第三話 愛しき日々(一)
2019.8/25 更新分 1/1
「ねぇ……眠ってしまったのぉ……?」
甘えるような伴侶の声が、耳の内側に注ぎ込まれてきた。
うとうとと微睡んでいたシュミラル=リリンは、そちらに向かって「いえ……」と答えてみせる。
「私、眠っていません……起きています」
「嘘ばっかり……すうすうと寝息をたてていたわよぉ……?」
「はい、微睡んでいました。しかし、意識、失っていません」
シュミラル=リリンが顔を向けると、ヴィナ・ルウ=リリンはくすくすと忍び笑いをもらした。
リリン本家の、ふたりのための寝所である。窓の外は夜の闇に包まれており、燭台のかぼそい光だけが、ふたりの姿をぼんやりと照らし出していた。
ヴィナ・ルウ=リリンは、身体ごとシュミラル=リリンのほうを向いた体勢で横たわっている。
ふたりは同じ寝具に横たわっており、そして、ふたりともに裸身であった。
やわらかな曲線を描いたヴィナ・ルウ=リリンの肩や腰は、うっすらと汗ばんでいる。
こめかみの部分だけ長くのばした髪の、片方は寝具の上に広がり、片方はヴィナ・ルウ=リリンのなめらかな頬にかかっている。
その淡い色合いをした髪から透けて見えるヴィナ・ルウ=リリンの顔を、シュミラル=リリンはとても好ましく思っていた。
子供のようなあどけなさと、大輪の花のような艶めかしさを持った、秀麗なる容姿である。
いくぶん目じりが下がり気味で、睫毛の長いその目には、やはり淡い色合いをした瞳が瞬いている。鼻は綺麗に筋が通っており、唇は肉感的だ。ヴィナ・ルウ=リリンは西の王国において、絶世の美貌と称されるぐらいの存在であった。
シュミラル=リリンは東の生まれであるが、最初からその容姿にも惹かれていた。
東の王国においては、痩身の女性が美しいとされている。家長の伴侶であるウル・レイ=リリンなどは、《銀の壺》の面々からもひそかに美しいと賞賛されていたのだった。
しかし、シュミラル=リリンにとってもっとも美しいと思えるのは、このヴィナ・ルウ=リリンである。
痩身かどうかなどは、関係ない。この瑞々しい生命力に満ちた豊満な肉体を、シュミラル=リリンは美しいと感じた。そしてそれ以上に、ヴィナ・ルウ=リリンが浮かべるその表情や、瞳の光や、しっとりとした声音や、けだるげでありながら力に満ちた立ち居振る舞いを、何より愛おしく思ったのだった。
「どうしたのよぉ……やっぱり、もう眠りたいのぉ……?」
「いえ。ヴィナ・ルウ、美しい、思っていました」
森辺において、虚言は罪である。
それでシュミラル=リリンは正直に告白したのだが、ヴィナ・ルウ=リリンはくすくすと笑いながら、「もう……」と二の腕をつねってきた。
「いやな人……眠りたいなら、眠ってもいいのよぉ……?」
「いえ。ヴィナ・ルウ、語らいたい、思います」
「本当に……?」と、ヴィナ・ルウ=リリンがシュミラル=リリンの胸もとに手を触れてきた。
シュミラル=リリンの身体も、わずかに汗を浮かべている。それほどに、熱い情を交わした後であったのだ。さきほどまでは火のような熱を持っていたふたりの身体は、その余韻にひたっているさなかであった。
「それじゃあ、あなたがうとうとしている間、わたしがなんと言っていたか、きちんと聞いていたのかしらぁ……?」
「もちろんです。旅立ちの日、近いこと、語らっていました」
今日の昼、ついに《銀の壺》がジェノスにやってきたのだ。
日が暮れてからは歓迎の晩餐会を開き、つい数刻前に、ラダジッドたちは宿場町に帰っていった。きっと祝宴に参席した人間の中で、いまだ眠りに落ちていないのは、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンぐらいのものであるのだろう。
