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異世界料理道  作者: EDA
第四十二章 愛の月
711/1685

狩人の証④~誓約~

2019.3/8 更新分 1/1

 ギラン=リリンの弟と子供たちは、それぞれの手にカレーの皿を携えて、かがり火の向こうに立ち去っていった。今度は、本家で待機している女衆や幼子たちにカレーを運んであげるのだそうだ。


 それと入れ違いに、ルティムの女衆とヤミル=レイが戻ってくる。約束通り、その手にはウル・レイ=リリンたちのこしらえた料理がどっさりと抱えられていた。

 ウル・レイ=リリンは、ルウの血族の隠れた名かまど番である。習い覚えた通りに作るばかりでなく、自分なりのアレンジを加えることのできる調理センスを有しているのだ。そんなウル・レイ=リリンの指揮のもとに作製された宴料理は、いずれも素晴らしい出来栄えであった。


「さあ、それじゃあ次は、アスタたちが料理を配る番ですね。……そしてそのまま、腰を落ち着けてはいかがでしょうか? あとは料理がなくなるまで、わたしたちが番をしておきます」


 ルティムの女衆が、そのように提案してくれた。

 普段であれば、遠慮の気持ちも生じていたかもしれないが、俺はヴィナ=ルウのために快諾させていただくことにした。


 シュミラルたちのおかわりと、あとは自分たちの料理も盆に乗せて、さきほどと同じ敷物に向かう。その途中で、ヴィナ=ルウは深々と息をついていた。


「なんだか胸が詰まってしまって、食事が咽喉に通らなそうなのよねぇ……あそこは、ずいぶん騒がしかったし……」


「ルド=ルウやラウ=レイは、俺が引き受けますよ。ヴィナ=ルウは、ゆっくり食事を楽しんでください」


 こうしてみると、普段の祝宴のようにかまどを巡っているほうが、気兼ねなくシュミラルとの時間を過ごせるのかもしれない。おたがいの家長がすぐそばに陣取っているというのも、気詰まりな部分はあるのだろう。

 だけどきっと、いずれはふたりきりでゆっくり語らうことも許されるに違いない。ドンダ=ルウやギラン=リリンであれば、それぐらいの配慮はしてくれるであろうと信じたいところであった。


 そんな思いを胸に、中央の敷物に到着する。

 人々は、ぞんぶんに盛り上がっていた。顔ぶれは、さきほどと同一である。俺たちの接近に気づいたラウ=レイは、「おお、新しいかれーだな!」とはしゃいだ声をあげた。


「いつになったら届けられるのだろうと、心待ちにしていたぞ! ……しかし、どうしてヤミルはこちらに来ないのだ?」


「ああ、ヤミル=レイはルティムの女衆と組で動いているんだよ。まだしばらくかまどを離れられないと思うから、ラウ=レイのほうから声をかけてあげたらどうだろう?」


「そうか! それじゃあ俺は、かまどの前でかれーを食してこよう!」


 ラウ=レイは、ご機嫌な様子で立ち上がる。もちろん俺もラウ=レイを追い払いたいわけではなかったものの、ヴィナ=ルウたちのことを遠慮なく冷やかしそうなタイプであるので、ちょっとほっとしてしまう。ラウ=レイとは、またのちほど心ゆくまで語り合えれば幸いであった。


 いっぽうルド=ルウはというと、ちょっと離れた場所に移動して、若き狩人たちと盛り上がっていた。その中には、ディム=ルティムも含まれている。切れ切れに聞こえてくる言葉から推察するに、先日の交流会について語らっている様子であった。


 ギラン=リリンとガズラン=ルティムにはさまれたシュミラルは、俺とヴィナ=ルウを見比べながら、嬉しそうに目を細めている。すると、ガズラン=ルティムがすっと腰を上げた。


