親睦の晩餐会①~お召し替え~
2019.8/2 更新分 1/1
《銀の壺》の面々をジェノスに迎えたことにより、俺はいっそう充実した心持ちで日々を送れるようになっていた。
彼らは《玄翁亭》に逗留し、昼には必ずギバ料理の屋台を訪れてくれる。そのたびに、俺は喜びを噛みしめることができた。
「へー。あいつら、こんな時期にジェノスまでやってきたんだ? 復活祭なんて、普通は家族と過ごすもんなのにね!」
そのように言いたててきたのは、ひさびさに屋台を訪れてくれたディアルであった。彼女も昨年、この屋台を通じて《銀の壺》とは面識を得ていたのである。
「でも、それを言ったらディアルだって、こうやってジェノスで復活祭を迎えようとしてるじゃないか? それも、2年連続でさ」
屋台で『ケル焼き』を焼きあげながら、俺がそのように反論すると、ディアルは可愛らしい顔で舌を出したものだった。
「僕はジェノスに根を下ろしてるんだから、話が違うでしょ。あいつらの場合は、ちょっと日程をずらすだけで済む話じゃん」
「うん、まあ、シムの中でも草原の民っていうのは特別なのかもしれないね。何にせよ、俺にとっては嬉しい話だよ」
「ちぇー! 僕だって、貴族とのつきあいがなければ、森辺のお人らと一緒に新年を迎えられたのになあ」
南の民たるディアルとしては、東の民に対しての対抗意識というものも生まれてしまうのだろう。その矛先をそらすために、俺は「そういえば」と話題を転じてみせた。
「まだディアルには言ってなかったけど、ネルウィアの建築屋の人たちも、ジェノスで復活祭を過ごすつもりみたいだよ」
「え、そうなの!? あのお人らは、年にいっぺんしかジェノスに来ないんじゃなかったっけ?」
「うん。俺も事情はよくわからないけど、懇意にしている宿屋に予約が入ったんだってさ。どうやら家族も同行させて、ジェノスで一緒に復活祭を迎えようっていう計画みたいだね」
「ふーん」と、ディアルは目を細めた。
「それじゃあきっとあのお人たちも、アスタたちと一緒に新年を迎えようって考えなんだろうね」
「いや、それはどうだかわからないけど……」
「もー!」と、ディアルは小さく地団駄を踏んだ。
「いいもんねー! 僕はリフレイアたちと、新年を迎えるから! 悔しくなんかないもんねーだ!」
「ディアル様。あまり騒がしくすると、無用に人目をひいてしまいます」
ひっそりと立ち尽くしたラービスが、背後からディアルに囁きかける。宿場町には人相の悪い人間の数が増えてきたので、ラービスは普段よりもいっそう気を引き締めている様子であった。
「お前とて、バランたちとは祝宴をともにした仲であろうが? ともに新年を迎えることは難しくとも、復活祭の間に時間を作ることはできんのか?」
と、こちらの護衛役たるアイ=ファが声を投げかけると、ディアルは難しげな面持ちで「うーん」と首をひねった。
「この時期は城下町にも色んな連中がやってくるから、商売の手を広げる好機なんだよねー。今日だって、なんとかかんとか時間を作って、ここまで出てきたんだしさ」
「そうか。1日ぐらいは、なんとかならんのか?」
「1日ぐらいって? なんか特別な日でもあるの?」
「ルウ家では、またバランたちを晩餐に招きたいという話があがっているそうだ。最長老のジバ婆は、異国の話を聞くことを好んでいるからな」
「えー!」と、ディアルが再び大きな声をあげる。
そして、その翡翠を思わせるエメラルドグリーンの瞳が、じっとりと俺をにらみつけてきた。
「……どうしてアスタは、そんな大事なことを僕に黙ってたの?」
「いや、あのまま会話を続けていたら、きっと話に出してたと思うよ。でもまあ、この時期のディアルが忙しいってことは、俺もわきまえてたから……」
「もー!」と、ディアルは再び地団駄を踏んだ。
左右の屋台に並んでいた人々はうろんげに振り返り、ラービスは深々と溜め息をつく。
「もういいよ! バランたちが来たら、僕にも連絡をよこしてよね! なんとか日程の都合をつけてみせるから!」
