傀儡の劇の下準備②~共鳴~
2019.5/10 更新分 1/1 ・5/11 誤字を修正
「やあやあ、今日もお疲れ様だったね、アスタ」
屋台の商売を終えてファの家に帰りつくと、そこにはカミュア=ヨシュが待ち受けていた。
ファの家の前に広がる空き地の片隅に、リコたちの荷車がとめられている。その荷台に寄りかかるようにして、カミュア=ヨシュとヴァン=デイロの両名が立ち並んでいたのだ。
「どうも、お疲れ様です。無事にお会いすることができたのですね」
カミュア=ヨシュは《キミュスの尻尾亭》の裏手で別れて以来、まったく姿を見せなかったのだ。カミュア=ヨシュは金褐色の髪をかき回しながら、「うん」と笑っていた。
「それはよかったのだけれども、うっかりアスタの料理を食べ損ねてしまったね。売れ残りが余っていたりは……きっとしないのだろうねえ」
「ええ、おかげさまで、毎日料理は完売しております」
「ううん、しまったなあ。まあ、昨晩には《キミュスの尻尾亭》でギバ料理にありつくことができたから、それでよしとするか」
そんな風に述べてから、カミュア=ヨシュはかたわらのヴァン=デイロを振り返った。
「そういえば、夜の食事はどうされるご予定で? よかったら、お近づきのしるしに果実酒などをふるまわせていただきたいのですが」
「今日の夜は、おそらくこの場に留まることになろう。もうあちこちをうろつき回る理由もなくなったようだからな」
ヴァン=デイロは、普段通りの無愛想な面持ちである。いきなり押しかけてきたカミュア=ヨシュに対して、どのような心情を抱いているのか、外見から推し量ることは難しい。
(うーん。町の人間としては、このおふたりがトップクラスの剣士ってことなんだよな。……やっぱり俺には、ピンとこないや)
たとえば王都の騎士たるダグやイフィウスは、素人の俺でも何か感ずるところのあるお人たちだった。あれはきっと、戦場で多くの敵を討ち倒してきた人間の発する迫力であったのだろうと思うのだが――そういった雰囲気も、カミュア=ヨシュやヴァン=デイロから感ずることはない。それに、森辺の狩人が有する圧倒的な力感とも、無縁であるように思われた。
ただしヴァン=デイロからは、ガズラン=ルティムやダリ=サウティと同質の、静かな存在感とでもいうべき空気を感じることができる。カミュア=ヨシュから感じるのは――飄々とした、つかみどころのない雰囲気ばかりである。
「でしたら、今日はひさびさにファの家で晩餐をご一緒しませんか? 家長アイ=ファも、きっと了承してくれると思いますので」
俺がそのように呼びかけると、ヴァン=デイロはわずかに眉根を寄せた。
「しかし儂たちは、おぬしらに施しを受ける立場ではない。そのような真似をしても、おぬしたちに得はなかろう?」
「損得の問題ではありませんね。みなさんはいずれジェノスを離れてしまうのでしょうから、それまでにもっと絆を深めたいと思った次第です」
ヴァン=デイロはしばらく黙りこくってから、背後の荷台を視線で指し示した。
「何にせよ、儂はリコたちとともに在る。晩餐に招いてくれようというのなら、リコたちに声をかけてもらいたい」
「リコたちは、そちらで仕事の最中なのですか?」
「うむ。傀儡の衣装をこしらえているのであろう」
そうして俺が声をかけると、御者台のほうからリコがひょこりと顔を覗かせた。
「あ、アスタ! 仕事から戻られたのですね。またこの場所をお借りしています」
「うん。それはまったくかまわないよ。それで、今夜のことだけど――」
俺が晩餐について告げると、リコははにかむように微笑んだ。
「ありがとうございます。森辺の方々というのは、本当にみなさん親切なのですね。ずっとそのご厚意に甘えっぱなしで、何だか申し訳なく思えてきてしまいます」
「何も遠慮をする必要はないさ。昨日は、ベイムの家で晩餐をご一緒したんだっけ?」
森辺の男衆と言葉を交わすには、朝方か夜にしかチャンスがない。それでリコは、まず朝方に森辺の家を訪れて、中天からは宿場町を巡り、夜にはまた別の氏族を訪れる、という段取りで話を聞いて回っていたのである。たしか昨日は、朝方にラッツの家に向かい、夜にベイムの家を訪れたのだという話であった。
