華燭の典①~下準備~
2019.3/28 更新分 1/1
そして――ついに訪れた、藍の月の14日である。
シュミラル=リリンとヴィナ=ルウの、婚儀の祝宴の当日だ。
その前夜は、俺も昂揚してなかなか寝付けないほどであった。が、いつしかころりと寝入っていたらしく、夜明けと同時にしゃっきり目を覚ますことができた。
洗い物と水浴びと、薪および香草の採取という最低限の仕事だけはやりとげて、さっそくルウ家に向かう支度をする。薪割りの準備を進めていたアイ=ファは、そんな俺の姿を妙に優しげな眼差しで見守ってくれていた。
「アスタよ、お前は……心から楽しげにしているな」
「うん。それはもう、なんて言ったってシュミラル=リリンとヴィナ=ルウの婚儀なんだからな。はしゃぎすぎないように気をつけるのが大変なぐらいだよ」
「そうか。……お前の喜びは、私の喜びだ」
アイ=ファは、ふわりと微笑んだ。
アイ=ファのほうこそ、なんと幸福そうな微笑みだろう。ちょっとおかしなテンションにある俺は、朝から胸をどきつかせることになってしまった。
「では、私は狩りの仕事を終えてから、ルウ家に向かうこととする。荷車の手配に、ぬかりはないな?」
「ああ、うん。ナハムの家にルウルウの荷車を預けておいたから、それで行き道に拾ってくれるはずだよ。7人乗りになっちゃうけど、荷物は少ないから大丈夫だろう」
それから俺は、薪の束を抱えてうろうろと歩き回っているティアに呼びかけた。
「で、ティアは本当に、ついてこなくていいんだね?」
「うむ。ティアはフォウの家で、アスタたちの帰りを待っている」
この7日間でティアはずいぶん回復し、もう荷車に乗るのも苦にはならなくなっていた。が、俺に対する罪は贖われたのだから、べったりと四六時中つきまとう理由はなくなった、という話であったのだ。
「ティアはなるべく、町の人間と顔をあわせないほうが望ましいのであろう? ならば、フォウの家で大人しくしていようと思う。ルウ家まで出向いても、孕み女や幼子たちの安息を妨げるだけであるしな」
以前のティアとは比較にならぬほどの、聞き分けのよさである。俺の存在に固執していたのは、やはり罪を贖わなければならないという強い思いがあってのことなのだろう。そうしてティアは、可能な限り俺のそばにあり――見事、俺の身を守ってみせたというわけである。
「お前はずいぶん、サリス・ラン=フォウと心安くなったようだな。……ならばいっそ、今後はフォウの家で過ごすことにするか?」
アイ=ファがそのように呼びかけると、ティアの動きがぴたりと止まった。
ガーネットのごとき赤い瞳が、やがてゆっくりとアイ=ファのほうに向けられる。
「……ティアは今後、フォウの家で過ごすことになるのか?」
「だからそれを、お前に尋ねているのだ。バードゥ=フォウはかねてより、ファの家がお前の面倒を見ていることを、心苦しく思っていたようでな。お前のアスタに対する罪が贖われたのならば、今後はフォウの家で預かろうかと、そのように持ちかけられていたのだ」
「……それを決めるのは、家長たるアイ=ファやバードゥ=フォウの役割なのではないのか?」
ティアは、食い入るようにアイ=ファを見つめていた。
アイ=ファはちょっとけげんそうに眉をひそめている。
「こちらで決めてもよいが、まずはお前の気持ちを確かめておこうと思ったのだ。後でうるさく騒がれては、たまらんのでな」
「ティアには文句をつける資格など存在しない。アイ=ファとバードゥ=フォウが望む形にするべきだと思う」
そんな風に述べるなり、ティアは瞳を潤ませた。
アイ=ファは、仰天した様子で目を見開く。
「何だ、何を泣いている。お前が涙を流す理由はあるまい」
「……できればティアは、山に戻るまでファの家で過ごしたく思っているのだ。しかし、アイ=ファの言う通り、ティアがこれ以上、ファの家に留まる理由はない。ティアのことはかまわずに、アイ=ファたちにとってもっとも望ましい道を選んでもらいたい」
ティアは懸命に、涙をこらえているのだろう。口もとをぎゅっと引き結び、ほっそりとした肩をぷるぷると震わせている。その姿を見て、アイ=ファは乱暴に自分の頭をかき回した。
