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異世界料理道  作者: EDA
第四十四章 徒然ならぬ日々
752/1681

城下町巡り⑤~思わぬ再会~

2019.6/21 更新分 1/1

「あら、ダイアはどこでアスタたちの料理を口にすることになったのかしら?」


 エウリフィアが不思議そうに尋ねると、ダイアはやわらかい微笑をたたえたまま、そちらを振り返った。


「2日ほど前、宿場町の屋台にお邪魔させていただいたのです。料理も菓子も、素晴らしい出来栄えでございました」


「まあ。あなたはとても物静かな人間であるのに、ときおりわたしたちを驚かせてくれるわね、ダイア」


 エウリフィアは優雅に笑いながら、なよやかな指先をダイアのほうに差しのべた。


「いちおう、あらためて紹介させてもらうけれど、これがジェノス城で料理長をつとめているダイアよ。もう何年も前から、ジェノスの双璧として知られている料理人ね」


「もったいないお言葉でございます」


 ダイアはあくまで、柔和に微笑んでいた。

 本日は、白い調理着に身を包んでいる。あの日に旅人のようなマント姿をしていたのは、ロイやディアルやフェルメスたちのように人目を忍んでのことであったのだろう。もともと上品な雰囲気を漂わせていたお人であったので、彼女が城下町の領民であるというのは至極納得のいく話であった。


 着ているものこそ異なれど、それ以外は2日前に宿場町で見たときと変わらぬ姿だ。

 白いものの目立つ褐色の髪を、頭のてっぺんでお団子にまとめあげている。ジェノスの民らしく黄褐色の肌をしたその顔は、とても老成した落ち着きをたたえつつ、若い娘さんのように艶々としていた。


 年齢は、40を過ぎたぐらいだろう。中肉中背で、これといって目立つ風貌をしているわけではない。ただ、老女のようにゆったりとした喋り方と、とても優しげでやわらかい表情が、なんとも印象的な人物であった。


「先日は、名乗りもあげずに失礼いたしました。あのときは、ひとりの客として料理や菓子を楽しみたかったばかりでございますので、どうぞご了承くださいませ」


「い、いえ……俺たちの料理がお気に召したのでしたら、嬉しく思います」


「ええ、それはもう……すべての料理が、素晴らしい味わいでございました。このような驚きに見舞われたのは、いったいいつ以来であったか、ついぞ思い出せないほどです」


 すると、エウリフィアが悪戯っぽい微笑をたたえながら、「そうでしょうね」と言葉をはさんできた。


「だってあなたは、これまで他の料理人の料理になんて、これっぽっちも興味を抱いてこなかったじゃない? あなたはいつだって、自分の修練に夢中だったものね」


「そのようなことはございません。ただ、わたくしには日々の仕事がありましたので……どれほどの興味を抱こうとも、おいそれと仕事場を離れることはかなわなかったばかりでございます」


「ふうん。それでもようやく重い腰を上げて、宿場町まで出向くことになったわけね。それは、アスタの料理とトゥール=ディンの菓子と、どちらが目当てであったのかしら?」


「その両方……でございましょうかねえ」


 ダイアは、観音像のごとく目を細めて微笑んだ。


「お噂では、森辺の他の方々も、たいそう美味なるギバ料理をこしらえることができるというお話でしたし……自分でギバ肉を扱ううちに、いっそうの興味をかきたてられることになった、といったところでございましょうか」


「だけど今日は、茶会ですからね。ギバ料理に関しては、また日を改めて、アスタとともに厨を預かってもらいたいところね」


 そう言って、エウリフィアはトゥール=ディンとリミ=ルウに笑いかけた。


「申し訳ないけれど、今日はダイアの分まで菓子を準備してもらえるかしら? もちろんダイアにもあなたがたの分をこしらえさせるので、おたがいの菓子を味わっていただきたいの」


「も、もちろんです!」と、トゥール=ディンが頬を火照らせながら応じることになった。リミ=ルウも、「わーい」と飛び上がらんばかりに嬉しそうな顔をしている。


「それじゃあ、仕事を始めていただきましょう。……あ、トゥール=ディン。またオディフィアが厨の様子を見物させてもらいたいそうなのだけれど、許してもらえるかしら?」


「もちろんです」と、今度は心から幸福そうな微笑を浮かべるトゥール=ディンである。なかなかトゥール=ディンと言葉を交わすことのできていなかったオディフィアは、こらえかねたように椅子から飛び降りて、トゥール=ディンのもとまでしずしずと歩み寄っていく。