ちなみに森辺の民に対しては、家にお邪魔するお礼として、傀儡の劇を披露しているらしい。先日にはスドラやディンの家も訪れていたので、ユン=スドラやトゥール=ディンたちもめでたく傀儡の劇を観賞することがかなったのだった。
「とにかく、そういうことだからさ。アイ=ファが帰ってきたら相談するんで、それまでに考えておいておくれよ」
「わかりました。ありがとうございます。アスタたちの親切は、決して忘れません」
最後には晴れやかな笑顔を残して、リコは荷台に引っ込んでいった。
それを見届けてから、カミュア=ヨシュは「なるほどね」とうなずいた。
「旅芸人でありながら、彼女はずいぶん純朴な気性であるようだね。これなら確かに、森辺の民とも滞りなく絆を深められそうだ」
「カミュア、その言い様だと、旅芸人は純朴ではない、という風に聞こえてしまいますよ」
「うん、まあ、俺がよく知る旅芸人といったら、《ギャムレイの一座》ぐらいのものだからねえ。彼らは魅力的な人間の集まりではあるけれど、あまり純朴さとは縁のないお人たちだろう?」
そのように言われてしまうと、俺も反論は難しかった。
ともあれ、いつまでも立ち話に興じてはいられない。俺が手綱を握った荷車には、勉強会に参加する面々が出番を待ちかまえているのである。
「それじゃあ、俺は失礼します。またのちほど」
「あ、アスタ! その前に、ちょっと確認をしておきたいのだけれども……」
と、カミュア=ヨシュがひょろ長い身体をもじもじとくねらせる。無精髭を生やした三十男であるので、あまり可愛くはない。
「はい。いちおうカミュアも頭数に入れておりますよ。アイ=ファに了承をもらえるかどうか、西方神にお祈りください」
「ありがとう! 恩に着るよ、アスタ!」
「でも、レイトは置いてきてしまったのですよね? このまま夜まで、森辺に留まるおつもりなのですか?」
「うん。レイトだって、たまには羽をのばしたいだろうからね」
まあ、《キミュスの尻尾亭》で過ごしていれば、レイトが寂寥感に苛まれることもないだろう。カミュア=ヨシュが気ままに動くのは、いつものことであるのだ。
そうして俺はふたりの《守護人》に別れを告げて、ファの家に帰還した。
土間でくつろいでいたジルベと合流し、かまど小屋に向かう。そこではマルフィラ=ナハムとフェイ=ベイムが待ち受けており、ティアはまた木登りの鍛錬に励んでいた。
「お待たせしました。それでは、修練を始めましょう」
本日は営業日の3日目であり、俺の個人的な修練の日取りであった。荷台で待機していたのはトゥール=ディンとユン=スドラ、そしてレイ=マトゥアの3名である。レイナ=ルウたちは復活祭に向けて、新メニューの考案に集中しているのだという話であった。
「昨日はベイムの家にリコたちがお邪魔したそうですね。傀儡の劇は、如何でした?」
修練の準備をしながら、俺がそのように尋ねると、フェイ=ベイムは「そうですね」と難しい顔をした。
「あのような芸が存在するなどとは、まったく想像もしていませんでした。まるで傀儡が生きているかのようで……最初はいささか、不気味に思ってしまったほどです」
「なるほど。確かに、見事な芸ですものね。どのような劇がお披露目されたのですか?」
「神と精霊と人間の物語です。たしか……『酒神マドゥアルの泉』という劇でした」
すると、レイ=マトゥアが興味津々の面持ちで振り返った。
「ガズの家で披露された劇とは、内容が違うのですね! こちらは『姫騎士ゼリアと黒蛇の王冠』という劇でした!」
リコは、7つか8つの劇を体得していると言っていたので、それを順々にお披露目しているのだろうか。何にせよ、興味深いところであった。
「あの者たちは、傀儡の劇で銅貨を稼いでいるのですよね? 復活祭の時期は、ジェノスで芸を見せるのでしょうか?」
「さあ、どうだろう。リコたち自身も、まだ決めかねているんじゃないのかな」
「かなうことならば、すべての劇を目にしたいと思ってしまいます。わたし、すっかり傀儡の劇というものが気に入ってしまいました」
笑顔のレイ=マトゥアに、ユン=スドラも同意の声をあげた。トゥール=ディンも、遠慮がちにうなずいている。
そんな中、マルフィラ=ナハムはひとりで目を泳がせていた。
