城下町巡り⑦~商店区~
2019.6/23 更新分 1/1
・明日は2話更新しますので、読み飛ばしのないようにお気をつけください。
おたがいの菓子の試食を終えた後、ダイアはすぐにジェノス城へと帰ってしまった。彼女には、ジェノス城の厨を取り仕切るという大役が待ちかまえていたのだ。
いっぽう俺たちは、下りの二の刻までは、この場に居残る予定である。茶会の際は、そうして貴婦人がたと同じ卓を囲んで親交を深めさせていただくというのが、ここ最近の通例であるのだった。
「ダイアの菓子は、どうだったかしら? なかなか見事な腕だったでしょう?」
エウリフィアがそのように問いかけてきたので、俺は一同を代表して「はい」と答えてみせた。
「料理人の双璧という異名にも、心から納得することができました。ヴァルカスのように複雑な味わいではないように思うのですが……でも、ヴァルカスの料理と同じぐらい驚かされましたし、素晴らしい出来栄えだと思いました」
「そうね。菓子ではなく料理においても、ダイアはヴァルカスほど香草は使わないはずよ。使うとしても2種か3種で、ヴァルカスほど複雑な味付けではないように思うわ」
そのように述べながら、エウリフィアは優雅に微笑んだ。
「でも、ジェノス城で過ごすわたくしたちには、それが幸いね。ヴァルカスの料理を毎日口にしていたら、舌も心も疲れてしまいそうだもの。ヴァルカスの料理は、10日や半月にいっぺん口にすることで、本領を発揮するのだと思うのよね。ダイアとヴァルカス、どちらがジェノス城の料理人に相応しいかと問われたら、わたくしは迷わずダイアを選ぶことでしょう」
なるほど、ジェノス城に住まう人々にとっては、ダイアの作る料理こそが、日常の食事となるのだ。貴族らしい豪華さを保ったまま、毎日口にしても飽きのこない料理を作り続けるというのは、なかなかに大変な仕事であるように思われた。
「香草や魚の扱いに関しては、ヴァルカスの右に出る者はないでしょう。でも、ダイアもまたヴァルカスにはない料理人としての資質を持っている。わたくしなどでは、上手く説明できそうにないけれど……わたくしは、そのように信じているのよ」
「はい。いつの日か、ダイアの作る料理を口にすることができたら、嬉しく思います」
エウリフィアは、「そう」と笑顔でうなずいた。
「わたくしも、アスタたちにダイアの料理を口にしてほしいと願っているわ。でも、そうするにはアスタたちをジェノス城にお招きするぐらいしか機会がないのよね」
「ええ。三族長の中でも、まだジェノス城に足を踏み入れていないお人がいるぐらいですもんね。族長を差し置いて、ジェノス城に招待してほしいなどと願うことはできません」
「そうね。確かにアスタをジェノス城の客人として招くことは難しいように思うけれど……でも、そのうち機会は訪れるのじゃないかしら?」
「え、そうなのでしょうか?」
「だって、アスタを自分のおそばに招きたくてうずうずしていらっしゃる御方がいるでしょう? 放っておいても、あの御方がそういう機会を作ってくれそうに思えてしまうわ」
俺は、ななめ後方に控えているアイ=ファのほうをこっそりうかがってみた。
案の定、アイ=ファは苦虫を噛み潰してしまっている。
「あら、やっぱりアイ=ファは、あの御方のことを好ましく思っていないのね」
「いや……うむ……返事は差しひかえさせていただきたく思う」
「ええ。虚言は罪なのですものね」
エウリフィアは、ころころと笑い声をたてた。
「わたくしも、最初はあの御方に用心をしていたのよ。もしかしたら、この御方はアスタを自分のものにしようと考えているのじゃないかしら……と思ってしまったのよね」
「……そうでなければ、幸いに思う」
「それに関しては、大丈夫なのじゃない? わたくしの伴侶も、それに関しては事前に問い質していたもの」
