愛しき日々(四)
2019.8/28 更新分 1/1
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それから、数刻の後である。
太陽が西の果てに半分ほど隠れたところで、ファの家の晩餐は完成した。
「いくぶん早いが、晩餐を始めようと思う。どうせ食事の後には、長々と語らうのであろうしな」
家長の席に陣取ったアイ=ファが、しかつめらしく宣言した。
その隣にアスタとティアが並び、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンがそれと向かい合う格好で座している。家人が6名となったリリン本家よりも、つつましい人数であった。
そんな一同の眼前には、さまざまな料理が並べられている。
ヴィナ・ルウ=リリンはあえて手を出さなかったので、すべてアスタがひとりでこしらえた料理である。
食前の文言を終えたのち、アスタが輝くような笑顔でその説明をしてくれた。
「どんな献立にしようか迷ったのですけれど、色々と遊び心も発揮してみました。まず、こちらのシャスカ料理は、『カレー・ピラフ』となります」
「はい。香り、芳しいですし、色合い、『ギバ・カレー』、似ています」
「ええ。『ギバ・カレー』で使っている香草の粉末を、シャスカにからめて炒めた料理となりますね。具材はシンプルに、アリア、ネェノン、プラ、そしてギバのベーコンです」
「シンプル」とシュミラル=リリンが反問すると、アスタは照れ隠しの微笑を浮かべた。
「申し訳ありません。シンプルは、簡素とか単純とかいう意味となります」
それはつまり、アスタの故郷独自の言語ということであるのだろう。シュミラル=リリンは異国の言語を口にすることに慣れているが、森辺の民やジェノスの民は「カレー」や「ピラフ」や「ベーコン」といった言葉もずいぶん舌に馴染んでいない様子であった。
「それでこちらは、『マロールのオーロラソース炒め』となります。オーロラソースというのは、マヨネーズとケチャップを混ぜたものですね。塩とピコの葉で下味をつけて、チャッチの粉をまぶして焼いたのち、オーロラソ-スを加えて仕上げました」
「ふうん……ギバではなくて、マロールという食材を使っているのねぇ……」
「はい。魚介には魚介ならではの滋養があると思うので、最近は積極的に使っています。ギバ肉は、こちらの『ギバ・タンのハンバーグ』でご満足いただけたら幸いでございます」
おどけた口調でアスタが言うと、ヴィナ・ルウ=リリンも楽しそうに微笑んだ。
ヴィナ・ルウ=リリンがファの家で晩餐を食するのは、初めてのことであるのだ。それもあって、ヴィナ・ルウ=リリンはファの家に出向くことに賛同してくれたのかもしれなかった。
「あとは食べながらご説明しますね。家長が早くせよと目で訴えておりますので」
「余計な口を叩くな。……お前はずいぶんと浮かれているようだな、アスタ」
「それは浮かれるさ。こんなに嬉しい客人をお迎えしてるんだからな」
アスタは無邪気に笑い、アイ=ファは「困ったやつだ」とばかりに目を細める。アイ=ファはなかなか笑顔を見せようとしない気性であるが、その眼差しには疑いようもない慈愛の光が宿されていた。
「あ、最後にひとつだけ! 今日の自信作は、こちらの『スープ・カレー』となります」
「すーぷかれー……? ああ、最初にかれーを作りあげた頃、ユーミに手ほどきした料理だったかしら……?」
「はい。最近、あちこちの宿屋にカレーの素を売るようになったでしょう? それでまた、カレーの素の使い方を手ほどきするにあたって、『スープ・カレー』の作り方も見直してみたんです」
そう言って、アスタはいっそう明るく微笑んだ。
「自分としては、けっこう上出来ではないかと自負しております。お気に召したら、ヴィナ・ルウ=リリンにもこっそり作り方を伝授いたしますよ」
「アスタがそうまで言うなら、気に入らないわけがないじゃない……でもまあ、まずは食べてみないとねぇ……」
