記念の日
2019.5/27 更新分 1/1
・今回の更新は全7話です。
紫の月の5日――傀儡使いのリコ、ベルトン、ヴァン=デイロの3名は、その日の朝方にジェノスを出立することになった。
「本当に森辺のみなさんには、何から何までお世話になってしまいました。わたしはアスタの物語を作りあげるために、みなさんと縁を結ばせていただいた身ですが……森辺のみなさんと出会えたことを、心から得難いことだと思っています!」
出立の朝、リコはそのように言ってくれていた。
場所は、ファの家の前である。昨晩はファの家で晩餐をともにして、またこの空き地にて一夜を明かしたのだ。
リコたちがルウの集落で傀儡の劇を披露してから、4日が過ぎている。その4日間で、リコたちは森辺のすべての氏族の家を巡り、あますところなく傀儡の劇を披露したのである。
城下町の人々も、劇の内容に注文をつけることはなかった。俺たちが見た通りの内容で、今後世間に広められていくことになるのだ。それにはやっぱり、いくぶんの気恥ずかしさがともなわなくもなかったが、あらぬ風聞を蹴散らすためと思えば、心をなだめることも難しくはなかった。
「それじゃあ次に会うのは、太陽神の復活祭だね。どれぐらいに戻ってくる予定なのかな?」
「それは何とも言えませんが、遅くとも『暁の日』には駆けつけたいと考えています」
ジェノスにおいては、紫の月の半ばぐらいから、宿場町は賑わい始める。しかしあくまで祭の本番は、『暁の日』である22日からであるのだった。
「それじゃあやっぱり、半月後ぐらいだね。再会の日を、心待ちにしているよ」
「うむ。くれぐれも息災にな。……まあ、あなたさえいれば、何を恐れる必要もなかろうがな」
アイ=ファは穏やかな眼差しで、ヴァン=デイロを見やっていた。
ヴァン=デイロも不愛想な表情をこしらえつつ、眼差しだけは穏やかであるように感じられる。
と――そこでアイ=ファが、けげんそうに視線を転じた。視線の行き先は、森辺の道へと通じる空き地の出口である。
待つほどもなく、そこからトトスにまたがったふたつの人影が登場した。
誰かと思えば、カミュア=ヨシュとレイトの師弟コンビである。
「やあやあ、どうも。なんとか間に合ったようですね」
俺たちの目の前にまで迫ってから、カミュア=ヨシュはひらりとトトスから飛び降りた。アイ=ファやベルトンはうろんげに、ヴァン=デイロは無表情に、リコはきょとんとした面持ちで、それぞれその姿を見やっている。
「こんな朝早くから、いったいどうしたのですか? まさか、ヴァン=デイロたちのお見送りに?」
「いやいや、俺たちもヴァン=デイロに同行させていただこうかと思ってね。というか、勝手に後をついて回るだけのことですので、どうぞお気になさらないでください」
「何だよ、それ」と、ベルトンが眉を吊り上げた。
「俺たちの後をついて回って、どうしようってんだ? まさか、俺たちの稼ぎをかすめ取ろうって魂胆じゃねーだろうな?」
「滅相もない。まだまだヴァン=デイロとは語り足りないので、同行を願っただけのことだよ。復活祭の時期にジェノスに戻ろうというのなら、こちらとしても好都合だしねえ」
「あはは」と、リコは笑っていた。
「あなたは本当に、ヴァン=デイロにご執心なのですね、カミュア=ヨシュ。何だか、わたしまで誇らしい気持ちです」
「おい、まさか承知するんじゃねーだろうな? こんな胡散臭いやつを連れて歩いてたら、いらねー騒ぎのもとになるだけだぞ?」
「カミュア=ヨシュは、王都で認可を受けた正規の《守護人》なんだよ? 世間的には、わたしたちのほうがよっぽど胡散臭いんじゃない?」
あくまでも屈託なく、リコはそのように応じていた。
「それにわたしたちは、この近在の領地のことを何も知らないからね。カミュア=ヨシュがおそばにいてくれたら、すごく心強いんじゃないかなあ」
「そういえば、君たちはジェノスに来るのも初めてだと言っていたね。普段はもっと西寄りの区域を放浪していたのかな?」
「はい。セルヴァとジャガルの中央区域が、おもな巡業先でした。それがもっとも安全な区域でしょうからね。いずれジェノスのほうにも足をのばしてみようかと、母さんたちも相談はしていたのですが……けっきょくわたしとベルトンだけが訪れることになりました」
