第二話 欠けたものと満ちるもの(上)
2019.8/23 更新分 1/1
昼なお暗き森の中、7名の狩人が黙然と歩を進めていた。
森辺においても勇猛さで知られる、ドムの狩人たちである。
ただし、その中でドムの狩人の証たるギバの頭骨をかぶっているのは、4名のみであった。残りの3名は、いずれも見習いの狩人たちであるのだ。
その顔ぶれは、本家の長姉たるレム=ドムに、氏なき家人のディガとドッドという顔ぶれだった。
(……こいつらも、ずいぶん狩人らしい目つきになってきたな)
その一団を率いるドム本家の家長ディック=ドムは、内心でそのようにひとりごちた。
ディガとドッドが狩人としての修練を始めたのは、昨年の白の月――もう1年と4ヶ月ほど前のことになる。本来は家長会議のあった青の月から、彼らは狩人としての修練を始める手はずであったが、ザッツ=スンとともにドムの家から逃亡をはかったため、城下町の審問を終えるまではずっと罪人として過ごすことになったのである。
森辺の狩人が一人前になるには、おおよそ2年ほどがかかるとされている。
というか、男衆が見習いの狩人として働き始めるのが13歳からで、婚儀を許されるのが15歳であり、その頃にはたいていの人間が一人前の力を身につけている、というだけのことだった。
もちろん、15歳になっても十分な力量を身につけられない人間は、いなくもない。そういった者は、一人前の力を身につけるまで、婚儀を許されることもないのだ。
ただし、この両名に関しては、事情が違っていた。
彼らはスン家の忌まわしい掟のもとに、ギバ狩りの仕事を果たすこともなく、怠惰なる生活に身を置いていたのである。
よって、彼らは18歳のディック=ドムよりも年長であるにも関わらず、見習いの狩人として修練を積んでいるさなかであるのだった。
(初めて森に入ったときなどは、青い顔をして幼子のように震えていたものだが……ようやく、形になってきたか)
目つきも、顔つきも、体格も、以前とはまったく異なっている。特に、こうして森の中で狩人としての仕事を果たしている最中は、並々ならぬ気迫を漂わせるようになっていた。
もとより彼らは、森辺でもっとも強い力を持っていたスンの本家の血筋であったのだ。
その身に流れる強き血が、ついに開花したということなのだろう。
これならば、2年を待たずに狩人としての力を示すことも可能であるように思われた。
(それに……レムのやつもな)
周囲の気配に気を配りつつ、すぐ隣を歩いている妹のほうを盗み見る。
レム=ドムもまた、ディガやドッドに負けない気迫を放っていた。
レム=ドムは、ようやく16歳となった女衆である。
女衆としては長身で、その肉体は極限まで鍛え抜かれているものの、やはり男衆とは比べるべくもない。ドッドなどはレム=ドムよりも拳ひとつぶんは小柄であったが、身体の厚みはひとまわり以上もまさっていた。
しかし、レム=ドムよりも小柄で細身な狩人というのも、余所の氏族にはいなくもない。狩人にとって重要なのは身体の大きさではなく、その身体を扱う心のほうであるのだ。
身体が小さければ、小さいなりの活かし方というものがある。伝え聞いたところによると、スドラの狩人などは身体が小さい代わりに、驚くほどに弓の技が巧みで、俊敏であるらしい。北の集落の同胞たるジーンの狩人が感心するぐらいであるのだから、それはよほどのものであるのだろう。
同じように、レム=ドムも弓を得意としており、そして、ドムの狩人の中ではもっとも身軽であった。
