欠けたものと満ちるもの(下)
2019.8/24 更新分 1/1
「ディック=ドム、何をされているのですか?」
そのように声をあげたのは、モルン=ルティムであった。
ディック=ドムが右手を負傷した日の、翌朝である。場所はドム本家のかまど小屋の横手であり、ディック=ドムは左手で鉈を振るっていたさなかであった。
「見ればわかるであろう。俺は、薪を割っていたのだ」
「そ、それはわかりますが、だけどディック=ドムは手を怪我されているのに……」
「左手だけでも、鉈をふるうのに不自由はない。いささか時間はかかってしまうが、べつだん急ぐ仕事でもなかろうからな」
「でも……傷に響いたりはしないのでしょうか?」
モルン=ルティムは、心底から心配そうな面持ちをしていた。
ディック=ドムは、「大丈夫だ」と答えてみせる。
「左手で鉈を振るっても、右手の傷に響くことはない。このていどの衝撃は、俺のでかい身体を通るうちに消え失せてしまうのだろう」
「まあ」と、モルン=ルティムは微笑んだ。
ディック=ドムは、内心で安堵の息をつく。モルン=ルティムに心配そうな顔をされると、こちらの胸が痛んでしまうのだ。
「俺とて、狩人であるからな。狩りの仕事を休まなければならないのは心苦しいが、だからこそ、傷の回復を一番に考えている。決して無茶な真似をしたりはしない」
「はい。ディック=ドムがご判断を誤ることはないでしょう。出過ぎた口をきいてしまい、申し訳ありませんでした」
朗らかに微笑みながら、モルン=ルティムは一礼した。
その手には、籠いっぱいのピコの葉が抱えられている。まだ朝も早い刻限であったので、他の女衆らと森の端に出向いていたのだ。
「ピコの葉だけか。薪はないのか?」
「はい。こちらの薪はまだゆとりがありましたので、すべて分家の方々にお渡ししました」
「そうか。では、こちらが片付いたら分家に向かうことにしよう」
「え? こちらに仕舞ってあった薪は、すべて割ってしまったのですか?」
「うむ。ここに出したのが、最後の分となる」
鉈を置き、新たな薪を丸太の上に立てながら、ディック=ドムはそのように答えてみせた。
「身体を動かしていなければ、落ち着かぬからな。薪割りとて大した力を使うわけではないが、家でじっとしているよりは、よほどましだ」
モルン=ルティムは、再び「まあ」と微笑んだ。
そのままくすくすと笑い続けたので、ディック=ドムは眉をひそめてみせる。
「俺は何か、おかしなことを言ったであろうか?」
「あ、いえ、申し訳ありません。ただ、父ダンのことを思い出してしまったのです。父ダンも足を怪我してしまったとき、一刻とは静かにしていられなかったので……」
丸みのある顔に屈託のない笑みを浮かべつつ、モルン=ルティムはそう言った。
「森に出られなかった間、父ダンは朝から晩までトトスを走らせていました。狩人というのは大きな力を持っているゆえに、それを持て余してしまうこともあるのでしょうね」
モルン=ルティムは笑うと、目が糸のように細くなる。
それは、幼子や赤子のようにあどけない笑顔であった。
一瞬見とれてしまいそうになったディック=ドムは、慌てて自分を取り戻す。
「そういえば、レムの姿が見えないのだ。ともに薪拾いをしていたわけではないのか?」
「レム=ドムですか? はい、今日は姿を見ていません。てっきりまだお眠りなのかと思っていました」
「そうか。何かおかしなことをしていなければいいのだが――」
ディック=ドムがそのように言いかけたとき、そのレム=ドムがひょいっと姿を現した。
「いま、わたしを呼んだかしら? ……あら、ふたりの語らいを邪魔してしまったのなら、ごめんなさい」
「余計な軽口を叩くな。レム、お前はいったいどこに姿を隠していたのだ?」
「わたしはちょっと、ジーンの集落にね」
レム=ドムは、颯爽とした足取りでこちらに近づいてきた。
さきほどの軽口でわずかに頬を染めたモルン=ルティムに笑いかけてから、ディック=ドムに向きなおる。
「実は家長に、相談があるのよ。悪くない話だと思うのだけれど、一考してもらえるかしら?」
「なんだ。何かおかしな話ではあるまいな」
