華燭の典②~祝福の儀~
2019.3/29 更新分 1/1
その後も俺は、胸の奥でしんみりと幸せを噛みしめながら、かまどの仕事を果たすことになった。
途中で1回、シュミラル=リリンに挨拶をさせてもらったのと、あとはレイナ=ルウと合流して特別料理を手掛けた他は、日没までほとんどシン=ルウ家のかまど小屋で過ごしていたことになる。
この7日間できっちりと段取りを整えておいたので、作業のほうに不備はない。他のかまど小屋でも、同じように作業が進められているのだろう。祝宴が始まる前から、ルウの集落には尋常でない熱気が渦巻いているように感じられた。
俺とともに仕事に励むトゥール=ディンたちも、真剣そのものの様子であり、なおかつ、とても昂揚した様子である。正直なところ、フェイ=ベイムやラッツの女衆というのは、そこまで際立った腕を持つかまど番ではなかったのだが――ここ数日の集中練習で、ひと皮むけたような印象があった。
「ファを含む6氏族は、収穫祭のたびにこうして手を携えているのですね。わたしなどは、南の民を迎えた親睦の祝宴ぐらいでしか、こういう仕事にたずさわったことがなかったので……なんだか、すごく昂揚してしまいます」
ラッツの女衆などは、そのように述べたてていた。
「6氏族で行われる収穫祭を見学させていただく日が、ますます楽しみになってきました。わたしたちも収穫祭をともにすることができたら、喜ばしいことですね」
後半の言葉は、フェイ=ベイムとマトゥアの女衆に向けられたものだった。もしも彼女たちの家長が合同収穫祭に取り組む決断をしたならば、家の近い彼女たちが収穫祭をともにすることになるのだ。
そんな余談も楽しみながら、俺たちは作業を進めていき――時間は、着々と過ぎ去っていく。やがて日没が近づくと、まずはルウ家の男衆が森から帰ってきて、ルティムやレイなどの血族や、血族ならぬ客人たちも、次々と来訪してきたようだった。
そうして訪れた、日没である。
すべての仕事をやりとげて、広場のほうに出てみると、そこはもう150名に及ぼうかという人々で埋め尽くされていた。
男衆は狩人の衣を纏い、女衆は宴衣装を纏っている。紫色に暮れなずんだ空の下、俺がその光景を感慨深く眺め回していると、森辺の民ならぬ客人たちが大挙して近づいてきた。
「やあ、アスタ、お疲れさま! アスタがひとりなんて、珍しいじゃん!」
宿場町からの客人たち――ユーミ、テリア=マス、ターラ、カミュア=ヨシュ、レイトの5名である。森辺の女衆にも負けない宴衣装を纏ったユーミは、それはもう心から楽しそうな面持ちであった。
「ああ、ユーミたちも来てたんだね。こっちはついさっきまで仕事だったから、他のみんなは宴衣装に着替えている最中なんだよ」
「あー、なるほどね! 今日は昼も饅頭ひとつで済ませておいたから、宴料理が楽しみだなあ」
むきだしのおなかをさするユーミに笑いかけてから、俺はテリア=マスに視線を転じる。
「テリア=マスも、お疲れさまです。宿のほうは、大丈夫でしたか?」
「はい。みんなに迷惑をかけてしまう分は、明日から頑張りたいと思います」
そのように述べるテリア=マスは、普段の格好にショールや花飾りなどを加えた装いであった。レビの手前、露出の多い宴衣装をユーミから借りることは控えたのだろう。その顔にも、森辺の祝宴に対する期待と興奮があふれかえっていた。
同じように花飾りをつけたターラも、にこにこと笑っている。カミュア=ヨシュやレイトのほうは、まあ相変わらずの様子だ。のほほんとした顔で笑いながら、カミュア=ヨシュも俺に語りかけてきた。
「俺たちのすぐ後に、メルフリードたちもやってきたようだね。ポルアースがアスタに挨拶をしたがっていた様子だったけど……まあこれはルウ家の祝宴だし、ちょっと機会を待つべきだろうね」
「はい。祝宴が始まったら、ゆっくりご挨拶をさせていただこうと思います」
カミュア=ヨシュの視線を追うと、本家のすぐそばにアルヴァッハたちの長身がうかがえた。そのそばに控えているのは、ジザ=ルウとルド=ルウであるようだ。他の人々は、そのスペースをやや遠巻きにしているようだった。