一瞬だけ悲しげな表情になりかけたリコが、それを振り払うように明るく微笑む。
それを見返しながら、カミュア=ヨシュも愛想よく微笑んでいた。
「俺はここ最近、もっぱらジェノスを拠点にしていたからね。この近在なら、いくらでも案内することはできると思うよ」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「けっきょく、連れていくのかよ!」と、ベルトンがまた不満げな声をあげた。
その目が、落ち着いた微笑みをたたえているレイトのほうを、ちらりと見る。気性は正反対のようであるが、そういえば彼らは同世代であるのだった。
(もしかしたら、カミュアじゃなくってレイトのほうを警戒してるんだろうか)
ベルトンとリコがどのような関係であるのか、俺は把握しきれていない。だけどまあ、大事な同胞であることだけは、確かであろう。そうすると、レイトのように大人びていて、なおかつ内心の読みにくい同世代の少年が、大事なリコに近づくというのは、なかなか心が安らがないものなのかもしれなかった。
「それで、俺はどちらにご案内をすればいいのかな?」
「そうですね。わたしたちは西の街道からやってきたので、できればそれ以外の見知らぬ領地を巡ってみたいと考えていました」
「ふむ。ここから東はシムに至るまで、延々と自由国境地帯だからね。で、南に進むと、すぐにジャガルの領土だから……やっぱりここはセルヴァの同胞にアスタの劇をお披露目するべく、北に向かうべきかな。半月ていどで戻る計算なら、マヒュドラの領地に近づく恐れもないからね」
「はい。それでは、北に向かいましょう!」
ベルトンの心中も知らず、リコは笑顔で俺とアイ=ファに向きなおってきた。
「それでは、出立いたします! アスタとアイ=ファも、どうかお元気で!」
そうして賑やかな客人たちは、ファの家を後にした。
アイ=ファは「やれやれ」と肩をすくめつつ、足もとに置いていた鉄鍋を抱えなおす。
「ヴァン=デイロにカミュア=ヨシュまでもが加われば、何の心配も不要であろうな。まったく、騒がしい日々であった」
「そんなこと言いながら、ヴァン=デイロとお別れするのは名残惜しいんじゃないのか?」
俺がそのように冷やかしても、アイ=ファは穏やかに微笑むばかりであった。
「半月の後には再会できるというのに、名残惜しいも何もあるか。さあ、仕事を始めるぞ」
「了解です、家長」
実のところ、今日は他にもいくつかの案件が重なっていた。俺個人のことを言えば、宿屋の商会の寄り合いに参席する予定であったし、森辺の民というくくりで考えると、族長と貴族の会合の日であったのである。
復活祭を前にして、商会では色々な議題が待ちかまえていることだろう。それに、族長と貴族の会合では、何点かの重要な議題の決が取られる予定になっている。ゲルドの貴人たちを無事に送り出し、傀儡の劇についてもようやく決着がついたばかりであるというのに、慌ただしいことこの上なかった。
さらに、次の休業日には城下町の《銀星堂》を訪れたのち、貴婦人の茶会のかまど番まで申しつけられている。それが終われば、6氏族の収穫祭も目前に迫っていることだろう。復活祭を迎える前に、まだそれだけのイベントが残されていたのだった。
(本当に、退屈なんて言葉とは無縁な日々だよなあ)
俺は確かな幸福感を胸に、そんな風に思うことができていた。
◇
そうしてまずは、宿場町で屋台の商売である。
その仕事に取り組んでいる間、ずっと張り詰めた面持ちをしていたのは、マイムであった。
マイムとミケル、ジーダとバルシャ。このふた組の親子は、今後どのような生活を送ることになるのか――それもまた、本日の会合にて決せられるのだった。
「……けっきょくマイムたちは、森辺の家人となることを望んだのですよね?」
俺と同じ屋台で『ギバ・カレー』の販売に勤しんでいたレイ=マトゥアが、そっと耳打ちしてくる。
「それなのに、マイムがあんなに心配そうな顔をしているということは……貴族たちに反対される恐れもある、ということなのでしょうか?」