「泣くほど苦しいのであれば、そう言えばよいではないか! 無理にフォウの家に移れとは言っておらん!」
「……だけどそれは、ティアのわがままだ。大恩ある森辺の民に逆らうことなど、ティアには許されない」
奇怪な紋様の刻まれたティアの頬に、ぽろりと涙がしたたり落ちる。
アイ=ファは荒っぽい足取りでティアに近づくと、その手から薪の束を奪い取った。
「もうよい! お前は傷が癒えるまで、ファの家で過ごせ! バードゥ=フォウにも、そのように伝えておく!」
「……本当にそれでいいのか? ティアの気持ちなど、かまいつける必要はない」
「やかましいわ! そんな言葉は、涙をこらえてから口にするがいい!」
ティアは手の甲で涙をぬぐうと、アイ=ファを見上げてにこりと微笑んだ。
「ファの家で過ごすことを許してもらえるなら、心から嬉しく思う。ティアは、アイ=ファのこともアスタのことも大好きであるのだ」
アイ=ファは薪の束を抱えたまま、深々と溜め息をついた。
俺もふたりのそばに寄り、膝を屈めてティアの笑顔を覗き込む。
「俺もティアのことは大好きだよ。これからもよろしくね、ティア」
「うむ。帰りは明日の朝になるのだな? フォウの家で、アスタとアイ=ファの帰りを待っている」
まだわずかに涙の残されているティアの瞳は、それこそ宝石のようにきらめいていた。
もう何ヶ月も故郷の外で過ごしているというのに、ティアはちっとも純真さを失っていない。これならば、きっとモルガの赤き民たちも、ティアの帰還を許してくれるはずだ――俺は、そのように信じることができた。
そうして一段落したところで、荷車の走る音色が近づいてくる。
さきほども話題にあがった、ファファの荷車である。その手綱を握っているのは、モアイのように面長の顔をした、長身の男衆――ナハムの長兄、モラ=ナハムであった。
「お、お、お待たせいたしました。こ、刻限に遅れてはいないでしょうか?」
と、荷台からはマルフィラ=ナハムが慌ただしく降りてくる。俺はそちらに「うん」と笑いかけてみせた。
「ていうか、刻限は別に決めていなかったからね。それぞれ朝の仕事が終わったら集合って話だったよね?」
「あ、そ、そうでしたね。く、口癖になっていたもので、申し訳ありません」
ぺこぺこと頭を下げるマルフィラ=ナハムの後ろから、トゥール=ディンやユン=スドラたちも降りてくる。ファの家よりも北寄りにある家の女衆を、行きがけに拾ってくれたのだ。ただ、みんなその手に大きな包みを携えているのが奇妙に思えた。
「それは何かな? お祝いの品は、ギバの角や牙だよね?」
「あ、これは宴衣装です。ルウの家から、女衆は宴衣装を纏うようにと連絡がありましたので」
「ああ、そうだったね」と述べてから、俺はマルフィラ=ナハムを振り返った。
「あれ? それじゃあ今回は、マルフィラ=ナハムも宴衣装を纏うのかな?」
「あ、は、はい。わ、わたしも伴侶を娶ることが許されるようになりましたので……よ、ようやく宴衣装を与えられることになったのです」
そうか、と俺は内心で手を打つことになった。他の家では幼子でも宴衣装を纏っていたが、ラヴィッツの血族においては婚儀をあげられるようになるまで宴衣装は纏わない、という習わしが存在するようであったのだ。
「……では、日没の前に、また訪れる」
と、モラ=ナハムは降車せずに、ファファの首を巡らせようとする。そちらに向かって、俺は「あの」と呼びかけてみせた。
「祝宴には、男女1名ずつがおもむくのですよね。ナハムの家からは、やはりモラ=ナハムがおもむくのでしょうか?」
「……今日、森で魂を返すことにならなければ、そうなるはずだ」
無表情に言いながら、モラ=ナハムはさっさと立ち去ってしまった。
「も、も、申し訳ありません。あ、あの……」
と、何か言いかけたマルフィラ=ナハムが、溺れかけた金魚のようにアイ=ファを振り返った。
「あ、あ、あの、アスタに耳打ちすることを、お許し願えるでしょうか?」
「……それはべつだん、森辺の習わしに背く行いではなかろう」