「アスタにアイ=ファ、ちょっとお話をよろしいですか? ……ああ、ヴィナ=ルウ、よろしければ、こちらにどうぞ」


 ヴィナ=ルウは面を伏せつつ、シュミラルのかたわらにそっと膝を折った。

 俺とアイ=ファは配膳を済ませてから、その正面に腰を落ち着ける。すると、その横合いにガズラン=ルティムも陣取った。


「お疲れ様です、アスタ。こちらのかれーは、本当に美味でした」


「ありがとうございます。……俺たちに話というのは、何でしょうか?」


「大した話ではありません。どうぞ食事を進めながら、お聞きください」


 もしかしたら、ガズラン=ルティムはヴィナ=ルウに席を譲りたかっただけなのだろうか。

 俺はそのように考えたが、ガズラン=ルティムはほどなくしてアイ=ファへと語りかけてきた。


「つい2日前にも顔をあわせたばかりであるのに、こうしてアイ=ファたちとまた言葉を交わせることを、心から嬉しく思います。……アイ=ファはまだ、私のことを怒っておられますか?」


「私が? ガズラン=ルティムを?」


「はい。宿場町の交流会にフェルメスが姿を現すことは、十分に予見できました。……それを伝えておかなかったことを、アイ=ファは怒っていたのではないでしょうか?」


 待望の『ハンバーグ・カレーシャスカ』を口に運んでいたアイ=ファは、横目できろりと俺をにらみつけてきた。


「お、俺は何も言ってないぞ。そうですよね、ガズラン=ルティム?」


「はい。《西風亭》におけるアイ=ファの立ち居振る舞いで、そのように察しただけのことです。アイ=ファの気分を害してしまったのなら、お詫びをさせていただきたく思います」


「何も、ガズラン=ルティムに詫びられるような話ではない。……私はそれほどに、不機嫌そうな姿をさらしてしまっていたのであろうか?」


「いえ。ただ私も、確証のない話で水を差したくなかったので、あえてフェルメスのことは言わずにおいたのです」


 そう言って、ガズラン=ルティムは申し訳なさそうに微笑んだ。


「しかし、アイ=ファの心情を考えるならば、あらかじめ伝えておくべきであったかと思いなおしました。配慮が足らず、申し訳ない限りです」


「だから、ガズラン=ルティムに詫びられるような話ではないと言っているではないか。……何も危険が及んだわけでもないのだしな」


「はい。あの日のフェルメスは、私に関心を寄せている様子でした。……まあ、私のほうが強い関心を寄せていたので、それに反応したに過ぎないのかもしれませんが」


「ガズラン=ルティムは、そんなに強い関心をフェルメスに寄せておられたのですか?」


 思わず俺が口をはさむと、ガズラン=ルティムは「ええ」とうなずいた。


「彼がどのような人間であるのか、いまひとつつかみきれていなかったため、強い関心をかきたてられていました。……あの日に、それは解消されましたが」


「ふむ。あやつがどのような人間であるのか、すっかり理解できたということか」


「理解……と言っていいかはわかりませんが、おおよその疑念は解消できたかと思います。きっと本人の言う通り、彼は見たままの存在であるのでしょう」


 そう言って、ガズラン=ルティムはふっと口もとをほころばせる。


「少なくとも、彼がアスタをさらったりすることはないかと思われます。その点においては、少し安心することができました」


「……どうしてそのように考えたのか、よければ聞かせてもらいたい」


「はい。彼の本願が、世界のありのままを正しく観測することにあるためです。彼が余計な手を加えれば、世界はありのままの姿を崩してしまう。……彼であれば、そのように考えるだろうと思うのです」