「だからそれを、一考してちょうだい。……ジーンの連中に聞いてみたら、ちょうど今日はスンの狩り場に向かう日取りであったようなのよ。わたしもそれに同行させてもらおうかと思うのだけれど、どうかしら?」
ディック=ドムは眉をひそめつつ、小生意気な顔で笑う妹の姿を見下ろした。
「ずいぶん急な話だな。どうしていきなり、スンの狩り場などに興味を持つことになったのだ?」
「べつだん、急な話ではないわよ。わたしは以前から、あちらの狩り場に興味を持っていたもの。ただ、見習いの自分が余所の狩り場に向かうなんていうのは、おこがましいかと思って口をつぐんでいたわけね」
「では、何故その口を開くことになったのだ?」
「それは、あなたが手傷を負ってしまったからよ、家長」
レム=ドムは、いっそう悪戯小僧のように微笑んだ。
「考えてもみてよ。いまのドムには7名の狩人しかいないのに、6名もの見習いがいるでしょう? それで家長が仕事を休んだら、6名の狩人で同じ人数の見習いの面倒を見ることになるじゃない。それはいささか、手に余るんじゃないかと思ったのよね」
ディック=ドムはしばし考えたのち、正直な心情を述べることにした。
「俺は、そうは思わんな。少なくとも、お前とディガとドッドは一人前の力を身につけつつある。その力は役に立ちこそすれ、邪魔になることはありえぬだろう」
レム=ドムは、きょとんと目を丸くした。
「あら、ありがとう。家長がそんな風に真正面からわたしのことをほめてくれるなんて、初めてのことよね」
「ほめてなどはいない。ただ、正直な心情を述べただけのことだ」
レム=ドムはちょっと普段と異なる笑い方をしながら、かたわらに立ち尽くしていたモルン=ルティムの肩に手を回した。
「聞いた? いつもは誰よりも不愛想なくせに、ときおりこういう一面を見せるのよね、このお人は。モルン=ルティムも、こういうやり口で心を奪われることになったのかしら?」
「い、いえ、わたしは……」
「よさんか。モルン=ルティムが、困っているではないか」
「うふふ。家長も同じぐらい困っているように見えるけれどね」
真っ赤になったモルン=ルティムの肩を抱きつつ、レム=ドムはとても楽しそうに笑った。
「でも、おかげで話の続きをしやすくなったわ。それだったら、わたしがしばらく余所の狩り場で働くことを許してもらえるかしら?」
「なに? ジーンの者たちも、スンに向かうのは数日置きであるはずだぞ」
「わたしが興味を持っているのは、ジーンの狩人でもスンの狩り場でもないのよ。……わたしはね、スドラの狩人たちに興味を持っているの」
いくぶん無邪気な顔になっていたレム=ドムの黒い瞳に、挑むような光が浮かぶ。
スドラの狩人たちもジーンの家と日取りを合わせて、スンの狩り場に出向いているのだ。それでディック=ドムは、すぐに察することができた。
「なるほど。弓の巧みさと俊敏さで知られるスドラの狩人に、興味を覚えたということか」
「あら、やっぱり話が早いわね。実は、そうなのよ。スドラの狩人たちと森に入れば、わたしは多くのものを学べるのじゃないかしら?」
ディック=ドムは、またしばし考え込むことになった。
レム=ドムはすでにドムでもっとも弓の巧みな人間であるし、北の集落には小柄な狩人というものがほとんど存在しない。それはすなわち、小柄で俊敏な狩人をどのように育てるべきか、その知識が失われつつあるということに他ならなかった。
レム=ドムは決して小柄なわけではないが、男衆に比べると遥かに細身であり、誰よりも俊敏だ。そんなレム=ドムの手本となるべき存在が、この北の集落には存在しないのである。
「だから、今日はジーンの狩人たちと一緒にスンの狩り場まで出向いて、そこでスドラの家長にしばらく面倒を見てくれないかとお願いしようと思うの。スンの狩り場でともに働けば、わたしが役立たずじゃないってことは証明できるでしょうしね」
「なるほど……しかし、スドラの家は遠かろう。もし、明日からともに働くことを許されたら、またあちらに逗留しようという心づもりであるのか?」
「ええ。スドラの家のユン=スドラとはそれなりの縁を紡いだつもりだし、もし迷惑であればファの家を頼ろうと考えているわ」