「うん。俺の見た限りだと、領主のマルスタインはこちらの意向を重んじてくれそうな感じだったんだけどね。他の貴族たちから反対の声でもあがったら、それが覆されることもありえるんじゃないのかな」
俺は、そのように答えてみせた。
マイムたちも、決して軽はずみな気持ちで森辺の家人となることを望んだわけではないのだ。その覚悟が報われることを、俺は心から願っていた。
あの日――俺たちが城下町に呼び出された藍の月の18日に、ミケルたちの処遇が取り沙汰されて以来、ルウの集落では何度となく話し合いの場が設けられたのだという話であった。
まずはミケルやバルシャたちが、自分たちの身の振り方を決さなくてはならなかったのだ。その段階でも、かなり話は難航したのだと、俺はバルシャ本人から聞いていた。
「正直に言って、ジーダはこのまま森辺の民になっちまったほうが幸福なんだろうって、あたしはずっと考えていたんだよ。ただ、自分のことまでは頭になかったんだよねえ」
バルシャは、そのように述べたてていた。
ジーダは立派にギバ狩りの仕事を果たしていたし、収穫祭の力比べで勇者にのぼりつめたこともあるほどの狩人である。そんなジーダであれば、森辺の狩人として幸福に生きていくことは可能であろう――バルシャは、そのように考えていたのだという。
しかしバルシャは、ギバ狩りの仕事を果たしていない。朝方にいくばくかの野鳥を狩って、それを町で引き取ってもらい、日々の糧としていたのである。もちろんジーダがギバ狩りの仕事を果たしていたので、そちらから得られる牙や角や肉だけでも健やかに生きていくことはかなったし、バルシャも中天から後は女衆としての仕事を果たしていた。俺から見て、それは決して肩身のせまくなるような生活ではなかったのであるが、当人としては色々と思うところがあったようだった。
「何せあたしも、狩人の端くれだったからね。ギバ狩りの仕事を果たすことのできない自分が、森辺の家人に迎え入れてもらえるなんて、夢にも思っちゃいなかったのさ」
では、ジーダを森辺に預けたのち、バルシャはどのように過ごすつもりであったのか。
どうやらバルシャはジェノスを出て、あてどもなくあちこちを放浪しようと考えていたようだった。
「あたしが《赤髭党》だったってことが露見しちまった以上、やっぱりマサラには帰りにくくってさ。なんやかんやと囃したてられるのもうんざりだったし、それに……第二の《赤髭党》を作りあげようなんていう大馬鹿がいたら、あたしを担ぎ出そうと考えるかもしれないじゃないか? そういう面倒ごとに巻き込まれたくなかったっていうのが、一番の本音だね」
だから、どこの土地にも根を下ろさず、根無し草の風来坊として生き、そして人知れず魂を返そうとしていたのだという。
それを聞いて、ジーダは怒りを爆発させたのだという話であった。
「家族の俺に何の相談もなく、そんな馬鹿げたことを考えていたのか、お前は!」
「何だい。あんただって、あたしが止めるのも聞かずに、マサラを飛び出したんじゃないのさ。あんたにだけは文句を言われる筋合いはないねえ」
「それとこれとは、話が違う! 俺は……父ゴラムの無念を晴らしたかっただけだ! 好きで故郷と家族を捨てたわけではない!」
俺は後から話を聞いただけであるが、ジーダはきっと野獣のように両目を燃やしながら、母親に詰め寄っていたのだろう。
なおかつ、同じ場所で話を聞いていたマイムなどは、涙ながらにバルシャに取りすがっていたとのことである。
「わたしだって、バルシャと離ればなれにはなりたくはありません。森辺で暮らし続けたいという気持ちはもちろん……バルシャやジーダとだって、ずっと一緒にいたいと願っていたのです」
この親子の組み合わせの中で、もっとも最初に絆を深めたのは、マイムとバルシャであったのだ。まずはダレイムへの小旅行をともにして、その後には復活祭でバルシャに屋台の護衛役を頼んでいた。面識を得たのはミケルと同時でも、長い時間を過ごしたのはマイムのほうであるし、それに性格の問題もある。不愛想なミケルよりも、社交的なマイムのほうがいち早く絆を深めたというのは、妥当な話であった。
