返礼の晩餐会②~ゲルドの作法~
2019.5/7 更新分 1/1
そうして、下りの五の刻――日没の一刻ほど前に、返礼の晩餐会が開始されることになった。
完成した料理をワゴンにのせて、俺たちは総出で会場に向かう。小姓に案内されたのは、これまで足を踏み入れたことのない部屋の前であった。
「森辺の料理人アスタのご一行をお連れいたしました」
そのような宣言とともに、小姓がうやうやしく扉を開けてくれる。
そこに待ちかまえていたのは、思いも寄らぬ光景であった。
「やあ、お待ちしていたよ、アスタ殿! こちらも全員、顔をそろえているからね!」
遠くのほうから、ポルアースの声が聞こえてくる。
俺たちは内心の驚きを押し隠しつつ、部屋の奥へと歩を進めていった。
かなり広い、小ホールとでも呼びたくなるような空間である。
ただし、左右には衝立が並べられており、意図的に空間が区切られている。それでも天井の面積を考えるに、ちょっとした舞踏会を開催できそうなぐらいの会場であるようだった。
その会場の真ん中に、大きな敷物が何枚も敷かれている。
卓や椅子の準備はない。人々は、まるで森辺の祝宴さながらに、地べたの敷物に腰を落ち着けているのだった。
「驚いたかい? これは、ゲルドの作法であるそうだよ。ゲルドに限らず、シムにおいては食事の場で卓や椅子を使う習わしが存在しないようなのだよね」
その敷物の1枚に座したポルアースが、笑顔でそのように述べたてていた。
別の場所では、なよやかに横座りの姿勢を取ったエウリフィアが、楽しげに微笑んでいる。
「わたしも噂には聞いていたけれど、自分で試すのは初めてのことよ。何だか、胸が躍ってしまうわね」
エウリフィアのかたわらでは、同じ姿勢を取ったオディフィアが、じっとこちらを見つめている。おそらくは、俺の隣でワゴンを押していたトゥール=ディンに視線を定めているのだろう。トゥール=ディンもそちらに視線を返しながら、はにかむように微笑んでいた。
「アスタ、料理、待ちわびていた。配膳、お願いする」
と、もっとも奥まった場所に座していたアルヴァッハが、そのように呼びかけてきた。彼とナナクエムは夕刻に厨までやってきていたので、すでに再会の挨拶は済ませているのだ。俺は「承知しました」と応じてから、配膳を開始することにした。
本日の晩餐の正式な参加者は、およそ20名ほどである。
ジェノス侯爵家、ダレイム伯爵家、サトゥラス伯爵家、トゥラン伯爵家と、このジェノスにおける支配者層の面々がのきなみ顔をそろえているのだ。それはやはり、格式で言えばジェノス侯爵家よりも上位にあたるという、ゲルドの藩主の第一子息たちに対する礼節なのであろうと思われた。
それに対して、森辺からは族長および名代として、ダリ=サウティ、ジザ=ルウ、ゲオル=ザザ、そしてシュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンが招かれている。
王都の外交官としてはフェルメスのみが参席しており、補佐官であるオーグや従者であるジェムドの姿は見当たらなかった。
これに主催者のアルヴァッハとナナクエムを加えた20名ていどの人々が、本日の正式な参席者となる。
なおかつ今回はアルヴァッハたちの要請で、俺たちもその輪に加わることになっていた。かまど番の7名、護衛役の2名、さらに族長や名代のお供として参じた3名もだ。ルド=ルウと、ザザおよびサウティの男衆たちも、すでにそれぞれ腰を下ろしていた。
それにしても、ゲルドの貴人や森辺の民はともかく、西の貴族の人々までもが敷物に座しているというのは、やはり奇異なる光景であった。
メルフリードやポルアースなどはすでに森辺の祝宴をともにしているものの、ここは城下町であり、なおかつ屋内だ。これだけだだっ広い会場が選ばれたのは、この人数が敷物に座れる場所を確保するためであったのだろう。で、あまりに周囲が開けていると落ち着かないので、衝立を置いているわけである。
