森辺の視察③~稀有なる一夜~
2019.1/2 更新分 1/1
そして、夜である。
俺たちは予定通り、ファの家で晩餐を囲んでいた。
上座にはアイ=ファ、俺、ティアが並び、下座にはフェルメス、ジェムド、メルフリードが並んでいる。土間ではブレイブとドゥルムアとジルベがギバの足をかじっており、ギルルは心地好さそうに身体を丸めていた。
アイ=ファの了承は得られたので、メルフリードとジェムドの前にも料理の皿が並べられている。フェルメスの前には、温かいギギの茶だけを置かせてもらっていた。
「……ほう、こちらの小瓶はカロンの乳で、こちらは砂糖なのですね」
きっちりと膝をそろえて座したフェルメスは、優雅に微笑みながらそう言った。
「王都においても、乳や砂糖でギギの茶を楽しむ人間は少なくありません。ジェノスにおいても、このような作法が確立されているのでしょうか?」
「ジェノスの作法は、俺にはわかりかねます。俺はただ、故郷の作法にならっているだけですので……」
「なるほど。アスタの故郷には、ギギの葉に似た食材も存在するのですね」
ギギの葉を挽いて焙煎すると、深みのあるコーヒーのような味が得られるのだ。俺はもともとコーヒーには執着のない人間であるので、本日はフェルメスのために準備させていただいた次第であった。
「……王都とジェノスの貴族を晩餐に迎えることができて、とても光栄に思っている。アスタの心づくしを楽しんでもらえれば幸いだ」
メルフリードにも負けない毅然とした表情で、アイ=ファはそう述べたてた。虚言は罪であるのだから、その言葉も嘘ではないのだろう。ただ、光栄に思うことと嬉しく感じるかどうかは別問題、といったところなのではないだろうか。
アイ=ファは朝方に宣言していた通り、ギバ狩りの仕事を半休で切り上げていたが、あまりフェルメスたちと言葉を交わす時間は取れなかった。こういう日に限って大物のギバを3頭も捕獲してしまったために、家と森を3往復することになったのだ。その後には皮剥ぎと内臓の処置に取り組み、それが終わる頃にはもう日没も目前であったのだった。
よって、アイ=ファがフェルメスらとがっちり言葉を交わすのは、これからなのである。
思わず見とれてしまいそうになるほど凛々しい面持ちをしたアイ=ファは、まるでこれから闘技の力比べでも始めそうな気迫を発散させているように見えなくもなかった。
「では、晩餐を始めようと思う」
アイ=ファは口の中で文言をつぶやき、俺もそれにならう。それらの儀式を完了させてから、俺は取り分け用の木皿に手をのばした。
「配膳しますので、少々お待ちくださいね。こちらはさきほど研究していた料理の成果ですので、よかったら味を食べ比べてみてください」
その場には、3種の新たな『ギバ・カレー』が準備されていた。焼きポイタンとの相性を考えて、本場のインドカレーに近づけようと苦心した品々である。
「……それらがすべて、新しいぎばかれーであるのか?」
アイ=ファがうろんげに問うてきたので、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「まだまだ研究の余地はあるんで、完成品とは言い難い仕上がりだけど……でも、これまでの『ギバ・カレー』に劣る味ではないと思ってるよ」
俺はそこまでインドカレーに精通しているわけではないので、半ば当て推量でこしらえた試作品なのである。アイ=ファはいつになく警戒した面持ちで、俺の手もとを覗き込んでいた。
「実に辛そうな香りを放っているようだが……加減を忘れてはおらんだろうな?」
「うん、もちろん。森辺でも宿場町でも、そこまで辛い味付けを求めるのは東のお人ぐらいだからね。これまでの『ギバ・カレー』と、辛さはほとんど変わらないはずだよ」
「……そちらなどは、かれーとも思えぬ色合いをしているな」
「ああ、これはナナールを使ってるんだよ。香草とナナールの色が混じって、こんな色になってるわけだね」
ナナールというのは、ホウレンソウのごとき食材だ。アイ=ファがじっと見やっているのは、いわゆるサグカレーというものを手本にしてこしらえた料理であった。色合いは、深い緑色である。
隣のカレーはこれまでと同じような色合いをしているが、たっぷりのタウ豆と一緒に煮込まれている。俺の故郷では、豆カレーだとかダルカレーだとか呼ばれていたはずだ。
