仮面舞踏会④~交流~
2019.1/6 更新分 1/1
「闘技の準備には、いくばくかの時間がかかるでしょう。それまでは、料理をお楽しみください」
そんな風に述べるレイリスの案内で、俺たちは次なる卓を目指すことになった。
トゥール=ディンたちは逆回りで卓を巡っていたらしいので、これでお別れだ。シン=ルウも姿を消したことにより、残されたメンバーはアイ=ファとララ=ルウとガズラン=ルティムのみであった。
ガズラン=ルティムは行く先々で、卓を囲む人々と言葉を交わしていた。ガズラン=ルティムにしてみれば、それこそ城下町の人々と絆を深める絶好のチャンスであったのだろう。俺などはさきほどから料理を楽しんでいるばかりであったので、ちょっと反省させられてしまった。
「えーと、そういえば、俺たちは貴き方々に挨拶回りなどをしなくていいのでしょうか?」
「挨拶回りですか? 森辺の習わしはわきまえていませんが、こういう際には族長のダリ=サウティ殿がその役を担うべきではないでしょうか。さきほどは、ジェノス侯や王都の外交官たちと言葉を交わしていたようですよ」
さすがダリ=サウティに、ぬかりはなかった。いまはどこにいるのだろうと視線を巡らせてみると、ダンスを楽しんでいる男女の向こう側で、ダレイム伯爵家の人々と語らっている様子である。
「わたしなども傍流の血筋ですので、あらたまって挨拶回りをすることはありません。行った先で出会った人々と挨拶をすれば、それで十分なのではないでしょうか」
「承知しました。では、そのように取りはからいたいと思います」
そうして次なる卓に到着すると、そこではいままさに貴族同士の挨拶が交わされているさなかであった。
トゥラン伯爵家の一行と、名も知れぬ壮年の貴族たちである。相手をしているのはもっぱらトルストで、リフレイアはひっそりとたたずんでいた。
リフレイアは、黄金色にきらめく素晴らしいドレス姿である。まだトゥラン伯爵家が権勢を誇っていた時代に入手したものなのだろうか。そういえば、かつてのトゥラン伯爵邸は黄色い屋根をしていたし、小姓たちも黄色いお仕着せを着用していたので、黄色はトゥラン伯爵家のイメージカラーなのかもしれなかった。
リフレイアの宴衣装は、サテン生地のように全身が光り輝いている。幼いながらも端麗な面立ちをしたリフレイアには、ぴったりの装束だ。
ただしリフレイアは、マスクで目もとを隠してしまっていた。
入場の際には首にぶら下げていたのに、紐の調節をして装着しなおしたのだろう。それはそれでいっこうにかまわないのだが、どことはなしに他者の接触を拒んでいるように見えなくもなかった。
(何だろう。あまり機嫌がよろしくないのかな。……サイクレウスの一件をひきずっていないといいんだけど……)
そんな風に考えながら、俺は料理よりもまずリフレイアのもとに足を向けることにした。
「おひさしぶりです、リフレイア。それに、そちらはムスルでしょうか?」
リフレイアのななめ後ろに陣取っていた甲冑姿の大男が「おお」と声をあげて、面頬をあげる。予想に違わず、それはムスルであった。
「おひさしぶりです、森辺の皆様方。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
「とんでもない。それはこちらの台詞ですよ」
ムスルは相変わらず、顔の下半分に立派な髭をたくわえていた。無駄な肉が復活してもおらず、ぎゅっと引きしまった精悍な面がまえである。そしてその落ちくぼんだ小さな目には、心からの誠心と喜びの光が灯っているように感じられた。
「おひさしぶりね、アスタ。それに、ファの家の家長と……ええと、ルティムの家の家長に、ルウの家のご息女だったかしら?」
この面々は、全員がリフレイアと祝宴をともにしているのだ。それに、アイ=ファはもちろんガズラン=ルティムも、会談の場などで顔をあわせているはずだった。
珍妙なる格好をした貴族たちと何か熱心に語らっていたトルストは、パグ犬のようにたるんだ頬を震わせながら、こちらにぺこりと一礼してくる。俺はそちらに礼を返してから、リフレイアに向きなおった。
「伯爵家の当主ともなると、他の方々への挨拶が大変なようですね。でも、リフレイアの社交が許されて、何よりです」
リフレイアは、気のない調子で「そうね」と応じるばかりであった。
マスクのせいで、心情がつかみにくい。しかし、色の淡いその瞳には、何やら打ち沈んだ光が感じられてならなかった。
「あ……そういえば、この前はトゥラン伯爵家を出自とする大罪人が、また森辺の方々に大きな迷惑をかけてしまったのよね」
と、リフレイアがふいに頭を垂れてくる。
「あの大罪人は、もう伯爵家としての身分を剥奪されてはいたけれど……わたしにとっては、父様の弟ですもの。心からのお詫びを申しあげるわ」
「いえ、どうぞお気になさらないでください。リフレイアには、何の罪もないことなのですから……そうですよね、ガズラン=ルティム?」
「ええ、もちろんです。彼の罪は、彼だけのものです」
もしかしたら、リフレイアはシルエルの一件で心を痛めていたのだろうか?
