傀儡の劇の下準備①~それぞれの思い~
2019.5/9 更新分 1/1
城下町にて行われた返礼の晩餐会の、3日後――そして、ゲルドの人々が無事にジェノスを出立した日の、翌日――藍の月の24日である。
その日の朝、俺たちが洗い物を抱えて家を出ると、そこではリコとベルトンがすごい剣幕で言い合いをしていた。
「お前なー、ちっとは身のほどをわきまえろよ! いったい何様のつもりなんだ!?」
「何様って、わたしは傀儡使いだよ! そりゃあ母さんに比べたら、まだまだ未熟者だけど、だからって妥協する理由にはならないじゃん!」
そんな両者を見下ろしながら、老剣士ヴァン=デイロは深々と息をついている。俺が「どうしたのですか?」と問いかけると、こちらを振り返ったリコが慌ただしく頭を下げてきた。
「あ、おはようございます、アスタにアイ=ファ。朝から騒がしくしてしまって、どうも申し訳ありません。ベルトンが、あまりに聞き分けが悪かったもので……」
「聞き分けが悪いのは、どっちだよ! お前の気まぐれにつきあわされるこっちの身にもなってみろってんだ!」
ベルトンがわめくと、リコもたちまち険悪な表情となって、そちらに向きなおる。まあ、チワワとポメラニアンが吠え合っているような微笑ましさを感じなくもないのだが、当人たちにとっては至極深刻な状況なのではないかと思われた。
「いったい何を騒いでいるのだ? 森辺の集落で騒ぎを起こされては、こちらも見過ごすことはできんぞ?」
リコたちのトトスを土間から引っ張り出しつつ、アイ=ファがいくぶん鋭い声でたしなめた。
ベルトンに何かを言い返そうとしていたリコは、申し訳なさそうに身を縮めてしまう。
「本当に、お詫びの言葉もありません。劇を作るのはわたしの役割であるのに、ベルトンが口出しをしてくるのです」
「ふむ。これから為そうとしている仕事について、言い争いなどをしていたのか。ならば、ますます感心せんな」
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、リコの前まで歩を進めた。
「リコよ。お前はまだ幼いが、自分の仕事で銅貨を稼いで、その日の生命を得ている。それで相違はなかろうな?」
「はい。それで間違いありません」
「ならば、お前がどれだけ幼かろうと、言葉を飾らずに言わせてもらうが……そちらのベルトンは、お前の仕事を手伝う同胞であるはずだ。そんな相手と意見が食い違ったのならば、情理を尽くして語らうべきであろうが? 感情まかせにわめいても、何も解決したりはしない。……お前が力で同胞をねじ伏せようとしているならば、話は別だがな」
「そんな! わたしはベルトンをねじ伏せようだなんて――」
そんな風に言いかけてから、リコはぐっと唇を噛みしめた。
「……でも、そうですね。わたしとベルトンが口喧嘩をしたら、わたしが勝つに決まっています。そんな形でベルトンを従えるのは、力でねじ伏せるのと一緒のことなのですね」
「あのなあ! お前、俺を何だと思ってるんだ!?」
ベルトンが怒声をあげると、リコはちょっと泣き笑いのような表情でそちらに微笑みかけた。
「ベルトンは、大事な同胞だよ。ふたりで力を合わせて《ほねがらすの一座》を再興しようとしてるのに、こんなことで喧嘩してちゃ駄目だよね。おたがいが納得いくまで、冷静に話し合おう?」
ベルトンは肩透かしをくわされたような面持ちで、「ちぇっ」と舌を鳴らした。そしてハンチングのような帽子のつばを引き下げて、その表情を隠してしまう。
「そんなこと言って、また俺を言いくるめようってんだろ? だったら、口喧嘩のほうが、まだ勝ち目があらあ」