 アイ=ファはいくぶん肩を落としながら、木皿の上に溜め息をこぼした。


「聞いておいて何だが、さっぱりわからん。私などの頭には余る話であるようだ」


「決してそのようなことはないのですが……きっと私の説明が不出来であるのでしょう。言葉にするのが難しい話であるのです」


 そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムはまた微笑んだ。


「まあ、今日のような日に相応しい話ではありませんでした。アイ=ファが怒っていないのでしたら、心置きなくこの日の喜びを分かち合いましょう」


「うむ。今日はめでたき日であるのだからな」


 アイ=ファも気を取りなおしたように、カレーのまぶされたハンバーグをすくいあげた。

 そんな俺たちの正面で、シュミラルとヴィナ=ルウは静かに語らっている。ギラン=リリンは逆のほうに顔を向けて、ミンの家長と語らっていた。いつのまにか、その肩に長兄の男の子がおぶさっている。俺と目が合うと、男の子は明るく瞳を輝かせた。


「やあ。カレーのお味は、どうだったかな?」


「うん! いままでで、いちばんおいしかった! ……あれはアスタじゃなくて、ヴィナ=ルウがひとりで作ったの?」


「うん。俺が作ったのは、シャスカだけだよ」


「そっか。それじゃあアスタよりも、ヴィナ=ルウのほうがおいしいかれーをつくれるの?」


 カランと音がしたので振り返ると、アイ=ファが木皿の上に木匙を落としたところであった。その口が何か言いたげにごにょごにょしていたが、相手が5歳の男の子と見て取って、自分を抑制したのだろう。溜め息を噛み殺しているような面持ちで、落ちた木匙を取り上げる。


「どうだろうね。俺もヴィナ=ルウに負けないように、頑張るよ」


「うん、がんばってね! ……あと、リリンのいえでもかれーのつくりかたをおしえてほしいなあ」


「それは、ルウ家の人たちに頼めばいいんじゃないのかな。血族の人たちは、みんなルウ家の人たちに習っているはずだからね」


 とはいえ、リリンの家には3名の女衆しかおらず、そのうちの1名は妊娠中である。きっと家長の伴侶たるウル・レイ=リリンは家の仕事を取り仕切らなければならないのだろうし、最後の1名は5日にいっぺんしか勉強会に参加できない。この環境で、ウル・レイ=リリンがあれほどの腕を身につけられたのが、驚くべき話であるのかもしれなかった。


(きっとこの男の子も、懸命に家の仕事を手伝ってるんだろうな)


 祝宴に参加することを許されるというのは、すなわち家の仕事を手伝うことのできる年齢に達した、ということであるのだ。どの氏族でも、5歳に達した幼子は、ピコの葉を乾かしたり、洗い物を手伝ったりという、ごく簡単な仕事を任されているのだった。


「……機会があったら、俺も手伝いに来るよ」


 俺がそのように言いなおすと、男の子は「ほんとに?」と嬉しそうな顔をした。

 俺は精一杯の気持ちを込めて、「うん」とうなずいてみせる。

 そのとき、ギラン=リリンがヴィナ=ルウたちのほうを振り返った。


「ヴィナ=ルウ、今日はご苦労であったな。自分の食事も、ようやく食べ終えたか」


「ええ……何とかねぇ……」


「それでは、頃合いだな」


 ギラン=リリンは朗らかに笑いながら、片腕で息子の身体を持ち上げた。はしゃぐ男の子を敷物に下ろすと、おもむろに立ち上がる。


「皆、祝いの料理と果実酒を楽しんでもらえているだろうか? まだまだぞんぶんに楽しんでもらいたいところだが、その前に伝えておきたい話がある」


 あちこちで談笑していた人々が、いったい何事かとギラン=リリンを振り返る。

 ギラン=リリンはいつもと変わらぬ明朗な面持ちで、何でもないことのように言った。


「本日、シュミラルは一人前の狩人と認められて、その証を贈られることになった。……これを機に、俺はシュミラルにリリンの氏を与えようと思う」


 談笑の声が、一瞬で静まった。

 ギラン=リリンは、かまわずに言葉を重ねていく。


「シュミラルがリリンの家人となってから、すでに9回の月が巡っている。外界の人間を正式な家人と認めて氏を与えるのに、それが長いのか短いのか、誰にも答えを出すことはできまい。ただ俺にとっては、それだけの時間で十分であった。シュミラルは、森辺の同胞として迎えるのに、相応しい人間である。……リリンの家長ギラン=リリンの名において、俺は母なる森にそう宣言させてもらう」