「え? メルフリードがですか? ……それでいったい、どのようなお返事をいただいたのでしょう?」
「何か、難しい言葉を使っていたわね。たしか……あの御方は、アスタが人々にどのような影響を与えるのか、それを観測することに喜びを感じている。そこに自分が余計な手を出してしまうと、正しく観測することがかなわない……だったかしら」
確かにそれと似た言葉は、俺たちもフェルメスから聞かされていた。
エウリフィアはゆったりと微笑みながら、白いティーカップを持ち上げる。
「言葉の意味はわかりにくいけれど、わたくしの伴侶はそれで納得できたという話だったわ。だからまあ、あの御方がアスタを王都に連れ去ろうとするような真似はしないのじゃないかしらね」
「はい。俺もそこまでの心配はせずに済んでいます」
「この後は、あの御方と一緒に城下町を巡るのよね? 楽しい道中になることを祈っているわ」
俺も、心から祈っている。早くフェルメスとの絆が深まって、アイ=ファの心労が減じればいいなと、俺はかねがね願っているのだ。
そうしてこちらの話が一段落すると、遠からぬ場所で語らっていたオディフィアの声が耳に飛び込んできた。
「トゥール=ディン、ぐあいわるいの?」
俺が驚いて振り返ると、トゥール=ディンも驚いた顔をして、オディフィアの姿を見返していた。
「い、いえ、決してそのようなことはありませんが……オディフィアは、どうしてそのように思うのです?」
「だって、げんきがないようにみえたから」
その小さな顔は無表情のまま、オディフィアはトゥール=ディンの手をきゅっと握りしめていた。
トゥール=ディンはしばらく迷うように目を伏せてから、やがて意を決したように口を開いた。
「わたしは、その……ダイアの菓子があまりに素晴らしい出来栄えであったので、少し……不安になってしまったのかもしれません」
「どうして? オディフィアは、トゥール=ディンのつくるおかしのほうがすき」
「ありがとうございます。……ただ……オディフィアはどうしてそのように思ってくれるのだろう、と……それが不思議になってしまったのです」
「あら」と声をあげたのは、伯爵夫人のリッティアであった。
「あなたは、そのように考えてしまったのですね。わたくしなどは、むしろオディフィア姫のお心がようやく理解できたように思いましたのに」
「え? そ、そうなのですか?」
「ええ。ダイアの菓子は、それは見事なものでありました。もしもこの茶会で味比べの余興を行っていたら、わたくしはダイアに星を入れていたかもしれません。味はもちろん、菓子をミゾラの花に見立てたあの手腕は、それだけ見事なものでありましたからね」
そんな風に述べてから、リッティアはふくよかな顔にやわらかい微笑をたたえた。
「あの菓子は、夢のように優雅な味わいでした。……でも、まだ幼いオディフィア姫には、そのような優雅さよりも大事なものがあるのでしょう。あなたの菓子には、その大事な何かが備わっているのではないかしらね」
「では……」と何か言いかけたトゥール=ディンが、途中で口をつぐんでしまう。
横からエウリフィアがうながすと、トゥール=ディンはためらいがちにその言葉を口にした。
「では……オディフィアが年齢を重ねて、優雅な味わいというものを求めるようになったら……ダイアの菓子こそがもっとも好ましく思える……ということなのでしょうか……」
「そんなことない」と、オディフィアがすかさず声をあげた。
表情は変わらないまま、その可憐な唇がわずかに震えている。
「オディフィアは、トゥール=ディンのおかしがいちばんすきなの。おとなになっても、それはかわらない」
「あらあら、放っておいたら、オディフィアが涙を見せてしまいそうだわ」
エウリフィアは母親らしい優しさで、後ろからそっとオディフィアの肩に手をやった。
「何も心配することはないのよ、オディフィア。……いえ、これはトゥール=ディンにかけるべき言葉なのかしら」