「待て。バランたちを招くのは、ルウ家であるのだ。ともに招かれたいと願うなら、ルウの人間と話をつけるがいい」
「わかった! ありがとうね、アイ=ファ! ラービス、料理は受け取っておいてね!」
ディアルは肩を怒らせながら、ルウ家の屋台へと足を向ける。ラービスは反射的にそちらを追いかけようとしたが、こちらの屋台にも行列ができていたので、この場を離れたら順番を後回しにしなければならなかった。
「案ずるな。この屋台のそばで何かあれば、我々がどうにかする。料理ができあがってから、あの粗忽な主人のもとに向かってやれ」
ラービスは口をへの字にしながら、アイ=ファに向きなおった。
「そのお言葉は、ありがたく思いますが……ディアル様は、粗忽ではありません。ただ、感情を抑えるのが不得手であるだけなのです」
「それを、粗忽というのではないだろうか? ……いや、自分の主人を粗忽と言われては腹も立とう。こちらの考えが足りていなかったことを、詫びさせてもらう」
「詫びるぐらいであれば、粗忽という言葉を取り消していただきたいのですが」
「それは真情であるので、取り消すことはできん。ただ、お前に聞かせるべき言葉ではなかったと考えている」
アイ=ファもラービスも真面目くさった顔つきで言葉を交わしているのが、俺には何だか可笑しかった。
ともあれ、これも復活祭のもたらした賑わいのひとつであろう。ディアルがいつも以上に直情的であるように感じられるのも、もしかしたら宿場町に満ちた熱気にあてられた結果なのかもしれなかった。
しばらくしたら、バランのおやっさんたちがやってくる。リコたちや、《ギャムレイの一座》だってやってくるはずだ。そうしたら、さらなる賑わいを体感できることだろう。復活祭を目前にして、俺はいよいよ期待に胸をふくらませることになった。
◇
そうして訪れた、紫の月の18日である。
《銀の壺》がジェノスにやってきてから、4日目のことだ。
その日、屋台の商売を終えた俺たちは、普段通りに下ごしらえと勉強会を済ませてから、城下町に向かうことになった。
フェルメスから招待された、晩餐会である。
フェルメスいわく、「個人的に親睦を深めるための晩餐会」だ。
話し合いの末、それに招待される人間は、俺、アイ=ファ、ガズラン=ルティム、レイナ=ルウ、ゲオル=ザザ、トゥール=ディンという顔ぶれに決定されていた。
特筆すべきは、やはりそこにサウティ家が含まれていないことであろうか。
これはあくまで非公式の晩餐会であるので、人数はなるべく少人数に抑え、族長もしくは名代も1名で十分、という話に落ち着いたのだ。
それにゲオル=ザザが選出されたのは、消去法による結果であった。
ゲオル=ザザを除く5名に関しては、城下町の側からの指名であったのだ。
俺とアイ=ファとガズラン=ルティムを指名したのは、もちろんフェルメスである。
ルウ家の女衆とトゥール=ディンを指名したのは、エウリフィアであった。
「森辺の民をジェノス城に招待するのであれば、ルウ家の女性のどなたかとトゥール=ディンに、ダイアの料理を味わってもらうべきじゃないかしら?」
6氏族の収穫祭において、このたびの話を聞きつけたエウリフィアが、そのように提案してきたのである。
もちろんこれは、俺たちの心情を汲み取った上での発言であったのだろう。森辺のかまど番の間で、すでにダイアの存在は語り草となっていたのだ。
そうしてルウ家からはレイナ=ルウが名乗りをあげて、5名のメンバーが決定されることになった。
そうすると、ガズラン=ルティムとレイナ=ルウは血族のペアとなる。ならば、トゥール=ディンのペアに相応しいのはザザの血族であろうということで、族長代理たるゲオル=ザザが選出されたわけであった。
「それにしても、よくわからん話だな。けっきょくあやつは、アスタと語らいたいだけなのではないのか?」
その日の夕刻、城門で立派なトトス車に乗り換えて、いざジェノス城に向かう道行きで、ゲオル=ザザはそのように述べていた。