「おひさしぶりです、オディフィア」


 トゥール=ディンが同じ笑顔のままそのように呼びかけると、オディフィアは「うん」とうなずいて、その手を取った。本当は、人目もはばからずに抱きつきたいところであるのだろう。


「あとは、リフレイアとディアルとアリシュナもお邪魔したいそうよ。ずいぶんな人数になってしまうけれど、どうぞよろしくね」


 他の面々も、その言葉に応じて立ち上がる。どうやら過半数のメンバーが、この場を離れることになるようだ。


「それでは、いったん失礼いたします。わたくしは別室にて菓子を仕上げさせていただきますので、厨のほうはお好きにお使いください」


 ダイアはしとやかに一礼し、俺たちのほうにも微笑みかけてから、先に歩み去っていった。

 俺たちは、シェイラの案内で厨へと向かう。リフレイアにはシフォン=チェル、ディアルにはラービス、オディフィアには年配の侍女が付き添い、アリシュナのみが単身だ。あとは、護衛役の武官が2名ほど、ひっそりと最後尾に追従してきた。


「ダイアって人のお菓子、楽しみだなー! いったいどんなお菓子なのかなー!」


 リミ=ルウは、ほとんどスキップのような足取りで歩を進めている。そのくりくりとしたお目々が、やがてトゥール=ディンのかたわらを歩いている幼き姫君の姿をとらえた。


「ねえねえ、あなたは毎日、ダイアって人のお菓子を食べてるんでしょ? あの人は、どんなお菓子を作るの?」


「どんなおかし……」と、オディフィアは無表情のまま、小首を傾げる。


「ダイアのおかしは……すごくきれい」


「すごくきれい? 味は?」


「あじは……あまいし、いいにおいがする」


「うんうん、お菓子は甘くていい匂いがするよねー!」


「……オディフィアは、トゥール=ディンのほうがすき」


 最終的に、オディフィアの灰色の瞳はかたわらのトゥール=ディンへと向けられる。トゥール=ディンは、慈愛に満ちみちた表情で微笑みながら、それを見つめ返していた。


「そっかそっかー! 楽しみだなー! レイナ姉たちにも自慢しちゃおーっと!」


 けっきょくオディフィアからは情報らしい情報も得られなかったわけであるが、リミ=ルウの期待感が損なわれることはなかったようだ。

 それに、初めて城下町でティマロの菓子を口にしたときのトラウマも、すっかり払拭されたらしい。その後に城下町で味わった数々の菓子が、楽しい記憶を上書きしてくれたのだろう。