いっぽう、俺たちがたたずんでいるのは、シン=ルウの家の前である。しばらくその場で談笑を楽しんでいると、玄関の戸板が勢いよく開かれた。
そこから現れたのは、宴衣装のアイ=ファだ。
たちまち、ユーミやカミュア=ヨシュが称賛の声をあげることになった。
「うわあ、アイ=ファの宴衣装はひさびさだね! やっぱり綺麗だなあ!」
「うんうん、本当にねえ。……おっと、俺は口をつつしむべきだったね」
アイ=ファは冷徹なる無表情で進み出てくると、客人らに無言で目礼をした。
普段よりもカラフルな色合いの装束と、玉虫色のヴェールにショール。頭に輝くのは透明の薔薇のごとき髪飾りで、首もとには青い石の首飾り――そして、その首飾りのやや下方、ほとんど胸もとに至る場所には、アルヴァッハたちから贈られた銀の首飾りも下げられていた。
やはり、息を呑むほどに美しい首飾りである。黄色いトパーズのような宝石は黄昏刻の陽光をあびて幻想的にきらめき、精緻な彫刻のなされた銀の台座がそれをさらに彩っている。その見事さにいち早く気づいたのは、やはり目ざといユーミであった。
「それ、すごい飾り物だね! もしかしたら、山の民からの贈り物ってやつ?」
「うむ……宴衣装とはいえ、華美に過ぎるのではないだろうか?」
「そんなことないよ! アイ=ファにはすっごく似合ってるし! ほんとにもう、どこかのお姫さまにしか見えないなあ」
同性からの称賛では、アイ=ファも森辺の習わしを持ち出すことはかなわない。結果、アイ=ファはぶすっとした面持ちで口をつぐむことになった。
その後からは、アイ=ファの着付けを手伝ってくれていたユン=スドラたちも、ぞろぞろと出てくる。ユーミたちはまた口々に挨拶をして、再会を祝していた。
「へえ、あんたも見違えたね!」
ユーミがそのように評したのは、マルフィラ=ナハムに対してであった。
マルフィラ=ナハムも髪をほどいて、玉虫色のヴェールやショールで身を飾っている。飾り物に関しては、花や木の実でこしらえたつつましいものが主体であったものの、やはりその首にはゲルドの貴人から贈られた首飾りが下げられていた。
ユン=スドラやフェイ=ベイムたちも同様の首飾りを下げているが、それらはそれぞれ少しずつデザインや宝石の種類が異なっている。マルフィラ=ナハムの首飾りにきらめくのは、薄桃色の宝石だ。
マルフィラ=ナハムの宴衣装姿をひとしきり鑑賞したユーミは、「ふーん」とつぶやきながら何歩か後ずさった。
「あんた最近、めっきり年頃の娘っぽくなってきたよね。たしか、あたしより1歳下なんだっけ?」
「は、は、はい。わ、わたしは16歳となります」
「そっかそっか。うーん、なるほど……ね、もうちょっと背筋をのばして、堂々と立ってみたら? そんで、首や肩もすぼめないで、こう、ぐっと胸を張るの」
「こ、こ、こうでしょうか?」
マルフィラ=ナハムは目を泳がせなら、ユーミの指示に従った。
が、すぐにしおしおと縮こまってしまう。
「も、も、申し訳ありません。わ、わたしはこういう姿勢でいないと、息が苦しくなってしまうのです。き、きっともう、骨の作りがこういう形になっているのでしょう」
「そっかー。あんたって背が高いしすらっとしてるから、姿勢をよくするだけで、すごく見栄えがよくなると思うんだけどなあ」
マルフィラ=ナハムは、猫背な上に撫で肩であるのだ。ユーミはしばらく残念そうにうなっていたが、「ま、いっか」と白い歯をこぼした。
「あんたはあんたで、可愛らしいしね! そのまんまでも、十分に魅力的だよ!」
「か、か、可愛らしいですか? そ、そんなことを言われたのは、生まれて初めてです」
「それは周りに、見る目のあるやつがいなかったってことだね。……ていうか、森辺では外見をほめちゃいけない習わしなんでしょ? きっとあんたのことを好いてる男衆は、いっぱいいると思うなあ」
「そ、そ、そうでしょうか? た、たぶん、そんなことはないと思います」
そんな具合に、俺たちは祝宴の前のひとときを楽しんでいた。
ターラやテリア=マスたちも、他の女衆と笑顔で言葉を交わしている。この場にいるのはみんな屋台の店子と常連客であるので、いずれも見知った仲であるのだ。