そして最後のひと品は――バターチキンカレーを参考にしているが、もちろんギバ肉を使っているので、呼称がつけにくい。乳脂の他にタラパもどっさりと使っているので、色合いはややオレンジがかっていた。
これらの3種のカレーに共通していることは、とろみをつけるのにフワノ粉を使用していないことであった。
俺の覚束無い記憶によると、たしか本場のインドでは、小麦粉を使っていなかったように思うのだ。それでも、入念に煮込まれた3種のカレーはそれなりにとろとろとしており、粉っぽいことはまったくないはずだった。
なおかつ、ココナッツミルクを思わせる食材に関しては、ひとまず使用を取りやめている。レイナ=ルウが言っていた通り、甘い香りで辛い味というのは、城下町の人々が好みそうな料理であると感じたためだ。それはそれで別枠で研究を進めるとして、今回は森辺の晩餐および宿場町の屋台で喜ばれそうな味、というものを眼目にしていた。
「これらのカレーは、あくまで余興としてお楽しみいただくために準備いたしました。よかったら、お召しあがりください」
カレーの他には『ギバ・カツ』と生野菜のサラダ、それに『ギバ・タンとタラパのマリネ』や『ミソ仕立てのモツ鍋』など、とっておきの料理を多数準備している。いささか刺激は強いやもしれないが、3種のカレーは余興を兼ねた前菜という心づもりであった。
「そういえば、メルフリードはあまりカレーという料理の味に馴染みがなかったはずですよね。苦手なことはありませんでしたか?」
「べつだん、苦手なことはない。いつぞやの舞踏会でも、同じ味のする饅頭を口にしていたからな。……あれはかねがね、不思議な味わいだと思っていた」
無表情に言いながら、メルフリードはサグカレーの小鉢を引き寄せた。大皿にのせられていた焼きポイタンをひっつかむと、それを小鉢にひたして、恐れげもなく口に運ぶ。
「ふむ……やはり、不思議な味わいだ」
「先日の魚介を使った料理と比べて、如何ですか?」
そのように問うたのは、俺ではなくフェルメスであった。
メルフリードは灰色の目を細めつつ、「そうだな……」と考え込む。
「わたしには、そこまで微細な違いを感じ取ることはできん。ただ……」
と、メルフリードは木匙を取り上げると、小鉢からギバ肉をすくいあげた。入念に煮込まれた肩肉である。
それを咀嚼し、呑み込んでから、メルフリードは「うむ」とうなずく。
「やはりわたしは魚介というものを食べなれていないので、こちらのほうが口に合うようだ」
「ほう。メルフリード殿は、そこまでギバ肉が舌に馴染んでいらっしゃるのですか?」
「いや。ギバ肉というよりは、獣の肉が舌に馴染んでいるのであろうな。これがカロンの肉であったとしても、同じような心地であったはずだ」
そのように述べてから、メルフリードは月光のごとき眼差しを俺に差し向けてきた。
「……ギバもカロンも変わりはないなどと述べたてるのは、森辺の料理人に対して礼を失していただろうか?」
「いえいえ、とんでもありません。カロンだって立派な肉なのですから、それと同等なら、むしろ光栄な話なのではないでしょうか」
そう言って、俺は笑顔を返してみせた。
「正直なご感想をいただけて、とても嬉しく思っています。よろしければ、他のカレーもお試しください」
アイ=ファやジェムドなどは黙然と食べるばかりであるし、今日はティアもフェルメスらに気を使っているのか、言葉を発しようとしない。そんな中、3種のカレーは見る見る間に減じていった。
「えーと……アイ=ファのご感想は、いかがかな?」
「私は、この赤みがかったかれーが、もっとも口に合うように思う。……ただ、どうしてどのかれーも、野菜がこまかく刻まれてしまっているのだ?」
「ああ、それもそういうカレーの特徴なんだよ。やっぱり、物足りなく感じられちゃうかな?」
「うむ。他の料理でも野菜は使われているので不満はないが、このかれーだけでは肉しか入っていない煮汁を食べているような心地になるやもしれんな」
それは俺も、気にかかっていたポイントであった。これまでは日本式カレーの作法で大きく野菜を切り分けていたので、それが失われてしまうと、屋台のお客さんたちも物足りなく感じてしまうのではないだろうか――という危惧があったのだ。
「うん。俺の記憶にあるインドカレーっていうのはこういう仕上がりだったと思うんだけど、その再現にこだわる意味はないからな。今後は大きめの具材との相性も考えて取り組んでみるよ」
