仮面舞踏会⑥~真情~
2019.1/8 更新分 1/1
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「シン=ルウ、お疲れ様!」
ララ=ルウが、笑顔でシン=ルウに駆け寄っていく。それを笑顔で迎えようとしたシン=ルウは、ララ=ルウの手の花束に気づいて、小首を傾げた。
「その花は、どうしたのだ? ……どこかの貴族に贈られたのか?」
「そんなわけないじゃん! これは、シン=ルウのだよ!」
ララ=ルウは顔を赤くしながら、シン=ルウの胸もとに花束を押しつける。それと同時に大きな歓声と拍手が響きわたったので、ララ=ルウはぎょっとしたように首をすくめていた。
どうやら、貴婦人から花束が贈られるまでが、この余興のワンセットであったらしい。シン=ルウから少し離れた場所にたたずんでいたジェムドには、なんとオディフィアから花束が贈られていた。
まあ、オディフィアというのはこのジェノスにおいて、もっとも高貴な未婚の女性であるのだろう。ジェムドが膝を折ってその花束を受け取ると、また惜しみのない歓声と拍手が贈られた。
「なるほど。力比べを終えた人間に対する、祝福のようなものか」
事情を察したシン=ルウは、やわらかく口もとをほころばせた。
「その役をララ=ルウが担ってくれたことを、嬉しく思う。この花は、家まで持ち帰らねばならないな」
何だか今日のシン=ルウは、普段よりも笑顔が多いように感じられた。
ララ=ルウはまだちょっと頬を赤らめながらも、そんなシン=ルウの姿を嬉しそうに見つめ返している。
俺たちは、両名への拍手が一段落するのを待ってから、シン=ルウたちのもとに近づいた。ジェムドはこちらに一礼してから、自分の主人のもとへと歩み去っていく。
「なかなかに厄介な相手であったようだな。窮屈な甲冑などを纏っていたら、危うかったのではないか?」
アイ=ファがそのように呼びかけると、シン=ルウは「どうだろうか」と真剣な眼差しになった。
「あやつはあやつで、甲冑などは邪魔だと考えている人間なのかもしれん。俺はむしろ……本物の刀で戦うことこそが、もっとも危ういように思える」
「うむ? それはどういう意味であろうか?」
「木造りであろうと鋼であろうと、偽物の刀である限り、あやつに遅れを取ることはない。しかし、本物の刀であやつと戦うのは、危険だ」
シン=ルウは、右手の先を俺たちのほうに差し出してきた。白銀の篭手が装着されているものの、不自由のないように指は露出させられている。その指に、何本となくミミズ腫れの赤い筋が浮かびあがっていた。
「……あやつの剣先は、シン=ルウの身に触れていたのか。しかし、力比べの際には、手の先も守られていたはずだな?」
「うむ。分厚い手袋というものを着けさせられていたが、それでもわずかな痛みを感じるぐらいには、鋭い太刀筋だった。これが本物の刀であれば、何本かの指を落とされていたことだろう」
ララ=ルウは、ものすごく不服そうに口をとがらせた。
「それじゃあ、あいつはシン=ルウより強いっての? 絶対、そんなことはないと思うんだけど」
「うむ。それでも、俺が負けることはないだろう。……最初から、相手の生命を奪うつもりで斬りかかっていればな」
シン=ルウは、ますます鋭い面持ちになっていた。
「そういった覚悟を持っていなければ、おそらくは先に指先を傷つけられて、俺のほうが敗北してしまうだろう。……思うにあやつは、そういう剣技でこれまで主人を守ってきたのではないだろうか」
「相手の指を傷つけて、戦う力を奪う剣技、ということか?」
「指だけに限らないかもしれない。俺の足を狙う太刀筋も、背筋が寒くなるほど鋭いものだった。とにかく、相手から戦う力を奪う剣技だ」
騎士の格好をしたシン=ルウとアイ=ファが、静かな熱気をたちのぼらせながら、語っている。それを包み込むように微笑みかけたのは、同じ格好をしたガズラン=ルティムであった。