彼は早朝にザザの集落を出て、中天からディンの狩り場で仕事を果たしたのち、こうして俺たちと合流する運びとなった。晩餐会の後はディン家で夜を明かし、明日の早朝にザザの集落へと帰還するのだそうだ。休息の日には宿場町に下りる計画を立てていたので、今日は狩人の仕事を休むわけにもいかなかったのだろう。
「でも、フェルメスは森辺の民にも強い興味を抱いているようですよ。そうだからこそ、ガズラン=ルティムを指名したのでしょうしね」
そんな風に答えてから、俺は言葉をつけ加えた。
「それに、ゲオル=ザザもけっこうフェルメスと忌憚なく言葉を交わしていますよね。俺としても、ゲオル=ザザの存在は心強いですよ」
「ふん。相手が誰であれ、こちらが言葉を飾る理由などないからな。俺は俺の好きなように振る舞っているだけだ」
肉厚の肩をすくめてから、ゲオル=ザザはガズラン=ルティムを振り返った。
「どうせあいつは、また何やかんやとややこしい話をふっかけてくるのだろう。そのときは、せいぜいお前が相手をしてやるといい」
ガズラン=ルティムは「ええ」としか答えなかった。
何か、自分だけの思案に沈んでいるように見えなくもない。フェルメスがどういった心情でこのような会を企画したのか、それを考えているのだろうか。
しかし俺は、前向きな気持ちを保持していた。
フェルメスというのは、どれだけ時間をともにしても、なかなか理解が進まない相手であるのだ。これが個人的に親睦を深めるための集まりだというのなら、思うぞんぶん親睦を深めさせていただきたいところであった。
「その点、お前は気楽だな。ダイアとかいうかまど番の料理を味わえる上に、またオディフィアとも顔をあわせられるのだから、何の不満もありはしまい?」
ゲオル=ザザが笑いを含んだ目で見やると、トゥール=ディンは恐縮しきった様子で眉を下げた。
「も、申し訳ありません。決して、浮かれているわけではないのですが……」
「何も詫びる必要はない。大切な友と絆を深められるなら、喜ばしく思うのが当然であろうよ」
ゲオル=ザザはにやりと笑ってから、いくぶん表情をあらためて下顎を撫でさすった。
「俺たちも、あの外交官めと絆を深められれば、幸いであるのだがな。なかなか難しいところだ」
「や、やはり難しいのですか?」
「うむ。たとえ貴族であろうとも、心安く思える人間はいなくもない。しかし、あのフェルメスという男は……貴族という肩書きなど関係なく、つかみどころのないやつだからな」
「ゲオル=ザザも、貴族の中に心安く思える相手を見出すことがかなったのですか?」
物思いに沈んでいたガズラン=ルティムが、ふっと面を上げて問いかける。
ゲオル=ザザは「うむ?」とそちらに向きなおった。
「それはまあ、これだけ顔を突き合わせていればな。友と呼ぶには、まだ早かろうが……」
「それは、どの貴族のことであるのでしょう?」
「なんだ、急に元気になりおって。……メルフリードやエウリフィアや、あとはレイリスあたりだな。何か文句でもあるのか?」
「いえ。ゲオル=ザザがそのような心情に至ったことを、とても嬉しく思います」
そう言って、ガズラン=ルティムはにこりと微笑んだ。
ゲオル=ザザは「ふん」と鼻を鳴らしながら、右眉の古傷を掻いている。何か、照れ臭く感じているのだろうか。
「私は族長の供として、ふた月にいっぺんはメルフリードやポルアースと顔をあわせています。貴族を友と呼ぶのはおこがましいのでしょうが、その両名にはそれに近い気持ちを抱くことがかないました。……レイナ=ルウは、如何ですか?」
「わたしですか? わたしはあまり、貴族と顔をあわせる機会もなかったので……宿場町の民や城下町の料理人ほど、心安く思える人間はできていません。ただ、ポルアースというのは信頼できる相手だと思いますし、言葉を交わすのを楽しく感じます」
「なるほど。アイ=ファは如何です?」