木登りの勝負などをしてみても、レム=ドムに勝てる人間はそうそういない。それにレム=ドムは、棒引きの力比べも得意にしていた。腕力では劣っても、相手の気配を読み、裏をかくのが巧みであるのだ。ただ一点、女衆であるということを除けば、レム=ドムには確かな資質というものが備わっているのだと認めざるを得なかった。
それにレム=ドムは、猟犬を扱うのも巧みである。
猟犬をどのように動かせば、首尾よくギバを追い詰めることができるか、その判断力が優れているのだ。また、ドム家の猟犬はレム=ドムにもっとも懐いており、心を通じ合わせている様子であった。
(まあ、レムには俺と同じ血が流れているのだからな。……こいつが男衆であったら、俺も憂いなく誇れたものを)
ディック=ドムがそんな風に考えたとき、レム=ドムがちらりと横目でねめつけてきた。
「何よ? わたしの顔をちらちら見てるみたいだけど、何か用事でもあるのかしら?」
「……集中を乱すな。今日は、猟犬がいないのだからな」
ドムにおいてはいつも二手に分かれて仕事を果たしており、猟犬は1日置きにそれぞれが使うように定めていた。本日は、分家の家長が率いる組のほうが、猟犬を使う日取りであったのだ。
あちらは3名の狩人と、同じく3名の見習い狩人で、仕事を果たしている。この1年ほどで、3名の若衆が13歳となったので、そちらの修練も開始されたのだ。
合計すると、ドムには7名の狩人と、6名の見習い狩人が存在することになる。ここ数年で、これほどいちどきに見習いの狩人が増えることはなかった。
7名の狩人で6名の見習いの面倒を見るというのは、かなり難儀な話である。
しかし、この苦境を乗り越えれば、ドム家は13名もの狩人を得ることになるのだ。じわじわと衰退の道を辿っていたドムの家にとって、これは大きな転機であるはずだった。
(ひとりの狩人を損なうこともなく、6名の見習い狩人を一人前に育てあげる。そうすれば、ドムもかつての力を取り戻せるかもしれん)
ディック=ドムがそのように考えたとき、先頭を歩いていた狩人が足を止めた。
同時に、残りの6名は身を伏せて、いっそう神経を集中する。右斜め前方から、騒乱の気配が近づいてきているようだった。
ギバが人間の接近に気づいて、逃げるのではなく突進してくるということは、飢えで我を失っている証である。
ディック=ドムが無言で合図を送ると、レム=ドムとドッドと分家の若き狩人がそれぞれ別の木を登り始めた。
残りの4名は、樹木の陰に身を潜めつつ、刀を抜く。その頃には、あらゆるものを蹴散らしてこちらに肉迫してくるギバの気配が、まざまざと感じられた。
ひゅんっと矢が風を切る音色が響き、それにギバの咆哮が重なる。
木の上から、3名の誰かが矢を放ったのだ。矢だけでギバを仕留めるのは難しいが、これでいくらかは痛手を負わせたはずだった。
と――そこに今度は、草笛の音色が響きわたる。
東に警戒せよ、という合図である。
もはや鼻先に迫ったギバの気配は、北からのものであった。
ということは、2頭目のギバがこちらに向かってきているのだ。
ディック=ドムはすかさず指示を送って、自分とディガが東のギバを迎え撃つことにした。
ディガは青い瞳を爛々と燃やしながら、東に向きなおる。2頭ものギバを同時に相手取ることになっても、臆するところはないようだ。
矢が風を切る音色が、何度となく響く。
やがてその場に、北からのギバが到着した。
2名の狩人が、左右からギバに斬りかかる。かなり大物のギバである。出会い頭に胴体をえぐられたギバは、地鳴りのような咆哮をあげながら、横合いの茂みに飛び込んだ。
2名の狩人は、無言のままにギバを追う。