「我々と彼らが剣を交える機会などは、きっと訪れないことでしょう。かつての盗賊団の中にあのような手練が存在しなかったことを、森と西方神に感謝するべきではないでしょうか?」
「うむ。あやつらと生命をかけて剣を交えることなど、あってはならないことであるからな」
アイ=ファは我に返った様子で、居住まいを正していた。未知なる剣技を有する人間を前にして、ついつい気が昂ぶってしまったのだろうか。シン=ルウも穏やかな眼差しを取り戻して、ララ=ルウのほうを振り返った。
「このような話は、森辺でルド=ルウあたりと交わすべきだったな。俺も仕事を終えたので、腹を満たしたいと思う」
「うん、そうだね。やっぱりまずは、ギバ料理かな!」
ララ=ルウがほっとしたように答えると、森の小人のごとき小姓がまたひたひたと近づいてきた。
「よろしければ、祝福の花束をお預かりいたします。シン=ルウ様の着ていらした装束と同じ場所に保管させていただきますので、お帰りの際にお確かめください」
「うむ。よろしくお願いする」
では、と料理の卓を目指そうとすると、ガズラン=ルティムが声をあげた。
「シン=ルウも仕事を終えましたので、我々も行動を別にしましょうか。……私はやはり、アスタたちとともにあろうと思うのですが、かまいませんか?」
「あー、アスタは他の料理も食べたいだろうしね。それじゃあ、また後で合流しようよ!」
無邪気に笑うララ=ルウと、それを嬉しそうに見守るシン=ルウが、人混みの向こうに立ち去っていく。それを見送ってから、アイ=ファはガズラン=ルティムを振り返った。
「そういえば、またあのフェルメスなる者が挨拶に現れるという話であったな」
「ええ。その場では、私もご一緒させていただきたく思います」
それは、何とも心強い申し出であった。
剣技の余興を終えて、宴もたけなわといった感じである。広間の中央ではまた大勢の人間がダンスを始めており、あちこちで嬌声があがっている。さきほどライオン人間のデヴィアスが述べていた通り、前回の舞踏会よりも羽目を外すことが許されているようだった。
遠くのほうに、ダリ=サウティの長身がうかがえる。どうやら今度は、トゥラン伯爵家の一行と語らっているようだ。行き来する人々の隙間から、黄金色をしたリフレイアのドレスがちらちらときらめいている。
その近くでは、クジャクのような羽を背負ったふたりの貴婦人が、貴婦人同士でダンスを躍っている。小姓はぱたぱたと駆け回り、酒の給仕で忙しそうだ。歓声があがったので振り返ってみると、真紅の騎士と得体の知れない怪物の扮装をした人物が、ヒーローショーのような格闘のアトラクションに興じていた。
「貴族も、我々と同じ人間に過ぎない。……かつてアマ・ミンの語っていた言葉が、今日はありありと伝わってくるかのようです」
「ええ。立場は違えど、同じ人間であることに間違いはありませんからね」
俺がそのように答えたとき、アイ=ファが鋭い視線を横合いに差し向けた。
振り返ると、予想通りの人々がこちらに近づいてきている。ジェムドと合流した、フェルメスである。
が、その背後には大勢の貴婦人たちがぞろぞろと付き従っていた。その姿に、アイ=ファは警戒した面持ちで眉をひそめている。
「お待たせいたしました。ようやく僕も自由の身となりましたので、ご挨拶をさせてください」
「挨拶はかまわんが……その女衆らは、何なのだ?」
「こちらの貴婦人がたは、ご自分らの意思でアイ=ファたちのもとに参ったのですよ」
すると、貴婦人のひとりが潤んだ目つきでアイ=ファの前に進み出た。さきほどアイ=ファを包囲していた貴婦人のひとりである。
「あの……アイ=ファ様、どうかわたくしと舞踏をともにしていただけませんか?」
「なに? 城下町の舞踏など、私は知らん。……森辺の舞踏も、ろくに知らぬ身であるがな」
「いまは、自由に踊れる曲が演奏されておりますわ。ほら、森辺の方々も踊っていらっしゃるでしょう?」
