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異世界料理道  作者: EDA
第四十三章 傀儡使いと老剣士
740/1680

母なる森の腕の中で

2019.5/14 更新分 1/1 ・5/18 一部文章を修正

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

「……これにて、『森辺のかまど番アスタ』の物語は読み終わりでございます」


 舞台の横に現れたリコが、ぺこりと一礼した。

 一瞬の静寂の後、津波のごとき歓声と拍手が爆発する。

『姫騎士ゼリアと七首の竜』をお披露目した際とは、比べ物にならないぐらいの勢いである。いかにあのときよりも人数が増えていたとはいえ、凄まじいまでの歓呼であった。


 ほんの少しだけ不安そうな顔をしていたリコは、たちまち頬に血をのぼらせて、もういっぺん深々とお辞儀をする。いっぽうベルトンは外した帽子を胸もとに押し当てながら、天を仰いで息をついていた。


 そうしてようやく歓声が引いていくと、今度は異様な雄叫びが響きわたる。

 重低音と超音波が入り混じったような、音響爆弾のごとき雄叫び――それは、ミダ=ルウの泣き声であった。


「うるせえぞ、何の騒ぎだ?」


 ドンダ=ルウが顔をしかめて振り返ると、おんおんと泣きわめくミダ=ルウの隣で両耳をふさいでいたルド=ルウが声をあげた。


「劇が終わるまでは、こらえておけって言っておいたんだよ! ミダ=ルウもきちんとこらえてたんだから、叱らねーでやってくれよな!」


 俺がミダ=ルウのこのような姿を見るのは、3度目のことであった。

 1度目はこのルウの集落で、家族たちと引き離されそうになったとき――2度目は、テイ=スンの遺体が森辺に届けられたときだ。


 地面にへたりこんだミダ=ルウは、赤子のように泣きじゃくっていた。ここからはそれなりの距離があるのに、びりびりと振動が伝わってきそうなほどである。

 ともすれば、その振動が俺の涙腺をも震わせてしまいそうだった。

 ミダ=ルウが、これほど身も世もなく泣きじゃくっているのだ。その姿を見ているだけでも、俺は心を揺さぶられてならなかったのである。


 しかしドンダ=ルウは、族長としての厳しい眼差しでミダ=ルウを見やっていた。血の縁を絶たれた人間の死を嘆くことは、森辺において習わしに背く行いであるのだ。この場にいるのがルウの血族だけであるならばまだしも、他の族長筋やジェノスの貴族たちまで居合わせているとなると、ドンダ=ルウも非情にならざるを得ないのだろう。ドンダ=ルウは険しく眉を寄せつつ、ミダ=ルウの泣き声にも負けない声で命じた。


「だったら、どこかの家にでも押し込んでおけ! これでは、言葉を交わすこともままならんわ!」


 「どこのどいつが、ミダ=ルウを動かせるってんだよ? ダン=ルティムとディック=ドムでも呼びつけるかー?」


 すると――優美な輪郭をした人影が、ミダ=ルウの前に歩を進めた。

 誰あろう、ヤミル=レイである。


「さあ、もういいでしょう、ミダ=ルウ? あなたがそんな風に悲しんでいると……テイ=スンの魂だって、悲しみにとらわれてしまうわよ」


「……ミダは……ミダは、テイ=スンに会いたいんだよ……?」


 えぐえぐとしゃくりあげながら、ミダ=ルウはそのように訴えかけた。

 こまかく編み込まれた黒褐色の髪をかきあげながら、ヤミル=レイは小さくかぶりを振る。


「テイ=スンの魂は母なる森に返されたのだから、いまだってわたしたちを見守っているのよ。だから、そのように嘆き悲しむ必要はないの」


「そうです」という声とともに、新たな人影が進み出る。

 それは、オウラ=ルティムであった。

 その身体に取りすがったツヴァイ=ルティムは、母親の胸もとに顔をうずめながら、小さく肩を震わせている。


「母なる森に返された魂は、また姿を変えて人の世に戻ります。大きな罪を犯したテイ父さん……いえ、テイ=スンの魂は、いまだ母なる森の腕の中で、罪を贖っているさなかでしょうが……それでもわたしたちが森辺の民である限り、かたわらにあることができるのです」