それにやっぱり、重要なのは「酪」なのではないかと思われた。
インド式のカレーを目指すのに、ヨーグルトというのは重要な要素であろう。カロン乳の酪はヨーグルトそのものではないのかもしれないが、よく似た味わいであることは確かだ。ミケルは自分で酪をこしらえたことはないという話であったので、いずれヤンやヴァルカスに相談させてもらいたいところであった。
が、いまは料理よりも客人のことを考えなければならない。
アイ=ファに愛想や愛嬌を求めるのは難しい話であったので、俺はファの家人としてのつとめを果たすべく、ずっと無言のジェムドに水を向けることにした。
「あなたは先日の会食でも、料理を口にされていないのですよね。いきなり奇抜な料理をお出ししてしまって、申し訳ありません」
ジェムドは深みのある声で「いえ」と応じるばかりであった。
それを横目に、フェルメスはくすくすと笑っている。
「ジェムドは、きわめて寡黙な気性であるのです。でも、初めてギバ料理というものを口にしたのだから、もうちょっと愛想を見せてもいいんじゃないのかな?」
フェルメスがくだけた口調になるのを、俺は初めて耳にすることになった。
ジェムドは貴公子然とした面持ちのまま、「申し訳ありません」と一礼する。が、やはりそれ以上の言葉を発しようとはしなかった。
メルフリードのように冷徹なわけではなく、ヴァルカスのように茫洋としているわけでもない。また、ラービスのように気を張っている様子でもなく、シン=ルウのようにクールな感じでもなく――彼はひたすら、寡黙にして無表情だった。まるで幼き頃から感情を出さないことを常としてきた東の民のごとく、それが自然体であるように見えてしまうのだ。
(まるでフェルメスの影みたいなお人だよな。フェルメスとは、ただの主人と従者っていう関係なんだろうか)
俺がそのように考えていると、フェルメスが微笑をはらんだ視線をティアのほうに差し向けた。
「それではジェムドが語らない分、僕が少し語らせていただきましょうか。……ティア=ハムラ=ナムカル、そちらの料理のお味は如何でしょうか?」
小鉢に残ったカレーを焼きポイタンの生地でさらいながら、ティアは「美味い」と答えていた。
「モルガの山でも食事にはたくさんの香草が使われていたから、ティアはこういう料理を好ましく思っている」
「そうですか。赤き民というのは、総勢でどれぐらいの人数なのでしょうね」
「たくさんだ。全部で何人いるかは、ティアも知らない」
アイ=ファは食事の手を止めて、フェルメスの姿をじっと見つめた。
フェルメスは微笑みをたたえたまま、なおも言葉を重ねていく。
「あなたがたは、大神アムスホルンを唯一の神として崇めているのですよね?」
「アムスホルンという名は知らない。神は唯一の存在であり、この世界そのものだ」
「それでは、四大神の存在はどのように扱われているのでしょう? 我々は、四大神の父が大神アムスホルンであると信じているのですけれども」
「知らない。ただ、聖域の外に住む人間は、大神ならぬ神を崇めているのだと聞いている」
「あなたがたは、聖域の外に住む人間たちを憎んではいないのですか?」
「憎んではいない。ただ、友や同胞になることは許されない」
「なるほど……」とフェルメスがいったん間を置くと、アイ=ファがすかさず言葉をはさんだ。
「外交官よ。あなたは何故、赤き民のことをそのように知りたがるのだ?」
「赤き民は、ジェノスからこれほど近い場所で暮らす一族です。それがどのような一族であるのか、知っておきたいと願うのはおかしいことでしょうか?」
「知って、どうしようというのだ? 我々は、友にも同胞にもなりえないのであろう?」
「はい。そしてまた、決して敵対してはならない存在である、とも考えています」
そう言って、フェルメスはやわらかく微笑んだ。
「聖域の民と王国の民が争えば、この世界は滅亡する。……僕の目にした書物には、そのように書かれていました」
「……滅亡?」
「はい。王国の民は数で遥かにまさっていますが、聖域の民はそれを補って余りある力を有している、と聞きます。王国の民と聖域の民が争うというのは、言ってみれば四大神と大神アムスホルンが争うにも等しい事態であるのでしょう」
フェルメスのヘーゼルアイが、アイ=ファからティアに向けられる。