その衝立にも敷物にも美しい刺繍が施されているのであるが、それらはいずれも異国的な情緒を漂わせていた。
西の王国に見られる装飾だって、俺にとっては十分に異国的であるのだが、それともまた異なる、きわめてオリエンタルな様相であるのだ。極彩色で、渦巻模様が主体であるその意匠は、おそらくシムの織物なのであろうと思われた。
ともあれ、俺たちは配膳の仕事に従事した。
これもアルヴァッハからの要請で、菓子を除くすべての料理はいちどきに準備している。6種の料理のフルコースというのは、あくまで西の貴族の作法であるのだ。本日は副菜も多いので、1人前の料理を大きな盆にのせて、各自に届けることになった。
すべての皿には蓋がかぶせられているので、ポルアースは待ちきれないようにふくよかな身体を揺すっている。アルヴァッハとナナクエムは、ぴんと背筋をのばしたまま、不動だ。やはりこれだけの人数であっても、ひときわ大きな身体をした彼らの姿は目をひいてやまなかった。
「アスタ、こちら、座してもらいたい。料理、説明、必要である」
アルヴァッハのそんな言葉に従って、俺は自分の盆をそちらに運ぶことになった。もちろんアイ=ファと、それにリミ=ルウも後をついてくる。
アルヴァッハとナナクエムの周囲には、マルスタイン、ポルアース、フェルメス、ジザ=ルウという、錚々たる顔ぶれがそろっていた。さらに、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンも遠からぬ位置に陣取っているのが、嬉しい話である。とりあえず、アルヴァッハの右手側にぽかりと空間が空いていたので、俺たち3名はそこに着席させていただいた。
レイナ=ルウとシーラ=ルウは、ルド=ルウやリフレイアやトルストのそばに、ユン=スドラとマルフィラ=ナハムは、ダリ=サウティやルイドロスやリーハイムのそばに、そしてトゥール=ディンはもちろん、ゲオル=ザザやメルフリードやエウリフィアやオディフィアのそばに腰を下ろしている。あと、ダレイム伯爵家のパウド、リッティア、アディスのそばには、ザザとサウティの男衆ぐらいしか森辺の民の姿がなかったためか、リャダ=ルウはそちらに足を向けていた。
「では、返礼の晩餐、始めたい、思う」
そうして俺たちが腰を下ろすのと入れ替わりに、アルヴァッハとナナクエムが立ち上がった。
「ジェノス、歓待、我々、深い感謝、抱いている。また、詫びの言葉、および、詫びの品、受け取ってもらえたこと、同様である。今後、正しき縁、紡いでいけること、願っている」
人々は、穏やかな面持ちでアルヴァッハの声を聞いていた。
アルヴァッハたちがジェノスを訪れて、すでに半月ていどが経過している。その間に、きちんと交流を深めることがかなったのだろう。マルスタインを筆頭とするジェノスの貴き人々も、アルヴァッハたちを見やる目に緊張の色はなかった。
「それでは、森辺の料理人、心尽くし、味わってもらいたい。この日、喜び、分かち合えること、幸いである」
指先を複雑な形に組み合わせて、小さく一礼してから、両名は再び膝を折った。
ゲルドの両名は東の言葉で何かをつぶやき、森辺の民は食前の文言を詠唱する。その末に、いよいよ晩餐が開始された。
「本日はゲルドの方々のご要望に従って、ジャガルの食材を多く使っています。いずれも自分の故郷の作法で作られていますので、ジャガル料理と銘打つには至りませんが、お楽しみいただけたら幸いです」
俺の前置きを聞きながら、人々は器の蓋を開けていった。
あちこちから、期待に満ちたどよめきがわきおこる。同時に漂うのは、ミソやタウ油の芳香だ。
「……そして、外交官のフェルメスには、特別料理をご用意いたしました。これも、ゲルドの方々からのご要望でありましたので」