シュミラル=リリンも伴侶とともに、まずは『スープ・カレー』なる料理の皿を取り上げることにした。
要するに、カレーを汁物料理に仕上げたということなのだろう。シュミラル=リリンたちの知るカレーよりも水気が多く、さらさらとしている。その中に、大きく切り分けられた具材がごろりと転がっていた。
「具材は、素揚げにしたチャッチとネェノンとレミロムに、『ギバの角煮』とシィマですね」
「え……? ギバのかくにが具材って、どういう意味かしら……?」
「そのままの意味ですよ。ギバのバラ肉とシィマは普段の角煮の作り方で仕上げて、あとからスープに投じているんです。味を馴染ませるために軽く煮込んではありますけれど、基本的には角煮の完成品を後から加えた形になります」
「ふうん……かれーとかくにを一緒にしちゃうなんて、なんだか想像がつかないわねぇ……」
それはシュミラル=リリンも同様であったが、食べてしまえば想像する必要もない。
そのように考えて、まずはカレーのスープをすすってみると――期待に違わぬ味が口に広がった。これほど水気が多いのに、味が薄いことはまったくない。重厚にして、深みのある味わいだ。
「スープの出汁には、ギバ肉やキミュスの骨ガラなどを使っています。いつか祝宴では、ギバの骨ガラを使ってみたいところですね」
つまり、通常の汁物料理と同じぐらい手間をかけた出汁に、カレーを合わせたということなのだろう。これだけ深みがあるのも納得であった。
そして、具材である。
普段のカレーでは、野菜もほろほろと崩れるぐらい入念に煮込まれているが、こちらはそれよりももう少し噛み応えを残していた。
そして、その噛み応えが水気の多いカレーと調和している。というか、具材がやわらかすぎると水気の多いカレーと入り混じって、もっと味気ない仕上がりになってしまうのだろう。ポイタンの生地をカレーにひたして食するように、野菜をカレーにひたして食しているような感覚である。それが新鮮で、なおかつ素晴らしい味わいであるように感じられた。
さらに、『ギバの角煮』とシィマである。
こちらには、さらなる驚きが隠されていた。
タウ油や砂糖と一緒にじっくりと煮込まれたギバ肉とシィマは、おそらくジャガル風と呼ぶべき甘辛さを有している。そのまろやかな味わいが、辛さの際立ったカレーの味わいと、実に不可思議な融合を果たしているのだ。
こんなにも掛け離れた味わいが、こんなにもすんなりと溶け合うものであるのか。
カレーという料理にはまだこれほどの変革の余地があったのかと、シュミラル=リリンは舌を巻く思いであった。
「きわめて、美味です。このような味、まったく想像していませんでした。驚き、禁じ得ません」
「本当にねぇ……別々の料理を組み合わせて、こんなに自然な味わいになるなんて……なんだか、嘘みたいだわぁ……」
「お口に合ったのなら、嬉しいです」
アスタは、心から嬉しそうに笑っていた。
自分の料理が人に喜びを与えたとき、アスタはまたとない幸福を得ることができるのだろう。彼は、生粋の料理人であるのだ。
森辺の男衆が狩人の仕事に、ラダジッドたちが商人の仕事に、それぞれ生命や誇りを懸けているように、アスタも料理人として生きている。それがまざまざと伝わってくる笑顔であった。
「こっちのかれーぴらふという料理も、美味しいわぁ……かれーの風味は強いけど、そんなに辛くはないのねぇ……」
「はい。今日は『スープ・カレー』と一緒にお出ししたので、いっそう辛さはひかえめにしてみました。パナムの蜜と、あとは隠し味にマヨネーズも使っています」
「これは、うちの子供たちが喜びそうだわぁ……」
「なに?」と、アイ=ファが身をのけぞらした。
それからすぐに体勢を整えて、咳払いをする。
「ああ、ギラン=リリンの子たちのことか。お前たちは、リリンの本家で暮らしているのだったな」
「ええ、そうよぉ……まさか、婚儀をあげてひと月ていどで、わたしが子を生したとでも思ったのぉ……?」