そうして、東からのギバの気配が、いよいよ間近に迫ったとき――再び、草笛の音色が響いた。
内容はさきほどと同じく、東に警戒せよ、である。
つまり――こちらからは、さらにもう1頭のギバが迫っているのだ。
ディガが一瞬だけ、ディック=ドムのほうを振り返ってきた。
「案ずるな」と目で応じると、ディガは唇の端を吊り上げたようだった。
内心の恐怖を、懸命に押し殺しているのだろう。見習いの狩人としては、上出来であった。
次の瞬間、東の茂みからギバが飛び出してくる。
こちらも、かなりの大物だ。背中に何本もの矢が突きたてられているが、まったく力を失った様子はない。
まずはディガが、その右前足を斬り払った。
ディガの腕力に、ギバ自身の突進の力が重ねられて、断ち切られた右前足が空中に弾け飛ぶ。
右前足を失ったギバは、均衡を崩しながら、ディック=ドムのほうに突っ込んできた。
ディック=ドムは左の側に回避して、その首筋に刀を振り下ろす。
首の骨のへし折れる確かな感触が、ディック=ドムの手の平に伝わってきた。
ギバはそのまま樹木に激突し、動かなくなる。
しかし、気を抜くいとまはない。
ディガも2頭目のギバに備えて、樹木の幹にぴったりと身を寄せていた。
そうして、ディック=ドムも刀をかまえなおしたとき――三たび、笛の音が鳴り響いた。
西の方向に注意、である。
同時に、頭上からひとりの狩人が飛び降りてきた。
「家長! 最初に逃げたギバが、西から迫ってる! こっちは俺とディガに任せてくれ!」
それは、ドッドであった。
木の上で矢を放つ狩人は、2名でも十分だろう。狩人として、的確な判断だ。
ディック=ドムは「おう!」とだけ答えて、西に向きなおる。
背中をディガとドッドに預ける格好であるが、いまの彼らであれば信頼に値するだろう。ディック=ドムは、西からのギバに集中した。
「家長! もっと右に!」というレム=ドムの声が、頭上から響く。
何を考える間もなく、ディック=ドムは右側に移動した。
次の瞬間、茂みの向こうからギバが出現する。
レム=ドムの助言がなかったら、真正面からその突進を受け止めることになっていただろう。
目の前を通りすぎようとするギバの首筋に、ディック=ドムは刀を振り下ろした。
が――ほんのわずかに、目測を誤った。
いや、ギバが信じ難い勢いで巨体をねじって、ディック=ドムの目測を誤らせたのだ。
結果、ディック=ドムの刀はギバの額の角を叩いていた。
むろん、鋼の刀がギバの角に負けることはない。しかし、その次に待ち受けているのは、ギバの頭蓋であった。
ギバの頭蓋は、岩のように硬い。それを打ち砕くには、正確な角度で、正確な部位を狙う必要がある。しかし、首筋を断つつもりで振り下ろしたディック=ドムの刀は、それらの条件をまったく満たしていなかった。
(ならば――!)
一瞬で決断し、ディック=ドムはさらなる力を振り絞って刀を振り下ろした。
角を折り砕いた刀身が、やや傾いた格好でギバの脳天に激突する。
ディック=ドムの刀は、根もとからへし折られた。
ただし、ギバの頭蓋も粉々に粉砕していた。
耳や口から鮮血や脳漿を撒き散らしながら、ギバはぐしゃりと地面に落ちる。
それを見届ける時間も惜しんで、ディック=ドムは背後を振り返った。
ディガとドッドが、それぞれ地面に膝をついている。
その真ん中に立ちはだかっているのは、これまででもっとも巨大なギバであった。
頭の高さは、ディック=ドムの胸もとぐらいまでもあっただろう。
重量は、ディック=ドムの3倍はありそうだ。
これほどに巨大なギバは、ドムの狩り場でもそうそうは見られなかった。
(いかん……!)