「ですから、聖域の民が王国の民を憎んでいないという言葉を聞いて、僕はとても安心しました。……もうひとつ、確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「うむ。何でも答えよう」
「アスタを森辺の集落に送り込んだのは、赤き民ではありませんね?」
焼きポイタンをかじっていたティアは、きょとんとした面持ちでフェルメスを見返した。
「言葉の意味がわからない。アスタがもともとは赤き民だったのではないか、と言っているのか?」
「ええ、その通りです」
「おかしなことを思いつくやつだ。アスタのように背の高い人間が、モルガの山で生まれることはない。それに、赤き民として生まれた人間は、みんな顔と手足に一族の証を刻みつけられる。たとえモルガの山を捨てた人間がいたとしても、この証を消すことは誰にもできない」
それは、ティアの頬や手の甲や足の甲に刻みつけられている、渦巻き模様の刺青のことであった。
その頬を指先でかきながら、ティアはいくぶん眉尻を下げている。
「それに、アスタのようにか弱い人間がモルガで生き抜くことはできない。おそらくは狩人として山に出た最初の日に、マダラマに喰われてしまうことだろう。モルガの山では、男も女も10歳になったら狩人の仕事を果たさなくてはならないのだ」
「了解いたしました。これで僕も、心置きなく報告書をしたためることができます」
フェルメスは優雅な手つきでギギの茶をすすってから、また微笑んだ。
「言わずもがなのことを問い質してしまって、さぞかし奇異に思われたことでしょう。でも、言質というのは重要であるのです。僕があれこれ理屈をこねくり回すよりも、あなた自身にアスタは赤き民ではない、と証言していただくほうが、よほど有用な場合もあるのです」
「よくわからないが、アスタへのおかしな疑いが解けたのなら、嬉しく思う」
そう言って、ティアは俺に屈託のない笑顔を向けてきた。
俺がそちらに笑い返したところで、またフェルメスの声が響く。
「しかし……あなたがたは、おたがいに深い情愛を抱いているように見受けられます。あなたがたは、友でも同胞でもないのですよね?」
「当たり前だ。さきほども言った通り、外界の人間と友や同胞になることは大きな禁忌であるのだからな」
そのように述べてから、ティアは目を細めて微笑んだ。
「でも、ティアはアスタが好きだ。アイ=ファや、ルウの人間たちや、この近在に住む人間たちも、森辺の民はみんな好ましく思っている」
「ほう……それは禁忌に触れる行いではないのでしょうか?」
「外界の人間に情愛を抱いてはいけない、という禁忌は存在しない。それはきっと、友や同胞にならなければ情愛など育つ理由もないためなのだろう」
同じ表情のまま、ティアはそう言った。
「だけどティアは、外界の人間の中で過ごすことになった。その中で、好ましく思う気持ちを止めることはできない。だからきっと、ティアには大きな罰が下されることだろう」
「ば、罰って何の話だい? そんな話は、聞いていないよ?」
俺が慌てて口をはさむと、ティアはガーネットのようにきらめく瞳をこちらに向けてきた。
「ティアはいずれ、モルガの山に帰る。そのときに、アスタたちと離ればなれになる苦しみを負うことになる。それはきっと、想像を絶する苦しみだろう。……それが、外界の人間に情愛を抱いたティアに対する、大きな罰となるのだ」
俺は言葉を失い、アイ=ファも真剣な目つきでティアを見つめた。
ティアは屈託のない笑顔のまま、言葉を重ねていく。
「それでもティアは、アスタたちと出会えたことを嬉しく思い、大神に感謝を捧げている。あとでどれだけ苦しい思いに見舞われたとしても、いまのティアは幸福だ。きっとアスタたちと別れる日には子供のように泣いてしまうと思うが、これだけの幸福を授かった代償なのだから、何も気にしないでほしい」
「ティア……」
俺は、鼻の奥がつんと熱くなってしまった。
アイ=ファはがりがりと頭をかきながら、怒った目つきでフェルメスを振り返る。
「そのような話を聞きほじるのも、外交官としての仕事なのだろうか? ティアはいずれモルガの山に帰ると言っているし、決して虚言を吐くような者ではないぞ」
「森辺の方々が王国の法を破って、聖域の民と友誼の契を交わしていないか。それを確認するのは、れっきとした外交官の職務でありましょうね」
そのように述べてから、フェルメスはアイ=ファをなだめるように微笑んだ。