ただし、面識の話で言うならば、もっとも早くに顔をあわせたのは、ミケルとジーダであるのだ。
俺がリフレイアにさらわれた際、城下町のトゥラン伯爵邸の場所を突き止めるために、ジーダがミケルに接触した。マイムとバルシャが表舞台に姿を現す前に、そんな邂逅が果たされていたのだ。そう思えば、ずいぶん数奇な巡りあわせの上で紡がれた縁であるのだろう。
ジーダとバルシャがルウ家の客分となったのは、およそ1年と2ヶ月前。
マイムとミケルがルウの客分となったのは、およそ11ヶ月前。
その11ヶ月前の時点から、ふた組の親子は同じ家で暮らしている。大地震でその家が倒壊した際には別の家の厄介になり、その後は新築の家でまたともに暮らし始めた。まるで本物の家族のように、苦楽をともにしてきたのであろう。
そういった生活に、もっとも強い執着を抱いているのは、やはりマイムであるようだった。
トゥランは町として衰退したため、若い人間はのきなみ出ていってしまった。ゆえにマイムは同世代の友人もなく、ひたすら家で料理の修練に明け暮れていたのだという。生まれは城下町のはずであるが、5歳ぐらいの頃にはもうトゥランに移り住んでいたので、記憶はほとんど残されていないらしい。そして父親のミケルは、いつも酒びたりで絶望の底に打ち沈んでいるように見えた。
そんな生活が一変したのが、昨年の話であったのだ。
ミケルは酒を口にしなくなり、マイムを俺――ファの家のアスタに紹介した。そうして森辺の民と縁を紡ぎ、宿場町で屋台の商売を始め、野盗に財産を奪われるという苦難を経た上で、ルウ家の客分と相成ったのだった。
わずか11歳のマイムにとって、それは激動の日々であったことだろう。
そしてマイムはその中に、かけがえのない幸福を見出したのだ。
だからこそ、ミケルはマイムを現在の環境に置いておきたいと、強く願ったのではないだろうか。
マイムは森辺の集落に身を置いていたほうが、料理人としてまたとない経験を積むことができる。それもミケルの本音ではあったのであろうが、それよりも何よりも、幸福そうに過ごしているマイムの新生活を壊したくなかった。それが一番の望みであるのであろうと、俺には思えてならなかったのである。
極論を言えば、トゥランに居を戻しても、森辺の勉強会に参加することはできるのだ。ポルアースの言う通り、トゥランおよび近在の街道の安全が確保できれば、屋台の商売を果たしたのちに、森辺の勉強会に参加して、トゥランの自宅に帰還するというのは、それほど難しい話ではないはずだった。
しかしそれでも、ミケルは森辺に留まることを望んでいた。
娘の幸福は、この場所にこそある――と考えたのではないだろうか。
また実際、ミケルはそれに近い言葉をドンダ=ルウに伝えたようだった。
「マイムは俺のように不出来な父親に育てられたにも拘わらず、真っ直ぐ純真に育ってくれた。あいつだったら、森辺の民としても立派に生きていくことができるように思う。……そして、それこそがあいつにとって、もっとも幸福な生であるように思うのだ」
だから、マイムだけでも森辺の家人として迎えてはくれないか――と、ミケルはそのように言っていたらしい。
貴族たちがトゥランに戻れというのなら、自分だけ戻ればいい。そうすれば、難癖をつけられることもないだろう。ミケルは当初、そのように言っていたようであるのだ。
むろん、激怒したのはマイムである。
これは、バルシャに対するジーダとそっくりそのままの構図であった。
「どうしてわたしだけが、森辺の家人にならないといけないの!? たったひとりの家族である父さんと離ればなれになったら、意味がないじゃん!」
要するに、ミケルもバルシャも子供らの幸福ばかりを願っており、自分たちのことは二の次にしていたわけである。
親としては自然な感情であるのかもしれないが、もちろん子たるマイムやジーダには納得がいかなかっただろう。俺としても、それは同感だ。マイムとジーダだけが森辺の家人となり、ミケルとバルシャが森辺を去っていく可能性など、俺はこれっぽっちも考えに入れていなかったのである。
