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異世界料理道  作者: EDA
第四十章 運命の使者
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森辺の視察②~ファの家~

2019.1/1 更新分 1/1

・リアルタイムで読まれている方々は、新年おめでとうございます。本年もおつきあいいただけたら幸いであります。

 商売を終えた俺たちは、ルウの集落へと帰還した。

 すると、そこには朝方と同じように、またしても護衛の兵士たちが居並んでいた。


「ああ、アスタ。僕もついさきほど、ルウの集落に戻ってきたところなのですよ」


 これまた既視感を想起させるフェルメスの言葉に出迎えられる。その左右には、やはりメルフリードとジェムドが忠実なる騎士のように立ちはだかっていた。


「どうもお疲れ様でした。予定通り、ルウの眷族の家もすべて視察されたのですか?」


「はい。中天にならぬうちにルティムとリリンを回り、その後にレイ、ミン、マァム、ムファの家を拝見いたしました」


 ルティムとリリンを優先したのは、やはりガズラン=ルティムとシュミラルの存在ゆえなのだろう。俺がそのように考えていると、フェルメスはふわりと微笑んだ。


「シュミラルという御方は、とても興味深いお人柄でした。精神構造は、ごく一般的な草原の民であるように思いましたが……それがシムからセルヴァに神を移すというのは、非常に驚くべきことです」


「はい。シュミラルは、いまも昔も俺にとっては大事な友人です」


「ええ。異国を出自にしているということで、アスタにとっても非常に心強い存在なのでしょうね。彼のほうも、またアスタが王都の人間に難癖をつけられるのではないかと、ひどく心配している様子でした」


 あくまでも穏やかに、かつ優雅に、フェルメスはそのように述べたてた。


「では、ファの家にお邪魔いたしましょう。我々が後に続きますので、先導をお願いいたします」


「承知しました。……そちらのほうも大丈夫ですか?」


 後半の言葉は、シーラ=ルウに向けたものである。本日は、俺の個人的な修練の日であったので、希望者は同行する手はずになっていたのだ。

 余計な荷物を荷台から下ろしていたシーラ=ルウはこちらを振り返り、「はい」とうなずく。


「今日は、わたしとレイナ=ルウの両方がご一緒させてもらいたく思います。あとはリミ=ルウも同行し、マイムは家に残るそうです」


 本来、レイナ=ルウとシーラ=ルウは下ごしらえの仕事があるために、どちらか片方だけが参加していた。なおかつ、リミ=ルウとマイムは不定期参加であったが、マイムが本日欠席するのは、やはりフェルメスの目をはばかってのことなのだろう。


(普段通りに振る舞えって言っても、なかなかそうはいかないよな)


 俺としては、そろそろミケルに教えを乞おうかと考えていた頃合いであるのだ。しかし、フェルメスが視察することになったので、ファの家に戻らざるを得なくなったのである。いらぬ気づかいと言われればそれまでであるのだが、こちらとしてもなるべく波風は立てたくないというのが偽らざる本心であった。


「それでは、出発しましょう。2台目の荷車は途中で別の家に向かいますので、お気をつけください」


 そのように言い置いて、俺はファの家に向かうことにした。

 途中で離脱するのは、勉強会に参加しない人々を乗せた荷車だ。本日はラヴィッツとベイムが当番の日であったので、マルフィラ=ナハムを除く3名と、あとはトゥール=ディンの相方であるリッドの女衆がそれに当たる。

 が、こちらでもいささかの変更があった。普段は参加しないフェイ=ベイムが参加を申し出てきたのである。


「家長から、今日はアスタの修練を見届けてくるように申しつけられました。どうぞよろしくお願いいたします」


 それもやはり、フェルメスの存在ゆえであるのだろう。それぐらい、王都の人間に視察されるというのは、森辺の民にとってひとかたならぬ出来事であるのだ。


 俺とリミ=ルウが手綱を握る荷車は道を北に進み、2台目の荷車はダゴラの家に立ち寄るために離脱する。その後ろからは、30と余名を乗せた2頭引きのトトス車が4台、追従してくる。これほどの数の荷車が森辺の道を駆けるのは、やはりそうそうないことであった。


(そういえば、ファの家に貴族がやってくるのは初めてのはずだよな)


