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異世界料理道  作者: EDA
第四十章 運命の使者
681/1675

親睦の会食③~長き道~

2018.12/15 更新分 1/1

「野菜料理と魚料理は、わたしなりのシム料理となります」


 ヴァルカスの説明とともに、皿が並べられていく。

 またリミ=ルウの皿を覗き込んだルド=ルウが、そこで「お」と声をあげる。


「こいつは俺も、見たことがある料理だな。すっげー不思議な味なんだよなー」


「あー、食べる前に言わないでよ! どんな味だか、楽しみにしてるんだから!」


 リミ=ルウが、兄の胸もとをぽかぽかと叩く。ルド=ルウは蚊に刺されたほどの痛痒を受けた様子もなく、「へん」と鼻を鳴らした。


「似てはいるけど、別の料理なんだろ。俺が食べたのは、シリィ=ロウやロイが作った料理だったからな」


 いまさらながら、ルド=ルウが彼らの名前を認識していることが、俺にとっては新鮮であり嬉しくもあった。それほど交流のさまを見たことはないものの、ロイたちとはすでに2度までも祝宴をともにしているのである。


 それはともかくとして、ヴァルカスの料理だ。

 ルド=ルウが指摘したのは、野菜料理のほうだった。それは、ひとたび目にしただけで忘れることもできないほど、不可思議な形状をした料理であったのだ。


 5センチ四方の正方形で、厚みは2センチほど。ゼリーのようにつやつやと照り輝き、しかも複数の色彩がマーブル状にからみあっている。サイズはやはり小さめであったものの、それはサトゥラス伯爵家との和睦の会食で出された野菜料理と酷似していた。


 しかし、似てはいるけれど、同一の料理ではない。あのときの料理は緑と赤の濃淡だけで構成されていたが、今回はそこに黄や青までもが入り混じっていたのだ。

 それらの色彩が美しく渦を巻きながら、四角く封印されている。一見では食べ物であるかも判然としない外見であるが、それはやわらかい煮こごりのような料理であるはずだった。


 そして、魚料理である。

 こちらは、赤褐色の衣に覆われた白身魚の切り身が、各人にふた切れずつ供されていた。

 さらにその料理の下には、細くて白いソーメンのようなものが敷かれている。本来の作法に則って作られた、シャスカである。麺同士がひっつかないように油がまぶされているらしく、その表面はなめらかに光っていた。


「ヴァルカスも、シャスカを使っていたのですね」


 俺が声をあげると、配膳を終えたヴァルカスは「はい」とうなずいた。


「わたしの店では、まだいくらかのシャスカが残されておりましたので。……アスタ殿も、シャスカを使われたのですね」


「はい。こちらは手もとになかったので、貴族の方々にお頼みして分けていただきました」


 現在のジェノスでは品薄であるシャスカであるのに、両者が同じ日に使おうと考えたのは、愉快な偶然であった。

 しかし、俺とヴァルカスではシャスカの扱い方がまったく異なっているので、フェルメスたちの興をそぐことにはならないだろう。


「それでは、いただきます」


 俺はまず、野菜料理のほうから試食させていただくことにした。

 シリィ=ロウの野菜料理にはとろけた乾酪のソースが掛けられていたはずであるが、こちらにそのような細工は見られない。美しいマーブル状の表面に匙を当ててみると、やはりゼリーのようにぷるんと簡単に切り分けることができた。


 それを口に運んでみると――凄まじいまでの味と香気が、口の中に広がった。

 マルフィラ=ナハムも、野菜料理のほうから手をつけたのだろう。遠くのほうから、「あわわ」という慌てた声が聞こえてくる。


 これは、シリィ=ロウがかつてこしらえたものよりも、遥かに複雑な味わいをしていた。

 甘くて辛くて苦くて酸っぱいというのは、まあヴァルカスの野菜料理の定番だ。さらにはカロン乳や乳脂の風味に、ギャマの乾酪の風味までもが感じられる。シリィ=ロウがソースとして用いていた乾酪を、ヴァルカスは料理の内側に封じていたのだった。