ギバが、ディガのほうに向きなおる。
ディガは臆せず立ち上がったが、あまりに距離が近すぎる。そのまま真正面からギバの突進を受け止めたら、ディガでなくとも太刀打ちはできないだろう。
ディック=ドムは役立たずとなった刀を打ち捨てて、怒号をあげつつ、横合いからギバに駆け寄った。
ギバがこちらに向きなおれば、ディガとドッドが左右から刀を撃ち込めるはずだ。
しかしギバは、ディック=ドムを無視して、地面を蹴った。
背後からドッドが刀を繰り出しているが、それでは間に合わないだろう。
意を決して、ディック=ドムは右拳を振り上げた。
渾身の力を込めて、ギバの顔面を横合いから殴りつける。
拳の骨が、みしりと軋んだ。
しかし、ギバの突進はわずかに勢いを失った。
ディガの刀は、ギバの咽喉もとに突き刺さる。
ドッドの刀は、ギバの腰のあたりをえぐった。
そして――頭上から飛来したレム=ドムが、ギバの背中に刀を突き立てた。
ギバは凄まじい咆哮をあげて、2本足で立ち上がる。
その勢いで、ディック=ドムを含む4名はそれぞれ吹き飛ばされることになった。
そこに、西の側から駆けつけた2名の狩人が、剥き出しにされたギバの腹に刀を叩き込む。
そして、木の上にいた最後のひとりも飛び降りて、ギバの首筋を叩き斬った。
ギバの巨体は横倒しになり、3名の狩人はさらに刀を振り下ろす。
血臭が濃くなりまさるその場において、ひょこりと身を起こしたレム=ドムが「あーあ」と声をもらす。
「今日こそは、わたしの手で仕留められるかと思ったのに……あんたたちも、残念だったわね」
「そ、そんな話は後にしてくれ!」
呆然とへたり込んでいたディガが、ディック=ドムのもとに駆け寄ってきた。
「す、すまねえ、家長。俺が不甲斐ないばかりに……」
「何を言っている。お前は、お前の仕事を果たした。別の狩人がお前と同じ立場であったとしても、お前以上の働きはできなかっただろう」
ディガはぎりぎりと歯を食いしばりながら、ディック=ドムを見つめ返していた。
きっと懸命に涙をこらえているのだろう。このディガというのは、どうにも涙もろい性分であるのだ。
「まあ、いきなり3頭ものギバに突っ込まれたにしちゃあ、上出来でしょうよ。誰ひとり、手傷らしい手傷は負ってないみたいだしね」
そんな風に言いながら、レム=ドムも近づいてくる。
その黒い瞳が、ディック=ドムをじっと見つめてきた。
「ただ、あなたは無事なのかしら、家長? 岩より硬いギバの顔面を殴りつけるなんて、あまりに無茶じゃない?」
「うむ。短剣を抜く猶予もなかったし、短剣ではギバの勢いを止められそうになかったからな」
ディック=ドムは、自分の右拳を見下ろした。
おそらく、骨は折れていない。しかし、拳頭の部分には火のような熱が灯り、指を動かすだけで、ずきりと痛んだ。
しかし、この7名がそろっていなければ、3頭ものギバを仕留めるのは難しかっただろう。もしかしたら、ひとりぐらいは魂を返すことになっていたかもしれない。
それを思えば、十分に満足のいく結果であった。
◇
「本当に、危ういことにならずに幸いでした……」
その日の夜である。
晩餐の支度をしながらそのように言いたてたのは、客分のモルン=ルティムであった。
モルン=ルティムは分家の家で暮らしているが、晩餐だけは本家で食している。
なおかつ、ディガとドッドはドム家の全員と絆を深めるために、日ごとに寝泊まりする家を移している。今日はちょうど本家で過ごす日取りであったので、彼らの分まで晩餐が準備されていた。
「まあ、ぞんぶんに危ういところだったんだけれどね。なにせ家長が、この有り様なんだからさ」
レム=ドムが肩をすくめながら応じると、モルン=ルティムは「そうですね」と切なげに微笑んだ。
「でも、数日もすればよくなるのでしょう? ディック=ドムが無事に戻られたことを、母なる森に感謝したく思います」