「はい。僕は外交官として同席させていただけたら、料理は不要と申し出ていたのですが、アルヴァッハ殿とナナクエム殿のご厚意には心から感謝しています。……もちろん、このような手間をかけてくれたアスタたちにもです」
フェルメスは、いつもの感じで優美に微笑んでいる。その姿を、アイ=ファは努めて無表情に見やっていた。
「ただやっぱり、おひとりだけまったく異なる料理をお出しするというのは、自分の流儀ではありませんので、他の方々にも同じ料理をお出ししています。ほんのひと口ていどのささやかな量ですが、そちらもお楽しみいただけたら何よりです」
「ふむ! 察するに、こちらに分けてある3つの小鉢が、その料理であるのだね! これは楽しみだ!」
満面の笑みを浮かべるポルアースに笑顔を返してから、俺は最後につけ加えた。
「あと、汁物料理は追加の準備がありますので、必要な御方は手近なかまど番にお申しつけください」
これは、森辺の狩人たちへの配慮である。森辺の狩人と町の人間では、胃袋の大きさが異なるのだ。汁物料理のおかわりは、火鉢を設置できるワゴンでくつくつと煮立ちながら、出番を待っていた。
「以上です。どうぞ、お召し上がりください」
誰もが律儀に俺の説明が終わるのを待ってくれていたので、俺はそのように締めくくってみせた。
各人が、それぞれの料理に手をのばしていく。俺はひとつ息をついてから、自分の分の蓋を開けていくことにした。
さきほど述べたてた通り、今回はジャガルの食材を多用している。
となると、主体になるのはミソとタウ油であるので、自然と和食を意識した献立と相成った。
主菜と呼べるのは、ふた品。森辺の民や宿場町の人々にはお馴染みの『ギバの角煮』と、今回が初のお披露目となる『ミソ仕立てのギバ・カツ丼』である。
普段の『ギバ・カツ丼』は半熟のキミュス卵をからめているが、こちらではミソだれを掛けるに留めている。ほかほかに炊いたシャスカの上に、千切りのティノを敷きつめて、その上にギバ・カツをのせたのち、特製のミソだれを掛けた料理だ。
ミソだれには、砂糖とニャッタの蒸留酒と、それにホボイ油を少々使っている。それなりに強めの味わいではあるが、ティノやシャスカと一緒に頬張っていただければ、口内にてまたとない調和が得られることであろう。お好みで後掛けできるように、七味チットも準備させていただいた。
汁物料理は、レイナ=ルウたちにおまかせした、『ミソ仕立てのギバのモツ鍋』だ。同じミソを使っても、これだけ別種の味わいを組み立てられるのだということを示したくて、選出した次第である。
屋台で出す料理と異なり、原価率を気にかける必要がないので、レイナ=ルウたちもふんだんに具材を追加していた。もともと使用していたアリア、チャッチ、ネェノン、オンダに、ティンファ、レミロム、チャン、ブナシメジモドキ、マッシュルームモドキが加えられている。
白菜に似たティンファはともかく、ブロッコリーに似たレミロムや、ズッキーニに似たチャンというのは、ちょっと意外な顔ぶれだ。が、それらの具材はこの料理に調和しているように感じられた。既成概念にとらわれない、レイナ=ルウたちの勝利である。
以上の3品が、ギバを使った料理であった。
それ以外にも、さまざまな副菜を準備している。シィマとギーゴの干しキキサラダに、だしまき卵、ナナールのおひたし――そして、最近開発した、シィマとティンファの浅漬けだ。
浅漬けの調味液は、塩と、水で戻した海草と、チットの実、ケルの根、ニャッタの蒸留酒、チャッチの皮で作られている。あらかじめ切っておいたシィマとティンファを、調味液とともに革袋に入れて、よくもみこんだのちに、一刻ほど時間を置いている。発酵まではさせていない、清涼さが売りの浅漬けであった。
シャスカを入手しやすくなって以来、どうしたって和食めいた献立を作る機会が増えてきている。ならば、漬物を欲するのが人情というものであろう。特に本日のような献立であれば、真価を発揮できそうなところであった。