「うむ……心安いとまで思えるのは、やはりポルアースぐらいであろうな。しかし、メルフリードに関しては、好ましく思っている。あやつは、正しき心と強靭な意志をあわせ持った人間であろう」
そんな風に答えてから、アイ=ファは空中に視線をさまよわせた。
「それに……レイリスというのも、誠実な人間であろうな。エウリフィアも、ただ明朗なだけでなく、情が深くて道理のわかっている人間であるように思える」
「そうですか。では、アスタは?」
「俺もアイ=ファと同意見ですね。つけ加えるとしたら、リフレイアはけっこう心安く語らうことができますし、トルストにも心をひかれたりします」
「トルスト?」と、ゲオル=ザザがけげんそうに眉をひそめた。おそらく、あまり聞き覚えのない名前であったのだろう。
「トルストは、リフレイアの後見人です。トゥラン伯爵家を立て直した功労者ですし、俺もそれほど顔をあわせたことはないのですが、とても誠実な人だと思います」
そのように答えてから、俺は記憶をまさぐった。
「あと……ポルアースの母君であるリッティアや、伴侶であるメリムなども、素敵なご婦人がたですね。あちらも森辺の民に好意を抱いてくれているように感じますし。サトゥラス伯爵家の人々とはあまりご縁がありませんでしたが、ルイドロスやリーハイムとももっと絆を深められればな、と思っています」
「そうですね。貴族にも、好ましく思える人間はたくさんいるように思います。ですから、やはり……重要なのは、肩書きではないのでしょう」
そう言って、ガズラン=ルティムは再び目を伏せてしまった。
それを横目で見やりながら、ゲオル=ザザが「ふふん」と笑う。
「察するに、ガズラン=ルティムもあの外交官めを持て余しているということだな」
「持て余している……そうですね。あの人物と正しき絆を紡ぐために、自分にはいったい何ができるのかと、いささか疑わしく思ってしまっています」
「何も気に病む必要はなかろうよ。この世のすべての人間を友と思うことなど、できはしないのだ。友にはなれずとも、敵にならなければ問題はあるまい」
「敵になるような人間であれば、いずれはリフレイアのように友となることもできるでしょう。しかし、フェルメスは――」
と、ガズラン=ルティムはそこで静かに首を振った。
「……いえ、なんでもありません。私の了見でフェルメスのすべてを決めつけるのは危ういことでしょう」
「ふん。お前はいささか、頭を使いすぎだな。俺たちは、自らの心に従っていればいいのだ」
そんな会話をしているうちに、トトス車が停止した。
後部の扉が開かれて、案内役たる武官の声が響きわたる。
「お待たせいたしました。ジェノス城に到着です」
まずは族長代理として、ゲオル=ザザがトゥール=ディンとともに歩を進める。
ガズラン=ルティムとレイナ=ルウがそれに続き、しんがりは俺とアイ=ファだ。
そうして、灰色の石畳に降り立ってみると――ついに、ジェノス城の威容が俺たちの前に立ちはだかった。
つい先日、城下町を探訪した際、ガズラン=ルティムとレイナ=ルウはジェノス城の外観のみを見物したらしい。
しかしそれ以外の人間にとっては、正真正銘、初めてのジェノス城であった。
当然のこと、石造りの建造物である。
城下町の家屋は煉瓦造りのものが多かったが、これはきっと天然石を切り出してこしらえたものであるのだろう。わずかに灰色がかった白い石造りで、いかにも堅牢なる様相であった。
俺がイメージするドイツなんかの古城と、それほど掛け離れた姿ではない。それにちょっと、アラビア風のエッセンスを加えた感じであろうか。
左右に背の高い円塔があり、真ん中にはたくさん窓のついた四角い城郭が鎮座ましましている。その入り口は、20段ばかりの幅広い階段の果てに存在するようだった。
ふっと背後を振り返ってみると、そこには城壁が張り巡らされており、巨大な城門はぱっくりと口を開けている。
が、それはいま、俺たちの目の前で閉ざされつつあるさなかであった。