ディック=ドムの右手には、厳重に包帯が巻かれていた。やはり指の筋を痛めてしまっていたので、然るべき治療を施すことになったのだ。
宿場町で購入した薬を塗り、指と手首が動かないように包帯を何重にも巻いている。それでも時間が経つにつれ、手首から先には疼くような鈍痛が宿っていた。
「俺がきちんと仕留めていれば、家長が手傷を負うことにもならなかったのに……本当に、申し訳なくて顔向けできねえよ……」
と、ディガなどは涙をにじませてしまっている。狩り場を離れてしまうと、彼はこうして気弱な部分を抑えられなくなってしまうのだった。
「お前の責任ではないと、何度言わせれば気が済むのだ。あえて言うならば、これは俺の不始末が招いた結果だ」
「か、家長はなんの不始末も犯しちゃいねえだろう? 刀もないのに、俺を助けてくれたんじゃねえか……」
「だから、刀を失ったのが大きな不始末であるのだ。ギバがあそこで身体をよじると、俺は予測することができなかった。俺の見込みが甘かったのだ」
「ふん。だったら、ふたりがかりで1頭のギバを取り逃がした分家の連中のほうが、責任は重いのじゃないかしら?」
にやにやと笑いながら、レム=ドムが言いたてる。
「なんにせよ、最初の2頭を始末したのは、家長なんだからね。そんな家長に不始末があったっていうんなら、わたしたち全員に不始末があったってことなんでしょうよ」
「うむ。よって俺は、誰に不始末があったとも考えていない。むしろ、全員が力を尽くしたからこそ、あのギバたちを仕留めることがかなったのだ」
「そうだよ」と、ドッドもひかえめに声をあげた。
「俺たちがなんとか足止めできたから、家長の背中を守ることができたんだろ? 俺たちがあの場でくたばってたら、家長は拳を振り上げる間もなく、背中から踏み潰されてたんだろうからな」
「だ、だけどよう……」
「うん、わかってる。あのギバは、たまたまディガのほうに狙いをつけただけだからな。もしも俺がディガの立場だったら、同じようにめそめそしてたと思うよ」
そう言って、ドッドははにかむように微笑んだ。
「でも、あんな馬鹿でかいギバを真正面から倒せるのは、きっと家長ぐらいの力を持つ狩人だけだよ。いまの俺たちにそんな力がないのは当たり前なんだから、それを嘆いたってしかたないだろう? 俺たちが家長に報いるには、立派な狩人になるしかないんだよ」
「ああ……ああ、そうだな……」と、ディガは子供のように鼻をすすった。
その前に料理の木皿を置きながら、モルン=ルティムがやわらかく微笑みかける。
「どうぞ元気を出してください、ディガ。あなたに不始末があったなら、ディック=ドムがそれを叱っていたことでしょう。あなたが叱られていないのでしたら、それはあなたに不始末がなかったという証です」
「そうそう。家長があなたたちに情をかける理由なんてないんだからね。めそめそするのは、叱られたときだけにしてちょうだい」
皮肉っぽく笑いながら、レム=ドムがその場に座りなおした。
「さ、これで準備はできたのでしょう? わたしはもう空腹でたまらないのだから、さっさと晩餐を始めましょうよ」
「そうだな」と、ディック=ドムは居住まいを正した。
「それでは、晩餐を開始する。……森の恵みに感謝して、火の番をつとめたモルン=ルティムとドムの女衆に礼をほどこし、今宵の生命を得る」
最近のドムの集落においては、モルン=ルティムの手ほどきのもとに、すべてのかまど番が同じ場所に集まって、家人の全員分の晩餐をこしらえているのだ。よって、どの家でも同じ文言が唱えられているはずだった。
そうして作られた晩餐は、実に見事な出来栄えである。本日も、そこには数多くの料理が並べられていた。
「これは、ミソを使った料理ね。見るからに美味しそうだわ」
レム=ドムがはしゃいだ声をあげると、モルン=ルティムは笑顔で「はい」と応じた。