 そして、何より魚介の風味が豊かである。

 これはおそらく、魚の油分で作られた煮こごりであるのだ。香草や果実や乳製品で練りあげられたさまざまな味わいも、すべてはその魚介の風味を軸に組み立てられているのだろう。


(シリィ=ロウの料理は、野菜のまろやかな甘みが際立っていたけれど……ヴァルカスのこの料理は、何もかもが際立ってるな)


 シリィ=ロウの料理に、青や黄の色合いは存在しなかった。青はおそらくアマンサなるブルーベリーのような果実、黄は乾酪や香草の色合いであるに違いない。ベリー系の酸味を強く感じるし、マスタードのような辛みも同様である。

 しかしそれは、どのような食材が使われているのかと、舌の感覚を研ぎ澄ました末に得られる解答であるに過ぎない。さまざまな味わいが複雑にからみあって、食べる者を翻弄する、ヴァルカスの手腕の真骨頂であった。


「ヴァルカスの作る野菜の料理には、いつも胸を震わされてしまいます。とうてい同じ人間の作るものだとは思えないほどです」


 と、レイナ=ルウがしみじみと述べたのちに、シリィ=ロウのほうを見た。


「以前にあなたがお作りになった料理よりも、遥かに複雑な味わいであるようです。あれはやはり、森辺の民の好みにあわせて、味を調えてくださったのですか?」


 シリィ=ロウは、ぴくりと眉のあたりを震わせてから、レイナ=ルウのほうを振り返った。


「……わたしには、まだ師ヴァルカスほど複雑に味を練り上げることができない、というだけのことです。それぐらいのことは、聞くまでもなく想像がつくのではないですか?」


「あ、いえ、あの日のあなたは森辺の民の好みに合わせて、料理の献立を選んでくれたのだという話であったので、そのように考えただけなのですが……気分を害されてしまったのなら、お詫びいたします」


「お詫びの必要はありません。わたしが未熟であることは厳然たる事実であるのですから」


 シリィ=ロウはすがめた目でレイナ=ルウを見つめやり、レイナ=ルウは困ったように眉を下げている。すると、それを見かねたようにロイが「おい」と声をあげた。


「森辺の人間が、嫌味や当てこすりでそんな言葉を口にするはずがねえだろ? いちいち目くじらを立てんなよ」


「……わたしはただ、自分の未熟さを恥じ入っているだけです」


「ヴァルカスに比べたら、たいていの人間が未熟だろ。いちいち恥じ入る必要はないって話だよ」


「それはそうかもしれませんが……」と、シリィ=ロウが目を伏せるのを見て、俺は「おや」と思った。以前のシリィ=ロウであれば、もっとしつこく食い下がるように思えたのである。


(ロイが正式な弟子に認められて、以前よりも親睦が深まったのかな。それなら、何よりだ)


 俺はそのように考えたが、レイナ=ルウは何やら複雑そうな面持ちでロイたちの姿を見守っていた。自分のせいで言い争いのようになってしまったことを申し訳なく思っているのか、はたまた別の思いにとらわれているのか、見た目からは判然としない。

 すると、俗人の思惑など知らんとばかりに、ヴァルカスが卓のほうを指し示してきた。


「魚料理のほうは、熱が逃げると味が落ちてしまいます。よろしければ、早々にお召し上がりください」


「あ、はい。了解いたしました」


 俺は銀色のフォークを取り上げて、いざ魚料理に取りかかることにした。

 ぱっと見は、赤い衣にくるんだフライのような仕上がりである。赤というのは、真っ先に辛みを連想させるものであるが――漂う香気に、それほど強い刺激は感じられない。


 そうして小さな切り身を半分だけ口にしてみると、まろやかな甘さとほどよい酸味が口の中に広がった。

 どうやらこの赤い色合いは、タラパのものであったらしい。そこに、アロウやラマムの甘さや酸味がからみあい、なかなかにフルーティな味わいである。もちろん幾多の香草も使われているのであろうが、そこから生される辛さや香ばしさは、隠し味ぐらいの存在感に留められていた。


