親睦の会食①~下準備~
2018.12/13 更新分 1/1
俺が再び城下町に招かれたのは、会談の日の2日後であった。
というか、フェルメス自身は会談の翌日にでも、と言いたてていたので、何とか1日だけ猶予をもらうことになったのである。
何せ今回の依頼は、魚介以外の肉を使ってはならじ、というものであったのだ。
言うまでもなく、俺はこれまでギバ肉を中心に献立を組み立てていた。《キミュスの尻尾亭》のお手伝いでカロンやキミュスの肉を扱ったことはあったが、魚介を手にする機会はごくごく限られていたのだ。
もちろん魚介の乾物であれば、現在もおもいきり使いたおしている。が、メインで使っているのは鰹節および昆布に似た乾物のみで、それも汁物料理の出汁を取るために使っているばかりであるし、生鮮の魚に至っては、きっかり3回した手に触れたこともないのだ。そんな状態で、いきなり王都の貴族のお口に召す料理を準備せよ、などと言われても、困ってしまうのが当然であろう。
「だけどアスタ殿は、初めてこの地で触れた魚であれだけの料理を作ることができたのだからね。何も心配はいらないさ」
会談の日の別れ際、ポルアースは至極のんきそうな面持ちでそのように述べていた。
きっと、俺の不安を取り除こうと思っての言葉であったのだろう。それはともかくとして、ポルアースもフェルメスに負けないぐらい期待に満ちみちた様子であったのが印象的であった。
(まあ、ポルアースが美味しい料理に心を弾ませるのはいつものことだけど……とりあえず、フェルメスたちのことを警戒したりはしていないみたいだな)
もちろん俺も、そこまでフェルメスたちを警戒しているわけではない。これで文句を言ったらバチが当たるだろうというぐらい、彼らは終始、友好的であったのだ。
しかし王都の貴族ともなれば、腹芸などはお手のものであろうし、それにフェルメスはきわめて内心の読みにくい人物であった。俺の印象としては、カミュア=ヨシュに負けないぐらい、つかみどころのない人間であるように思えたのである。城下町の帰り道で他のみんなに確認したところ、それは誰しもが同じ思いであるようだった。
ただし、ドンダ=ルウたちは、「虚言を吐いているようには思えない」とも言っていた。
カミュア=ヨシュは出会った当初、さまざまな虚言を弄していたために、森辺の民からも胡散臭い人間と認定されていたのであるが、そういった怪しげな気配は皆無であると、そのように述べていたのだ。他者の虚言に関しては、ことさら敏感な森辺の民であるのだった。
「何か秘めたる思いというものは、存在するのかもしれません。ですがそれも、敵意や悪意にもとづく心情ではないように思います」
ガズラン=ルティムは、そのように述べていた。
あのガズラン=ルティムがそのように言ってくれるのは、きわめて心強い話であった。
「まあ、初めて顔をあわせた日に、すべての心情をさらす人間はあまりいないでしょう。我々も、長きの時間をかけて、あの奇異なる人物と絆を深めていくしかないかと思われます」
その言葉にも、俺は心から同意することができた。
このたびの仕事は、記念すべきその第一歩目であるのだ。
俺としては、フェルメスたちにご満足いただけるよう、心を尽くして料理を準備するしかなかった。
「……しかしあれは、確かに奇異なる男であったな」
みんなと別れてファの家に帰りついたのち、アイ=ファなどはそのように本音をこぼしていた。
「悪辣な人間であるとは思わんし、心にもない言葉を語っているようにも思わなかった。しかし……あのように奇異なる男は、なかなかおるまい」
「うん。いちおう確認しておくけど、『男』でいいんだよな?」
俺がそのように念を押すと、アイ=ファはたちまち不機嫌そうな顔になって詰め寄ってきたものであった。
「何を言っている。確かに女と見まごうような面がまえではあったが、男であることに疑いはない。……まさかお前は、あやつを女だと思っていたのか?」
