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異世界料理道  作者: EDA
第四十三章 傀儡使いと老剣士
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森辺のかまど番アスタ~第一幕・スン家の章~

2019.5/12 更新分 1/1

                    ◆


 とある年の、黄の月のことです。

 暗い暗い森の中で、その若者は目を覚ましました。


『あれ……どうして俺は、こんな森の中にいるんだろう?』


 若者の名前は、アスタ。

 大陸アムスホルンから遠く離れた小島で平穏に暮らす、料理人の子でした。

 アスタが暮らす家の周りに、こんな深い森はありません。自分がどうしてこのような場所にいるのか、アスタにはさっぱり理由がわかりませんでした。


『まいったなあ。俺はどうしたらいいんだろう』


 そうしてアスタが思い悩んでいると、茂みの向こうから獣の息づかいが聞こえてきました。

 そこは、西の王国セルヴァの辺境都市、ジェノスの領土。ギバという恐ろしい獣の棲む、モルガの森であったのです。


『うわあ、助けてくれー!』


 アスタは必死になって、逃げ惑いました。

 だけど、森の中は茂みが深くて、なかなか思うように走れません。

 ギバはものすごい勢いで追いすがり、いまにもアスタの背中に牙を突き立ててしまいそうです。

 もう駄目だ――と、アスタがあきらめかけたとき、急に地面の底が抜けてしまいました。


『わー! 何だこりゃー!』


 アスタは、落とし穴に落ちてしまったのです。

 ごろごろごろ。どすん。


『あいててて……くそー、誰がこんなところに落とし穴なんて仕掛けたんだ!』


 すると、穴の上から若い娘の声が聞こえてきました。


『そんなところで、お前は何を騒いでいるのだ?』


『あっ! 誰だか知らないけど、助けてくれ! 何か恐ろしい獣に追いかけられて、落とし穴に落ちてしまったんだ!』


『これは私が、ギバを捕らえるために仕掛けた罠だ。よくも私の罠を台無しにしてくれたな』


 文句を言いながら、娘はアスタのもとまで蔓草を垂らしてくれました。

 それを使って、アスタが地面までよじのぼってみると――そこで待っていたのは、金色の髪と青い瞳を持つ、とても美しい女狩人でした。


『私は森辺の民、ファの家の家長アイ=ファ。お前は、何者だ?』


『俺の名前は、アスタだよ。助けてくれて、どうもありがとう』


『そのようなことよりも、お前は何のためにこのような場所をうろついていたのだ? モルガの森に町の人間がむやみに足を踏み入れることは、ジェノスの法で禁じられているはずだぞ』


『モルガ? ジェノス? どちらも、知らない名前だなあ。俺もどうして自分がこんな場所にいるのか、さっぱりわからないんだ』


 アスタは事情を説明しましたが、女狩人のアイ=ファは首をひねるばかりです。


『私のほうこそ、さっぱり意味がわからんな。とにかく、家に戻るぞ。何の準備もなく森で夜を迎えたら、魂を返すことになってしまうのだ』


 そうしてふたりは森を出て、森辺の集落を目指すことになりました。


                      ◆


 静まりかえった広場の中に、リコの声だけが響きわたっている。

 ギバやアイ=ファの傀儡が登場した際は、こらえかねたように歓声があがったが、それもすぐに静寂の向こう側に追いやられてしまう。その場には100名近い人間が集まっていたので、ちょっと騒がしくするとリコの声がかき消されてしまいそうであったのだ。


 それでもやっぱり、リコの声は澄みわたっていて、とても通りがいいように感じられた。

 静かにさえしていれば、広場の隅々にまで声は届いているのだろう。耳に心地好い声音であるのであまり気にしていなかったが、声量だってなかなかのものであるはずだった。


 ともあれ、劇は進行している。

 森辺の集落に帰還したならば、いよいよディガの登場であるのだ。

 果たして――俺とアイ=ファの眼前に、黒褐色の髪と青い瞳を持つ森辺の狩人が立ちはだかることになった。


 ディガはまた、胃袋をぎゅうっとつかまれるような心地になってしまっているだろうか。

 傀儡のディガはあのときと同じように、難癖をつけていた。それをアイ=ファが毅然と追い払い、族長筋のスン家がどれだけ堕落しているかを、俺に説明する。適度に省略されながら、これでスン家が悪役であるということが、初見の見物人にも伝わることだろう。