 やがて厨に到着した俺たちは、それぞれの仕事に取りかかる。

 貴婦人がたは従者ともども壁際に立ち並び、その仕事っぷりを見物していた。真っ先に声をあげたのは、ディアルである。


「ねえねえ、今日はアスタも菓子を作ってくれるんでしょ?」


「うん。俺はあくまでおまけだけどね。ちょっと面白い菓子をあみだすことができたから、試食をお願いしたんだよ」


 この顔ぶれであれば、俺も気兼ねなくいつも通りの口調で振る舞うことができた。


「煎餅っていって、シャスカでこしらえた菓子なんだ。シャスカはシムの食材だけど、ディアルにも気に入ってもらえたら嬉しいよ」


「ふふん。シャスカの菓子ってやつはもう何度も食べさせてもらってるから、きっと大丈夫さ」


 ドレス姿のディアルが、とても朗らかに白い歯をこぼす。着ている衣服や口調など関係なく、ディアルの一番の魅力はこの多彩な表情であるはずだった。


「アスタ、ひとつ、うかがいたいのですが」


 と、今度はアリシュナが声をあげてくる。

 ディアルは横目で、そちらをにらみつけることになった。


「あのさ、いまは僕がアスタと喋ってたんだけど」


「はい。話、終わっていませんでしたか? ならば、待ちます」


「いや、雑談に終わりもへったくれもないけど……ああ、もういいよ。喋りたいことがあるなら、さっさと喋れば?」


「ありがとうございます」と一礼してから、アリシュナは夜の湖のごとき瞳で、俺を見つめてきた。


「アスタ、王都の外交官、如何ですか?」


 とたんに、貴婦人がたと同じく壁際に並んでいたアイ=ファが、ぴくりと反応する。


「王都の外交官が、どうしたと? どうしてお前が、あの者を気にかけるのだ?」


「はい。あの御方、《星無き民》、調べること、熱心です。私、さまざまな質問、受けているのです」


 アイ=ファは腕を組み、かなり鋭さを増した眼差しでアリシュナを見やった。


「そうか。あのフェルメスは、お前のもとをたびたび訪れているという話であったな」


「はい。ご存知でしたか?」


「アスタから、そのように聞いていた。アスタも人伝てで聞いたという話であったがな」


 俺にそれを伝えてくれたのは、いつもアリシュナに『ギバ・カレー』を届けてくれているシェイラだ。そのシェイラは、貴婦人がたに遠慮をして、ルド=ルウとともに扉の外に控えていた。


「はい。最近、ようやく、落ち着きましたが、これまで、頻繁、訪れていました。用件、すべて、《星無き民》、まつわる話です」


「……アスタについては、何も問われなかったのか?」


「問われました。しかし、答えませんでした」


 アイ=ファは、けげんそうに眉をひそめた。


「答えなかったとは、どういうことだ? 相手は、王都の貴族であろう?」


「答えよう、なかったのです。アスタ、《星無き民》であるゆえに、星、読めません。私、アスタについて、語ること、できないのです」


「それはつまり……あやつはアスタの行く末についてを、お前に問うてきたということか」


 アリシュナは「はい」とうなずいた。

 アイ=ファはいよいよ物騒な目つきになりながら、低い声で「気に入らん」と言い捨てる。


「ねえねえ、さっきから何の話をしてるの? 《星無き民》って、何なのさ?」


 ディアルが口をはさむと、アリシュナは優美なシャム猫のようにそちらを振り返った。


「《星無き民》、占星師の言葉です。星読み、興味、ありますか?」


「そんなもん、あるわけないじゃん。どうしてあんたたちは、そんな怪しげな術に手を染めようとするんだろうね」


 ディアルは顔をしかめながら、下唇をつきだした。ちょっとララ=ルウにも通ずるところのある、可愛らしくも小生意気なお顔である。


「魔術なんて、何百年もの昔に滅んだ、禁忌の存在でしょ? 星読みだって、それに繋がる禁忌の存在なんじゃないの?」


「いえ。星読み、魔術の残滓、過ぎません。禁忌であれば、シムでも、禁じられていた、思います」


「それでもやっぱり、魔術みたいなもんじゃん。王国の民が触れるべきものだとは思えないね」


 そんな風に言ってから、ディアルは俺のほうに向きなおってきた。


「そういえば、アスタたちの家では聖域の民を預かってるんだよね。そいつらこそ、怪しげな魔術を使ったりしないの?」


「いや。どうやら聖域の民ってのは、大神アムスホルンの目覚めを待つことを使命にしてるみたいなんだよね。で、大神が目覚めるまでは、魔術を使うこともできないし、使おうとすることも許されない……って感じみたいだよ」


 それは俺がティアから聞いた話を、自分なりに解釈した論であった。

 何にせよ、ティアが魔術を扱うどころか、生粋の野生児であることだけは確かな話である。


「ふーん。だったら、東の民よりは無害なのかもね。まあ、そうじゃなかったら、王国の領土で聖域の民をかくまうことなんて許されないんだろうけどさ」


 ディアルは肩をすくめると、あらためてアリシュナをにらみつけた。


「とにかくさ、星読みの術なんかで人を惑わすのは、よくないよ。あんたも身をつつしんだほうがいいんじゃない?」


「はい。星読み、余興です。ジェノス侯、そのように扱っていますし、私も、そのように扱うべき、考えています。……ですから、星読み、強い関心、抱いている、王都の外交官、恐ろしく思うのです」


「恐ろしいって? 星読みの術を悪用しようとしてるとか?」


「いえ。他者の運命、世界の運命、覗き込もうとする、危険、思います。それこそ、禁忌でしょう」


「だったらそんなやつ、相手にしないで追い返しちゃえば……って、相手が王都の貴族じゃ、そんなわけにもいかないか」


 この場には、いちおう貴婦人がたの護衛である武官も1名、ひっそりとたたずんでいるのだ。ディアルは銀色の髪飾りをよけながら、濃淡まだらのショートヘアをわしわしとかき回した。


