狩人の証①~吉報~
2019.3/5 更新分 1/1
翌日の、藍の月の2日である。
夜明けと同時にドーラ家から帰還した俺は、アイ=ファとともに家の仕事をこなし、ついでに下ごしらえの仕事も完了させてから、いざルウ家に向かうことになった。
本日は休業日であるので、下ごしらえというのも商売用ではなく、午後の修練に備えてのものである。明日用の下ごしらえに関しては、また近在の女衆にお願いしておいたのだ。本日の修練に参加を希望したトゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハムの3名とともに、俺は中天にファの家を出立した。
「今日は、ルウ家で修練を行うのですね。ミケルに教えを乞うのですか?」
「うん。あとはちょっと、個人的な都合があってね。……みんなを信用して打ち明けるけど、ヴィナ=ルウにカレー作りの手ほどきをしてあげたいんだ」
「ヴィナ=ルウに? ……ああ、かれーを好んでいるシュミラルのために、ということですね」
ユン=スドラはすぐに事情を呑み込めた様子であるが、その後から聞こえてきたマルフィラ=ナハムの声はぞんぶんに上ずっていた。
「わ、わ、わたしはアスタの信用に対して、どのように応えればよいのでしょう? よ、よ、よろしければ、わたしの進むべき正しい道を、お示しください」
「ごめんごめん。そんな大仰な話じゃないんだ。ヴィナ=ルウを冷やかしたりしなければ、それで十分だよ」
「ル、ル、ルウ家の家人を冷やかすなんて、とんでもないことです。……え、ええと、ヴィナ=ルウにかれー作りの手ほどきをすることと、ヴィナ=ルウを冷やかすということに、いったいどのような繋がりがあるのでしょう?」
荷車の運転をしながら、俺が言葉を探していると、ユン=スドラがいち早く答えてくれた。
「ヴィナ=ルウが美味なるかれーをこしらえたら、シュミラルが喜ぶでしょう? アスタはそのために、手ほどきをしようと考えたのだと思います。……でも、そのようなことをおおっぴらにしてしまうと、ヴィナ=ルウは気恥ずかしい心地になってしまう、ということなのではないでしょうか」
「な、な、なるほど……で、では、わたしはどのように振る舞えばいいのでしょう?」
「マルフィラ=ナハムは、普段通りでいいと思います」
ユン=スドラは、笑いを噛み殺している様子であった。
マルフィラ=ナハムは、頼りなげに「はあ」と息をついている。
そうして俺たちは、ルウの集落に到着した。
昨日まではたくさん見かけた男衆の姿が、消えている。休息の期間に終わりを迎えて、また女衆と幼子だけで過ごす日常が帰ってきたのだ。俺が荷車を進めていくと、本家の前ではレイナ=ルウが待ってくれていた。
「お待ちしていました、アスタ。みんなはもうかまど小屋に集まっています」
「ありがとう。……ヴィナ=ルウは、大丈夫だったかな?」
ミーア・レイ母さんには、ドーラ家からの帰りしなに、かまど小屋を借りたいという旨を告げていた。しかし、ヴィナ=ルウへの言伝てはレイナ=ルウに一任していたのだ。
「はい。ヴィナ姉がひとりでいるときに、こっそり告げておきました。いぶかしそうにしていたので、事情も打ち明けてしまいましたが、問題はありませんでしたか?」
「うん、もちろん。ヴィナ=ルウは、嫌な顔をしてなかったかな?」
「ええ、もちろん。とても気恥ずかしそうではありましたけれど」
レイナ=ルウはくすくすと笑いながら、「それでは、どうぞ」と家の横手に手を差し伸べた。
かまど小屋で待ち受けていたのは、ミーア・レイ母さん、ヴィナ=ルウ、リミ=ルウ、シーラ=ルウ、ミケル、マイムの6名である。まずは仏頂面のミケルが、俺たちを出迎えてくれた。
「今日はずいぶんと、急な話だったな。いまさら俺に教えを乞うことなどあるまいに」
「とんでもありません。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