 ミダ=ルウは大粒の涙をこぼしながら、かつての姉と義母の姿を見比べた。


「でも……ツヴァイ=ルティムも、泣いてるんだよ……?」


「うるさいヨ! アタシはアンタみたいに泣きわめいちゃいないからネ!」


 母の胸もとに顔をうずめたまま、ツヴァイ=ルティムは涙声でわめき散らした。

 そこにまた、新たな人影が寄っていく。ぼろぼろと涙を流した、ディガとドッドである。


「何だよ、ルウの勇者に選ばれるぐらい立派な狩人になったって話だったのに、そういうところは何も変わってないじゃねえかあ」


 涙に濡れた顔で笑いながら、ディガがそのように述べたてた。

 ミダ=ルウはぶるぶると頬を震わせながら、そちらに向きなおる。


「ディガ……ドッド……ミダは……」


「わかってるよう。俺たちがお前をいたぶってると、いつもテイ=スンが助けに来てくれたもんなあ」


「お前にとっては、親父よりもテイ=スンのほうが、よっぽど父親みたいな存在だったんだろう」


 そんな風に言いながら、ドッドはミダ=ルウの分厚い肩をわしづかみにした。


「でも、俺たちもそうだったんだ……お前はまだ赤ん坊だったから知らねえだろうけど……俺たちがミギィ=スンにいたぶられてるとき、助けてくれるのはテイ=スンだけだったんだよ」


「それなのに俺たちは、お前に同じ苦しみを与えていた……ミギィ=スンに逆らえなかった分、お前をいたぶって憂さ晴らしをしちまったんだろう」


 逆の側から近づいたディガが、ミダ=ルウの大きな頭を抱え込んだ。


「本当に悪かった……でも、お前が立派な狩人になって、一番喜んでるのはテイ=スンだよ、きっと」


「ああ。だからそんな風に泣きわめいて、テイ=スンを心配させるなよ」


 かつて兄であったふたりにはさまれて、ミダ=ルウは涙をこぼし続けていた。

 そんなミダ=ルウたちの姿を見届けてから、オウラ=ルティムはこちらを振り返る。


「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。だけどこれは、あなたの傀儡の劇というものが、見事な出来栄えであったためなのでしょう。まるで……テイ=スンがその場に蘇ったかのようでした」


「ありがとうございます。……あなたがたのお心を踏みにじるようなことにはなりませんでしたか?」


 リコが真剣な面持ちで問い返すと、オウラ=ルティムは「ええ」と静かに微笑んだ。


「もちろん、心は痛みます。でも、この痛みさえもが、わたしたちにとっては大事な思い出であるのです。あなたはその不思議な技で、わたしたちの心中にある思い出を見事に体現させましたが……その思い出を汚したりは、決してしませんでした」


 オウラ=ルティムが、わずかに視線を持ち上げた。

 もしかしたら、それはこぼれそうになる涙をこらえているのかもしれなかった。


「わたしたちは、ザッツ=スンの教えが正しいものであると信じたいと願いながら、信じきれずに魂を腐らせていくことになりました。もっともザッツ=スンのそばにあり、さらなる大罪にまで手を染めることになったテイ=スンは、それよりも大きな絶望の中で日々を過ごしていたのでしょう。あなたはテイ=スンと顔をあわせたこともないのに……テイ=スンの抱いていた絶望と無念を、見事にとらえていたと思います」


「それはあなたがたが、何も包み隠さずにすべてを語ってくれたからだと思います」


 リコはまた、深々と頭を下げていた。

 ドンダ=ルウは、「ふん……」と顎髭をまさぐっている。


「さしあたって、俺はさきほどの劇の内容に不満を抱いてはいない。ダリ=サウティにゲオル=ザザよ、貴様たちの心情を聞かせてもらおう」


「俺も、不満はない。俺がぶざまな姿をさらしたのも、本当のことであったしな」


「ああ。俺などはすべて伝え聞いた話ばかりであったが、その場に立ちあっていたディック=ドムらも不満はないと言っている。べつだん、森辺の民の誇りを汚すような内容ではなかろう」


 ドンダ=ルウは「うむ」とうなずき、俺とアイ=ファに向きなおってくる。


「では、貴様らはどうだ? 肝要なのは、貴様らの心情であろうな」


「俺も、文句はありません。最初から最後まで、見事な出来栄えであったと思います」


 俺はそのように答えてみせたが、アイ=ファは仏頂面で頭をかき回していた。


「私もこれが、事実を歪めた内容だとは思わん。……しかし、これがあちこちの人間の目にさらされるかと思うと……いささか、背中がむずがゆくなってしまうな」


「どこかに不備でもあったでしょうか?」


 たちまちリコが詰め寄ってきたので、アイ=ファはいっそう苦い顔になってしまう。


「不備がないから、このような気持ちになってしまうのであろう。……私とアスタのやりとりなど、ここまで細かに語る必要はないのではないか?」


「いえ! そもそもアスタがこの地を第二の故郷と定められたのは、アイ=ファの存在があってこそなのです! アスタとアイ=ファの絆を描かない限り、この物語に生命を吹き込むことはかなわないでしょう!」