そのように述べながら、アイ=ファはものすごい仏頂面である。気の弱い人間だったらただちに自分の提案をひっこめそうなところであったが、マルフィラ=ナハムは「あ、あ、ありがとうございます」と頭を下げて、俺の耳もとへと口を寄せてきた。
「あ、あ、兄モラは、以前にアスタの前でフェイ=ベイムへの心情をさらしてしまったことを、とても気恥ずかしく思っているようなのです。そ、そ、それで素っ気ない態度になってしまいましたが、決してアスタに悪心あっての行いではありませんので、ど、どうかご容赦ください」
「ああ、そうだったんだね。いや、モラ=ナハムはいつもあんな感じだったから、べつだん気にはならなかったよ」
「あ、そ、そうでしたか。よ、よ、余計な話をしてしまい、申し訳ありませんでした」
そうして俺たちの密談は終わったが、アイ=ファの瞳は炯々と光ったままだった。
俺はとりあえず、手持ち無沙汰にしているユン=スドラたちに、ギルルの荷車を指し示してみせる。
「それじゃあ、荷車にどうぞ。もう荷物は積み込んであるから、さっそく出発しよう」
「承知しました」と、ユン=スドラたちは荷台に乗り込んでいく。その隙に、俺は密談の内容をアイ=ファに伝えさせていただいた。
「……なるほどな。そういう話であったのか」
「うん。ユン=スドラたちの耳をはばかっただけだから、気にしないでくれよ」
「べつだん、私は――」と、言いかけて、アイ=ファは口をとがらせた。
「……確かにアスタが他の人間に耳打ちされる姿は、何やら腹立たしく思えてしまった。しかし、態度には出していなかったはずだ」
「そうかなあ。おもいきり不機嫌そうだったけど」
アイ=ファは無言で、俺の足を蹴ってきた。
甘えるような、優しい蹴りである。
「それじゃあ、行ってくるよ。アイ=ファも、気をつけてな」
「うむ。……私よりも早くフェルメスらが現れたら、お前も用心するのだぞ」
そうして俺たちは、ようやくファの家を出立することになった。
行き道で、マトゥアの女衆、ラッツの女衆、フェイ=ベイムを拾い、ルウの家を目指す。それらの人々も、やはり全員が宴衣装の包みを手にしていた。
「あ、やっぱりみなさんも、山の民から贈られた飾り物を託されたのですね!」
と、マトゥアの女衆が弾んだ声をあげる。
「そうですね」と応じたのは、ユン=スドラであった。
「こんなに立派な飾り物を身につけるのは気が引けるのですけれど、山の民の無法者に襲われたのはわたしなのだからと、家長に託されてしまいました」
「わたしもです! そういえば、この場にいる人間のほとんどが、同じ場所に居合わせていたのですね」
「居合わせなかったのは、わたしぐらいでしょうか? ラッツの家は、屋台でも下ごしらえでも当番ではなかったのですよね」
さして残念な風でもなく、ラッツの女衆がそのように述べたてていた。無法者に火矢を射かけられたことを羨ましい、などとは決して考えないのだろう。
「でも、トゥール=ディンは飾り物を受け取らなかったそうですね?」
「あ、は、はい。一度は家長から預けられたのですが、べつの女衆に譲ることにしました」
「どうしてですか? トゥール=ディンが遠慮をする理由はないでしょう?」
「え、遠慮をしたわけではなくて……わたしはオディフィアからいただいた飾り物があったので、それで十分であるように思えたのです」
「ああ、なるほど。ひとりでいくつも立派な飾り物をつけていたら、さすがに気が引けてしまいますものね」
そのように答えたマトゥアの女衆の声が、ふいに御者台に近づいてきた。
「ねえ、アスタ。今日はアイ=ファも、宴衣装を纏うのでしょう?」
「ああ、うん。婚儀の祝宴ではそうするはずだよ」
「楽しみですね! またわたしたちが、着付けを手伝います!」
マトゥアの女衆も、俺に劣らず昂揚している様子であった。
いや、きっと他のみんなだって、それは同じことなのだろう。マルフィラ=ナハムやフェイ=ベイムなどは内心が読みにくいタイプであるものの、ルウ家における大仕事を任されて何も感じないかまど番はいないはずだ。荷台には、早くも彼女たちの熱意が行き場を求めて渦を巻いているように感じられた。
