大輪の蕾④~後日談~
2019.1/27 更新分 1/1 ・2023.5/20 誤字を修正
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
その翌日である。
思いも寄らぬ騒ぎに見舞われた休業日を経て、本日からまた5日間は屋台の商売だ。本日の当番であるベイムとガズの血族、およびフォウとランの女衆とともに、俺は下ごしらえの仕事に励んでいた。
とりたてて、昨日の一件が話題にのぼることはない。フェイ=ベイムもユン=スドラもトゥール=ディンも、おそらく自分の家の家長ぐらいには報告したのであろうが、他の女衆には知れ渡っていない様子だ。また、たとえ知れ渡っていたとしても、ことが俺とアイ=ファにまつわる話であるから、俺の前では話題に出されたりはしないのかもしれない。
(とりあえず、ナハムとベイムの関係に傷がつかなかったんなら、何よりだな)
フェイ=ベイムのむっつりとした顔を盗み見しながら、俺はそのように考えていた。
そうして下ごしらえの仕事を終えたのちは、荷物を荷車に詰め込む作業に取りかかる。マルフィラ=ナハムとモラ=ナハムの両名がファの家を訪れたのは、そのタイミングであった。
「お、お、お仕事の最中に申し訳ありません。ア、アスタとフェイ=ベイムにお話があるのですが、少しだけよろしいでしょうか?」
時間にはゆとりがあったので、俺は快く了承することにした。
母屋の横手に回り込んで、余人の耳のない場所で、ナハムの両名と相対する。マルフィラ=ナハムはきょときょとと視線を泳がせており、モラ=ナハムはモアイのごとき無表情を保持していた。
「き、き、昨日は本当に申し訳ありませんでした。れ、れ、礼を失したのは兄モラですが、原因を作ったのは、わたしです。で、で、ですから、どうかお詫びの言葉を述べさせてください」
「わたしはあなたに責任があるとは考えていません。でも、あなたがそのように誠実な人柄であることを、とても嬉しく思っています」
そのように述べてから、フェイ=ベイムはじろりとモラ=ナハムをにらみつけた。
その視線にうながされる格好で、モラ=ナハムはうっそりと頭を下げる。
「……俺も、申し訳ないことをしたと思っている……マルフィラの行く末を案じるあまり、さまざまな人間の心情をないがしろにしてしまったようだ……許してもらえたら、ありがたく思う……」
「そうですか。そのように考えておられるのなら、わたしも安心です。……アスタは、いかがですか?」
「はい。実は昨晩、ラヴィッツの家長とリリ=ラヴィッツが、わざわざファの家を訪れてくれたのです。それでおたがいに心情を打ち明け合いましたので、今後はいっそう絆を深めさせてもらいたく思っています」
「そうですか。ファとラヴィッツの悪縁が解きほぐされれば、何よりですね」
そのように述べて、フェイ=ベイムは慇懃に一礼した。
「わたしも昨日は、ついつい言葉が過ぎてしまったと反省しています。もとよりベイムには関わりのない話であるのに、わたしが口をはさむ理由はありませんものね。どうかお許しください、マルフィラ=ナハムにモラ=ナハム」
「と、と、とんでもありません。あ、あの場をおさめてくださったことに、わたしも兄モラも感謝しています」
「そのように言っていただけたら、幸いです。……では、わたしは仕事に戻りますので」
と、フェイ=ベイムが身を引こうとすると、マルフィラ=ナハムがあたふたと制止の声をあげた。
「お、お、お待ちください。じ、実は、兄モラからフェイ=ベイムにお話があるそうなのです」
「わたしに? 何でしょう? これ以上、話すことなどないように思えるのですが」
フェイ=ベイムは、うろんげにモラ=ナハムを見返した。
それでもモラ=ナハムが無言であるので、マルフィラ=ナハムが肘で兄の腕をつつく。
「ほ、ほ、ほら、何かお話があったのでしょう? フェ、フェイ=ベイムもお仕事の最中なんだから、早く言わないと」
「…………」
「も、も、もうちょっとお待ちください。あ、兄は、喋ることが不得手ですので」
そうしてモラ=ナハムが語り始めたのは、たっぷり10秒ぐらいは黙りこくったのちのことであった。
「昨日は……本当に申し訳なかったと思っている。……どうか許してもらえるだろうか……?」