その貴婦人が指し示すほうを見て、俺はそれなりに驚かされることになった。確かに森辺の同胞たちが、奇妙な姿をした貴族に混じって、ステップを踏んでいたのである。
真っ先に目をひかれたのは、トゥール=ディンとオディフィアだ。先刻の約束通り、ふたりは手を取り合ってダンスを楽しんでいた。
ふわふわとした妖精の格好をした幼き少女たちが、玉虫色の羽をゆらめかせながら、自由に踊っている。それはまるで、おとぎ話のワンシーンみたいに俺の心を温かくしてくれた。
もっとも、踊っているのがその両名のみであれば、俺もべつだん驚いたりはしなかっただろう。しかし、彼女たちのすぐそばでは、なんとエウリフィアとゲオル=ザザまでもが舞踏に興じていたのだ。
「……伴侶を持つ人間が、余所の男衆と舞踏などをともにしても許されるのか?」
アイ=ファが困惑気味の声をあげると、べつの貴婦人が「まあ」と楽しそうな声をあげた。
「もちろんですわ、アイ=ファ様。赤と青の花飾りをつけていたら、求愛の行いは許されなくなってしまいますけれど……それと舞踏は、何の関わりもありませんもの」
「あ、ほら、別の方々も踊りになられるようですよ」
目をやると、ダリ=サウティまでもが広間の中央に引っ張り出されるところであった。それを先導しているのは、なんとポルアースの伴侶であるメリムである。
そしてその後に、ポルアースとミル・フェイ=サウティが追従している。どうやらおたがいの伴侶を交換して、舞踏に取り組もうという試みであるようだ。
「舞踏とは、絆を深めるための行いですもの。わたくしも、アイ=ファ様と絆を深めさせていただきたく願っておりますの」
貴婦人は、恥じらうように口もとを隠しつつ、熱っぽい目でアイ=ファを見つめている。アイ=ファはいよいよ焦燥した面持ちで眉を下げていた。
「それを断ったら……何か礼を失してしまうのだろうか?」
「まあ……そのようなことが、あるはずはありませんわ。ただ、わたくしの宴衣装が涙で濡れるだけのことです」
アイ=ファは同じ表情のまま、俺に口を寄せてきた。
「アスタよ、私はどのように振る舞うべきだろうか?」
「いや、無理に聞き入れる必要はないと思うけどさ。だけどまあ、森辺の民は城下町の人たちと絆を深めるべきなんだろうな」
「私にだって、それぐらいのことはわかっている。しかし……」
と、アイ=ファが横目でフェルメスのほうをうかがった。
俺は「ああ」と笑ってみせる。
「この場に俺を残していくことを心配しているのか。そこまで気を回さなくても大丈夫だよ。ファの家を視察されたときだって、アイ=ファが戻るまでは護衛役なんていなかったんだしさ」
「うむ……」
「フェルメスと何を語らったかは、あとできちんと報告するよ。何も心配しないで、舞踏を楽しんでくればいい」
「見知らぬ人間との舞踏など、楽しめるものか」
「それじゃあ……」と、俺はいっそう声をひそめた。
「あとで、俺とも踊ってくれないか?」
アイ=ファは、きょとんと目を丸くした。
それから、鼻をかくふりをして余人から顔を隠しつつ、こっそりと微笑む。
「わかった。それを慰めとして、この試練を乗り越えてみせよう」
「試練って、大げさだな」
そうした内緒話を経て、アイ=ファは舞踏の申し入れを受諾することになった。
貴婦人は陶然とした面持ちになり、お連れのご友人たちは祝福の声をあげる。この調子では、次から次へと舞踏の申し入れをされてしまいそうな気配であった。
(でも、相手が貴婦人なら、ありがたいことだ)
これで相手がレイリスのように凛々しい貴公子であったなら、俺も複雑な心地でアイ=ファを見送ることになったのだろう。たおやかなる貴婦人に手を引かれて広場の中央に向かうアイ=ファの姿は、やっぱりおとぎ話のワンシーンのごときであった。
「では、僕も舞踏の申し入れをさせていただけますか?」
と、無言でこれらのやりとりを見守っていたフェルメスが、ふいにそのようなことを言いだした。
俺は思わず周囲を見回してから、フェルメスに向きなおる。
「えーと……それは、俺たちへのお言葉なのでしょうか?」