 というか、貴族が森辺の集落にやってきたこと自体、数えるほどしかなく、それらはすべて族長筋の家であったはずだ。フェルメスの存在がなくとも、俺としては身が引き締まる思いであった。


 そんな思いを胸に、ファの家に到着すると、ちょうど下ごしらえの仕事を受け持ってくれていた女衆らが帰り支度をしているところであった。俺の個人的な修練の日は、早めに仕事を片付けてくれるのが通例になっていたのである。


「おや、アスタ、早かったね。せっかくだから、貴族様にも挨拶させてもらおうかねえ」


 荷車に乗り込もうとしていたフォウの女衆が、笑顔でそのように述べてくる。フェルメスについては、きっとバードゥ=フォウからさんざん話を聞かされていることだろう。その瞳には、いくぶんの警戒心と、それを上回る好奇心の光がきらめいているように思えた。


 その間に、城下町のトトス車は家の前の空き地に隊列を成している。まずは物々しい格好をした衛兵たちが姿を現し、最後にフェルメスやメルフリードらが地に降り立った。


 とたんに、女衆らは嘆声をこぼす。

 想像を上回る美貌を、そこに見出したのだろう。

 フェルメスの腰まで垂らした亜麻色の髪が、陽光をあびてきらめいている。ただ何気なく立っているだけで、彼は絵画や彫像のように美しかった。


「おや、ファの家にはふたりの家人しかいないと聞いていましたが……そちらは、アスタの仕事を手伝っておられる方々でしょうか?」


「はい。商売で使う料理の下ごしらえをお頼みしています。本日集まってくれたのは、フォウとランとラッツとミームの方々ですね」


 一同を代表して、もっとも年配であるフォウの女衆が一礼する。

 フェルメスは、ゆったりと礼を返していた。


「僕は王都から外交官としておもむいてきたフェルメスで、こちらは従者のジェムドです。メルフリード殿は、こちらの方々とも懇意にされているのでしょうか?」


「いや。わたしが立ち寄ったことのあるのは、ルウ、サウティ、フェイ、タムルといった氏族の家だけだ」


 フェイとタムルは、サウティの眷族でももっとも南寄りに家をかまえる氏族である。森辺に新しい道を切り開く際、立ち寄る機会があったのだろう。

 メルフリードとて、なかなか人目をひく風貌をしているはずであるのだが、やはりフェルメスと並んでしまうと、そちらに視線を奪われてしまうようだ。しかし、フォウの女衆は我に返った様子で、メルフリードにも一礼していた。


「あなたが、メルフリードという御方なんですねえ。いつも家長から、お話はうかがっておりますよ」


「うむ。バードゥ=フォウの誠実な人柄は、族長たちの大きな力になっていることだろう」


 そうして短くも印象的な邂逅を果たしたのち、女衆らは荷車で帰還していった。

 残されたのは、俺の勉強会に参加するトゥール=ディン、ユン=スドラ、フェイ=ベイム、マルフィラ=ナハム。そして、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、リミ=ルウの、合計7名だ。


「では、刀をお預けしましょう。アスタにお預けすればよろしいのでしょうか?」


「あ、はい。お預かりいたします」


 2本の長剣は、やはりメルフリードのものであった。それからジェムドからも1本を受け取ると、なかなかの重量である。森辺の荷運びで鍛えられていなければ、その重さにめげていそうなところであった。


「では、こちらを母屋に保管させていただいてから、かまど小屋にご案内しようかと思いますが……赤き民については、どうしますか?」


「そうですね。挨拶ぐらいは、済ませておきましょうか」


 いよいよフェルメスとティアの対面だ。

 俺が母屋に足を向けると、気づかい屋のトゥール=ディンがすかさず戸板に先回りしてくれた。これだけの荷物を抱えていては、戸板を開けることさえ難しいのだ。


「ありがとう。開けてもらえるかな?」


 きちんと俺の了承を得てから、トゥール=ディンは「はい」と戸板を引き開けた。

 ティアの枕もとで草籠を編んでいたサリス・ラン=フォウが、はっとした様子でこちらを振り返る。土間で身を伏せていたジルベは、「ばうっ」と嬉しそうな声をあげた。俺のそばに見知らぬ人間の匂いを多数感じて、いくぶん困惑していたのかもしれない。