そうして時間が流れすぎ、いよいよ陽光の残滓も頼りなげになってきたとき――ドンダ=ルウの重々しい声音が響きわたった。
「それではこれより、婚儀の祝宴を始めたく思う。……まずは、血族ならぬ客人たちを紹介したい」
それはすなわち、客人たちは集合せよ、という合図である。俺たちは連れ立って、儀式の火の準備の整えられた広場の中央まで移動した。
あちこちに散っていた小さき氏族の男衆も合流し、メルフリードたちはジザ=ルウの案内でこちらに寄ってくる。それらのメンバーは横並びとなって、ルウの血族たちの前にその姿をさらすことになった。
「アスタ、ひさしいな」
と、隣に立った大柄な人影が、頭上から笑いかけてくる。それは、三族長たるダリ=サウティであった。お供は、ヴェラの若き女衆である。
ダリ=サウティともじっくり語らいたいところであったが、すぐにドンダ=ルウによる客人の紹介が開始された。血族ならぬ客人は、こうして最初に名前と素性をつまびらかにされるのだ。
まずは族長筋たるダリ=サウティと、ヴェラの女衆。ゲオル=ザザと、スフィラ=ザザ。ディック=ドムと、レム=ドム。トゥール=ディンと、ディンの男衆。続いて、小さき氏族の、ファ、スドラ、ベイム、ラッツ、マトゥア、ナハムの男女2名ずつ――ただし、ユン=スドラの相方は血族たるラン家のジョウ=ランだ。
そうして次は、貴き身分の客人たち。メルフリード、ポルアース、フェルメス、ジェムド、アルヴァッハ、ナナクエムの6名。護衛役の兵士たちは集落の入り口の警護にあたっており、紹介はなされない。
最後は、宿場町からの5名、ユーミ、テリア=マス、ターラ、カミュア=ヨシュ、レイトだ。
さらにその後は、住み込みの客人であるバルシャ、ジーダ、ミケル、マイムの名も告げられていた。
血族ならぬ客人の総勢は、31名にも及ぶ。バルシャたちを加えれば、35名だ。
それを迎えるルウの血族は、5歳未満の幼子や、その面倒を見る女衆を差し引いて、100余名――おそらく、120名近い人数であろう。それだけの森辺の民が同じ場に集結するというのは、やはり圧巻であった。
「このたびは、もともと森辺の民ならぬ血筋であったシュミラル=リリンの婚儀ということで、こうまで多数の客人を迎え入れることとなった。元来、婚儀というものは血族のみで祝うべきものであるのであろうが……シュミラル=リリンの特別な出自を鑑みて、俺は了承した。いずれの客人も、決して婚儀の邪魔立てはしないと約定を交わしてくれたので、その言葉を信じたいと思う」
静まりかえった広場の中に、ドンダ=ルウの声だけが響きわたった。
「そして……中には、シュミラル=リリンやヴィナ=ルウと顔をあわせたこともないままに、ただこの婚儀を見届けたいと願った客人も含まれているが……そうであっても、このめでたき日の喜びを少しでも分かち合うことができれば、幸いである」
これだけ大勢の人間が集まっているというのに、しわぶきのひとつも聞こえてこない。
そんな圧倒的なまでの静寂の中、ドンダ=ルウが視線を巡らせた。
「リリンの家長ギラン=リリンよ、前に出よ」
ギラン=リリンはゆったりとした足取りで進み出て、ドンダ=ルウの横に並んだ。
ドンダ=ルウはひとつうなずいて、俺たちの姿を見回してくる。
「では、婚儀を始めたいと思う。客人たちには、下がってもらいたい」
森辺と宿場町からの客人はルウの血族の人々の間に分け入り、城下町からの客人は横合いに引っ込んだ。
薄暗がりの中、ドンダ=ルウが右腕を振り上げる。
「儀式の火を!」
シン=ルウともうひとりの若い狩人が、左右から儀式の火を灯した。
ドンダ=ルウとギラン=リリンの背後で、巨大な炎がたちのぼる。
そしてそれを追いかけるように、広場を取り囲むかがり火も灯された。
「婚儀をあげる両名を、ここへ!」
しばしの静寂が訪れる。
しかしそれは、すぐに盛大なる歓声で破られた。
儀式の火の向こう側から、シュミラル=リリンとヴィナ=ルウが現れたのである。
シュミラル=リリンは、男衆がこの日にだけ着用を許される宴衣装を纏っていた。