 ただ、抜群に魚の身が美味い。

 白身であるが、味がしっかりしている。おそらくは、以前に食したギレブスとも、俺も使っているリリオネとも異なる、別の魚であるのだろう。ただし、ヴァルカスであれば味や食感を操ることも思いのままであろうから、確かなことはわからない。わかるのは、非常に美味である、ということだけだった。


 そしてもちろん、その身が美味に感じられるのは、赤い衣の恩恵でもあるのだ。

 これはきっと揚げ物ではなく、以前のギレブスの料理と同様に、丹念にタレを塗り重ねた炙り焼きであるのだろう。旨みの豊かな魚の味わいに、甘みと酸味がからみあい、絶妙な調和を見せている。ヴァルカスの作る料理としては、複雑さよりも力強さが前面に押し出されたひと品であるように思われた。


 なおかつ、残された切り身をシャスカとともに食してみると、これがまた美味である。最初のひと口を単体で食べてしまったことが悔やまれるほど、それは完成された組み合わせであった。


 俺の知るそばよりももちもちとしたシャスカの麺の弾力が、心地好い。そして、シャスカの中にはラマンパの実や香草なども練り込まれているらしく、そのちょっとした風味や食感までもが、すべていい方向に作用している。たとえ複雑な味付けでなくとも、すべてが計算し尽くされた配合であるのだ。


「これはやっぱり、野菜料理と一緒に出す献立であるので、香草をひかえめにしているのでしょうか?」


「はい。それでも、野菜料理の香気に負ける品ではないと考えています」


 ヴァルカスの宣言した通り、実に複雑な味わいである野菜料理と交互に食べても、この魚料理が見劣りすることはなかった。それどころか、力強い味わいがいっそう強調されるかのようにさえ感じられる。試食用のささやかな量であるのが、心から惜しく感じられてしまった。


 レイナ=ルウやシーラ=ルウもこらえかねたように賛辞の言葉を口にして、ヴァルカスがそれに答えている。トゥール=ディンは真剣な面持ちで黙々と料理をついばんでおり、ユン=スドラは驚きの表情、マルフィラ=ナハムは放心状態、そしてリミ=ルウはやっぱり屈託のない笑顔であった。