ミケルには個人的な修練で、すでに何度かお世話になっている。本日の主題はあくまでカレー作りであったが、まだまだミケルに聞きたいことは山ほど残されていた。
「今日は修練に備えて、キミュスの骨ガラの出汁を持参しました。まずはその出来栄えを確認していただけますか?」
俺はトゥール=ディンたちの力を借りて、ふたつの鉄鍋をかまど小屋に持ち込んだ。片方は弱火で煮込んだ清湯仕立て、もう片方は強火で煮込んだ白湯仕立てである。
かまどで温めなおしたその出汁を、ミケルは無言で口に含む。
「ふん……臭みはないし、風味もきいている。これ以上、何か望むものでもあるのか?」
「いえ、ミケルにそのように言っていただけたら、光栄です。今日はこの出汁に相応しい料理について、色々とご意見をうかがいたいのですよね」
カレーの修練だけではあまりにあからさまであるので、俺はそういった主題を準備していた。
「たいていの汁物料理にはこの出汁を活かすことができますし、また実際、普段からぞんぶんに使わせてもらっています。でも、これだけ上等な出汁であったら、他の料理でも活用できそうなところですよね。ミケルの作法では、こういった出汁をどのような料理に使っていたのでしょう?」
「俺の作法などというご大層なものではないが……肉や野菜を漬け込んだり、フワノの生地を練るのに使ったりするのは、まあ定番だな」
「フワノの生地を練るのに、キミュスの出汁を使うのですか」
驚いたように声をあげてから、レイナ=ルウは俺のほうに目を向けてきた。
「そういえば、アスタもりぞっとという料理で、この出汁をシャスカに使っていましたものね。それと同じような話なのでしょうか?」
「うん、きっとそうなんだろうね。……そういえば、ヴァルカスの作るフワノ料理なんかは、生地そのものからマロールの風味を強く感じたよね。あれはきっと、マロールの出汁でフワノの生地を練ったんじゃないのかな」
「ああ、なるほど……でも、フワノやポイタンの風味が強いと、他の料理と味がぶつかってしまいそうですね。それが複数の料理となると、調和を目指すのもなおさら難しくなってしまいそうです」
「うん。だから、チャーハンやリゾットみたいに、それ単体で成立する料理を目指せばいいんじゃないのかな。俺たちが手掛けているポイタン料理でいうと……ピザやお好み焼きあたりだね」
レイナ=ルウは「なるほど」を連発していた。ユン=スドラやトゥール=ディンも、熱心に話を聞いている。
「俺の故郷でも、お好み焼きに出汁を使う作法はあったと思うよ。その場合は骨ガラの出汁じゃなくて、魚や海草の出汁だったのかな。どんな味付けを目指すかで、出汁を使い分けるべきだろうね」
「では、魚や海草の出汁も作っておきましょうか?」
「うん、お願いするよ」
あくまでこれは俺個人の修練であるのに、レイナ=ルウの積極性というのは普段の勉強会以上であった。
いそいそと準備を始めるレイナ=ルウに「ありがとう」と伝えてから、俺はミケルに向きなおる。
「あとは、肉や野菜を出汁に漬け込む作法もあるのですか?」
「うむ。しかし、肉や野菜に出汁だけで風味をつけるのは難しい。タウ油やタラパの煮汁と混ぜて使うのが、普通であろうな。俺はあんまり好かんやり口だが、細い針で肉を穴だらけにして、出汁や煮汁を吸い込ませる作法も存在した」
「ああ、そのやり方で脂をしみこませた料理であったら、城下町で口にしました」
「ふん。城下町の連中が考えそうなやり口だ」
興味なさげに、ミケルは肩をすくめていた。素材の味を活かすことを主眼にしたミケルであれば、そうまでして食材をこねくり回すのは意に沿わないのであろう。
「それにしても、ずいぶん大量に出汁をこしらえてきたものだな。これをすべて、修練だけで使いきるつもりなのか?」
「はい。俺のほうでも試したい料理がいくつかあったので、これぐらいは必要になるかなと思ったのです。リゾットや炊き込みシャスカの修練も進めたかったですし……あとは、カレーでも使ってみたいのですよね」
俺の視界の端で、ヴィナ=ルウがわずかに身をよじらせた気配がした。