いや、それにしては、俺たちに会うまでその話は頭になかった様子である。サイクレウスを悪の道に引きずり込んだのは、シルエルである――という話に関しても、もともとサイクレウスの口からそれに近い告白を聞いていたので、そこまでショックを受けることはないように思えた。
「あの、リフレイアは少し元気がないように見えるのですが、それは俺の気のせいでしょうか?」
腹芸などはできない性分であるために、俺は率直に問うてみた。
リフレイアは、不思議そうに小首を傾げている。
「そうかしら。わたしは普通にしているつもりなのだけれど」
「そうですか。俺の気のせいならいいのですが……もしもお疲れなら、どこかで休まれたらいかがですか?」
すると、ムスルがとても心配げな面持ちでリフレイアの耳もとに口を寄せた。
「姫様。アスタたちに話を聞いていただくべきではないでしょうか? たしかアスタも、あの者とは関わりがあったはずでございましょう?」
「余計なことを言わないで、ムスル。アスタには、何の関わりもない話よ」
「それは、どういったお話でしょう? 俺でよければ、何でもうかがいますよ」
リフレイアは、取りすました顔で首を横に振った。
「本当に何でもないのよ。さ、アスタたちは料理を召し上がれ。そちらの卓に準備されているのは、ヴァルカスの手による料理であるようよ」
それは何とも魅惑的なお言葉であったが、だからといってほいほい料理に手をのばす気持ちにはなれなかった。
「でも、リフレイアの様子が気になります。俺に関わりのない話でも、よかったら聞かせていただけませんか?」
リフレイアは、かつての癇癪持ちの頃を思わせて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
するとムスルが決然とした面持ちになり、今度は俺に顔を寄せてくる。
「姫様が気に病んでおられるのは、あのシフォン=チェルなる侍女に関しての話なのです。アスタもシフォン=チェルとは、ひとかたならぬ縁が存在するはずでありましたな?」
「ムスル、およしなさい。このような話は、余人に聞かせるべきではないのよ」
「いいえ。アスタや森辺の方々は、真情を打ち明けることのできる、数少ない相手ではないですか。他者に話せば、少しは姫様の気持ちも安らぐやもしれません」
以前は獰猛な番犬のように、リフレイアの命令に諾々と従うことしかできなかったムスルが、必死な面持ちで抗弁している。それこそが、彼が人間らしい心を取り戻した証左であるように思えた。
「シフォン=チェルが、どうしたのです? もしかしたら……南方神に神を移すという一件についてですか?」
「はい。どうかこれは、他言無用にてお願いいたします」
ムスルの目が、俺の左右に向けられる。気づけばアイ=ファたち3人が、俺とムスルをはさみこむようにして寄り集まっていたのだ。
「ジェノスに住まう北の民たちは、南方神に神を移すことになるやもしれません。そうしたら、あの者たちはジャガルに移り住むことになるのでしょうが……シフォン=チェルとて、例外ではないのです」
「そう……ですよね。やっぱり、彼女だけがジェノスに留まることは許されないのでしょうか?」
「ジェノス侯や王都の外交官たちがどのように判ずるかは、わかりません。しかしその前に、姫様ご自身が、シフォン=チェルもジャガルに移り住むべきだと言い張ってしまっているのです」
「当たり前じゃない。トゥランで働く北の民の中には、シフォン=チェルの兄もいるのよ? 兄と別れてジェノスに居残ったって、シフォン=チェルが幸福になれるわけないじゃない」
リフレイアは、低くひそめた声でそのように言い捨てた。
「しかし、いまの姫にとって、シフォン=チェルはかけがえのない存在でありましょう? 南方神に神を移せば、西の民の友としてジェノスに留まることも許されるのやもしれないのですから……」
「だから、わたしなんかの我が儘でシフォン=チェルの幸福な行く末を奪うことは許されない、と言っているのよ」
マスクをつけたリフレイアの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