「いや、俺も男だと思ってたけどさ。ディアルの件もあったから、いちおう確認しておきたかったんだよ」
「本当か? そういえば、お前はたびたび、あやつに見とれているような眼差しになっていたようにも思うが……」
「そんなことないってば。男だと思っていたのに、見とれるわけがないだろう?」
言ってから、俺は「しまった」と自分の失敗を悟ることになった。
案の定、アイ=ファはいっそう機嫌を損ねた様子で顔を近づけてくる。
「ふむ……では、あやつが女であれば、見とれていたということだな」
「いや、さっきのは言葉のあやだよ。男だろうと女だろうと、感心したり驚いたりすることはあっても、見とれたりはいたしません」
「…………」
「あー、信用しないんだな? それじゃあ、俺が他の人間に見とれたりはしない理由を説明してやろうか? 何故なら、俺の心はとある女性に独占されているために――」
アイ=ファが脳天にチョップを振り下ろしてきたので、俺は最後まで言い終えることができなかった。
ほどほどに手加減された痛撃である。それを繰り出してきたアイ=ファは、顔を赤くしながら、わなわなと震えていた。
「もうよい。これしきのことで、うかうかと心情をさらすな」
「いや、俺にとっては重要な話だよ。いまさら心変わりなんて疑われたくないし――」
「もうよいと言っておるのだ!」
今度は手の先を左右に振って、ぺしぺしと俺の頭をはたいてくる。
なんとか俺に必要以上のダメージを与えまいとするアイ=ファの心づかいが、愛おしくてならなかった。
「わ、わかったわかった。そんな優しい力加減でも、数を重ねると脳が揺れそうだから、そろそろ勘弁してくれ」
俺の言い方が気にさわったのか、アイ=ファは最後に俺の頭をわしゃわしゃとかき回してから、ようやく手を引っ込めてくれた。鏡がないので判然としないが、さぞかし独創的なヘアースタイルになっていることだろう。
「ふん! ……それで、肉も使わずにまともな料理を作ることはかなうのか?」
「今日と明日で、何とか頑張ってみるよ。こんなお土産も持たされたことだしな」
荷車には、城下町で準備された食材がどっさりと積み込まれていた。不慣れな魚介類で料理をこしらえるには研鑽が必要だと説明したら、このようなものを持たされてしまったのだ。大きな樽の中では、イワナに似た魚が窮屈そうに泳いでいるはずだった。
幸いなことに、翌日は休業日であったので、俺が個人的な修練を積む日取りであった。その時間もめいっぱいに使って、俺はこの日の献立を完成させることに相成ったわけである。
◇
「それにしても、まさかギバ肉を使わない料理を所望されるとは思いませんでした」
城下町を進むトトス車の中で、あらためてそのように発言したのは、レイナ=ルウであった。
「前回のドレッグなる監査官も、最初はギバの料理を口にしようとはせず、ジルベに与えてしまっていましたが……このたびは、肉そのものを食することができない、という話であるのですよね?」
「うん。カロンはもちろん、キミュスや野鳥の肉なんかも駄目なんだってさ。ただ、王都では魚料理をいくらでも食べられるから、不便はなかったみたいだね」
「でも、そのフェルメスなる貴族はこれからジェノスで過ごすのでしょう? ジェノスでは、生きた魚にも限りがあるというのに、大丈夫なのでしょうか?」
「うん。自分用に、魚介の乾物を山ほど持参してきたらしいよ。あとは、3ヶ月ごとに随時補充されるんだってさ」
そして、それらの食材をジェノス城の料理人に受け渡して、料理を作らせるのだろう。ジェノス城の料理人たちだって、それほど魚介の扱いには手馴れていないはずであるので、頭を抱えているのかもしれなかった。
「あの生きた魚たちなんかは、ヴァルカスの他に扱う人間がいないって話だったしね。今後はヴァルカスもジェノス城に呼ばれる機会が増えるかもしれないね」