「ただいま戻りました。王都の外交官フェルメスが、ティアに挨拶をされるそうです」


「はい、承知いたしました。……アイム、こちらにいらっしゃい」


 アイム=フォウは俺ににこりと笑いかけてから、とてとてと母親のほうに向かっていった。

 サリス・ラン=フォウはティアに手を貸して、寝具の上で身を起こさせる。ティアもまた、普段通りの屈託のない笑みを俺に向けてきた。


「アスタが無事に戻ってきたことを、嬉しく思う。……昨日の夜に言っていた通り、おうとのがいこうかんという者がやってきたのだな?」


「うん。王国と聖域の関係性については俺たち以上にわきまえておられるはずだから、何も心配はいらないよ」


「ティアは、何も心配していない。森辺の外で暮らす人間を見るのは、初めてではないしな」


 当然のこと、ティアの中に貴族や王都という概念は存在しなかった。それに、セルヴァとジャガルの区別もわからないので、ティアにしてみればフェルメスもバランのおやっさんたちと変わらない存在であるのだろう。


 もちろんそのあたりのことは、昨日までの間に可能な限り、説明しつくしている。ジェノスの貴族というのは森辺の民の君主筋であり、王都の貴族というのはさらにその上に立つ存在なのだ、という具合である。

 俺はひとまず3本の長剣を広間の奥に置いてから、あらためてフェルメスたちを呼びに向かった。


「お待たせしました。どうぞお入りください」


 兵士たちは遠巻きにファの家を見守っており、フェルメスとメルフリードとジェムドだけが、歩を進めてくる。

 最初にジェムドが玄関をくぐり、静かだが光の強い目で室内を見回してから、最後にジルベの姿を見下ろした。


「俺がそばにいれば大丈夫です。……というか、護衛犬のことはご存知ですよね?」


 ジェムドは、「ええ」とうなずいた。

 この人物の声を聞いたのは初めてであるが、なかなか深みのある美声だ。主従そろって、色々なものに恵まれているらしい。


 俺は土間の隅っこでジルベの背中に手を当てたまま、フェルメスの入室を待ちかまえた。

 表に大勢の人間がいるためか、ジルベはいささか落ち着かない様子である。これは敵ではないのだな、と何度も確認するように俺の顔を見上げていた。


 そうしてようやく、フェルメスの入室だ。

 ふわりと土間に立ったフェルメスは、広間の真ん中に陣取ったティアに、優雅な笑みを差し向けた。


「僕は、フェルメスと申します。あなたが聖域の民、ティア=ハムラ=ナムカルですね?」


「うむ。ナムカルの族長たるハムラの子、ティアだ」


 ティアの澄みわたった赤褐色の瞳と、フェルメスの不可思議なヘーゼルアイが、数メートルの距離を置いて、ゆるりとからみあった。


「王国の民と聖域の民は、友にも同胞にもなれぬ身です。あなたは聖域から足を踏み出しましたが、故郷を捨てて王国の民となる心づもりはないと聞き及んでいます。そのお言葉に、間違いはありませんか?」


「うむ。ティアはアスタを傷つけた罪にも許しをもらうことができたので、この傷が癒えたのちにはモルガの山に帰りたいと願っている」


「そうですか。それを許すかどうかを決めるのは、あなたの同胞たちですね。我々には、関わりのない話です」


「うむ。……お前は、ティアが魂を返すべきだと願っているのか?」


 ティアがいきなり、どきりとするようなことを言った。

 しかしフェルメスは、優雅に微笑んだままである。


「この森辺の集落は、ジェノスの領地です。ジェノス侯があなたを生かすと決めたのなら、僕が口をさしはさむ理由もありません。あなたが王国の法を脅かさない限り、静観させていただきましょう」