日中でも、城門は閉ざされているものであるらしい。他国との戦を心配する必要がないこのジェノスでも、やはり領主の住居ともなれば厳重なる警護に置かれているのだろう。
「それでは、こちらにどうぞ」
案内役の武官が、石の階段をのぼっていく。
5メートルぐらいの幅を持つその階段をのぼりきると、両開きの巨大な扉が待ちかまえており、その左右には4名ずつの守衛がずらりと立ち並んでいた。
「こちらで刀を預からせていただきます」
守衛の言葉に応じて、アイ=ファたちは刀を差し出した。
今日は森辺の狩人たちも、護衛役ではなく客人であるのだ。
なおかつ、丸腰の際に襲われても、敵から武器を奪い取ればいい、という心情でいる森辺の狩人たちは、刀を手放すことを躊躇ったりはしなかった。
しかるのちに、扉が左右から開かれる。
そこで待ち受けていたのは、侍女と小姓の団体であった。
「お待ちしておりました。ここからは、わたくしどもがご案内させていただきます」
その中で、年配の女性がしずしずと進み出てくる。
森辺の民を前にして、心を乱している様子はない。実に和やかで、そしてお行儀のいい面持ちであった。
「まずは浴堂にて身を清めていただき、そののちにお召し替えをお願いいたします」
それは事前に聞かされていたので、誰も文句の声をあげようとはしなかった。
葡萄酒色の絨毯が敷きつめられた回廊を右手に進み、その突き当たりが、浴堂であった。手前が男性用、奥が女性用であるそうだ。
この顔ぶれであれば、みんな浴堂もお馴染みである。俺たちは小姓や侍女の手をわずらわせることなく、身を清めることができた。
そして、お召し替えタイムである。
これもまた、今日の顔ぶれであれば未体験の人間もいない。意外というか何というか、もっとも馴染みが薄いのはレイナ=ルウであったが、それでもひとたびは舞踏会の料理番として、調理着に着替えさせられた経験があるはずであった。
「それでは、失礼いたします」
下帯ひとつを身につけた俺とガズラン=ルティムとゲオル=ザザに、小姓たちが見慣れぬ装束を着せていく。これはここ数日でフェルメスたちが準備してくれた装束であった。
今日の顔ぶれでレイナ=ルウを除く5名は、これまでに着衣の寸法を採寸されている。それを頼りに、市販の装束を準備してくれたのだそうだ。
きっと貴族というものは、オーダーメイドで装束をこしらえるものであるのだろう。俺たちも、ダレイム伯爵家の舞踏会においては、そうやって新たな装束をプレゼントされることになったのである。
しかしこのたびは、晩餐会の立案から決行まで数日しか期間がなかったので、ありあわせの装束を着させられることになったのだ。
だけどもちろん、森辺の民はそのようなものに頓着する習わしは持っていなかったので、貴族の言いつけに従うばかりであった。
(俺やゲオル=ザザなんかは、舞踏会の装束でよかったのにな。あれっきり、袖を通す機会もなかったわけだし)
俺はそのようにも考えたが、声に出して反論するほどのことではなかった。
というわけで、お召し替えも完了である。
本日準備されたのは、前回の装束よりもこざっぱりとした、それでいてやっぱり上質の絹仕立ての装束であった。
ポルアースやトルストやフェルメスなどが好んで着ている長衣ではなく、ジャガル風の、すっきりとした胴衣および脚衣である。
象牙色をした襟つきのシャツに、カラフルなベストを重ねているような格好で、華美なことはまったくない。これだったら、城下町の商店区を徘徊していてもおかしくないぐらいであろう。舞踏会の装束よりも、かなり大人しめのデザインだ。
しかし、俺はともかくとして、ガズラン=ルティムとゲオル=ザザの凛々しさはなかなかのものであった。
両名ともに長身であるし、これ以上ないぐらい鍛え抜かれた身体をしている。これだけ立派な体格をしていれば、どのような装束でもさまになってしまうものであるのだろう。とりわけ人並み外れた風格と知的な雰囲気を有するガズラン=ルティムなどは、貴族があえて質素な格好をしているかのようなたたずまいであった。