「……お前はまさか、アイ=ファと絆を深めたいがために、スドラの家を利用しようとしているわけではあるまいな?」
「あら、これはずいぶんと馬鹿にされたものね」
ふてぶてしく笑いながら、レム=ドムは黒い瞳に強い光を閃かせた。
「わたしは確かにアイ=ファのことを敬愛しているけれど、いまは自分が一人前の力をつけることを一番に考えているわよ」
「そうだな。いまのは、俺の失言だった。取り消させてもらおう」
ディック=ドムは、心中で大いに反省することになった。
「ただ、その上でひとつだけ言っておく。アイ=ファとともに森に入ることは、ドムの家長として許さんぞ」
「あら、それは何故かしら? アイ=ファにだって、わたしが見習うべき点はたくさんありそうだけれど」
「アイ=ファは、ギバ寄せの実を使っている。猟犬を買いつけて以来、『贄狩り』を行うことはつつしむようになったと聞くが、それでもギバ寄せの実を使う狩りは危険であるのだ。熟練した技を持つアイ=ファはともかく、他の狩人が立ち入るべきではない」
「ああ、なるほど……そういうことなら、しかたないわね。このあたりにはギバ寄せの実も生らないから、そんな作法を学んだって使い道がないのでしょうしね」
レム=ドムは、あっさりとそう言った。
ディック=ドムがすぐに非を認めたために、気を悪くした様子もない。むしろその顔には、楽しげな表情が蘇っていた。
「それじゃあ、スドラの件は許してもらえるのかしら? ドムの家長として、判じてちょうだい」
「うむ……その件に関しては、了承しよう。スドラの狩人たちには手間をかけるが、きっとお前のためには――」
そこでモルン=ルティムが、慌てた様子で声をあげた。
「ちょ、ちょっとお待ちください。それは、今日や明日のお話なのですよね?」
「ええ、そうよ。今日はスンの狩り場で縁を紡いで、明日からスドラのお世話になろうという計画ね。それが、どうかした?」
「はい。スドラの家は現在、休息の期間であるはずです」
レム=ドムは、ぽかんと口を開けることになった。
「スドラの家が、休息の期間って……え? いったいどういうことよ? どうしてモルン=ルティムが、そんな話を知っているの?」
「はい。シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンの婚儀でルウの集落に出向いたときに、アスタからその話を聞いたのです。ファの家の近在の氏族は、ちょうど太陽神の復活祭の頃に休息の期間が訪れるようだ、と……」
「た、太陽神の復活祭ってのは、まだ始まっていないでしょう? あれはもっと、遅い時期であったはずよ?」
「はい。ですが、この時期は紫の月の15日ぐらいから宿場町が賑わって、狩人も護衛役として同行する手はずになっているのです。その人手にも困ることはなさそうだ、という話であったので、すでに彼らは休息の期間に入っているものと思われます」
モルン=ルティムは、レム=ドムをなだめるように微笑んだ。
まだ呆然としているレム=ドムに、ディック=ドムも声をかけることにする。
「お前はさきほど、ジーンの集落まで出向いてきたのであろうが? その際に、スドラについては尋ねなかったのか?」
「尋ねなかったわよ……だって、スドラが休息の期間かも、なんて、これっぽっちも考えていなかったもの……」
「では、お前の考えが足りていなかったということだな」
「もう! いったい、なんなのよ! わたしの妙案が台無しじゃない!」
レム=ドムは、子供のように地団駄を踏んだ。
するとモルン=ルティムが、見かねた様子で「あの」と声をあげる。
「それでしたら、ルウの家を頼ればよろしいのではないでしょうか?」
「ルウの家? ルウの家にも、スドラに負けないぐらい身軽で弓の巧みな狩人がいるっていうの?」
「はい。ルド=ルウは前から弓の腕を自慢していましたし、ジーダもそれに負けない腕前だと聞いています。あと、血族の勇者であるシン=ルウも、レム=ドムより小柄でほっそりしていますね」
そう言って、モルン=ルティムは朗らかに微笑んだ。
「もちろん、スドラの狩人たちとどちらが優れているのかは、わたしにもわかりません。でも、ルド=ルウたちはルウの血族の勇者であるのですから、決して大きく劣ることはないはずです」