「そうか。聖域の外に足を踏み出したティアの罪を許してもらえるなら、ありがたく思う」


 ティアは何の気負いもなく、ぺこりと頭を下げた。

 フェルメスはうなずき、かたわらのメルフリードを振り返る。


「メルフリード殿も、ご挨拶をされますか?」


「いや。ジェノスにおいて、モルガの山を下りた三獣は、ただの獣と扱うべしと定められている。野の獣と挨拶をする必要は感じない」


 メルフリードは、感情の読めない灰色の瞳で、じっとティアを見つめていた。

 ティアもまた、無言でメルフリードを見つめ返している。


「では、この場はこれぐらいにしておきましょう。ティア=ハムラ=ナムカル、またのちほど、いくばくかお話を聞せてください」


「うむ。お前たちの掟がそれを許すのなら、ティアはかまわない」


 フェルメスは最後にまた一礼してから、きびすを返そうとした。

 その途中で俺とジルベの姿を見やり、「ああ」と目を細める。


「それが、ドレッグ殿の受け渡したという護衛犬ですか。なるほど、実に立派な獅子犬ですね」


「ええ。いまではファの家の大事な家人です」

 

 フェルメスはうなずき、屋外へと姿を消した。メルフリードとジェムドがそれに続くのを見届けてから、俺も腰を上げる。


「それじゃあ、俺も仕事に取りかかります。サリス・ラン=フォウ、もうしばらくお願いしますね」


「ええ、おまかせください」


 サリス・ラン=フォウはほっと息をつきつつ、ティアの身体を寝具に横たえさせた。

 ティアは何事もなかったかのように、だらりと寝そべる。アイム=フォウはにこにこと笑いながら、その赤褐色の髪に小さな指をからめていた。


「ジルベも今日は、こっちにいるといい。俺の心配はいらないから、アイム=フォウと遊んであげな」


 それをボディランゲージでも伝えるべく、俺はジルベの頭を撫でながら、土間の足もとを指し示してみせた。賢いジルベは「ばうっ」と返事をしてから、名残惜しそうに俺の手をひとなめする。

 そうして玄関を出て戸板を閉めると、フェルメスがさっそく声をかけてきた。


「聖域の民と実際に顔をあわせた人間など、この王国でも数えるほどしか存在しないことでしょう。僕は何だか、おとぎ話の中に足を踏み入れたような心地です」


「そうですか。……ティアの罪を許していただいて、とてもありがたく思っています」


「許すも許さないもありません。メルフリード殿の仰る通り、聖域を出た民は野の獣にも等しい存在であるのですから、ことさら罰する必要などないでしょう」


 そう言って、フェルメスは可憐な乙女のように微笑んだ。


「そして、傷ついた小鳥を手中にすれば、介抱したくなるのが人情というものです。勇敢で知られる森辺の民であれば、相手が獅子や豹であっても、同じような心情に至るのではないでしょうか。……その獅子や豹が恩義を忘れて襲いかかってきても、自らの手で処断することができるのでしょうしね」


「はい。そしてティアは、森辺の民やジェノス侯爵にきちんと恩義を感じてくれています」


「ならば、あとはモルガの赤き民たちが、彼女の帰還を受け入れるかどうかですね。……赤き民たちが寛大であることを祈るとしましょう」


 そうしてフェルメスは、俺を導くように手を差しのべた。


「それでは、アスタは自分の仕事をお果たしください。家長アイ=ファが戻るまで、僕はのんびり視察させていただきます」


「はい」と応じつつ、俺はトゥール=ディンらとともにかまど小屋へと足を向けた。

 衛兵たちは、母屋やかまど小屋から大きく距離を取りつつ、円を描くように散開している。《颶風党》と王都の人々の来訪が重なっていたら、いったいどのような騒ぎになっていたのだろうと、俺はあらぬ想念をかきたてられてしまった。


「こちらがかまど小屋となります。煤や脂でお身体を汚してしまわないようにお気をつけください」


「お気遣い、ありがとうございます。僕たちにかまわず、普段通りにお振る舞いください」


 フェルメスはそのように述べてくれたが、本日は俺の個人的な修練の日であるのだ。これには定型が存在しないので、何を為すかは俺の思惑ひとつであった。


「さて、それじゃあ今日は……この前の続きみたいになっちゃうけど、カレーの見直しでもしてみようかな」


「かれーですか。アスタはやはり、ぎばかれーもまだ完成はされていないとお考えなのでしょうか?」


 そのように問うてきたのは、レイナ=ルウであった。俺の個人的な修練の場であっても、思いついたことはどんどん発言してほしいと言い置いてあるのだ。


「うん。何せ、シャスカはしばらく手に入らないことが確定してたからさ。シャスカとカレーの相性を突きつめることは後回しにしちゃってたんだ」


 そう言って、俺はレイナ=ルウに笑いかけてみせた。


「これを機会に、シャスカ向けのカレーと焼きポイタン向けのカレーをきっちり分けて、それぞれの完成度を高めようかと考えているんだよ。どうもヴァルカスも、カレーには並々ならぬ関心を寄せているみたいだからさ」