「ふん。さすがに仮面舞踏会のときほど、面白みはないな」
ゲオル=ザザは、大した感慨もなさそうにそう述べていた。
こちらはこちらで、ギバのかぶりものを外すと、意外に年齢相応の顔があらわになって、印象が大きく変化する。ついつい忘れがちであるが、彼は俺よりも2歳ほど年少なのである。
「それでは、控えの間にご案内いたします。そちらでしばらくおくつろぎください」
小姓の案内で、俺たちは向かいの部屋に通された。
やはりこのたびも、女性陣のほうがお召し替えに時間がかかるらしい。6帖ほどのその部屋は、無人であった。
「今日は祝宴でなく、ともに晩餐を喰らうというだけの話であるのに、わざわざ着替えまでさせられるとはな。まったく貴族の習わしというのは、面倒なものだ」
長椅子にどかりと座り込んだゲオル=ザザは、部屋の隅に立ち尽くす小姓の耳を気にするでもなく、そのように言い放った。
立ったまま室内を物色していた俺は、「そうですね」とまずは賛同してみせる。
「でも確かに、商人であるディアルという娘さんも、貴族と会食する際には立派な衣装を身に纏っていました。これが城下町の習わしなのでしょうね」
「ふん。まあ、森辺の祝宴においては貴族たちもこちらの習わしに従っていたのだから、俺たちばかりが文句をつけるわけにもいかぬのだろうな」
ゲオル=ザザは舞踏会と仮面舞踏会の両方を経験しているので、だいぶん免疫がついているのだろう。否定的な言動があっても、おおよそは軽口の類いであるのだ。
すると、俺と同じように視線を巡らせていたガズラン=ルティムが、小姓のほうを振り返った。
「あの、あちらには何が隠されているのでしょうか?」
ガズラン=ルティムが指し示しているのは、部屋の奥に設置された屏風のような調度であった。よく見ると、それは板状の何かに豪奢な織物が掛けられていたのだ。
「はい。そちらは、姿見でございます。髪や装束に不備がないか、ご自分で確認するための道具となります」
楚々とした足取りでそちらに近づいた小姓が、織物を取り払った。
それと同時に、ゲオル=ザザがぎょっとした様子で腰を浮かせる。
「な、何だそれは? 水面のように、こちらの姿を映しているのか?」
「はい。シムから買いつけた、歴史ある姿見であると聞いております」
俺たちは、3人そろってそちらに歩を進めることになった。
俺もこの地に鏡が存在することはわきまえていたが、そういえばわざわざ間近で確認しようと考えたことはなかったのだ。
いっぽう、ガズラン=ルティムとゲオル=ザザは完全に初見であったらしい。ゲオル=ザザなどは、好奇心に目を輝かせて、鏡に映る自分の顔を覗き込んでいた。
「水面などとは比べ物にならないぐらい、明瞭だな! こいつはなかなか、愉快だぞ!」
「そうですね。これほどはっきりと自分の顔を目にしたのは、きっと初めてのことでしょう」
それはとても大きな姿見であったので、3人が同時に自分の顔を覗き込むことができた。
俺にしても、こんなにしっかりと自分の顔を確認したのは、ずいぶんひさびさのことである。
それで俺は、小さからぬ驚きにとらわれることになった。
水浴びの際などで、俺は毎日水面に映る自分の顔を目にしている。
しかしそれでは見て取ることのできなかった顔貌の変化が、そこにはくっきりと映し出されていたのだ。
俺の顔は、ずいぶん日に焼けていた。
小麦色、というほどではないが、故郷でも厨房にこもっていることの多かった俺は、けっこう色白の部類であったのだ。森辺にやってきた当初、あちこちの人々から「生白い異国人」と呼ばれた所以である。
そんな俺が、なかなか健康的な色合いになっていた。
もちろん普段から手や足の焼け具合は目にしていたので、驚くほどのことではない。しかしそれでも、小さからぬ変化であることに違いはないだろう。
それに、顔つきもいささか変わっている。
俺はこんなに、引き締まった顔をしていただろうか?