「マルフィラ=ナハムは、どうだった? リコたちは、ラヴィッツの家にも話を聞きに行ったんだよね?」
「は、は、はい。わ、わたしも見事な芸だと思いましたが……で、でも、デイ=ラヴィッツはお気に召さなかったようです」
「ふうん? 傀儡の劇は、好みじゃなかったのかな?」
「は、は、はい。あ、あのようなものに心血を注いで修練をする心情が理解できん、と……そ、その熱情を別のものに傾ければ、もっと立派な仕事が果たせるのではないか、と仰っていました」
「なるほど」と、俺は納得した。俺の故郷でも、演劇や音楽や文芸などに血道をあげる人々を軽んじる向きはあったように思う。そういったものは、いわゆるカタギの仕事ではない、と見なす価値観だ。質実なる森辺の民であれば、そのように思う人間がいてもおかしくはないのだろう。
と、俺がそのように考えていると、マルフィラ=ナハムが泳がせていた視線を真っ直ぐこちらに固定していた。
「ア、ア、アスタはどのように思われますか?」
「どのようにって? まあ、デイ=ラヴィッツの言い分もわからなくはないと思うよ」
「そ、そ、そうですか。わ、わたしはその言葉に、何だか釈然としなかったのですが……デ、デイ=ラヴィッツのように考えるのが、正しいことなのでしょうか?」
俺は「ふむ」と考える。
「別に、誰が正しいとか、そういう話じゃないと思うよ。俺だって、デイ=ラヴィッツのお言葉を頭では理解できても、決して共感しているわけではないからね」
「で、で、では、アスタはどのように考えておられるのでしょう?」
「そうだねえ……それじゃあ、美味なる料理でたとえてみようか。俺は、美味なる料理のもたらす喜びが、森辺の民にさらなる力を与えるはずだって主張していたよね。傀儡の劇を見て、それを楽しいと思う気持ちがあれば、それだって生きる喜びが増すことになるんじゃないのかな」
「く、傀儡の劇を見て、生きる喜びが増すのですか?」
「うん。俺も門外漢だから、上手くは説明できないけどさ。劇や音楽っていうのは、この世に存在しなくても、人間が生きていくことに支障はないだろう? でも、人間っていうのは劇や音楽を作り続けてる。それはどうしてかって考えたら、やっぱり人の心を豊かにしてくれるからだと思うんだよね」
考え考え、俺はそのように述べたててみせた。
気づけば他のかまど番たちも、作業の手を止めて俺たちのほうを見守っている。
「あとは、そうだなあ……『着飾る』っていう行為だって、俺は同じようなものだと思うんだ。森辺の民も祝宴では宴衣装を纏うけれど、宴衣装がなくたって、生きていくことに支障はないだろう? でも、美しい宴衣装を纏うことは喜びだし、その姿を見ることだって喜びだ。それが間違った文化だとは、俺は決して思わないんだよね」
「ぶ、ぶ、ぶんかですか……」
「うん。だけど、中には宴衣装を纏うことに喜びを見いだせない女衆もいるかもしれないし、宴衣装よりも普段の装束のほうが望ましいと考える男衆もいるかもしれない。それは、人の好きずきだよね。だから、劇や音楽に興味を持てない人がいたって、何も不思議なことはないと思うし、べつだん間違っているとも思わないかな」
「で、で、でも、たしかデイ=ラヴィッツは、ユーミの歌に感銘を受けていたように思います。ど、ど、どうして歌はよくて、傀儡の劇は気に入らないのでしょう?」
「それは個人的な好みかもしれないし、あとは、最初にマルフィラ=ナハムが言っていた通り、どれだけの手間をかけたかって部分もあるんじゃないのかな。ユーミは宿屋の人間だから、べつだん毎日歌の練習をしていたわけじゃない。でも、リコたちは傀儡使いを生業にしているし、よほどの修練を積まないと、あんな芸を身につけられるわけがないって、誰でも思うよね。そんなものに人生のすべてを注ぎ込むぐらいなら、もっと有意義な仕事を果たせばいい、と考えてしまったのかもしれないね」
俺はそこで、一息つかせていただいた。
「でもまあやっぱり、個人的な好みってほうが大きいのかな。デイ=ラヴィッツがリコたちの芸に感銘を受けたんなら、そんな手厳しいことは言わなかったように思うしね。俺たちは傀儡の劇が気に入ったけど、デイ=ラヴィッツは気に入らなかった。それは好みの問題なんだから、どちらか一方が正しいとか正しくないとか、そういうことじゃないんだと思うよ」