「そんなことないよ。わたしはベルトンに、自分の気持ちや考えを理解してほしいの。それで、ベルトンの気持ちや考えも理解したい。《ほねがらすの一座》のみんなだって、そうやって絆を深めていたはずだよ?」
ベルトンは口をとがらせたまま、何も答えようとしなかった。
いささかならず気まずい沈黙が落ちてしまったので、俺はそろりと言葉を差し込んでみる。
「ふたりはいったい、何を言い争っていたのかな? そろそろ傀儡の衣装の準備に取りかかるっていう話だったよね?」
「はい。これから宿場町に下りて、必要な道具を買いそろえるつもりでした。ただ、ちょっと……色々と考えなおさなければならないことが出てきてしまったもので……」
リコたち一行はここ数日、ひたすら物語のもととなる情報の収集に励んでいた。スン、ザザ、サウティの家は言うに及ばず、フォウ、ベイム、ラヴィッツといった小さき氏族の家や、宿場町の関係者、あるいは見ず知らずの人々にまで話を聞いて回り、かつて森辺とジェノスを見舞った騒動の全容をつかもうと試みていたのだ。
「さまざまな人たちから話をうかがって、ようやくわたしも筋書きを組み立てることができました。それでわかったことなのですが……アスタの物語は、とうてい一幕の劇で語り尽くせるものではありません。ですから、二幕の構成にしようと考えなおしたのです」
「二幕の構成というと、要するに2つ分の劇を作るっていうことかな?」
「はい。アスタがこの地に現れてから、家長会議を終えるまでで、一幕。それからトゥラン伯爵家との騒動を追えるまでで、もう一幕。そういう構成にしようと考えたのです」
そう言って、リコは物思わしげにベルトンのほうを見た。
「だけどそうすると、傀儡の衣装もよりたくさん必要になってしまいます。それに、続き物の劇というのは、取り扱いが少し難しいのです。立て続けにお披露目すると、あまりに長くなってしまうので、二幕目の前にはあらすじなどつけなくてはいけなくなるでしょうね。それに、一幕目を見ていない人でもきちんと楽しめるように、あれこれ知恵を絞らなくてはならなくなるのです」
すると、黙り込んでいたベルトンが、そっぽを向いたまま発言する。
「それ以前に、初めて自分が手掛ける芝居が二幕構成ってのは、どうなんだよ? そんなことしたら、かかる手間も倍になるんだからな! 俺たちは、何の手本もなしに、新しい芝居を作りあげなくちゃならねえんだぞ? その大変さが、本当にわかってんのか?」
「わかってる。……いや、わかってるつもりだよ。実際に手掛けてみないと、本当の大変さはわからないだろうけど……でも、わたしは自信があるの。わたしたちが力を惜しまなければ、絶対に素晴らしい劇になるって……想像しただけで、わたしは胸が高鳴っちゃうぐらいなんだよ?」
そう言って、リコはベルトンの手を取った。
「でも、ベルトンの力がなかったら、それも無理なの。だから、わたしがどんな劇を作ろうとしているか、ベルトンにわかってほしい。それでも、ベルトンが無理だって言うんなら……わたしも、あきらめるよ」
「嘘つけ。お前があきらめるわけねーじゃん」
「本当だよ! だってこれは、わたしとベルトンの劇なんだから」
リコは怖いぐらいに真剣な眼差しで、ベルトンの顔を見つめている。
それを横目でちらりと見やってから、ベルトンはリコの手を振り払った。
「いつまでも、人の手をつかんでんじゃねーよ。……だったら、お前の頭ん中にある筋書きを聞かせてみろ。納得いかなかったら、俺は手を引くからな」
「うん! ありがとう、ベルトン!」
リコはすみやかに表情を輝かせながら、俺たちに向きなおってきた。
「わたしたちは、自分たちの荷車で打ち合わせをしてきます。……あの、アイ=ファ、どうもありがとうございました!」