特別仕立ての狩人の衣で、肩のあたりにはギバの頭が飾られている。腰に下げられた刀の革鞘には凝った刺繍と綺麗な石があしらわれており、胴衣も脚衣も普段の装束よりは飾りが多い。そして、頭にのせられているのは、鮮やかなグリーンの草冠だ。
普段は後ろで束ねられている白銀の長い髪が、いまは自然に垂らされており、それもまたシュミラル=リリンの姿を優美に飾っていた。
長身だが、普通の森辺の男衆よりは華奢な体格をしたシュミラル=リリンである。決して弱々しい印象ではないものの、ガズラン=ルティムやダルム=ルウほど勇壮であるかと言ったら、それは難しいところだろう。
しかしそれは、決してガズラン=ルティムたちに見劣りする姿ではなかった。
シュミラル=リリンには、シュミラル=リリンだけが有する、不思議な空気がある。とても静かで、とても優しくて、とてもやわらかい――それはもしかしたら、シムを捨てて森辺の民となったシュミラル=リリンだけが持つ空気なのかもしれなかった。
もともと東の民というのは、感情を表すことを恥と考えている。そういう習わしに20年以上も身を置きながら、神を乗り換えて、新たな習わしの中に身を投じた。シュミラル=リリンとは、そういう存在であるのだ。
己の感情を、ぎこちないながらも懸命に表そうとする、その心持ちが、こんな空気を生み出しているのではないだろうか。シュミラル=リリンは、とても静かで、とても優しくて、とてもやわらかい微笑をたたえながら、ゆっくりと歩を進めていたのだった。
そうしてそのかたわらを、ヴィナ=ルウが歩んでいる。
こちらも婚儀でだけ許される、特別な花嫁衣裳である。
そのなよやかな肢体のすべてが、玉虫色のヴェールに包まれている。それが儀式の火に照らされて、まるでヴィナ=ルウ自身が光り輝いているかのようだ。
また、実際――今日のヴィナ=ルウは、輝くような美しさであった。
かつてのアマ・ミン=ルティムやシーラ=ルウよりも、たくさんの飾り物をつけている。ひときわ豪奢な首飾りは、きっと山の民からの贈り物であろう。それ以外にも、ルウ家の繁栄を誇るかのように、数々の飾り物をつけられているのだが、それよりもなお、ヴィナ=ルウ自身が美しかった。
いつもとろんとしている、やや垂れ気味の色っぽい目は、しとやかに伏せられている。その端麗なる面にはどのような表情も浮かべられておらず、ただ静かに歩を進めているだけであるのだが、ヴィナ=ルウはまるで美の女神のように美しかった。
普段は色気やフェロモンとして知覚されるものが、何か別なるものに変換されて、光り輝いているような――そんな驚嘆を、俺は味わわされていた。
(でも……ふたりとも、なんて幸せそうなんだろう)
シュミラル=リリンとヴィナ=ルウは、ぴったりと寄り添っているわけではない。間に人間ひとり分ぐらいの距離を置いて、歩いている。そうでありながら、おたがいの存在を何よりも近しく感じているのだろう。ふたりがどれほどに相手のことを想い、いまのこの瞬間をどれほど幸福に感じているか――それが、まざまざと伝わってくるかのようだった。
そんな両名を、ルウとリリンの家人が囲んでいる。先導しているのはリミ=ルウと、リリンの家の10歳ぐらいの男の子であり、左右をはさんでいるのは、ミーア・レイ母さんとウル・レイ=リリンであった。
やがて儀式の火の前に辿り着くと、両名の距離はさらに離れて、それぞれの家長のかたわらに立ち並ぶ。リミ=ルウたちは、さらにその外側に立ち並んだ。
「これが本日婚儀をあげる、シュミラル=リリンとヴィナ=ルウである。……両名と供の家人は、婚儀の席に進むがいい」
6名は一礼して、再び儀式の火の向こう側に回り込む。本家の前あたりの空間に、高さ2メートルはあろうかというやぐらが建てられているのだ。
6名がやぐらの上に腰を落ち着ける姿が、燃えたつ儀式の火の上に見えている。それはまるで、神話の1ページのように神々しい姿であった。
「このたびは、日の高いうちに血族の家を巡る習わしを取りやめた。いまこの時間に、祝福を捧げてもらいたい。……まずは、ルウの血族からだ」
人々が、やぐらへと足を向けていく。まずは親筋たるルウ家の人間、次は婚儀の当事者であるリリンの人間、その次は有力の氏族であるルティムやレイの人間――と、おおよその順番は定められているのだろう。150名ぐらいの人々が詰めかけているというのに、順番を争うような事態には至らなかった。