 アイ=ファは赤い顔をして、リコを追い払いたいかのように手を振った。

 その姿を見届けてから、ドンダ=ルウはメルフリードに向きなおる。


「俺たちは、この内容で文句はない。あとは、そちらで判じてもらおう」


「うむ。わたしとしても、文句をつける気はないのだが――リフレイア姫は、如何であったろうかな」


 俺は慌てて、リフレイアのほうを振り返った。ミダ=ルウたちに気を取られて、すっかり彼女のことを失念してしまっていたのだ。


 リフレイアは、ディアルの肩に取りすがって、声もなく泣いていた。

 その向こうでは、ムスルがこれ以上もないぐらいあたふたしている。しかし、リフレイアの背中を抱いたディアルは、いつになく優しい面持ちで微笑んでいた。


「リフレイア、メルフリードがご感想をお聞きしています。もう少し時間をいただきましょうか?」


「いえ、大丈夫……大丈夫よ」


 ディアルから渡された織布で顔をぬぐってから、リフレイアは毅然とメルフリードを見返した。


「何も問題はないわ。……あなたこそ、これで本当によろしいの、メルフリード?」


「とは、どういう意味であろうか?」


「この傀儡の劇は、父様の誇りを守るような内容ではなかったかしら? トゥラン伯爵家の誇りを汚すような内容は許されないのでしょうけれど、逆に、大罪人を庇い立てするような内容だって許されないはずよ」


 メルフリードは灰色の瞳を冴えざえと光らせながら、無感動に答えた。


「それは確かに姫の言う通りであるが、これが大罪人を庇い立てするような内容だとは思わなかった。わたしが実際にこの目で見届けた場面も、過不足なく語られていたように思う」


「そう……とにかくわたしは、異論など持ちようもないわ。ついつい取り乱してしまったのは、あちらの大きな身体をした狩人……ミダ=ルウ、だったかしら? ミダ=ルウと同じ理由なのでしょうからね」


 すると、リコが両名の前に膝をついた。

 その顔は、緊迫の表情を浮かべている。


「恐れ多きことながら、言葉をはさませていただきます。……本当に、内容に不備はなかったのでしょうか?」


「うむ? 我々が言葉を飾る理由はない。むしろ……城下町における審問や、最後の寝所の場面などは、自分でも忘れていたような言葉の数々を聞かされて、驚嘆させられたほどだ。どうしてあれほどまでに、正確に再現することがかなったのであろうな?」


「それは、数多くの方々がお力を貸してくださったからに他なりません。特に最後の場面などは、アイ=ファが事細かに話の内容を教えてくださりました」


 そういえば、俺がかまど仕事に励んでいる間、アイ=ファもリコとはそれなりに長きの時間を過ごしていたのである。アイ=ファの驚異的な記憶力が、リコの芝居に血肉を与えたのかもしれなかった。


「ならば、案ずる必要もあるまい。そもそもそちらとて、納得のいく劇を作りあげることがかなったからこそ、この場で披露したのであろう?」


「はい。ですが……一点だけ、気がかりな点があったのです。それが貴き方々のお怒りやお嘆きを招くことになるのではないかと案じておりました」


「ふむ。それは、どの点についてであろうか?」


 リコは深く頭を垂れて、それでも毅然とした声で言った。


「それは、前当主の弟君であられた、シルエルという御方についてです。どれだけの方々からお話をうかがっても、この御方だけは……どうしても、悪逆な存在としてしか描きようがなかったのです」


 メルフリードは、「ああ」と息をついた。


「それは実際に、あの者が悪逆であったのだから、当然のことであろう。何を案ずる必要があるのであろうか?」


「竜や、妖魅や、邪神の眷族、あるいは、盗賊や、暗殺者や、架空の国の王など、そういったものを悪逆な存在として描くのは、傀儡の劇の常道です。ですが、つい先頃までこの世にあり、しかも前当主の弟君であられたという御方を、そのようなものどもと並び立つような存在に仕立てあげてしまって、本当に許されるのかと……それを案じていた次第です」


「繰り言になるが、あの者は根から悪逆なる存在であった。それを善なるものとして描くことこそ、許されざる行いであろう」


 メルフリードは、鋼のような声音でそう言い切った。


「あの者も、何か事情があって道を踏み外したのやもしれん。しかし、どのような理由があろうとも、決して許されないような大罪を重ねてきた。そして最後まで、己の罪を悔いることもなかったのだ。わたしの知る限り、あれほど純然たる悪人というものは、他に存在しない」