「はい。アスタやガズラン=ルティムと舞踏をともにさせていただきたく思います」
フェルメスは、とてもにこやかに微笑んでいた。
ガズラン=ルティムも、さすがにちょっと驚いた様子でフェルメスを見返している。
「女同士で許されるのなら、男同士でも許されるのやもしれませんが……貴族の間において、それは普通の行いなのでしょうか?」
「仮面舞踏会であれば、何も珍しい話ではないでしょうね。ほら、あちらの方々も殿方同士ではないですか?」
フェルメスの視線を追いかけると、ライオン人間が大柄な騎士とステップを踏んでいた。周囲では、貴婦人や貴公子が愉快そうに笑い声をあげている。
「僕は女神たるギリ=グゥの装束を纏っていますので、それほど不自然な姿にはならないことでしょう。よろしければ、森辺の方々といっそう絆を深めさせていただきたく思います」
面と向かってそのように言われては、なかなか断れるものではなかった。
それに、何か悪さを仕掛けられるようなシチュエーションでもない。そういったことを判じてから、ガズラン=ルティムは「承知しました」と応じたようだった。
「あなたの申し入れを、お受けいたします。アスタはどうされますか?」
「はい。ガズラン=ルティムがそう仰るなら、俺にも異存はありません」
「では、アスタからお願いできますか?」
フェルメスが、笑顔で手を差し伸べてくる。黒いマニキュアをした、抜けるように白い指先である。何も知らずに指先だけを見たら、絶対に女性のものであると思ってしまうことだろう。
しかし、同性であるのなら、森辺の禁忌を犯すことにはならない。ダリ=サウティやゲオル=ザザは、相手の手に触れぬようにして舞踏をともにしているのだろうか。
(アイ=ファやトゥール=ディンたちは、あんなに微笑ましく見えるのにな)
そんな風に考えながら、俺はおずおずとフェルメスの手を取った。
まるで体温など存在しないかのような指先であるが、実際に触れてみると、ごく当たり前の熱を有している。そんな当たり前のことにほっとしながら、俺はフェルメスとともに広間の中央へと進み出た。
確かに誰もが、自由に踊っているようだ。曲に合わせて身体を揺らしながら、思い思いにステップを踏んでいる。これならば、宿場町から伝わってきた自由な舞踏の応用がききそうだった。
貴婦人とともに舞踏に取り組んでいたアイ=ファが、近からぬ場所からちらりと視線を送ってくる。
俺は何とも複雑な心地でそちらに目配せをしてから、フェルメスと相対した。
「ようやく、ゆっくりと言葉を交わせますね……舞踏会が開始されてから、ずっとこの時を待ち望んでいたのです」
俺の手を取り、誰よりも優雅にステップを踏みながら、フェルメスはそのように囁いた。
カラスのようなかぶりものの陰から、不思議なヘーゼルアイが俺を見つめてくる。その面には、無邪気な子供のような微笑がたたえられていた。
「これだけたくさんの貴き方々がいる中で、そのように言っていただけるのは恐縮です。……何か俺に話でもあったのでしょうか?」
「いえ、特別には。……ただ僕は、あなたと絆を深めたいと願っているだけですよ、アスタ」
そこでまた、カミュア=ヨシュのふざけた軽口を思い出してしまった。どうせいあいしゃが云々というやつである。
絆を深めたいという言葉だけで、そのような連想をするのはおかしな話であるのだろう。ただ、このお人は――あまりに、美しすぎるのだ。
「王都において、あなたが俺のために尽力してくださったという話は、カミュアからも聞いています。……だけどどうして、顔をあわせる前から、そのように俺のことを庇いだてしてくださったのでしょうか?」
「あなたやジェノスや森辺の民に関しては、王都にたくさんの資料が取りそろえられてありました。それを目にしただけで、僕には十分であったということですよ」
くすくすと笑いながら、フェルメスがいっそう身を寄せてくる。
かぶりもののくちばしが俺のこめかみをかすめて、フェルメスの唇が俺の耳もとにまで迫ってきた。
