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異世界料理道  作者: EDA
第四十二章 愛の月
722/1681

華燭の典⑤~婚姻の儀~

2019.4/1 更新分 1/1

・予定を変更して、全9回の更新となりました。明日、最終話を更新いたします。

 俺が森辺の婚儀に立ちあうのは、これが5度目のことであった。

 最初はガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティム、その次はチム=スドラとイーア・フォウ=スドラ、ダルム=ルウとシーラ=ルウ、そしてフォウの男衆とスドラの女衆の婚儀を見届けたことがある。


 1年半で5度の婚儀というのは、決して少なくはないだろう。

 だけどもちろん、俺の厳粛な気持ちがそれで損なわれることはなかった。これはシュミラル=リリンとヴィナ=ルウの婚儀であるのだから、当然の話である。


 やぐらの上に立ち上がったふたりは、ミーア・レイ母さんとウル・レイ=リリンの先導で下界に降りてきた。

 儀式の火の前には、ジバ婆さんとレイナ=ルウがたたずんでいる。

 ふたりはとても静かな表情で、ジバ婆さんの前に膝をついた。


 ミーア・レイ母さんたちが、儀式の香草を火に投じ入れたのだろう。白い煙と幻惑的な香りが広がり、それがいっそう俺を陶酔させた。

 人々も、無言でこの儀式を見守っている。

 目を赤く泣きはらしたララ=ルウには、いつしかシーラ=ルウがぴったりと寄り添っていた。

 ミーア・レイ母さんとウル・レイ=リリンは、最前列に立ちはだかっていた伴侶たちのかたわらまで引き下がる。


 ルド=ルウも、リミ=ルウもいる。ジザ=ルウも、ダルム=ルウもいる。ティト・ミン婆さんも、ミダ=ルウもいる。ガズラン=ルティムも、ダン=ルティムもいる。ラウ=レイも、ヤミル=レイもいる。ジィ=マァムも、ディム=ルティムもいる。

 目の端では、家の前まで出てきたサティ・レイ=ルウやアマ・ミン=ルティムたちの姿もうかがえる。100名を超えるすべての血族が、ふたりの婚儀を見届けようとしているのだ。

 俺たち客人の立場にある人間は、血族である人々の邪魔にならぬよう、横合いからその姿を見つめていた。


 そんな中、ジバ婆さんはふたりの草冠を外すと、それを白い燻煙でそっと焙った。

 シュミラル=リリンの草冠をヴィナ=ルウの頭に、ヴィナ=ルウの草冠をシュミラル=リリンの頭にかぶせなおす。


「祝福を……今宵、ルウ家のヴィナ=ルウは、リリン家のシュミラル=リリンの嫁となった……ルウとリリンの家はその絆を深めて、いっそうの力と繁栄をこの森辺に……」


 ジバ婆さんの声が、静まりかえった広場に響きわたる。

 それからジバ婆さんは、ふたりにギバの角と牙を贈った。

 ふたりは同時に顔を上げると、とても落ち着いた声で宣言した。


「シュミラル=リリン、森に、ヴィナ=ルウ、賜りました」


「ヴィナ=ルウは、森にシュミラル=リリンを賜りました……」


 うねりをあげて、歓声が爆発した。

 知らずうち、俺はよろめいていたらしい。横からアイ=ファがそっと身体を支えてくれているのを感じた。


 シュミラル=リリンと、ヴィナ=ルウ――いや、ヴィナ・ルウ=リリンはゆっくりと立ち上がり、穏やかな笑顔で人々の歓呼に応えている。


 不思議と、涙はこぼれなかった。

 何か、心をゆさぶられすぎて、俺は忘我の状態に陥ってしまったようだった。

 地面を揺るがすような歓声も遠くに聞こえ、人々の姿もかすんでいる。その中で、儀式の火に照らされたふたりの姿だけが、くっきりとした色彩を残している。俺はけっこう離れた場所にたたずんでいるのに、シュミラル=リリンの白銀の睫毛や、ヴィナ・ルウ=リリンの頬に流れた涙の跡さえもがはっきりと見て取れるような気がした。


 おかしな言い方かもしれないが――俺は、幸福感に押しつぶされそうになってしまっていたのだ。

 自分がきちんと呼吸をできているのか、そんなこともわからなくなってしまっている。俺はただひたすらに幸福であり、いつまででもこの幸福感にひたっていたかった。


 そして、ぼやけた世界からひとつの人影が進み出てくる。

 その人影がふたりに近づくと、色彩が復活した。それは、大きめの木皿を掲げたレイナ=ルウであった。


 レイナ=ルウから受け取った肉切り刀で、ヴィナ・ルウ=リリンが皿の上の料理を切り分ける。

 それは、カレー風味の炙り焼きであった。

 試行錯誤の末、俺たちは鉄串に刺した肉にカレー風味のタレを塗り重ねながら、長い時間をかけて炙り焼きにすることにしたのだ。


 それは、ヴァルカスが得意とするギレヌスの炙り焼きに着想を得た調理法であった。

 アルヴァッハに「細工が足りない」との助言を受けて、最大限にカレーの味を活かせそうな肉料理を考案してみせたのである。


 タレにはフワノの粉も添加されており、それがいっそうの香ばしさを生み出してくれる。また、タレにはさまざまな食材を使っていた。ギバ骨と海草の出汁をベースにして、アリアとミャームーのみじん切りや、ラマムのすりおろし、ニャッタの蒸留酒、タウ油、パナムの蜜、ピコの葉なども配合し、その上でカレーの素となるスパイスを加えて、この料理のための新たなタレを作りあげたのだった。


