先代家長の生誕の日
2019.2/16 更新分 1/1
「なるほど! 何はともあれ、ラウ=レイとの絆が深まったのなら何よりだ!」
そのように呵々大笑したのは、ダン=ルティムであった。
場所は、ルティムの本家のかまど小屋である。
黒の月の26日。俺はダン=ルティムの生誕の日を祝うべく、昼下がりからこの場所を訪れていたのだった。
ラウ=レイを含む4名の客人たちは、今日の朝方にそれぞれの家に帰っていった。アイ=ファはギバ狩りの仕事が終わり次第、こちらに駆けつける手はずとなっている。本日は屋台も休業日であったため、俺は中天から2時間ばかりを個人的な修練にあてたのち、ギルルとジルベだけを引き連れて、この地におもむいた次第であった。
「それに、ラウ=レイもずいぶん腕を上げたという話だな。これまでかなわなかった相手とも、互角にやりあえるようになったのであろう?」
「はい。それでもルド=ルウやシン=ルウには、3回に1回勝てるかどうかという感じでしたけれど……ここ最近はまったく歯が立たなかったという話だったので、ずいぶん成長できたのでしょうね」
なおかつ、ジーダやミダ=ルウやダルム=ルウに対しては、五分の戦績を叩き出していた。これは、この3名がルド=ルウとシン=ルウに劣っているということではなく、相性から生じる差異であるのだそうだ。
何にせよ、ラウ=レイだけは連戦の状態で次々と取っ組み合っていたのだから、十分に立派な戦績といえるだろう。実質3日間の鍛錬の成果と考えれば、なおさらである。
「ふーむ、興味深いな! アイ=ファやスドラの家長たちは、そこに加わっていなかったのか?」
「はい。ふたりは狩人の仕事を控えていましたので。……あ、でも、ジョウ=ランという若い狩人だけは、その場に集まった全員と対戦していましたよ」
その結果も、ずいぶん興味深いものであった。ジョウ=ランは、ラウ=レイとダルム=ルウとミダ=ルウに敗れながら、ルド=ルウとシン=ルウとジーダに勝利してしまったのである。狩人の力比べは相性に左右されるという、それも確かな好例であった。
「こいつ、すっげー戦いにくい! なんか、油を塗った蛇みてーに逃げられちまうんだよ!」
「うむ。どことはなしに、ギラン=リリンを思わせる戦い方であるようだな」
ルド=ルウとシン=ルウは、ひどく悔しげな様子でそのように述べていた。
ジョウ=ランは「自分よりも小柄な相手のほうが戦いやすいのです」と呑気に笑っていたが、ラウ=レイだっていちおうジョウ=ランよりは小柄な相手であるし、それに、アイ=ファやライエルファム=スドラにはまったく手も足も出ないのだ。体格以外にも、何か相性というものが存在するのだろう。
「そのジョウ=ランとやらに、ラウ=レイは勝ったのだな? ルド=ルウらに勝った相手に勝ったのなら、大したものだ! 俺も収穫祭でルド=ルウとやりあったが、あやつは驚くほどに腕を上げていたぞ!」
「はい。今度はルド=ルウたちがランの家に通いつめそうな勢いでしたよ。そうやって、血族ならぬ相手と修練するのも、なかなか有意義なんじゃないでしょうか」
「うむ! 俺とてゼディアスがおらなんだら、ファの家に逗留したいぐらいだったからな! 機会があれば、またアイ=ファにも手合わせを願いたいものだ!」
すると、黙ってこのやりとりを聞いていたツヴァイ=ルティムが、溜め息まじりに発言した。
「人が仕事をしている横で、馬鹿でかい声だネ。こっちの手もとが狂ったら、どうしてくれるのサ?」
「うむ? ああ、狩人の話ばかりでは、お前さんたちが退屈してしまうな! では、料理の話でもするがいい!」
「話の内容じゃなく、声のでかさに文句をつけてるんだヨ」
ツヴァイ=ルティムは鼻に皺を寄せてから、作業台のほうに視線を戻した。けっこうさびしがり屋のツヴァイ=ルティムであるので、実は会話に加わりたかっただけなのかもしれない。俺はそのように考えて、話題を転換することにした。
「そういえば、ラウ=レイはルティムの家にも通ってたんだよね。ツヴァイ=ルティムのことを、色々とほめてたよ」
「フン。けなしてたの間違いじゃないのかネ」
「そんなことはないよ。ヤミル=レイとはまた違う賢さを持つみたいだとか言ってたんだよね。銅貨を勘定する姿でも見かけたのかな」