「そうですか……」と答えながら、リコはちらりとリフレイアを見やった。

 赤い目をしたリフレイアは、敢然とそれを見つめ返す。


「シルエルはわたしの叔父にあたる存在であるから、心配しているのかしら? わたしはあの者と、ほとんど親しく口をきいた覚えもないのよ。いまにして思えば……あの者を恐れていた父様が、わたしを遠ざけていたのじゃないかしらね」


 そしてリフレイアの鳶色の瞳に、強い光が瞬いた。


「そして、あの者は……父様が自分を恐れて悪の道に堕ちたことを、愉悦の気持ちで眺めていたと……そんなおぞましい告白をしたのだと聞いているわ。それが真実であるとしたら、あの者はわたしの父様の仇となるの。あの者をどれほど悪逆な存在に仕立てあげられたって、わたしの胸が痛むはずもないわ」


「……承知いたしました。みなさまのお怒りを買わなかったのなら、ありがたく思います」


「ふん……あなたは自信をもって、あの劇を作りあげたのでしょう? たとえわたしたちの怒りを買おうとも、その内容を変える気にはなれなかったのじゃないかしら?」


「それは……」と、リコは口ごもる。

 リフレイアは、強い表情で微笑んだ。


「あなたの劇は、見事であったわ。トゥラン伯爵家の当主として、わたしは心から満足しているの。許されるなら、銀貨を授けてあげたいぐらいね」


「この者たちに褒賞を授けることは、ジェノス侯に禁じられている」


「わかっているわ。だから、許されるなら、と言ったじゃない。……そういえば、メルフリードを登場させなかったのは、ジェノス侯爵家に対する配慮であるのかしら?」


「いえ。ですが、『ダバッグのハーン』なる者がそちらのメルフリード様であるということは、隠されていない代わりに公にもされていないというお話でした。それに加えて、物語を煩雑にする内容だと思えてしまったので……描くことを取りやめた次第です」


「そう。残念だったわね、メルフリード」


 リフレイアはくすくすと悪戯っぽく微笑んだ。

 だいぶん彼女らしいしたたかさが戻ってきたようである。メルフリードは彫像のごとき無表情でそれを弾き返してから、フェルメスへと視線を転じた。


「内容に不備は見られなかったので、こののちは城下町においても披露してもらおうと思う。何かご異存はあろうか?」


「僕としても、王国の権威を汚すような内容だとは思いませんでした。みなさんにご不満がないのでしたら、どうぞご随意に」


「了承した」と、メルフリードは立ち上がった。


「それでは我々は、城下町に戻らせていただこう。傀儡使いの一行は約定通り、下りの二の刻までに、城門まで出向いてもらいたい」


「承知いたしました。このたびはご足労をおかけしまして、心よりお礼とお詫びの言葉を申し上げさせていただきます」


 メルフリードを先頭に、貴き人々は広場の出口へと向かっていく。

 すると、ジェムドを引き連れたフェルメスだけが、俺のほうに近づいてきた。


「どうもお疲れ様でしたね、アスタにアイ=ファ。ひとつだけおうかがいしたいのですが……ただいまの傀儡の劇は、のきなみ事実に則していたのでしょうか?」


「はい。多少の脚色はされていましたが、大筋の部分では事実そのままであったと言えるかと思います」


「そうですか。非常に興味深いところですね。僕は城下町に戻ったら、いまの筋書きを書面にしたためたく思います」


「え? 書面にしたためて、どうするのです? 報告書の一部として扱われるおつもりなのでしょうか?」


「いえいえ。脚色されている時点で、報告書には使用できません。あくまで、僕個人の楽しみのためにです」


 フェルメスは、にこりと微笑んだ。

 もちろんアイ=ファは、俺のかたわらで仏頂面である。


「あの傀儡使いの少女は、数日をかけて話を聞いて回ったのですよね。僕もそれぐらいの時間をかけて、森辺の人々と絆を深めたいものです。……それでは、また再会の日を楽しみにしています」