「ご存知の通り、カレーはきわめて味の強い料理ですが、こういった出汁を使えば、いっそう深みが増すと思うのです。ゆくゆくは、ギバ骨の出汁でもカレーを作ってみようと考えています」
「へえ、話を聞いただけでも、美味そうだねえ」
ミーア・レイ母さんが、笑顔で身を乗り出してくる。
「それじゃあ、さっそく取りかかろうか。何でも好きに言いつけておくれよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、ポイタンの生地を各種の出汁で練ってみましょう。その間に、俺はカレーの準備をしておきます」
香草は、細かく挽いて小瓶に詰めたものを持参してきている。俺がそれを作業台に並べていくと、ミーア・レイ母さんは「うん?」と首をひねった。
「かれーは、いちから作るのかい? ずいぶん手間がかかりそうだね」
「香草はもう挽いてありますから、大した手間ではありません。ここ最近で香草の配合をあれこれいじったので、それもおさらいしておこうかと思ったんですよ」
「なるほどね。それじゃあそいつは、ヴィナが手伝いなよ」
至極あっさりと、ミーア・レイ母さんはそのように言いたてた。たとえ事情は打ち明けられていなくとも、カレーといえばヴィナ=ルウというのが、ルウ家においても暗黙の了解であるのだろう。シュミラルがジェノスを離れている間、俺がヴィナ=ルウにカレー作りの手ほどきをしていたことは、周知の事実であるのだ。
「それじゃあ、よろしくお願いしますね、ヴィナ=ルウ」
ヴィナ=ルウは栗色の髪をかきあげながら、しゃなりしゃなりと近づいてくる。実に優美な姿であるが、やはりその頬はほんのり赤くなってしまっていた。
「あのねぇ、アスタ……どうしていまさら、あれこれ気を回そうとするのよぉ……?」
ヴィナ=ルウが、俺の耳もとに囁きかけてくる。その熱っぽい吐息に背中をぞくぞくとさせられながら、俺は「すみません」と謝ってみせた。
「俺にできるのは、これぐらいかなと思ってしまったもので……ちょうどカレーの作り方を修練していたところでしたしね」
「……新しいかれーの作り方を考案したのは、もうずいぶん前の話でしょう……? それぐらいだったら、わたしもとっくにレイナたちから習っているけどぉ……?」
「あ、いえ、それからまた、あれこれ微調整したのですよ。それに、骨ガラの出汁を使うのは、今日が初めてのことですからね。これでまた、いっそう美味しいカレーが作れるようになると思います」
俺の言葉に、ヴィナ=ルウは色っぽく眉をひそめた。
「だったら……そんなのは、収穫祭が来る前に教えてほしかったわよぉ……いまさら新しい作り方を習ったって、あの人に食べさせる機会がないじゃない……」
俺は思わず、ぽかんとしてしまった。
ヴィナ=ルウは「何よぉ……?」といっそう顔を赤くする。
「あなただって、そのために手ほどきしようとしてくれているんでしょう……? いまさら言葉を飾ったってしかたないじゃない……」
「そ、そうですよね。はい、遅きに失して、申し訳ありません。収穫祭がやってくる前に、調理法を確立しておくべきでした」
そう言って、俺はヴィナ=ルウに笑いかけてみせた。
「でも、また何か機会があるかもしれないじゃないですか。その日に備えて、美味しいカレーの作り方を会得してください」
ヴィナ=ルウは、もじもじと身体をくねらせている。それを横目に、俺は持参した帳面を作業台の上に開いてみせた。
「微調整した香草の分量は、こんな感じです。まずはシャスカ用のカレーで試してみましょう」
ヴィナ=ルウは無言のまま、香草の瓶を取り上げた。
まだ赤みを残したその横顔をこっそり見やりながら、俺はしみじみと考える。
(収穫祭では、ヴィナ=ルウがカレーを作ったのか……確かに、ヴィナ=ルウがシュミラルに手料理を食べてもらう機会なんて、そうそうないんだろうしな)
シュミラルは、どれほど幸福な心地でそのカレーを噛みしめたのか。それを想像するだけで、俺は胸がいっぱいになってしまった。
