~箸休め~ 短編 ミゾラの赤い花
外伝の、短編です。
アスタが登場しないため、コメディ要素も、料理の要素もありません。
未読でも本編には支障はありませんので、ご興味のある方のみお楽しみいただければ幸いであります。
2014.9/19 更新分 3/3
少年が、森の中を駆けていた。
年の頃は10歳ほど。黄褐色の短い髪と、色の淡い茶色の瞳をした、ちょっと小柄な少年であった。
その幼い顔には焦燥と緊張の色が濃く、足取りも乱れがちである。
そして、その指先には大人の手の平ほどもある大きな赤い花が握られていた。
こんなはずじゃなかった――と、少年は朦朧となった頭で考える。
こんな森の奥深くにまで足を踏み込むつもりでは、なかったのだ。
森には、毎日入っている。
香草を摘んだり、薪を集めたり、家人としての仕事を果たしている。
しかし、集落に近い森の端であるならば、危険は少ない。
彼のように小さな子どもや、老人や、女衆でも、森の端で危険に見舞われることは、ほとんどない。
だけどここは――緑が深すぎた。
太陽の位置がわからない。
自分がどこを彷徨っているのか、すでに少年にはわからなくなってしまっている。
彼は、川ぞいを歩いていただけなのだ。
この大きくて赤くて立派なミゾラの花が咲くのは水辺だけだと聞き、川ぞいを散策していただけなのだ。
しかし、行けども行けども川べりには見覚えのあるピコの葉しか生えていなかった。
ついでだからとその葉を摘みつつ、どんどん川をさかのぼっていくうちに――ついにはこんな森の奥深くにまで足を踏み入れてしまったのだ。
やがてあたりは黄色っぽい岩場が目立つようになり、これはもう駄目かなと引き返そうとしたとき、赤い色彩を発見した。
何だ、こいつは岩場に咲く花だったのかと、喜び勇んで摘み取った。
そのとき――背後の茂みが、がさりと鳴った。
何か、巨大な獣が蠢く気配がした。
まさか……ギバか?
そう考えただけで気の狂いそうになるほどの恐怖に見舞われて、少年は駆け出した。
その際にピコの葉は全部岩場にぶちまけてしまい、赤い花だけが手もとに残った。
こんな川べりでは、姿が丸見えだ。
そう思って、森の中に飛び込んだ。
少年を追う獣の正体もわからないのだから、岩場に留まるべきか森に身を投じるべきかを判断する材料もなかったのだが。そんなことを考えるゆとりさえなく、少年は森に飛び込んだ。
そして、走っている。
森の中を、走っている。
方向も何もわからないまま、ただ背中にへばりついた恐怖感から逃げまどうようにして、走っている。
ときどき、蔓草や木の根に足を取られて、転倒した。
そのたびに、背後の茂みがガサリと鳴る気がした。
それで新たな恐怖心を喚起され、また走る。
走っても走っても、森の終わりは見えてこなかった。
もしかしたら、自分は森の奥深くへとどんどん踏み込んでいってしまっているのだろうか?
そんな想念も頭をかすめたが、足を止めることはできなかった。
フッ、フッ、フッ……という獣の息遣いが聞こえる気がする。
風の流れがふっと変わると、けだものの臭いが鼻を汚す、気がする。
わからない。
幼い少年は、まだこの森についてほんの少しのことしか知らされていないのだ。
森の奥には、決して踏み込むな。
そこは狩人の領域だ。
ギバや、ムントや、ギーズなどといった獣たちが支配する、そこは人外の世界なのだ。
我が身を森の一部と化し、獣を狩る狩人としての作法を学ぶまで、決して森の奥には足を踏み込むな――
さんざん父親から聞かされていた言いつけを、ついに破ってしまった。
きっとその報いなのだ、これは。
自分はギバに突き殺され、死骸をムントにあさられるのだろうか。
そんな風に考えたら、ただでさえドクドクと脈打っている心臓が破裂しそうになった。
涙があふれてきそうになった。
しかし、涙と嗚咽をこらえて、少年は走り続ける。
自分もいつか、狩人になるのだ。
あともう少し背が伸びて、父親や兄たちのように刀を奮えるようになったら、自分もギバを狩る狩人になれるのだ。
その前に、死にたくない。
こんなところで子どものまま死んでしまったら、何のために生まれてきたのかわからない。
女衆を手伝って、香草を摘み、薪を集め、毛皮をなめし、かまどを焚いて――それで森に召されてしまったら、男衆として生まれてきた甲斐もなくなってしまうではないか。
そんな思いだけを胸に、まだ幼い心の片隅にほんの少しだけ芽生えたばかりの、誇りの欠片だけをよすがに、少年は走り続けた。
そして――終わりは唐突に訪れた。
おそらくは、ギーズの巣穴か何かを踏みぬいてしまったのだろう。地面に着いた足を柔らかい土にからめ取られて、頭から茂みに突っ込んでしまったのだ。
鋭い枝葉が、バリバリと顔や腕の皮膚を傷つけていく。
ひねってしまった左の足首に、熱い激痛が爆発する。
それでも少年は悲鳴もあげずに、ただ唇を噛みしめて自分の左足を抱えこんだ。
そこに、ガサリと草を踏む音がする。
獣の息遣い。
獣の臭い。
獣の――殺気。
もう駄目だ。
少年はついに諦めて、すべてを拒絶するように、ぎゅっと目をつぶった。
やっぱり言いつけを破った罰なのだ、これは。
森は恵みをもたらす母であり、それと同時に生命を脅かす、敵だ。
そんな風に言って笑う父親の魁偉な顔が、脳裏を通り過ぎていく。
あんたは無茶をするからねえ。きちんと働いてればきちんと大きくなるんだから、何の心配もいらないよ。
そんな風に言って笑う母親の優しげな顔が、脳裏を通り過ぎていく。
その他の家族の姿も浮かんでは消え、消えてはまた浮かび、そして最後に――3年前に生まれたばかりの末妹の顔が、浮かんだ。
(……死にたくないっ!)