「ギラン=リリン。……本当に、よろしいのですか?」


 シュミラルが、音もなく立ちあがった。ヴィナ=ルウは口もとを押さえたまま、固まってしまっている。

 ギラン=リリンはシュミラルを振り返り、「うむ」とうなずいた。


「最初に言っておくが、俺はお前がギバを仕留めたから、氏を与えようと決めたわけではない。順番としては、むしろ逆であるのだ」


「……逆?」


「うむ。俺はしばらく前から、お前が森辺の同胞に相応しい人間であると判じていた。ただ、なかなかお前がギバを仕留める機会が巡ってこなかったので、今日という日を待つことになったのだ。さすがに狩人の衣を授かっていないうちに、氏を与えるわけにもいかなかったのでな」


 そうしてギラン=リリンは、座したまま動かないドンダ=ルウを振り返った。


「そしてそのことは、すでにドンダ=ルウにも伝えてある。シュミラルがその手でギバを仕留めたら、俺はそのときに氏を与えようと思う、とな。……ついに、その日がやってきたということだ」


 笑顔で語るギラン=リリンのかたわらに、ほっそりとした人影が忍び寄る。彼の伴侶たる、ウル・レイ=リリンである。ウル・レイ=リリンは妖精のように微笑みながら、家長に果実酒の土瓶を手渡した。

 ギラン=リリンはその土瓶をひとたび頭上に掲げてから、それを一口だけあおる。


「リリンの家長ギラン=リリンの名において、シュミラルにリリンの氏を与え、家に迎えたいと思う。今後、森と西方神に魂を返すその日まで、シュミラル=リリンとして生きる覚悟があれば、それを宣言してこの酒を口にするがいい」


 シュミラルは、震える指先でその土瓶を受け取った。


「私、シュミラルは……森辺の民、リリンの家人、シュミラル=リリンとして、生きること、誓約いたします」


 銀色の長い髪を揺らしながら、シュミラルはその果実酒を口にした。

 すると、ドンダ=ルウがのそりと立ち上がって、その土瓶を奪い取る。


「……新しきリリンの家人、シュミラル=リリンに祝福を」


 そのようにつぶやくと、ドンダ=ルウも果実酒を口にした。

 それを見届けて、ガズラン=ルティムも立ち上がる。ミンやマァムの家長も立ち上がり、離れた場所にいたラウ=レイとムファの家長も駆け寄ってきていた。


 血族の家長たちが、シュミラルに――いや、シュミラル=リリンに祝福を捧げて、果実酒を口にする。俺が呆然としている間に、その儀式は粛然と完了されていた。


「ずいぶん、時間がかかったな! しかしこれで、お前もようやく本当の血族だ!」


 ラウ=レイが、ばしんとシュミラル=リリンの背中を叩く。

 それで俺は、我に返ることになった。


「お……おめでとうございます、シュミラル! いえ、シュミラル=リリン!」


 シュミラル=リリンはこちらを振り返り、夢見るような眼差しで微笑んだ。

 ヴィナ=ルウはいまだ座したまま、その長身をぼんやりと見上げている。きっとまだ、自失の状態にあるのだろう。俺とて、この瞬間には涙をこぼすであろうと確信していたのに、いまは驚きのほうがまさってしまっていたのだ。


 そうして俺たちよりも早く自失から立ち直った人々が、打ち寄せる波のように祝福の声をあげ始める。特にリリンの家人である人々は、歓喜の表情でシュミラル=リリンの名を呼んでいた。