「そんな道理はないゆえに、一瞬混乱してしまったのだ。ほんの一瞬な」
「うふふ……アイ=ファでも、そんな勘違いをすることがあるのねぇ……なんだか、可愛らしいわぁ……」
アイ=ファはきゅっと口もとを引き締めながら、ヴィナ・ルウ=リリンの笑顔をにらみつけた。
「勘違いをしない人間などは、いなかろう。それに、狩人に対して可愛らしいなどという言葉は、礼を失しているのではないだろうか?」
「そうやってムキになるところが、可愛らしいのよぉ……べつにアイ=ファをからかってるわけじゃなくって、ダルムのことを思い出しただけだから、あまり気にしないでほしいわぁ……」
「あはは。ダルム=ルウのそういう姿を想像すると、確かに可愛らしいですね」
「ほう。では、明日にでもダルム=ルウにそう伝えてやるか」
「やめてくれよ。俺がダルム=ルウにつるしあげられる姿を見たいのか?」
「うむ。家長をからかうような人間には相応しい罰であろう」
アイ=ファは幼子のようにむくれていたが、アスタとヴィナ・ルウ=リリンはとても楽しそうだった。
そんな光景だけで、シュミラル=リリンは胸がいっぱいになってしまう。こういった姿を見たいがために、シュミラル=リリンはファの家を訪れたのだった。
「ところで、ティアはずいぶん静かねぇ……食べるのに夢中なのかしら……?」
「うむ。アスタの料理が美味なのは事実だが、それとは別の話で、客人がやってきたときにはなるべく邪魔をしないように心がけている」
「あらぁ、わたしたちに遠慮をする必要はないのよぉ……?」
「そちらこそ、ティアを気にかける必要はない。ぞんぶんにアスタたちと語らうがいい」
すました顔で、ティアは『カレー・ピラフ』をかき込んでいた。
きっと意識的に、他者と距離を取っているのだろう。彼女は外界の人間と絆を深めることを許されない身であるのだ。
するとヴィナ・ルウ=リリンは、ティアからシュミラル=リリンに視線を向けてきた。
「あなたも、あまり口を開かないわねぇ……せっかくファの家を訪れたのだから、もっとおしゃべりを楽しんだら……?」
「はい。ですが、皆、語らう姿、見ていると、自分、語らうのと、同じぐらい、幸福です」
シュミラル=リリンは、この空気にひたっているだけで幸福だった。
アスタは、照れ臭そうに笑っている。
「今日はわざわざファの家まで来てくださって、本当に嬉しかったです。お忙しい中、ありがとうございます」
「とんでもありません。アスタこそ、忙しいでしょう?」
「いえいえ。復活祭は、これからが本番ですからね。今日なんかは、カレーの素やパスタなんかを多めに下ごしらえしていただけなのですよ。今後、何かトラブルがあったときのために、備えていたわけですね」
「トラブル」
「ああ、すみません。トラブルというのは……不測の事態、でしょうかね」
頭をかくアスタの姿を、アイ=ファが横目でねめつける。
「アスタよ。異国の言葉を使うことを咎めはしない。しかし、フェルメスの前ではなるべくつつしむのだぞ」
「ああ、うん。あのお人の好奇心を、むやみに刺激してしまうかもしれないからな。それは気をつけるよ」
アイ=ファはずいぶんと、フェルメスの存在を警戒しているようだった。
しかしそれも、アイ=ファの立場ではしかたないのだろう。また、森辺にはアイ=ファと同じような憂慮を抱えている人間が多数存在するらしいとも聞いていた。
「アイ=ファ、気持ち、わかります。私、同じ立場であれば、同じ憂慮、抱えていたでしょう」
「うむ? それは、フェルメスについてであろうか?」
「はい。フェルメス、《星無き民》、執着している、聞いています。それもまた、気持ち、わからなくもないですが、アスタ、親愛する、人間には、不愉快でしょう」
料理の皿を置き、シュミラル=リリンはそのように語ってみせた。
「アスタ、特異な存在です。それゆえに、魅了される、わかります。私とて、アスタ、特異ゆえ、魅了された面、あるでしょう。それは、切り離せないのです」