「これであなたが森辺にいられるのは、あとひと月……いえ、ひと月も残されていない、という話だったわよねぇ……」
「はい。復活祭、終わると、商売の波、引いてしまうので、銀の月、10日、なる前に、出立するはずです」
今日は、紫の月の15日である。
銀の月の10日までにジェノスを出立するとなると、すでにひと月は残されていない。
その後には、半年もの別離がふたりを待ちかまえているのだった。
「ひと月足らずの時間なんて、きっとあっという間でしょうねぇ……復活祭で忙しくしていたら、なおさらだわぁ……」
「はい。幸福な時間、過ぎる、速いです」
シュミラル=リリンは腕を持ち上げて、胸もとにのせられたヴィナ・ルウ=リリンの手に自分の手を重ねてみせた。
ヴィナ・ルウ=リリンはわずかに目を細めながら、くすりと笑う。
「そういえば、ユーミがこんな風に言っていたわねぇ……普通は半年も離ればなれになると、相手の心変わりが心配でしょうがないだろうにねって……あなたは、心配じゃないのかしら……?」
「はい。ヴィナ・ルウ、信じています」
「そう……まあ、わたしは森辺の掟に縛られているからねぇ……伴侶のある人間が余所の人間に心を移すなんて、そんなことが許されるわけないもの……それじゃあ、あなたはどうなのかしら……?」
「私、変心、心配ですか?」
シュミラル=リリンはゆったりと微笑みながら、そのように答えてみせた。
ヴィナ・ルウ=リリンが冗談で言っているのか本気で言っているのか、それぐらいは察することができる。ヴィナ・ルウ=リリンは子供のように笑いながら、「そうねぇ……」と囁いた。
「あなたは、こんなに素敵なんだもの……たとえ心変わりすることがないとしても……余所の女に色目を使われるのかと思うと、腹が煮えてしまうわねぇ……」
「私、外見、東の民です。東の民、色目、使う、西の人間、少ないです」
「少ないってことは、まったくいないってわけじゃないのよねぇ……? あなたはこれまでにも、西の領土をさまよっている間に色目を使われたことがあるのかしら……?」
「……その話、聞きたいですか?」
「ええ、聞きたいわねぇ……そういえば、こういう話はこれまで聞いたことがなかったもの……」
シュミラル=リリンは観念して、白状することにした。
「婿取り、願われたこと、3度、あります。しかし、色目、使われたというよりは、商売人、腕、見込まれて、縁談、申し込まれた、正しいです」
「ふうん……つまり、その家の家長から婚儀を申し込まれたということねぇ……それで、娘のほうは嫌がっていたのかしら……? それとも、乗り気だったのかしら……?」
「……嫌がっては、いなかった、思います」
「そう……」と、ヴィナ・ルウ=リリンが胸もとにちくりと爪を立ててきた。
甘える猫のような仕草である。
「やっぱりあなたは、魅力のある男衆なのねぇ……ますます腹が煮えてしまうわぁ……」
「しかし、私、数年間、商売、続けています。3度、決して、多くない、思います」
「それじゃあ、《銀の壺》の中であなたの他に婚儀を申し込まれた人間はいるのかしら……?」
「それは……私、聞いていません」
「あら、そうなの……あと、宿場町には娼婦っていうものがいるらしいわねぇ……銅貨で欲情を満たすことができるなんて、森辺では考えられない習わしだわぁ……」
「はい。私、娼館、利用したこと、ありません。今後も、同様です」
シュミラル=リリンは、ヴィナ・ルウ=リリンの手を握る指先に力を込めてみせた。
すべては冗談の延長であろうが、やっぱりこれはヴィナ・ルウ=リリンの内に生じた寂寥感から発したものであったのだ。それならば、放っておくことはできなかった。
「私、ヴィナ・ルウ、愛しています。他の人間、目、入りません。何度でも、誓います」
「そんなの、わかってるわよぉ……冗談なんだから、むきにならないで……」