「ですから、そのお話はもう終わったのではないのですか? なんべんも同じ言葉を重ねる必要はないと思います」
「……俺は、フェイ=ベイムに見限られてしまっただろうか……?」
「はい?」と、フェイ=ベイムはいっそううろんげな顔になる。
「見限るとは、どういうお話でしょう? そもそもあなたとは、まだ数えるぐらいしか顔をあわせていないと思うのですが」
「では……まだ見限られてはいないと思ってもいいのだろうか……?」
フェイ=ベイムは、うんざりした様子で息をつく。
「ですから、見限る見限らないの意味がわからないと言っているのです。わたしがあなたを見限ったら、何か不都合なことでもあるのですか?」
「ある……俺は、フェイ=ベイムに嫁入りを願いたく思っていたのだ……」
フェイ=ベイムの目が、大きく見開かれる。
そしてその顔に、ゆっくりと血の気が差していった。
「あ、あ、あなたは何を仰っているのですか? そのような話を、家長も通さずに申し入れるのは……」
「家長には、まだ願い出ることのできる時期ではない……ベイムとナハムには、血の縁が存在しないためだ……」
重々しい声で、モラ=ナハムが述べたてる。
その声には、わずかに苦悩がにじんでいるように感じられた。
「いまの森辺では、親筋を介さぬ婚儀を認めるべきではないかという話があがっている……しかし、実際にその行いに踏み出した人間は、まだいない……ベイムとラヴィッツは、古きよりの習わしを重んずる家風なので……まだしばらくは、そのような行いが許されることはないように思う……」
「だ、だからといって、家長を抜きにこのような話を進めるべきではないでしょう?」
「わかっている……しかし、俺がお前を好ましく思っているということだけは、どうしても知っておいてほしかったのだ……」
モラ=ナハムの水色の瞳は、真っ直ぐにフェイ=ベイムを見つめている。
その頃には、フェイ=ベイムの顔もすっかり赤くなってしまっていた。
「あの、スドラとランの婚儀の祝宴……そこでお前の宴衣装を目にしてから、俺はすっかり心を奪われてしまった……果断で、他者におもねらないその物腰も……グリギの棒のように真っ直ぐな気性も……すべて、好ましく思っている……」
「で、ですから……!」
「だけど、俺は……お前のように素晴らしい女衆の伴侶に、相応しい男衆であるのか……それがわからない」
モラ=ナハムの声が、いっそう強い苦悩をにじませた。
「狩人としては、誰にも恥じない力を有していると自負している……しかし、中身はまだまだ未熟であるし……つい昨日も、その未熟さをさらけだしてしまった……いや、きっといまも、その未熟さゆえに、お前を困らせてしまっているのだろう……とても申し訳なく思っている……」
「そ、それはべつに……わたしだって、昨日はとてもほめられたものではない行いに及んでしまいましたし……」
「それに、俺は……すでにひとたび、婚儀をあげた身であるのだ……」
モラ=ナハムは無表情のまま、両手の拳を強く握り込んでいた。
「伴侶は2年前に、病魔で魂を返すことになった……俺のもとには、ひとりの子だけが残されている……俺は何よりも、その子を慈しんでいるつもりだが……ひとたびは、最愛の人間と婚儀をあげ、子までを授かるという幸福を得た俺が、他の人間を差し置いて、お前のように素晴らしい女衆に嫁入りを願っていいものなのか……それがわからないのだ……」
「…………」
「だけど、俺は……お前のことを、愛してしまった……自分の心を偽ることはできない……もしもラヴィッツとベイムが、親筋を介さぬ婚儀を認める日が来たら……お前に嫁入りを願いたいと考えている……」
フェイ=ベイムは、マルフィラ=ナハムさながらの勢いで目を泳がせていた。
その末に、赤いお顔をしたまま、決然とモラ=ナハムの長身を見据える。
「伴侶を失ったために、2度目の婚儀をあげる人間は、少なくありません。森辺の民は、より多くの子を生すことを大事な仕事と定めているのですから、それが当然の話です。それに……あなたは最愛の人間を嫁に迎える幸福を得ましたが、それを失う不幸をも味わっています。何も他の人間に気兼ねをする理由はないように思います」
「では……」