リフレイアは「ああもう!」と本物の癇癪を起こして、マスクをひっぺがす。
「だから、こんな話はしたくないと言っているのよ! 他の人間に見られたら、何が起きたのかと思われるじゃない!」
リフレイアは、手の甲で乱暴に目もとをぬぐった。
まるで、幼い子供のようである。
いや――事実、リフレイアはまだ幼い子供であるのだ。俺は、胸の中にひきつるような痛みを覚えた。
「……北の民に心を寄せることは、西の民にとって大きな禁忌であるのだと聞きます。それゆえに、他言無用ということなのですね?」
ガズラン=ルティムが静かに問うと、ムスルは「ええ」とうなずいた。
「しかしアスタは、かつてシフォン=チェルや兄のために骨を折ったのだと聞き及んでおります。そして、森辺の方々も、北の民にもっとまともな食事を与えるべきだと提言した立場であるはずですな?」
「なるほど」と言いながら、ガズラン=ルティムが俺に目を向けてくる。
その瞳には、とても優しい輝きがたたえられていた。
「そういえば、アスタはシフォン=チェルに兄の無事を伝えるべく、ポルアースに助力を頼んだという話でしたね。あなたは、その話を聞き及んだということですか」
「そうです。その後もアスタは、鉄具屋のディアルなる人物を通じて、シフォン=チェルの様子をうかがっていたと聞きます。アスタも姫様と同様に、シフォン=チェルに心を寄せておられたのでしょう?」
「そうですね。王国の掟は理解しているつもりですが、彼女にはとてもお世話になったので……掟を破らない範囲で、気にかけていたつもりです」
「しかし、シフォン=チェルが南の民となれば、誰の目をはばかる必要もありません。そうすれば、今後は大手を振ってシフォン=チェルとも――」
「だから、それが我が儘だというのよ」
涙声で、リフレイアがムスルの言葉をさえぎった。
「本当にシフォン=チェルの行く末を案じるなら、ジャガルで幸福になることを願うべきでしょう? どうしてそんな当たり前のことがわからないの?」
「しかし、それでは姫様が――」
「もういい」と言って、リフレイアは身を引いた。
「わたしは控えの間で休んでくるわ。戻ってきたとき、まだそんな話を続けていたら……誰が見ていようと、あなたをひっぱたいてやるからね、ムスル」
リフレイアはマスクをつけなおすと、そのままどこかに立ち去ってしまった。
ムスルは、悄然と肩を落としている。それは何だか、ジルベがときおり見せる申し訳なさそうな仕草によく似ていた。
「お気を落とさないでください、ムスル。まだ北の民たちが神を移すことになるかもわからないのですから、考える時間は残されているはずです」
「ですが、姫様ご自身があの調子では……シフォン=チェルとて、ジェノスに留まる気持ちを失ってしまうことでしょう」
俺は、さきほどから胸中にくすぶっていた疑念を吐き出すことにした。
「あの、いまのリフレイアにとって、シフォン=チェルはかけがえのない存在だと仰っていましたよね。リフレイアは、それほどまでにシフォン=チェルに心を寄せていたのですか?」
「ええ。わたしもたいそう驚かされたのですが……この1年、姫様が真情を明かせる相手はサンジュラとシフォン=チェルしかいなかったのです。それで、情を移されることになったのでしょう」
「シフォン=チェルの側は、それをどのように受け止めているのでしょう?」
「わかりません。……ですが、あの娘は以前よりも、とても人間らしい表情を見せるようになっていました。ですから、姫様のお気持ちを迷惑がっていることはないと思うのですが……」
俺は、心から納得することができた。
この1年で、俺はシフォン=チェルと数えるぐらいしか顔をあわせていない。しかしそれでも、顔をあわせるたびに、リフレイアとの絆が深まっているように感じていたのである。
「どのような結果になるのかは、俺にもわかりません。でも……ふたりがおたがいの存在を思いやっているのなら、決して悪い結果を招いたりはしないと思います。しばらくは、そっと見守ってあげてはいかがでしょうか?」