「……あのレイの家長と比べたら、大概の人間は賢いだろうサ」
つんとそっぽを向くツヴァイ=ルティムの姿を、オウラ=ルティムが優しげな眼差しで見守っている。アマ・ミン=ルティムにはゼディアス=ルティムの世話があるために、本日のかまどはこの3名で預かっているのだった。
ちなみに、前回の生誕の日は、血族からも客人を招き、大々的な祝宴が執り行われた。が、今回はごく限られた顔ぶれによる、ささやかな晩餐会である。これはすなわち、ダン=ルティムが家長の座から退いたゆえの措置であった。
「そういえば、ガズラン=ルティムはまたサウティの集落ですか?」
「うむ。あちらでも色々と変化があったようなので、それを見届けに出向いているらしいぞ。つい数日前にも、ドンダ=ルウのお供で出向いたはずなのだがな」
それは、ラウ=レイがファの家に押しかけた日のことである。ドンダ=ルウはルド=ルウとガズラン=ルティムを引き連れて、サウティの集落に出かけていたのだった。
また、正確にはサウティの集落ではなく、その先に築かれた街道の様子を視察に出向いたのである。以前にもちらりと耳にしていたが、そちらには衛兵が待機する詰め所というものが新設されたという話であったのだ。集落からはいくぶん距離のある場所であるので、あまり取り沙汰されることもなかったが、森辺の中にそのようなものが築かれるというのは、けっこうな出来事であるはずだった。
「ガズランの話によると、森を出た東の先にも同じようなものをこしらえようとしているそうだな。ずいぶん大がかりな話ではないか」
「ええ。最終的には、そちらにも旅人が宿泊できる施設を作って、ゆくゆくは宿場町にまで発展させてやろう、という計画であるみたいですからね。まったく、途方もない話です」
「フン。そんな辺鄙な場所に町を作って、住みたがる人間なんているのかネ。そもそもジェノスの貴族どもは、トゥランの奴隷たちをジャガルに送りつけようとしてるんじゃなかったっけ?」
すかさずツヴァイ=ルティムが言葉をはさんできたので、俺は「そうだね」と応じてみせた。油断をすると、ついついダン=ルティムとふたりだけで盛り上がってしまいそうになる。
「それで、北の民の抜けた穴は、新しい領民を集めて埋めようって考えてるんでショ? 人間なんて、アリアやポイタンみたいにぽんぽん生えてくるものじゃないんだから、そう簡単に集めることができるのかネ」
「確かにね。まあ、新しい宿場町を建立する、なんてのは数年がかりの長期的な計画なんだろうから、まだまだ心配するには早いんじゃないのかな。トゥランのほうは、大至急で募集しなくちゃならないんだろうけどね」
「とはいえ、北の民たちがジャガルに移り住むという話も、まだ決定されてはおらんのだろう? そうと決めたのならば、とっとと送り出してやればよかろうにな!」
「それには、ジャガル側の了承も必要みたいですね。あちらにしても、いきなり何百名もの人間を同胞として迎えろ、なんて言われたら、なかなか対応に困ってしまうのでしょう」
それでもフェルメスの了承が出てすぐに、ジェノスからジャガルの王都へと使者が送られたのだと聞いている。早馬ならぬ早トトスの単騎駆けであれば、およそひと月でジャガルの王都と往復できるそうであるから、早ければもうじきに返事が届けられることだろう。
「ジャガルといえば、あのミソというものを売る商人も、そろそろジェノスにやってくる頃合いであるはずだな?」
ダン=ルティムによって、話題はぽんぽんと入れ替わる。そのボールを落としてしまわないように、俺は「はい」とうなずいてみせた。
「黒の月の終わり頃と言っていましたから、もうそろそろのはずですね。ダン=ルティムはデルスたちと面識がありましたっけ?」
「知らん。ドンダ=ルウらの話によると、なかなか愉快な連中であるようだな。……それはともかくとして、ミソの残りがわずかになってきたという話であったのだ。これを使いきってしまったら、もう新しい分が到着するまで、買いつけることもかなわぬのだろう?」
「そうですね。城下町でも、早々に売り切れてしまったと聞いています」
「このミソというのは、なかなか大した食材であるようだからな! アマ・ミンが口にしても、乳のほうに悪い影響はないようだし、ルティムの家でももっとたくさん買いつけたいのだ!」