ヴィナ・ルウ=リリンの目が、わずかに潤んでいた。
シュミラル=リリンも身体ごとそちらに向きなおり、ヴィナ・ルウ=リリンのしなやかな肢体を抱きすくめる。
汗がひいて冷えかけたふたりの身体に、新たな熱が宿された。
シュミラル=リリンの背中に回されたヴィナ・ルウ=リリンの手が、何かをせがむように力を込めてくる。
ヴィナ・ルウ=リリンの潤んだ瞳が、近い位置からシュミラル=リリンを見つめていた。
その肉感的な唇がわずかに開いて、声を出さないままに、シュミラル=リリンの名を呼ぶ。
全身にヴィナ・ルウ=リリンの熱を感じながら、シュミラル=リリンはその唇に唇を重ねた。
◇
翌朝である。
シュミラル=リリンが目を覚ますと、すでにかたわらにヴィナ・ルウ=リリンの姿はなかった。
寝具のかたわらにまとめられていた装束を纏い、水浴びに必要な一式をそろえて家を出ると、裏のほうから薪を割る小気味よい音色が聞こえてくる。
期待を胸にそちらに向かうと、薪割りをしているヴィナ・ルウ=リリンとその手伝いをしている本家の長兄の姿があった。
「あー、シュミラルだ! きょうはずいぶんはやいね!」
5歳になったばかりの長兄は、とても無邪気な笑みを向けてきた。
いっぽうヴィナ・ルウ=リリンは、貞淑なる伴侶の顔で微笑みかけてくる。
「おはよう、あなた……今日は、城下町に向かうのよねぇ……?」
「はい。挨拶回り、同行します。中天には、戻ります」
「ええ、気をつけて行ってらっしゃい……まあ、モルガの森より危険な場所なんて、そうそうないのでしょうけれど……」
朝日の下でも、ヴィナ・ルウ=リリンは美しかった。
ただ、昨晩シュミラル=リリンの腕の中で、火のように喘いでいた姿と、うまく重ならない。こういうとき、シュミラル=リリンはえもいわれぬ羞恥に似た感情にとらわれてしまうのだった。
(人間には、昼の顔と夜の顔がある。私はこの年まで、そんなことも知らずにいたのだな)
何にせよ、シュミラル=リリンはヴィナ・ルウ=リリンのすべてを愛していた。
そのように考えながら微笑みを返すと、何故だかヴィナ・ルウ=リリンは少しだけ頬を赤らめた。
「もう……水浴びをするなら、早く行ってらっしゃい……城下町を回る時間がなくなってしまうわよぉ……?」
「はい。それでは」
「あー! だったら、ぼくもいく!」
長兄がてけてけと走り寄ってきて、シュミラル=リリンの足にしがみついた。
これでは歩くのが難しいので、その小さな手をそっと握ってから、いったん母屋に引き返す。水浴びの準備をして出てきた長兄は、にこにこと笑いながら、またシュミラル=リリンの手を取った。
リリン本家の幼子たちは、すっかりシュミラル=リリンに懐いてくれた様子だった。
家族だけで暮らす家の中に、東の生まれであるシュミラル=リリンがいきなり闖入してきたのだ。最初の頃は、さぞかし不安な気持ちを抱かせてしまったのであろうが――そのようなことを思い出すのが難しいぐらい、彼は屈託なく笑ってくれていた。
「シュミラルは、ぎんのつきになったらいなくなっちゃうんでしょ?」
服を脱いで水場に飛び込み、しばしはしゃいだのちに、長兄はそのように問うてきた。
ヴィナ・ルウ=リリンの香りが水で流されていくことを名残惜しく思いながら、シュミラルは「はい」とうなずいてみせる。
「銀の月、10日、なる前、出立する、思います。帰還、おそらく、半年後です」
「はんとしって、よくわかんない」
「およそ、180日後です。銀、茶、赤、朱、黄、緑の月、過ぎて、青の月、差し掛かったら、戻る、思います」
「ふーん。とにかく、ずーっとさきってことだね!」
顔に流れ落ちる水滴をぷるぷると振り払ってから、長兄はまたにこりと微笑んだ。
「そうしたら、ぼく、もっとおっきくなってるね! シュミラルぐらいおっきくなってるかも!」