「だけどあなたは、それだけ立派な狩人でありながら、確かに未熟な部分があるのでしょう。わたしもそれを、強く感じます」
さきほどのお返しとばかりに、フェイ=ベイムはまくしたてた。
「ラヴィッツとベイムが親筋を介さぬ婚儀を認める日が来たら、と仰いましたね。でしたら、それぞれの家長がその行いを認めなかったら、あなたはご自分の気持ちをねじふせようというおつもりなのですか?」
「……それは……」
「それで収まるていどの気持ちであるのでしたら、いまのうちから収めてもよろしいのではないでしょうか? わたしには、そのように思えてしまいます」
「しかし……親筋の家長に逆らうのは、森辺の習わしにそぐわないはずでは……?」
「それでは、家長ならぬ人間は、何でもかんでも家長の言いつけに従わなくてはならないのですか? 家長とは、家人の言葉も聞かずに、自分だけの裁量ですべてを決めているのですか? いいえ、そうではないはずです。家長とは、家人の行く末こそを何よりも重んじており、もっとも正しき道を探してくれているのです。そうだからこそ、家人は家長を信じて、ともに歩んでいくことがかなうのです」
何だかフェイ=ベイムは、羞恥心を原動力にして熱弁をふるっているかのようだった。
しかしその内容は、実にフェイ=ベイムらしいものであっただろう。フェイ=ベイムは乙女の恥じらいに頬を染めながら、誰よりも果断に語っていた。
「ましてや、あなたは眷族の本家の長兄であるのでしょう? ならば、親筋の家長とともに頭を悩ませて、家人を正しき道に導く立場であるはずです。そんなあなたが、すべてをラヴィッツの家長にゆだねて、ただぼんやりと結果が出るのを待ち受けようというのは、柔弱であり、卑怯であると思います。あなたはわたしを伴侶に迎えることが本当に正しい行いであるのか、それを悩みに悩みぬいた上で、もっとも正しい道を探すべきなのではないですか?」
「……お前のように果断な人間には、俺など柔弱に見えてしかたないのだろう……だからこそ、俺はお前に心を奪われてしまったのだ……」
「わ、わたしの言ったことを理解しているのですか!?」
「理解した……俺はお前に心情を打ち明ける前に、もっと為すべきことがあったのだな……」
モラ=ナハムは固くまぶたを閉ざしてから、あらためてフェイ=ベイムを見つめた。
「俺はもう、自分の行く末を他者にゆだねたりはしない……自分の幸福と血族の幸福を重ねられるように、力を尽くそうと思う……俺がお前に相応しい人間であるかどうか、その目で見届けてほしい……」
「だ、だからといって、わたしが婚儀の話を了承するとは限りませんからね!」
どうやらそこまでが、フェイ=ベイムの限界であったらしい。彼女はぷいっとそっぽを向くと、その勢いのままに小走りで立ち去ってしまった。
その姿が建物の陰に入って見えなくなると、モラ=ナハムは俺のほうに一礼して、逆の方向に消えていく。徒歩で、自分の家に戻るのだろう。最愛の妹たるマルフィラ=ナハムは、その場に取り残されてしまっていた。
「いやあ、何ていうか……俺たちのほうが部外者みたいになっちゃったね」
「そ、そ、そうですね。ま、まあ、わたしは兄の付き添いで、この場に参じたようなものですので……も、もちろん、アスタやフェイ=ベイムに詫びたいという気持ちもあったのですが」
と、マルフィラ=ナハムは兄の去った方向に目を泳がせている。
「……わ、わ、わたしも昨晩まで知らなかったのですが、兄モラはずっとフェイ=ベイムに懸想していたのですね。そ、それで昨日はあのようにフェイ=ベイムの怒りを買うことになってしまい、たいそう落ち込んでいたのです」
「そうだったんだね。まあこればっかりは、どうなるかわからないけれど……でも、フェイ=ベイムに心情を打ち明けることができて、よかったんじゃないかな」
「は、は、はい。わ、わたしもそのように思います。そ、そ、そして、兄モラが幸福になれることを、森と西方神に祈りたいと思います」
そう言って、マルフィラ=ナハムは本当に祈りを捧げるかのように指先を組み合わせた。なんとなく、心の温かくなる姿である。
「昨日、リリ=ラヴィッツたちが言っていたけど、マルフィラ=ナハムとモラ=ナハムは、幼い頃からすごく仲がよかったんだってね」