「いやあ、実に美味だね! このぎばかつには、ギバの脂が使われているのかな?」
ポルアースの問いかけに、俺は「はい」とうなずいてみせた。
「以前にお話しした、ギバの脂で揚げた『ギバ・カツ』となりますね。リリンの婚儀の祝宴でも、たしか出されていたかと思いますが」
「うんうん。でもあのときはミソの味ではなかったし、シャスカも使われていなかったからね! これはティノとシャスカがあってこその味付けであるのだろう! 実に美味だよ!」
「うむ。ミソを使う料理もだいぶん食べなれてきたが、アスタの作る料理は格別であるようだな」
マルスタインも、大らかな笑顔でそのように言ってくれていた。
逆側に目を転じると、リリンのおふたりが小声で囁き合いながら、料理を食べてくれている。もちろん公衆の面前であるのだから、必要以上に身を寄せ合っているわけではないのだが――何となく、幸福のオーラがもやのようにたちのぼっており、声をかけるのもはばかられてしまった。
(何だよ、もう。見せつけてくれるなあ)
俺は絶大なる幸福感とともに、そんな風に思うことになった。
油断すると、涙腺がゆるみそうになってしまう。ふたりの睦まじい姿を見ているだけで、俺は胸がいっぱいになってしまうのだった。
すると、シュミラル=リリンの黒い瞳が、ふいにこちらへと差し向けられてきた。
「アスタ、とても美味です」
「あ、ありがとうございます。お口に合ったのなら、幸いです」
シュミラル=リリンは、にこりと微笑んだ。
ヴィナ・ルウ=リリンも、同じように微笑んでいる。
ずっとその姿を見ていると、本当に涙をこぼしてしまいそうであったので、俺は隣のアルヴァッハへと視線を転じることにした。
アルヴァッハは、黙々と食事を進めている。
食事のペースは、遅くも早くもない。ただ、深い色合いをしたその碧眼には、真剣きわまりない光が浮かべられていた。
その瞳が、ゆっくりと俺に向けられてくる。
「……感想、のちほど」
「あ、はい。承知いたしました」
すると、マルスタインやジザ=ルウらと語らっていたナナクエムが、いくぶん目を細めて同胞を振り返った。
「晩餐会、交流、深める、本意である。アルヴァッハ、わきまえているか?」
「わきまえている。しかし、忘我の状態、会話する、失礼であろう。しばし、時間、もらいたい」
「……晩餐会、終わるまで、我、戻るのだろうか」
無表情のまま、ナナクエムは溜息をついていた。
そのかたわらで、マルスタインは楽しげに微笑んでいる。
「先日、《銀星堂》にて食事会を行った際も、アルヴァッハ殿はたいそう感銘を受けられたそうだな。やはり、アスタとヴァルカスの料理は別格ということなのだろうか?」
「否。ジェノス城の料理長、腕前、素晴らしい、思う。ただ……アスタ、ヴァルカス、異質である。ゆえに、心、乱されるのであろう」
「ふむ。ヴァルカスはともかく、アスタも異質であると?」
「異質、言葉、違っているだろうか? 西の言葉、難しい。……フェルメス殿、如何だろうか?」
「はい。よろしければ、東の言葉でお伝えください」
アルヴァッハは、東の言葉で短めの単語を口にした。
フェルメスは「ふむ……」と視線をさまよわせる。
「そうですね。『異質』という訳も間違いではないようですが……この際は、『奇抜』もしくは『独創的』なる言葉のほうが、相応であるかもしれません」
「独創的か。それでもヴァルカスに比べれば、外連味は少ないように感じられるが……まあ、シャスカ本来の食べ方を知るゲルドの方々であれば、十分に奇抜であるのかもしれんな」
マルスタインは納得したようにうなずいたが、アルヴァッハ当人は異論のありそうな様子であった。
「シャスカ、異なる調理法、確かに、どくそうてきである。しかし、アスタ、手腕、それに留まらない。我、考え、伝えるのに、フェルメス殿、助力、願えるであろうか?」