 やがてその声が盛大な歓呼にまで高まりかけたとき、ギラン=リリンがゆったりと腕を上げる。


「では、次の話を進めたいので、少し静かにしてもらいたい。シュミラルのことは、後でぞんぶんに祝福してやってくれ」


 それからギラン=リリンは、笑顔でシュミラルを振り返った。


「お前は、本家の家人となる。だから俺はこれまで通り、お前のことをシュミラルと呼ばせてもらうが……お前は俺のことを、ギランと呼ぶのだぞ?」


「はい。……ありがとうございます、家長ギラン」


「うむ。それでいい」


 ギラン=リリンは灰色がかった口髭をひと撫でしてから、ドンダ=ルウに向きなおった。


「さて……これも以前に話をさせてもらったが、今度は正式に願い出ることになる。親筋の家長たるドンダ=ルウに聞き届けてもらえれば、幸いだ」


「…………」


「リリンの家長ギラン=リリンから、ルウの家長ドンダ=ルウに願い出る。家人シュミラルに、ヴィナ=ルウの嫁入りを願いたい」


「なに?」と声をあげたのは、ラウ=レイであった。


「ちょっと待て。シュミラルはたしか、ルウの家への婿入りを願っていたのであろう? ヴィナ=ルウは、本家の長姉なのだからな。やすやすと嫁に出すことはできまい」


「うむ。しかし俺はいくつかの理由から、ヴィナ=ルウの嫁入りを願っている。血族の家長たちにも、聞いておいてもらうべきであろうかな」


 悠揚せまらず、ギラン=リリンは家長たちの姿を見回した。


「まず、ひとつ。ルウの本家には7名もの子があり、次兄のダルム=ルウも分家の家長としてルウ家に留まっている。また、長兄ジザ=ルウは強き狩人であり、伴侶はふたり目の子を身ごもっている。長姉のヴィナ=ルウを嫁に出しても、ドンダ=ルウの血筋が絶えることはまず考えられない」


「うむ。それは確かに、その通りだな」


「ふたつ。リリンの家には家人が少なく、シュミラルを含めても狩人は5名しかいない。シュミラルがやってくるまでは4名の狩人で家を支えてこられたのだから、とりたてて問題があるわけではないのだが……しかし、猟犬を巧みに操ることのできるシュミラルは、かけがえのない存在であるのだ。ルウには強き狩人がぞんぶんに顔をそろえているので、リリンのためにシュミラルを残してほしいと思う」


「うむ。むしろルウなどは、そろそろ家を分けて新たな眷族を作る頃合いであろうな」


「そして、みっつ。……俺はシュミラルのことを、大事な家族として思っている。ようやく氏を与えることができたのに、すぐさま婿に出してしまうのは、あまりに忍びない。俺はこの先も、シュミラルにリリンの家人として生きてほしいのだ」


 ギラン=リリンは、ゆっくりとドンダ=ルウに向きなおった。


「最後のみっつ目は俺の我が儘であるが、子たるリリンの切なる思いとして、どうか聞き届けてほしい。もちろんドンダ=ルウとて、大事な娘を嫁に出すことは辛かろうが……そこを伏して、願いたい」


 ドンダ=ルウは、炯々たる眼差しでギラン=リリンを見やっている。

 一同が息を詰める中、その口から重々しい声が放たれた。


「どの家でも、家人を大事に思う気持ちに変わりはない。まさか、俺には7人もの子があるのだから、貴様よりも痛苦は軽く済む、などと考えてはいまいな?」


「もちろんだ。だからそれは、俺の我が儘だと述べさせていただいた」


「ふん……6年前にも、聞いた台詞だな」


 ドンダ=ルウはまぶたを閉ざしたが、それは数秒のことだった。


「しかし、最初のふたつに関しては、道理のない話ではあるまい。リリンはいまだに、血族でもっとも家人の少ない家であるのだからな」


「では、俺の願いを聞き入れてもらえるだろうか?」


「ルウの家長として、ギラン=リリンの願い出を許そう。……ただし、本人の意に添わぬ婚儀を認めることはできん」


 そうしてドンダ=ルウは、ヴィナ=ルウのほうに視線を転じた。

 ヴィナ=ルウは、いまだシュミラル=リリンを見上げたまま、動けずにいる。


「話は聞いていたな、ヴィナよ。シュミラル=リリンと婚儀をあげるならば、貴様にはリリンの人間になってもらう。そのつもりで、この申し出を受けるかどうか……決めるのは、貴様だ」