「べつだん、礼を言われるような話ではない」
アイ=ファは粛然と、トトスの手綱をリコに突きつける。それを受け取りながら、リコは深々とお辞儀をした。
そうしてふたりが連れ立って荷車のほうに戻っていくと、ヴァン=デイロがアイ=ファを見やってくる。
「儂からも、礼を言わせてもらおう。おぬしの言葉は、リコの心にたいそう響いたようだ」
アイ=ファはいくぶん目を見開きつつ、ヴァン=デイロの仏頂面を見返した。
「……私はそんな、大層な言葉を口にした覚えはない」
「いや。おぬしは年長の人間として、幼きリコを正しく導いてくれた。不作法者の儂には、かなわぬことだ」
ヴァン=デイロは顎を引くようにして一礼すると、リコたちの後を追いかけていった。
それを見送るアイ=ファは、何やら神妙な面持ちで眉をひそめている。足もとに下ろしていた鉄鍋を抱えなおしながら、俺は「どうしたんだ?」と問うてみた。
「いや……何やら心臓のあたりをくすぐられているような、妙な心地であるのだ。これはいったい、どうしたことであろうな?」
「それはきっと、ヴァン=デイロの言葉が嬉しかったんじゃないのかな。アイ=ファはずいぶんと、あのヴァン=デイロを敬愛してるみたいだしさ」
「敬愛……敬愛か。町の人間に、そのような気持ちを抱いているつもりはなかったが……あの者には、妙に心を動かされることが多いのだ」
「あのお人は、何の見返りもなしにリコたちを助けてるんだからな。アイ=ファが心を動かされてもおかしくないぐらい、立派なお人だと思うよ」
なおかつヴァン=デイロは、ドンダ=ルウにも劣らぬ力量なのではないかとされている。そのあたりのことも相まって、アイ=ファはヴァン=デイロに敬愛の気持ちを抱くことになったのではないだろうか。
「……あのお人がもっと若かったら、俺も器の小ささを露呈していたかもしれないな」
「うむ? お前は何を言っているのだ?」
「いや、あのお人が俺たちと同年代だったら、俺もさぞかしやきもきしていただろうと思ってさ」
冗談めかして言いながら、俺はローキックに備えていた。
が――アイ=ファはきょとんと目を丸くしてから、ふっと口もとをほころばせた。
「あのヴァン=デイロがどれほど立派な人間であろうとも、お前と比べることなどはできん。お前には、それぐらいのこともわからんのか?」
「いや、そう言ってもらえるのはありがたいんだけどな」
「……そういえば、お前の周りには同じ年頃で立派な女衆が山ほど控えていたな、アスタよ」
「わかった、ごめん。降参します。俺がうつけでありました」
「その通りだ。うつけ者め」
アイ=ファはくすりと笑ってから、自分も鉄鍋を抱えなおした。
そうして今日も、俺たちの1日が始まったわけである。
◇
「アスタ! あのヴァン=デイロが、森辺の集落に逗留しているのだって!?」
いきなりそんな言葉をあびせかけてきたのは、ちょっとひさかたぶりのカミュア=ヨシュであった。
場所は、《キミュスの尻尾亭》の裏手にある倉庫の前である。屋台を借り受けるために、レビの案内でそちらに出向くと、倉庫の前にカミュア=ヨシュが立ちはだかっていたのだった。
「ああ、どうも。ジェノスに戻っていたのですね、カミュア」
カミュア=ヨシュはリリン家の婚儀に参席した翌日、《守護人》としての仕事を果たすために、ジェノスを離れていたのだ。およそ10日ほどぶりに再会したカミュア=ヨシュは、紫色の瞳をきらきらと輝かせながら、俺に詰め寄ってきた。
「ジェノスには、昨晩の遅くに戻ってきたのだよ! それで、どうなんだい? ヴァン=デイロは、まだ森辺の集落に逗留しているのかい?」
「ああ、はい。でも、いまは宿場町ですよ。傀儡の劇の衣装をこしらえるために、あちこちの店を巡るのだというお話でした」