 ヴィナ・ルウ=リリンの切り分けた肉を、シュミラル=リリンが口にする。

 シュミラル=リリンは、驚嘆に目を見開いていた。

 そして、ヴィナ・ルウ=リリンに何かを囁きかけている。ヴィナ・ルウ=リリンは口もとに手をやって微笑んでから、自分も木串に刺した肉を口に運んだ。


 ふたりは幸福そうに目を細めて、微笑みを交わしている。

 すると、歓声の向こう側から重々しい声が響きわたり、忘我のきわみにあった俺の目を覚まさせてくれた。


「婚儀の誓約は交わされた! 本日から、ヴィナ=ルウはヴィナ・ルウ=リリンとして、シュミラル=リリンの伴侶となる!」


 それは、ドンダ=ルウの声であった。

 それを合図に、血族たちがふたりのもとに押し寄せる。ふたりの姿が見えなくなると、俺もようやく完全に我を取り戻すことができた。


「さあ……それじゃあ俺たちは、かまど仕事を再開だな」


 すると、鋭く引き締まったアイ=ファの顔が目の前に迫ってきた。


「おい、大丈夫であるのか、アスタよ? お前は、まるで……寝ぼけているかのようだぞ?」


「うん。まるで夢の中をさまよっているみたいな心地だったよ。おかげで涙をこぼすこともなかっただろう?」


「……つまり、自分が涙を流していることにも気づいていなかったわけか」


 アイ=ファは眉を吊り上げると、俺の懐から抜き取った織布で俺の顔を蹂躙してきた。


「え? あれ? おかしいなあ。さっきまでは、絶対に涙は出てなかったはずなのに」


「いいから、目を覚ませ。そんな状態では、かまどに近づけさせることはできんぞ」


 それからアイ=ファは、熱気の渦と化した人垣のほうに視線を向ける。


「それに……祝いの言葉をかけずともよいのか?」


「うん。まずは血族にお祝いされるべきだろ? 俺はあとで、ゆっくり語らせてもらおうと思うよ」


 俺は、再びぐしょ濡れになってしまった織布をしまいこみながら、アイ=ファに笑いかけてみせた。


「それよりも、まずは料理さ。ふたりにも、俺たちの宴料理を食べてもらわないとな」


「そうか。……では、少し痛くするぞ」


「え? それはどういう……痛い痛い痛い!」


 アイ=ファのしなやかな指先が、俺の頬をしたたかにつねりあげていた。


「お前を痛めつけるのは本意ではないが、やむをえまい。目は覚めたか?」


「うん、もうばっちりだ。いちおう、お礼を言っておくよ」


「いちおうとは、何たる言い草だ。私はお前を思いやって――」


 そのように言いかけるアイ=ファの頬に、俺はぷにっと指先を押し込んでみせた。

 アイ=ファは顔を真っ赤にして、俺の胸ぐらをつかんでくる。


「……どうやら、まだ目が覚めておらぬようだな?」


「いや、大丈夫。いまのはほんの茶目っ気だ」


 俺はアイ=ファをなだめつつ、簡易かまどへと足を向けた。

 その場にはすでに4名のかまど番が集結しており、2種の料理の鉄鍋が火にかけられている。そして、隣の台にはシャスカの菓子もずらりと並べられていた。


「ユン=スドラとトゥール=ディンも姿を見せていましたが、祝宴を楽しむように伝えておきました。それでよろしかったのですよね?」


 フェイ=ベイムの言葉に、俺は「はい」とうなずいてみせる。


「あとの仕事は、俺たちで受け持ちましょう。麺の茹であげは、おまかせして大丈夫ですか?」


「はい。わたしどもでよろしければ」


 この場にいる4名は、すでにパスタの屋台をまかせられるぐらいの腕前になっている。それに、ラーメン作りの手ほどきもしているので、家で何回かはこしらえたこともあるのだろう。結果、ラーメンはフェイ=ベイムとマトゥアの女衆、タラパスープは俺とマルフィラ=ナハム、皿洗いと各種の雑用はラッツの女衆が受け持つことになった。


 シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンは、やぐらのそばの敷物に腰を落ち着けたようだ。しばらくすると、リリンの家の女衆が笑顔でこちらに近づいてきた。