「なるほど。だから今日も、ヴァルカスが呼びつけられることになったのでしょうか?」
その真意はわからないが、本日の晩餐会にはヴァルカスも料理人として呼ばれていたのだ。ヴァルカスと同じ日にかまどを預かるのは、実にひさびさの話であった。
そのおかげで、レイナ=ルウたちの意気もこれ以上ないぐらい上がっている。最初は不慣れな魚料理と聞いて当惑の表情であったのだが、そんなものを帳消しにできるぐらいの意欲をかきたてられたのだろう。
ちなみに本日の顔ぶれは、俺、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、リミ=ルウ、トゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、というものである。全員が、俺の個人的な修練の場にも参加している精鋭たちであった。
とはいえ、俺の個人的な修練というやつも、いまだに4回しか開催されていない。直近の昨日は魚料理の修練にあてることになったし、それまではすべてファの家で、既存の食材およびミソの吟味に費やすことになった。ヤンやジーゼやミケルに教えを乞う前に、まずは自分で思いつくことを色々と試したかったのだ。
それらの成果が実を結ぶには長きの時間がかかろうが、俺はこれまで以上のやりがいと達成感を胸に、日々を送ることができていた。
今回の奇異なる依頼に関しても、迷惑に思うよりは楽しい気分が先に立っている。森辺において魚料理を主菜にすることはあるまいが、これだって俺には十分な経験になるはずだった。
「……お前はずいぶん浮き立っているようだな、アスタよ」
と、朝からあんまりご機嫌のうるわしくないアイ=ファが、そっと耳打ちしてくる。本日の護衛役は、アイ=ファとルド=ルウの2名である。
「うん、まあ、やりがいのある仕事だとは思ってるよ。……アイ=ファのほうは、何だか浮かない顔をしてるみたいだな」
「ふん。ギバ肉を使わない料理など、我らには興味のない話だからな」
そして、そんな料理を俺に作らせようというフェルメスに、アイ=ファは複雑な気持ちを想起させられているようだった。
アイ=ファのつぶやきが耳に届いたのか、リミ=ルウと楽しげに語らっていたルド=ルウがこちらを振り返ってくる。
「何でもいいけどさ、俺たちにはギバの料理も食わせてくれよ?」
「うん。まかない用に、ギバの肉をたっぷり持参してきたからね。魚料理は味見ていどで、ギバ料理をたらふく食べておくれよ」
そんな言葉を交わしている間に、貴賓館に到着した。
やはり俺たちに料理を作らせる際には、この場所が選ばれるらしい。まあ、勝手知ったる場所であるので、こちらとしても好都合だ。
「やあやあ、お待ちしていたよ。よろしくお願いするね、アスタ殿」
貴賓館の入り口では、ポルアースが待ちかまえていた。その目がルド=ルウの姿をとらえて、にこりと細められる。
「本日は、ルド=ルウ殿も同行したのだね。ギバ狩りの仕事で忙しい中、申し訳なかったね」
「いやー、最近は猟犬のおかげで、仕事がはかどってるからさ。べつだん迷惑なことはねーよ」
ルウ家でも猟犬を休ませるために半休の制度が取り入れられていたし、それでもギバの収穫量は飛躍的に向上しているのだ。ポルアースは「そうか」といっそうにこやかな表情になった。
「今度は是非、森辺の方々を客人として招きたいところだね。というか、フェルメス殿自身がそれを望んでおられるようだから、楽しみだ」
「ふーん。今回の貴族は、ずいぶん友好的なんだなー」
「うん。それもあちらの手の内なのかもしれないけれど、どの道こちらには後ろ暗いところなどないからね。案外、すんなりと手を携えられるんじゃないのかな」
ポルアースとて、なかなかの鑑識眼を有している御仁であると、俺は信じている。そんなポルアースでも、フェルメスとオーグの両名に不穏なものは感じていない様子であった。