そんな感じに、調理の間も俺は楽しい時間を過ごすことができた。
太陽が西に沈みかけると、まずはガズラン=ルティムがサウティの集落から帰還し、次いでアイ=ファがやってくる。最後に北の集落からモルン=ルティムと2名の客人が到着して、いよいよ本日の参加者も勢ぞろいすることになった。
「遠路はるばる、ご苦労であったな! またドムの人間を客人として招くことができて、とても嬉しく思っているぞ!」
かまど番が配膳の準備をしている間、広間に腰を落ち着けたダン=ルティムがそのように言い放った。
2名の客人とは、もちろんディック=ドムとレム=ドムの両名である。見るたびに逞しさを増していくレム=ドムは、ダン=ルティムの笑顔を見返しながら、苦笑していた。
「それはありがたいお言葉だけれど、先代家長の生誕の日に客人を呼びつけるなんて、あまり当たり前の話ではないわよね。これは、ルウの血族の習わしであるのかしら?」
「いや、習わしは関係ない! これは俺が、好きでやっていることだからな!」
「そうだろうと思ったわ。奔放な家人を持つと、あなたも大変ね?」
それは、現在の家長であるガズラン=ルティムに向けられた言葉であった。ガズラン=ルティムは落ち着いた微笑をたたえたまま、「いえ」と応じている。
「父たるダンの幸福そうな姿を見ていると、私も幸福な気持ちを得られます。その気持ちを客人の方々とも分かち合えれば幸いです」
「ああそう。本当に似ていない親子ねえ」
そんなところで、こちらの準備も整った。
総勢は、12名。本家の家人たるガズラン=ルティム、ダン=ルティム、アマ・ミン=ルティム、ゼディアス=ルティム、ラー=ルティム、モルン=ルティム、ツヴァイ=ルティム、オウラ=ルティム。客人の、俺、アイ=ファ、ディック=ドム、レム=ドム、という顔ぶれだ。1名は生後2か月の乳幼児とはいえ、広間もなかなかの賑わいであった。
「そういえば、赤き野人は留守番なのかしら?」
「うん。ティアはまだ荷車に乗れる状態ではないので、近在の氏族のみなさんに預かってもらったよ」
「そう。早く元気になってもらいたいものね。そうして元気になったあかつきには、また力比べをさせてもらいたいものだわ」
レム=ドムは、家長会議でティアと力比べを行っていたのだ。その際は手も足も出なかった様子であるが、レム=ドムの黒い瞳は先日のラウ=レイのように明るくきらめいていた。
「では、生誕の祝いを始めましょう」
かまど番が腰を落ち着けるのを待って、ガズラン=ルティムがそのように宣言した。
「我が父にして先代家長たるダンが健やかなる1年を過ごせたことを祝い、新たな1年をまた健やかに過ごせることを願います。……アマ・ミン、祝福の花飾りを」
「はい」と立ち上がったアマ・ミン=ルティムが、蔓草で編んだ花飾りをダン=ルティムの太い首にかけた。
ダン=ルティムは、いくぶんくすぐったそうな顔で笑っている。
「何やら妙に懐かしい気分だぞ。俺が家長になってからは、この習わしも脇に置いてしまっていたからな!」
ルウの本家では各人が一輪ずつの花を捧げていたが、この場ではそれがひとつの花飾りにまとめられていた。同じ血族でも、やはり家ごとに習わしが変じていくこともあるのだろう。
そして客人たちは、花ではなく果実酒を捧げる。それぞれの家長であるアイ=ファとディック=ドムがそれを献上すると、晩餐前のセレモニーはしめやかに終了した。
「それでは、祝いの晩餐を始めます」
ガズラン=ルティムが食前の文言を唱え、他の人間がそれを復唱する。そうしてガズラン=ルティムが家長として取り仕切る姿は、実に堂に入っていた。
ガズラン=ルティムが家長となったのが、ちょうど昨年の同じ日であったのだ。
血族を集めた祝宴で、ダン=ルティムがそれを宣言していた姿が、いまでも脳裏に焼きついている。いまだ闘技の力比べではダン=ルティムの力量がまさっていたものの、家長としての資質はガズラン=ルティムのほうがまさっている。ダン=ルティムはそのように述べながら、嬉し涙をにじませていたのだった。
俺には忘れられない日というものがいくつも存在したが、昨年のダン=ルティムの生誕の日も、まぎれもなくそのひとつであったのだ。