「料理を取りに参りました。まだちょっと早かったでしょうか?」


「そうですね。さっき火をつけたところですので、料理が温まるまでもう少し時間がかかると思います」


「承知しました。では、またのちほどうかがいます」


 彼女は普段、ルウ家の屋台を5日にいっぺんだけ手伝っている女衆である。ヴィナ・ルウ=リリンも、今後は3日にいっぺんから5日にいっぺんにペースを落とし、それで空いた穴は他の氏族に当番を回すのだという話であった。


(でも、屋台の当番の日は、そのままルウ家の勉強会に参加するんだろうからな。5日にいっぺんでも顔をあわせられるのは、家族にとってもすごく嬉しいことのはずだ)


 俺がそのように考えていると、アイ=ファが横からきつめの視線を送ってきた。


「おい、また寝ぼけてはおらんだろうな?」


「大丈夫だよ。しっかり目は覚めてる」


「そうか。危ういときは、いつでも頬をひねってやるからな」


 どうやらまだ、さきほどの逆襲を根に持っているらしい。美麗なる宴衣装に身を包みながら、アイ=ファは傲然と腕を組んで立っていた。

 そこに、小柄な人影の群れが近づいてくる。

 その正体は、リミ=ルウとターラに左右から腕を引かれたルド=ルウであった。


「よー、らーめんはもう食えるのか?」


「あともう少しで茹であがるはずだよ。俺も早くふたりに食べさせたくて、うずうずしてるんだ」


「あー、あっちだって、食べたくてうずうずしてるだろうよ」


 ルド=ルウは陽気に笑っており、リミ=ルウも普段通りの無邪気な笑顔である。しかし、ふたりがララ=ルウよりも薄情である、ということにはならないだろう。アイ=ファが言う通り、表に出るか出ないかの違いがあるだけで、その胸の内には同じ喜びと同じさびしさが去来しているはずだった。


「ターラはしばらく姿を見なかったね。祝宴を楽しんでるかい?」


「うん! ずっとリミ=ルウたちと一緒にいたの!」


 ターラは屋台の常連客であるし、何度かルウの家に招かれたこともあったので、ヴィナ・ルウ=リリンともそれなりに絆を深めている。それにやっぱり、大好きなリミ=ルウのお姉さんの婚儀ということで、相当に昂揚しているのだろう。その笑顔の明るさは、ルウ家の元気な兄妹に負けないほどであった。


「あーっ! これ、トゥール=ディンのお菓子だね! こんなにたくさん作ったんだー?」


 と、リミ=ルウが兄の腕を引っ張って、かたわらの卓へと寄っていく。そこには、シャスカの菓子がずらりと並べられていた。


「わあ、リミが知らないお菓子もある! ねえねえ、食べてみようよ!」


「ほんとだー! 面白いかたちだね!」


 2名の幼女ははしゃいだ声をあげながら、ようやくルド=ルウの腕を解放した。

 ラーメンの準備を進めながら、マトゥアの女衆がそちらに笑いかける。


「どれも美味しいですよ。わたしは、そのゴヌモキの葉に包まれた菓子が大好きです」


 それは、ちまきからの着想で作られた菓子であった。シャスカを餅状に仕上げてから、内側にブレの実のあんこを詰めて、ゴヌモキの葉に包んで蒸しあげたものとなる。名称は、やはりゴヌモキ巻きにするべきであろうか。


 餅というのは、老人や幼子にとって咽喉を詰まらせる危険な面がある。その危険性は入念に伝えていたので、表面の餅はごく薄く仕上げられていた。そのぶん、あんこはたっぷりで、餅にもほのかに砂糖が加えられていた。


「これは、リミもルウの家で作ったよ! ジバ婆も大好きなの!」


「そうなんだあ? 丸くてやわらかくて、面白いね!」


「でも、こっちのは見たことない! これはどういうお菓子なんだろう?」


 リミ=ルウが指をさしているのは、あられを模した菓子であった。

 これもいったんシャスカを餅に仕上げたものを、細かく切り分けたのちに乾燥させて、あとはホボイ油で揚げ焼きにしている。煎餅よりも膨張の度合いが強く、パリパリとした食感がとても心地好い。


 なおかつ、そちらの味付けでは果実を使っている。油を切ったのち、砂糖を添加した果汁をまぶしているのだ。使われているのは、イチゴのごときアロウと、リンゴのごときラマムと、レモンのごときシールであった。

 ゴマ油のごときホボイ油に果汁というのはどうなのだろう、と俺も最初は疑問に思ったものであるが、これがなかなかに絶妙な組み合わせなのである。ホボイ油のもたらす香ばしさと、果汁のもたらす豊かな風味は、俺の知らない新しい味わいを現出させていた。