「そうだよ。けっきょくは、本人たちの気持ち次第なんだからさ」
ララ=ルウもそのように述べたてると、ムスルは「そうですね」と溜息まじりに言った。
「皆様のお言葉を聞いて、わたしだけが楽になってしまったような気がします。姫様には、申し訳ないことをしてしまいました……」
「それとて、リフレイアを思ってのことなのですから、いずれ真情は伝わることでしょう」
ガズラン=ルティムも、穏やかに微笑んでいる。森辺の民が総出でムスルを力づけるという、何とも奇妙な構図であった。
そこに、ようやく挨拶を終えたらしいトルストが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「ああ、すっかりお待たせしてしまって、申し訳ありません。……おや、リフレイア姫はいずこに?」
「姫様は、しばしお休みになられると仰っていました。きっとサンジュラが面倒を見てくれていることでしょう」
ムスルの言葉に、トルストは「そうですか」と頬を震わせる。
「最近のリフレイア姫は、少々お疲れのようでしたからな。まあ、父君が身罷られたあげく、叔父という立場であった人間があのような真似をしでかせば、元気でいられるはずもないのでしょうが……ああ、その一件では、森辺の方々にも大変な迷惑をかけてしまいましたな。心よりのお詫びを申し上げます」
さきほどと同じように、俺やガズラン=ルティムが相手をなだめることになった。やはり、かつての当主の弟であった人間がこれほどまでに罪を重ねるというのは、トゥラン伯爵家にとってきわめて不名誉なことであったのだろう。
「ともあれ、まずは宴料理をお楽しみくだされ。こちらはアスタ殿が懇意にされているという、《銀星堂》のヴァルカス殿の料理ですぞ」
やがてそのようにうながされて、俺たちはようやくヴァルカスの料理を口にすることになった。
やはりヴァルカスの料理というのは、ひと目でそれと知ることができる。マーブル模様の煮こごりがフワノの生地にのせられた料理や、麺状のシャスカがフワノの生地にはさまれた料理、フワノの生地が三つ編みの形で焼きあげられた料理など、ヴァルカスの署名がされているも同然であった。
また、串焼きにされた魚の切り身や、ヌニョンパの足、ホタテに似た貝類の蒸し焼きなども、ヴァルカスならではの料理と言えるだろう。やはりフェルメスの要望があってか、そこには魚介の料理しか存在しないようだった。
貝類の蒸し焼きもフワノの生地にのせられていたので、俺はそれからつまみあげることにした。
貝類の身はひと口サイズに切り分けられて、香草をまぶした透明のソースを掛けられている。フワノの生地はパリパリに焼かれており、お椀状の形をしているために、ソースをしみこませることなく、形を保っていた。貝類の身はたっぷりのソースにひたされており、鼻を近づけただけで芳醇なる潮の香りと香草の香りが感じられる。
口に入れると、その香りが何十倍もの破壊力を増して、口の中に広がった。
貝類の戻し水に、香草や調味料を投じて煮込んだソースであるのだろう。白ママリア酒の風味が基盤となっており、さまざまな味わいがそこに躍っている。貝類の濃厚な出汁を活用した、素晴らしい味わいであった。
「ああ、やっぱりすごいな、ヴァルカスは……アイ=ファたちも、食べてみたらどうかな? 口に合うかはわからないけど、どれも驚かされる料理だと思うよ」
真っ先に手をのばしたのは、ララ=ルウであった。三つ編みの形に焼かれたフワノ料理を口にすると、ぎょっとしたように目を丸くする。
「確かに、ものすごい味だね。……これがレイナ姉たちを躍起にさせてる料理なのかあ」
「うん。ララ=ルウは、ヴァルカスの料理を食べるのは初めてだったっけ?」
「そりゃーそうでしょ。あたしはいっつも、家で留守番だもん」
鼻のあたりに皺を寄せて、ララ=ルウがいーっと白い歯を剥く。本日の装束にはあまりにも似合わない表情であったが、これこそがララ=ルウの本領であろう。
そしてララ=ルウは、ふっと何かを思い出したような顔になり、フリルだらけの胸をそらした。