 それでようやく、フェルメスたちも立ち去っていった。

 それを待ちかまえていたように、大勢の人々がわっとリコたちを取り囲む。


「リコたちの劇、ほんとにすごかったよー! アイ=ファもアスタも、本物みたいだった!」


「うむ! テイ=スンとのやりとりなども、俺が見たままであったな! よくもああまで、自分が見ていたかのように語れるものだ!」


「あの傀儡って、木でできているのでしょう? わたしたちにも作れるものなのでしょうか?」


 リコとベルトンは小柄であるので、すっかり姿が見えなくなってしまう。

 俺とアイ=ファはその人垣から距離を取って、ひと息つくことにした。


 ミダ=ルウたちはどうしただろうと思って視線を巡らせると、かつて家族であった6名が寄り集まったまま、何やら語らっている様子である。

 いまは余人が近づくべきではないだろう。俺はそのように判じて、アイ=ファに笑いかけることにした。


「みんなリコたちの劇に胸を打たれたみたいだな。俺たちは、あとでゆっくり挨拶をさせてもらおうか」


「うむ。私もいささか、心を休めたいところであるからな」


 そのように述べるアイ=ファは、ずいぶんぐったりとした様子であった。フェルメスがいなくなるまではと、ずっと気を張っていたのだろう。


「アイ=ファはひどく気疲れしてるみたいだな。まあ、気持ちはわからなくもないけどさ」


「うむ……他の氏族や町の人間たちまでもがあの劇を目にするのかと思うと、頭が痛くなりそうなほどだ」


「あはは。でもまあ、いいじゃないか。べつだん、事実から外れた内容ではないんだしさ」


「……だから余計に、気が重いのではないか」


 と、アイ=ファはまたいくぶん頬を赤くした。

 俺がアイ=ファをどれだけ大切に思っているか、アイ=ファが俺をどれだけ大切に思ってくれているか――そういったことも、あの劇にはぞんぶんに香りたっていたのだ。

 劇の中で、俺とアイ=ファが抱き合ったりしていたわけではない。そのような場面を描かずとも、ふたりの間に流れる情愛が、はっきり伝わってくるかのようであったのだった。


(それはつまり、リコがそういう雰囲気をも、見事に再現せしめたってことなんじゃないのかな)


 これ以上アイ=ファの心労を増やさないように、俺は心中でそのようにつぶやいた。

 そのとき、ふた組の夫妻がしずしずと俺たちのほうに近づいてきた。


「お疲れ様でした、アスタにアイ=ファ。実に見事な劇でしたね」


「あ、これはみなさん、おそろいで」


 それは、ルティム本家の家長夫妻と、リリン本家の家人の夫妻であった。俺にとっては、夢のような組み合わせである。アマ・ミン=ルティムの腕には、もちろんゼディアス=ルティムが抱かれていた。


「けっきょくルウ家で傀儡を作られたのは、ドンダ父さんだけだったわねぇ……何だか、ほっとしちゃったわぁ……」


「そうですね。わたしなどは傀儡を作られる理由もありませんが、そのようなことになったら誇らしさと気恥ずかしさでどうにかなってしまいそうです」


 ヴィナ・ルウ=リリンとアマ・ミン=ルティムが、静かな面持ちで微笑み合う。彼女たちが言葉を交わす場面など、これまでにいくらでも目にしてきたはずであるのに、何だかものすごく新鮮に思えてしまった。


「ガズラン=ルティム、登場しないこと、意外でした」


 と、今度はシュミラル=リリンがそのように述べたてる。

 ガズラン=ルティムは、穏やかな笑顔でそれに応じていた。


「私は家長会議に参じていませんし、その後もドンダ=ルウを補佐する役割でしたからね。とりたてて、登場させる必要がなかったのでしょう。べつだんそれを、口惜しいとは思いません」


「はい。アマ・ミン=ルティム、言う通り、傀儡の劇、登場する、栄誉と羞恥です。……アスタ、アイ=ファ、少し心配です」


「ええ、本当に。誇らしさと気恥ずかしさが渦を巻いている感じですね。でも、劇の出来栄えが素晴らしかったので、これが世に広められるのは正しいことなのだと思うことができました」


 それが、俺の本心であった。

 少なくとも、事実から外れた風聞が行きわたっている地において、あの劇が披露されるのは、きわめて有意なことであろう。


「それに、家長会議の様子なんかは、森辺の民じゃないと知り得ないところですからね。森辺の民がどういう存在であるのか、それを正しく知ってもらうこともかなうのではないでしょうか」


「そうですね。スン家とトゥラン伯爵家は、大罪人を生み出してしまった恥や無念をさらすと同時に、相応の誇りを取り戻せるかと思います。森辺の民とジェノスの貴族も、それは同じことなのでしょう」