「な、な、なるほど……ア、アスタのお気持ちは理解できたように思います。そ、そういうことならば、わたしも納得することができました」
「うん。ちなみにデイ=ラヴィッツは、面と向かってリコたちに苦言を呈したのかな?」
「い、い、いえ、リコたちには聞こえぬよう、ぶつぶつとつぶやいておりました。そ、それをたまたま、わたしが聞いてしまっただけのことなのです」
「そっか。だったら、いいんじゃないのかな。デイ=ラヴィッツも、町の人間のやることに干渉する気はないのだろうしね」
マルフィラ=ナハムは、かくかくと痙攣するようにうなずいた。
「は、は、はい。わ、わたしがひとりで勝手に気に病んでいただけのことなのです。だ、大事な修練の前にお時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした」
「いや、リコたちもこれだけ森辺の民と縁を結ぶことになったんだからね。こういう話も、必要なことなんだろうと思うよ」
デイ=ラヴィッツもマルフィラ=ナハムも、リコたちの芸にそれだけの衝撃を受けた、ということなのだろう。これはこれで貴重な異文化コミュニケーションであったのだろうと、俺は納得することにした。
◇
そうして、夜である。
ファの家においては、無事に客人を迎えることになった。リコ、ベルトン、ヴァン=デイロ、カミュア=ヨシュの4名だ。前回のお招きから数日が経過していたためか、あるいはヴァン=デイロに対する敬愛の気持ちゆえか、アイ=ファがそれで不本意そうな顔を覗かせることはなかった。
「いやあ、アスタの料理はひさびさだ。けっきょく昼間は干し肉をかじっただけだから、喜びもひとしおだよ」
ヴァン=デイロのかたわらに座したカミュア=ヨシュも、ご満悦の様子である。それを横目に、アイ=ファは口の中で食前の文言を唱えた。
「さて。今日はちょっと、趣向を変えた料理なんだよね」
そのように述べたてると、今度は俺がアイ=ファに横目で見られることになった。
「それぐらいのことは、見てわかる。これは、どういう趣向であるのだ?」
アイ=ファが言うのは、車座の中央にででんと置かれた、鉄鍋の存在であった。鍋敷代わりの織布を何枚も敷いて、俺はその場所に鉄鍋を設置しておいたのである。
「まあ、そんなに深い意味はないんだけどな。料理を取り分ける前の姿も、いちおうお披露目しておきたかったんだ」
言いながら、俺は鉄鍋の蓋を取り除いてみせた。
アイ=ファはちょっと驚いたように目を見開き、カミュア=ヨシュは「ほほう」と声をあげる。
「これは何というか、愉快な見栄えだね。これは、目を楽しませる料理なのかな?」
「そういう意味合いも、多少あります。もちろん、大事なのは味ですけれどね」
鍋の中では、いくぶん黄色みがかったティンファとギバのバラ肉が、まるで花弁のように重なった状態で、湯気をあげている。これは、白菜のごときティンファとバラ肉の重ね鍋――俗に、ミルフィーユ鍋と呼ばれる料理であった。
ミルフィーユというのは、パイ生地とクリームを重ねた洋菓子である。この料理がミルフィーユ鍋などと呼ばれるのは、白菜と肉の重なり合った様子が、ミルフィーユの断面を連想させるためであるのだろう。
調理としては、べつだん難しいものではない。ティンファとバラ肉を重ねた上で、5センチずつぐらいに切り分けて、それを鉄鍋に並べただけのことだ。断面が上にくるように配置して、みっしりと隙間なく詰め込んでやれば、煮込んだ後でもこのように形状が保たれるわけである。
実のところ、もっとも見栄えがいいのは、調理の前であるのだ。白いティンファと牡丹色をしたバラ肉が何重にも折り重なって、それこそ花弁のごとき見栄えに仕立てあげることができる。しかし、煮込んだ後では肉が白っぽい褐色に染まってしまうので、ティンファとの色の対比を楽しむこともままならないのだった。
それでもまあ、せっかくのミルフィーユ鍋であるのだからと、俺は鉄鍋を持ち込ませていただいた次第であった。各人に取り分ける前に、この姿をひと目だけでも見ておいてほしかったのだ。