「けっこう時間は差し迫っているけれど、大丈夫かな? アスタ殿たちは、屋台の商売を終えた後なのだよね?」
「はい。予定の刻限には、きっちり間に合わせてみせます。どうぞご安心ください」
屋台の商売の後でも、日没までにはまだたっぷり4時間近くも残されている。これだけの猶予があれば、慌てる必要はないはずだった。
そうして森辺の集落においては、頼もしい同胞たちが明日のための下ごしらえに励んでくれている。俺やユン=スドラやトゥール=ディン、レイナ=ルウやシーラ=ルウといった中核のメンバーが抜けても、それらの仕事に不備が出ないぐらい、ファでもルウでも人材が育っているのだ。そういった人々に支えられて、俺たちはこの場に立っているのだった。
「それでね、フェルメス殿から、ひとつ提案があるのだけれども」
「はい。どのようなご提案でしょうか?」
「うん。アスタ殿とヴァルカス殿の料理を食べ比べて、どちらがどちらの料理であるかを当てる余興を楽しみたい、と仰っているのだよ。だから、会食の間は別室で控えていてもらえるかな?」
そんなことが余興になるのだろうかと、俺は小首を傾げることになった。
「こちらはまったくかまいませんけれど、貴き方々の間では、そういう余興もたしなまれるものなのですか?」
「いやあ、ジェノスでは聞かない余興だね。そもそも僕たちは、おふたりの料理を見分けることも容易いだろうから、余興にもならないよ」
そう言って、ポルアースは愉快げに微笑んだ。
「まあやっぱり、アスタ殿の腕が城下町の料理人と遜色のないものであるかどうか、正しく見極めたいと願っているのかもしれないね。何にせよ、アスタ殿たちはこれまで通りに料理を準備してくれれば、それで十分さ」
「はい、承知しました」
「会食の後には、いつも通りに挨拶をしてもらうからね。それまでは、アスタ殿たちも自分の食事を進めておくといいよ」
それはそれで、ありがたい話であった。ヴァルカスたちとの試食会も、俺たちにとっては大きなイベントなのである。
「それでは、またのちほどね。美味しい料理を期待しているよ」
そんな言葉を残して、ポルアースは貴賓館を出ていった。会食の開始まで、別の仕事を果たすのだろう。そんな多忙な中、わざわざ俺たちに声をかけるために、貴賓館までやってきてくれたのだろうか。ポルアースらしい心づかいであった。
そうして俺たちは身を清めて、いざ厨へと出陣した。
扉を開けると、とたんに複雑なる香気が襲いかかってくる。当然のこと、ヴァルカスたちはとっくに調理を始めていたのだ。
「ヴァルカス、本日はよろしくお願いいたします」
ヴァルカスは作業中の会話を好まないので、俺とレイナ=ルウだけが挨拶をしておくことにした。
鉄鍋を火にかけているロイに指示を飛ばしていたヴァルカスが、こちらに向きなおってくる。もちろん、どちらも覆面姿である。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。ひさびさにアスタ殿と同じ日に厨を預かることができて、心より嬉しく思っています」
まったく感情のこもっていない声で言い放ち、ヴァルカスはすぐにロイへと視線を戻す。
「ほら、火加減が強くなっていますよ。沸騰した泡の大きさが小指の爪よりも大きくならないように、と言ったでしょう? わたしの料理を台無しにしようというおつもりですか?」
「はい、すいません。すぐに調整します」
ロイはこちらを振り返るゆとりもなく、かまどと格闘している。
そんな師弟を尻目に、俺たちは早々に退散することにした。
「やはり、ヴァルカスの指導は非常に厳しいものであるようですね」
「うん。だからロイも、あれだけ腕を上げることができたんだろうね」
「……わたしもこれまで以上に励みたいと思います」
そんな風に述べるレイナ=ルウは、きりりと凛々しい面立ちになっていた。