 ただし――リコは「ディガ=スン」という名前を明かさなかった。

 その傀儡は、「スン本家の長兄」として登場したのだ。

 それが、リコなりの配慮であったのだろうか。俺は固唾を呑んで、劇の続きに見入ることになった。


                    ◆


 そうしてふたりは、ファの家に帰りつきました。


『ジェノスの法も森辺の掟も知らぬお前を、このまま放っておくわけにはいかん。お前はしばらくファの家に留まって、この世の道理というものを学んでいくがいい』


『何から何まで、ありがとう。感謝しているよ、アイ=ファ』


『ふん。しかしその前に、まずは腹ごしらえだ。私の仕留めたギバの肉を食うがいい』


『うん、ありがとう。……うわ、まずい!』


 アスタは思わず、飛び上がってしまいました。


『あ、せっかくの食事をまずいなんて言って、悪かった。でも、この料理は何なんだ?』


『これは、ギバの肉とアリアとポイタンを煮込んだものだ。これを食べれば、人間は健やかに生きていくことができる』


『そうなのか。でも、肉は臭いし、煮汁はどろどろだし、野菜は生煮えだし……この食材だったら、もっと美味しく作ることもできるんじゃないかなあ?』


『食事に、美味いも不味いもない。我々は、生命を保つために食事をしているのだ』


『だったら明日からは、俺に食事を作らせてくれないか? これでもいちおう料理人の息子だからさ。あれこれ世話をかけたお詫びに、美味しい料理を作ってみせるよ』


『勝手にしろ』


 そうして最初の夜は、静かに更けていきました。

 故郷に戻るすべも見いだせず、大事な家族と引き離されてしまったアスタは、たいそう不安な心地で夜を明かすことになったのですが――それでも親切な女狩人アイ=ファと出会うことによって、何とか絶望せずに済んだのです。


『アイ=ファの親切に何とか報いたいな。明日は美味しい料理を作れるように、頑張ろう!』


 そんな風に考えながら、アスタは眠りに落ちました。


                      ◆


 リコが事前に言っていた通り、この芝居ではところどころが事実から改変されていた。

 冒頭でも、俺がアイ=ファから刀を突きつけられる場面は省略されていたし、俺がかまど番の仕事を志願したのは、出会った日の翌日のことである。これは俺自身がリコに伝えたことであるので、意図的に改変されたことも明白であった。


 だけどまあ、それで大きな不都合が生じるわけでもない。ありのままの真実ではないけれど、真実をねじ曲げるような劇にはしたくないというリコの言葉が、俺にはだいぶん理解できたような気がした。


 ただひとつ気になったのは、尺の問題である。

 俺とアイ=ファの出会いだけで、ここまでじっくり時間をかけるとは、俺も考えていなかったのだ。

 もちろん現段階では数分ていどしか経過していないものの、リコは第一幕目で家長会議までを語ると宣言していたのだ。このようなペースでそこまで辿り着くことはできるのであろうかと、それだけが気にかかってしまう。


 しかしそれ以外に関しては、見事な出来栄えであろうと思う。

 自分についてはいまひとつ検証しにくいが、少なくともアイ=ファの傀儡に関しては、なかなかの好演であるように思えるのだ。


 アイ=ファのぶっきらぼうな部分と、それでも情の深さを感じさせる部分が、きっちり演出できているように感じられる。これは、リコ自身がアイ=ファとそれなりの時間を過ごした効能であるのだろうか。俺には舞台で生き生きと動いているアイ=ファの傀儡が、愛おしくてならなかった。


 そうして、劇は進行していく。

 夜が明けて、森の端に薪拾いに行くくだりでは、森辺とジェノスの現状が上手に語られていた。

 ラントの川でマダラマの大蛇に襲われるくだりは、完全に省略されている。これは俺がこっそりお願いした結果であったし、リコ自身もモルガの三獣を登場させるのは物語の軸がぶれる、と見なしている節があった。


 そして、俺がアイ=ファに料理をふるまうシーンだ。

 ここでも、改変が為されている。俺は最初の日から、ポイタンの新たな調理法を発案したように描かれていた。まあ、ポイタンの扱いがわからなかったので、しばらくは余った煮汁にぶちこんで無理やり飲んでいた、などというエピソードは蛇足であるのだろう。


 ともあれ、傀儡のアイ=ファはそこで美味なる料理の価値を知ることになった。

 あの、俺が初めて目にしたアイ=ファのやわらかい笑顔が脳裏によみがえって、ちょっと胸が詰まってしまう。こっそり横目でうかがってみると、アイ=ファは仏頂面で頭をかき回していた。