「つけダレも準備しておりますが、よかったら最初はこのままお召し上がりください。お味のほうは、なかなかだと思いますよ」
俺は菜箸とレードルを使って、各人に料理を取り分けた。
それを受け取ったアイ=ファは、「ふむ」と小首を傾げている。
「煮汁が少ないな。これは汁物ではなく、煮物の料理であるのか?」
「俺としては、どっちとも取れる料理かな。煮汁が少ないのは、あえてそういう作り方を選んだんだ」
よくわからんとばかりに肩をすくめてから、アイ=ファは小皿の料理を口にした。
とたんにその目が、満足そうに細められる。
「うむ。美味いな」
「そうか。それなら、よかったよ」
俺はほっと息をついて、客人がたを振り返る。そちらでは、リコが満面に笑みを浮かべていた。
「本当に美味しいです! 野菜も肉もほんのり甘くって、すごくさっぱりしているのに、すごく豊かな味わいですね!」
「へん。好きなだけ銅貨をつかえりゃあ、美味い料理を作れるのが当たり前だ」
ベルトンは悪態をつきながら、リコよりも元気いっぱいにミルフィーユ鍋をかきこんでいる。俺は得たりと、そちらに笑いかけてみせた。
「確かにこのティンファっていう野菜は、遠方のバルドっていう領地から買いつけたものだからね。このジェノスで手にするには、多少の銅貨が必要となってしまうよ」
「はい。バルドでしたら、わたしたちも馴染みのある領地です。でもたしか、あちらではティノよりも安い値段で買うことができたと思いますよ」
そのように応じてくれたのは、リコであった。
「だけどこの料理は、美味しいです! ギバ肉とティンファの他には具材が見当たらないのに、こんなに美味しく仕上げることができるのですね!」
「うん。ついでに言うと、調味料の類いも使ってないからね」
「え?」と、リコは目を丸くした。
ベルトンのほうは、うろんげに眉をひそめている。
「これは、ティンファとギバ肉を煮込んだだけの料理なんだよ。塩も、タウ油も、出汁も使っていない。ついでに言うと、水も使っていないんだ」
「み、水も? でも、こんなに汁気がたっぷりですよ?」
「それは、ティンファから出た水分だよ。まあ、このティンファは干し固められたものを水で戻しているから、そういう意味では水を使っているけどね」
振り返ると、アイ=ファもびっくりまなこで俺を見つめている。
俺は大いなる満足感を胸に、そちらに笑いかけてみせた。
「魚や海草の出汁を使えば、さらに奥行きのある味に仕立てられるだろうし、汁物料理っぽい仕上がりになってたと思う。でも、ティンファとギバ肉だけでもこれだけ美味しく仕上げられるんだってことを示したかったんだ」
「なるほど……それがお前の言う、趣向か」
納得したように、アイ=ファはその他の料理を見回した。
本日の献立は、ほかほかに炊いたシャスカと、ロースの炭火焼き、ティノとネェノンの千切りサラダ、そして、アリアとブナシメジモドキのソテーである。
「これらの料理は、すべて後掛けの調味料を準備しています。でも、調味料をつけなくても、美味しくいただくことはできるかと思います。よかったら、その違いをお楽しみください」
炭火焼きとソテーには、それぞれ塩とピコの葉しか使っていない。が、ギバのロースもアリアもブナシメジモドキも、それだけで美味しくいただけるポテンシャルを秘めている。ミルフィーユ鍋も、また然りであった。
「うんうん、確かに美味だねえ。べつだん何も掛けなくたって、十分に豪勢な料理だと思えるよ」
カミュア=ヨシュも、泣き顔のような表情でもりもりと食事を進めている。リコたちは不思議そうにしていたが、それはカミュア=ヨシュが料理の出来栄えに満足している証左であった。
「後掛けの調味料は、無理に使う必要はありませんからね。そのまま完食していただいても、いっこうにかまいませんよ」
「いやいや、アスタの言う変化の妙を楽しまずにはいられないよ。えーと、どれに何を掛ければいいのかな?」
俺はひとつずつ、説明してみせた。ミルフィーユ鍋にはポン酢モドキ、炭火焼きにはタウ油ベースのタレ、サラダにはホボイ油を使った中華風ドレッシング、ソテーにはウスターソースというラインナップだ。
「ああ、美味だ。それに、このシャスカというのが、たまらないね。フワノやポイタンよりも、いっそうアスタの料理を引き立ててくれるように感じられるよ」