「とはいえ、僕自身の好奇心が加味されて、しつこく言葉を重ねてしまった面もあるのやもしれません。それに関しては、お詫びいたしましょう」
「好奇心? 友にも同胞にもなれぬ存在に、どうしてそのような関心を寄せねばならんのだ?」
「僕にとって、聖域の民というのは書物の中だけで見る、神話やおとぎ話の登場人物のごとき存在であったのです。その聖域の民そのものと対面する幸運を賜り、いささかならず昂揚してしまっているのでしょう」
すると、無言で食事を進めていたメルフリードが、いくぶんうろんげにフェルメスを見やった。
「王都には、聖域の民に関する書物が残されているのか? ジェノスはこれほど聖域の近くにありながら、ほとんど口伝でしか残されていないのだが」
「それはそうでしょう。ジェノスには200年ていどの歴史しかなく、当時の自由開拓民から聖域について聞き及んだだけなのでしょうから、致し方のない話です。しかし、王都には聖域に関する書物が多数存在し、それを研究する専門の学士も存在したぐらいなのですよ。……もっとも、カイロス陛下の治世となってからは、そういった研究も衰退を余儀なくされてしまいましたけれどね」
メルフリードは、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「フェルメス殿、そのような物言いは王家に叛意ありと受け取られかねないのではないだろうか?」
「叛意なんて、とんでもない。ただ僕は、そういった事象の研究が衰退していくことを物悲しく思っているだけです」
俺はいくぶん逡巡しながら、そろりと言葉をはさんでみた。
「あの……フェルメスは以前、学士という身分にあられたと聞き及びました」
「ええ。かなうことなら、僕は学士として生涯をまっとうしたいと願っておりました。しかし、第一子息であった兄が夭折してしまったため、王都の『賢者の塔』から家に呼び戻されて、官職につくことを余儀なくされたのです」
まるで何かを恥じらう乙女のように、フェルメスは口もとを手の平で隠した。
「でも僕は、いまでも学び、研究し、観測することを、無上の喜びと感じています。ですから、あちこちの領地に出向ける外交官という役目に就任することができて、まだしも幸運であったかもしれません。特にこのジェノスという地は、僕の心を大いに満たしてくれるようです」
「ふむ。あなたがときおり浮き立っているように感じられたのは、そういった理由のためであったのか」
メルフリードがそのように言いたてると、フェルメスは横目でそちらを見た。
「浮き立っているように見えましたか? お恥ずかしい限りです」
「族長たちを城下町に招いたときも、この森辺の視察を取り決めたときも、あなたはたいそう楽しげであったからな。あなたの心を満たしているのは、ジェノスではなく森辺の民なのではないのか?」
「ですが、森辺の集落もジェノスの領土であるのでしょう? ですから僕は、森辺の集落をひっくるめたジェノスの地そのものに、大きな関心をかきたてられているのだと思います」
そのように述べながら、フェルメスはアイ=ファのほうに視線を転じた。
「森辺の民に関しては、王都においてもまったく全容がつかみきれていません。600年の昔から研究されている聖域の民よりも、80年前にふっと現れた森辺の民のほうが、謎めく存在であるように思えるほどであるのです。ですから僕は、あなたがたに関心を持たずにはいられないのでしょう」
「……我々はべつだん、何も隠したりはしていない。ただ、自分たちでもわからないことが多いだけだ」
「森辺には、文字の読み書きが伝わっていなかったそうですからね。過去の出来事が追憶の彼方に追いやられてしまったというのは、実に惜しい話です」
そう言って、フェルメスは何度目かの微笑をこぼした。
「ともあれ、あなたがたのことを理解したいという思いに嘘はありません。アスタが大きな悦楽を感じながら料理の研鑽に励んでいるように、僕も外交官としての職務に励みたいと願っています」
「では、我々は未知なる食材のようなものなのだな」
仏頂面で、アイ=ファは肩をすくめていた。
「何でもかまわぬが、あなたにつられて食事の手が止まってしまっていた。熱が逃げては、アスタの料理が台無しになってしまう」
「ああ、これは申し訳ありませんでした。僕はひとりで喋っていますので、みなさんはどうぞ晩餐をお続けください」