「だったら、あんたたちはどうなのさ? 森辺の家人になろうっていう覚悟はあるのかい?」
さんざん責めたてられたのち、バルシャはそのように反論したという。
まずそれに答えたのは、ジーダであった。
「俺は……マサラの山で、他者と絆を深めようとはしてこなかった。俺はいずれこの地を出て、父の無念を晴らすためにすべてを捧げることになるのだろうから、他者との絆など必要ない、と考えていたのだ」
「あんたをそんな風に育てちまったのは、あたしだよね。本当にもう、心の底から申し訳なく思ってるよ。……とはいえ、あたしは敵討ちに自分の生を捧げる必要なんざないって、口を酸っぱくして言いたてていたはずだけどね」
「蒸し返すな。……とにかく俺は、マサラを故郷と思う気持ちが希薄だった。俺が同胞と呼び、今後の生をともにしたいと思える相手は……この森辺にしかいないのだろうと思う」
「では、お前はどうなのだ?」
ミケルによって、マイムに矛先が向けられる。
「そんなの、父さんが思ってる通りだよ。この森辺で一生を過ごすことができたら、どんなに幸福だろうと思う。……でもそれは、父さんとバルシャとジーダがあってこそなの。わたしにとっては、森辺のみんなと父さんたちと過ごす日々が、何よりもかけがえのないものだったんだよ」
「それじゃあ、あたしとジーダがマサラに帰っちまったら、森辺の家人になる甲斐もないってわけかい?」
バルシャがそのように問い質すと、マイムはたちまち大粒の涙をこぼしてしまったという話であった。
「そんなの、考えられないよ……森辺のみんなと離れるのも、バルシャたちと離れるのも、どっちも嫌!」
「おい、マイムはまだ11歳なのだぞ。そのように追い詰めるな」
「何だい。まだ婚儀もあげてないのに、そんな亭主面されてもねえ」
「だ、誰が亭主面をしている! あ、あまりおかしなことばかり抜かすな!」
と、ふた家族合同の家族会議は、きわめて紛糾したという。
俺がこのように詳細をわきまえているのは、のちのちバルシャが面白がって、すべてのやりとりを打ち明けてくれたためである。
で――その末に出された結論が、4名とも森辺の家人になることを望む、というものであったのだった。
そうなると、お次はルウの血族会議、および族長会議の出番である。
まずはルウの血族会議で、7名の家長が道を決することになった。
そこでもさまざまな言葉が交わされたのであろうが、俺が耳にしたのは結論のみだ。
結論は、「受け入れる」であった。
ただし、2点の条項が加えられた。
まず1点は、「氏」に関してだ。
これは、実際的な血の縁が結ばれるまでは保留する、という結論に至った。
4名の誰かが、森辺の民と婚儀をあげるか――あるいは、マイムとジーダが婚儀をあげることになるならば、その子がゆくゆく森辺の民と婚儀をあげるまで、氏を授けることは保留する、ということである。
端的に言うならば、マイムとジーダの間に生まれた子が、森辺の誰かと婚儀をあげることになれば、その瞬間に、血族であるミケルやバルシャにも同じ氏が与えられる、ということであった。
それまでは、ルウ家において氏なき家人として暮らす、ということであるらしい。
そして、2点目。
それは、4名が氏を授かる前に、何か森辺の民として許されざる行いに及んだならば、家人としての立場を剥奪し、森辺を追放する、というものであった。
どうやらそれは、シュミラル=リリンに対しても適用されていた条項であったらしい。本来であれば、どのような罪を犯そうとも、森辺の掟に従って処断されるばかりであるが、氏を授かる前の段階であれば、追放のほうが相応しいのではないかという話が持ち上がったようであった。
ただし、ミケルたちに関して言うならば、明日にでも誰かと婚儀をあげれば、その時点で氏を授かることになる。若年のマイムを除けば、誰でも婚儀をあげられる身であるので、あとは本人たち次第ということだ。
しかし、ただちに血の縁を結ぶ気がないならば、それまではずっと氏を授かることがかなわない。常に追放の恐れをはらんだまま、森辺の家人として過ごすことになるわけである。
それらの条項が、ルウの血族会議において定められ、のちの族長会議においても可決される運びとなった。