 そして、それとは別に、先日の食事会で供した煎餅も準備している。あられと煎餅に関しては、ルウ家の人々にも本日が初のお披露目となっていた。


「すごーい! これも、シャスカなの? リミも作り方を教えてほしいなあ」


「へー、確かにこいつは、奇妙な噛み心地だな。ジバ婆にはちょっと無理そうだ」


「あ、でも、こっちのあられってやつは、口にいれておくとやわらかくなって、くしゅっとつぶれるよ。これだったら、ジバおばあちゃんにも食べられるんじゃない?」


 3人は、子供のようにはしゃいでいる。というか、リミ=ルウとターラはまごうことなき幼子であるのだ。リミ=ルウは瞳を輝かせながら、マトゥアの女衆を振り返った。


「ねえねえ、これはもう5歳になってない子たちにも持っていってあげたのかなあ?」


「はい。最初にトゥール=ディンたちが届けたはずです。早くしないと、小さな子供たちは眠ってしまいますからね」


「そっかあ。それじゃあ、ジバ婆やヴィナ姉たちに持っていってあげよー!」


 そこでルド=ルウが口を開きかけたが、ひとつ肩をすくめると、そのまま口を閉ざしてしまった。

 もしかしたら――ヴィナ姉じゃなくってヴィナ・ルウ=リリンだろ、と言いかけたのかもしれない。ルウ本家の家族たちも、やはり今後はその名で姉を呼ぶことになるのだろうか。


 俺の心にささやかな疑問を残して、仲良し3人組は立ち去っていく。

 それと入れ違いに、ずいぶん風変りな一団が現れた。その姿を見て、マルフィラ=ナハムが目を泳がせる。


「あ、み、みなさん、まだ一緒におられたのですね」


「うむ。家人の働きっぷりを見物させてもらおうと思ってな」


 そのように答えたのは、ベイムの男衆である。以前に建築屋との祝宴をともにした、気さくで柔和な人物だ。

 ただ、それに同行しているのが、意外きわまりない顔ぶれであった。ミダ=ルウに、ラウ=レイとヤミル=レイ、それにモラ=ナハムという組み合わせであったのだ。


「おお、アスタにアイ=ファ、ようやく顔をあわせることができたな。祝宴ではこうしてなかなか言葉を交わせないから、俺はファの家に乗り込むことになったのだぞ!」


 と、ラウ=レイが俺のほうに身を乗り出してくる。それに挨拶を返してから、俺はさっそく問うてみた。


「マルフィラ=ナハムの口ぶりからすると、さっきからこの顔ぶれで祝宴を楽しんでいたのかな?」


「うむ! 最初はヤミルとミダ=ルウの3人であったのだが、ちょうどナハムの話をしていたときに、こやつらが通りかかったのでな! せっかくだから、縁を結んでおこうと思ったのだ!」


 ということは、ナハムとベイムの男女はもともと4名で行動していた、ということなのだろう。横目でうかがうと、ラーメンを茹であげる湯気の向こう側で、フェイ=ベイムはうっすらと頬を染めているようだった。


「アスタは、祝宴以来だな。そちらのらーめんはもちろん、こちらのタラパの煮汁も俺は美味だと思ったぞ。むろん、ギバを使っていない料理を毎日食べさせられたらかなわんが、宴料理には相応しいように思う」


 と、ベイムの男衆がにこやかに語りかけてくる。俺はそちらに「ありがとうございます」と応じてから、ミダ=ルウの巨体を見上げた。


「ミダ=ルウも祝宴を楽しんでる様子だね。もうすぐラーメンのほうも仕上がると思うよ」


「うん……アスタたちの料理は、すごくすごく美味しかったんだよ……?」


 ミダ=ルウの目が、俺とマルフィラ=ナハムを交互に見ている。マルフィラ=ナハムはミダ=ルウのもとに視線を定めると、おずおずと微笑んだ。


「あ、あ、ありがとうございます。きょ、今日のようにめでたい日に、少しでも力になれたのなら、とても嬉しく思います」


「うん……」と、ミダ=ルウはまばたきをする。

 どうもこの両名が顔をそろえると、不可思議な空気が生まれるようだ。巨大なゾウとフラミンゴが、川辺でのんびり向かい合っているような――そんなほのぼのとした、牧歌的な空気である。