「は、は、はい。わ、わたしが生まれたとき、母はずいぶん力を失っていたので、兄モラが赤子であったわたしの面倒を見てくれていたのです。わ、わ、わたしも兄モラのことを、心から大事に思っています」
「うん。それなら、モラ=ナハムがマルフィラ=ナハムのことを心配して暴走しちゃったのも、しかたないことだと思うよ」
「あ、あ、ありがとうございます。わ、わ、わたしたちの間に恋情が芽生えるなんて、そのようなことがありえるわけがありませんものね」
そのように述べながら、マルフィラ=ナハムがふいに俺を振り返ってきた。
あちこちさまよっていた視線が、俺の顔をぴたりと見据える。昨日からマルフィラ=ナハムが見せるようになった、新たなスキルである。
「ア、ア、アスタ。も、も、ものすごく失礼な話かもしれませんが……わ、わ、わたしの真情をお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「うん。何か言いたいことがあるなら、何でも遠慮なく言っておくれよ」
「あ、あ、ありがとうございます。……あ、あの、わたしはまだ、恋情とかそういうものは、まったくわかっていない未熟者なのですが……た、た、たぶん、アイ=ファの一件がなかったとしても、わたしがアスタに恋情を抱くことはなかっただろうと思うのです」
俺は「へえ」と感心することになった。
「それは興味深い話だね。よかったら、理由を聞かせてもらえるかな?」
「は、は、はい。わ、わたしはその……た、たぶん、自分より大きな男衆にしか、恋情というものを抱くことはないだろうと……そ、そ、そのように思えてしまうのです」
マルフィラ=ナハムは数センチばかりであるが、俺よりも長身であるのだ。
俺は思わず、「あはは」と笑ってしまった。
「なるほど。俺はともかく、小柄でも魅力的な男衆はたくさんいると思うんだけど、そういう相手は恋愛の対象外なのかな?」
「は、は、はい。じ、自分より小さな男衆に、赤子や幼子のような可愛らしさを抱くことはあるのですが、恋情となると、ちょっと……」
「ふーむ。俺はマルフィラ=ナハムに、赤子や幼子みたいに思われてたのかあ」
ついつい俺が軽口を叩いてしまうと、マルフィラ=ナハムはぺこぺこと頭を下げ始めてしまった。
「も、も、申し訳ありません。で、でも、アスタのことは、心から尊敬しています」
「冗談だよ。色恋とかを抜きにして、マルフィラ=ナハムと絆を深めることができたら、俺にとっては一番ありがたい話だからね」
すると、マルフィラ=ナハムは頭を下げるのをやめて、また俺のことを正面から見つめてきた。
その細長い顔に、ぎこちない笑みが浮かべられる。
「わ、わ、わたしもそのように考えていました。あ、あ、愛する人間と添い遂げるというのは、きっと何よりの幸福であるのでしょうが……そ、そ、そういうものを抜きにして、男女で友愛を育むことができたら、それも同じぐらい尊いことだと思えるのです」
マルフィラ=ナハムの水色の瞳には、とてもやわらかい光が灯されている。
それはまさしく友愛と敬愛の感情であるように思えてならなかった。
「で、で、ですからわたしは、アスタがそういうものを抜きにして、わたしなどを大事に扱ってくれることを、心から嬉しく思っていました。こ、こんな不出来な人間ですが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
「うん。こちらこそ、どうぞ末永くよろしくね」
マルフィラ=ナハムは、嬉しそうに目を細めた。
まだまだぎこちない笑顔であるが、それでも一昨日までのマルフィラ=ナハムにはなかった表情である。
マルフィラ=ナハムは、いまだ16歳。森辺では婚儀の許される年齢であるし、背丈のほうはこれほどまでに秀でていたが、人よりもやや発育の遅い部分もあったのだろう。それは、成長の余地がまだまだ残されている、ということだ。
いまのマルフィラ=ナハムの姿を見ると、ようやくつぼみをつけた花を連想してしまう。そうして花弁が開いたとき、彼女はいまよりももっと魅力的な存在になるのではないだろうか。
マルフィラ=ナハムがどのような人間に成長を遂げるのか。たった2歳しか変わらない身でありながら、俺はそれを見届けたいと強く願った。