「おいしーねー。野菜料理のほうはびっくりしちゃったけど、このお魚の料理は、森辺の男衆でもおいしいと思うんじゃないかなあ」


「ふーん、そうなのか?」と、ルド=ルウがまたまた妹の手もとを覗き込む。魚の切り身もシャスカも、まだ半分ぐらいは残されていた。


「えへへー。ルドも食べたい?」


「んー。気にはなるけど、それっぽっちしか残ってねーもんな。お前だって、もっと食いたいだろ?」


「どうしてもって言うなら、わけてあげようかなー。どうしようかなー」


「何だよ。まさか、俺をからかうために半分だけ残してんじゃねーだろうな?」


 相変わらず、仲睦まじい兄妹であった。

 そうした微笑ましいやりとりののちに、ヴァルカスの魚料理を食することになったルド=ルウは、「へー」と目を丸くした。


「確かに、美味いかもな。ギバ肉だったら、もっと美味いだろ。……とも思わねーし」


「そうだよねー。この味付けは、このお魚に合ってるんだと思うよー」


 向かいの席からは、ボズルが目を細めてこのやりとりを見守っていた。仲良し兄妹のやりとりに、心を癒されているのであろう。

 いよいよ最後のひと口を食そうとしていた俺は、そこでふっとアイ=ファを振り返る。俺の背後に立ったアイ=ファは、普段通りの凛然とした面持ちで腕を組んでいた。


「えーと……アイ=ファも食べてみるか?」


「うむ? ギバを使っていない料理に、とりたてて興味はないぞ」


 そのように述べてから、アイ=ファは俺の耳もとに口を寄せてきた。


「無用の気をつかうな。お前にとっては、あやつの料理を口にすることも、立派な修練であるのだろうが?」


「うん、まあ、それはそうなんだけどな。リミ=ルウを見てたら、なんか悪い気がしちゃってさ」


「それが、無用の気づかいだというのだ。……その気持ちだけもらっておくので、心置きなく食するがいい」


 表情は凛然としたまま、アイ=ファはとても嬉しそうな眼差しになっていた。

 俺はそちらに笑いかけてから、ありがたく料理を口に運ばせていただく。

 そうして前方に向きなおってみると、ボズルがさきほどと同じ眼差しで俺たちのほうを見やっていたので、思わず赤面してしまった。


「そ、それでは次は、こちらの番ですね。すぐに準備をしますので、少々お待ちください」


 レイナ=ルウらとヴァルカスの語らいも一区切りついた様子であったので、俺はそのように声をあげることにした。

 いいかげんに時間は差し迫っているはずであったので、のんびりとはしていられない。次なる料理も、ヴァルカスたちにはじっくり味わってほしかったのだ。


「ヴァルカスは、前半がジャガル料理で、後半がシム料理という趣向であったのですね。俺の場合は、この後半のふた品が故郷の料理となります」


 俺がそのように説明すると、ヴァルカスは不思議そうに小首を傾げた。


「そうなのですか。しかし、あのかれーという料理も、アスタ殿にとっては故郷の料理なのでしょう?」


「はい。ですが、さきほども申し上げた通り、焼きポイタンのような生地と一緒に食するカレーというのは、俺にとっても異国の料理であるのです。ああいうカレーを家庭でこしらえる人は、俺の故郷でもごく少数のはずなのですよね」


「なるほど。アスタ殿の故郷においても、家ではなく料理店などで口にする献立、ということですか」


「はい、その通りです。それに対して、こちらの料理は……どこの家庭でも気軽に作られる料理なのではないかと思われます」


 そう、俺は城下町でシャスカを分けてもらえるという話を聞いて、この献立を選出したのだった。

 魚料理はリリオネのミソ煮、野菜料理はタウ油の煮込み、そして添え物がほかほかのシャスカである。


 リリオネは食べやすいように、骨から身を外している。リリオネはイワナと似た魚で、それほどクセのない味わいであるので、どのような料理の具材としても使い勝手がよかった。

 煮汁のほうはミソを主体として、タウ油、砂糖、ニャッタの蒸留酒、そしてケルの根と白ママリアの酢を隠し味として、味を調えている。


 野菜料理の具材は、ニンジンのごときネェノン、ダイコンのごときシィマ、サトイモのごときマ・ギーゴ、タケノコのごときチャムチャムで、タウ油、砂糖、干し魚の出汁、ホボイ油、ニャッタの蒸留酒で、味を作っていた。


 俺にとっては、シンプルきわまりない献立である。

 しかし、これを白いシャスカとともに食することに、俺は大きな意義を見出していた。


 これが、俺にとっての故郷の味であるのだ。

 かつて森辺の同胞には、『カレー・シャスカ』や『ギバ・カツ丼』を食べてもらうことができた。フェルメスにギバ肉を食べてもらうことができないのなら、せめて魚を使った俺の故郷の料理を味わっていただきたい。そのように念じて、この献立を選んだのである。