そんな感慨を噛みしめながら、汁物料理を各人に配膳していると、レム=ドムが無邪気な様子で声をあげてきた。
「本当に、祝宴みたいな料理の数ね。これを、たった3人で作りあげたの?」
「うん。時間はたっぷりあったんでね。みなさんのお口に合えば幸いです」
本日の晩餐は、主役であるダン=ルティムの気性に合わせて、シンプルさと豪快さに主眼を置いていた。
メインディッシュは言うまでもなく、あばら肉である。タウ油をベースにした甘辛い味付けの、スペアリブの照り焼きだ。その他に、ロース、ハツ、レバー、タンの焼肉を準備しており、そちらには専用のタレを用意している。
汁物は、野菜とキノコをたっぷり使ったミソ仕立てのモツ鍋で、野菜料理は、温野菜の冷しゃぶサラダをホボイのドレッシングで召し上がっていただく。あとは副菜として、ナナールとベーコンのオムレツに、マロールとマッシュルームモドキのソテー、ティンファとブナシメジモドキのタラパ煮込みなどを取りそろえていた。主食は、焼きポイタンと白いシャスカの2種である。
「すごい! あばら肉の他は、みんなアマ・ミンでも食べられる料理なのですね!」
と、口をつける前に、モルン=ルティムがそのように発言した。
「カロンの乳や乳脂や乾酪や、それにミャームーや香草などはいっさい使っていないようですし……その代わりに、アマ・ミンに相応しい食材がたくさん使われているようです」
アマ・ミン=ルティムに相応しい食材とは、ハツやレバー、ナナールやキノコ類といったものたちである。かつてリィ=スドラから教わった、赤子に乳をやる人間に適していると思われる食材たちだ。あばら肉が除外されるのも、脂のきつい肉は避けるべし、という教えに基づいていた。
「わたしでは、こんなにたくさんのキノコを使った献立は考えつきません。やっぱり、アスタはすごいですね!」
「それはまあ、故郷に似たような食材があったからね。何も驚くような話じゃないさ」
「でも、アマ・ミンのためにこのような献立を考案してくださったことを、心から嬉しく思います」
その言葉は、さきほどかまど小屋を訪れた家長夫妻からも、すでに授かっていた。あばら肉以外の料理は心置きなくお召し上がりくださいと、あらかじめアマ・ミン=ルティムに伝えておいたのだ。料理を前にしただけで、それを察することのできるモルン=ルティムも、さすがであった。
「ふむ! ゼディアスの生まれた日を思い出すな! そういえば、あの夜も今日と同じ顔ぶれが集まっていたのではないか?」
さっそくあばら肉をかじりながら、ダン=ルティムがそのように述べたてた。
「まあ、あのときは晩餐のさなかに、ディック=ドムらが訪れたのだったな! 今日は最初から喜びを分かち合うことがかなって、何よりだ!」
ディック=ドムは、低い声で「うむ」と応じていた。頭骨のかぶりものを外しているので、その魁偉なる面もあらわにされている。ごつごつとした骨格で、黒い瞳が鋭く輝き、あちこちに大きな古傷の走った、とうてい俺やアイ=ファと同い年には見えない風貌だ。しかし、黒い蓬髪に半ば隠されたその顔は、案外に彫りが深くて造作も整っているように感じられた。
「あ、よかったら、あばら肉にはこちらの調味料をおつけください」
と、俺は先日の成果たる七味チットを差し出してみせる。このために、スペアリブは照り焼きにしておいたのだ。俺の手本に従って七味チットをふりかけたダン=ルティムは、「うむ!」と瞳を輝かせていた。
「これは、美味いな! ただでさえ美味いあばら肉が、ますます美味くなったようだぞ!」
「ありがとうございます。お好みで、汁物料理にもどうぞ」
香辛料を避けているアマ・ミン=ルティムのためにも、あとがけの七味チットはありがたい存在であった。それを投じたモツ鍋を満足そうに食していたレム=ドムが、ふっと首を傾げる。
「そういえば、この汁物には臓物が使われているし、そっちの肉は心臓や肝臓よね? ルウの血族は、もう10日も前から休息の期間に入っていたのじゃなかったかしら?」
「うん。これはファの家から持ち込んだものだよ。鮮度に問題はないので、ご心配なく」
「ああ、そう。それじゃあこれは、アイ=ファの狩ったギバの臓物なのね。そうと知ったら、ますます美味しく感じられるわ」