「も、申し訳ありません。わたしが余計なことを言ったばっかりに……」
「いいのよ、言わせたのはわたくしなのだから。……まさか、あなたがそれほどの不安にとらわれているなんて、わたくしは思いもしていなかったのよね」
そんな風に述べながら、エウリフィアはその場に居並ぶ貴婦人たちを見回した。
「わたくしは、ダイアとトゥール=ディンの菓子が同じぐらい美味だと考えているの。あなたがたは、如何かしら?」
「そうですわね。わたくしも、ダイアに星をつけるかもしれないとは言いましたが、そんな簡単に判断はつけられないように思います」
「ええ。わたくしも……トゥール=ディンばかりでなく、リミ=ルウの菓子だって決して負けてはいないように思いますわ」
「わたしだったら、たぶんアスタに星をつけていたでしょうね。あれはダイアに負けないぐらい、不思議な菓子だったもの」
「私、同じ気持ちです。今日の菓子、限って言うならば、アスタ、ダイア、迷っていた、思います」
アリシュナの発言で、ディアルがきらりと瞳を光らせた。
「そうだなー。僕もさんざん迷ったろうけど、それは今日の菓子に限ってのことだよね。今日はトゥール=ディンが準備した菓子も、わりあい普通の焼き菓子だったから、物珍しさでアスタかダイアの菓子に星をつけてたかも」
「そうね。初めてダイアの菓子を口にしたのだから、それも当然の話だわ」
「ええ、そうでしょう? ……でも、これまでには、さんざん森辺の人たちの菓子に驚かされてきたんだよね!」
そう言って、ディアルはにっこりとトゥール=ディンに微笑みかけた。
俺が大好きな、あの魅力的な笑顔である。
「だから、これまでに食べさせてもらった菓子で言うとね、僕は君が作ったがとーしょこらっていう菓子か、リミ=ルウの作ったぼたもちっていう菓子が、一番美味しかったと思うよ!」
リッティアとメリムも、「ああ」と口もとをほころばせた。
「そうですわね……わたくしも、初めてくりーむというものの存在を味わわされたときは、今日のダイアの菓子と同じぐらい驚かされたものですわ」
「ええ。わたくしは、雨季の頃に食べさせていただいたトライプの菓子の味が忘れられません。トゥール=ディンの菓子もリミ=ルウの菓子も、どちらも見事な出来栄えで……雨季を待ち遠しく思ってしまうほどであるのです」
「そうよね。わたくしはあくまで、ダイアの菓子もトゥール=ディンの菓子に負けていない、という考えであったのよ。オディフィアはトゥール=ディンの菓子を好んでいるけれど、わたくしはどちらも優り劣りはないと考えていたの。だから、あなたが不安にとらわれるなどとは、これっぽっちも考えていなかったのよ」
エウリフィアが、オディフィアの肩ごしにトゥール=ディンへと微笑みかけた。
「しかもあなたは、ダイアよりもうんと若いわ、トゥール=ディン。本来、不安を感じるべきは、ダイアのほうなのじゃないかしら? まあ、ダイアはああいう人間なので、不安を感じたりはしないのでしょうけれどね」
「そう……ですね……わたしは知らずうち、道を誤っていたのかもしれません」
トゥール=ディンは、泣き顔のような表情で微笑んだ。
「他者と自分の腕を比べても、そんなのは詮無きことですし……そもそもジェノスで指折りとされている料理人と自分を比べるなんて、あまりに思い上がった行いでした」
「まあ。思い上がっていたなんて、あなたには一番似つかわしくない言葉でしょうね」
「でも、きっとそうなんです。わたしはきっと……いつかオディフィアに見放されてしまうんじゃないかって、そんな馬鹿な不安にとらわれてしまっていたのです」
そう言って、トゥール=ディンはオディフィアの小さな手を握り返した。
「申し訳ありません、オディフィア。わたしはこれからも、美味しい菓子を作れるように頑張ります。オディフィアに喜んでもらえるように、せいいっぱい励みます」