「……ファの家のアスタよ」と、今度はモラ=ナハムが声をあげてくる。


「その魚介というものを使った料理は……俺の口には、合わなかった」


「そうですか。ご満足させることができず、申し訳ない限りです」


「……しかし、そちらのらーめんという料理は……それを補って余りあるほどに……美味だったように思う」


 巨大な岩石が口をきいているような、実に重々しい声音である。

 俺はそちらに向かって、「ありがとうございます」と笑いかけてみせた。

 そこでフェイ=ベイムが、ことさらかしこまった様子で呼びかけてくる。


「らーめんが、茹であがりました。みなさん、お食べになられますか?」


「おお、もちろんだ! それが目当てで、俺たちはこの場を訪れたのだからな!」


 ラウ=レイは、嬉々とした様子でそちらのかまどに寄っていく。それを横目で見やりながら、ヤミル=レイがそっと顔を寄せてきた。


「やっぱり森辺の民にとっては、ギバの骨を使った料理のほうが好ましく思えるようね。……わたしとしては、こちらのすーぷのほうが美味に思えてしまうのだけれど」


「あ、そうだったのですか? 美味だと思ってもらえたのなら、嬉しいです」


「ふん。わたしは10年ばかりも禁忌を破って、ギバの肉もろくに口にしていなかったから、森辺の民らしからぬ舌をしているだけかもしれないけれどね」


 そのとき、ヤミル=レイの妖艶なる姿が暗く陰った。

 ミダ=ルウが、真上からヤミル=レイの姿を覗き込んできたのだ。


「でも、ミダは……ギバ骨らーめんのほうが、美味しく感じるんだよ……?」


「何よ、びっくりするじゃない。わたしを押しつぶそうというつもり?」


「ううん……ミダやヤミルは、森辺の禁忌をやぶっちゃったけど……いまは、正しく生きてるんだよ……? ヤミルがこっちの料理を美味しいと思うのは……たまたま好きな味だっただけなんだと思うんだよ……?」


 心なし、ミダ=ルウの瞳には切なげな光が灯っているように感じられた。

 ヤミル=レイは、綺麗に編み込まれた髪をかきあげながら、息をつく。


「ちょっと冗談を言ったぐらいで、そんな目をしないでよ。それに、わたしを呼ぶときは、きちんと氏をつけなさい」


「うん……ごめんなさいだよ……?」


「いいわよ、もう。ほら、あなたはこっちの料理が目当てだったんでしょう?」


 と、ヤミル=レイはミダ=ルウの丸太のごとき手首をつかみ取り、ラーメンのかまどへと引っ張っていく。血の縁を断たれたのだから、そうして身に触れることも習わしにそぐわないことのはずであるが、それは失念してしまっているらしい。


「あ、あ、あのおふたりは……ち、血の縁を断たれても、確かな絆を残されているのですね」


 マルフィラ=ナハムが、隣の俺にしか聞こえないぐらい小さな声で、そのようにつぶやいていた。

 俺も同じぐらいの声量で、「そうだね」と答えてみせる。


「でも、ルウとレイは血族なんだから、問題はないだろう?」


「も、も、もちろんです。そ、それに、いまの森辺では、血族ならぬ相手とも絆を深めるべき、とされているのですから、も、問題などあろうはずもありません」


 そんな風に述べながら、マルフィラ=ナハムは俺のほうに視線を定めてきた。

 その口もとには、ぎこちないながらも穏やかな微笑がたたえられている。


「わ、わ、わたしはただ、おふたりの睦まじい姿を見て、とても嬉しく思ってしまっただけなのです。ア、アスタも同じように考えておられるのなら、それも嬉しく思います」


「もちろんだよ」と答えながら、俺も笑ってみせた。

 あちらのかまどの前では、ラウ=レイたちが美味い美味いとはしゃいでいる。


「あ、ラウ=レイ。よかったら、ここの料理をシュミラル=リリンたちにも届けてあげてくれないかな? きっとまだ、食べていないと思うんだ」


「なに? だけどさっき、俺たちの前にルド=ルウらが立ち寄っている姿が見えたぞ?」


「さっきはまだ料理が温まってなかったからね。菓子だけを持っていってくれたんだよ」


 ラウ=レイは、「ふーむ」と考え込んだ。


「だったらそれは、アスタが持っていけばいいではないか? お前はシュミラル=リリンともヴィナ=ルウとも……いや、ヴィナ・ルウ=リリンとも絆が深いのだからな。ふたりの喜ぶ姿を、ぞんぶんに見物してやるがいい」


「いや、俺は仕事中だからさ。それに、そういう役目は血族のほうが相応しいだろう?」


 ラウ=レイは「うむ」とうなずいた。


「相分かった。その申し出は、断らせてもらう」


「うん、どうもありがとう。……え? 持っていってくれないのかい?」


「うむ。アスタの言い分が気に食わないので、聞いてやらんことにした。お前がそのような遠慮をするのは、きっと正しくないことだ。シュミラル=リリンらに料理を食べさせたいのなら、自分で持っていくがいい」


 そんな風に述べてから、ラウ=レイはベイムの男衆を振り返った。


「では、次のかまどに向かってみるか。今度は誰に出くわすか、楽しみなところだな」


「うむ。レイの家長みずからが案内を申し出てくれるとは、光栄なことだ。……では、また後でな」


 最後の言葉は、フェイ=ベイムに向けられたものだ。

 フェイ=ベイムが無言でうなずくと、モラ=ナハムもぼそりと「……また後で」とつぶやいた。


 異色のメンバーが遠ざかっていくと、今度は別の一団が近づいてくる。そちらに木皿を手渡しながら、マルフィラ=ナハムが今度はきょときょとと俺を見やってきた。


「あ、あ、あの、わたしはひとりでも大丈夫ですので、よかったらアスタは料理をお運びください」


「いやあ、うーん、どうだろう。……アイ=ファは、どう思う?」


 アイ=ファはあっさり「知らん」と言った。


「ラウ=レイの言い分も、わからなくはない。お前はお前が正しいと思う道を進むがいい」


 そんな風に述べてから、アイ=ファはきらりと青い瞳を光らせる。


「しかし……その前に、しばし果たさねばならぬ役目が生じたようだな」


 何のことだろうと思ってアイ=ファの視線を追いかけると、さきほどの一団にも劣らぬ派手派手しい顔ぶれがこちらに近づいてくるところであった。ガズラン=ルティムとダリ=サウティに先導された、城下町よりの客人たちである。