日焼けの効果もあるのだろうが、そこに映る俺の顔は、俺の記憶よりも3割増しで、精悍になっているように感じられた。
頬の肉がわずかに落ち、下顎のラインが、ほんのちょっぴりがっしりしたような感じがする。もともと髭は薄いタチで、そんなものは生えるそばから引き抜いていたので、顔中がつるんとしていることに変わりはないが、それでも――俺はもっと、ふにゃんとした顔であったはずだ。
それにやっぱり、目の光である。
黒い瞳が、とても強く、とても明るくきらめいている。
狩人の眼光とは比べるべくもないが、しかしそれでも、俺はこんなに目ヂカラのある人間ではないはずだった。
「ふふん。まあ、森辺にはこのようなものなど必要なかろうが、なかなか愉快な見世物であったな」
ゲオル=ザザが長椅子へと舞い戻り、ガズラン=ルティムも身を引いたので、俺は姿見を独占することができた。
少し距離を取ると、全身を映し出すことができる。
それで俺は、もうひとたび感慨を噛みしめることになった。
変わったのは、顔ばかりではない。
俺ははっきりと、この地で成長を果たしていたのだった。
(俺が森辺にやってきて、もうすぐ1年と7ヶ月……しかも今年は閏月があったから、それを考えると20ヶ月が経つってことなんだよな)
その20ヶ月で、俺は17歳から18歳になった。
そうしてあと5ヶ月もすれば、19歳になる。
ならば、これぐらいの成長は標準の枠内であるのだろうか。
どうにも実感がわかないが、おそらく身長ものびている。
アイ=ファとの比較で、1センチか2センチぐらいはのびているのだろうなとは考えていたが、もしかしたらアイ=ファも一緒に成長していたのかもしれない。感覚的に、3、4センチは大きくなっているように感じられてならなかった。
それともそれは、体格が変わったせいなのだろうか。
森辺で生活するうちに、俺の身体からは無駄肉というものが削ぎ落とされることになった。そして、毎日の労働によって、それなりの筋肉がついたように思われる。もともと骨は太いほうではないので、これでも細身の部類であろうが、それでもやっぱり以前の俺よりは格段に逞しくなったように感じられた。
俺が知っている俺よりも、ほんの少しだけ肩幅が広い。
俺が知っている俺よりも、ほんの少しだけ胸板が厚い。
俺が知っている俺よりも、ほんの少しだけ腰が引き締まっている。
俺が知っている俺よりも、ほんの少しだけ背が高い。
そうしたほんの少しの積み重ねによって、俺はずいぶん印象が変わっていたのだった。
(……アイ=ファの目に、俺はこんな風に映ってたのか)
そのとき、控えの間の扉が外から叩かれた。
女衆のお召し替えが完了したのだ。
「お待たせいたしました。お連れ様をご案内いたします」
年配の侍女の先導で、アイ=ファたちが入室してくる。
その姿に、俺はやっぱり胸を高鳴らせることになってしまった。
「うむ。トゥール=ディンも、やはり以前ほど愉快な姿ではないようだな」
ゲオル=ザザが陽気な声をあげると、トゥール=ディンは気恥ずかしそうに微笑んだ。
トゥール=ディンは、ちょっと瀟洒なワンピースと呼びたくなるようないでたちであった。ノースリーブで、すねの半分ぐらいまでを隠す丈であり、裾には控えめにフリルがそよいでいる。涼しげなライトブルーの色合いが、トゥール=ディンにはよく似合っていた。なおかつその胸もとには、森辺から持参した飾り物――オディフィアからプレゼントされた銀の首飾りがきらめいている。
それに続いたレイナ=ルウは、もうちょっと装飾の多いデザインである。
やはりそれほど華美ではないものの、ちょっとしたドレスぐらいの華やかさはある。それにやっぱりジェノスの城下町の流行であるのか、かつての舞踏会で準備されていた宴衣装と同じように、おもいきり襟ぐりが空いており、レイナ=ルウの卓越したプロポーションを際立たせていた。
装束の色はライトイエローであり、首と手首には銀の飾り物がきらめいている。トゥール=ディンはおさげのままであったが、レイナ=ルウの黒髪は祝宴のときと同じように、自然に垂らされていた。
そして、アイ=ファである。
アイ=ファもまた、レイナ=ルウと同じような装束を着させられていた。
その色合いは、深みのある赤である。以前のライトブルーの宴衣装もアイ=ファにはばっちり似合っていたが、この赤いママリア酒のような色彩も、アイ=ファにはとてつもなく似合っていた。