(それに、収穫祭の前に作り方を教えてほしかったなんて……ヴィナ=ルウのほうからそんなことを言いだすとは、まったく想像してなかった。やっぱり俺の知らないところで、色々と進展してるんだな)
そんな風に考えながら、俺はヴィナ=ルウとともにカレー作りの準備を進めることになった。
その間に燻製魚と海草の出汁が完成したので、ポイタンの生地との相性を確認する。魚と海草は単体とブレンドの両方を試し、骨ガラのほうは単体のみを生地に練り合わせた。が、それらの試作品が焼きあがっても、レイナ=ルウたちは「うーん」と首をひねるばかりであった。
「なんというか、奇妙な味わいですね。……いえ、風味はあるのに確かな味がないので、奇妙に感じてしまうのでしょうか」
「うん。やっぱり他の調味料や具材と合わせてみないと、出汁の風味は活きないよね。今度はピザとお好み焼きで試してみようか」
お好み焼きには魚と海草の出汁、ピザには骨ガラの出汁を使うのが相応であろうが、ここはチャレンジ精神を発揮して、すべての出汁をまんべんなく使うことにした。ロイの料理を口にして以来、俺はなるべく固定観念にとらわれないように心がけていたのである。
同時進行で、リゾットと炊き込みシャスカの修練も開始する。炊き込みシャスカはタウ油と砂糖とニャッタの蒸留酒も使い、俺の故郷の炊き込みごはんを再現する気持ちで臨ませていただいた。ただしこちらも、骨ガラの出汁を使って未知なる味わいを追求する。
さらにカレーの素も仕上がると、すべてのかまどと石釜に火が灯されることになった。10名の人員も、フル稼働である。試食品をこしらえては味見をして、微調整の末に、また新たな試食品をこしらえる。俺個人の修練というよりは、森辺のかまど番の精鋭たちによる、共同研究のような様相であった。
「きっとヴァルカスたちは、毎日がこのような有り様なのでしょうね」
かまどの熱で頬を火照らせながら、レイナ=ルウはそのように述べていた。
《銀星堂》は数日に1度しか客を取らず、それ以外の日はすべて修練と下ごしらえにあてているという話であったのだ。しかも彼らはそれが仕事のすべてであるので、朝から晩まで厨にこもっているのだろうと推察できた。
しかし、俺たちも本日は休業日だ。普段の修練や勉強会は2時間ていどが限界であるが、今日は中天からルウ家におもむいている。自分たちの晩餐をこしらえる時間を残して、あとはめいっぱい修練に注ぎ込めるのだ。単純計算で、5時間ぐらいはかまど小屋にこもっていられるだろう。間に小休止をはさみつつ、俺たちはその日もきわめて濃密な時間を過ごすことができた。
そうして2度目の小休止を迎えて、俺たちが談笑を楽しんでいると、表のほうから賑やかな気配が感じられた。
「おや、男衆が帰ってきたのかね」
ミーア・レイ母さんが、笑顔で広場のほうに出ていく。日時計を確認してみると、時刻は下りの四の刻あたりだ。まだまだ日没には2時間以上も残していたが、休息の期間が明けてからしばらくはギバの数も少ないので、早々に仕事を切り上げてきたのだろう。
しばらくすると、馴染みの深い面々がかまど小屋のほうにやってきた。ルド=ルウ、シン=ルウ、ダルム=ルウと、それにミダ=ルウの4名である。
「よー、ちょうど休憩中か。何か食わせてもらおうと思ったのに、あてが外れちまったなー」
「あはは。しばらくしたら、色々なものを味見してもらえるよ」
ミダ=ルウ以外の3名は、ドーラ家の親睦会に参加した顔ぶれだ。ただし、ドーラ家に宿泊したのはジザ=ルウとルド=ルウのみであるので、シン=ルウたちとは昨晩以来の再会であった。
「ミダ=ルウも元気そうだね。まだ森の恵みは育ちきっていなかったのかな?」
「うん……でも、ギバの足跡はいくつか見つけたんだよ……?」
「そーそー。でも、森の恵みが全然だったから、とっとと引き返しちまったんだろうなー。だから俺たちも、罠だけ仕掛けて帰ってきたんだよ」
そう言って、ルド=ルウはにっと白い歯を見せた。
「昔だったら、こーゆー時期は晩餐でも干し肉を食うしかなかったんだけどな。いまは余所の氏族から肉を買えるんで、ありがてーぜ」