「そうですね。皆、健やかであること、毎日、祈ります」
「うん! でも、なるべくはやくかえってきてね? ヴィナ・ルウとかいもうとがさびしがっちゃうから!」
父親に似て明朗なる彼は、笑顔でそのように述べたてていた。
シュミラル=リリンは、「はい」と微笑んでみせる。
「寄り道せず、真っ直ぐ、戻ります。皆のこと、よろしくお願いします」
最後の家族であった父親を失って以来、シュミラル=リリンは天涯孤独の身であった。
そんなシュミラル=リリンにとって、彼らはかけがえのない家族であったのだ。
そして、100余名から成るルウの血族は自分の血族であり、600名に及ぼうかという森辺の民は、同胞である。
シュミラル=リリンはヴィナ・ルウ=リリンという伴侶ばかりでなく、これだけの縁を紡ぐことがかなったのだった。
(私は、幸福だ。東方神にも西方神にも、母なる森にも感謝を捧げよう)
水浴びを終えた後、シュミラル=リリンはトトスで宿場町に向かうことにした。
これは、シュミラル=リリンが持参した銅貨で買いつけたトトスである。名目上はシュミラル=リリン個人の持ち物であったが、リリンの家でも気兼ねなく使ってもらっていた。
まだ早い時間であるので、宿場町はいくぶんひっそりとしている。
普段であれば、早朝から別の土地に向かう人間もいようが、現在は復活祭を目前に控えているのだ。この時期にジェノスに滞在している人間は、のきなみ復活祭の終わりまで居座っているつもりであるのだろう。
主街道を外れて脇道に入ると、いっそう閑散とした様相になる。歩いているのは、井戸で水を汲むために樽を運んでいる人間や、朝の散歩を楽しむ老人および幼子ぐらいのものであった。
本日は狩人の衣ではなく、旅装束の外套を着込んでいるために、シュミラル=リリンに注目する人間もいない。このジェノスにおいては、東の旅人など珍しくもないのだ。
しばらく行くと、目的の看板が見えてきた。居住区域の一画にひっそりとたたずむ宿屋、《玄翁亭》である。
シュミラル=リリンが扉を叩くと、さして待たされることもなく主人のネイルが姿を現した。
「ああ、シュミラル……いえ、シュミラル=リリン。おひさしぶりです。皆様、食堂でお待ちですよ」
ネイルは西の民でありながら、東の王国に憧憬を抱き、感情を隠す習わしを取り入れた、ある種の変人である。しかし、彼ほど信用できる人間は、このジェノスでもなかなか他になかった。
「おひさしぶりです、ネイル。挨拶、なかなかできず、申し訳ありません」
「とんでもありません。そちらには、森辺の狩人としてのお仕事があるのでしょうから、お気遣いは不要です」
そう言って、ネイルは無表情に一礼した。
それでも彼は、ヴィナ・ルウ=リリンとの婚儀が決まったと報告に来たとき、シュミラル=リリンの手を取って喜んでくれたのだ。そのときのことを思い出すと、無性に胸が温かくなってしまった。
「ああ、トトスに乗ってこられたのですね。よろしければ、うちでお預かりいたしましょう」
「いえ。城下町、荷車、向かうので、このトトス、引かせる予定です」
「なるほど。でしたら荷車を1台と、もう1頭のトトスをお使いになるのですね。こちらで少々お待ちください」
いったん扉の向こうに引っ込んだネイルは、《銀の壺》の面々を連れてきてくれた。
そのうちの1名とトトスを引いて裏の倉庫に向かい、残りの人間はシュミラル=リリンと挨拶を交わす。まずは団長のラダジッドが一礼してきた。
「お疲れ様です。お待ちしていました、シュミラル=リリン」
「はい。約束の時間、ぎりぎりになってしまい、申し訳ありません」
「いえ。遅れていないので、問題、ありません」
《銀の壺》においては、なるべく日常でも西の言葉を使うように心がけていた。西の言葉は難しいので、日頃からの修練が肝要であるのだ。