もっと生きたい。家族とともに森に在りたい。父や兄たちのように立派な狩人になって、家族を守りたい。家族を守って、そして――その末に、死にたい。
そんな、焦げつくような想念にとらわれながら、しかし少年には身体を丸めて目をつぶり、迫り来る死の恐怖から顔をそむけることしかできなかった。
その耳に――
ギャワッ、という奇怪なうめき声が飛びこんでくる。
どさりと柔らかいものが草の上に落ち。
鉄臭い、獣の血の匂いがあたりに広がっていく。
「大丈夫か、ルド?」
いつも冷静な、兄の声。
おそるおそる目を開けると――長兄のジザが、自分のすぐそばに膝をついていた。
しかし、その腰の刀は抜かれていない。
半ば無意識に、うめき声があがった方向に目をやると。
そこには、次兄ダルムの背中が見えた。
さらに、その足もとに見えたのは――薄い茶色の塊みたいな、さほど大きくもない獣の死骸。
頭を、叩き割られている。
細い手足と、丸く膨れた胴体と、のっぺりとした薄茶色の毛皮。
それは、腐肉喰らいムントの死骸だった。
「こんなところで何をやっているのだ、お前は。もう少し奥まで踏み込んでいたら、ギバの縄張りだぞ」
18歳になったばかりの長兄が、糸のように細い目で、少年――ルドの顔を覗きこんでくる。
ジザは、ものすごく怒っている。
これまで必死に耐えてきた涙が、思わずあふれそうになってしまった。
それでもルドは、ぐっとこらえる。
「お前がいつまでも帰ってこないとティト・ミン婆が心配していたから、探しに来たのだ。……答えろ。何のために、こんな森の深くにまで足を踏み込んだのだ、お前は」
「花を……花を探していたら、つい夢中になって……」
「花」とジザがルドの手もとに顔を向ける。
ミゾラの花は、奇跡的に1枚の花弁を散らすこともなく、ルドの右手に握られたままだった。
「そんなもののために、お前は家長の言いつけを破ったのか」
「だって……」
「家長の言いつけは絶対だ。森の掟は、森の民を守るために定められているのだ。それを守れない者に、狩人になる資格はない」
どうしてジザは、こんなに頑ななのだろう。
どうしてジザは、こんなに自分の正しさを疑わずにいられるのだろう。
森辺の掟なんて、今ではその半分以上が守られていないし、それで困っている人間もいない。それなのに、ジザはすべての掟を守りぬこうとしている。父親のドンダよりも強烈に、それらを守りぬくことが正しいのだと信じきっている。
ルドには、その理由がわからない。
その意味もわからない。
だけど。
今日ばかりは、悪いのはルドのほうだった。
だからルドは、ついにまぶたの裏側からにじんできてしまった涙を瞳にためながら、「ごめんなさい」と言った。
次兄のダルムが、ルドたちを振り返る。
ダルムも、ものすごく怒っている。
ダルムは去年狩人になったばかりの14歳だが、すでにルドよりも頭一つ分以上も大きくなってしまい、まだ腕や足は細かったが、すでに狩人の目つきをしていた。
その強い光を持つ目が、ルドをじっとにらみつけている。
ジザよりは、怖くない。
だけど、ものすごく怒っているのは、わかる。
やがてダルムは刀についていたムントの血を振り払うと、それを革鞘に収めながら、無言でルドに近づいてきた。
そして。
音がするぐらい、したたかにルドの頭を殴りつけてきた。
「……家族に心配をかけるな」
低い声で言い捨てて、ルドの身体を地面からすくいあげる。
すくいあげながら、ダルムは周囲の森景に視線を走らせた。
「ジザ。ムントが集まってきているな」
「ああ。同胞の屍までをも喰らうのがムントだからな」
ジザが、腰から小刀を抜き放つ。
ギバの毛皮のマントを羽織り、角と牙の首飾りを胸に垂らした、兄たちはすでに一人前の狩人だった。
(俺もいつか……)と、ルドは兄の胴衣の布地をぎゅっとわしづかみにする。
「ダルム、先に行け。死骸に群がればもう生きている人間を追ってくることもないだろうが、油断はできない」
「わかった」と、ダルムが森を走り始める。
その強い光を放つ青い瞳が、ほんの一瞬だけ腕の中のルドを見た。
「……生命をかけて得た収穫を、落とすなよ?」
ルドは何も答えられないまま、兄の胴衣と、赤い花の茎を握りしめた。
◇
「ああ、やっと帰ってきた。無事で良かったよ、ルド」