 ガズラン=ルティムのその言葉で、俺はまったく異なる案件を思い出すことになった。


「そういえば、さっきディガたちが口にしていたミギィ=スンというのは、誰のことでしょう? まだそのお人は、スンの集落に留まっているのでしょうか?」


「いえ。ミギィ=スンは、10年ほど前に魂を返しました。ミギィ=スンについては、アスタもご存知なのではないでしょうか?」


「いえ、初めて耳にした名前です。というか、俺がスン家で名前を知るのは、だいたい本家であった人たちぐらいなのですよね」


「そうでしたか。ミギィ=スンというのは、かつての分家の家長で……20年ほど前に、ルウとスンの絆を断ち切った大罪人であるとされています」


 俺は思わず、息を呑むことになってしまった。


「それはつまり……ルウ家に嫁入りが決まっていた女衆をかどわかした者のことですか? それでしたら、アイ=ファから話を聞いています」


「ええ、その人物です。それにその人物は、ファの家とも悪縁があったのではないですか?」


 ガズラン=ルティムの言葉に、アイ=ファは「うむ?」と小首を傾げた。


「そのような話は、聞いておらんな。その者が10年前に魂を返したのなら、私は当時8歳の幼子であったはずだ」


「いえ。ミギィ=スンとファの家に悪縁が生じたのは、アイ=ファが生まれるよりも前の話となります。私も祖父ラーから聞いた話であるのですが……その者は、ファの家長の伴侶となる予定であった女衆に興味を寄せて、家長会議の際に嫁入りを迫ったのだそうですよ」


 今度は、アイ=ファが息を呑む番であった。


「それは、私の父母の話であるのか? それとも、祖父や祖母の話であろうか?」


「それはムファの女衆がかどわかされたのちの話であったので、アイ=ファの両親の話であるのでしょう。ミギィ=スンが、今度はファの女衆をかどわかすのではないのかと、当時の祖父ラーやルウの先代家長などは、たいそう気を立てていたそうです」


「そのような話は、まったく聞いていなかった。……まあ、私の父ギルであれば、相手が族長筋であっても容赦はしなかったろうがな」


「ええ。ミギィ=スンがよからぬ真似に及ばぬうちに、すみやかに婚儀をあげたのだと聞いています。家長会議の場においても、ミギィ=スンに怯む様子はまったくなかったようですね」


 そうしてガズラン=ルティムは、遠い何かを見据えるように目を細めた。


「そのミギィ=スンが、ディガたちを虐げていたとは知りませんでした。もしかしたら、ディガたちは……ミギィ=スンを恐れる余りに、ミギィ=スンに成り代わろうとしてしまったのかもしれませんね」


「うむ? それはどういう意味であろうか?」


「アイ=ファに執着していたディガは、ミギィ=スンに似ているように思えたのです。ミギィ=スンは10年ほど前に魂を返していましたが、心に植えつけられた恐怖を払拭するために、ミギィ=スンのような強さを求めたのではないかと……そんな風に思ってしまいました」


「なるほど。狩られる恐怖、忘れるため、狩る側、回る。弱者の理です」


 シュミラル=リリンは納得した様子であるが、アイ=ファは不機嫌そうな面持ちで首を振った。


「私には、とうてい理解し難い心情であるようだな。まあ……そのように暴虐な人間がそばにあったことは、同情してやらなくもないが」


「はい。暴虐な人間は、周囲の人間の運命をも狂わせます。我々にとっては、その根源がシルエルだったのではないでしょうか」


 ガズラン=ルティムの双眸に、鷹のごとき鋭い光が浮かびつつあった。


「スン家の人々はザッツ=スンに狂わされ、ザッツ=スンはサイクレウスに狂わされ、サイクレウスはシルエルに狂わされた、と考えると……すべては、シルエルに帰結してしまうのです。そしてシルエルは、自分には最初から人間らしい心など備わっていなかったのだと、まるでそれを誇っているかのように述べたてていました。そうであるからこそ、リコたちもシルエルを悪逆な存在としか描きようがなかったのかもしれません」


「ガズラン」と、アマ・ミン=ルティムが伴侶の腕を取った。

 ガズラン=ルティムはまぶたを閉ざし、ふっと息をつく。


「……申し訳ありません。リコたちの劇があまりに見事であったために、私もシルエルの存在を強く思い出してしまったのです」


「しかし、すべては終わったことだ。あやつはすでに、魂を返しているのだからな」


 アイ=ファの言葉に「ええ」とうなずいてから、ガズラン=ルティムはまぶたを開いた。そこに灯るのは、もういつも通りの穏やかな光である。


「リコたちの劇には、感服させられました。かなうことであれば、彼女たちの劇をあますところなく拝見したいものです」


「そうですね。それは俺も、同じ気持ちです」


 俺がそのように答えたとき、ちょうど当人たちがこちらに近づいてきた。ようやく熱狂した人々から解放されたようだ。


「アスタにアイ=ファ、このたびはありがとうございました! 傀儡の劇を完成させることができたのは、お話を聞かせてくれたすべての方々のおかげですが、やっぱりおふたりには重ねて御礼を言わせてください!」