そうして再会の挨拶を済ませた頃合いで、ネイルたちが戻ってくる。半数の団員は荷台に乗り込み、残りの半数は宿場町を出るまでのんびり歩くことにした。どのみち、そこまでは手綱を引いて歩くしかないのだ。
「それでは、行きましょう。ネイル、失礼します」
まずは主街道を目指して、歩を進める。
手綱を引いているのは、《銀の壺》でもっとも年若い団員であり、あとはシュミラル=リリンとラダジッドと、もう2名の団員が歩いていた。何歩もいかぬうちにシュミラル=リリンへと声をかけてきたのは、手綱を引いていた年若き団員である。
「シュミラル=リリン、えー……昨日、祝宴、素晴らしいです」
「はい。素晴らしかった、正しい、思います」
「はい。素晴らしかったです。料理、きわめて美味です……えー、美味でした。私、感動です」
「はい。繋ぎの声、なくすべき、思います。失礼、印象、与える恐れ、あります」
「申し訳ありません。言葉、探す間、声、出ます。なくす、努力です。……いえ、努力します」
もっとも年若い彼は、西の言葉もまだまだ不十分であった。
そんな彼に、シュミラル=リリンは笑いかけてみせる。
「伝えたい話、あるならば、東の言葉、しばし許します」
「はい。ですが、西の言葉、修練、必要です」
「はい。ですが、そのままでは、話、終わりません。城下町、到着する前、祝宴の感想、聞きたい、思います」
若き団員は謝意を示す形で指を組んで一礼してから、堰を切ったように語り始めた。
『森辺の民にも森辺の料理にも、私は心から驚かされることになりました。森辺の民というのは、心を許すとあれほどに温かい笑顔を向けてくれる人々であったのですね。我々は感情を表すことを恥としていますが、ああいった笑顔には心からの幸福を覚えてしまいます。老いも若きも、男性も女性も、誰もが魅力的であり、誰もが親切であったと思います』
「はい。私、同じ気持ちです」
『ええ、あなたは長きの時間を森辺の集落で過ごしてきたのですから、このような話は言わずもがななのでしょうね。でも、私は大いに驚かされました。若い娘さんなどは屋台でもたびたび親切にされていたので、とりたてて驚くこともなかったのですが、やはり男性がたですね。森辺の狩人というのはいずれもゲルドの民めいた迫力を有しているのに、誰もがびっくりするぐらい親切であるように感じました。まあ……シュミラル=リリンの義兄となられた御方などは、笑っているようなお顔であるのに、なかなか鋭い気配を引っ込めてくれず、いささか肝を冷やしてしまいましたが……それでも彼は、同じ家で暮らしているわけではないのですよね?』
「はい。ジザ=ルウ、ルウの家、暮らしています。顔、あわせる機会、あまり多くありません」
『そうですか。それなら、シュミラル=リリンも安心ですね』
シュミラル=リリンは、思わず笑ってしまった。
「べつだん、ジザ=ルウ、ともに暮らすこと、不安、思いません。私、婿入りしていれば、同じ家、暮らしていたのです。ジザ=ルウ、厳格ですが、尊敬すべき、人柄です」
『そうですか。私たちには、本音で語っていただいてかまわないのですよ?』
「本音です。そして、私、森辺の民ですので、虚言、許されません」
すると、黙然と歩いていたラダジッドがこちらを振り返ってきた。
「あなた、饒舌です。道行く人々、いぶかしそうに、見ています」
『え? でも、西の人々は東の言葉など聞き取ることはできないでしょう?』
「聞き取れない、ゆえに、いぶかしい、思うのでしょう。西の人々、東の言葉、歌や呪文、似ている、思うのです。あなた、歌いながら歩いている、思われているかもしれません」
『では、小声でもう少し続けてもよろしいでしょうか? まだギバ料理の素晴らしさを伝えていないのです』
ラダジッドは小さく息をついてから、「了承しました」と応じた。東の習わしがなければ、苦笑のひとつも浮かべていたかもしれない。