やっぱり胸もとはけっこう際どい部分まで空いており、綺麗な鎖骨や肩のラインなどもほとんど剥き出しにされている。
とはいえ、森辺の装束のほうが、よほど露出度は高いはずであるのだが――布面積が大きいぶん、露出した部分の艶めかしさが増大してしまうようである。
上半身はぴったりと吸い付くようなデザインで、腰から下はふわりと裾が広がっている。レイナ=ルウと同じように、自然に垂らされた金褐色の髪が、またこの上なく赤い装束に映えていた。
そしてその胸もとに光るのは、俺が贈った青い石の首飾りである。
アイ=ファは事前に話を通して、これまでの舞踏会と同じように、城下町仕様の飾りを準備してもらっていたのだ。もともとの革紐に銀色の鎖が巻きつけられて、城下町の装束に似合うようにカスタマイズされている。
さらにアイ=ファのこめかみには、俺が贈った透明の石の花飾りも装着されていた。
そんなことは一言も言っていなかったのに、アイ=ファもわざわざ家から持参してきていたのだ。
舞踏会や仮面舞踏会のときよりは、つつましい姿である。
だけど俺には、この日のアイ=ファがもっとも魅力的に感じられた。
というか――たぶん俺は、アイ=ファを見るたびにそう思うように出来上がってしまっているのだろう。きっとアイ=ファが舞踏会や仮面舞踏会のときの装束を再び身に着けたら、それこそがもっとも魅力的だと判じてしまいそうだった。
「……何を呆けているのだ、お前は?」
と、凛然とした面持ちで近づいてきたアイ=ファが、俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、まあ、アイ=ファの見慣れない姿を目にすると、ついついこうなっちゃうんだよ。……よく似合ってると思うぞ」
「ふん。以前の舞踏会の装束ほどは胴体を締めつけられていないので、その一点だけは満足している」
相変わらず、自分の美しさには頓着しないアイ=ファであった。
そこで俺は、悪戯心というか、自分の驚嘆を共感してもらいたくなって、背後の姿見を指し示すことになった。
「この姿見っていうやつは、自分の姿をくっきりと映し出してくれるんだ。アイ=ファはあんまり興味ないだろうけど、ちょっと確認してみたらどうだ?」
「自分の姿を、くっきり映し出す? そのような真似をして、いったい何が――」
と、何気なく姿見を覗き込んだアイ=ファは、途中で口をつぐんでしまった。
そうして自分の顔をぺたぺたとまさぐると、いくぶん眉を下げながら、俺のほうを振り返ってくる。
「これが……私の姿なのか?」
「うん。なかなか見違えただろう?」
「見違えるも何も、これまで自分の姿など気にしたこともなかったが……」
と、アイ=ファは俺を押しのけて、姿見の前に立ちはだかった。
姿見は大きいので、俺の姿もまだいくらかは映し出されている。アイ=ファと一緒に並んだ姿を目にするのは、なかなかに気恥ずかしくて、なかなかに幸せな心地であった。
「どうしたんだよ? ずいぶんけげんそうなお顔だな」
「うむ……わたしは、このような姿をしているのだな」
鏡の中で、アイ=ファはなんとも複雑そうな顔をしていた。
そしてその顔が、同じ表情をたたえたまま、俺のほうを振り返ってくる。
「あくまで、首から上の話であるが……わたしの顔は、ずいぶん母親に似ているようだ」
「ああ、そうなのか。そういえば、ずっと昔に誰かもそんな風に言ってたような気がするな」
それはたしか、ドンダ=ルウであっただろうか。たしかリミ=ルウやジバ婆さんは、アイ=ファの母親と顔をあわせたことがないはずであるのだ。
「アイ=ファの親父さんは、たしか黒髪だったよな。それじゃあお母さんのほうが、金褐色の髪だったのか?」
「うむ……それにしても、こうまで母メイと似ているなどとは考えたこともなかった。私はきっと、父ギルに似た風貌であるのだろうと思っていたのだ」
そうしてアイ=ファはわずかにうつむくと、俺のことを上目づかいに見つめてきた。
「……お前の目に、私の姿はこのように映っていたのだな」
心臓が熱く高鳴るのを感じながら、俺は「うん」とうなずいてみせた。
「俺もさっき、ちょうど同じようなことを考えたよ」
俺の身体が盾になっているのをいいことに、アイ=ファはちょっともじもじしているように見えた。
その姿はあまりに可憐であり、俺の魂をわしづかみにしてやまなかったのだった。