「ああ……ジーダの弓の腕前は、わたしも身にしみてわかってるわよ。去年のいまぐらいの時期には、ともに森に入って野鳥を狩っていたのだからね」
レム=ドムは筋肉の目立つ腕を組んで、考え込んだ。
「顔ぶれとしては、確かに十分よね。スドラなんて、たしか4、5人しか狩人はいないはずなんだから……ルド=ルウとシン=ルウとジーダだけでも、わたしが手本とするには十分すぎるぐらいだわ」
「それでは今度は、ルウの家に頼み込むつもりか? そうまでして、ドムの家を離れる必要はあるまい。さっきも言った通り、お前が他の狩人の邪魔になることはないのだぞ」
ディック=ドムがそのようにたしなめると、レム=ドムはいくぶん複雑そうに笑った。
「だけどやっぱり、ドムはもともとの狩人が少ないでしょう? あなたが休んでいる間は、なおさら見習いの面倒を見るのが負担になるのじゃないかしら」
「それは、実際に森に出てみないことには、わからん」
「わからないのなら、わたしが余所に出向くことを許してもらえない?」
ディック=ドムは、レム=ドムの態度に不審なものを感じた。
「どうもお前は、ドムの狩り場で働くことそのものを忌避している様子だな。俺が森に出られないと、何か不都合でも生じるのか?」
「まあ、ね。べつだん、分家の連中を軽んじているわけではないのだけれど……これまでわたしに手ほどきをしてくれたのは、家長でしょう? 他の人間では、家長みたいにわたしを使いこなせることができるかどうか、少しばかり心配なのよ」
表情をあらためて、レム=ドムはそのように言葉を重ねた。
「それで、万が一……本当に、万が一よ? もしもわたしが家長のいない間に、魂を失ったり深い手傷を負ってしまったりしたら……家長もみんなも、やり場のない気持ちを抱え込むことになってしまうように思うのよね。やっぱりわたしに狩人の手ほどきなんてするべきじゃなかった、とか……ディガを見捨ててでも、家長は傷を負うべきじゃなかった、とか……そんな風に思い悩んでほしくないのよ」
ディック=ドムは、言葉を失うことになった。
さまざまな感情が、胸の内に渦巻いている。そのひとつは、まぎれもなく黒い怒りの激情であった。
「お前は……ドムの狩人が、そこまで脆弱で道理のわからぬ人間の集まりだと考えているのか?」
「違うわ。ドムは森辺でもっとも誇り高く、力を持つ狩人の集まりよ。でも……わたしみたいに小ずるい人間が少ないし、いささかならず頑迷だとは思っているわ」
ディック=ドムの怒気にも臆することなく、レム=ドムはそのように言い張った。
「家長はわたしの血を分けた兄貴だし、これまでつきっきりでわたしの面倒を見てくれた。わたしのことを一番よくわかってくれているのが、あなただわ。そんなあなたがいない場所で、他の者たちがわたしを上手に使いこなすことができるのか、それを不安に思っているのよ」
「ではやはり、ドムの狩人を信用していないということだな」
「ええ、そういう意味では信用していないわ。たとえひとりひとりは凄い力を持つ狩人だとしても、わたしを導く指導者としては信用していない。だって連中は、わたしのように俊敏で弓の巧みな人間を手ほどきしたことがないのだもの。それはあなたも同じことでしょうけれど、でも……あなたはそれでもわたしのような狩人をしっかり導くことのできる、稀有な人間であるのよ、きっと」
黒い瞳を強く光らせながら、レム=ドムは言い継いだ。
「それに棒引きの勝負でも、わたしはたいていの相手を負かすことができるわ。ドムの狩人というのは、あまりに真っ当すぎるのよ。正面から敵を叩き潰す力はこれだけ秀でているのに、逃げるギバを追いかけたり、不意打ちをくらうことは苦手にしているでしょう? たしか以前にルティムと家人を貸し合ったとき、分家の連中もルティムの手際に感心していたんじゃなかったっけ?」
「うむ……ルティムの狩人たちは小器用で、さまざまな罠を使いこなすのだと聞いている」
「ええ。だけど、ルティムの家長のガズラン=ルティムも、先代家長のダン=ルティムも、あんなに立派な姿をした力のある狩人だわ。それだけの力を持つ狩人が、身体ばかりでなく頭を巡らしてきたからこそ、ルティムやルウはあれほどの力をつけたのじゃないかしら?」