あの後、けっきょくリコとベルトンは和解して、俺たちよりもひと足早く宿場町に下りていたのだ。カミュア=ヨシュは「そうかそうか」と、せわしなくうなずいていた。
「行き違いにならなくて、幸いだ。アスタを待っていた甲斐があったよ。ええと、傀儡の衣装ということは……糸や織物を扱っている店だろうね。よし、さっそく探しに行かないと!」
「どうしたんです? カミュアがそんなに興奮するなんて、珍しいですね」
「だって、あのヴァン=デイロだよ? 西の王国では知らぬ者もいない、《獅子殺し》のヴァン=デイロ! 俺はこれだけ王国中をさまよっているのに、あのお人とはなかなか巡りあう幸運を賜れなかったんだ!」
カミュア=ヨシュは、幼子のような面持ちで微笑んでいた。もともと稚気あふるるカミュア=ヨシュであれど、これほど無邪気な様子を見せるのは珍しいことである。
「なるほど。同じ《守護人》の先達として、ヴァン=デイロを敬愛していたということですか?」
「うん、そうさ。剣士としての力量ばかりでなく、気に食わない貴族には媚びへつらわない高潔さと、それに、氏を捨てない偏屈さが、なんとも好もしく思えてしまうのだよねえ」
「高潔さはわかりますが、偏屈さですか?」
「うん。だって、彼は自由開拓民の血筋だろう? それで普通は故郷を捨てたら、氏も一緒に捨てるものさ。自由開拓民なんて、王国の民よりも一段低い存在と見なされてしまっているのだからねえ」
そう言って、今度はにんまりと微笑むカミュア=ヨシュであった。
「そういう偏屈さは他人事じゃないから、ますます心をひかれてしまうのかな。まあ、俺の場合は氏を捨てたところでこの外見だから、血筋を隠すことはできないんだけどさ」
そういえば、カミュア=ヨシュの氏は、北の生まれである証になってしまっているのだ。なおかつシュミラル=リリンなどは、神を乗り換えた時点でシムの民としての氏を捨てている。マヒュドラなどは敵対国であるのだから、普通は真っ先に氏を捨てて然るべきなのではないだろうかと思われた。
(つまり、偏屈さではカミュアのほうが上ってことなんだろうな)
そんな風に考えながら、俺はカミュア=ヨシュに笑い返してみせた。
「実は、ヴァン=デイロが行動をともにしている傀儡使いの女の子も、カミュアに会いたがっていたのですよ。無断で傀儡の劇に登場させてしまって、あとで文句を言われたらどうしようと、ずいぶん気に病んでいた様子だったのですよね」
「俺を、傀儡の劇に? ははあ、そりゃまあ確かにスン家やらトゥラン伯爵家やらの騒動を扱おうというのなら、そんな話にもなってしまうか。俺なんて、賑やかしの道化師としてはまたとない素材だろうしねえ」
「確かにカミュアは道化師っぽいところもありますけど、あの騒動では中心人物のひとりでしょう? はっきり言って、主役にしたっていいぐらいの役割ですよ」
「いやいや、俺などを主役に祭り上げたら、物語として成立しないよ。俺なんて、何の志もなく、場をひっかき回していただけなのだからさ」
そう言って、カミュア=ヨシュはマントをひるがえした。
「さて、それじゃあヴァン=デイロらを探しに向かおうかな。えーと、レイトはどこに行ったんだろう?」
「レイトだったら、客室でテリア=マスの仕事を手伝ってるよ。あいつらはひさかたぶりに顔をあわせたんだから、できればそっとしておいてほしいところだね」
レビがそのように答えると、カミュア=ヨシュは「承知したよ」と言い残して、その場を駆け去っていった。
「子供みたいなはしゃぎっぷりだな。あのお人も、ずいぶん酔狂だね」
「うん、まあ、剣を志す人間としては、見過ごせない話なのかもね」