 ここで物語は、加速する。

 ルウ家と絆を深めるシーンは、ほとんどダイジェストのような展開であった。

「最長老を元気づけるために、美味なる料理を所望された」という説明だけで、リミ=ルウも登場しない。「家長のドンダ=ルウは森辺の掟を重んじる人間であったので、ファの家に住みついた異国人のアスタを、たいそう忌々しく思っていた」という説明も為されたが、それも「ドンダ=ルウを満足させる料理を作りあげることができました」の一文ですみやかに解決されていた。


 で――登場した傀儡は、ドンダ=ルウとダン=ルティムの2体のみである。

 俺がルティムの婚儀を任されたという話がナレーションで説明され、その折にダン=ルティムの傀儡がお披露目されたのだった。


 ダン=ルティムの傀儡はおなかにたっぷりと詰め物をされて、ころころとした丸っこい体格が再現されており、何ともユーモラスな様相であった。

 それに、リコの所有している傀儡はみんな肌が黄白色に塗られていたので、森辺の民の傀儡はすべて顔や手足に褐色の布が貼りつけられている。登場人物の大半は森辺の民であるのだろうから、これだけでもけっこうな手間であったことだろう。


 ちなみに俺の傀儡は、途中で森辺の装束に改められていた。渦巻模様のベストを羽織らせて、白いズボンを腰巻きに交換し、牙と骨の首飾りが掛けられる。それはリコがドンダ=ルウの傀儡を操りつつ、ルウ家のエピソードをナレーションで語っている間に、ベルトンが素早く作業を済ませたようである。


 ともあれ、これで傀儡は特別仕立てのギバを除くと、俺、アイ=ファ、スン本家の長兄、ドンダ=ルウ、ダン=ルティムの、5体だ。

 リコはひとつの劇において、登場させる傀儡は10体ていどに収めたいと述べていた。また、予備の分を含めても、人間用の傀儡は13体しか所持していないのだ。その限られた登場人物の中に、ダン=ルティムが含まれていて、ガズラン=ルティムが含まれていないのは、ちょっと意外な感じがした。


 そんな中、6体目の傀儡が登場する。

 その栄誉を賜ったのは、カミュア=ヨシュであった。


                      ◆


 そうしてアスタは、森辺の民と少しずつ絆を深めていきましたが――そんなある日、ジェノスの宿場町で奇妙な人物と出会うことになりました。


『アスタは宿場町で、屋台の商売をしてみたらどうだろう?』


 その人物の名前は、カミュア=ヨシュ。西の王国でも勇名を馳せつつある、《守護人》です。

 カミュア=ヨシュの突然の申し出に、アスタはたいそう思い悩むことになってしまいました。


『森辺の民は、森の恵みを収穫することも、田畑を作ることも禁じられてしまっているんだろう? そうして懸命にギバを狩っても、牙や角や毛皮を売って、わずかな銅貨しか得ることができない。中には飢えて死んでしまう人間もいるなんて、そんなのは間違ってるよ。森辺の民は、もっと幸福な生を歩む資格があるはずだ!』


 カミュア=ヨシュは、そのように言っていました。

 だから、アスタが屋台の商売をして、ギバの肉の美味しさを世に知らしめるべきだ、というのです。


『そうしてギバの肉がキミュスやカロンと同じように売れるようになれば、森辺の民も豊かな暮らしを手に入れることができるだろう? そのために、まず君はギバ料理の商売をするべきだよ、アスタ』


 カミュア=ヨシュがどういう人間であるのか、アスタたちにはわかりません。でも、その言葉には心を揺さぶられることになりました。

 そうしてアスタはルウ家の力を借りて、屋台の商売を始めることになったのです。


『宿場町では、50人前の料理が売れれば上等だって話だからな。町の人が嫌がるギバの料理でも、10人前ぐらいは売れるだろう』


 ギバの肉は、硬くて臭い。食べたら森辺の民のように浅黒い肌となり、しまいには角が生えてくる。そんな風聞が流れていたのです。


 それに森辺の民は、ギバと同じぐらい恐れられていました。

 森辺の民はとてつもない力を持っている上に、町の人間と絆を深めようとしなかったので、とても恐れられていたのです。


 また、森辺の民は略奪や人さらいにも手を染めている、という風聞が流れていました。どれほどの悪事を働いても、ジェノスの貴族はそれを裁こうとしない。森辺の民がギバを狩ることをやめたら、ジェノスの田畑が手ひどく荒らされてしまうため、貴族も口出しすることができないのだ――という評判であったのです。