オディフィアは「うん」とうなずくや、椅子から飛び降りてトゥール=ディンに抱きついた。
トゥール=ディンも、その小さな身体をぎゅっと抱きすくめる。エウリフィアはひとつ微笑をもらしてから、何事もなかったかのようにティーカップを持ち上げた。
「森辺の祝宴では、菓子ばかりでなくトゥール=ディンの料理を口にすることもできるのよね。わたくしもオディフィアも、いまからそれを心待ちにしているのよ」
「はい。わたしもみなさんを森辺にお招きできる日を、心待ちにしています」
オディフィアの身体を抱きすくめたまま、トゥール=ディンはそのように答えていた。
◇
それからしばらくして、俺たちは白鳥宮を辞去することになった。
時刻は、下りの二の刻。他の貴婦人がたもここで解散らしく、各々のトトス車に乗り込んでいく。それを見送っていると、門を抜けてこちらに近づいてくる2台のトトス車があった。
「お待たせいたしました。ちょうど貴婦人がたもお帰りのようですね」
そのうちの1台から降りてきたのは、案内役のレイリスである。俺たちは、この場で待ち合わせの約束を交わしていたのだ。ギルルの荷車は町の入り口で預かってもらう手はずであったので、この場にやってきたのはどちらも大きな箱型のトトス車であった。
「ここからは、車で商店の区域までお送りいたします。2台の車の、お好きなほうにお乗りください」
おたがいの情報を交換するために、ここは二手に分かれるべきであろう。俺とアイ=ファとシェイラはレイリスが乗っていた後列のトトス車に、それ以外の3名は前列のトトス車に乗り込むことにした。
西方神が気をきかせてくれたのか、俺たちの選んだトトス車にフェルメスの姿はなかった。ガズラン=ルティム、シュミラル=リリン、ヴィナ・ルウ=リリン、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥアという顔ぶれである。
レイリスもこちらに乗り込むと、さっそくトトス車が動き始める。
ガズラン=ルティムは、いつもの落ち着いた笑顔で俺たちをねぎらってくれた。
「お疲れ様でした、アスタにアイ=ファ。何も滞りはなかったでしょうか?」
「はい。貴婦人がたにも喜んでいただくことがかないました。そちらは、どの辺りを見物していたのですか?」
「大聖堂や会議堂を始めとする公共の施設というものや、貴族の居住区の周辺を見物させていただきました。私やジザ=ルウにはありがたかったですが、女衆には退屈であったかもしれませんね」
すると、レイ=マトゥアが「そんなことはありません!」と元気に発言した。
「どこを見回しても物珍しいので、退屈するいとまもありませんでした。家に戻って家族に話すのが、いまから楽しみでなりません」
隣では、マルフィラ=ナハムもせわしなくうなずいている。
ガズラン=ルティムは「そうですか」と、いっそう優しげに微笑んだ。
「この後は、また商店の区域を巡るそうですね。さきほどは通りすぎるだけでしたので、それも楽しみに思います」
「はい。今度は西側の区域に参りましょう。どちらかというと、そちらのほうが庶民向けとされていますが、そのぶん活気もあるかと思われます」
「庶民向けか。そのぶん、危険が増すという面もあるのであろうか?」
アイ=ファの問いに、レイリスは「いえ」と首を振る。
「どのような区域でも石塀の内でありますので、無法者の立ち入る隙はありません。わたしもときおり足を運ぶことがありますので、安全のほどは保証いたします」
「ふむ。あなたは自分の足で町を巡る貴族であるということだな。ついさきほど、貴婦人というものは車で移動するので町を歩く機会もないと聞かされたところだ」
「茶会に参じておられたのは、侯爵家と伯爵家の直系の貴婦人がたであられたのですから、それも道理です。男爵家や子爵家、それに騎士階級の人間などは、自分の足で町を巡ることも珍しくはありません」