「前任のドレッグ殿とタルオン殿も、そのあたりに抜かりはありませんでした。まあ、書記官に会談の内容を書き記させていただけなのでしょうが……その内容が、僕に進むべき道を指し示してくれたのです」
「会談の内容? あのときは、とりたてて目新しい話もされなかったように思いますが……」
「そのようなことは、決してありません。まあ、あのような一文に心を震わせたのは、きっと王都でも僕だけなのでしょうけれどね」
何か、大きな感情の昂ぶりを噛み殺しているようなフェルメスの声が、俺の耳に注ぎ込まれてくる。
「アスタの存在は、東の占星師たちに《星無き民》であると判じられていた。……書面には、そのように記されていたのですよ。あなたに、覚えはないのでしょうか?」
フェルメスの抱いている昂揚と緊張が、声と指先を伝って、俺にまで伝染してきたかのようだった。
その不可思議な感覚にしばし心を呪縛されてから、俺は「はい」と応じてみせる。
「覚えています。……何でも包み隠さず報告するように、と言われたので……俺が、そのように答えたんです」
「ええ、そうでしょう。書面にも、そのように記載されていました」
「ですが……占星というのは、そもそも東の王国の文化なのでしょう? ジェノスの人たちは、そんな言葉をまったく重んじていないように思うのですけれども……」
「王都でも、重んじる人間はいませんよ。何せカイロス陛下というのは、いにしえの術や習わしを忌避されておりますからね」
そんな言葉を交わしながら、身体だけは優雅にダンスを踊っている。
俺は何だか、精神が肉体から離れていくような浮遊感を味わわされていた。
「でも僕は、『賢者の塔』において、シムの文化も学んでいました。そこで、《星無き民》の存在を知ったのです。あなたはきっと、本物の《星無き民》であるのでしょう。シムの占星師が、そのような虚言を吐くはずはありませんし……あなたが《星無き民》であるとしたら、あなたの言葉もすべて真実であると信ずることができるのです」
「そ……それが何か、大きな意味でも持つのでしょうか?」
フェルメスの指先が、俺の指先をきゅっと握りしめてきた。
「僕にとっては、大きな意味を持つのです。《星無き民》などというものは、それこそ神話の中の存在に等しいのですから……聖域の民や森辺の民よりも、よほど稀有なる存在であるのですよ」
俺が答えられずにいると、フェルメスが少しだけ身を引いた。
額のくちばしの長さだけ離れた位置から、ヘーゼルアイが俺を見つめてくる。
そこには、たとえようもないほどの、歓喜の光が渦巻いているようだった。
「ファの家にお邪魔をした、あの一夜……メルフリード殿に、僕が浮きたっていると看破されてしまいましたが、それでも僕は必死に自制していたのです。あれほどに心が震えた夜は、これまでなかったに違いありません」
「……そうだったのですか?」
「ええ、そうなのです。あの場には、王都の貴族と、ジェノスの貴族と、森辺の民と、聖域の民と……そして、《星無き民》が同席していました。まるで神話やおとぎ話の一頁であるように、僕には思えてならなかったのです」
さまざまな色彩とさまざまな激情にくるめくその瞳を見つめていると、まるで魂を吸い込まれてしまいそうだった。
俺は大きく深呼吸をして、心をしっかりと繋ぎ止めながら、「そうなのですね」と応じてみせた。
「俺も、同じように考えていました。ただし……自分のことは、アイ=ファと同じ森辺の民なのだと認識していました。《星無き民》のことはよくわかりませんが、俺はもうれっきとした森辺の民であるつもりなのです」
「ええ、あなたは西方神の洗礼を受けたのですからね。あなたは森辺の民であり、ジェノスの民であり、王国の民であるのです。その事実を、僕は心から祝福します。僕はあなたをかけがえのない同胞だと思っていますよ、アスタ」
フェルメスは、静かに微笑んでいた。