「やあやあ、料理の2杯目をいただきに来たよ、アスタ殿!」


 ダリ=サウティと並んで歩いていたポルアースが、まずは楽しげに笑いかけてくる。だいぶん緊張も解けてきたようで、すっかりいつも通りの陽気な笑顔であった。


「いやあ、森辺の祝宴というのも、素晴らしいものだね! 僕は婚儀をあげたおふたりとはさして面識もないのだけれど、さきほどは思わず涙をこぼしてしまいそうになったよ」


「そうでしたか。俺なんかはもう、顔がふやけそうになるぐらい、涙を流しっぱなしです」


「うんうん。懇意にしている相手の婚儀だったら、それも当然さ! いやあ、本当に素晴らしい祝宴だ!」


 ポルアースにそのように言ってもらえるのは、俺としても心から嬉しいことであった。

 すると、ダリ=サウティもゆったりと微笑みかけてくる。


「ガズラン=ルティムが案内をしているところに出くわしたので、俺も同行させていただいた。そちらの料理も楽しませてもらったぞ、アスタよ」


「ありがとうございます。ギバを使っていない料理もお楽しみいただけたのなら、幸いです」


「うむ。俺もずいぶん城下町の料理を口にする機会があったからな。周りの人間ほどはぎょっとすることもなく、その料理を食することができた。それで思ったのだが……アスタというのは、本当に大したかまど番であるのだな」


「ダリ=サウティにそんな風に言ってもらえるのは、光栄です。でも、どうしてそのように思われたのでしょう?」


「なんとなく、城下町の民がアスタを褒めそやす気持ちがわかったように思えたのだ。アスタは本当に、森辺の民も城下町の民も、同じように喜ばせることができるのだろう。それが何だか、とてつもないことのように思えてしまった、ということだな」


 そう言って、ダリ=サウティはいっそう穏やかに微笑んだ。


「しかも今回は、シムの貴人をも同じように喜ばせたというではないか。ここまで来るわずかな間にも、実にさまざまな話を聞かされたぞ」


 すると、そのゲルドの貴人たるアルヴァッハの重々しい声が、こちらに聞こえてきた。


「……この菓子、真実、シャスカであるのか?」


「はい。どれもシャスカで作られています。もちのお菓子がお気に召しましたか?」


 相手をしているのは、マトゥアの女衆のようだ。目をやると、誰よりも長身であるアルヴァッハが「うむ」とうなずいている姿が見えた。


「きわめて、美味である。考案、トゥール=ディンであろうか?」


「あ、トゥール=ディンの名はご存知なのですね。はい、アスタがおおまかな内容を手ほどきして、それをトゥール=ディンが形にしたのだと聞いています」


「驚くべき、手腕である。……トゥール=ディン、何処であるか?」


「トゥール=ディンは、さきほどディンやザザの方々とどこかに行かれました。かまどを巡って、他の宴料理を口にしているのではないでしょうか」


「そうか。……感想、伝える、必要である」


 同じ会話を拝聴していたらしいダリ=サウティは、いくぶん苦笑っぽい表情を浮かべた。


「終始、あのような調子でな。あのゲルドの貴人とやらは、ずいぶんな変わり種であるようだ」


「あはは。そうですね。……でも、ゲルドの人たちとも友好的な関係を築けそうで、ほっとしています」


「うむ、本当にな」と、ダリ=サウティが答えたとき、小柄な人影が進み出てきた。

 これまで沈黙を保っていた、フェルメスである。そのヘーゼル・アイは、俺の隣のアイ=ファへと差し向けられていた。


「失礼いたします。しばしお時間をいただけますでしょうか?」


「……アスタにではなく、私にか?」


「はい。僕は、あなたとも絆を深めたく思っているのですよ、アイ=ファ」


 フェルメスは、とても優美に微笑んでいる。

 それと相対するアイ=ファは、狩人の眼差しになっていた。


「このたびの祝宴も終わりに差しかかってきたようですが……僕はあなたを不快にさせてしまいましたか、アイ=ファ?」


「……貴族たる人間が、私などの機嫌をうかがう必要はあるまい。私がどのような気持ちを抱こうとも、そちらにはそちらの役目というものがあるのだろうからな」


「はい。ですが、僕はアスタのことをかけがえのない存在だと思っています。そんなアスタともっとも近しい存在であるあなたに嫌われてしまうのは、とても悲しいことですし……いらぬ面倒を引き起こす要因にもなりかねないと思うのですよね」