俺は「そうだね」と笑いかけてみせる。
「それじゃあ、こっちも始めようか。分担は、きのう説明した通りにね」
「はい、承知しました」
ヴァルカスたちとはもっとも遠い作業台に陣取って、俺たちも仕事を開始した。
生きた魚や、これまであまり扱う機会のなかった乾物の調理を俺が受け持てば、レイナ=ルウたちの作業に変わるところはない。本日やってきたのはいずれも森辺で屈指のかまど番たちであるのだから、俺も安心して仕事を任せることができた。
(それに、禁じられてるのは獣肉と鳥肉だけだしな。これぐらいの条件づけは、むしろ腕が鳴るぐらいだ)
本日は、キミュスの卵やカロンの乳製品の使用を禁じられたりはしなかったのだ。アレルギー持ちや菜食主義というわけでもなく、あくまで純然たる偏食家であるのだろう。個人的にはあまり感心できた話ではないものの、貴族様の趣味嗜好にケチをつけるわけにもいかなかった。
(でも、ギバ料理で同じ喜びを分かち合えないのは、残念なところだよな)
本日の晩餐会は、森辺の民の代表として、ダリ=サウティとガズラン=ルティムだけが参席する予定になっていた。ダリ=サウティはこちらで選出したのであるが、ガズラン=ルティムはフェルメスが参席を要望した結果であった。
で、そのおふたりは、厨でこっそり作られるまかないのギバ料理を口にすることもできないので、魚料理だけで腹を満たさなくてはならないのである。俺たちも、ダバッグに旅行した際にはカロン料理だけで晩餐を済ませた日があったが、ダリ=サウティたちとしては忸怩たる思いであることだろう。
(でもまあきっと、家では家人がギバ料理の夜食を準備してくれているんだろうな)
貴族と同じ量の食事を口にしても、森辺の狩人であれば胃袋は半分ぐらいしか埋まらないに違いない。おかしなものを食べさせられたよと笑いながら、あとは家人の心尽くしで胃袋の残り半分を満たしてもらえたら幸いであった。
そんな風に考えている間にも、着々と料理は仕上がっていく。
時間が深くなっていくと、この貴賓館で働いている料理人たちが現れて、自分たちの仕事に取りかかり始めた。小さなほうの厨だけでは、仕事がおっつかなかったのだろう。このような際でも、貴賓館に逗留している人々に断食を強いるわけにもいかないのだ。
「……失礼いたします。森辺の料理人、アスタ殿ですな?」
と、わずかに見覚えのある壮年の料理人が、俺にうやうやしく頭を下げてきた。
「以前にも少し挨拶をさせていただいかと思いますが、わたくしはこの貴賓館にて料理長をつとめさせていただいておる者です。このたびは、森辺の方々のご尽力で、素晴らしい食材を取り扱わせていただくことがかない、心より感謝しております」
「あ、はい。それは、ミソのことですね?」
「はい。この貴賓館においても、ミソを使った料理は非常に好評であるのです」
それは、何よりの話であった。宿場町においても城下町においても、ミソの評判は上々であるようだった。もちろん森辺の集落においても、然りである。
「ミソはタウ油と同じように、煮物でも汁物でも焼き物でも扱いやすいので、重宝しております。……ただ、香草の類いと合わせるには、なかなか難しいように思いますな。こちらでも、アスタ殿が指南されたという通り、ミャームーやケルの根などを合わせて使い、香草のほうは見合わせている状態であります」
「そうですね。俺もまだ、香草との組み合わせは思案中です」
「ええ。香草の料理とミソの料理を分けてお出しすれば済む話ですので、さしあたって問題はないのですが……しかし、ヴァルカス殿であれば、いちはやくミソと香草の絶妙なる組み合わせを考案されるのでしょうな」
そう言って、その人物は遠くの作業台で働いているヴァルカスのほうを見やった。
その目には、憧憬とも羨望ともつかぬ光が宿されているように感じられる。
「それでは、お仕事の最中に失礼いたしました。何か足りない器具でもあれば、ご遠慮なくお声をおかけください」