「はい。俺の故郷では、このシャスカみたいな食材を主食にしていましたからね」
フェルメスであれば、このていどの発言でも過敏に反応するのだろう。もちろんカミュア=ヨシュたちは、何も気にせず食事を楽しんでいた。
「どうだい、リコ? お気に召したかな?」
「はい! どの料理も、驚くぐらい美味しいです! やっぱりアスタは、ものすごい料理人なのですね!」
「ありがとう。でも、他の家でも美味しいギバ料理を口にすることができただろう?」
そんな風に答えてから、俺は言葉をつけ加えてみせた。
「いまではどの氏族でも、かなり銅貨にゆとりが出てきたはずだからね。でも、家長会議で全面的に町での商売を認められるまでは、ゆとりのない氏族も多かったんだよ」
「はい。ベイムやラヴィッツ、それにサウティの家などは、ギバ肉を売る商売に関わっていなかったので、かなり苦しい生活であったようですね」
「うん。だから、ティンファやキノコを買う銅貨はなかったと思うけれど、塩とピコの葉だけでも美味しい料理を作ることはできるってことを、最初に伝えることになったんだ」
リコが手を止めて、俺の顔を見つめてきた。
「つまり……後掛けの調味料というものを掛ける前の、これらの料理がそれに当たるということですね?」
「うん。傀儡の劇の参考にはならないかもしれないけど、いちおう伝えておこうと思ってさ」
リコは木皿を置くと、「ありがとうございます」と頭を下げてきた。
「ベイムやラヴィッツの家に料理の手ほどきをしたのは、トゥラン伯爵家にまつわる騒動が終わったのちと聞いていますので、確かに傀儡の劇とは関わりのないお話であるのでしょう。でも……これでいっそう、物語に生命を吹き込むことができるようになったと思います」
「あはは。もしかしたら、血抜きをしていないギバ肉で、ポイタン汁でもこしらえたら、何かの参考になるかもしれないね」
俺の言葉に、リコが血相を変えて身を乗り出してくる。
「あ、あの、わたしがそれを口にすることはかなうのでしょうか?」
「え? それはまあ、血抜きに失敗したギバでも、いったんは毛皮を剥ぐために家まで持ち帰るからね。その肉を切り分けてもらえば、いくらでも口にできるんじゃないのかな?」
リコの目が、せわしなくアイ=ファへと差し向けられる。
アイ=ファは落ち着いた眼差しで、それを見返した。
「猟犬を家人に迎えてからは、血抜きにしくじることも少なくなった。血抜きにしくじるというのは、おおよそ飢えたギバに出くわした際であるからな。猟犬がかたわらにあれば、そういう危険も回避しやすいので、飢えたギバでもむやみに斬り伏せずに済むのだ」
「そうですか……」とリコが肩を落とすと、アイ=ファは「ただし」とつけ加えた。
「他の家では、猟犬の数が足りていない。フォウやランやスドラでは、いまでも血抜きにしくじったギバの肉を、毎日のように森へと返しているはずだ。お前が望むのならば、それらの氏族に頼み込めばよかろう」
「ありがとうございます! 明日にでも、お声をかけさせていただきます!」
たちまちリコは歓喜の表情となって、うっとりと手を組み合わせた。
「これでわたしも、森辺の民が美味なる料理から得た喜びを、同じように味わうことがかないます。ああ、何だか胸が高鳴ってきてしまいました!」
「……美味ならぬ料理を口にするのに、ずいぶん幸福そうなことだな」
アイ=ファは苦笑をこらえているような表情で、そのように述べていた。
その後は罪のない談笑が続き、気づけば料理も尽きていた。が、カミュア=ヨシュが魔法のように果実酒を取り出して、ヴァン=デイロたちを引き留めたものだから、なかなか解散の運びとならない。王国の民と親交を深めることの許されないティアだけが寝所に下がり、俺たちはさらに談笑を楽しむことになった。
それでもなお、アイ=ファが迷惑そうな顔のひとつも見せないのは、実に珍しいことである。カミュア=ヨシュにせがまれて、ヴァン=デイロが《守護人》の時代の話などを語っていると、けっこう興味深そうにそれを聞いているのだ。アイ=ファが町の人間にこれほどの関心を示すのは、これが初めてであるように思えてならなかった。