「切り離せない……のであろうか?」
「はい。切り離せません。アスタ、《星無き民》、事実なのです。アイ=ファ、森辺の民である、事実、切り離せないように、アスタもまた、《星無き民》であること、切り離せないのです」
アイ=ファは真剣に、アスタは少し心配そうに、シュミラル=リリンを見つめている。そちらに微笑みかけてから、シュミラル=リリンは伴侶を振り返った。
「私、ヴィナ・ルウ、愛しています」
「ええ……? いきなり何を言い出すのよぉ……」
「私、ヴィナ・ルウ、森辺の民ゆえ、愛したわけではありません。しかし、森辺の民として、生きてきたからこそ、いまのヴィナ・ルウ、あるのです。それは、切り離せません。森辺、生まれて、生活、送り、ヴィナ・ルウ、作られました。ヴィナ・ルウ、森辺、生まれていなかったら、まったく異なる人間、なっていた、思います。私、ヴィナ・ルウ、森辺の民ゆえ、愛したわけではありませんが、森辺の民であるからこそ、愛することになった、思います」
不自由な西の言葉でなんとか真意を伝えられるように、シュミラル=リリンはせいいっぱい頭を巡らせることになった。
ヴィナ・ルウ=リリンは、いつも通りのやわらかい表情で微笑んでくれている。
すると、アスタが神妙な顔で「なるほど」と声をあげた。
「それはつまり、肩書きを重要視しているわけではないけれど、人間の生まれや身分はその人を形成する大きな要素だから切り離せない、ということなのですね」
「はい。合っている、思います」
「シュミラル=リリンの話をうかがって、俺はユーミのことを思い出しました。彼女はもともと森辺に嫁入りすることを願っていたのですけれど、それを目的にして婿探しをするのは何かおかしい気がする、と言っていたのですよ。森辺の民ゆえに愛するというのは、手段と目的が逆転してしまっているわけですね」
「はい。合っている、思います」
「でも、彼女はジョウ=ランと巡りあいました。婿探しをしていたわけではなく、友として絆を育むうちに、何か特別な感情を抱いたようなのですね。いまはまだ、自分の気持ちを見極めようと奮闘しているさなかですけれど……何にせよ、彼女は森辺の民という肩書きではなく、ジョウ=ランという人間そのものに心をひかれたはずです。むしろジョウ=ランが森辺の民ではなく宿場町の民であったなら、ご両親と衝突することもなく、すんなりとおつきあいできたのでしょうしね」
アスタもまた自分の考えを整理しながら、言葉を紡いでいるようだった。
「それで、フェルメスに話を戻すと……彼は、俺の持つ《星無き民》という肩書きにのみ執着している、ということになるわけですよね」
「はい。少なくとも、我々、そのように感じています。ゆえに、苛立つ人間、多いのでしょう」
シュミラル=リリン自身は苛立っていなかったが、その心情を理解することは難しくなかった。
「たとえば、何者か、ヴィナ・ルウ、肩書きのみ、執着すれば、私、きわめて不快です。ヴィナ・ルウ、人間として見てほしい、強く思います」
「ああ、ヴィナ・ルウ=リリンのことを、たとえばルウ本家の長姉だという理由だけで執着する人間がいたら、それは不愉快でしょうね」
「そうなのかしら……わたしはべつだん、なんとも思わないように思うけれど……」
「それはおそらく、本人だからです。俺自身、フェルメスのことは不快だと思っていないのですよ」
そう言って、アスタは朗らかに微笑んだ。
「それじゃあ、それがシュミラル=リリンの話だったらどうします? シュミラル=リリンは東の王国を捨てて森辺の家人となった、とても稀有なる御方です。その稀有なる境遇だけに着目して、むやみやたらと執着する人間が現れたら、なかなかに不愉快ではないですか?」
「それは……不愉快かもしれないわねぇ……あなたはなんにもわかっていないと、わめきちらしてしまうかもしれないわぁ……」