「それはそうでしょう。香草を重んずるヴァルカスにとって、かれーという料理はとうてい見過ごせない存在なのだと思います」


「そうだね。それじゃあまずは、焼きポイタン向けのカレーから取りかかろうかな」


 何せこの場にはシャスカがないのだから、そちらはやっぱり後回しにせざるを得ない。シムから新たなシャスカが届く日を、俺は一日千秋の思いで待ちかまえていた。


「アスタは以前、《玄翁亭》で作られているかれーのほうが、焼きポイタンには合っているかもしれないと仰っていましたね。あのように、辛みの強い味を目指そうというおつもりなのですか?」


 と、今度はユン=スドラが声をあげてくる。そちらに向かって、俺は「いや」と首を振ってみせた。


「それはあくまで、俺の作っていたカレーとの比較なんだよね。ネイルはチットの実やイラの葉で辛みを強くしていたけれど、俺が求める風味は別の香草や食材からもたらされるんだろうと考えているよ」


 俺はインドカレーについてそれほどの造詣を持ち合わせていたわけではないが、それでもトウガラシ系の香辛料で辛みを足すばかりが手ではなかろう、と考えている。


「たとえば……俺の故郷では、こいつをカレーに使ったりもしていたはずなんだよね」


 俺が作業台の上にのせられていた瓶を指し示すと、あちらこちらから驚きの声があがった。


「それは、この前の焼きポイタンに入れた、甘い香りのする汁ですよね?」


「うん。こいつを使うのは、けっこう主流だったはずだよ」


 それは、ココナッツミルクのごとき食材であった。初めてヴァルカスと出会った日に城下町の食料庫で発見した食材であるのだが、つい先日までいっさい使う機会のなかった存在である。


「俺も初めてそのカレーを口にしたときには、甘い香りがするのにこんなに辛いなんて、不思議な料理だなあと思ったものだけど……みんなは、どう思う?」


「そうですね。あくまで想像することしかできませんが……城下町で喜ばれそうな料理なのではないかと思います」


「わたしも、そう思います」


 そのように答えたのはレイナ=ルウとシーラ=ルウで、残りのメンバーは想像することさえ難しい、といった面持ちであった。


「まあ、それはあくまで一例だけどね。とりあえず、香草の分量の見直しから始めようかな」


「はい。お手伝いいたします」


 個人的な修練でも、これだけ大勢の人々に手伝ってもらえるのは、ありがたい話である。こういった手馴れた作業においては、普段の勉強会と変わるところはなかった。

 そうして俺たちがいっせいに香草をすり潰す作業に取りかかると、壁際のほうから「ふむ」という声が聞こえてきた。


「あの料理には、それほどさまざまな香草が使われていたのですね。あれほど不可思議な味であったのも、納得です」


 発言したのは、もちろんフェルメスである。すり鉢をゴリゴリやりながら、俺は小さく頭を下げてみせる。


「この地の魚介の扱いには手馴れていないので、拙いところもあったかと思います。あのときは、過分なお言葉をありがとうございました」


「とんでもない。他者と絆を深めるために甘言を弄するというのは、僕の流儀ではありません。あなたがセルヴァでも有数の料理人であろうと評したのは、僕の本心です」


 にこりと微笑むその顔は、少女のようにあどけない。いまさらながら、貴族の人々に見守られつつ調理に励むというのは、なかなか奇妙な体験であった。

 トゥール=ディンなどはさきほどから緊張しきった面持ちであるし、フェイ=ベイムはちらちらとフェルメスの様子をうかがっている。平常とまったく変わらないのは、にこにこと楽しげなリミ=ルウと、普段からおどおどとしているマルフィラ=ナハムぐらいかもしれなかった。