「でも、あたしはたぶん、レイナ姉たちが気にしてるもうひとりの人間の料理を食べたことがあるからねー。それを話したら、すっごく羨ましそうな顔をしてたよ?」
「え? ああ、なるほど。それは、ダイアというお人のことだね」
「名前は忘れちゃったけど、ジェノスのお城の料理人だよ。あたしやシン=ルウは、そっちの祝宴には出たことがあるからね!」
確かにジェノス城の祝宴であれば、料理長のダイアが取り仕切ることになるのだろう。その人物はヴァルカスと並べて双璧と称される料理人であるのだから、レイナ=ルウたちが羨むのも、むべなるかなといったところであった。
「それは興味深い話だよね。ララ=ルウたちがジェノス城で食べたのは、いったいどんな料理だったのかな?」
「え? どんな料理って言われると困るけど……なんかこう、不思議な味だったよ」
俺はがっくりと肩を落としつつ、トルストのほうを振り返った。
「あの、今日はジェノス城の料理長は料理を作っておられないのでしょうか?」
「はい。普段はその御仁が外交官の料理を任されているようですので、今日は呼ばれていないはずですな」
ダイアにとっては、これが貴重な休日となるのだろうか。
いささかならず残念ではあったが、目の前にはヴァルカスの料理がずらりと並べられている。これ以上のものを望むのは、あまりに贅沢な話であると自戒することにした。
ヴァルカスの料理は、どれも見事な出来栄えである。マーブル模様の煮こごりも、先日とはわずかに味の配分が変えられている。きっとフワノの生地にのせなければならないため、そちらとの調和を保つために、味を変えているのだろう。妥協を許さない、ヴァルカスらしい手練であった。
フワノの生地にはさまれたシャスカの料理は、まるで焼きそばパンのごとき様相であったが、もちろんそこにも複雑な味付けが為されている。主体となっているのは、ホボイの油と赤ママリアの酢であろう。細かく刻んだ野菜や魚の身が、シャスカと一緒に和えられて、甘く焼きあげられたフワノの生地にはさまれている。ホボイの油の香ばしさと、酢の酸味と、生地に使われた砂糖および果汁の甘みが絡み合い、まったく香草が使われていないのに、複雑なことこの上なかった。
串に刺された魚の切り身は、以前にも食させていただいた、ギレブスの炙り焼きであった。黒みがかったタレを塗りつけながらじっくりと炙り焼きにした、ヴァルカスにとっても自慢のひと品である。
タコに似たヌニョンパの足は、香草の煮汁で入念に煮込まれた料理であるらしい。表面には複雑な味がしみこんで、内側にはもちもちとした食感とヌニョンパならではの風味が残されている。噛むごとに、表面と内側の味がブレンドされて、最高の調和を作りあげていくかのようだった。
本当に、どれもこれもが素晴らしい味わいだ。
ガズラン=ルティムも、感心したように首を振っていた。
「かまど番ならぬ私では、どのような感想を口にすればいいのかもわかりません。しかし、これらの料理は……どれも、驚くべき味をしているようです」
「はい。かまど番の俺でも、なかなか上手い感想はひねり出せないぐらいですよ」
その場には他にもたくさんの人々が集まっていたので、俺たちはそちらと言葉を交わしながら、しばらくヴァルカスの料理を楽しませていただいた。
そこに、「姫様!」というムスルの声が響きわたる。
「さきほどは申し訳ありませんでした。お加減はいかがでしょうか?」
「うるさいわね。大きな声を出すと、人目を集めてしまうでしょう?」
リフレイアは、むすっとした顔で再び俺たちの前に立った。マスクは首にかけられており、目の周囲はわずかに赤くなっている。
「お願いだから、もう余計な話はしないでちょうだいね。わたしだって、騒ぎを起こしたりはしたくないのよ」
「ええ、申し訳ありません。……いつかリフレイアのほうから話したいと思われたときは、いつでも声をかけてください」
俺がそのように述べたてると、リフレイアはちょっと口をつぐんでから、「そんな機会があったらね」と小さな声でつぶやいた。
「とりあえず、あんたも料理を食べたら? おなかが空くと、くらーい気持ちになっちゃうからね」