と、レム=ドムは色っぽい横目で見つめたが、アイ=ファは仏頂面でそれを黙殺していた。
その間も、ガズラン=ルティムがディック=ドムに語りかけたり、アマ・ミン=ルティムとモルン=ルティムがひさびさの談笑を楽しんだり、ダン=ルティムが豪快な笑い声をあげたりと、実に賑やかな様相である。ツヴァイ=ルティムとオウラ=ルティムの母娘がいくぶん静かめであるが、これは因縁のあるレム=ドムたちをはばかってのことだろう。また、アイ=ファやラー=ルティムが寡黙な気性を発揮しても、それを補ってあまりある賑わいであった。
「……そういえば、行きがけにルウの家に挨拶をしてきたのだけれど、レイの家長がファの家に逗留していたそうね?」
レム=ドムは、めげずにアイ=ファへと声をかけている。ドムの家に戻って以来、ずいぶん落ち着いてきたものの、もともと彼女はアイ=ファに絶大なる情愛を傾けていたのだ。
「それは、狩人としての修練を積むためであったそうだけど、成果のほうはどうだったのかしら?」
「まずまずだ。もともとあやつは、たいそうな力を備えた狩人であったからな」
「確かにね。わたしもルウ家の収穫祭を覗き見たことはあるから、それは承知しているわ。……でも、レイの家長よりも、アイ=ファのほうが強いのでしょう? そうでなければ、アイ=ファに手ほどきを願うことなどないでしょうからね」
「…………」
「本当にすごいわねえ、アイ=ファは。わたしなんて、いまだに狩人の衣ももらえない見習いの身だっていうのに」
関心なさげであったアイ=ファが、じろりとレム=ドムをねめつける。
「ファの家では、自らの力でギバを狩るまで、狩人の衣は与えられない。北の集落でも、それは同じか?」
「たいていの氏族はそうでしょうよ。それがどうかしたの?」
「……私は13歳から見習いの身で手ほどきを受けていたが、自らの力でギバを狩ったのは2年の修練を積んでからだ。文句を言う前に、まずは2年の修練を積むがいい」
「文句なんて言っていないじゃない。ただ、アイ=ファはすごいと褒めたたえているだけよ」
「たいていの狩人は、2年も経てば一人前となる。ことさら褒めたたえる必要はない」
「そうでしょうか」と、ガズラン=ルティムがそっと言葉をさしはさんだ。
「確かに森辺の男衆は、13歳から森に入り、15歳ていどで一人前と認められます。ですが、アイ=ファが父を失ったのも、ちょうど15歳の頃ではありませんでしたか?」
アイ=ファはとてもうろんげな眼差しで、ガズラン=ルティムのほうを見やった。
「私はあまり、父のことを取り沙汰されたくないのだが……それがいったい、何だというのだ?」
「申し訳ありません。ただ、アイ=ファはかつて父の形見である狩人の衣を纏っていたという話でしたので、もしかしたら父を失った後に、初めて自分の手でギバを仕留めたのではないか、と考えたのです」
アイ=ファは冷しゃぶサラダの木皿を置くと、溜め息まじりに答えた。
「この手でギバを仕留められなければ、私はとっくに魂を返していた。ただそれだけのことだ」
「やはり、そうだったのですね。15歳という若さでありながら、たったひとりでギバを仕留めることができたというのは、称賛に価する行いであると思います」
ガズラン=ルティムは普段通りの沈着なたたずまいであったが、レム=ドムなどはいっそう昂揚してしまっていた。
「わたしもその話は、ずいぶん前にルド=ルウから聞いていたわ。こうして自分も狩人として働くようになって、その物凄さが心から実感できたのよ」
「何も褒められた話ではない。ファの家には、ギバ寄せの実を使う技が伝わっていたというだけの話だ。ギバ寄せの実を使えば、危険が増す代わりにギバを狩ることが容易になる。……ドンダ=ルウなどは、その行いを忌々しく思っていたはずだ」
「では……」と、ディック=ドムがふいに声をあげた。
「……ファの家長は、『贄狩り』を行っていたのか?」
アイ=ファは厳しい面持ちで、「うむ」と応じた。
「『贄狩り』を行わなければ、私は飢えて死んでいた」
「……では、いまも『贄狩り』を?」
それには「いや」と首を振る。