そんな俺たちを乗せた荷車は、やがてルウ家に到着する。
ルウ家の広場では少しずつ作業が進められていたので、すでに新郎新婦が座するやぐらや簡易かまどや儀式の火の準備もすっかり整えられていた。
それに、俺たちと同様に、朝から宴料理の準備に取り組んでいたのだろう。いくつかのかまど小屋からは白い煙があがっており、せわしなく行き交っている女衆の姿も見える。それらに挨拶をしながら荷車を進めていくと、本家の前にもいくつかの人影があった。
「ああ、アスタ。ずいぶん早い到着だったのですね」
「おはようございます、アマ・ミン=ルティム。それに、モルン=ルティムももう戻ってきてたんだね」
「はい。昨日のうちに、ドムの女衆が送ってくれました」
ちょっとひさびさになるモルン=ルティムが、いつも通りの笑顔で俺たちを迎えてくれた。そのかたわらにたたずむのは、ゼディアス=ルティムを抱いたアマ・ミン=ルティムである。
「わたしもかまど仕事をする女衆とともに、出向いてきてしまいました。残念ながら、仕事らしい仕事を果たすことはできないのですけれど」
「いまのアマ・ミン=ルティムは、誰よりも大事な仕事を果たしているのですからね。祝宴が始まったら、宴料理をお届けしますよ」
「ありがとうございます」と、アマ・ミン=ルティムは嬉しげに微笑んでくれた。
「今回は、アスタも宴料理を手掛けるのですね。どうしても、自分たちの婚儀の祝宴を思い出してしまいます」
「はい。俺もいま、同じことを考えていました」
およそ1年半ほど前には、アマ・ミン=ルティムがこの場で婚儀をあげることになった。そのアマ・ミン=ルティムが、いまは愛しい我が子を抱いて微笑んでいる。その姿は、まるでヴィナ=ルウの幸福な行く末を予見しているかのようで、俺の胸を熱くさせた。
「ああ、アスタたちも来てくれたんだね。ルウの家にようこそ」
と、家の裏手からミーア・レイ母さんがやってきた。今日は誰もが、幸福そうに笑っている。
「シン=ルウの家のかまど小屋を空けておいたからね。今日は1日、そこを自由に使っておくれよ。あたしやレイナは、ずっと本家のかまど小屋にこもってるだろうからさ」
「ありがとうございます。それではみなさん、またのちほど」
俺たちは、荷車を引いて広場を引き返す。モルン=ルティムも、これから作業に参加するのだろう。大規模の祝宴では眷族の女衆もかまど仕事を手伝うというのが、ルウ家のここ最近の習わしであるのだった。
勝手知ったるシン=ルウ家のかまど小屋に向かい、まずはギルルを荷車から解放する。すぐ近くにあるダルム=ルウの家からも、すでに炊事の煙があがっていた。きっとそちらでは、シーラ=ルウが仕事を取り仕切っているのだろう。男衆はまだ眠っている頃合いであるのか、どこにも姿が見られない――などと考えていたら、かまど小屋の中に大小みっつの人影がひそんでいた。
「おー、やっと来たな。お疲れさん、アスタ」
かまど小屋でくつろいでいたのは、ルド=ルウとシン=ルウとミダ=ルウであった。男衆がかまど小屋にたむろしているというのは、なかなか奇妙な光景である。
「やあ、こんなところで何をしてたのかな?」
「べつにー。周りが騒がしくて寝てらんねーから、時間をつぶしてただけだよ。ここにいりゃあ、アスタたちが来てもすぐにわかるしなー」
そんな風に述べながら、ルド=ルウたちはぞろぞろと外に出てきた。
「それじゃあ、俺に何か用事だったのかな?」
「用事なんてねーけどさ。ミダ=ルウがアスタに会いてーって言ってたぐらいかな」
そのミダ=ルウは、つぶらな瞳でじっと俺を見下ろしていた。言葉は少なく、なかなか表情を動かすことも不自由なミダ=ルウであるが、彼はたいそう俺に懐いてくれているのだ。それを心から嬉しく思いながら、俺はミダ=ルウに笑いかけてみせた。
「今日はひさびさの祝宴だね。いまから宴料理が待ち遠しいだろう?」
「うん……今日はアスタも料理を作ってくれるから、よけいに嬉しいんだよ……?」