「これこそが、アスタ殿の故郷の料理であるわけですね」


 ヴァルカスは居住まいを正して、銀色の匙を取り上げた。


「心して、味わわせていただきます」


「はい。お口に合えば、幸いです」


 ヴァルカスたちが、リリオネのミソ煮を口に運んでいく。

 とたんに声をあげたのは、ロイであった。


「これはずいぶん、強い味だな。……これを、シャスカと一緒に食べろってことか」


「うん。貴族の方々にも、そう伝えてもらうつもりだよ」


 ロイはうなずき、リリオネが口に残っている内に、小鉢のシャスカを口に運んだ。いわゆる、口内調味というやつである。


「ううむ……これは、至極すぐれたジャガル料理であるように感じられます。アスタ殿の故郷においては、ジャガルに似た作法で料理が作られているのでしょうか?」


 ボズルの言葉に、俺は「そうですね」とうなずいてみせる。


「そもそも俺の故郷では、タウ油とミソに似た食材が、かなり伝統的な調味料であったのです。そういう意味では、ジャガルと似た作法なのではないかと考えています」


「しかし、このシムの食材であるシャスカも、故郷の料理に近づけるには不可欠であるというお話でしたな。それが、いささかならず面妖に感じられます」


 そんな風に言ってから、ボズルは楽しげに微笑んだ。


「ただ、この料理が美味であることに変わりはありません。香草らしい香草はいっさい使われていないのに、驚くほど繊細に味が組み立てられているようですな」


「はい。王都の方々は香草にこだわりがないようでしたので、おもいきってこの献立にしてみました」


 それを俺に教えてくれたのは、前回の監査官であるタルオンであった。王都においては多種多様な食材を使って複雑な味を追及する、という風潮はそれほど強くないようなのである。


(だから、ジェノスの人間が作る料理よりも、森辺の人間が作る料理のほうが、口に合うぐらいかもしれない、なんて言ってたんだよな)


 何にせよ、俺にとっての今回のテーマは「故郷の味」であった。

 俺にとってはシンプルな献立でも、ミソ自体が新参の食材であるのだから、それなりの驚きや楽しみをお届けすることはできるだろう。なおかつ、ジェノスにおいては魚料理そのものが、目新しい存在であるのだ。


「お見事です」と、ヴァルカスが低くつぶやいた。

 見ると、ミソ煮も煮物もシャスカもひと口ぐらいずつしか減っていない。銀色の匙を握りしめたまま、ヴァルカスは虚空に視線を定めていた。


「これもまた、わたしの知らない作法です。どちらの料理も煮汁などは、ただ調味料を混ぜただけのようにしか思えないのですが……その配分の妙が、この味わいを生み出しているのでしょう。あとは、煮込む時間と火加減と……そういった、ごくごく当たり前のことが、味の要になっているようです」


「はい。俺にとって、これらは何のへんてつもない家庭料理であるのですが。そういう料理は何十年も昔から――いえ、下手をしたら百年単位の昔から練りあげられてきた味ですので、高い完成度を目指せるのではないかと思います」


 味噌や醤油を開発した人間、それを煮込もうと考えた人間、そこに砂糖や調理酒を加えようと考えた人間――そういった先人たちの成し遂げたものを受け継いで、現代に生きる俺たちは何気なく料理をこしらえているのだ。


 このジェノスには、そういった伝統が存在しない。ここ数十年でようやくシムやジャガルとの流通が確立されて、サイクレウスが台頭した10年かそこらの間に、次々と新しい食材を得ることになったのである。