ララ=ルウが、いつもの調子でにっと笑いかける。リフレイアは「そうね」とうなずいた。
「さっき、少しだけつまんでみたけれど、ヴァルカスはまた腕を上げたようね。これも、アスタの影響なのかしら」
「そうであったら光栄ですが、ヴァルカスは俺なんかがいなくても、腕を上げていたのだろうと思いますよ。いまでも店を開く時間より、研究に没頭する時間のほうが長いという話ですからね」
「ふん。そういうところは、昔のままね。天賦の才を持ちながら、足るということを知らないのかしら」
リフレイアはひとつ肩をすくめてから、魚の切り身の串焼きをつまみあげた。
主人が普段通りの気丈さを取り戻しているのを確認し、ムスルはほっと息をついている。
すると、また小人のような姿をした小姓が、俺たちに近づいてきた。
「まもなく、剣技の余興が開始されます。森辺の皆様方は、こちらにお集まりいただけますでしょうか?」
笑顔であったララ=ルウが、きっと表情を引き締める。そんなララ=ルウを先頭にして、俺たちは小姓の後についていった。
連れていかれたのは、奥側の壁際である。そこにはジェノス侯爵家の人々と外交官たちが待ち受けており、ダリ=サウティやゲオル=ザザたちもすでに招集されていた。
「剣技の余興を果たすのは森辺の狩人たるシン=ルウであるので、其方たちにはもっとも近い場所から見守る資格があろうと思ってな。……おや、アスタはヴァイラスの使いである精霊の装束か」
ヴァイラスそのものの扮装をしたマルスタインが、俺に笑いかけてくる。あのユーモラスな木彫りの彫像とは、似ても似つかぬ姿だ。これもまた、火神ヴァイラスのひとつの姿であるのだろう。この姿のとき、鉄鍋は頑強なる盾と変じるようだった。
「とても愛嬌のある姿だな。他の皆の装束も素晴らしい。やはり、リッティアにまかせて正解だったようだ」
ゆったりと微笑むマルスタインのかたわらから、黒ずくめのフェルメスが音もなく進み出てきた。
化粧に彩られたフェルメスの美貌が、にこりとあどけなく微笑む。
「ようやくお会いできましたね、アイ=ファにアスタ。先日は、楽しい晩餐をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ……ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません」
「いえ。族長ダリ=サウティが挨拶をしてくれましたので、何も礼は失しておりません。謝罪などは、不要です。……ああ、ガズラン=ルティムも、またお会いできて何よりです」
やはり、最初に感じた黒いオーラは消失している。あんなものを自分の意思で出し入れできるとしたら、大した役者である。
「では、剣技の余興を楽しみましょう。僕の自慢である従者のジェムドが、どこまで森辺の狩人に食い下がることができるか……とても楽しみです」
フェルメスの視線を受けて、マルスタインがうなずいた。
マルスタインの合図で、小姓は壁に掛かっていた太い綱のようなものを引っ張る。すると、壁を覆っていた緋色の緞帳が、左右にさあっと開かれた。
その向こうから現れたのは、両開きの巨大な扉だ。
いや、サイズ的には門と呼びたくなるような代物であった。
別の小姓が横から進み出て、門の鍵穴に鍵を差し込む。
そうして小姓たちがふたりがかりで門を押し開くと、涼やかな夜気が侵入してきた。
そこは広々としたバルコニーであり、たくさんの燭台が掲げられていた。
いつの間にやら日は暮れて、薄闇に閉ざされつつある世界が、燭台の火に照らされている。その10メートルほど先のところで、衣装をあらためたシン=ルウとジェムドが向かい合っていた。
「さあ、それでは皆も、こちらに参るがよい。ジェノス一の剣士にして森辺の狩人たるシン=ルウと、王都の剣士ジェムドの剣技を楽しませいただこう」
人々は、わあっと楽しげな歓声をあげた。
ララ=ルウは、くいいるようにシン=ルウの姿を見つめている。
騎士の扮装から解放されたシン=ルウとジェムドは、燭台の火に照らされながら、静かにおたがいの姿を見やっていた。