そうして宿場町の出口に辿り着くまで、若き団員はひたすらギバ料理を称賛していた。とりあえず、彼は『ギバ・カレー』と『ギバ・カツ』に深い感銘を受けたようだった。
『もともと美味であった「ギバ・カレー」にまだあれほどの伸びしろがあったなどとは、想像することもできませんでした。しかもあれは、ヴィナ・ルウ=リリンたちがこしらえた料理であるのですよね。あのように美味なる料理を毎日口にできるシュミラル=リリンは、幸福です』
「はい。ですが、『ギバ・カレー』、毎日、食べること、できません。数日、1度です」
『え? どうしてです? 毎日食べない理由がわかりません』
「東の民、毎日、香草の料理、食べますが、森辺の集落、そうではないのです。それでも、リリンの家、『ギバ・カレー』、多いほう、思います」
『それは、あまりに惜しい話です! あれほどに美味なる料理は、毎日食べても飽き足らないと思います!』
彼は表情こそ動かしていなかったが、その口調にはぞんぶんに感情が表れてしまっていた。
まあ、若い人間とはそういうものである。それをたしなめるほど、堅苦しい人間は《銀の壺》には存在しなかった。
宿場町を出たのちは、全員が荷車に乗り込んで、城下町を目指す。
城下町は、トトスを使えばすぐである。跳ね橋を渡り、城門を抜けて、通行証を提示し、荷車を持ち込む料金を支払ったのちに、城下町の街路に足を踏み入れる。
数日前には、森辺の同胞とともに歩いた道である。
しかし、同じ人間がシュミラル=リリンを見かけたとしても、それに気づくことはかなわないだろう。狩人の衣を脱ぎ去って、銀色の髪を頭巾で隠してしまえば、シュミラル=リリンもごくありふれた東の民にしか見えないはずであった。
「では、挨拶回り、向かいましょう。まずは、貴族の方々です」
あらためて荷台に乗り込みながら、ラダジッドはそのように言いたてた。
その後を追いながら、シュミラル=リリンは心中の疑問を口にする。
「貴族の方々ですか。食材、昨日、受け渡した、聞きましたが、別の貴族ですか?」
「いえ。同じ方々です。挨拶、出向くよう、申し渡されました」
もともと《銀の壺》が城下町への入場を許されたのは、数多くのシムの食材を携えていたためであった。当時、ジェノスの食材の流通を牛耳っていたトゥラン伯爵サイクレウスが、快く通行証を発行して、定期的な通商を契約してくれたのである。
そのサイクレウスは失脚したが、ジェノスの貴族たちはこれまで通りの通商を約束してくれた。いや、むしろこれまで以上の食材を準備してほしいと願われることになったのだ。それは、ジェノスの貴族たちが森辺の民の協力を得て、シムの食材を宿場町にまで流通させた結果であるという話であった。
「商売、引き継いだ、貴族の方々、信頼できます。アスタ、懇意にしている、いっそう心強いです」
荷車に揺られながら、ラダジッドはそのように言っていた。
サイクレウスとて、商売相手としては悪い人間ではなかったのであるが、彼にはいくぶん黒い噂が流れていた。ジェノスにおいて、サイクレウス以外の人間に食材を売り渡そうとしたら、ひそかな罰が下される、だとか――もしも商品に不備でもあれば、契約にはない多額の賠償を請求される、だとか――東の商人の間で、そのように囁かれていたのである。
もちろんシュミラル=リリンたちは自分の商品に自信を持っていたし、独占契約を結んでくれるのならば、それを破るつもりもなかった。
しかし、伯爵家の当主という身分にある人間がその強権を行使すれば、しがない商団の行く末など簡単に潰されてしまうだろう。貴族を相手にした商売などというのはただでさえ気が抜けないものであるのに、それ以上の緊迫感を強いられることになってしまうのだ。