「ふうん。俺はヴァン=デイロなんて名前は、これっぽっちも知らなかったけどな。ユーミなんかは、吟遊詩人の歌で聞いたことがあるって、騒いでたけどよ」
そんな言葉を交わしながら、俺たちは露店区域を目指すことにした。
「そういえば、レビもリコたちから話を聞かれたんだろう? どうだった?」
「どうだったって、俺はべつだん、あの騒ぎには深入りしてなかったからなあ。誰でも知ってるような話しかできなかったよ」
そこでレビは、いくぶん心配そうに眉を下げた。
「でもさ、本当にあいつらは、納得のいくもんを作ってくれるのかなあ? いまさらスン家の昔の悪行をつつき回したって、誰の得にもなりゃしねえだろ?」
「ああ……もしかしたら、ミダ=ルウのことを心配してるのかな?」
「そりゃそうさ。俺が知ってる話なんて、それぐらいのもんだからな」
ミダ=ルウは、かつて宿場町で悪行を働いていた。お気に召さない料理を出した屋台を、いくつも破壊してしまったのだ。当時、それを俺に忠告してくれたのが、このレビに他ならなかったのである。
しかしレビは森辺の祝宴に参席して、ミダ=ルウと友誼を結んでいる。ヤミル=レイやツヴァイ=ルティムとも、もはや知らない仲ではないのだ。
「あんなのは、聞き分けのない餓鬼が癇癪を起こしただけのこったろう? ただ、ミダ=ルウは馬鹿力だから、あんな騒ぎになっちまっただけでさ。それに、そいつを叱ってくれる家族もいなかったって話だし……」
「うん。俺もスン家やトゥラン伯爵家にまつわる人たちが嫌な思いをするんじゃないかって、それを一番心配してるんだ。だから、できあがった劇を世に広める前に、内容を確認させてほしいって申し出ることになったんだよ」
そんな風に答えてから、俺はレビに笑いかけてみせた。
「でも、レビが俺と同じように心配してくれるのは、嬉しいな。やっぱりミダ=ルウたちと縁を結んだら、そういう気持ちになっちゃうよね」
「当たり前だろ。そんな人懐っこい笑顔は、アイ=ファにだけ見せとけよ」
レビはそっけなく言いながら、俺の肩を小突いてきた。隣を歩いていたラーズは柔和に微笑みながら、そんな息子の姿を黙って見やっている。
所定のスペースに到着したのちは、今日も元気に商売だ。
もちろん本日も、見習いの研修生が大挙している。研修を終えたのは、現地で調理をする必要のないトゥール=ディンの菓子の屋台のみであるので、それ以外の研修生は全員が顔をそろえていた。
そんな中で、マトゥアの若き女衆――レイ=マトゥアは、幸福でならぬように笑みくずれていた。
「今日は、朝からご機嫌だね?」
俺がそのように呼びかけると、「もちろんです!」という元気な言葉が返ってきた。
「もうしばらくしたら、わたしは毎日屋台で働かせていただけるのですものね! 他のみんなには申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが……どうしても、喜びの気持ちを抑えることができません!」
2日ほど前、俺はさっそくマトゥアおよび親筋たるガズの家長に、毎日出勤の件を相談させていただいたのだ。そうして家長たちが二つ返事で了承してくれたものだから、彼女もこのように喜びであふれかえっているわけである。
なおかつ他の女衆も、決して異論を唱えようとはしなかった。屋台の商売のキャリアで言うと、レイ=マトゥアは第三世代――雨季のさなかに研修を始めた世代であったので、マルフィラ=ナハムほどではないにせよ、新参の部類であったのだ。
しかし、そこは清廉なる森辺の民である。羨望はしても、嫉妬はしない。それに、厳格なる実力主義というのも気質にあっているらしく、誰もがレイ=マトゥアとマルフィラ=ナハムの「昇進」を祝福してくれていたのだった。