「…………」


「僕がアスタへの情愛を説けば説くほど、あなたは不機嫌になってしまわれるようですね。それはやっぱり、僕がアスタという個人にではなく、特異な出自を持つ《星無き民》に対して強い思い入れを抱いているということで、あなたを不愉快にさせてしまうのでしょうか?」


「……だから今後は、人間としての情愛も深められれば幸い、という話ではなかったか?」


「ええ、その通りです。でも僕は、現時点でもアスタとの出会いを心から寿いでいます。アスタを傷つけようとする人間が現れたならば、この胸を瞋恚に焦がすことになるでしょう。僕にとって、アスタはそれだけの存在であるのです」


 フェルメスの瞳が、わずかに妖しくゆらめいていた。

 しかし、心をここでない場所に飛ばしてしまわないように、懸命に踏み留まっているように見える。


「この祝宴も、また然りです。シュミラル=リリンは、アスタと出会うことで、これほどの幸福を得ることがかないました。僕は心から、ふたりの出会いを祝福しています。……これは、間違った気持ちであるのでしょうか?」


「間違っている……とは、思わん。アスタと出会わなければ、シュミラル=リリンがヴィナ・ルウ=リリンと出会うこともなかった。それは事実であるのだろう。このように幸福なる運命をもたらしたのは、母なる森と父なる西方神なのであろうと思う」


 アイ=ファはわずかに眼光をやわらげて、何かを思案するように目を細めた。


「ただ……あなたはその運命を、人の理で解こうとしているように見えてしまう。私があなたの行いを腹立たしく思うのは……森や神々をないがしろにしているように感じられるから……なのかもしれん」


「そのようなつもりは、毛頭ありません。ただ僕は、あなたがたのように神々の存在を体感することができないので、ついつい理に走りがちなだけなのだと思われます」


「それがどのような感覚であるのかは、私にはわからぬが――」


 と、そこでアイ=ファは口をつぐんだ。


「……ともあれ、今日はめでたき日だ。このような話を語らうには相応しからぬ日であろう」


 フェルメスはななめ後方に目をやると、「そうですね」と微笑んだ。


「無粋な話を持ちかけてしまって、申し訳ありません。ジェムド、場所を空けてさしあげよう」


 フェルメスとジェムドが、横合いに引っ込んでいく。

 その向こう側から現れたのは、誰あろうシュミラル=リリンであった。


「話、邪魔、してしまったでしょうか? でしたら、お詫び、申し上げます」


「とんでもありません。僕のほうこそ、今日のあなたのお邪魔をすることは許されない立場であるのですよ」


 シュミラル=リリンはひとつうなずくと、逆の側に視線を転じた。

 そこにたたずむのは、アルヴァッハとナナクエムである。


「我々、同じ、気持ちである。ただ、のちほど、挨拶、させてもらいたい」


「お心づかい、ありがたい、思います。また、ゲルドの貴人、祝宴、ともにすること、できて、光栄、思っています」


 アルヴァッハとナナクエムもうなずいて、いくぶん後方に退いた。

 それでようやく、シュミラル=リリンの瞳がこちらに向けられる。

 その黒い瞳には、これ以上ないぐらい優しげな光がたたえられていた。


「アスタ。宴料理、いただき、参りました」


「は、はい。……今日の主役が、自ら料理を運びに来られたのですね」


 冗談めかして、俺はそのように言ってみせた。そうでもしないと、たちまち涙をこぼしてしまいそうだったのだ。


「はい。アスタの料理、心待ち、していました。その思い、こらえかねたのです」


「あはは。それは光栄なお話ですけれど、花嫁を置いてきちゃうのはまずいんじゃないですか?」


「いえ。ヴィナ・ルウ、背中、押してくれました。だから、やってきたのです。料理、いただけますか?」


 すると、マトゥアの女衆が俺の袖を引っ張ってきた。


「それでしたら、アスタがめんを茹でてください! わたしがそちらと代わります!」


 彼女たちが仕上げた分は、貴族たちの分で尽きてしまっていたのだ。

 俺は何だか心も定まらないうちに、場所を移動してラーメンのかまどの前に立つ。


 麺が茹であがる間、俺とシュミラル=リリンはとりとめもない会話を楽しんだ。ポルアースたち城下町の一行は、いつの間にやら姿を消している。アイ=ファは俺のそばにたたずんでいたが、何も口をはさもうとはしなかった。