すると、フェルメスが了承するよりも早く、ナナクエムが制止の声をあげた。
「アルヴァッハ、話、長い。我、マルスタイン殿、重要な話、最中である。また、フェルメス殿、料理、冷めてしまう。横言、後にせよ」
「横言、心外である」と述べつつも、アルヴァッハは大人しく食事を再開させた。もしかしたら、自らの料理も冷めてしまうことを懸念したのかもしれない。ひとまず出番を失ったフェルメスは、俺に向かってにこりと微笑みかけてきた。
「こちらの料理も、すべて素晴らしい仕上がりです。今日は乾物でない魚も使ってくれたのですね」
「あ、はい。生きた魚は扱いなれていないので、ちょっと出来栄えが心配であったのですが……お気に召したのなら、何よりです」
「扱いなれていない食材でもこれだけの料理を作れるのが、アスタの非凡さを示しているのでしょう。……もちろん扱いなれていないというのは、『この地の魚』という意味なのでしょうけれどね」
アイ=ファの瞳に、きらりと警戒の光が灯った。
しかしそれ以上は俺の故郷に関して言及するつもりもない様子で、フェルメスは汁物料理を匙ですくった。
「この汁物料理には、魚の臓物も使用しているようですね。王都でも臓物の料理は珍しくありませんが、ミソの味わいと相まって、素晴らしい仕上がりだと思います」
「ええ、本当に! こちらは味見ていどの量でしたが、それが惜しいぐらいの仕上がりでありました!」
と、ポルアースもにこやかに声をあげてくる。
「汁物料理だけでなく、すべての魚料理が絶品であったよ。本当にアスタ殿の手腕は見事なものだねえ」
「ありがとうございます。それもこれも、食材の素晴らしさゆえだと思います」
俺がフェルメスに準備したのは、3種のギバ料理と対になる魚介料理である。献立は、天丼と、タウ油を使った煮込み料理、そしてミソ仕立てのアラ鍋であった。
天丼は、もちろんアマエビに似たマロールを使用している。残りの2品は、これが初挑戦となるクロダイに似た魚であった。
ジェノスで使える4種の魚は、いずれも白身の川魚であり、俺はこれまでイワナに似たリリオネなる魚ばかりを使用してきた。それを今回、別種の魚に変更したのは――アラ鍋であったらイワナよりもクロダイのほうが相応であろうか、と思い至ったゆえであった。
もちろんこれは外見がクロダイに似ているだけで、クロダイそのものではないし、イワナをアラ鍋で使って悪いことはないのかもしれない。要は、新しい食材にチャレンジしてみたくなったというのが、理由の大なるところであった。
ともあれ、ラットンという愉快な名前を持つこのクロダイに似た魚は、俺の期待に過不足なく応えてくれた。タウ油を使った煮込み料理も、ミソを使ったアラ鍋も、どちらも満足のいく仕上がりとなっている。フェルメスを始めとする皆様方にもご満足いただけのなら、幸いであった。
「そういえば、この魚に関してはお手数をおかけしました。あらためて、お礼を言わせてください」
俺の言葉に、ポルアースは「うん?」と小首を傾げた。
「ああ、魚の取り扱いについて、ヴァルカス殿に何か質問があったという話だったね。ヤンがそんなようなことを言っていたよ」
「はい。この魚の臓物が食用に適しているか、それを知るのはヴァルカスだけかと思いまして、質問をさせていただきました」
「うんうん。うちの侍女のシェイラが、《銀星堂》まで出向くことになったらしいね。そのときに、ヴァルカス殿が何て言ったかを聞いているかい?」
「え? いえ、質問の答えの他は、何も聞いていませんが……」
ポルアースは、悪戯小僧のように微笑んだ。
「そうか。アスタ殿を困らせないように、シェイラが気をきかせたのかな。それは無用の気遣いだと思うから、僕から伝えさせていただこう。……『アスタ殿は、またわたしの知らないところで素晴らしい魚料理を仕上げるつもりなのですね』と、落胆の息をついていたそうだよ」