そしてこのたび、ジェノスの領主たるマルスタインにも認められるかどうか、いざ城下町の会合に臨むことになったわけであった。
(俺にとっても、マイムたちがルウの集落で暮らしてる姿は、当たり前の光景になってたもんな。当人たちが望んでいるなら、何とかかなえてほしいところだけど……)
俺としては、バルシャとジーダに関してはすみやかに許しがもらえるのではないかと考えていた。もとよりジーダは森辺の狩人に相応しい力量を有していたし、出自もジェノスとは縁のないマサラである。バルシャの《赤髭党》にまつわる経歴はかなり複雑なものであろうが、そういう者たちであるからこそ、野に放つよりは領民として受け入れたほうが心も安らぐ面はあろう。サンジュラとて、そういった意味合いでリフレイアのもとに留まることを許されたのだ。
いっぽう、ミケルとマイムは――元来、森辺の民とは無縁であった、料理人とその娘だ。もちろん俺を始めとするかまど番たちの行いによって、森辺の民イコール美味なる料理というありがたい図式も構築されつつあるものの、やはり両名を森辺の民として認める積極的な理由はないように思えてしまう。
(いっそシュミラル=リリンやユーミみたいに、婚儀を前提とした話だったら、考えやすかったんだろうな。オーグなんかは、むやみに領民を受け入れるべきではないってスタンスみたいだし……トゥランからの移住ってのを、すんなり認めてもらえるんだろうか)
斯様にして、俺も悶々とした気持ちで屋台の仕事を果たすことになった。
相方のレイ=マトゥアなどは、むしろそんな俺を心配して、頻繁に顔色をうかがっているように感じられる。いかんいかんと、俺が仕事に集中しようとしたとき――小柄な人影が、ふわりと屋台の前に立った。
「あらあらまあまあ、こいつは物凄い香りですねえ。シムの香草の料理でしょうか?」
それは見覚えのない、西の民の壮年の女性であった。
髪に白いものが多く、とてもゆったりとした喋り方であったので、最初はご老人かと思ったのであるが、その黄褐色の顔は肌艶がよく、そんなに皺も刻まれていない。せいぜい40を少し過ぎたていどであるのだろう。
中肉中背で、女性には珍しく革の外套を纏っている。ディアルやアリシュナのように、ジェノスの外から訪れた人間であれば、べつだんおかしなことはないのであるが、外套というのは普通、旅人が纏うものであるのだ。然して、女性の旅人というのは稀な存在であるため、ずいぶん物珍しく感じられたのだった。
「はい。香りは強烈で、辛みもそれなりに効いてはおりますが、西や南の方々にも好評をいただいている料理です。よろしければ、おひとつ如何ですか?」
「それじゃあ、いただきましょうかねえ。お代は、いかほどです?」
「この器に半分ていどで、赤銅貨1枚と割銭、器にたっぷりで赤銅貨3枚となります。それで、その量に応じてこの焼きポイタンを1枚か2枚おつけいたします」
「他の料理も味わってみたいので、半分だけいただきましょうかねえ」
その女性は、とても柔和な微笑をたたえた。
なんだか見ているだけで、心の和まされる笑顔である。雰囲気的に、俺は《ラムリアのとぐろ亭》の女主人ジーゼを思い出していた。
料理を受け取ったその女性は、青空食堂に向かおうとはせず、ちょっと横手に退いて、立ったまま焼きポイタンを木皿にひたした。
それを口にすると、また「あらあら」と感嘆の声をあげる。
「なんとも、美味ですこと……これは驚くほど、たくさんの種類の香草を使っているようですねえ」
「はい。お気に召しましたか?」
「ええ、心から満足しておりますよ。これは他の料理も楽しみです」
そうしてその女性はゆるゆると歩を進めて、他の屋台を検分し始めた。歩き食いというのはお行儀の悪い行為であるはずなのに、そういったことも気にならない。なんというか、春先に吹きすぎる温かな風のように、のんびりとしていて自然体であるのだ。
「……なんだかすごく、感じのいいお客でしたね」
レイ=マトゥアもにこにこと笑いながら、そのように呼びかけてくる。俺が「そうだね」と笑顔を返すと、レイ=マトゥアはいっそう嬉しそうに目を細めた。