「…………」


「シュミラル=リリンが森辺の家人となって、長きの時が過ぎている。さすがに貴様も、覚悟が決まっている頃合いであろう。貴様の進むべき道を、貴様自身が決めるのだ」


 ヴィナ=ルウはシュミラル=リリンの姿を見つめたまま、何も答えようとしなかった。

 シュミラル=リリンもまた、無言でヴィナ=ルウを見つめ返している。

 しばらくして、ギラン=リリンがそっと呼びかけた。


「婚儀の申し出は、その日に返事をするものと決められているわけではない。心が落ち着くのを待って、もっとも正しき道を探してはどうだろうかな?」


「いえ……わたし……わたしは……」


 ヴィナ=ルウが、震える声を振りしぼった。


「ドンダ父さん……いえ、家長ドンダ……返事をする前に、この人と……シュミラル=リリンと、話をさせてもらえないかしら……?」


「ふん。語らいたいなら、好きなだけ語らえばよかろうが?」


 ドンダ=ルウはもとの場所に腰を下ろすと、新たな土瓶を傾けた。

 ギラン=リリンもヴィナ=ルウをなだめるように微笑みながら、その場にあぐらをかく。


「人の目があっては語りにくいこともあろう。俺が許すから、好きな家で語らってくるがいい。本家の他には、誰もいないはずであるからな」


「ありがとう……それで……それで、あのぉ……アイ=ファとアスタにも立ちあってもらいたいのだけれど……それは許してもらえるかしら……?」


 ギラン=リリンは、きょとんと目を丸くした。


「アイ=ファとアスタに? 理由はさっぱりわからんが、ヴィナ=ルウがそれを望むのならば、好きにするがいい」


 ヴィナ=ルウは、感情の定まらない眼差しで俺たちを見つめてきた。

 アイ=ファはうろんげに眉をひそめつつ、頭をかいている。


「私にもさっぱりわけがわからんが、それはお前にとって必要な行いであるのだな?」


「ええ、そう……わたしには、必要なことなのよぉ……」


「では、立ちあわせてもらおう」


 アイ=ファはすぐさま立ち上がると、俺の頭をぺしんとはたいた。


「何を呆けている。行くぞ」


「あ、ああ、うん……」


 俺はまだ、さっぱり状況が呑み込めていなかった。

 立て続けに色んなことが起きすぎて、頭の整理が追いつかないのだ。ヴィナ=ルウやシュミラル=リリンの後について歩きながら、俺は夢の中をさまよっているような心地であった。


 広場に集った人々も、さぞかし奇異なる目で俺たちを見やっていたことだろう。それをはっきりと知覚することもできぬまま、俺は暗い家の中に足を踏み入れていた。


 シュミラル=リリンの手によって、燭台の火が灯される。

 俺たちは、それを囲んで広間に座することになった。


「ごめんなさい……わたしには、どうしても話しておかないといけないことがあるの……」


 ヴィナ=ルウの目が、シュミラル=リリンに向けられる。

 その長い睫毛は、とても弱々しく揺れていた。本当は目をそらしたくてたまらないのに、それを懸命にこらえているかのようである。


「婚儀の話を進める前に、この話を終わらせておかないと……わたしは、一歩も進むことができないのよぉ……だから……だから、話を聞いてもらえるかしら……?」


「はい。お聞かせください」


 シュミラル=リリンは、とても穏やかな面持ちであった。

 ヴィナ=ルウは、苦痛をこらえるように眉をひそめている。その艶やかな唇から放たれたのは、驚くべき言葉であった。


「わたしは……わたしはかつて、アスタに嫁入りを願ったことがあったのよぉ……」


 俺は、心から仰天させられてしまった。

 しかし、シュミラル=リリンの表情は変わらない。


「しかも、それは……森辺の習わしに則った行いではなくて……わたしはアスタに、森辺の外の世界に連れていってほしいと望んでいたの……わたしは、故郷や家族を捨てようとしていた人間なのよぉ……」