「もともと『贄狩り』は控えるようにしていたし、猟犬を家人として迎えてからは1度として行っていない。ギバ寄せの実は、罠にもちいているだけだ」
「そうか。……長きに渡って『贄狩り』を続ければ、どのように力を持つ狩人でも、いずれ遠からず魂を返すことになろう」
ディック=ドムは、重々しい声音でそのように述べたてた。
「お前のように立派な狩人が、家人の少なさからそのような運命を辿ることになっては、あまりに惜しい。……森辺に猟犬をもたらしたリリンの家のシュミラルに感謝するべきであろうな」
「ふむ! 前々から思っていたのだが、ディック=ドムはアイ=ファのことをなかなか気にかけてくれているようだな!」
ダン=ルティムが割り込むと、ディック=ドムは木の幹のように太い首を傾げた。
「強き狩人には、敬服の心情が生じる。それは当然の話ではないか?」
「いや、お前さんは妹が狩人になることを、たいそう気に病んでいたと聞いていたのでな! その原因であるアイ=ファのことを嫌っているのではないのかと、いささか心配しておったのだ!」
「それは妹のレムが浅はかなだけで、ファの家長に罪のある話ではない」
「浅はかで悪かったわね! わたしだって、いつかこの手でギバを仕留めて、自分の正しさを証明してみせるわよ!」
威勢のいい声をあげてから、レム=ドムはまたアイ=ファに流し目を送る。
「だけどやっぱり、アイ=ファはすごいわねえ……わたしも休息の期間に、ファの家に押しかけるべきだったわ。かえすがえすも、惜しいことをしたものね」
「……北の集落の休息の期間が終わったばかりであることを、心から喜ばしく思う」
「もう、意地悪なんだからあ……」
レム=ドムは、筋肉質の身体を色っぽくくねらせている。余人の目がなければ、アイ=ファにしなだれかかっていそうなところであった。
「ふむ。レム=ドムはレム=ドムで、ずいぶんアイ=ファに懐いておるのだな! やはりこうして長きの時間を過ごすと、色々なものが見えてくるものだ!」
ダン=ルティムが、また豪快な笑い声をほとばしらせる。
「分家の連中も、またドムの家に出向きたいと言っておったのだ! よければ、再び家人を預け合おうではないか!」
「……それを決めるのは、家長の役割であろう?」
「私も、父ダンに同意いたします。ただ、今度はザザとサウティで家人を預け合うべきだという話が為されているそうですね」
「うむ。ともに族長筋でありながら、ザザとサウティはあまりに縁が薄い。それを解消するべきだという話があがっているのだと聞いている。……ガズラン=ルティムは、どこでその話を耳にしたのだ?」
「私は今日、サウティの集落を訪れていたのです。ダリ=サウティの伴侶から、そのような話をうかがうことがかないました」
そう言って、ガズラン=ルティムはゆったりと微笑んだ。
「家人を預け合うという行いも、最初の試みはすべて終了しました。どの氏族からも、きわめて有意義であったという声があがっているようですので、次は別の氏族同士で預け合うのもいいでしょう。私はドンダ=ルウに、そのように進言するつもりです」
「ふむ……その進言が受け入れられた場合、ルウの血族はどの氏族と家人を預け合うのであろうな」
「それはドンダ=ルウ次第ですが、私としてはスンの家を希望しています」
広間に集まった人間の過半数が、驚いた顔をしていた。が、ディック=ドムは岩の彫像のごとき無表情である。
「なるほど……かつての族長筋と現在の族長筋が家人を預け合うというのは、有意義な試みであるのかもしれん」
「はい。なおかつ、現在のスンにはジーンとスドラの狩人たちが、数日置きに訪れているのだと聞きます。最近では、そこにハヴィラやダナも加わっているそうですし……それだけ数多くの氏族と絆を深められるならば、なおのこと有意義であるのではないかと思います」
さすがはフェルメスに、宰相のようなものと称されたガズラン=ルティムである。彼の目は、また俺よりも遥か先を見据えているようだった。
そんなガズラン=ルティムのことが、誇らしくてたまらない。自分の周囲には、なんてたくさん魅力的な人々がいるのだろうと、俺はあらためて思い知らされることになった。
「まあ、小難しい話はガズランに任せるが、モルンに関してはどうなのだろうな?」