「そうでしょう。俺だって、同じですよ。アイ=ファが森辺の女狩人だっていう理由だけでしつこくつきまとう人間が現れたら、すこぶる不愉快だと思います」
アイ=ファは仏頂面で、金褐色の頭をかき回していた。
おそらく、照れているのだ。
「こういう話は、周りの人間のほうがやきもきさせられてしまうのかもしれませんね。俺なんかはフェルメスと、もっと正しい絆を結んでみせるぞ、という前向きな気持ちでいられるんですが……もしもその対象が他の誰かであったら、とても腹を立てていたかもしれません」
「しかし……アスタが《星無き民》であるということと、ヴィナ・ルウ=リリンがルウ本家の長姉である、ということは、並べて考えるべき話であるのだろうか?」
アイ=ファの疑念に、シュミラル=リリンは「はい」とうなずいてみせた。
「《星無き民》、特異な存在ですが、その点、変わりはない、思います。ヴィナ・ルウ=リリン、ルウ本家の長姉であり、アイ=ファ、女狩人であり、私、東の民であったのと、同じように、アスタ、《星無き民》である、思います」
「そう……なのだろうか」
「そうだと、思います。我々、それぞれ、生まれ落ち、それぞれ、生きてきました。さまざまな運命、経た上で、自分、形成したのです。そこに、変わりはない、思います」
シュミラル=リリンは、アスタのほうに視線を転じた。
「私、アスタ、《星無き民》ゆえ、愛したのではありません。しかし、《星無き民》であるからこそ、愛した、思います。アスタ、《星無き民》であり、森辺の民であり、料理人であり、心優しき人間であるのです。我々、そのすべて、愛しています。しかし、フェルメス、愛している、アスタ、一部分です。それが、もどかしい、感じられるのでしょう」
「うむ……その愛するというのは、親愛の念という解釈で間違いはなかろうな?」
シュミラル=リリンは、「はい?」と小首を傾げてみせた。
「親愛であり、友愛です。私、アスタ、恋情、抱いている、お疑いですか?」
「さすがにそれを疑う気にはなれんが……お前がアスタを見る目には、他の人間以上の情愛が感じられるのだ」
「それは、光栄な話です」と、シュミラル=リリンは微笑んだ。
「私、アスタのこと、深く、愛しています。親愛であり、友愛です。アスタ、かけがえのない存在です」
「あ、ちょっとお待ちを! 1日に2度も涙を浮かべたら、家長にこっぴどく叱られてしまうのです!」
アスタが大きな声をあげたので、全員がそちらを振り返ることになった。
その末に、アイ=ファが眉を吊り上げる。
「それがわかっているならば、涙をこらえるべきではないのか?」
「いや、こらえようと思ってこらえられれば世話はないよ」
明るく強い眼差しを涙で曇らせながら、アスタは笑っていた。
その目が、シュミラル=リリンを見つめてくる。
「もしかしたら……シュミラル=リリンはそういう話を伝えるために、ファの家まで来てくれたのですか?」
これには、「いえ」と首を振ることになった。
「誤解です。私、アスタ、絆、深めたい、願っただけです。他に、理由、ありません」
「……ああ、駄目だ。どうやら墓穴を掘ったようです」
「だから、涙を流すなと言っているであろうが!」
どうやらアイ=ファは、アスタの涙に心を乱してしまう性分であるようだった。
(申し訳ない話だな。私はこんなにも幸福であるというのに)
すると、ヴィナ・ルウ=リリンが腕を引いてきた。
「わたしはアイ=ファみたいに叱りつけたりはしないけど……でも、あんまり心配させないでねぇ……?」
ヴィナ・ルウ=リリンのやわらかな笑顔が、わずかに霞んでいる。
つまりは、そういうことだった。
「申し訳ありません。でも、心情、隠さない、森辺の民、美徳です」
「もう、口の減らない人……」
笑いながら、ヴィナ・ルウ=リリンがシュミラル=リリンの目もとに指先をのばしてくる。
その温かい指先に目もとをぬぐわれると、愛しき伴侶の笑顔が明瞭になった。