アマ・ミン=ルティムに引き続いての、この台詞であった。ダルム=ルウとシーラ=ルウの婚儀においては、新郎新婦の特別料理のみ、俺が作りあげることになったのだ。あのときは、俺とアイ=ファぐらいしか客人はなかったので、宴料理はルウの血族で作りあげるという方針が取られていたのである。
「あ、ど、どうも。ほ、本日は、こちらのかまどをお借りいたします」
と、マルフィラ=ナハムがシン=ルウとミダ=ルウに頭を下げていた。どうやら本家ばかりでなく、分家の構成まで把握しているらしい。シン=ルウはこの家の家長であり、ミダ=ルウは家人であるのだ。
「あ……あなたのこと、ミダは知ってたんだよ……?」
と、ミダ=ルウが巨体ごとマルフィラ=ナハムに向きなおった。
マルフィラ=ナハムは「え? え?」と目を泳がせている。
「あ、は、はい。せ、先日にご挨拶をさせていただいた、ナハムの三姉マルフィラ=ナハムと申します。お、お見知りいただいて、光栄の限りです」
「いやー、そうじゃなくってさ。ミダ=ルウはもともとあんたの話をシーラ=ルウに聞いてたみたいなんだよ」
と、頭の後ろで手を組んだルド=ルウが補足説明をしてくれた。
「俺の兄貴とシーラ=ルウはこっちのミダの建てた家に住んでるんだけど、晩餐はシン=ルウの家で一緒に食ってるんだよ。そんときに、あんたの話が何度もあがってたみたいなんだよなー」
「うむ。俺も確かに、何度か耳にした覚えがある。しかし、ナハムの家というのはあまり馴染みがなかったので、俺もミダも失念してしまっていたのだ」
シン=ルウが、静かな声音でそれに加わる。
マルフィラ=ナハムは、困惑しきった様子で目を泳がせていた。
「そ、そ、そうだったのですね。な、な、何か悪い話でなければよかったのですが……」
「悪い話などではない。新しくアスタを手伝い始めたかまど番は、ものすごい才覚を持っているのかもしれないと、しきりにそのように述べたてていたのだ。それからもう、ずいぶん月日が過ぎているのだろうがな」
「そーそー。今日はあんたもアスタを手伝うってんなら、いっそう宴料理が楽しみだよなー?」
そんな風に述べながら、ルド=ルウがミダ=ルウのせりだしたおなかをぽんぽんと叩いた。うなずく代わりに、ミダ=ルウはせわしなくまばたきをしている。
「うん……ミダも、楽しみにしてるんだよ……?」
「と、と、とんでもありません。わ、わたしなどは、何も失敗しないようにと、そればかりを考えているだけの未熟者です」
と――そこでふいに、マルフィラ=ナハムがミダ=ルウに視線を定めた。
ミダ=ルウの巨体を見上げながら、ぎこちない笑みを口もとに広げる。
「で、で、でも……み、みなさんに喜んでいただけたら、とても嬉しく思います」
「うん……」と、ミダ=ルウはまたまばたきをする。
なんとなく、心の温まるような構図であった。
「さあ、それじゃあ作業を開始しようかな。けっこう時間もぎりぎりなんでね」
「こんな早くから始めて、ぎりぎりなのかよ? 邪魔はしねーから、しばらく見物させてもらってもいいだろ?」
「うん、かまわないよ。しばらくは下ごしらえばっかりだから、味見の機会は少ないかもしれないけどね」
というわけで、俺たちはルド=ルウらに見守られながら、作業を開始することにした。
かまど番が7名であれば、スペースにはそこそこゆとりがあるので、ルド=ルウとシン=ルウは入り口のあたりに陣取っている。さすがにミダ=ルウはそういうわけにもいかなかったので、入り口のすぐ外に薪の束を準備して、そこに巨体を落ち着けていた。
「そういえばさ、今回は血族の家を巡る習わしを取りやめることになったんだよ」
しばらくして、ルド=ルウがそのように声をあげてくる。
「え? それは、日中のうちに新郎新婦のお披露目をする、あの習わしのことかい?」
「そーそー。だって、ほとんどの女衆は、みんなこっちに集まってきてるだろ? 前回のダルム兄のときは休息の期間だったから、男衆が家に居残ってたけどさ。今日なんて、中天を過ぎたらほとんどの家が空っぽになっちまうんだよ」
言われてみれば、その通りである。幼子や老人たちなど、かまど仕事を手伝えない人間はまだ家に居残っているかもしれないが、それもきっとごく少数であるのだろう。