 なおかつ、族長筋のスン家の人間は、宿場町でも騒ぎを起こしていました。でも、スン家の人間がどのような騒ぎを起こしても、城下町から貴族の使いが現れて、騒ぎをなかったことにしてしまいます。それで町の人々は、いっそう森辺の民とジェノスの貴族たちの関係をあやしむことになってしまったのです。


 そんな森辺の民が、宿場町でギバの料理を売っても、なかなか上手くいくわけがない。アスタはそのように考えて、10人前の料理だけを準備することになったのですが――それは、四半刻も経たないうちに売り切れることになりました。宿場町で顔馴染みになった人々や、風聞などは気にかけない東の民たちが、ギバの料理を買いあげてくれたのです。


『よし! それじゃあ今度は、20人前の料理を準備しよう!』


 だけど、それもすぐに売り切ってしまうことになりました。

 今度は南の民までもが、ギバ料理を買いあげてくれたのです。


『よし! それじゃあ今度は、40人前だ! 今度こそ大丈夫だろう!』


 しかし、駄目でした。評判を聞きつけた南と東の民が集まって、ギバ料理を取り合う騒ぎになってしまったのです。


 翌日から、アスタは70人前の料理を売ることになりました。それでようやく、腰を落ち着けて商売をすることができるようになったのです。

 でも、その日も平穏に終わることはありませんでした。

 なんと、族長筋であるスン家の人間が、宿場町に姿を現したのです。


『スン家の子息が、料理をご所望です。それを売っていただくことはかないますか?』


 それは、不吉な空気を纏った男衆でした。

 年の頃は、50ぐらい。とても立派な狩人であるようなのに、東の民のように表情が動かず、そして、死人のような目つきをしています。物腰が丁寧であるのが、余計に不気味さを際立たせていました。


『お、お買い上げ、ありがとうございます。5つのお買い上げで、お代は白銅貨1枚となります』


『はい。それでは、これを』


 スン家の男衆は、決められた通りの銅貨をアスタに支払いました。

 やはり物腰は丁寧で、乱暴な真似をする様子もありません。アスタはほっと胸を撫でおろすことになりましたが――やがてその人物とは、浅からぬ因縁を結ぶことになってしまうのです。


 男衆の名は、テイ=スン。

 テイ=スンが自分にどのような運命をもたらすのか、そのときのアスタには知るすべもありませんでした。


                      ◆


 7体目の傀儡は、テイ=スンであった。

 しかも、ドッドやミダ=ルウは登場すらしていないのに、テイ=スンは名前まではっきりと語られている。キャラクター紹介のナレーションも、いかにも不穏な内容である。


 俺がテイ=スンにどのような思いを抱いているかは、すべてリコに伝えている。また、他の人々からも、テイ=スンについては入念に情報を収集しているはずだ。


 リコが、テイ=スンをどのように描くのか。

 俺にとって、それは一、二を争うほどに重要な案件であった。


 そうして物語は、どんどん進められていく。

 ここから家長会議までは、一気呵成であった。


 俺が家長会議にて、美味なる料理を作るように命じられる。それを命じたのは、「スン本家の長姉」だ。彼女は「毒蛇のように冷たい目の娘」と紹介された。


 家長会議の当日は、仕事の最中に俺が不審の念を抱く。スンの分家の女衆が鉄鍋をひっくり返して、作りかけの料理を台無しにしたくだりで、「アリアもポイタンも余分はひとつもない」と告げられたゆえである。最後にスン家の大罪を暴くシーンで、これが伏線となるのだろう。その際に火傷をしたトゥール=ディンや、それを介抱するララ=ルウの姿は、やはり省略されている。


 家長会議では、アイ=ファの傀儡が熱弁をふるっていた。

 美味なる料理は、森辺の民に大きな力と喜びをもたらす。そして、宿場町における商売は大きな富を生み、森辺の民を飢餓の苦しみから救う。

 また、最初から町の人間と正しい絆を結んでいれば、血抜きの技術を早い段階から知ることができて、もっと豊かな暮らしを送れていたかもしれない。そういったことを、リコの演じるアイ=ファの傀儡が、熱っぽく語っていた。


 北の集落の家長たちがアイ=ファに反論し、ドンダ=ルウがそれに応じるというのも、実際の話そのものである。数多くの家長たちから話を聞いて回ったリコは、見事な手腕でそれらのやりとりを再構築できているように感じられた。