 そんな混乱の時代を生き抜いて、ヴァルカスはあれほどまでの技を身につけることになった。それは本当に、ものすごい話であるのだろう。


 俺にはそんな、激烈な経験は存在しない。その代わりに、親から子へ、師匠から弟子へと引き継がれてきた、数々の料理の知識が存在する。

 俺のような半人前が、このジェノスではどうしてこうまでもてはやされるのか。理由は、そこにしかないように思われた。


「感服いたしました」とつぶやきながら、ヴァルカスが匙をさまよわせる。

 そのとき、扉がノックされた。


「最初の三品が終了いたしました。次なる料理の準備をお願いいたします」


 ルド=ルウが扉を開いて応対すると、小姓がそのように告げてきた。

 ヴァルカスの弟子たちはすでに試食を終えていたので、すみやかに立ち上がる。ひとり不動のヴァルカスに声をかけたのは、ロイであった。


「お呼びですよ。急がないと、まずいんじゃないですか?」


「すぐに向かいますので、下準備をお願いします。シャスカの茹であげは、タートゥマイに」


「承知しました」と、長身痩躯の料理人は扉に向かう。ロイは肩をすくめてから、その後を追った。


 俺たちも、うかうかとはしていられない。魚料理と野菜料理は小姓にまかせてもいいぐらいであるのだが、シャスカは手ずからよそわなくてはならないのである。

 そうして会食の為されている食堂の隣室に移動した俺たちは、各自の仕事に取り組んだ。人手はありあまっているので、魚料理と野菜料理の盛り付けはレイナ=ルウたちにお願いする。タートゥマイはシャスカを茹でており、他の3名は皿を並べてヴァルカスの到着を待っていた。


「……なあ、菓子はまた、他の人間に任せたんだよな?」


 と、自分の仕事を早々に終えたロイが、こっそり呼びかけてくる。

 俺がそうだと応じると、ロイは覆面ごしに溜息をついた。


「それじゃあ、先に感想を伝えさせてもらうよ。汁物料理も魚料理も、見事な出来栄えだった。それ以外の料理は副菜に過ぎないんだろうけど、きっちり調和は取れてたよ」


「ありがとう。必死に頑張った成果だから、そんな風に言ってもらえるのは嬉しいよ」


「ちぇっ。それでも、あれを仕上げるのに2日しかかけてないってんだろ? ひさびさに、お前の力を思い知らされた心地だよ」


 仕事を終えた俺がしゃもじ代わりの木べらを手放すなり、ロイがどんと背中をついてくる。

 とたんに、アイ=ファがすっと忍び寄ってきた。


「おい。いまのは、どのような心情にもとづく行いであるのだ?」


「え? 何だよ。軽く小突いただけじゃねえか」


「親愛の念を込めて、人を小突くことはあろう。しかし、いまのお前はそのようなものをかぶっているため、心情がつかみにくい」


「うっせえなあ。激励だよ、激励。……俺がいまさら、悪意でアスタを殴るとか思ってんのか?」


 アイ=ファは形のいい下顎に手をやって、しばし考え込んでから、「思わん」と答えた。

 ロイは、がっくりと肩を落としている。


「……お前んとこの家長、ちっとばっかり過保護じゃねえか?」


「ああ、うん、お恥ずかしい限りです。……でもまあ最近、ちょっと物騒なこともあったんで、そこのところを考慮してもらえたらありがたいかな」


 俺の言葉に、ロイは覆面の下で眉をひそめたようだった。


「そういえば、何とかっていう盗賊団にさらわれかけたんだってな。そいつの首謀者の名前を聞いて、俺は腰が抜けそうになっちまったよ」


「ああ、ロイたちはこの屋敷で働いていたから、シルエルと面識があったんだね」


「まあ俺なんかは、まともに挨拶をしたこともねえぐらいだけどな。あいつは平民を虫みたいに見下してるから絶対に近づくなっていう評判だったしよ」


 そのように言ってから、ロイは覆面の下で目を細めた。


「何にせよ、おかしなことにならなくて何よりだったな。お前がくたばっちまったら、大変な騒ぎになってたろうよ」


 そこでようやく、ヴァルカスが登場した。

 すかさずシリィ=ロウが、炭火の保温器で温められていた魚料理をまな板の上に移していく。覆面をかぶり、水で手を清めたヴァルカスは、調理刀で赤い衣に包まれた魚を丁寧に切り分けていった。