「ただ、うちの家長はいくぶんガズの血族に対抗意識を持っている面がありますので、いっそう奮起するようにとお声をかけられることになりました」
そのように述べていたのは、ラッツの女衆である。
よもやラッツとガズの絆にヒビが入ったりはしないだろうかと、俺はいささか心配になってしまったものであるが、彼女は「大丈夫です」と笑っていた。
「レイ=マトゥアとマルフィラ=ナハムは、狩人における勇者のようなものであるのです。狩人たちのように力比べをしたわけではありませんが、勇者になれなかった人間が勇者を妬むことなど許されませんからね。それがわかっているからこそ、家長も奮起せよと言ってくれたのだと思います」
そんなラッツとガズは、うまくいけば合同収穫祭に取り組む間柄となる。狩人の力比べでは、ラッツの家長もさぞかし奮起することになるのだろう。そして、レイ=マトゥアを始めとするかまど番たちの宴料理に満足してもらえたら、幸いであった。
いっぽうで、デイ=ラヴィッツおよびナハムの家長からは、いまだに明確な返事をもらえていなかった。研修生たちが一人前となり、新たな日程を組む段となったら、あらためて話をしたいとのことである。
「もう20日ほどもしたら復活祭ですし、その前には6氏族の収穫祭ですものね! 何だか楽しいことずくめで、心が浮き立ってしまいます! わたしが浮かれすぎていたら、どうか遠慮なく叱りつけてください!」
屋台の準備を進めながら、レイ=マトゥアはそのように言っていた。
弱冠13歳の、きわめて明朗なる女衆である。ずっと前からファの屋台においてはユン=スドラと並ぶムードメーカーであったし、かまど番としての力量も申し分ない。ルウ家の祝宴で参席者が募られるときなどはすかさず名乗りをあげ、宿場町の人々とも着実に絆を深めている。陰になり日向になり俺の仕事を支えてきてくれた、彼女はひそかな立役者であるのだった。
「俺がレイ=マトゥアを叱りつける姿は、あまり想像がつかないね。まあ、鉄鍋でもひっくり返したら、ちょっとお灸をすえてあげようかな」
「おきゅうをすえる? よくわかりませんが、よろしくお願いいたします! もちろん、失敗などしないように励みますので!」
という感じで、本日の仕事も開始された。
今日も朝から、大入りである。近年は、ジェノスの宿場町そのものが賑わいを増しているように感じられるし、ギバ料理を売るこの一画は、これだけ屋台が増えても個々の売り上げをのばしつつある。トゥール=ディンの菓子の屋台や、レビたちのラーメンの屋台がさらなる評判を呼び込み、相乗効果を成しているのだ。
(復活祭になったら、またユーミやナウディスも屋台を出すんだろうしな。それにそろそろ他の宿屋の人たちも、ギバ料理の屋台を計画しているんじゃないだろうか。1年で1番の稼ぎ時である復活祭なんだから、そうするほうが自然なぐらいだ)
何にせよ、俺たちは自分の仕事を果たすばかりである。
そんな風に考えながら、朝一番のラッシュを乗り越えると、嬉しい来客があった。
「やあ、アスタ! ずいぶんひさびさになっちゃったね!」
「やあ、ディアル。それにラービスも、おひさしぶりです」
南の鉄具屋の娘ディアルと、その護衛役たるラービスである。
鉄具屋の主人グランナルとの会食を果たして以来、ほとんど顔を見せていなかった両名であるので、俺も心からの笑顔で迎えさせていただいた。
「このひと月ぐらいは、目の回るような忙しさでさ! ハリアスから引き継いだお客ともじっくり話を詰めなきゃならなかったし、バナームとの仕事も二の次にはできないし……もう、頭が爆発しそうだよ!」