薪を割っていたティト・ミンが、ほっとした顔で3人の孫たちを迎え入れる。
「あらあら傷だらけじゃないかい。薬を塗ってあげようかね」
「大丈夫だよ! ダルム兄、おろして!」
ダルムは無言のまま、ルドを地面に降ろしてくれる。
まだ左足首に痛みは残っていたが、歩けないほどではなかった。
「ティト・ミン婆。家長は目を覚ましたか?」
ジザの声に、ティト・ミンはうなずく。
「さっき干し肉をかじっていたよ。あんたたちもそろそろ仕事だろ。少しだけでも腹に入れておきな」
「わかっている」と応じながら、ジザは静かにルドを見下ろした。
「ルド。二度と同じ間違いは犯さないと誓えるか?」
「……うん。誓う」
「わかった。家長にはそう伝えておく。……いいか、掟は民の生命と誇りを守るために存在するのだ。それだけは忘れるな」
最後に、ぽんとルドの頭を叩いてから、ジザは家へと戻っていった。
「……ダルム兄も、ごめん。ありがとう」
無口な次兄は無言のまま、少しだけうなずいた。
「ティト・ミン婆も、心配かけて、ごめん」
「いいんだよ。こうして無事に帰ってきてくれたんだから。……あら、綺麗な花だねえ。リミにかい?」
ルドはちょっと頬を赤くして、その手の収穫を背中に隠してしまう。
「あの娘は赤い花が大好きだものねえ。そうかい、そいつをリミのために探してあげてたんだねえ」
「うるさいなっ! ……ちびリミは、どこ行った?」
「はて。さっきまでジバと出かけていたみたいだけど、裏のほうで遊んでるんじゃないかねえ」
「わかった」とルドは少し左足をひきずりながら、家の裏に向かう。
食糧庫に干し肉でも取りに行くのか、ダルムもその後をついていく。
「あ、るどだぁ。るど、どこにいってたの?」
と、末妹のリミがちょこちょこと駆けてきた。
それまで末娘だったララよりも5年も遅れて生まれてきた、3歳の幼子である。
ルドは笑って右手の赤い花をその鼻先に突きつけようとしたが。まったく同じものがすでに妹の赤茶けた髪に飾られているのに気づき、笑顔と花の両方を引っ込めた。
赤い花を再び背中に隠しながら、「おい、リミ、その花……」と、ちょっと震えた声で呼びかける。
「みぞらのはなっ! きれいでしょ! りみがほしいっていったら、あいふぁがとってきてくれたのっ!」
まだキミュスの雛鳥ぐらいにしか生えそろっていない髪にくくりつけられた花を見せびらかすように、リミが小さな顔を近づけてきた。
「そうなんだ……よかったな」と、ルドは後ずさる。
すると。
ダルムが、いきなりルドの短い髪を力まかせにひっつかんできた。
「痛い痛い! 何するんだよ、ダルム兄!」
思わず両手で、兄の右手をつかみ取る。
その拍子に、隠していたミゾラの花がぽとりと足もとに落ちてしまった。
「あっ!」と大きな声をあげて、リミがそれを拾いあげる。
「みぞらのはなっ! るどもとってきてくれたの? わあい、うれしいなあ」
と、リミは逆側のこめかみに拾った花をかざしながら、くるくるとその場を駆け回った。
「あのね、あのね、じばばあはおはなでかみかざりがつくれるんだって! ほしてかわかしてくすりをぬったら、ずっとかれないで、きれいなままなんだって!」
まだ舌足らずで聞きとりづらい声で言いながら、リミはとても幸福そうにルドへと笑いかけてきた。
「ずっといっしょうだいじにするね! るども、ありがとうっ!」
そうしてギーズみたいにちょろちょろと走り去ってしまう。
「へへ……」と笑いかけてから、ルドはかたわらの兄を振り仰いだ。
「……ダルム兄。あいふぁって誰だよ」
「知らん」
リミは最長老のジバとずいぶん遠くのほうまで散歩をするのが好きなので、そのときに知り合った他家の人間なのかもしれない。
リミの笑顔は嬉しかったが、やっぱり一番乗りの手柄を奪われてしまったのは、ちょっとだけ悔しかった。
「行くぞ。親父とジザが待ってる」
「うん……」
怒鳴られるのか、殴られるのか。妹の笑顔の代償は、ジザと同じぐらい怖い父親の叱責だ。
だけど、安い代償だ。
そんな風に自分に言いきかせて、少年はまだ薄っぺらい胸をそらして、家族の待つ家へと戻った。
スン家の長兄の暴虐な振る舞いによって、少年たちとアイ=ファの生が交錯するのは、それからおよそ3年後のことだった。