 ヴァルカスの作業は、それにて終了である。魚の切り身はシリィ=ロウとボズルの手でシャスカの上にのせられていき、銀色のクロッシュをかぶせられた上で、台車に移動される。すでに野菜料理はロイの手によって台車に移されていたので、あとは小姓に託すばかりであった。


「では、菓子の試食に取りかかりましょう」


 誰よりも遅く参じたヴァルカスが、誰よりも早く部屋を出ていく。俺たちはそれぞれ苦笑や溜息をこらえつつ、その後を追うことにした。


 菓子の担当は、もちろんトゥール=ディンとリミ=ルウである。

 献立は、初心に返ってデコレーション・ケーキだ。これはドレッグやタルオンにも好評であったので、安全策を選んだのだろう。


 ただ一点だけ、あの頃とは異なるアレンジが為されている。スポンジケーキの層の間に、チャッチ餅がはさみこまれているのだ。

 切り分ける際の邪魔にならないよう、チャッチ餅は1センチ四方の大きさで、クリームの中に練り込まれている。全体のコーティングはギギの葉のチョコクリームで、チャッチ餅の練り込まれた内側のクリームはプレーン。なおかつ、表面のチョコクリームにもプレーンのクリームでデコレートの為された、実に可愛らしい仕上がりであった。


 いっぽうヴァルカスは、平たいクッキーのような生地に、糸のように細くソースの掛けられた菓子である。

 生地は4つに割られており、それぞれ異なる色合いのソースが掛けられている。きっと貴族の方々には、きちんと4枚ずつ供されるのだろう。もとの生地は直径5センチていどのサイズであるので、食後のデザートとしてもささやかな分量であった。


 いつまたお呼びがかかるかもわからないので、俺たちは同時に試食を済ませることにした。

 ヴァルカスは、しめくくりの菓子に強い味をつけることを好まない。しかしそれでも、その優しい味わいは十分な満足感をもたらしてくれた。

 ソースの色は、赤、青、白、緑、であり、それぞれ、アロウ、アマンサ、カロン乳、抹茶のような香草をベースにしているようだった。


「この菓子も、素晴らしい味わいであるようですね」


 ヴァルカスが静かに告げると、トゥール=ディンは「あ、ありがとうございます」と真っ赤な顔で頭を下げた。


「け、けーきの中にチャッチ餅を入れようと考えついたのは、リミ=ルウです。今回は、ふたりで手を携えて、その菓子を作ることになりました」


「あなたがたは本当に、菓子作りの才に長けているのだと思います。以前にティマロ殿が述べていた通り、ダイア殿にも匹敵する腕前でありましょう」


 そのように言ってから、ヴァルカスは小首を傾げた。


「そういえば、おふたりはダイア殿の菓子を口にしたことはあるのでしょうか?」


「ううん。名前しか知らないよー。ジェノスのお城のかまど番なんでしょ?」


 リミ=ルウの元気なお返事に、ヴァルカスは「はい」とうなずく。


「何度も申しあげた通り、わたしは食後のつつましい締めくくりとしてしか、菓子を作ってきませんでした。あなたがたは、ダイア殿の菓子を口にするべきでしょうね」


「ふーん。やっぱり、すごく美味しいお菓子なの?」


 リミ=ルウは、きらきらと瞳を輝かせている。

 トゥール=ディンも、無意識の内にか、身を乗り出していた。


「そうですね……しかし、やはり作法は大きく異なっているように思います。オディフィア姫は、ダイア殿の菓子よりもあなたがたの菓子のほうが美味であるとお考えのようですし……それを考慮すると、あなたがたの口に合わない可能性もあるのでしょうね」


「そっかー。でも、食べてみたいなー」


 俺としても、ヴァルカスと並んで双璧と称されるその人物には、強い関心を抱いていた。ミケルが健在であった頃は、三大料理人と呼ばれていた存在であるのだ。

 だがしかし、俺にとってはヴァルカスだけでも十分すぎるぐらいの刺激であるし、その下には4名もの弟子たちが控えている。さらには、ヤンやティマロだっている。未知なる料理人よりも、目の前の人々のほうが、俺にとってより大きな存在であることに間違いはなかった。