と、何本目かのスペアリブを骨にしたダン=ルティムが、ふいにそのようなことを言い出した。
ディック=ドムはわずかに眉をひそめ、モルン=ルティムは丸みのある顔を赤らめている。
「モルンをドムの集落に預けてから、ずいぶん長きの時が過ぎたであろう? 通常の婚儀でも、ここまで時間をかけることはないはずだ。そろそろ結論を出してもいい頃合いではないだろうか?」
「……これは常ならぬ婚儀であるからこそ、より長きの時間をかけて正しき道を見極めるべきではないだろうか?」
「では、ディック=ドムにはいまだに正しき道が見つかっておらんのか? モルンは俺の伴侶に負けないぐらい、素晴らしい女衆に育ったと思うのだがなあ」
「や、やめてよ、ダン父さん!」
赤い果実のようになってしまいながら、モルン=ルティムが大きな声をあげる。
それと同時に、アイ=ファがぴくりと肩を震わせた。ダン=ルティムも、「うむ?」と首を傾げている。
ディック=ドムの様子が、一変していたのだ。
彫像のごとき無表情はそのままであるが、黒い瞳が火のように燃えている。この場の誰よりも大きなその体躯にも、不可視のオーラが炎となってたちのぼっているかのようだった。
「どうしたのだ? 俺は何か、ディック=ドムを怒らせるような言葉を口にしてしまったであろうか?」
ディック=ドムはゆるゆると首を振りながら、「俺は……」と底ごもる声を振り絞った。
「俺は、おそらく……モルン=ルティムがもともとザザの血族であったならば、自分から嫁取りを願い出ていただろう。それぐらい、モルン=ルティムは立派な女衆だと思っている」
いくぶん不安げになっていたモルン=ルティムの顔が、また赤みを増していく。ディック=ドムは凄まじい気迫をまき散らしながら、さらに言葉を重ねた。
「しかし俺は、族長筋ザザの眷族、ドムの本家の家長たる身だ。自分のみの幸福よりも、一族の幸福を先に考えなければならない。……親筋を介さずに婚儀をあげるという試みが、本当に正しき行いであるかどうか……それを見極めるために、いま少し時間をもらいたく思っている」
「ふむ。それはいっこうにかまわんのだが……」
ダン=ルティムがそのように応じかけたとき、レム=ドムがぴしゃりと兄の肩を叩いた。
「たったそれだけの言葉を口にするのに、どれだけ心を乱しているのよ。……ごめんなさいね。ディックはあまりに思い詰めると、こんな風になってしまうのよ。まあ、照れ隠しだとでも思ってもらえたら幸いだわ」
「照れ隠しか! 俺はディック=ドムに殴りかかられるのではないかと、気が気ではなかっぞ!」
そんな風に述べながら、ダン=ルティムはガハハと哄笑をあげた。
ディック=ドムは爛々と双眸を燃やしたまま、モルン=ルティムの小さくて丸っこい姿を見下ろした。
「そういうわけだ。……モルン=ルティムにも申し訳なく思っている」
「と、とんでもありません。習わしにそぐわないことを言い出してしまったのは、わたしのほうなのですから……」
ディック=ドムは、「いや」とモルン=ルティムの言葉をさえぎった。
「モルン=ルティムがそのような勇気を振り絞ったからこそ、今日という日があるのだ。俺は……モルン=ルティムが手を差しのべてくれたことを、心から嬉しく思っている」
モルン=ルティムは、愕然とした様子で目を見開いた。
その目に大きな涙が浮かび、つうっと頬を伝っていく。
「ありがとうございます……そのように言っていただけるだけで、わたしはすべてが報われたような心地です」
「まだ何も報われてはいない。……もう少しだけ、待っていてくれ」
俺は思わず、アイ=ファのほうを振り返ってしまった。
さきほどのモルン=ルティムと同じぐらい顔を赤くしたアイ=ファが、「何だ?」とにらみつけてくる。
「いや、何でもない」と答えながら、俺ははっきりと数日前の出来事を思い出していた。
俺の身体を後ろから抱きすくめてきたアイ=ファの腕の温もりや、甘い香りまでもが、まざまざと蘇ってくる。
(モルン=ルティムは、いま……俺と同じぐらい幸福な気持ちなんじゃないだろうか)
ならばやっぱり、モルン=ルティムの気持ちは報われたのだろうと思う。
だけどその先には、さらに幸福な行く末が待っているはずだ。
俺はその日が1日も早く到来することを、心から祈ることになった。