それは、商売用の肉を確保するために構築したネットワークの、大きな副産物であった。肉はピコの葉に漬けても2週間ていどしかもたないので、収穫祭の前に狩ったギバの肉は、ちょうど休息の期間が明ける頃に賞味期限が切れてしまうのだ。
休息の期間、ルウの血族はサウティおよびダイの血族から肉を買いつけていた。それでルウ家は商売を続けることがかなうし、サウティとダイには肉を売った銅貨が手に渡る。ファとその近在の氏族が休息の期間を迎えたときは、ガズやラッツやベイムの血族から肉を買いつけるのだ。今後はそこに生鮮肉の商売まで絡んでくるので、ザザやスンやラヴィッツなどから肉を買いつける機会も生じることだろう。
と、俺たちがそんな会話をしている間に、ダルム=ルウはシーラ=ルウのもとに、シン=ルウはララ=ルウのもとに身を寄せていた。それなら、俺ももう少しルド=ルウたちとの歓談を楽しませてもらおうかな、と声をあげようとすると――俺の背後から、「ふわあ」とおかしな声がした。
「あ、も、申し訳ありません。ち、ち、近くで見ると、こんなに大きいのかと感心してしまって……」
振り返ると、マルフィラ=ナハムが目を泳がせていた。ルド=ルウは頭の後ろで手を組みながら、小首を傾げている。
「大きいって、ミダ=ルウのことだよな。いままでも、さんざん顔をあわせてなかったっけ?」
「こ、こ、ここまで近くで拝見するのは、初めてであったのです。お、おかしな声をあげてしまって、本当に申し訳ありません」
休息の期間、ルウ家の男衆は広場に姿を見せることが多かったし、ミダ=ルウはラウ=レイの修練を見学するためにファの家を訪れている。そういった際に、マルフィラ=ナハムがミダ=ルウを見かける機会はあったろうが、確かにはっきりと相対するのはこれが初めてなのだろうと思われた。
首を傾げるという動作のできないミダ=ルウは、肉にうもれた小さな目をぱちくりとさせている。
「その人……ミダもよく知らないんだよ……?」
「わ、わ、わたしはナハムの家の三姉で、マルフィラ=ナハムと申します。た、大変失礼いたしました」
「ミダは、ルウの分家の家人だよ……何も失礼ではないと思うんだよ……?」
ミダ=ルウが血族ならぬ相手と言葉を交わすというのは、実に新鮮な姿であった。そういえば、ちょくちょくルウ家にお邪魔しているユン=スドラやトゥール=ディンですら、ミダ=ルウと言葉を交わしているところは見たことがないかもしれない。トゥール=ディンなどはかつて同じ集落に住む間柄であったのだが、当時はスン本家の人間を恐れていたようなので、きっと親交もなかったのだろう。
(そういえば、マルフィラ=ナハムって誰よりもオドオドしているのに、誰にでも分け隔てなく声をかけたりするんだよな。城下町でも、ヴァルカスと普通に言葉を交わしてたし……こう見えて、実は人見知りしないタイプなのかもしれないぞ)
というよりも、すべての人間に対して、分け隔てなくオドオドしている、とでもいうべきなのだろうか。
何にせよ、交流の輪が広がるのは喜ばしいことであった。俺にとっては、ミダ=ルウもマルフィラ=ナハムも大事な相手であるのだから、なおさらだ。
「あ、あ、あなたがファの家で修練している姿を、お見かけしました。そ、そんなに身体が大きいのに、とても素早く動けるので、すごいなあと思っていたのです」
「ミダは、素早く動けないんだよ……? ルド=ルウのことは、全然つかまえられないんだよ……?」
「そ、そ、それは、ルド=ルウが人並み外れて素早いからだと思います。や、やっぱりルウの血族の狩人というのは、みなさん物凄い力を持っておられるのですね」
「あれ? あんたに名前を教えたこと、あったっけ?」
ルド=ルウが口をはさむと、マルフィラ=ナハムはぺこぺこと頭を下げ始めた。
「ほ、ほ、本家のみなさんのお名前は、最初にすべてうかがっていました。き、き、気安くお名前を口にしてしまって、申し訳ありません」