 頬を火照らせたリコの左右には、ベルトンとヴァン=デイロも控えている。ベルトンはきわめて複雑そうな面持ちで首筋をまさぐっており、ヴァン=デイロは普段通りの不愛想な面持ちである。


「こちらこそ、素晴らしい劇をありがとう。渾身の力作だったね」


「はい! まだまだ至らない点もありますので、それは何年かけてでも納得のいくように仕上げたいと思います!」


 そうしてリコは、ガズラン=ルティムたちにも頭を下げ始めた。

 その姿を見やりながら、ガズラン=ルティムはやわらかく微笑む。


「そういえば、私も一点だけ気になる場所がありました。不備、というほどのものではありませんが、いささか違和感を覚えてしまったのです」


「はい! それは、どの場面のことでしょう?」


「アスタがさらわれた際の、リフレイアについてです。あの場面だけ、リフレイアがリフレイアらしからぬように思えてしまったのです」


 そのように述べてから、ガズラン=ルティムは優しげに目を細めた。


「とはいえ、あなたは今日、初めてリフレイアと顔をあわせたのですよね。そうであるにも拘わらず、あなたの演じるリフレイアはリフレイアそのものであるように思えました。ただ、最初のあの場面だけは、リフレイアらしからぬように思えてしまったのです」


「ああ……それはもしかしたら、アスタからしか話を聞くことができなかったからかもしれません。他の場面ではアイ=ファを始めとするさまざまな人たちから話をうかがうことができたのですが、あの場面だけはアスタしか立ちあっていなかったのです」


 それはまあ、俺がトゥラン伯爵邸に軟禁されていた間のことは、俺しか立ちあっていないのが当然であろう。リフレイア当人はもちろん、ムスルやシフォン=チェルやロイから話を聞くすべもありはしなかったのだ。


「では、他の場面のリフレイア姫を参考にして、もういっぺん練りなおそうと思います。貴重なご意見を、ありがとうございました!」


「いいえ、とんでもない。……あ、あと一点だけ、よろしいでしょうか?」


「はい、なんなりと!」


「あの劇は、続きがあるような終わり方であるように思えたのです。もしかしたら、三幕目というものを作ろうというお気持ちであるのでしょうか?」


 とたんにリコは、気恥ずかしそうにもじもじとした。


「はい。もしもアスタにお許しをいただけたら、いずれ三幕目を作らせていただけないかと……そのように考えていました」


 アイ=ファが「なに!?」と仰天すると、リコは慌ててそちらを振り返る。


「それはもちろん、遠い先の話です! まずは二幕目までを完全に仕上げないと、お話になりませんので! 来年か、再来年か、その次の年か……とにかく、わたしがもっと傀儡使いとしての腕を上げることがかなったら、三幕目にも挑ませていただきたいのです!」


 アイ=ファは、それこそ頭痛でも覚えたように額をおさえていた。

 それをなだめるべく、俺は「いいじゃないか」と笑ってみせる。


「何年も先のことを、いまから思い悩むことはないさ。でも、あの騒動を終えた後の俺の生活なんて、劇にするほどの華々しさに欠けるんじゃないのかな?」


「そのようなことはありません! ダバッグへの旅だとか、復活祭の様子だとか……貴き方々にお許しをいただけるなら、聖域の民や《颶風党》の物語も残されていますからね!」


 そんな風に言ってから、リコはにこりと微笑んだ。


「それにアスタはこれからだって、華々しい生を送っていくことになるのでしょう。幸いなことに、わたしはアスタよりも年少なので、それらのすべてを見届けて、それらのすべてを傀儡の劇に仕立てたいと願っています!」