「……しかしあなたは、伯爵家の血筋であろう?」
「ルイドロス殿が爵位を継いだ時点で、わたしは傍流の血筋となります。森辺の習わしになぞらえるならば、分家の家長の第一子息ということになりましょうか」
そこでレイリスは、ふっと複雑そうな微笑をもらした。
「そして現在は、大きな過ちを犯した父親から、家督を継承した立場となります。宮廷内における身分は、余計に高いものではなくなりました」
「うむ? 罪を犯したのは父親であるのに、あなたにまで累が及んでいる、ということであろうか?」
「もちろんです。家とは、そういうものでありましょう。森辺では、異なるのでしょうか?」
「親の罪を子が負わされることはないはずだ。それでは、道理が通るまい」
「そうですか」と、レイリスは少し考え込むような顔をした。
「では……このようにお考えください。貴族においては、家人の犯した罪は家全体で背負わなければならないのです。父の傷つけた家の名誉は、わたしが力を尽くして回復しなければならないのです」
「それは、森辺においても同じことだと思うのだが……どこかに違いがあるように感じられるな」
すると、ガズラン=ルティムが発言した。
「森辺においても、家人の罪は家の罪となります。しかし、罪を犯した人間に罰が与えられた時点で、その罪は贖われるのです。城下町と森辺では、その贖いの作法に差異があるのではないでしょうか」
「ああ、森辺には非常に厳しい掟が存在するのだという話でしたね。貴族にはそこまで厳しい罰が存在しないので、長きの時間をかけて恥をすすぐ必要がある、ということなのかもしれません」
俺は何だか、レイリスの物言いに感心することになってしまった。
「レイリスは、ずいぶん森辺についてお詳しくなられたようですね」
「これだけ森辺の方々と近しくさせていただいているのですから、多少は事情にも通じてきます。それでもまだまだ、まったく理解は足りていないのでしょう」
レイリスは、遠くを見るように目を細めた。
「ですから、森辺に出入りをしているメルフリード殿やフェルメス殿のことを、羨ましく思ったりもしているのですが……わたしが森辺に足を踏み入れるのは、まだ時期尚早であるでしょうからね」
レイリスはスフィラ=ザザと、複雑な関係に陥りかけた経緯があるのだ。
そうと察したのか、ガズラン=ルティムはいたわるような眼差しでレイリスの横顔を見やっていた。
その後は、マルフィラ=ナハムたちにダイアの菓子について語ることになった。
マルフィラ=ナハムもレイ=マトゥアも、心から感心した様子で目を丸くしたことは言うまでもない。
「ミゾラにそっくりの菓子ですか! 何だか、想像もつきません!」
「は、は、はい。ミ、ミゾラを使わずにミゾラの香りを再現することなど、可能なのでしょうか?」
「どうなんだろうね。ダイアの口ぶりだと、ミゾラの花はいっさい使っていないような感じだったけど、俺にも想像がつかないよ」
きっとあちらのトトス車でも、リミ=ルウたちが同じ話題に興じていることだろう。
そうするうちに、トトス車はなめらかに停車した。
「どうやら到着したようですね。足もとに気をつけてお降りください」
レイリスとシェイラが真っ先に降車して、森辺の一同がひとりずつそれに続く。そうして地面に降り立ってみると、そこには城下町の賑わいが待ちかまえていた。
確かに朝方に拝見した区域よりも、いっそう賑わっているようだ。背の高い石造りの建物に石畳という様相は変わらぬが、とにかく人の数が段違いである。時間帯としても、やはり昼下がりのほうが人出は多いのだろう。
「アスタにアイ=ファ、そちらもご苦労だったな」
と、別のトトス車から降りてきたジザ=ルウが、わざわざねぎらいの言葉をかけてくれた。その大きな身体の陰からすうっと現れたフェルメスの姿に、アイ=ファはいくぶん鋭い目つきとなる。