「だ、だけど、ヴィナ=ルウはそれを思いなおして、森辺に留まったじゃないですか」


 俺は思わず、声をあげてしまった。

 ヴィナ=ルウは、力なく首を振る。


「それは、アスタがわたしの申し出をはねのけてくれたおかげよぉ……そうじゃなかったら、わたしは森辺を捨てていた……そんな人間に、伴侶を娶る資格なんてあるのかしら……」


「……お前は実際に森辺を捨てたわけではない。ただ妄念にとらわれて、愚かな言葉を口走っただけだ。それだけで、森辺の民として生きていく資格を失うわけがあるまい」


 今度はアイ=ファが、毅然とした声をあげる。

 ヴィナ=ルウは、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「そうよねぇ……実際に罪を犯していたら、罰を受けて贖うところだけど……わたしには、そうすることもできなかった……だから、気持ちが宙ぶらりんなのかしら……」


「それでお前が苦しんだのなら、それが罰となろう。少なくとも、婚儀を迷う理由にはならん」


「ええ……だけど、そのような話を隠して、この人と婚儀をあげるわけにはいかないでしょう……? ましてや、この人とアスタは、深い絆で繋がれた友なのだから……」


 ヴィナ=ルウは苦しげに胸もとをおさえて、呼吸を整えた。


「わたしは、アスタに心を奪われていた……アスタが森辺の民になると決めた後も、しつこく追いすがっていたのだもの……そんな話を後から聞かされたら、たまらない気持ちになってしまうでしょう……? わたしは……わたしのせいで、この人がアスタを憎んでしまったりするのは……絶対に嫌なのよぉ……」


「そのような理由で、シュミラル=リリンがアスタを憎むことにはなるまい」


「そうかしら……? もしもアスタが、あなたの大事な友に懸想をしていたら、あなたはどう思うの……? アスタと婚儀をあげた後に、それを知らされてしまったら……やり場のない怒りや虚しさを抱え込んだりするのじゃないかしら……?」


 アイ=ファは口をつぐんでしばし沈思したが、やがてゆっくりと首を振った。


「確かに、やり場のない気持ちを抱え込むことにはなろう。それでもやっぱり、その相手を憎んだりはしない」


「そう……でもやっぱり、やり場のない気持ちを抱え込むのよねぇ……? だったらそれは、婚儀をあげたりする前に伝えておくべきでしょう……? いまだったら、まだ取り返しはつくのだもの……」


 そのように語る間も、ヴィナ=ルウの目はシュミラル=リリンだけを見つめている。


「わたしは、不出来な人間だけど……その中でも、もっとも醜くて浅ましい部分を伝えておかないと……とうてい婚儀をあげることなんてできないわぁ……だから、あなたに打ち明けておきたかったのよぉ……」


「そうですか」と、シュミラル=リリンは静かに答えた。


「ヴィナ=ルウ、そのように考えてくれたこと、とても嬉しい、思います。そして、ご心配、いりません。私、気持ち、変わりません」


「本当に……? アスタとの絆に、傷をつけてしまったりしないのかしらぁ……?」


「はい。アスタ、大事な友です。その気持ち、やはり、変わりません」


 そのように述べてから、シュミラル=リリンはふわりと微笑んだ。


「それに……ヴィナ=ルウ、アスタへの想い、私、知っていました」


「え……?」と、ヴィナ=ルウの目が見開かれる。

 俺もまた、大きな驚きにとらわれていた。


「ど、どうして……? まさか、アスタが……?」


「いえ。アスタ、聞いていません。私、憶測です。ヴィナ=ルウ、アスタ、恋心、抱いているのだろう、感じていました。だから、最初、出会ったとき、夫婦であるか、尋ねたのです」


