれるのだね。メリムにそんな風に言ってもらえるのは嬉しい限りだけれども、僕なんてようやく官職を授かったばかりの若輩者なのだよ?」


「それでもあなたには、類い稀なるお力があったのでしょう。兄君も、そのように仰っていました」


「兄上が?」と、ポルアースは目を丸くした。

 メリムは「ええ」と小さくうなずく。


「つい先日のことです。あなたには、ダレイム伯爵家の人間にはそぐわないほどの、暴虐的なお力が備わっている、と――兄君は、そのように仰っていました」


「それはさすがに信じ難い話だなあ。兄上なんて、僕の情けない姿をもっとも近い場所から眺めていたはずなのに」


「それは、ご当主様から世継ぎとしての教育をされなかった話についてですよね? それもまた、あなたのお力が際立っていたゆえであるのだろうとのことでした」


 そこでメリムは、くすりと笑った。


「あなたは穏やかなお顔の下に、暴れトトスのごとき気性を隠していると、ご当主様はそのようなご懸念を抱いておられたそうです。あなたはお家を劇的に発展させる可能性と、同じぐらいの勢いで没落させる危険性をあわせ持っている、と……それゆえに、早いうちから世継ぎとしての教育を断念することになったそうですよ」


「ち、父上がそのような話を兄上に語らったというのかい?」


「はい。ですが、あなたはけっきょくその身のお力で、自分の道を切り開いてしまわれました。自分たちにあなたの手綱を握ることは無理だったのだなと、兄君は溜め息をついておられました」


「…………」


「でも、あなたがそうしてお力をふるったおかげで、ダレイム伯爵家はまたとなく大きな飛躍を遂げることがかないました。兄君が堅実に家を守り、あなたはご自由にお力をふるうことが、お家にとっては最善であるのだろう……だから今後もそのお力に期待していると、兄君はそのように仰っていました」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 兄上は、君に言伝てを頼んだのかい? どうしてそんな大事な話を、自分の口で告げないのさ?」


「それはきっと、照れ臭かったのではないでしょうか? 兄君は、とても奥ゆかしい気性であられますからね」


 兄の厳つい顔を思い出しながら、ポルアースは「あはは」と力なく笑うことになった。


「それじゃあ、もうひとつの質問だ。それはつい先日の話だと言ったよね? そんな大事な話を、どうしてすぐに告げてくれなかったんだい?」


「わたくしも、機会を見計らっていたのです。いまこそが、絶好の機会だと考えました」


 そう言って、メリムはまた微笑んだ。

 今度は普段通りの、幼げであどけない笑顔である。


「ニコラの涙を見て、わたくしも確信いたしました。あなたは誰にも負けないお優しさと度量をお持ちであるのです。あなたと出会えた幸運を、わたくしは心から西方神に感謝いたします」


「まったくもう……君は変わらないね、メリム」


 ポルアースは自分から、メリムの手に自分の手を重ねてみせた。

 効果はてきめんで、メリムはほのかに頬を赤らめる。


「僕はただ、君に相応しい人間になりたいと願っただけのことだよ。まだまだ道は半ばだけれどね」


「とんでもありません。……でも、あなたと同じ道を歩めることを、心から嬉しく思っています」


 愛しい伴侶の笑顔を見つめながら、ポルアースも笑ってみせた。

 何も付け加えることはない。ようやく見出すことのできたこの道を、愛しき伴侶とともに歩んでいくことができれば、それにまさる喜びはなかった。


「さて、それじゃあ残りの菓子を食べてしまおうか。ずいぶんたくさん準備してくれたけど、こんなに美味しいとすべて食べきってしまいそうだ」


「まあ。いくらなんでも、それは食べすぎです。晩餐が食べられなくなってしまいますよ?」


 そうしてポルアースは、あらためて休息のひとときを満喫することにした。

 ポルアースは激流のごとき人生を授かることになったが、さきほども言ってみせた通り、まだまだ道は半ばであるのだ。

 この道を最後まで走り抜くには、こういうひとときの安らぎが――愛する伴侶の笑顔や美味でたまらない菓子といったものが肝要であるのだった。


(アスタ殿も、そうやってあの激烈なる人生を走り抜いているのかな)


 ポルアースの人生を変転させることになったあの年若き友人も、今頃は宿場町か森辺の集落で忙しく立ち働いていることだろう。

 それを心から祝福しつつ、ポルアースは最愛の伴侶とともに美味でたまらない菓子を味わうことにした。

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