「茶会には、ジェノス城の料理長であるダイアも参じたそうですね。僕は毎日のように彼女の料理をいただいておりますが、なかなかに見事な手腕であったでしょう?」
「はい。その名に違わぬ手腕でした」
「そうでしょう。ジェノスでは複雑な味わいが流行であるようですが、彼女の料理は複雑であるよりも前に、繊細で優雅です。……ただ、魚介の扱いに手慣れていないというのが、僕としては残念なところですね」
フードと襟巻きの隙間から覗くフェルメスの目もとは、とても無邪気な感じに細められていた。襟巻きの下では、あの少女のように可憐な微笑みがたたえられているのだろうか。ようやく俺と行動をともにできることが、嬉しくてたまらない――というように思えてしまう。
「それでは、ご案内をさせていただきたく思いますが……この人数で動くには、いささか窮屈であるでしょうね。やはり、何組かに分かれるべきだと思いますが、如何でしょう?」
レイリスの言葉に、ジザ=ルウが同意した。
「あまり少人数で分かれては、いささか不用心やもしれん。5人ずつ、3組に分かれることとしよう」
協議ののち、俺とアイ=ファはリミ=ルウおよびリリン夫妻と行動をともにすることになった。というか、もともとリミ=ルウはアイ=ファにひっついていたし、そこにシュミラル=リリンが同行を願ってきてくれたのである。
「私、アスタ、絆を深める、目的、ひとつです。同行、お願いします」
シュミラル=リリンは、こっそりそのように打ち明けてくれた。
その顔に浮かぶのは、すっかり彼のデフォルトとなった、やわらかい微笑だ。うっかりすると涙腺がゆるみそうになるぐらい、俺は嬉しかった。
「私、この区域、知っています。案内役、果たせる、思います」
「では、レイリスとシェイラにはこちらの案内役をお願いしよう。この通りの先にまた広場があるそうなので、そこまでは自由行動とする」
これにて、方針は定まった。
すると、ジェムドを引き連れたフェルメスが、再び俺たちのほうに接近してきた。
「ジザ=ルウやガズラン=ルティムとはぞんぶんに言葉を交わすことがかないましたので、今度はこちらに同行させていただきたく思います」
これはもう、アイ=ファも想定内であったのだろう。表情を厳しく引き締めつつ、我が最愛なる家長は「うむ」と厳粛に応じていた。
そうして開始された、商店区の見物である。
案内役たるシュミラル=リリンは、しばし黙考してから、通りの右手側に足を向けた。
「たしか、こちら側、調理器具の店、あったはずです。他の店、見物しながら、進みましょう」
「調理器具ですか。それは興味深いですね」
宿場町で手に入らない調理器具に関しては、ヤンを通じて城下町から購入している。おおよその鉄具はディアルから買いつけていたものの、発注と発送のタイミングが合わないときや、鉄具ならぬ調理器具が必要なときは、いつもヤンを頼っていたのだった。
「《銀の壺》も、城下町で店を出したりしていたのですか?」
歩きながら俺が問うと、シュミラル=リリンは「いえ」と首を振った。
「城下町、店を出す、煩雑な手続き、必要です。商店、商品、売り渡す、ほとんどです。あとは、個人、売り渡していました」
「なるほど。その一番の顧客が、サイクレウスであったのですね」
そうして語らっている間も、道行く人々は俺たちに好奇の視線を向けていた。このあたりの反応は、朝方と同一である。非常に物珍しがっている様子であるが、警戒されている感じはしない。
それにこの場には、東や南の民の数も多かった。シュミラル=リリンに対しては、見るからに東の民らしい風貌をしているのに、どうして狩人の格好をしているのだろうと不思議がっているのかもしれない。それに、東の民というのはたいてい深々とフードをかぶっているものであるので、シュミラル=リリンが素顔をさらしていることも物珍しいのかもしれなかった。