「今日はヴァルカスの料理を試食させてもらうことができて、本当に嬉しかったです。また機会があったら、是非よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。わたしにとって、アスタ殿の存在はより巨大なものになってしまいました」


 いつも通りのぼんやりとした表情であるが、その口もとにはさざなみのような微笑がたたえられている。滅多に見せることのない、ヴァルカスの微笑みである。


「しかしまた、長きの時間が空いたからこそ、アスタ殿の成長をこれほど強く感じたのかもしれません。次にお会いしたときには、どれほどの成長を遂げているのか……それを楽しみにしながら、わたしも励みたいと思います」


 そうして、再び扉がノックされる。


「アスタ殿は、菓子の準備をお願いいたします。それからすぐに食後の挨拶となりますので、ヴァルカス殿もこちらに」


 こちらはさきほどの部屋でクリームの仕上げをしなければならないが、ヴァルカスのほうは小姓におまかせしているのだろう。何にせよ、貴族の会食も終わりを迎えようとしているのだ。


 トゥール=ディンとリミ=ルウがいそいそと立ち上がったので、俺も腰を上げてみせる。菓子の担当は彼女たちであるが、ヴァルカスも呼ばれているのだから、俺も出向かないわけにはいかない。他のメンバーはこの部屋に居残り、護衛役はアイ=ファだけが同行してくれる手はずになっていた。


「それでは、行きましょう。……王都の方々に皿などを投げつけられないように願うばかりです」


「ああ、ヴァルカスは以前の監査官から不興を買っていたそうですね。今回の方々は、きっと大丈夫だと思いますよ」


 俺はヴァルカスと肩を並べて、部屋を出ることになった。

 しかし、本当の意味でヴァルカスと肩を並べられるのは、まだまだ先の話だろう。周囲の人々がどのように考えていようと、俺自身はそう思っていた。


(だけど俺は、いつか自分自身で納得のいく料理を作ってみせる。親父を超えたと思えたときには、きっとヴァルカスのことだって超えられてるはずさ)


 俺は、対抗心とは無縁の気持ちで、そのように考えることができた。

 この長い長い回廊のように、俺たちの道も長くのびているのだろう。俺の親父と同じように、ヴァルカスだって現在の場所にふんぞりかえっているわけではないはずだ。


「……あの、失礼な質問であったら恐縮ですが、ヴァルカスっておいくつなんですか?」


 俺がそのように問うてみると、ヴァルカスは不思議そうに見返してきた。


「何も失礼ではありません。わたしはちょうど、40歳になりました」


「よ、よんじゅっさいですか。ずいぶんお若く見えるのですね」


「はい。よく言われます。……アスタ殿は、おいくつだったでしょうか?」


「俺は、18歳になりました」


「18歳ですか。……やはり、わたしとは親子ほどの隔たりがあるのですね」


 そこでヴァルカスは、またさざなみのごとき微笑みをたたえた。


「以前はアスタ殿と同じ年齢で競いたいと願っていましたが、今日の試食で考えが変わりました。同じ18歳であったら、わたしはアスタ殿に傾倒して、いまの自分ではいられなかっただろうと思います。……わたしは、現在のわたしがアスタ殿と競い合えることを幸福に思います」


「ヴァルカスみたいな御方にそんな風に言っていただけるのは、本当に光栄です」


 俺もヴァルカスに笑顔を返してみせた。

 なんとなく、ヴァルカスとの間にこんな穏やかな空気が生まれたのは、初めてであるように思えてしまう。普段は奇矯に聞こえてしまいがちなヴァルカスの言葉が、とてもすんなりと心にしみこんでいくかのようだった。

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