「何も申し訳ないことはねーけどよ。……ああ、そっか。あんたはすっげー物覚えがいいんだってな。最初の頃、レイナ姉が騒いでたのを思い出したよ」
ルド=ルウは、頭の後ろで手を組んだまま、器用に肩をすくめた。
「だったら、こっちも名前を覚えておかねーとな。えーと、マルフィラ=ナハムだったっけ? ミダ=ルウ、覚えたか?」
「うん……覚えたんだよ……?」
いよいよ微笑ましい構図になってきたなあと考えていた俺は、そこではたと思いあたった。この3名は、ルド=ルウがひとつ年長なだけで、ほとんど同世代の集まりであったはずなのだ。
尋常ならざる巨体のミダ=ルウと、ひょろひょろと背の高いマルフィラ=ナハムと、やや小柄であるルド=ルウという、実に奇妙な取り合わせである。ここにゲオル=ザザやレム=ドムなどを放り込んだら、ますます混沌とした様相になることだろう。何よりも愉快なのは、それらのすべてが俺よりも2歳以上は年少であるという事実であった。
(本当に森辺には、個性豊かな人間がそろってるなあ)
と、俺がそんな呑気なことを考えたとき、新たな人々がかまど小屋のほうに回り込んできた。
それに気づいたマルフィラ=ナハムが、怒涛の勢いで目を泳がせる。その場にやってきたのは3名の狩人であり、そのうちの2名は族長とその長兄であったのだ。
「あ、どうも。今日はかまど小屋を貸してくださって、ありがとうございます」
朝方には挨拶をできなかったので、俺はドンダ=ルウに一礼してみせた。ドンダ=ルウは、光の強い目でその場の人々を見回していく。
「家の仕事を取り仕切っているのは、ミーア・レイだ。俺が礼を言われる筋合いはない。……ヴィナのやつはどこに行った?」
「ヴィナ姉はかまど小屋です」と、レイナ=ルウがすかさず答える。公衆の場において、レイナ=ルウやジザ=ルウは家長たる父親に対して敬語をもちいているのだ。
「ここに呼んでこい。いまのうちに、申しつけておきたいことがある」
レイナ=ルウはうなずいて、かまど小屋に足を向けた。
ドンダ=ルウとジザ=ルウが顔をそろえているということは、何か込み入った話であるのだろう。その両名と一緒に立ち並んでいる第三の狩人は、どこかで見かけた顔であるように思えたが、素性までは思い出せなかった。
「それじゃあ俺たちは、これで失礼いたします」
俺は気を回して、マルフィラ=ナハムとともに退散しようとした。
するとドンダ=ルウが「待て」と引き留めてくる。
「どうして俺たちが、この場で足を止めたと思っている? 貴様にも、伝えるべき言葉があるのだ」
「え? 俺もですか?」
俺が驚いている間に、ヴィナ=ルウがやってきた。
その、いつでもとろんとしている垂れ気味の目が、ドンダ=ルウのかたわらに立ち尽くす狩人の姿を見て、はっと見開かれる。
「どうしたのぉ……? リリンの家で、何かあったのかしら……?」
「はい。ですが、ヴィナ=ルウの胸を痛めるような話ではありませんので、ご安心ください」
名も知れぬ狩人は、穏やかな面持ちで微笑んだ。まだ若い、いかにも実直そうな男衆である。
そして、ヴィナ=ルウの言葉によって、俺はその人物の正体を思い出した。彼は、リリンの家の男衆であったのだ。俺は数ヶ月前にリリンの家を訪れており、そこで彼とも顔をあわせていたのだった。
「……ファの家のアスタも、おひさしぶりですね。この後はファの家まで出向くつもりであったのですが、あなたがルウの家を訪れていたのは僥倖でした」
「あ、はい。どうも、おひさしぶりです」
俺がなかなかその人物のことを思い出せなかったのは、あまりに表情が異なっていたためであった。あの日の彼は、とても切迫した様子であったのだ。薄暗い家の中で、無念と悔恨の思いに押し潰されそうになっていたあの姿と、いまの柔和な笑顔を重ねることなどは、誰にだってそうそうできなかったに違いない。
あれは、雨季の真っただ中――俺が《アムスホルンの息吹》で倒れる直前のことである。雨の中、狩人としての仕事に励んでいたシュミラルは、家人をかばって深い手傷を負うことになった。その、シュミラルがかばった家人こそが、この若き狩人であったのだった。