「だからまあ、血族の全員を集める婚儀なんかでは、家を巡る意味がねーってことになったわけだな。中天になったら、俺たちはいつも通り森に入って、ギバを狩ってくるよ」
「そっか……またひとつ、ルウ家の習わしが変えられることになったんだね」
「んー? なんか落ち込んでるみてーな声だな」
「いや、落ち込んでるわけじゃないけどさ。長らく続いた習わしが変更されるっていうのは、ちょっと心苦しい気がして……それは、俺が手間のかかる調理法を森辺に持ち込んだ影響なんだろうしさ」
「そんなん、気にする必要ねーだろ。いまさら誰も、ポイタン汁を食いたいなんて思ってねーんだからさ」
と、ルド=ルウは陽気に笑い声をあげた。
「それに、血族の全員を集める婚儀なんて、そうそうねーんだからな。ルウの本家の男衆と、眷族の家長と、あとはルティムとレイの本家の長兄ぐらいじゃねーかな? 今回は、もともと外の人間だったシュミラル=リリンの婚儀ってことで、特別に全員を集めることになっただけなんだからよ」
「ああ、そっか。俺は大きな婚儀にしか参加したことがなかったけど、それはたまたまだったんだね」
「ああ。俺が生まれた後だって、そんな婚儀は他に2回ぐらいしかなかったよ。えーと、ジザ兄の婚儀と、あとは……そうそう、ギラン=リリンの婚儀だな。他の本家の家長は、俺が生まれる前に婚儀を済ませてたからよ」
下ごしらえの作業を進めながら、俺はもう一度「そっか」と言ってみせた。
ガズラン=ルティムたちのときも、ダルム=ルウたちのときも、俺はそのパレードがルウ家に戻ってくる姿を目にして、とても心を揺さぶられたのである。あの習わしが失われるのは、少なからず心苦しいと感じていたのだが――こればかりは、如何ともし難いようであった。
「なんだよ、まだ納得がいかねーのか?」
と、ルド=ルウがずかずかと近づいてきた。
色の淡い茶色の瞳が、横から俺の顔を覗き込んでくる。
「あのなー、婚儀の習わしってのは、喜びを分かち合うために生まれたもんだろ? 血族の家を巡って練り歩くって習わしが、美味い料理のために時間や手間をかけるって習わしに変わっただけで、喜びを分かち合うことに変わりはねーんだよ。だから、アスタが気にする必要はねーって言ってるんだ」
「う、うん、ごめん。何か、ルド=ルウを心配させちゃったかな?」
「べつに、アスタを心配してるわけじゃねーよ。せっかくのヴィナ姉の婚儀の日に、しみったれた顔をしてほしくねーだけだ」
ルド=ルウは、そっぽを向いて舌を出した。
ララ=ルウとよく似た、可愛らしい仕草である。それで俺も、ようやく後ろ向きな気持ちを払拭することができた。
「わかったよ。ルド=ルウにとっては、大事なお姉さんの婚儀なんだもんね。俺もそのために、せいいっぱい頑張るよ」
「あったり前だろ。アスタの料理を楽しみにしてるのは、ミダ=ルウだけじゃねーんだからな」
ルド=ルウは、ようやくシン=ルウのもとまで引き下がっていった。
鉄鍋でたっぷりの水を煮立てながら、俺はそちらに言葉を投げかける。
「それじゃあさ、ヴィナ=ルウとシュミラル=リリンは、夜までどうやって過ごすんだろう? まさか、宴の準備を手伝ったり、ギバ狩りの仕事に出向いたりはしないだろう?」
「ヴィナ姉は、朝からジバ婆の部屋にこもってたな。シュミラル=リリンもリリンの女衆と一緒に来てたから、どこかの家で子供の相手でもしてるんじゃねーのかな」
シュミラル=リリンは、すでにルウ家に来ていたのだ。
それだけで、俺はじんわりと胸の中が温かくなってしまった。
「シュミラル=リリンに挨拶してーなら、どこの家にいるのか見てきてやろうか?」
「いや……いまはいいよ。俺の仕事は、立派な宴料理を作りあげることだからさ。こっちの仕事が一段落したら、あらためて挨拶させていただくよ」
いまはきっとシュミラル=リリンも、心静かに他の血族と喜びを分かち合っているのだろう。子を孕んだリリンの女衆や幼子たちと語らっているシュミラル=リリンの姿を想像するだけで、俺はその喜びをおすそわけしてもらえたような気分であった。