 シュミラル=リリンは、驚くべき言葉を静かに重ねていく。


「でも、昔、話です。私、ジェノス、戻ったとき、ヴィナ=ルウ、アスタへの想い、消えていた、思います。ヴィナ=ルウ、いまでも、アスタへの想い、残っていますか?」


「そ……そんなわけないじゃない……」


「では、問題、ありません。私、ヴィナ=ルウへの想い、変わりません」


 シュミラル=リリンは微笑みながら、ヴィナ=ルウの姿を真っ直ぐに見つめ返した。


「私、婚儀、望みます。家長ギラン、嫁入り、願っていますが、私、婿入り、かまいません。ヴィナ=ルウ、ルウに留まる、望むのなら、私、家長ギラン、説得します」


「ちょ、ちょっと待って……わたしはまだ、覚悟が固まっていないのよぉ……」


 震える声で言いながら、ヴィナ=ルウは自分の身体を抱きすくめた。


「わたしは、本当に不出来な人間だから……この期に及んで、まだ覚悟が固まっていないの……こんな気持ちで、あなたと婚儀をあげることはできないわぁ……」


「何か、懸念、あるのですか?」


 優しい声で、シュミラル=リリンがうながした。

 苦しげに眉をひそめたまま、ヴィナ=ルウがちょっとずつ頬を赤らめていく。


「懸念は、あるわよぉ……ないわけがないでしょう……? だって、あなたは……」


「はい、何でしょう?」


「あなたは……もうすぐ、旅に出てしまうじゃない……」


 自分の身体をぎゅっと抱きすくめながら、ヴィナ=ルウはそう言った。

 羞恥に頬を赤らめながら、その目には薄く涙が光っている。


「そうしたら、あなたは半年も帰ってこないでしょう……? わたしみたいに不出来な人間が、そんな苦しさを乗り越えられるかどうか……自信がもてないの……」


「はい。当然の不安、思います」


 シュミラル=リリンは燭台を迂回しつつ、ヴィナ=ルウの前ににじり寄った。

 しかし、未婚の男女が触れ合うことは禁忌であるので、その前に動きを止める。シュミラル=リリンの黒い瞳が、近い位置からヴィナ=ルウを見つめた。


「私、族長ドンダ=ルウ、約定、交わしました。その内容、覚えていますか?」


「……ドンダ父さんとの約束……?」


「はい。私、半年、森辺、離れます。その間、狩人の仕事、果たすこと、できません。その代わり、他の狩人より、倍の収穫、あげる約定、交わしたのです。そのための、猟犬です」


「ああ……それが何だっていうのぉ……?」


「私、同じ約定、ヴィナ=ルウ、交わします」


 そうしてシュミラル=リリンは、ヴィナ=ルウの不安を包み込むように、ゆったり微笑んだ。


「私、倍の情愛、捧げます。半年、会えない代わり、その分まで、ヴィナ=ルウ、幸福にします」


 ヴィナ=ルウの頬に、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。


「そんなこと……できるかどうか、わからないじゃない……」


「してみせます。約定、絶対です」


 鼻先が触れ合いそうな距離で、シュミラル=リリンはそう言った。


「私、伴侶、なってください、ヴィナ=ルウ。あなた、愛しています」


 沈黙が、落ちた。

 獣脂蝋燭の燃える、ジジジ……という音だけが響く。

 まるで、世界そのものが息をひそめて、ヴィナ=ルウの答えを待っているかのようだった。


 そんな中、アイ=ファがいきなり俺の指先を握りしめてくる。

 俺は無言で、その手を握り返してみせた。


 そしてヴィナ=ルウは、これほど静まりかえっていなければ聞こえなかったであろうというぐらい、小さくひそめられた声で――「はい」と答えたのだった。

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