俺は「あはは」と笑うしかなかった。
「俺としても、ヴァルカスには色々な料理を食べていただきたいところなのですが……こればかりは、そういう巡りあわせを待つしかありませんしね」
「ふむ。そういえばヴァルカス殿は、雑踏や山野に出向けない体質だという話であったね。アスタ殿が城下町まで出向いてこなければ、顔をあわせる機会も得られないということか」
『ギバの角煮』を口に放り込み、それを幸福そうに咀嚼してから、ポルアースは言葉を重ねた。
「だったら、ヴァルカス殿に用のあるときは、僕に声をかけておくれよ。通行証の手配をするからさ」
「え?」と、俺は目を丸くすることになった。
「だ、だけど、通行証というものを手にするには、何か厳格な審査が必要となるのではないですか?」
「それはもちろんそうだけれど、1日限りの通行証だったら、何も難しいことはないさ。……これは、森辺の民を身びいきすることにはなりませんよね?」
後半の言葉は、フェルメスに向けられたものである。
フェルメスは「もちろん」と微笑んでいた。
「通行証の発行に関しては、侯爵家および伯爵家の裁量に任されていますからね。むろん、アスタが城下町で騒ぎを起こした際は、通行証を発行した人間も罪に問われることとなりますが」
「だったら、心配はいりませんね。アスタ殿がジェノスの法を破ることなど、ありえないでしょうから」
するとアイ=ファが、「待たれよ」と静かに声をあげた。
「アスタに対する信頼は、心よりありがたく思う。しかし、森辺の民にとって、城下町というのは未知なる領域であるのだ」
「未知なる領域? でもアスタ殿は、もう両手の指でも足りないぐらいには、城下町に足を運んでいるはずだよね?」
「しかし、アスタに限らず森辺の族長でも、自分の足で道を歩いたことすらない。城下町に危険はないという話であったが、我らはそれを言葉でしか知りはしないのだ」
ポルアースは「ふむ」と、丸っこい下顎を撫でさすった。
「言われてみれば、その通りだね。だったらこちらで、送迎の車を準備することもできるけれども……どうせだったら、自分の足で城下町を歩いてもらいたいところだなあ」
すると、いくぶん離れた場所から、「では」と声があがった。
「私、案内、しましょうか?」
誰かと思えば、シュミラル=リリンである。
その隣では、ヴィナ・ルウ=リリンがちょっとびっくりしたように目を見開いていた。
「あなた、こちらで話をしていたのに、あちらの話にも聞き耳をたてていたのぉ……? ずいぶん器用なのねぇ……」
「はい。商人、耳、大事ですので。儲け話、聞き逃さない、癖、ついています。……いまは、儲け話、違いますが」
「うふふ……大事なアスタの話ですものねぇ……いったい何の話だったのかしら……?」
そんな夫婦のやりとりを見やりながら、ポルアースは「なるほど」と手を打った。
「そういえば、シュミラル殿は――いや、シュミラル=リリン殿は、猟犬の買いつけで城下町に出入りしていたね。もともと商団の人間として、通行証を持っていたのだっけ?」
「はい。夜、明かせない、通行証ですが」
「そうかそうか。それなら、アスタ殿の案内人にはうってつけだね。あとはアイ=ファ殿の分まで通行証を発行すれば、何も心配はいらないのじゃないかな? 何だったら、シェイラにお供をさせたっていいしね」
すると、黙って話を聞いていたジザ=ルウが、そこで声をあげた。
「ならば、族長筋の人間も、誰か同行させてもらえないだろうか? 城下町が如何なる場所であるのか、それを把握しておきたく思う」
「ああ、それはもっともな話でありますね。それじゃあ、僕が素性を知る9名まで、ということにさせていただきましょうか。1日限りの通行証でも、10名を超える場合には煩雑な手続きが生じてしまうもので」
そんな風に答えてから、ポルアースが俺に向きなおってきた。