そんな風に述べながら、ディアルはおひさまのごとき笑顔であった。ジェノスを拠点にした商売を父親から任されて、充実した日々を過ごせているのだろう。その綺麗な翡翠のような瞳が、隣の屋台で働くユン=スドラのほうへと向けられた。
「うちから買いつけた調理刀や片手鍋は、どうかな? もちろん、不備なんてないだろうけどね!」
「はい。フォウやランでも、いっそう美味なる料理を作れるようになったと、みんな満足しています。近いうちに、また追加の注文をさせていただきたく思っています」
フォウを親筋とする3氏族は、ディアルから調理器具を買いつけていたのだ。すると、俺のかたわらで働いていたレイ=マトゥアも、身を乗り出した。
「ファの家で使われている肉切り刀なども、みんなディアルから買いつけたものであるのですよね? ガズやマトゥアの家でも新たな刀を買いつけることを、家長に相談しようとしているところであるのです!」
「あ、本当に? これからは、3ヶ月置きに商品を取り寄せることになったからさ。銀の月の頭までに注文してくれたら、月の終わりにはお届けできるよ!」
「銀の月の頭ですね。承知しました。他の家人にも伝えておきます」
ディアルにレイ=マトゥアにユン=スドラと、実に華やぐ組み合わせである。
すると、その華やかな空気をかきわけるようにして、ラービスが発言した。
「ディアル様。今日はアスタに、伝えるべき話があったのではないですか?」
「え? ああ、そうそう! 聞いたよ、傀儡使いのこと! そいつ、本当に大丈夫なの? リフレイアの古傷をえぐったりしない?」
実にディアルらしい、直截的な言い様である。
俺は朝方、レビに伝えたのと同じ言葉を繰り返すことになった。
「うーん、そっかあ。森辺のみんなが信用してるなら、信用していいのかなあ。はっきり言わせてもらうけど、リフレイアを傷つけるような傀儡の劇なんて、僕は絶対に嫌だからね?」
「それは俺だって、同じ気持ちだよ。さらに俺は、スン家の人たちだって傷つけたくはないんだからね」
「そうだよねー。まあ、おかしな風聞を蹴散らすために、きちんとした話を広めるってやり口は、わからなくもないんだけどさあ」
その言葉で、俺ははたと思い至った。
「そういえば、ディアルも南の民なんだもんね。ゼランドってのはそれほど遠い領地じゃないみたいだから、おかしな風聞が流れたりはしてないのかな? お父さんから、何か聞いてない?」
「いやー、確かにゼランドはジェノスから荷車で半月の場所だけどさ。ジェノス侯がお触れを回せるのは、西の王国の領内だけでしょ? だからまあ、口伝ての風聞もぞんぶんに流れてるみたいだね」
では、ディアルの父親たるグランナルも、故郷でおかしな風聞を耳にすることがあったのだろうか。
俺がそのように問うてみると、ディアルは「うん」とうなずいた。
「父さん自身は、あの騒ぎが収まるまでジェノスに居残って、全部の出来事を見届けていたからさ。そんな風聞に惑わされることもなかったみたいだけど……色々と、突拍子もない話を聞かされたみたいだよ」
「ふうん。どんな風聞だったんだろう?」
俺は重ねて問うてみたが、ディアルはなかなか語ろうとしなかった。
「風聞なんて、面白おかしく尾ひれがついちゃうもんだからさ。そんなのは、耳に入れる必要もないんじゃないのかな」
「でも、いちおう確認しておきたいんだよね。傀儡の劇で真実を広めることがどれだけ有意義な行いであるか、自分を納得させたいんだよ」
「そっか。それじゃあ、言うけど……嫌な気持ちになっても、僕に怒ったりしないでよ?」
そんな前置きをしてから、ディアルはようやく語ってくれた。
「アスタは自分の腕を貴族たちに売り込むために、森辺の民を利用したんだ、とか……ジェノスの領主がトゥラン伯爵家を潰すために、アスタと森辺の民を利用したんだ、とか……あと、アスタが森辺の民を色香でたらしこんで、自分のいいように使っているんだ、なんて風聞もあったみたいだね」