(ヴァン=デイロが同世代のお人だったら、俺は本当にやきもきしていたかもしれないなあ)
しかしもちろん、俺が不穏な気持ちをかきたてられることはなかった。むしろ、閉鎖的な気性であるアイ=ファが外界の人間と絆を深められるのならば、それを喜ばしく思う。それに、俺にとってもヴァン=デイロというのは、なかなか魅力的な人物に思えてならなかったのだった。
そうして、食後に一刻ばかりも語らっただろうか――気づけばリコとベルトンが、おたがいの身体にもたれかかって、安らかな寝息をたててしまっていた。
「おやおや、さっきまで笑い声をあげていたのに、ころりと寝入ってしまいましたね」
「うむ。根を詰めて仕事をしていたので、休息が必要であったのだろう。……悪いが、こやつらを荷車に運ぶのを手伝ってはもらえないだろうか?」
「もちろんですとも。引き留めたのは、俺なのですからね。アイ=ファとアスタも、すっかり長居をしてしまって申し訳なかったね」
「いや。べつだん詫びるには及ばない」
そのように応じながら、アイ=ファはヴァン=デイロのほうを見た。
「あなたはこの者たちを、本物の家族のように慈しんでいるのだな、ヴァン=デイロよ」
「うむ。そうでなければ、行動をともにしようとは考えまい」
「立派なことだ。あなたの存在は、この者たちの行く末を救っている」
するとヴァン=デイロは目を伏せて、リコとベルトンの寝顔を見つめた。
「違うな。……救われているのは、儂のほうであるのだ」
「何? それは、どういう意味であろうか?」
ヴァン=デイロはしばらく無言のまま、リコたちの姿を見つめていた。
その末に、ゆっくりとその言葉を口にする。
「儂は……かつて伴侶を娶り、子を生していた。セルヴァの片隅にある小さき村落にて、婚儀をあげることとなったのだ」
「え?」と、カミュア=ヨシュは目を丸くする。
「ヴァン=デイロには、家族があられたのですか。それは俺も知りませんでした」
「婚儀をあげた後も、儂は《守護人》として働いていたからな。ひとつところに留まれる性分ではないゆえに、家族のもとには年に数えるほどしか帰っていなかったのだ」
低い声で、ヴァン=デイロは語り続けた。
その茶色い瞳に、えもいわれぬ感情が渦巻いているように感じられる。
「そして、10年ほど前……大きく育った儂の子が、伴侶を娶って子を生した年……村落が、野盗の集団に襲われた。儂の伴侶も、子も、孫も、それですべて魂を返すことになってしまったのだ」
俺もアイ=ファもカミュア=ヨシュも、言葉を失うことになった。
ヴァン=デイロは、淡々と言葉を紡いでいく。
「その野盗どもは、のちのち儂が始末をつけることになった。しかしそれで、家族が帰ってくるわけでもない。儂の心は、その日を境に死んでしまったように思う。何を食べても味を感じず、酒を飲んでも酔うことすらできない。儂は本当に生きているのかと、たびたび疑うこともあったほどだ」
ヴァン=デイロの手が、そっとリコたちのほうにのばされた。
大きな手の平が、リコとベルトンの髪を愛おしげに撫でていく。
「そして儂は、リコたちに出会った。儂の孫が魂を返していなければ、ちょうどこやつらと同じ年頃であろう。だから……救われているのは、儂のほうであるのだ」
「そうか」と、アイ=ファが息をついた。
その瞳が、思いがけない優しさをたたえて、ヴァン=デイロの横顔を見る。
「そうであれば、あなたがたはおたがいに救われているということだ。ちょうど私と、アスタのようにな。……きっと西方神が、あなたがたに救いをもたらしたのであろう」
「そうかもしれん」とつぶやきながら、ヴァン=デイロがアイ=ファを振り返る。
その顔には、俺たちが初めて見るやわらかい微笑がたたえられていた。
「口が過ぎた。できればいまの話は、内密に願いたい」
「承知した。誰にも語らぬと約束しよう。よいな、アスタよ?」
「うん、もちろんだよ」
そのように答えながら、俺は納得した。
アイ=ファは、ただヴァン=デイロのことを敬愛していたわけではない。きっと無意識のうちに、自分と似たものをヴァン=デイロの中に感じ取っていたのだ。
それが証拠に、いまのふたりはとてもよく似た眼差しで、おたがいの姿を見やっていた。