その順番を待っていると、アイ=ファが横から俺を覗き込んでくる。
「うん? どうかしたのか、アイ=ファ?」
「いや……感心なことに、今日は涙をこぼしておらぬようだな」
「うん。いまは胸が詰まっちゃって、息が苦しいぐらいだよ。どこで決壊するか、お楽しみだな」
「馬鹿を抜かすな。たまには最後までこらえてみせよ」
それは無理な相談だと、俺はぼんやり考えていた。
頭の中には、この1年半ぐらいの思い出がぐるぐると渦を巻いている。これではまるで、走馬燈のようだった。
このルウの集落で、ヴィナ=ルウと初めて顔をあわせたときのこと――その夜に、ヴィナ=ルウが夜這いを仕掛けてきたときのこと――あるいは、宴料理の鉄鍋をひっくり返して涙目になっているヴィナ=ルウの姿や、ルド=ルウと3人で宿場町に下りたときの姿など――出会った当時のヴィナ=ルウとは、実にさまざまな出来事が生じていたのだった。
そもそも、俺の屋台を最初に手伝ってくれたのは、ヴィナ=ルウなのである。
あの頃は、ふたりきりで屋台の商売に取り組んでおり、トトスや荷車の存在もなかったので、えっちらおっちらと鉄鍋や食材を運んでいた。あの時代、俺がアイ=ファの次に長きの時間をともに過ごしたのは、間違いなくヴィナ=ルウであっただろう。
ファの家から宿場町は、徒歩だと1時間ばかりもかかる。その道のりを、俺はヴィナ=ルウとふたりで毎日往復していたのだ。重い鉄鍋に料理や食材を詰め込んで、恐怖の吊り橋を踏み越えて――そうして営業中も、ふたりきりで色々な話をした。兄弟の中でもっとも心安いのはダルム=ルウであると聞いて、ひどく驚いたことはいまでも心に強く残されている。
もちろん、ふたりきりで屋台に取り組んでいた期間は、ごく短い。せいぜい4、5日といったところだろう。宿場町ではすみやかに好評を得ることができたので、すぐにララ=ルウやシーラ=ルウにも手伝いを頼む事態に至ったのだ。
だけどララ=ルウたちはルウ家から直接宿場町に下りていたので、通勤の時間はやはりヴィナ=ルウとふたりきりであった。それはたしか、ギルルがファの家にやってくるまで続いたはずだ。
それに――ヴィナ=ルウとふたりきりで商売をしていた4、5日の間にも、実にさまざまなことが起きていた。バランのおやっさんたちや、ユーミや、ミダ=ルウや、テイ=スンに出会ったのも、その期間内のことであった。
そして、シュミラル=リリンも然りである。
俺たちがシュミラル=リリンに出会ったのは、屋台を開いて2日目のことのはずだった。
(バランのおやっさんが、ギバの肉が美味いわけはないって大騒ぎして……そんな中、シュミラルたちは平然と料理を買ってくれたんだよな)
そうして翌日には、建築屋の一団と《銀の壺》がまた同じ刻限にやってきて、屋台の料理の取り合いとなり、衛兵を呼ばれるほどの騒ぎになってしまったのだ。
かくも、騒がしい日々であった。
そして、そんな頃からシュミラル=リリンは、俺やギバ料理に好意を寄せてくれていたのである。
そしてまた、ヴィナ=ルウに対しても――なのだろう。
(なにせシュミラルはまったく表情が変わらないから、いつヴィナ=ルウに懸想したのかも、俺にはさっぱりわからなかったんだ)
だけど俺も、いつしかそれを察するようになっていた。少なくとも、シュミラル=リリンが行動を起こす前から、彼はヴィナ=ルウに懸想しているのではないのか――と、想像を巡らせていたのである。
シュミラル=リリンが行動を起こしたのは、《銀の壺》がジェノスを出立する数日前のことだった。
ヴィナ=ルウが家で足をくじいてしまい、シュミラル=リリンがお見舞いをしたいと言いたててきたのである。
あれは俺たちが、荷車を購入した日のことであった。屋台の商売を終えた後、《キミュスの尻尾亭》でアイ=ファと待ち合わせをしていたら、シュミラル=リリンが息せき切って駆けつけてきたのだ。
このままヴィナ=ルウと顔をあわせずに、ジェノスを離れることはできない――そういう思いに衝き動かされて、シュミラル=リリンは駆けつけてきたのだろう。