「はい、ありがとうございます」
名も知れぬ城下町の料理人に声をかけられるというのは、なかなかに新鮮な体験であった。
それに、俺のような立場の人間にあれほどの敬意を払ってもらえるなんて、ありがたい限りである。
そうしてさらに時間が過ぎて、料理の完成も目前かと思われたタイミングで、扉の外から来客を告げられた。
アイ=ファとともに足を向けると、扉の外で護衛の仕事を果たしていたルド=ルウのかたわらに、美しい刺繍の入ったフードつきマントを纏ったシムの女性が立っている。言うまでもなく、それは占星師のアリシュナであった。
「アスタ、おひさしぶりです。忙しいさなか、申し訳ありません」
「いえいえ、まったくかまいませんよ。いったいどうされたのですか?」
「はい。アスタ、お話、あります」
それはもちろん、話があるからやってきたのだろう。俺が言葉の続きを待っていると、アリシュナは夜の湖を思わせる黒瞳で、静かにアイ=ファを見た。
「……アスタだけ、話すこと、可能ですか?」
「それは、私を遠ざけたいという意味か?」
たちまちアイ=ファが、ぴくりと眉を吊り上げた。機嫌を損ねた山猫と、優雅なシャム猫が相対しているかのような様相である。
「はい。できうれば、お願いしたい、思います」
「私を遠ざけたいと願う理由がわからん。後ろ暗いところがないならば、そのような真似をする必要はなかろう」
「……後ろ暗いところ、多少、あるのです」
アイ=ファの瞳がぐんぐんと物騒な光をおびていくのを感じて、俺は慌て気味に声をあげることになった。
「どういう話なのかはわかりませんが、アイ=ファは俺の家長です。何も隠し事をする間柄ではないので、アイ=ファを遠ざけても意味はないと思います」
「……では、アスタと家長、ふたりのみ、話、できますか?」
もとよりルド=ルウは、守衛の若者と楽しげに語らっている。それでも俺たちは何メートルかの距離を取って、密談の場をこしらえることにした。
「間もなく、王都の外交官、訪れます。私、話、急がなければなりません」
「はい。外交官にまつわるお話なのですか?」
「そうです。セルヴァの王、星読み、嫌っています。外交官、王の代理人ですので、私、警戒しているのです」
それはドレッグたちが訪れた際にも、ちらりと聞いたような覚えのある話であった。占星師を重宝することは、セルヴァの王に歓迎されない話であるようなのだ。
「……《アムスホルンの寝返り》、話、覚えていますか?」
「ええ、《アムスホルンの寝返り》の話というと――」
「ジェノス侯、たまたま、衛兵の演習、行っていました。それゆえ、ジェノスの被害、最小限、留められました。……私、無関係です」
アリシュナは、おそらく大地震の到来を占星の術で予見していた。その助言を受けたマルスタインが、演習という名目で衛兵を配置して、それに備えたのだ。
しかし、その話は内密であるのだと聞いている。その理由は、さきほどアリシュナが述べていた通りだ。あやしげな占星師の言葉に従って政を行うと、セルヴァの王の怒りを買う恐れが生じるのである。
「ああ、なるほど。アリシュナが無関係であることを、念押しに来たのですね?」
「はい。私、無関係です」
「もちろん、わきまえています。それに、俺たちと王都の人たちの間で、そんな話題が上がることはないと思いますよ」
「はい。アスタ、信用していますが、いちおう、念押し、しておきたかったのです」
すると、不機嫌そうに話を聞いていたアイ=ファが、アリシュナのほうに顔を近づけた。
「つまり、後ろ暗いというのは、王都の者たちに対してか。あまりまぎらわしい言葉を口にするな」
「はい。誤解、招いたのなら、謝罪いたします」
アリシュナは、恐れげもなくアイ=ファの顔を見つめ返していた。
「隠し事、ないならば、あなた、この話、聞いていましたか?」