レム=ドムも、激情に駆られている様子である。
ただしそれは怒りではなく、何か別なる激情であった。
「わたしは、ずっと不思議に思っていたのよ。ドムにはこれだけ立派な狩人がそろっているのに、どうしてどんどん家人が減ってるんだろうって……ルウやルティムやザザはあれほどの力をつけたのに、どうしてドムは衰退しつつあるんだろうって……ディックだって、そう思っていたでしょう? あなたほど、ドムの行く末を憂いている人間は他にいないのだからね!」
「…………」
「ドムの人間は、猟犬を扱うのも下手くそだわ。だって、わたしなんかが一番巧みなぐらいなのだからね。それに、弓の修練も不十分だわ。ドムの狩人は、わたしなんかに弓や猟犬の扱いで負けていることを、もっと悔しがるべきなのよ。棒引きや木登りでわたしにかなわないことを、もっと悔しがるべきなのよ。力まかせに刀を振り回すだけじゃなく、もっとたくさんの技や知識を身につければ……絶対に、ルウにもザザにも負けるはずはないのだからね!」
「わかった。もう黙れ」
ディック=ドムは、黒い怒りの激情を腹の底に呑み下した。
ドム本家の家長として、ディック=ドムはそうするべきであったのだ。
「黙れって何よ? そうやって、都合の悪いことに耳を貸そうとしないから――」
「黙れと言ったのが聞こえなかったか? それに俺は――わかった、とも言ったはずだ」
レム=ドムは、干し肉を取り上げられた幼子のような顔で黙り込んだ。
モルン=ルティムは、とても心配そうにディック=ドムとレム=ドムの姿を見比べている。
「お前がルウ家に逗留することを、許す。もちろん、グラフ=ザザとドンダ=ルウが、それを許すのならばな。……これからザザの家に向かい、それで許しをもらえたならば、ルウの集落に向かうことにする。お前は、トトスの準備をしろ」
レム=ドムはしばらくディック=ドムのことをにらみつけていたが、やがてぷいっと立ち去ってしまった。
ディック=ドムはかまど小屋の壁にもたれて、息をつく。すると、モルン=ルティムがおずおずと近づいてきた。
「あの……大丈夫ですか、ディック=ドム?」
「うむ。ぶざまな姿を見せてしまったな」
「いえ。ぶざまだとは思いません。家の行く末を思うのは当然の話ですし、ときには真情をぶつけあう必要もあるのでしょう」
ピコの葉の詰め込まれた草籠を手に、モルン=ルティムはにこりと微笑んだ。
「わたしも幼き頃は、大人たちががなりあっている姿を何度も目にしました。ルウの血族にも、気性の荒い人間は多いのです」
「そうか。ルウの血族たちは、至極穏やかに絆を深めているように思っていたが」
「それはきっと、ここ最近の話であるのでしょう。少なくとも、スン家が族長筋であった時代は、もっと殺伐としていたように思います」
あくまでも朗らかに微笑みながら、モルン=ルティムはそのように語った。
「スン家をいつ、どのようにして討ち倒すのか、それで意見が分かれてしまって、声を荒らげることになったのでしょう。父ダンやレイの先代家長などは特に血の気が多かったので、それを取りまとめるドンダ=ルウは大変であったと思います」
「そうか……確かに家長会議で見るダン=ルティムは、烈火の気性であるように思えた。いまでは、信じ難い話であるがな」
「ええ。いまでは滅多に声を荒らげることもありませんからね。笑い声の大きさは、相変わらずですけれど」
激情の余韻でくすぶっていたディック=ドムの胸が洗われるような、モルン=ルティムの笑顔と言葉であった。
こらえかねて、ディック=ドムが微笑をもらすと、モルン=ルティムはたちまち顔を赤くしてしまう。
「な、何かおかしかったでしょうか?」
「いや……モルン=ルティムの言葉は、俺の胸にしみいるかのようだ。もっとルティムや血族の話を聞かせてはもらえないだろうか?」
「は、はい……現在のレイの家長であるラウ=レイのことはご存知ですよね? ラウ=レイは、たしかディック=ドムと同じ年齢であったかと思います」
「ああ、ずいぶん優しげな顔立ちをしているが、あれもずいぶん気性は荒そうだな」