「リリン本家の家長たるギラン=リリンからの言葉をお伝えいたします。……今日、シュミラルがその手でギバを仕留めることになりました」
「へえ」と、ルド=ルウが感心した声をあげる。
「まだ休息の期間が明けたばっかりだってのに、もうギバと出くわすことになったのか?」
「はい。猟犬を使ってギバを見つけたシュミラルが、それを追い込んで、弓で仕留めたそうです。ふたりがかりで運ばなければならないほどの、実に立派なギバでした」
と、その男衆は我がことのように誇らしげに微笑んだ。
「刀ではなく弓でしたが、シュミラルが仕留めたことに変わりはありません。そのギバの毛皮をなめして、シュミラルには狩人の衣が贈られることになります。……それで明日の夜、祝いの席が設けられますので、ファの家の家長とアスタにもいらしてはもらえないでしょうか?」
「それは、もちろん! 呼んでいただけるのでしたら、是非!」
「ありがとうございます。シュミラルはファの家と深い縁を持っていましたので、ドンダ=ルウにも了承をいただくことがかないました」
そこで彼は、ちょっとはにかむような表情を見せた。
「それで、もうひとつ願いたいことがあるのですが……アスタにも、料理を作っていただくことはできませんか?」
「はい! 昼下がりまでは屋台の仕事がありますが、その後でしたら問題はありません!」
「ありがとうございます。本来であれば、客人にかまどの仕事を頼むなど、習わしにそぐわぬ行いであるのですが……リリンの家は家人が少ないために、なかなか難儀であるのです」
「そりゃーそうだよなー。昔だったら、ギバ肉を焼いたり煮込んだりで済んだから、家人が少なくても何とかなったんだろうけどよ」
と、ルド=ルウが悪戯っぽい笑顔で口を出す。
「料理に手間をかけるようになったのは、ぜーんぶアスタのせいなんだからな。責任取って、美味い料理を頼むぜー?」
「うん、もちろんだよ!」
すると、ドンダ=ルウが「ふん」と鼻を鳴らした。
「勝手に話を進めているが、まずはファの家長に了承を取りつけるべきであろうが?」
「あ、はい。それはその通りですけれども……」
「それに、貴様もな。まだ貴様を供にするかどうかは決めておらん」
「えー! まさか、俺を置いていくつもりかよ!」
そうして俺とルド=ルウをとっちめてから、ドンダ=ルウはヴィナ=ルウに向きなおった。
「ギラン=リリンは、貴様を供として連れてくるように願い出てきた。まあ、貴様とシュミラルの因縁を考えれば、それは当然のことだろう。俺は家長としてそれを承諾したが、異存はあるまいな?」
「はい……」と、ヴィナ=ルウが震える声で応じた。
そちらを振り返った俺は、思わず息を呑む。ヴィナ=ルウは胸の前で両手を組み合わせながら、静かに涙をこぼしていたのだった。
「ようやくあの人も、自分の手でギバを狩ることができたのねぇ……きっと今頃、子供のようにはしゃいでいるのじゃないかしら……」
ギバを仕留めれば一人前の狩人と認められて、狩人の衣が贈られることになる。しかし、そうだからといって、シュミラルにすぐさまリリンの氏が与えられるとは限らない。シュミラルは、ただ狩人としてだけではなく、森辺の民として正式に認められない限り、シュミラル=リリンの名を得ることはかなわないのだ。
だけどそれでも、ヴィナ=ルウは涙をこぼさずにはいられなかったのだろう。
東の民の商人に過ぎなかったシュミラルが、得手とする毒草やトトスの力を使うことなく、ついに狩人として認められることになったのだ。もともとマサラの狩人であったジーダを除けば、それは初めて外界の人間が森辺の狩人として認められた瞬間であったのだった。
(明日は俺も涙をこぼして、アイ=ファを心配させることになっちゃうんだろうな)
というよりも、俺は現時点でもうすでに鼻の奥が熱くなってしまっていた。
明日もまた、俺にとっては忘れられない日になるだろう。それだけは、確実なことだった。