「何だか、難しい話をしているのね」


 と、そこでふいにリフレイアが発言した。


「でも、話を聞く限り、危うい橋を渡っているのは、外交官殿なのじゃないかしら? それが四大神の怒りに触れるような行いであるのなら、罰が下るのは外交官殿なのでしょうし……わたしたちは王国の民として、きちんと身をつつしんでいれば、何も恐れる必要はないのじゃないかしらね」


「うん、まあ、そうだね。アスタたちが変な風に巻き込まれなければ、僕だって何も文句はないよ」


「アスタたち森辺の民が巻き込まれてしまうような恐れは、あるのかしら?」


 リフレイアに真正面から問い質されて、アリシュナは「いえ」と首を振った。


「いまのところ、そのような恐れ、感じていません」


「だったら、いいのじゃないかしらね。外交官につきまとわれているあなたがたは、心労が尽きないのかもしれないけれど」


 リフレイアの目は、アイ=ファのほうに向けられている。

 アイ=ファは厳しい面持ちで、「うむ」と応じていた。


「それでも何とか、正しき絆を結べるように尽力するしかあるまい。この後も、行動をともにすることになるわけであるしな」


「ああ、外交官たちと一緒に、城下町を見て回るそうね。なかなか楽しそうな余興じゃない」


 すると、ずっと無言でいたオディフィアも発言した。


「トゥール=ディンも、いっしょにいくの?」


「はい。こちらの仕事を終えた後、日が暮れるまで、城下町を見物させていただく予定です。……オディフィアもご一緒できたら、とても嬉しかったのですけれど」


 トゥール=ディンがちょっとさびしげに微笑みかけると、オディフィアは不思議そうに首を傾げた。


「オディフィアも、トゥール=ディンといっしょにいられたら、うれしい。……でも、オディフィアはまちをあるいたことがないの」


「え? そうなのですか?」


「うん。まちにでるときは、いつもくるまだから」


 トゥール=ディンは作業の手を止めて、困惑気味に眉を下げる。

 すると、リフレイアが「それはそうよ」と肩をすくめる。


「わたしだって、町を歩いたことなんて、ほとんどないわ。おおよその貴婦人はそうなのじゃないかしら」


「それじゃあ貴族の方々は、ずっと屋敷の中で過ごしているのですか?」


 俺はそのように声をあげたが、リフレイアは無反応だった。

 そして、ほっそりとした下顎のあたりに人差し指をそえながら、すました顔で周囲を見回し始める。


「いま、どこからか声が聞こえたかしら? わたしには、よく聞こえなかったのだけれど」


「……それじゃあ貴族の方々は、ずっと屋敷の中で過ごしているのかな?」


「まさか、そんなわけないじゃない。どこに行くにも車を使うから、自分の足で町を歩くことはない、ということよ。中には貴族であることを隠して、こっそり町の中をうろつく物好きもいるのでしょうけれどね」


 俺の言葉が耳に届いたようで、何よりである。


「ただ、わたしなんかは父様に厳しくしつけられていたから、屋敷を出ることなんてほとんど許されなかったわね。ジェノス城の祝宴とか、余所の家の晩餐会とか、父様も同席するような集まりぐらいでしか、屋敷を離れることを許されなかったもの。ねえ、シフォン=チェル?」


「はい……お父君は、姫様の身を何より案じておられたのでしょう……」


 シフォン=チェルは、とても穏やかな笑顔でそのように答えていた。

 北の民たちがジャガルに引き取られる話に関して、シフォン=チェルの身の振り方はどのように定められたのか。両者のやり取りから、それをうかがい知ることはできなかった。


(とはいえ、こんな場所で問い質すわけにもいかないしな。リフレイアたちとも、人の目のないところでゆっくり語らいたいもんだ)