「以前からお出ししているギバのかくにという料理を、ミソで仕立てた料理となります。ようやく満足のいく味に仕上げることがかないました」
「これは? ギバの舌かしら?」
「あ、はい。ギバの舌に塩やシールの果汁やケルの根などを揉み込んで、窯焼きにした料理ですね。意外にさっぱりしていて、食べやすいと思います」
「よくもまあ、次から次へと新しい料理を考案できるものねえ。心の底から感心してしまうわ」
そんな風に言ってから、レム=ドムが流し目でディック=ドムを見やってきた。
「ところで、その手じゃ晩餐を口にするのもひと苦労じゃない? モルン=ルティムに手伝ってもらったら?」
「馬鹿を言うな。幼子ではないのだぞ」
内心の羞恥を押し隠しながら、ディック=ドムは左手で木匙をつかみ取った。
モルン=ルティムはいくぶん頬を染めながら、微笑んでいる。そんな表情を目にすると、ディック=ドムまで胸が騒いでしまった。
モルン=ルティムは、非の打ちどころのない女衆である。気立ては優しく、度量は広く、内には強い芯を秘めている。とても柔和な気性をしながら、必要なときには相手をしっかり叱ることのできる、清廉にして果敢なる、森辺の女衆の手本のごとき存在であった。
年齢は、レム=ドムと同じく16歳であるはずだが、その若さに似合わぬ明敏さを有している。これは、ルティムの血筋であるのだろうか。彼女の兄たるガズラン=ルティムは、族長グラフ=ザザがひそかに感服するほどの知恵者であるという話であるのだ。
しかし、ガズラン=ルティムが沈着であるのに対して、彼女はきわめて明朗である。これは、父親の血筋なのかもしれない。彼女の父親たるダン=ルティムは、ちょっと類を見ないぐらい豪放で無邪気なのだった。
そして彼女は、容貌が父親似であることをひそかに苦にしているという噂であったが――ディック=ドムは、そのように考えたことも1度としてなかった。
確かに森辺の若い女衆としては珍しく、彼女はずいぶんとふくよかな体型をしている。しかし、父親に似ていると思えるのは、せいぜい影の形ぐらいのものだろう。筋肉の塊であるダン=ルティムに対して、彼女はいかにも女衆らしいやわらかな身体つきをしており、どちらかといえば、年端もいかない幼子を連想させた。
何にせよ、彼女は魅力的な女衆であった。
その外見も、内面も、ディック=ドムは心から好ましく思っている。このように魅力的な女衆が、どうして自分のように愛想のない男衆に懸想することになったのか、不思議に思えるほどである。
そんな彼女の想いに、ディック=ドムはいまだ応えられずにいる。
家長会議において、親筋や他の血族に縁の及ばない婚儀というものも、いちおうは認められた格好であるのだが――それでもディック=ドムは、いまだに決断できずにいるのだった。
枷となっているのは、自分の立場である。
ディック=ドムは、ドム本家の家長であるのだ。
しかも家族はレム=ドムしか残されておらず、あまつさえ彼女は狩人として生きたいなどと言いたてている。レム=ドムが伴侶を娶らないとなれば、ディック=ドムの責任もいっそう重くなるはずだった。
もちろん、ドム本家の血が潰えれば、次に血の濃い分家が新たな本家となるだけの話である。
だけどそれでも、ディック=ドムが本家の家長という立場をないがしろにしていい理由にはならなかった。
父と母から受け継いだこの血筋を、本家の家長として後世に残す。それが、ディック=ドムの使命であるはずだった。
そこに、血族ならぬモルン=ルティムを伴侶に迎えることが、本当に正しい行いと言えるのか――ディック=ドムを悩ませているのは、その一点であった。
ドム家はもともと、古きの時代から強き力を示してきた一族である。
モルガの森に移り住み、族長筋たるガゼ家が滅んだ後も、親筋のスン家とともに力をふるってきた。当時はザザよりもルウよりも家人が多く、スンの次に力のある氏族だとされていたはずであるのだ。