「あら、素敵な飾り物ねぇ……」
と、ヴィナ・ルウ=リリンがとある商店の前で足を止めた。店先に、美しい飾り物がずらりと並べられていたのだ。
ヴィナ・ルウ=リリンの目をひいたのは、木の実を象った銀細工であるようだった。ふたつでワンセットであるようなので、きっと耳飾りであるのだろう。小さなドングリのような可愛らしいデザインである。
「美しいですね。ヴィナ・ルウ、似合う、思います」
「うふふ、ありがとう……でも、もうわたしは宴衣装を身につけることもないからねぇ……」
「この飾り物、普段、つけられるのではないでしょうか」
シュミラル=リリンの細長い指先が、その耳飾りのひとつをつまみあげた。手を触れることは禁じられていないらしく、店番の女性は愛想よく微笑んでいる。
シュミラル=リリンはその耳飾りを伴侶の右耳にあてがうと、「似合います」と微笑んだ。
「こちら、いくらですか?」
「そちらは、白銅貨3枚でございます。銀細工としてはお手頃でしょう?」
「はい。細工、見事です」
シュミラル=リリンが懐に手をのばそうとすると、ヴィナ・ルウ=リリンがそれをそっと押し留めた。
「駄目よぉ……白銅貨3枚あったら、ポイタンをいくつ買えると思ってるのぉ……?」
「はい。ですが、自分の銅貨、自由につかうこと、許されています」
「ええ。あなたがこれまでに商人として稼いだ銅貨は、好きにつかっていいという話だったわねぇ……でも、銅貨は大事なものでしょう……?」
「はい。ですから、大事なこと、つかいたい、思います」
シュミラル=リリンは、自分の手もとにのばされたヴィナ・ルウ=リリンの指先を、そっと握りしめた。
「ジェノス、離れる前、ヴィナ・ルウ、贈り物、したい、願っていました。私にとって、大事なことです」
「でも……」
「この飾り物、ヴィナ・ルウ、似合います」
シュミラル=リリンは、とても穏やかに微笑んでいる。その面を見上げながら、ヴィナ・ルウ=リリンも幸福そうに微笑んだ。
「もう……あなたって、こういうときは頑固よねぇ……」
「はい。気持ち、隠す必要、ありませんので」
そうしてヴィナ・ルウ=リリンの両耳は、銀色の耳飾りで飾られることになった。
長くのばしたサイドの髪の向こう側で、小さな木の実がちかりと輝く。それは文句のつけようがないぐらい、ヴィナ・ルウ=リリンには似合っていた。
「お待たせしました。行きましょう」
何を気恥ずかしがる様子もなく、シュミラル=リリンが足を踏み出す。俺たちはもちろん、フェルメスたちの視線もいっこうに気にしていない様子であった。
みんなの姿を見失わないように気をつけつつ、俺はこっそりアイ=ファへと囁きかける。
「シュミラル=リリンたちは、本当に仲睦まじいよなあ。見ているだけで、幸せな気持ちになっちゃうよ」
「うむ。……もうじき半年も離ればなれになってしまうことが、気の毒でならんな」
「ああ。だけど、会えない時間がいっそう絆を深めてくれるんじゃないかな」
油断なく周囲に配られていたアイ=ファの視線が、じろりと俺に突きつけられてくる。
その鋭い眼光の奥底にひそむ不安げな陰りを見て取って、俺は明るく笑いかけてみせた。
「俺は、どこにも行かないよ。魂を返すその日まで、アイ=ファと一緒だ」
アイ=ファは一瞬で真っ赤になると、噛みつくような勢いで俺の耳もとに口を寄せてきた。
「私はいま、護衛役として気を張っているのだ。……あまり心を乱すような言葉を口にするな」
「うん、ごめん。アイ=ファがちょっと不安そうにしているように見えちゃったからさ」
アイ=ファは無言で、俺の腹に右肘をめりこませてきた。
が、みぞおちからはわずかにそれていたので、俺もへたりこまずに済んだ。
そうして俺たちは、本日の一大イベントの最終段階に突入することになったのだった。