「ようやく笑ってくれましたね、アスタ。今日は朝から真剣なお顔ばかりだったので、ちょっと心配していたのです」
「うん、ごめんね。やっぱり城下町の会合が気になっちゃってさ」
俺がそのように答えたとき、横合いからTシャツの袖を引っ張られた。
振り返ると、『ギバまん』を担当していたヤミル=レイが、視線で横合いを指し示している。そちらは北の方角であり、街道の彼方から見覚えのある一団が近づいてくるところであった。
先頭を歩いているのは、トトスの手綱を握ったガズラン=ルティムだ。
会合を終えた人々が、城下町から戻ってきたのだ。
「お疲れ様です、アスタ。しばし向こうで、お話をよろしいですか?」
「はい、もちろんです!」
その間に、サウティとフォウの荷車は、俺たちに目礼をしつつ通りすぎていく。ザザの荷車はいつも通り、宿場町よりも北側にある道から森辺に戻ったのだろう。
屋台を離れたのは、俺とマイムとトゥール=ディン、それにレイナ=ルウとツヴァイ=ルティムの5名であった。本日は屋台および生鮮肉の課税に関しても決を取られたはずであるので、それぞれ屋台の責任者が話を聞く段取りになっていたのだ。
街道をはさんだ向こう側のスペースは空き地であったので、ガズラン=ルティムはそちらで待ちかまえている。そちらに足を向けながら、俺は「あれ?」と周囲を見回した。
「さっきのお客さん、いなくなっちゃったのかな。……ねえ、トゥール=ディン、革の外套を着込んだ年配のご婦人を見かけなかったかい?」
「あ、そのお客でしたら、こちらの菓子とマイムの料理を買って、食堂のほうに向かわれました」
俺がガズラン=ルティムたちの姿に気を取られている間に、用事を済ませていたらしい。ちょこちょこと歩を進ませながら、トゥール=ディンは不思議そうに小首を傾げていた。
「あのお客が、どうかされたのですか?」
「いや、ちょっと印象的なお人だったからさ。女性で外套を纏っているのは、珍しいしね」
ともあれ今は、会合の結果を聞くのが先決だ。
俺たちが荷車に近づいていくと、ルド=ルウが荷台からひょっこりと顔を出した。今日も族長のお供で同行していたのだ。
「よー、お疲れさん。マイムたちのことは、丸く収まったぜー?」
何の前置きもなしにそのように言われて、マイムは慄然と立ちすくむことになった。
「あ、あの、丸く収まったということは、その……」
「はい。マイム、ミケル、ジーダ、バルシャの4名を、森辺の家人として迎えることを許すと、ジェノス侯爵マルスタインから言葉をいただくことがかないました。本日は、マルスタイン自身も参席していたのです」
ガズラン=ルティムの言葉に、マイムはぐらりと倒れかかった。
トゥール=ディンが慌てて手を差しのべると、マイムはその身体にすがりつき、声をあげて泣きだしてしまった。
「何だよ。きっと大丈夫だって、親父たちも言ってたろー? 何も泣くことねーじゃねーか」
デリカシーという概念とはあまり縁のないルド=ルウが、冷やかすように声をあげる。しかし、色の淡いその瞳には、ずいぶん優しげな光がたたえられているような気がした。
「これでお前らは4人とも、ルウの家人ってことだからなー? 族長筋の名前を汚さねーように、しっかりやるんだぞ?」
「マイムたちであれば、心配は不要でしょう。そうだからこそ、ドンダ=ルウも家人になることを許したのでしょうしね」
そのドンダ=ルウは荷台に引っ込んだまま、姿を見せようとはしなかった。
泣きじゃくるマイムの両肩を抱いたトゥール=ディンも、その感じやすい目に涙をためている。
「マイムも、森辺の同胞となるのですね。心から、嬉しく思います。……そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
それでもマイムは、しばらく答えることができなかった。
ともあれ――森辺の民は、ここに新たな4名の同胞を迎えることになったわけである。
ファの家のアスタとシュミラル=リリンを加えて、これで6名もの外界の人間が森辺の民となることを許されたのだ。新たな年の到来を目前に、森辺の民はまた大きな変革を迎えたということに他ならなかった。