「無論だ。お前はアスタに厄災除けの護符まで手渡していたのであろうが? その心づかいは、ありがたく思っていた」
「そうですか」と応じながら、アリシュナは俺のほうに目を向けてくる。
べつだん、責めるような眼差しではない。が、無表情のシャム猫にじっと見つめられているような感覚で、何とも落ち着かない心地であった。
「……私、無関係です」
「はい、念押しは不要ですよ。そもそもアリシュナと交わした言葉は、アイ=ファにしか打ち明けていませんでしたしね」
「……おふたり、強き絆、結ばれているのですね」
アイ=ファはいくぶん顔を赤くしながら、「おい」とアリシュナに詰め寄った。
アリシュナは、黒い水晶の彫像のごとき無表情で、そちらを振り返る。
「私、家族、いないので、羨ましい、思っただけです。他意、ありません」
「……どうでもいいが、その話はあのディアルという娘にも伝わっていたではないか? 口止めをしたいならば、もっと他に回るべき場所があるのではないか?」
「それは、ジェノス侯、お願いしています。ただ、アスタに語った、私自身ですので、私、おもむく必要、あったのです」
「……そういえば、お前はアスタの他にも、災厄除けの護符を与えたりはしていたのか?」
「いえ。アスタのみです」
アイ=ファが俺に向きなおり、じっとりとした視線を向けてきた。
それでアリシュナもつられたように、俺のほうを見つめてくる。
山猫とシャム猫の双方に見つめられて、落ち着かない気分も倍増であった。
「と、とにかく、そんな話を広めたりはしませんよ。そもそもアリシュナは、最初から無関係と言っていたのですからね。俺たちは虚言を罪としていますが、アリシュナ自身がそう仰っていたのですから、虚言を弄するまでもありません」
「……はい。お願いいたします」
アリシュナは深々と頭を下げてから、回廊の向こうに立ち去っていった。
あとに残されたのは、山猫のごとき眼光を持つ愛しき家長のみである。その青い瞳は、なおも俺のことをねめつけたままであった。
「……お前には、人を動かす力がある。先日のティアやユン=スドラたちと同じように、あのアリシュナなる者もお前のために動くことになった、ということなのであろう」
「う、うん。ありがたい話だよな」
「ああ、まったくな」
では、どうしてアイ=ファの瞳は、こんなにもじっとりしているのだろうか。
俺がその答えを見つけだすより早く、背後の扉が開かれて、レイナ=ルウの声が聞こえてきた。
「あの、アスタ。そろそろ仕上げにかかるべきかと思うのですが、いかがでしょう?」
「うん、いま行くよ! さあ、厨に戻ろうか!」
「待て」と、襟首をつかまれた。
アイ=ファの顔が、額をぶつけそうな勢いで迫り寄ってくる。
「……いまのは、私が狭量であったように思う。子供じみた態度を取ってしまったことを、許せ」
「え、あ、そうなのか?」
「うむ。私はあやつとあまり関わりがないので、いくぶん心を乱してしまうのであろうな」
そう言って、アイ=ファは目もとだけで微笑んだ。
いつも通りの、魅力的なアイ=ファの微笑である。
「しかし、あやつもアスタのことを案じてくれていることに変わりはない。次に会ったら、今日の無作法を詫びることにしよう。……さあ、お前はお前の仕事を果たせ」
「うん、わかったよ」
アイ=ファは、一昨日ぐらいから――つまりは、フェルメスと対面を果たしてから、少しだけ情緒が不安定なのかもしれなかった。
しかし、他の女性とのやりとりに眉を逆立てるアイ=ファも、素直に心情をぶつけてくるアイ=ファも、どちらもアイ=ファらしい態度と言えるだろう。ただ、その急変っぷりに、若干の不安定さを感じてしまうのだ。
(フェルメスと確かな絆を結ぶことができれば、アイ=ファも安心できるのかな)
ならば、本日の晩餐会がその一助になれば幸いである。
俺は間近に迫ったアイ=ファに微笑み返してから、自分の仕事に戻ることにした。