「わたしはべつだん、手を止めてはいなかったがな」
空になった木皿を敷物に戻しながら、メルフリードが俺を振り返る。
「このミソの煮汁も、美味だと思う。これに使われているのも、ギバの肉なのだろうか?」
「あ、はい。そちらは、臓物料理です。ルウ家が屋台で売りに出している、『ミソ仕立てのモツ鍋』という料理ですね」
俺は何となくほっとした気持ちで、そのように答えてみせた。
「なるほど、臓物か……」と、メルフリードはつぶやいている。
「それに、こちらがぎばかつという料理であったのだな。ダリ=サウティから話を聞いて以来、ずっと気にかかっていた料理であったのだ」
「ダリ=サウティと、そのような話をされていたのですか?」
「うむ。ダリ=サウティは頑なに、森辺で口にするぎばかつのほうが美味だと言い張っていたからな」
そういえば、城下町の方々には『ギバ肉のミラノ風カツレツ』をお出ししたことがあったのだ。そちらも乾酪を使った豪勢な仕上がりではあったが、ギバのラードではなくレテンの油と乳脂を使用していたために、森辺の民からの評価はいまひとつであったのだった。
「これでようやく、ダリ=サウティの心情を理解することができた。確かにこの料理は、きわめて美味だと思う。……料理の善し悪しなどわきまえていないわたしがそのように述べても、詮無きことなのだろうがな」
冷徹なる無表情で言いながら、メルフリードはその『ギバ・カツ』をひと口かじった。
その姿に、俺はまた感慨深くなってしまう。
「おほめにあずかり、光栄です。今日はメルフリードを晩餐に招くことができて、とても嬉しく思います」
「嬉しく思う?」
「はい。出会った当初には、こんな行く末なんて想像しようがありませんでしたからね」
初めて出会ったとき、メルフリードは包帯で顔を隠して、偽名を名乗っていたのだ。なおかつ、スン家の大罪人をあぶり出すために、虚言を弄してすべての森辺の民をあざむいてみせたのだった。
それから1年以上の時が過ぎ、メルフリードがこうしてファの家でギバ料理を食している。これで、感慨深くならないわけがなかった。
「……ジェノス侯爵家と森辺の民を結び合わせたのは、あのカミュア=ヨシュという御方なのですよね」
するりと、フェルメスが会話に入ってくる。
「あの御方も、実に興味深いお人柄であられるようです。ジェノス侯は、たしか……3年前の戴冠式に参席するため、王都に出立する際、《守護人》のカミュア=ヨシュに案内役を依頼されたのでしたね」
「うむ。わたしはそのように聞いている」
「では、前王が40歳にもならないうちに病魔で玉座を退くことがなければ、ジェノス侯とカミュア=ヨシュの邂逅も果たされなかったかもしれない、ということですか。それを思うと、運命の妙を感じてしまいます」
俺は思わず、焼きポイタンを咽喉に詰まらせそうになってしまった。
「あ、あの、それでは現在のセルヴァの国王陛下というのは、そのようにお若い身であられるのですか?」
「カイロス陛下は、御年20歳となられますね。戴冠された際は、わずか17歳であられたのです」
それは、なかなかに物凄い話であった。
17歳といえば、俺がアイ=ファと出会ったのと同じ年齢だ。そのような若さで一国の王をつとめあげなければならないなんて、いったいどれほどの重圧であるのだろう。
「そうしてジェノス侯とカミュア=ヨシュの邂逅が果たされなければ、メルフリード殿とカミュア=ヨシュが出会うこともなく、ジェノス侯爵家と森辺の民が現在のような関係を築くこともかなわなかったかもしれません。……そしてきっと、僕がこうして森辺の民に出会うこともかなわなかったのでしょう」
俺の驚きも余所に、フェルメスはそのように言葉を継いだ。
「これこそ、西方神のはからいというものです。僕はあなたがたに出会えたことを心から嬉しく思っていますよ、アイ=ファにアスタ」
アイ=ファは仏頂面で「いたみいる」と応じていた。
ティアは素知らぬ顔で食事を続けており、メルフリードやジェムドは無表情だ。
決して打ち解けた雰囲気とはいえない。
ただ、そこには不思議な空気が流れていた。
たぶんこれも、俺にとっては忘れられぬ夜となるのだろう。
王都の貴族と、ジェノスの貴族と、森辺の民と、聖域の民が、同じ場所で晩餐を囲んでいる。そのうちのひとりは茶をすすっているだけだとしても、それはやっぱり筆舌に尽くし難いほどの、稀有なる一夜であるはずだった。