「肝心のアスタ殿を置き去りにして、話を進めてしまったね。そうまでして城下町に足を踏み入れたいとは考えていなかったかな?」
「いえ。自分からヴァルカスに会いに行けるようになるのでしたら、心からありがたく思います。でも、本当によろしいのですか?」
「よろしくなかったら、ジェノス侯がお止めになっているはずさ。そもそも通行証の発行というのは、それほど大仰な話ではないんだよ」
マルスタインは、いつものゆったりとした笑顔で「うむ」とうなずいていた。
「本来であれば、三族長やアスタには、シュミラル=リリンと同じ通行証を授けてもおかしくはないところであったろう。それを差し控えていたのは……アスタの言う逆差別というものを配慮してのことであったのだ。森辺の民が気安く城下町に出入りをしていれば、宿場町やダレイムの人間がいぶかしく思うであろうと考えてな」
「では、もうその配慮も必要なくなったということであろうか?」
ジザ=ルウの言葉に、マルスタインは「いや」と首を振る。
「まだいくぶんは必要であろうと思うから、このたびは1日限りの通行証までに留めておこう。城下町の民にしてみても、慣れというのは必要であろうからな」
「慣れ?」
「森辺の民が城下町を闊歩するという行いに関しての、慣れだ。城下町の民のほとんどは、森辺の民をその目で見たことすらないのであろうからな」
そう言って、マルスタインはニャッタの蒸留酒で口を湿した。
「ジェノスの安寧は、森辺の民に守られている。ギバがトゥランやダレイムの実りを荒らせば、城下町の民とて安穏とはしていられないのだ。そうであるにも拘らず、城下町の民は森辺の民を、風聞でしか知り得ない。……1年と少し前までの、我々と同じようにな。それはあまりに不健全な関係だとは思わぬか、ジザ=ルウよ?」
「さて。トゥランやダレイムや宿場町の人間も、それは同じことなのではないだろうか? それらの民とて、城下町への出入りは禁じられているのであろう?」
「むろん、すべての民に通行証を授けることはできない。しかし、たとえば――そうだな、宿屋や野菜売りの商会長などであれば、通行証を授けられている。我々の尺度で語らせてもらうならば、三族長はそれに下る身分ではない。それでも会合のたびに、1日限りの通行証を発行していたのは、森辺の民が優遇されているという風聞を招かぬための配慮であったのだ。これに関しては、いずれ是正したいと願っている」
「是正というと……三族長には通行証を授ける、という意味であろうか?」
「いずれ、時期が至ればな。その前に、森辺の民が城下町を闊歩する姿を、城下町の民には見慣れておいてもらいたい。アスタらがその役を担ってくれるというならば、こちらとしても申し分ないな」
それは、こちらの台詞であった。
森辺の民なくしてジェノスの繁栄はありえないのに、城下町の民は森辺の民を目にしたことすらない――というのは、かつて俺がトトス車の窓から城下町の様相を見やっていたときに抱いた感慨そのものだったのである。
(マルスタインも森辺の民と絆を深めたことによって、同じ感慨を抱くことになった……っていうことなのか)
これもまた、大きな一歩であるのだろう。
それに現在の俺たちは、ジェノスの領主と同じ敷物に座って、同じものを食べている。これだって、1年と少し前には考えられない状況であるはずだった。
(ゲルドの人たちのおかげで、俺たちはまたジェノスの貴族たちと絆を深められたみたいだ)
そんな風に考えながら、俺はアルヴァッハのほうを盗み見た。
するとあちらも俺のほうに視線を向けてきたところであったので、ばっちりと目が合ってしまう。
「料理、すべて、美味である。……感想、いいだろうか?」
「あ、はい。よろしくお願いいたします」
アルヴァッハは重々しくうなずくや、呪文の詠唱のごとき東の言葉で、語り始めた。
それをBGMとして、周囲の人々は和やかに食事を進めていた。