「我々、口にする、最初の料理。アスタ、レイナ=ルウ、作ってくれたのですね」


「あ、はい。レイナ=ルウが、それを提案してくれたんです。お味は、いかがでしたか?」


「美味でした。『ギバ・カレー』、初めて、口にしたときと、同じぐらい、衝撃でした」


「シュミラル=リリンにそう思っていただけたら、感無量です。レイナ=ルウの作った料理ももう口にされましたか?」


「はい。シム、宴料理、模した料理ですね? そちらも、美味でした。レイナ=ルウ、心づかい、嬉しかったです」


 まだまだ感情を表すことは不得手な、シュミラル=リリンである。

 しかしそれらの言葉は、しみじみと俺の胸にしみわたっていった。


 やがて完成したギバ骨のミソラーメンの木皿を、シュミラル=リリンは両手で大事そうに押し抱く。

 シュミラル=リリンはフォーク状の食器を使って、巧みにラーメンをすすりこんだ。


「……さすがはシャスカを食べなれているだけあって、危なげがないですね」


「はい。シャスカ、ラーメン、似ています。だから、アスタ、この料理、選んだのですか?」


「そういう気持ちも、確かにありました。それに、ギバ骨の出汁は多くの森辺の民に好まれていますしね」


「はい。シム、故郷に持ち、森辺、家人となった、私、相応しい料理、思います」


 そう言って、シュミラル=リリンは幸福そうに目を細めた。


「アスタ、心づかい、嬉しく思います。そして……この料理、きわめて美味です」


 俺は、にっこり笑ってみせた。

 口を開いたら、嗚咽をもらしてしまいそうだったのだ。


 幸いなことに、涙はこぼれていない。

 少しぐらいは、涙をこぼさずに笑顔で祝福したい――そのときの俺は、そのように思っていた。


 そんな俺の心中を察したのか、シュミラル=リリンは無言で食事を進めていく。

 その姿を、俺も無言で見つめ続けた。

 やがて――汁の一滴まで飲み干したシュミラル=リリンは、満足げな吐息とともに言葉を発した。


「私、幸福です。かつての故郷、家族、いませんでしたが、新たな家族、新たな同胞、たくさん得ること、できました。心より、幸福、思います」


 シュミラル=リリンの黒い瞳が、包み込むように俺を見る。


「私、運命、変転しました。アスタ、出会えたこと、すべての始まりです。……でも、星読み、関係ありません」


 まだ咽喉の詰まってしまっている俺は、小首を傾げることで疑念を呈してみせた。

 シュミラル=リリンは、とても静かに微笑んでいる。


「アスタ、《星無き民》です。《星無き民》、関わった人間、運命、大きく、変転します。……ですが、運命、選び取る、自分です。星図、運命、表しますが、人間、星図、従っている、ありません。人間の意志、星図、反映されているのです」


 シュミラル=リリンの目が、アイ=ファのほうにも向けられた。

 アイ=ファは真剣な面持ちで、シュミラル=リリンの言葉を聞いている。


「水面、人間、映します。星図、水面、似ています。水面、人間の姿、映し、星図、人間の運命、映す。それだけです。運命、切り開く、自分なのです。星図、それ、映すだけです」


「……うむ。それは正しい言葉なのだと、私は心から信ずることができる」


 ひさかたぶりに、アイ=ファが口を開いた。

 シュミラル=リリンは同じ表情のまま、「はい」とうなずく。


「外交官、アスタの出自、気にしている、聞きました。でも、惑わされる必要、ありません。アスタ、《星無き民》、ゆえに、星図、映らない。それだけです。《星無き民》、関わった人間、星の動き、不規則、なる。それだけです。我々、もとより、星図、動き、読めないのですから、関係ありません。私たち、自分の意志、運命、選んだのです」


 俺は嗚咽がこぼれないように気をつけながら、「はい」と答えてみせた。

 そこで涙をこぼさなかった自分を、ほめてやりたく思う。それぐらい、シュミラル=リリンは優しい顔で微笑んでいたのだ。


「その上で、言います。私、アスタ、出会えたこと、幸福、思っています。運命、切り開いた、自分、誇らしい、思っています。自分の運命、ヴィナ・ルウの運命、アスタの運命、祝福します。母なる森、父なる西方神、かつての母なる草原、かつての父なる東方神……すべての存在、祝福、捧げたい、思います」


 やっぱり俺は、「はい」としか答えることができなかった。

 だけど、それで十分なはずだった。


(こんな日にまで、シュミラル=リリンは……俺なんかのことを気づかってくれているんだな)


 俺のほうこそ、シュミラル=リリンとの出会いをすべての神々に感謝したかった。

《銀の壺》は、わずか1ヶ月ていどしかジェノスに留まっていなかったのだ。そのタイミングで屋台の商売を開始して、シュミラル=リリンと出会えた運命を、俺は心から祝福したかった。


 俺は大きく息を吸い込んで、あふれかえりそうになる嗚咽を呑み下す。

 涙は、きっと流れていない。

 俺は精一杯の思いを込めて、シュミラル=リリンに笑いかけてみせた。


「シュミラル=リリンと出会い、そして同胞になれたことを、俺も心から嬉しく思っています。……あらためて、ご結婚おめでとうございます、シュミラル=リリン」


 シュミラル=リリンは、にこりと微笑んでくれた。

 それはさきほどまでの微笑ともまた異なる、小さな子供のようにあどけない笑顔であった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >それは、ヴァルカスが得意とするギレヌスの炙り焼きに着想を得た調理法であった。 これはギレブスですね
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