しかしこの数十年で、ドムの家は衰退した。
ザザは着実に力をつけ、ついにはジーンという眷族を生み出すほどに家人が増えたというのに、いまではそのジーンよりも家人が少ないという有り様であったのだ。
ドムの家は、勇猛さで知られていた。その勇猛さが無謀さにも通じ、若くして森に朽ちる人間が多かったのかもしれない。
何にせよ、ドムの家は衰退した。スン家が滅んで、その眷族から新たな親筋を、という話になったときも、ザザにその座を譲るしかなかった。ザザやジーンより家人が少なく、当時は17歳のディック=ドムが本家の家長であったドムの家に、族長筋の座を担えるわけもなかったのだ。
むろん、ザザ家が親筋となったことに文句があるわけではないし、グラフ=ザザのことは心から敬愛している。
だけどやっぱり、ドム家が衰退しつつあるという事実を痛感せずにはいられなかった。
ザザやルウに取って代わりたいのではない。
ただ、彼らのように、強くありたいのだ。
森辺の民として、ドム家の人間として、誇り高く生きていきたい。ディック=ドムの胸に渦巻くのは、そんな痛切なる願いだけであった。
「あの……大丈夫でしょうか、ディック=ドム?」
と、レム=ドムとは反対の側から、モルン=ルティムが呼びかけてくる。
その茶色の瞳には、とても心配そうな光が灯されていた。
「傷が痛むのでしょうか? それとも……料理が口に合わなかったでしょうか?」
「そのようなことはない。俺はただ……少し考えごとをしていただけだ」
「あら、大事な晩餐のさなかに考えごとだなんて、森辺の習わしにそぐわないのじゃない? 晩餐というのは、その日の生命を得る神聖な行いであるのよ?」
悪戯っぽい笑いを含んだレム=ドムの声が、反対の側から聞こえてくる。
そちらをじろりとにらみつけてから、ディック=ドムはモルン=ルティムに向きなおった。
「確かに礼を失していたかもしれんが、傷が痛むわけでも料理に文句があるわけでもないので、心配は不要だ」
「そうですか。それなら、よかったです」
ほっとしたように息をついて、モルン=ルティムは木皿のひとつを持ち上げた。
「よろしければ、こちらもお食べください。ギバの臓物をタラパや香草とともに煮込んだ、汁物料理となります」
「うむ」とうなずきながら、ディック=ドムはそれを受け取ろうとした。
が、右手には包帯を巻かれており、左手には匙を握っている。匙を置かねば受け取れないが、匙がなくては具材をすくいあげることもできない。
どうしたものかと思い悩んでいると、わずかに頬を赤らめながら、モルン=ルティムが微笑んだ。
「よろしければ、わたしがこうして皿をお持ちしています。匙ですくってお食べください」
「いや、しかしそれは……」
「いいじゃない。それとも家長が皿を持って、モルン=ルティムに匙ですくってもらう?」
口をはさんできたのは、もちろんレム=ドムである。
内心の動揺を隠しつつ、ディック=ドムはもう1度そちらをにらみつけてみせた。
「このように面倒な仕事を、客分たるモルン=ルティムに任せるのは不相応であろう」
「あら? 他の人間にその役目を負わせようというつもり? そのような仕事は、狩人よりもかまど番のほうが相応しいのじゃないかしらね」
ディック=ドムは言葉を失い、ディガとドッドのほうを見た。
両名は首をすくめつつ、自分たちの分の汁物料理をすすっている。
「家長の命令だったら、なんでも従うけどさあ……」
「うん。だけど、こればっかりはレム=ドムが正しいように思えちまうなあ」
ディック=ドムは溜め息をこらえながら、モルン=ルティムに向きなおった。
モルン=ルティムは同じ微笑をたたえたまま、「どうぞ」と木皿を差し出してくる。
その笑顔を曇らせるぐらいであれば、ディック=ドムが羞恥をこらえるべきであろう。
ディック=ドムは顔のあちこちに走った古傷が熱く疼くのを感じながら、匙を持ち上げることになった。