「確かにあなたとアスタっていうのは、何か特別な絆を持っているように感じられるわよねぇ……色目を使う娼婦なんかよりも、わたしはアスタに嫉妬するべきなのかしら……?」
「いえ、嫉妬、必要ありません。伴侶への愛、友への愛、別物です」
「冗談よぉ……でも、ちょっぴり羨ましく思う気持ちは、抑えられそうにないわねぇ……」
そんな風に言いながら、ヴィナ・ルウ=リリンはシュミラル=リリンの腕を抱きすくめてきた。
そちらに微笑みかけてから正面に向きなおると、アスタはきょとんと目を丸くしており、アイ=ファはぎょっとしたように身を引いている。
「ごめんなさいねぇ……なるべくはしたない姿は見せないように心がけているのだけれど、ちょっと我慢がきかなくなってしまったわぁ……よかったら、アイ=ファたちもどうぞぉ……」
「わ、私たちは伴侶ではないのだから、そのように身を寄せ合うべきではない!」
「うふふ……遠慮しなくてもいいのにぃ……」
アイ=ファは顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
アスタは「あはは」と笑いながら、目もとをぬぐっている。
とても幸福な一夜であった。
このためにこそ、シュミラル=リリンはファの家を訪れたいと願ったのである。
(アスタは、特異な存在だ。それとも、特異な運命に翻弄される存在だ、というべきなのだろうか)
しっとりとした幸福感に包まれながら、シュミラル=リリンはそのように考えた。
(しかし、そういう特異な運命に翻弄されたからこそ、アスタはその身の力をさらけだすことになった。アスタがどれだけ強靭で、心正しく、情愛の深い人間であるか、それを我々は知ることができたのだ。ならばやっぱり、そういう特異な運命ごと、アスタを愛するべきなのだろう)
自分たちとフェルメスとの違いは、そこにあるのだ。
おそらくフェルメスは、アスタが脆弱でも、邪悪でも、人間としての情愛を持ち合わせない存在であったとしても、愛することができるのだろう。彼が求めているのは《星無き民》という肩書きのみであり、アスタの人間性などに興味は持っていないのだ。
もしもアスタが、年若くして魂を返してしまったら――そのような話は想像しただけで胸が痛くなってしまうが、シュミラル=リリンを含む数多くの人間が、絶望に打ちひしがれるだろう。
フェルメスも同様に、悲嘆に暮れるだろうと思う。しかしそれは、《星無き民》という貴重な存在が損なわれたためであり、アスタ自身の死を悼むものではない。
極端な話、アスタが《星無き民》でなかったなら、死のうが生きようがどうでもいい、とフェルメスは考えているように思う。そういう心情を生々しく察知できてしまう一部の人間が、フェルメスのことを不快に思っているのではないかと、シュミラル=リリンはそのように考えていた。
(ならばアスタは、ファの家のアスタというひとりの人間として、フェルメスを魅了するしかない。《星無き民》という肩書きを凌駕するほどの魅力でもって、フェルメスと絆を紡ぐ他ないのだ)
だからシュミラル=リリンは、それほど心配せずに済んでいた。
アスタはこれほどに、魅力的な存在なのである。フェルメスがどれだけ偏屈な人間であったとしても、いつかその魅力に気づくことができるだろう。もしも、気づけないのなら――おそらく、不幸になるのはアスタではなく、フェルメスのほうであるのではないかと思えてならなかった。
(こんなアスタと友になることができないなんて、そんな不幸なことはないだろうからな)
そんな思いを込めて、シュミラル=リリンはアスタに笑いかけてみせた。
まだ少し目もとを潤ませながら、アスタも笑ってくれていた。
「すっかり話に夢中になってしまいましたね。さあ、晩餐をお続けください。食後には甘い菓子も準備しておりますからね」
この幸福なる夜は、まだまだ始まったばかりであるのだ。
やがて訪れる長きの別れの前に、その喜びをぞんぶんに噛みしめよう。そんな風に考えながら、シュミラル=リリンは木匙を取り上げることになった。