「はい。ですがラウ=レイは、レイの家長として健やかに過ごしているように思います。それはきっと、齢を重ねた家人たちが、若いラウ=レイを支えてくれているからなのでしょうね」
その大きな瞳に慈愛の光をたたえながら、モルン=ルティムはそう言った。
「ドムには、年老いた人間がおりません。もっとも年がいった人間でも、わたしの父より若いぐらいでしょう。先達の支えも少なく、そのような若さで本家の家長として家人を率いておられるディック=ドムは、本当にご立派だと思います」
「……妹の手綱すら満足に握ることもできない体たらくだがな」
「いえ。ディック=ドムが正しく導いたからこそ、レム=ドムは立派に成長したのでしょう。わたしなどが、何も偉ぶったことを言う資格はありませんが……少し前までのレム=ドムは、自分のことだけで手一杯であり、ドムの行く末を考えるゆとりもなかったように思います」
それは、ディック=ドムも同感であった。
だからこそ、怒りの激情を呑み下すことになったのだ。
「そして、ドムの方々がどれだけ立派であるかは、わたしもこの数ヶ月で思い知ることができました。ドムが衰退しつつある、などというのは信じ難いほどです」
「俺たちは……何かが欠けているのだろう。ルウの血族はもちろん、これほど近在に住まっているザザやジーンでさえ、着実に力をつけているのだ。俺たち自身に問題があるとしか思えん」
「欠けているならば、満たせばよいのです。わたしたちルウの血族とて、スン家が滅ぶまでは何かが大きく欠けていたのだと思います」
頭ひとつぶん以上も低い位置から、モルン=ルティムは懸命にディック=ドムの巨体を見上げている。
その小さくてふくよかな身体から、何か温かいものが流れ込んでくるかのようだった。
「というか……森辺の民そのものが、何か大きく欠けていたのではないでしょうか? だからスン家は、滅ぶことになった……族長筋として、森辺の民の罪を贖うことになった。わたしには、そのように感じられてしまうのです」
「うむ……それが、ファの家のアスタによって満たされた、ということなのだろうか」
「ええ。最初のきっかけは、やはりアスタであるのでしょう。でも、アスタが異国生まれのかまど番のままであったのなら、何も変わっていなかったと思います。アイ=ファがアスタを受け入れて、ドンダ=ルウがファの家を受け入れたからこそ、運命が大きく変わったのではないでしょうか?」
「では……ドムの家は、何を受け入れるべきなのだろうな」
「それを見極めるのは、本家の家長であるディック=ドムのお役目です」
そう言って、モルン=ルティムはこれまで以上に明るく微笑んだ。
「ディック=ドムでしたら、それを見誤ることはないでしょう。どうかご自身のお心に従って、正しいと思える道をお進みください」
その笑顔は、ディック=ドムにまたとない力を与えてくれた。
やはり彼女は、森辺の女衆の理想ともいうべき存在であるのだ。
包み込むように優しく、それでいて、果断である。
「……太陽神の復活祭というものは、北の集落の者たちも見届けるべきである、という話があがっている」
ディック=ドムはいきなり話を転じてしまったが、モルン=ルティムは驚いた様子もなく、「はい」とうなずいた。
「わたしも、楽しみにしています。宿場町に下りるのは、ずいぶんひさびさとなりますので」
「うむ。俺などは、ろくに足を踏み入れたこともない。その際には、モルン=ルティムをずいぶん頼ることになってしまうだろう。世話をかけるが、よろしくお願いしたい」
「はい、もちろんです」
モルン=ルティムは、にこりと微笑んだ。
その笑顔から誘発される感情に従って、ディック=ドムも笑ってみせた。
「モルン=ルティムの案内で宿場町を歩く日を、楽しみにしている。……それに今日からしばらくは、日の高いうちからモルン=ルティムと過ごすことができるからな。それも、楽しみなところだ」
モルン=ルティムは驚きの表情になってから、また顔を赤くした。
ドムの家に何が欠けているのかは、まだわからない。
しかし、自分に欠けていたものは、このモルン=ルティムによって満たされるのではないのか――ディック=ドムには、そのように思えてならなかった。