 そうして物語は、クライマックスに近づいていく。

 俺とアイ=ファが襲われるシーンである。


 その場にも、ドッドは登場しなかった。スンの長兄とテイ=スンが、シムの毒草で家長たちを眠らせて、俺とアイ=ファの身柄をさらう。リコとベルトンがそれぞれ片手で1体ずつを操っても、傀儡は4体までしか同時に登場させられないのだ。そういった事情もあって、ドッドの存在は省略されたのかもしれなかった。


 スンの長姉からの婿入りを断った俺は、テイ=スンに襲われる。それを救ってくれたのは、ダン=ルティムだ。ルド=ルウやシン=ルウの登場は省略されて、ダン=ルティムのみが俺を救ったことにされている。そのために、ダン=ルティムの傀儡が準備されたのかと、俺はようやく思い至ることになった。


 そうしてアイ=ファを助けに出向くと、スンの長兄が床でのびている。手足を縛られたアイ=ファが自力でそれを撃退したのは事実の通りであるが、そこでひとつの改変が為されていた。

 アイ=ファに気つけの果実酒を飲ませてくれたのは、テイ=スンではなかったのか――俺が心中で抱いた疑問が、ダン=ルティムとのやりとりで口に出されていたのだ。


 固唾を呑む人々の前で、劇は粛々と進められていく。

 怒れるドンダ=ルウを先頭に、ズーロ=スンのもとまで押し寄せて、最後には森の恵みを荒らした大罪を暴く。スン本家の人間たちは罪人として捕縛され、森辺の行く末が家長たちによって話し合われる――それが、第一幕目のクライマックスであった。


                    ◆


『あの、今はそれよりも、今後のことについてを語り合うべきではないでしょうか?』


『今後のこととは、どういう意味だ?』


『今後は別の氏族が、スン家に代わって族長筋になるのでしょう? それらの人々がジェノスの貴族たちと正しい絆を結べなければ、同じことの繰り返しになってしまうかもしれません』


『馬鹿を言うな! 誰が族長になろうとも、スン家のように堕落するものか!』


『そうでしょうか? スン家だって、もともとは誇り高き氏族であったのでしょう? それがこのように堕落し果てたのは、ジェノスの貴族たちと間違った関わり方をしてしまったからなのではないでしょうか?』


『アスタは、どうしてそのように思うのだ?』


『俺は宿場町で、色々な噂を耳にしたのです。スン家の人間は町で悪さをしても、罰せられることがない、とか……森辺の民は、ひそかに農村や旅人を襲って、略奪を働いている、とか……それに、ジェノスの領主はスン家が堕落し果てていることもわきまえている、と聞きました。町で知り合ったカミュア=ヨシュというお人は、どうやらジェノスの領主とも懇意にしているようであるのです』


 家長たちは驚いて、顔を見合わせています。

 そんな中、アスタはさらに言葉を重ねました。


『スン家は80年もの歳月をかけて、少しずつ堕落していくことになったのでしょう。それはきっと、彼らが森辺の民の代表として、ジェノスの貴族たちと相対する役目を負ってきたためであるのです。今後、森辺では誰が族長としての役目を担い、ジェノスの貴族とどのような絆を結び、報償金はどのように扱っていくのか、まずはそういったことを論じ合うべきだと思うのです』


 アスタの言葉は、森辺の家長たちに大きな驚きと感銘を与えました。

 その末に、3名の人間が族長に選ばれることになったのです。

 それは、ルウの家長ドンダ=ルウ、北の集落の家長グラフ=ザザ、南の集落の家長ダリ=サウティという顔ぶれでした。


『スン家が背負いきれなかった役割も、3つの氏族であれば背負うことがかなうだろう。俺たちはスン家のように堕落せず、森辺の同胞を正しき道に導くことを、ここに誓約する』


 そうして、長い長い一夜が明けました。

 会議を終えて外に出てみると、すでに世界は朝日に包まれています。


『いやあ、とんでもない一夜だったな。でも、丸く収まってよかったよ』


『ふん。肝要なのは、これからであろうがな。……まあ、新たな族長たちであれば、我々を正しき道に導いてくれよう』


『うん、きっと大丈夫だよ!』


 森辺の民の類い稀なる力と清らかな心を知るアスタは、心からそのように思うことができました。

 しかし、その騒動が本当の意味で終わりを迎えるには、もう少しだけ時間が必要であったのです。


『……さて、それじゃあ次は、俺の出番かな』


 謎の《守護人》カミュア=ヨシュが、自分の出番を待ちかまえていますが――彼がアスタと森辺の民にどのような運命をもたらすか、それはまた別のお話と相成ります。


                    ◆

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