 俺がそのように考えていると、シフォン=チェルがこちらに目を向けてきた。

 その白い面に、またふわりとした微笑みがたたえられる。以前よりもいっそうやわらかさを増した、魅力的な笑顔である。


「そういえば、もうすぐ森辺の収穫祭だけど、それにシフォン=チェルを同行させることは難しいのかな?」


 リフレイアは意表をつかれた様子で、「え?」と目を丸くした。


「侍女の類いは、同行させない手はずになっていたでしょう? エウリフィアたちでさえそうなのだから、わたしばかりが同行させるわけにはいかないわ」


「そっか。前回はサンジュラを同行させてたから、どうにかできないのかなって思ったんだけど」


「サンジュラは、従者というよりも護衛役だったし、それに、森辺の民と絆を結びなおさないといけない立場だったもの。侍女を同行させるのとは、話が違うわ」


 そこでリフレイアは、彼女らしからぬ憂いげな微笑をたたえた。


「それに、北の民であるシフォン=チェルを外に出すのは、なかなか許されないことなのよ。以前に1度だけ、宿場町にまで同行させてもらったけど……あれだって、ジェノス侯が特別に許してくださったことなのだからね」


「ああ、そうだったのか……それは残念だね。というか、俺が残念だよ」


 すると、リフレイアが頭をもたげて、表情をあらためた。


「アスタ、あなたはシフォン=チェルも森辺に招きたい、と言ってくれているのね?」


「うん。はっきり言うと、そういうことだね」


「だったら、時期を待てばいいわ。シフォン=チェルがジャガルに移り住む日取りが決定されたら、ジェノス侯も1度ぐらいは許してくれるのじゃないかしら」


 リフレイアは何かを振り払うように、力強い笑みを浮かべていた。

 いっぽうシフォン=チェルは、気がかりそうな眼差しでリフレイアの姿を見つめている。


「早ければ、銀の月のうちに日取りが決められることでしょう。そのときは、もちろんわたしも一緒に招いていただきたいところね」


「うん、それはもちろん。でも――」


 シフォン=チェルは、南方神に神を移すことを決心したのかい?

 俺はそのように問いかけようとしたのだが、リフレイアの笑顔を見ていると、舌を動かせなくなってしまった。

 これ以上、こんな問答を続けていると、またリフレイアの瞳から涙があふれかえってしまうのではないか――と思えてしまったのだ。


 リフレイアにとって、シフォン=チェルはかけがえのない存在になりつつある。かつてムスルの言っていた言葉が、俺の心には深く刻みつけられていたのだった。


「まあ、それよりもまずは、6日後の祝宴よね。オディフィアも、楽しみでならないでしょう?」


「うん。すごくたのしみ」


「わたしも、楽しみよ。でも、わたしたちの知っている祝宴とは、まるきり様相が違うのだから、はしゃぎすぎてメルフリードたちに叱られないようにね」


「うん。わかった」


 どちらもフランス人形のように美しい姿をした、12歳と6歳の姫君たちである。そこだけを切り取れば、まるで絵本のワンシーンのような様相であった。

 シフォン=チェルも、ほっとした様子で息をついている。たくさんの第三者が立ちあっているこのような場で、シフォン=チェルの話題を出すべきではなかったのかもしれない。それだけ北の民の立場というのは、西の王国においてデリケートなものであるのだ。


(そんなシフォン=チェルが南の民になったら、心置きなく友として扱うことができるわけだけど……ジャガルに移り住んだら、そうそうジェノスを訪れる機会なんてないんだろうしなあ)


 そこまで考えて、俺はいったん思い悩むのを保留した。

 何にせよ、移住の話が本格始動するのは、復活祭を終えてからであるのだ。当事者であるシフォン=チェルやリフレイアたちだって、まだまだ心は定まっていない様子であるのだから、俺が気に病んでもしかたのないことだった。


(それに、バランのおやっさんたちだって、遠路はるばる遊びに来てくれるんだもんな。シフォン=チェルがジャガルに移り住んだとしても、永遠の別れになることはないはずだ)


 煎餅の成形を終えた俺は、「よし」と鉄製のオーブンを振り返った。


「それじゃあ、その窯を使わせてもらうね。火を入れるから、みんなも気をつけて」


「はーい!」と、リミ=ルウが元気に応じてくる。みんなの会話に耳をそばだてつつ、作業に集中していたのだろう。ヴァルカスたちとめいっぱい交流を結ぶために、こちらでの作業時間はけっこう限界まで絞っていたのだ。


 まずは茶会で、貴婦人の方々に美味なる菓子をお届けする。

 一歩ずつ、目の前のことをしっかり果たしていけば、明るい行く末が開けるはずだ。

 そのように念じながら、俺はラナの葉で薪に火を灯すことにした。

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