「……メルフリードにも、あの日の料理は楽しんでいただけましたか?」


 少しでも場を和ませることはできないものかと、俺はそのように声をかけてみた。

 闘神の彫像のごとき不動の姿勢であったメルフリードは、「うむ」と低く応じる。


「しかし、わたしとしては……ギバ料理を口にできないことを、いささか物足りなくも感じてしまった。森辺の料理といえば、やはりギバ料理であろうからな」


「僕の偏食につきあわせてしまって、申し訳なく思っています。よろしければ、この機会にギバ料理を所望してみては如何でしょうか?」


 フェルメスの言葉に、俺は「え?」と声をあげてしまった。


「あ、この時間に作る料理の試食ということでしょうか? それでしたら、いくらでもお分けすることはできますが……」


「いえ。この夜の食事についてです。僕はあなたがたの晩餐まで見届けてから、城下町に戻ろうと考えています」


 俺は一瞬、言葉を失うことになった。現在はせいぜい下りの三の刻ていどで、日没までには4時間ほども残されているのである。


「で、ですが、フェルメスはギバ料理を口にできないのですよね? 今日は魚介の食材の準備もないのですが……」


「もちろん僕は、城下町に戻ってから食事をしようと考えています。ただ森辺の民の晩餐のさまを見届けたいと願っているだけですので、お気遣いは無用です」


 邪気のない顔で微笑みつつ、フェルメスは左右の立派な殿方たちを指し示した。


「しかし、同じ場所で同じものを食すれば、より親睦も深まることでしょう。残念ながら、本日の僕はその恩恵にあずかることのできぬ身ですが……ジェノス侯爵家の第一子息たるメルフリード殿を晩餐に招くというのも、一興ではないでしょうか? そのついでで、ジェムドにもいくばくかの料理を分けてくださったら、望外の喜びというものです」


「しょ、承知しました。ですが、家のことを決めるには家長の判断が必要ですので、アイ=ファの帰りをお待ちください」


 俺がそのように応じると、メルフリードが月光のごとき視線を差し向けてきた。


「何も無理をする必要はないのだぞ、アスタよ。我々は視察におもむいてきた身であるのだから、晩餐までふるまう必要はない」


「い、いえ。晩餐の間も家に留まるのでしたら、むしろ一緒に食べていただいたほうが、気は休まるだろうと思います」


 この3名にじっと見守られながら晩餐を食するなどとは、想像しただけで落ち着かなくなってしまう。だったら、あんたたちも一緒に食べてくれ、と思ってしまうのが人情であろう。


(それにまあフェルメスの言う通り、メルフリードを晩餐に招待するなんて、それは貴重な体験だしな)


 この鉄面皮の御仁と打ち解けるのはなかなかに難しい話であるのだが、現在ではとりたてて苦手意識などは持っていない。ふとした弾みに見せる家族への情愛や、ちょっとした人間臭い仕草などには、とても好ましいものを感じているぐらいであるのだ。


「あ、だけど……晩餐の場にはティアも同席するのですが、そちらは大丈夫なのでしょうか?」


 俺がそのように声をあげると、メルフリードは無表情のまま、首を傾げた。


「どのみち、わたしはその場に居座らせてもらうのだ。食事を口にしようとしまいと、特に変わるところはない。……しかし、本当に迷惑ではないのか?」


「ええ、もちろんです。アイ=ファだって、決して拒んだりはしないと思います」


「そうか」と言って、メルフリードはわずかに下顎を引くような仕草を見せた。


「ギバ料理を口にできるなら、ありがたく思う。ジェノス城においてもギバ肉は使われているが、まだまだ森辺の料理人の腕には及ばないのでな」


 メルフリードからそのような言葉をいただけるとは、何だかとても感慨深かった。

 そんな俺たちのやりとりを、フェルメスは満足そうに見やっている。


(ついつい本心はどこにあるのかと疑ってしまうけれど……いまのところ、このフェルメスってお人の行動は、みんないい方向に作用してるよな)


 ならば、長きの時間をともに過ごすことで、よりよい関係性を築けるように努めるべきであろう。

 そんな風に考えながら、俺は作業台の上の新たな香草をつかみ取った。

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