普段のあどけない笑みとも、入場の際に見せた妖艶なる笑みとも異なる、静かな笑み――それがどのような感情の果てに生み出されたものであるのか、俺には見当をつけることもできなかった。
そこでいきなり、「おい」と肩をつかまれる。
驚いて振り返ると、そこには凛々しい姫騎士が立ちはだかっていた。
「たとえ同じ男衆でも、そのようにべったりと身を寄せるものではない。そろそろ、私と交代しろ」
アイ=ファの目が、くいいるようにフェルメスを見つめている。
俺が視線を転じると、フェルメスはもういつもの調子で優雅に微笑んでいた。
「もう曲が切り替わってしまったのですね。それでは今度は、ガズラン=ルティムと舞踏をともにしていただきましょう」
フェルメスは、最後ににこりと俺にも微笑みかけてきた。
「それでは、また……これからも末永くよろしくお願いいたします、アスタ」
俺はとっさに言葉が出てこなかったので、無言のままうなずいてみせた。
フェルメスはふわりと身をひるがえし、アイ=ファは俺の手をぎゅっと握りしめてくる。
「さあ、私と舞踏をともにする約束だぞ、アスタよ」
「う、うん。……アイ=ファ、何か怒ってるのか?」
「怒ってなどはいない。ただ、あのフェルメスという貴族が気に食わなかった理由が、ようやく判然としたまでだ」
アイ=ファは俺の両手を握りしめつつ、とても荒っぽくステップを踏んだ。幸いなことに、楽団の演奏はやや勇壮な曲調になっている。そんな中、アイ=ファは強い口調で囁いた。
「あやつは、とても物欲しそうな目でお前を見る。それが、気に食わん」
「ああ、なるほど……言いたいことは、わからないでもないよ」
まだちょっとフェルメスの毒気にあてられたまま、俺はぼんやり答えてみせた。
アイ=ファは俺の身体をぐいっと引き寄せて、間近から瞳の奥を覗き込んでくる。
「お前は何か、正気を失っているような目つきをしているぞ。あやつと、何を語らっていたのだ?」
「えーっとな……要約すると、あのお人は《星無き民》ってやつに興味津々らしい。だから、俺の存在に執着してるみたいだな」
アイ=ファは、ぎゅっと眉根を寄せた。
その唇は、愛くるしくとがらされている。
「それは、東の民どもが言う占星の話か。話を聞けば聞くほどに、そのようなものにとらわれるのは馬鹿げていると思えてくるぞ」
「ああ、俺も同感だよ。運命ってのは、自分の手で切り開くものだろうからな」
俺は気力をかき集めて、心からの笑みを浮かべてみせた。
「俺は《星無き民》じゃなくて、森辺の民だ。これからも、森辺の民として生きていく。……だからこれからもよろしくな、アイ=ファ」
アイ=ファはとがらせていた唇をきゅっと引き結ぶと、いっそう荒っぽい仕草で俺の身体を振り回した。
俺の身体はアイ=ファとともにくるくるとターンをして、目の端を極彩色の色彩が駆け巡っていく。周囲で踊っている人々の宴衣装であろう。しかし、俺の目は真っ直ぐアイ=ファに固定されていたので、どれが誰とも判別はつけられなかった。
「なるほど。相分かった。あやつは自分の仕事を、かまど番にたとえていたな。それでアスタの存在は、きわめて希少な食材であるということか」
「ああ。だからきっと、大事に大事に調理しようとしてるのかもな」
アイ=ファは「ふん!」と鼻を鳴らしてから、俺のほうに顔を寄せてきた。
アイ=ファのかぶった兜と、俺のかぶった鉄鍋帽子が、こつんとぶつかる。
そして、アイ=ファの声が温かい息とともに、俺の耳へと届けられた。
「あやつの思惑が何であろうと、絶対にお前を渡したりはせんぞ」
「うん。俺もアイ=ファのそばから離れる気なんて、毛頭ないよ」
いまさら口に出すまでもない、それが俺たちの真情であった。
いくぶん身を引いたアイ=ファが、間近から俺を見つめてくる。
強い意志と深い情愛をたたえた、宝石みたいに綺麗な瞳だ。
フェルメスの言葉や眼差しは、俺の気持ちをかき乱すような力を持っている。
だけど、俺にとって一番重要であるのは、このアイ=ファであるのだ。
その想いがある限り、俺の心に不安はなかった。