その翌日、シュミラル=リリンはルウの集落を訪れた。ついでに、ファの家も訪れた。カミュア=ヨシュに続いて、それは森辺を訪れたふたり目の客人であるはずだった。
そうして、その数日後――ジェノスを出立する日の前日に、シュミラル=リリンはついにヴィナ=ルウへと心情を明かしたのだ。
ヴィナ=ルウのことを愛している。
婚姻の絆を結んでもらいたい。
そのために、シムからセルヴァに神を乗り換える。
返事は、半年後に聞かせてほしい。
そのように言い残して、シュミラル=リリンはジェノスを後にしたのだった。
(それが、青の月の31日……1年と3ヶ月以上も前のことなんだ)
1年と3ヶ月以上の時を経て、シュミラル=リリンとヴィナ=ルウはあの場所に座っている。
なんと遠くまで来たのだろう――と、俺はまたひそかに胸を詰まらせることになった。
「……では次に、森辺の客人に祝福をお願いする」
ドンダ=ルウの声が響き、アイ=ファが俺の腕を肘でつついてきた。
「行くぞ。呆けて、儀式の火に突っ込むのではないぞ」
「ああ、うん、大丈夫だよ」
俺たちがやぐらのもとまで歩を進めると、そこにはユン=スドラたちが待ち受けていた。
やぐらの上からはダリ=サウティらが降りてくるところであり、ゲオル=ザザやディック=ドムたちがそれに続こうとしている。トゥール=ディンとディンの男衆の姿も見えた。
「族長筋の次は、ファの家がどうぞ。シュミラル=リリンやヴィナ=ルウともっとも縁が深いのは、アスタとアイ=ファなのですからね」
サイドテールをほどいて灰褐色の髪を長く垂らしたユン=スドラが、にこやかに微笑みかけてくる。
そちらにうなずきかけてから、俺たちはトゥール=ディンらの背中を追った。
ギバの角や牙が渡されて、それはリミ=ルウたちの手にした草籠に移される。ゲオル=ザザたちは「祝福する」とだけ言い置いて、シュミラル=リリンたちはそれに礼を返していた。
トゥール=ディンとディンの男衆がその儀式を済ませると、次が俺とアイ=ファであった。
シュミラル=リリンとヴィナ=ルウが、無言で俺たちを見つめてくる。
どちらの顔にも、静かな微笑がたたえられていた。
だけどシュミラル=リリンは、なんと優しげな表情であるだろう。
ヴィナ=ルウは、なんと幸福そうな表情であるだろう。
さまざまな思い出が頭の中でスパークして、俺の視界が一瞬だけ白濁した。
そうして次の瞬間には、ふたりの笑顔がおぼろげにゆらめいてしまっていた。
「もう……何を泣いているのよぉ、アスタ……」
ヴィナ=ルウが、普段通りのゆったりとした声音で呼びかけてくる。
目もとをぬぐうと、ふたりは変わらぬ様子で微笑んでいた。
リミ=ルウも、リリンの男の子も、ミーア・レイ母さんも、ウル・レイ=リリンも笑っていた。
「わたしは今日、絶対に泣かないって決めてるんだから……それを邪魔しないでもらえたら、ありがたいわねぇ……」
「す、すみません。おめでたい席なのに」
いっこうに止まらない涙をぬぐいながら、俺は何とか笑い返そうとした。
玉虫色のヴェールの向こうで、ヴィナ=ルウは微笑んでいる。
「冗談よぉ……わたしたちのために、ありがとう……」
「はい。アスタ、アイ=ファ、感謝しています。そして、この日、喜び、分かち合えること、心から、嬉しく思います」
いざ婚儀を迎える本人たちは、このように静かな心境を得られるものであるのだろうか。
そんな風に思いながら、俺はシュミラル=リリンの前に膝を折った。
隣では、アイ=ファがヴィナ=ルウの前にひざまずいている。
「おめでとうございます。おふたりの婚儀を、心から祝福します」
俺は、ギバの牙をシュミラル=リリンに手渡した。
「ありがとうございます」と、シュミラル=リリンが目を細める。
その黒い瞳には、うっすらと涙がたたえられていた。
ヴィナ=ルウの頬には、すでにはっきりと涙がしたたっている。玉虫色のヴェールの輝きが、それを隠していただけのことであったのだ。
そうと気づいた瞬間、俺はこれまで以上の涙をこぼしてしまい、アイ=ファの助けなくしては、やぐらを降りることもかなわなくなってしまっていた。