 それは何とも、壮大なる構想であった。

 俺は「そっか」とまた笑ってみせる。


「いまから約束はできないけれど、そんな風に言ってもらえるのは光栄だよ。立派な傀儡使いになれるように、頑張ってね」


「ありがとうございます!」と、リコは深く頭を下げた。

 そうして面を上げたかと思うと、おもむろに胸のあたりをまさぐり始める。


「あの、それで……御礼というにはあまりに粗末なのですが、アスタとアイ=ファにこれを受け取っていただきたいのです」


 ワンピースのような装束の模様にまぎれていたが、そこにはポケットが作られていたのだ。

 リコがそこから取り出したのは、小さなこけしのような木作りの人形であった。


「うわ、もしかしたら、これは俺とアイ=ファかい?」


 もしかしなくても、そうなのだろう。それは人間の親指ていどの小さな作りであったが、実にこまごまとした彩色がほどこされて、俺とアイ=ファの姿が体現されていたのである。


「アスタはアイ=ファの人形を、アイ=ファはアスタの人形をお受け取りください。大事な家族の人形は、またとないお守りになるのだと、わたしは母から教わりました」


 俺はリコの手の平からアイ=ファの人形をつまみあげて、間近から観察させていただいた。

 頭は黄色、瞳は青色、肌は褐色に塗られており、黒褐色の狩人の衣を羽織っている。その隙間から覗く胸あてと腰あてには、実に緻密な筆致でカラフルな渦巻模様までもが描かれていた。

 腕も脚もない簡単な作りであるものの、どこからどう見てもアイ=ファである。青い豆粒のような瞳は、えもいわれぬ愛くるしさで俺を見つめ返していた。


 さらにその首もとには、牙と角の首飾りにまぎれて、瞳と同じ色彩がぽつんと点されている。俺がどのような思いでもって、アイ=ファにこの首飾りを贈ったか、それもリコには伝達済みであったのだった。


「ありがとう。すごくよくできてるね。大事にさせてもらうよ」


「はい! アイ=ファも受け取っていただけますか?」


 アイ=ファは両手で俺の人形を包み込むと、それを胸もとにぎゅっと押し抱いた。

 たくさんの人々に見守られているというのに、こらえかねたように口もとをほころばせている。


「お前の心情を、ありがたく思う。大切に扱うと約束しよう」


「ありがとうございます」と、リコは嬉しそうに微笑んだ。

 やわらかい眼差しでそれらのやりとりを見守っていたシュミラル=リリンが、「あの」とひかえめに声をあげる。


「今後、あなたがた、どうするのでしょう? 復活祭、近いですが、ジェノス、留まるのでしょうか?」


「いえ。せっかくですので、いったんジェノスを離れて近在の領地を巡ってから、復活祭の頃に戻ってこようかと思います。復活祭まで半月ほどしか残されていないので、そうそう遠くの領地までは巡れませんが……その道すがらでも、アスタの劇をお披露目しようかと考えています」


「なるほど。実際にお披露目しながら、修練を重ねていくわけだね」


「はい! 劇は人の目にさらすのが、何よりの修練になりますので! ジェノスの宿場町でお披露目する頃には、いまよりも完成に近づいているかと思います!」


 リコの瞳は、あくまでも明るくきらめいていた。

 俺も会心の料理を作りあげたときは、こんな眼差しになっているのかもしれない。自分が懸命にこしらえたものが、人々の笑顔と歓声で迎えられる喜びは、俺だってしみじみと思い知っていた。


「では、しばしの別れとなるのだな。どうか息災に過ごしてもらいたい」


 アイ=ファがそのように呼びかけると、ヴァン=デイロはむすっとした顔で振り返った。


「別れの挨拶には、まだ早かろう。ジェノスを出立するのは、森辺の集落を巡ったのちのことであろうからな」


「そうですね。どんなに急いでも、2、3日はかかるかと思います。それで出立する際には、必ずファの家にご挨拶をさせていただきますので!」


「ならばその際は、ファの家で晩餐をふるまおう。よいな、アスタよ?」


「うん、もちろん」と答えてから、俺は小さからぬ驚きにとらわれた。アイ=ファが自分から客人を晩餐に招くなんて、そうそうある話ではないのだ。


(ヴァン=デイロだけじゃなく、これだけ立派な仕事を果たすことのできるリコやベルトンにも、敬意を払ってるんだろうな。何せ、アイ=ファは……最初の劇で、涙を流すぐらい感動してたんだからな)


 俺たちは、また新たな友を見出すことがかなったのだ。

 俺は充足した気持ちで、広場を包み込む森のほうへと視線を転じた。


 母なる森の腕に抱かれたテイ=スンやザッツ=スンも、さきほどの劇を見届けていただろうか。

 ザッツ=スンに悪念を植えつけたトゥラン伯爵家は、新たな当主のもとに正しき道を進み、すべての森辺の民と絆を深めつつある。これらの行いが、ふたりの無念を慰めてくれることを、俺は心の奥から切に願った。

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