「い、色香でたらしこむ? 男の俺が、どうやって?」
「だから、アスタが女だと思われてたってことでしょ。ジャガルでは、女の料理人も珍しくはないからさ」
そう言って、ディアルは濃淡まだらの髪を自分でかき回した。
「風聞なんて、そんなもんだよ。ジェノスに足を運んだこともない人間が、好き勝手に想像して、話をふくらましちゃうのさ。で、それが面白い話だったら、どんどん広まっていっちゃうってこと」
「なるほど……それじゃあリコたちが面白い傀儡の劇をこしらえてくれたら、おかしな風聞を蹴散らす役に立ってくれそうなところだね」
「うん。だけど……それでリフレイアが傷ついちゃうのは、やっぱり嫌だなあ」
ディアルは空腹の子犬みたいに、しょぼんとしてしまった。
俺は「大丈夫だよ」と、それを元気づけてみせる。
「それだったら、いまでもリフレイアを傷つけるような、根も葉もない風聞が流れている可能性もあるだろう? きちんとした真実を広めれば、そういう風聞も蹴散らしてくれるんだろうから……悪い話ばかりじゃないさ」
「うん、まあね。そういえば、そういう風聞もあったことを忘れてたよ」
と、ディアルはいきなり眉を逆立てた。
「すべての黒幕はリフレイアだった、なんて風聞もあったんだよね。リフレイアが当主の座を得るために、森辺の民を利用して父親を失脚させた、みたいなさ。そんな馬鹿げた風聞を流すやつが目の前にいたら、僕はおもいっきり殴ってやりたいよ!」
「それはひどいね。そもそも一人娘のリフレイアが父親を失脚させる理由なんてないじゃないか?」
「だから、リフレイアはどこかの貴族と恋仲になって、それに反対する父親を失脚させたとか何とか、リフレイアのことを何も知らないやつが、そんな風聞をこしらえたんだよ。もう、頭に来ちゃうよね!」
直情的なるディアルは、自分の言葉でますます怒りをかきたてられている様子である。
「僕の父さんは、行商であちこちの領地に出向いてるからさ。ジェノスから離れれば離れるほど、どんどん信憑性がなくなっていくって言ってたよ」
「うーん。俺としては、そんなに遠い領地にまで風聞が流れていることに驚かされてしまうね。ましてや、ジャガルは異国なんだしさ」
「それだけあの騒ぎは、物珍しかったってことだよ。普通、貴族の犯した罪なんて、闇から闇へと葬られちゃうもんだからね。伯爵家の当主とその弟なんて高い身分だったら、なおさらにさ」
そんな風に言いながら、ディアルは難しい顔で腕組みをした。
「だから、まあ……アスタの言う通り、悪い話ばかりじゃないのかなあ。リフレイアだって、根も葉もない風聞で誇りを汚されるよりは、真実を広めてほしいって思うだろうしね」
「うん。だから後は、トゥラン伯爵家の犯した罪が変に誇張されたりしないか、そこに目を光らせるしかないと思うんだよね」
「うん、わかった。それじゃあ僕も、ジェノスの貴族たちと一緒にその劇を見届けられるかどうか、相談してみるよ。僕なんて、何も口出しできる立場じゃないけど……そのときは、リフレイアのそばにいてあげたいからね!」
それでようやく、ディアルは笑顔を覗かせた。
「あーあ、腹を立てたら、余計におなかが空いちゃった。そろそろギバ料理を食べさせてよ、アスタ!」
「うん。長話につきあわせちゃって、悪かったね」
そのように答えながら、俺は温かい気持ちになっていた。
レビやディアルも、自分が絆を結んだ人たちの心情を思いやってくれている。それが、嬉しくてならなかったのだ。
リコはいったい、どのような傀儡の劇を作りあげるのか。その答えが示される日も、もう目前に迫っているはずだった。