(それに、食材はほとんど言い値で引き取ってくれたが、それ以外の商品に関してはずいぶん不義理な真似もされたものだ。昨年などは、あちらからの注文で準備した調理刀の買いつけを拒絶されてしまったからな)
そういえば、その原因となったジャガルの鉄具屋の娘は、あれからずっとジェノスに滞在しており、アスタたちとの絆を深めていたのだ。
不義理を働いたのはあくまでサイクレウスであったので、シュミラル=リリンもあの娘とはもっと絆を深めさせてもらいたいところであった。
「約束の場所、到着しました」
やがて、御者台のほうからそのような声が聞こえてきた。
荷台を下りると、見覚えのある建造物が立ちはだかっている。これは、会議堂と呼ばれる施設であった。
その入り口で来意を告げると、トトスと荷車を引き取られて、建物の中に案内された。
控えの間でしばし待たされたのち、団員の全員が奥まった一室に案内される。その入り口には、貴族を守るための守衛が立ち並んでいた。
「どうぞ、お入りください。外套はそのままでけっこうだそうです」
東の民を恐れる貴族であれば、外套ごと毒の武器を取り上げられる場面であった。
シュミラル=リリンは外套の前を開きながら、守衛に呼びかけてみせる。
「私、長剣、携えています。預ける、不要ですか?」
守衛の男は、虚をつかれた様子で目を丸くした。
「東の方々で長剣をお持ちとはお珍しい。では、それだけ預からせていただきます」
「はい。お願いいたします」
シュミラル=リリンの毒の武器はリリンの家で厳重に保管されており、ジェノスを出立するまでは手をつけない約束である。その代わりに、シュミラル=リリンは狩りで使っている刀を持ち歩いていたのだった。
そんなささやかなやり取りの後に扉をくぐると、そこには3名の貴族たちが待ち受けていた。
「やあやあ、ようこそいらっしゃったね」
それは3名とも、シュミラル=リリンが顔と名前を知る貴族たちであった。
ダレイム伯爵家の第2子息ポルアース、トゥラン伯爵家の新しき当主リフレイア、その後見人たるトルストである。声をあげたのは、右端に座したポルアースであった。
「お忙しい中、申し訳なかったね。そんなに時間は取らせないので、楽にしてくれたまえ」
大きな卓をはさんで、そこには人数分の椅子が準備されていた。
前後に2列の配置であったので、団長のラダジッドが前列の真ん中に座り、シュミラル=リリンはその右側に陣取る。
するとポルアースが、人懐こい顔で笑いかけてきた。
「シュミラル=リリン殿は、ちょっとひさびさだね。壮健なようで、何よりだ」
「はい。先日、ありがとうございました」
ポルアースはシュミラル=リリンたちの婚儀の祝宴に参席していたし、そののちにはゲルドの貴人らが開いた返礼の祝宴でも顔をあわせていた。
よって、本当にひさびさと言えるのは、残りの2名に関してであった。
リフレイアと顔をあわせたのは、かつてルウ家で行われた親睦の祝宴の際である。あれはたしか青の月になってすぐの出来事であったから、もう半年近くも昔日のことであった。
そしてトルストなどは、さらにさかのぼる。彼とは、シュミラル=リリンが前回の遠征から戻ってきたとき――王都で手に入れた猟犬を携えて、半年ぶりにジェノスを訪れた際、サイクレウスの後任者としてひとたび紹介されたぐらいの記憶しかなかった。ということは、すでに11ヶ月ぐらいが経過しているはずだ。
しかし、シュミラル=リリンも記憶力には自信があったし、リフレイアやトルストはとても特徴的な容姿をしていた。リフレイアの人形めいて美しい顔も、トルストのくたびれた動物みたいな顔も、シュミラル=リリンははっきりと見覚えがあった。
(確かに、サイクレウスよりはよほど信用できる者たちばかりだ。……サイクレウスの娘であるリフレイアも含めてな)
三者三様である貴族たちの姿を見返しながら、シュミラル=リリンはそんな風に考えることができた。