東の颶風⑦~風が止んで~
2018.11/26 更新分 7/8
シルエルが発見されたのは、それから数刻の後――太陽が西の果てに没したのちのことだった。
発見したのは、森辺の狩人ではなく、護民兵団の兵士である。ラントの川に身を投じたシルエルは、単身で森の端を逃げまどい、ようやく北方の街道にまで出たところで、捜索活動を続けていた護民兵団の兵士と出くわしたのだそうだ。
ティアに右手首をへし折られていたシルエルは、左手で兵士に斬りかかり、小さからぬ手傷を負わせたあげく――反撃されて、魂を返すことになった。他の兵士たちが駆けつけたとき、シルエルを討ち取った兵士も血まみれの惨状であったのだという話であった。
その報告を受けたドンダ=ルウは、自らの足で確認に出向いた。
本当にシルエルは魂を返したのか、自分の目で確かめずにはいられなかったようである。
「あれは、まぎれもなく大罪人シルエルの亡骸だった」
そしてその顔は、最期まで醜く笑っていた――と、ドンダ=ルウは語っていたらしい。
俺とアイ=ファがその話をルド=ルウから伝え聞いたのは、とっぷりと夜も更けた後である。俺たちは、ファの家でティアの治療にかかりきりであったのだ。
幸いなことに――本当に幸いなことに、ティアは一命を取りとめた。
そこで大きな役割を果たしたのは、他ならぬシュミラルであった。ドンダ=ルウが、東の生まれで薬草の扱いに長けているシュミラルを、ファの家に送りつけてくれたのである。
「峠、越えました。安静、していれば、いずれ元気、なるでしょう」
シュミラルがそのように語ったのは、一夜が明けて翌朝のことだった。
徹夜で看病をして情緒も乱れまくっていた俺は、思わずその手に取りすがって、涙をにじませてしまったものだった。
「ありがとうございます、シュミラル。……本当にありがとうございます」
「いえ。これも、ティア、強いゆえです」
シュミラルは穏やかに微笑みながら、そう言ってくれていた。
しかし、赤き民であるティアの治療をするために、町の医術師を呼びつけることは許されない。もしもシュミラルがいなかったら、ティアも魂を返していたことだろう。それぐらい、ティアは危うい状態にあったのだ。
その日ばかりは、俺も屋台の商売を休ませてもらい、ティアのかたわらに付き添うことにした。
しかし、可能な限りは商売をするべきであろうということで、ユン=スドラがまた取り仕切り役の肩代わりを申し出てくれた。万が一の事態に備えて、ルウとスドラから護衛役の人間を出す、という話にもなっていた。
「宿場町の民たちも、きっとアスタの身を案じているでしょうからね。アスタは無事に過ごしているということを、わたしたちが伝えてきます」
朝方にファの家を訪れてくれたユン=スドラは、笑顔でそのように述べていた。
そのかたわらで、トゥール=ディンは目を潤ませてしまっている。
「本当に、アスタが無事でよかったです……わたしは、何のお役にもたてなくって……」
「何を言っている。お前たちは、それぞれの家の男衆を呼び戻すために、尽力してくれたのであろうが?」
アイ=ファは凛然とした表情を保持しつつ、ふたりの姿をやわらかい眼差しで見返していた。
昨日、あの場に居合わせていた女衆たちは、盗賊どもがいなくなると同時に、それぞれの家に走ってくれたのだ。そうして森の狩り場に向かうと、宿場町で手に入れた横笛を無茶苦茶に吹き鳴らして、なんとか狩人たちを呼び寄せようと苦心してくれたのだった。
それで危急を知ることができたのはアイ=ファとスドラの狩人たちのみであったが、それはアイ=ファたちがたまたま狩り場の手前にまで戻ってきていたためであった。トゥール=ディンもフェイ=ベイムも、マルフィラ=ナハムもリリ=ラヴィッツも、フォウやラン、ガズやマトゥア、リッドやダゴラ――とにかくその場に居合わせた全員が、それぞれ危険もかえりみずに、俺を救おうとしてくれていたのだ。
「そのおかげで、私たちはアスタのもとに駆けつけることができた。ユン=スドラはもちろん、他の女衆にも深く感謝している」
「いえ……とにかく、アスタが無事でよかったです……ティアのほうは、心配ですけれど……」
「ティアも、大丈夫だ。リリンの家のシュミラルが手を尽くしてくれたからな」
そこでアイ=ファは珍しくも、ユン=スドラたちに笑顔を見せた。
「いずれ、それぞれの家の者たちに、あらためて礼の言葉を届けたいと思っている。この恩義は、決して忘れぬぞ」
ユン=スドラは嬉しそうに笑顔を返し、トゥール=ディンは泣き笑いのような顔になっていた。
そうしてふたりはかまど小屋に向かい、俺たちはティアとシュミラルの待つ広間に戻る。
腹ばいの体勢で横たえられたティアは、いくぶん苦しげに眉をひそめつつ、昏々と眠っていた。
それでも昨晩のようにうなされてはいないし、呼吸もずいぶんゆるやかになっている。背中と左手に巻かれた包帯が痛々しいものの、シュミラルの言う通りに峠は越した様子であった。
「今日中、目、覚ますことでしょう。身体、弱っているので、滋養ある煮汁、与えてください」
「はい。シュミラルは、いつまでファの家に留まってもらえるのですか?」
「家長ギラン、いつまででも、言っていました。念のため、明日の朝まで、いたい、思います」
「ありがとうございます。……こんな形でシュミラルをファの家に迎えることになるとは思ってもみませんでした」
「はい。アスタたち、力、なれて、嬉しく思います」
そう言って、シュミラルはまた静かに微笑んでくれた。
その面に、ふっと物憂げな陰がさす。
「でも、山の民、森辺の集落、脅かす、考えていませんでした。彼ら、かつての同胞なので、気持ち、複雑です」
「ええ。ですが、山の民と草原の民では、ほとんど交流もないのでしょう?」
「はい。ですが、同じ東方神の子です。私、すでに、西方神の子ですが……やはり、複雑です。彼ら、これから、裁かれるのですね?」
シルエルを除く17名は、全員が生きたまま捕縛されている。しかし彼らは、むしろジェノス以外の領地で大きな罪を働いていたので、どれだけの罰を与えるかは王都の判断を仰ぐのだそうだ。
しかし、もともとが死罪よりも重い苦役の刑に処されていた大罪人たちなのである。その刑場から逃げ出したあげく、盗賊などに身をやつしていたとなると――いったいどれだけの罰を与えられることになるのか、俺には想像もつかないほどであった。
「……あやつらも、シルエルという毒に犯されてしまったのであろうな」
ティアの寝顔を見つめていたアイ=ファが、ぽつりとつぶやいた。
俺がシルエルから聞いた言葉の数々は、森辺の同胞にも城下町の人々にも、すべて伝えられている。それを聞いて楽しいと思う人間は皆無であろうが、俺は伝えずにいられなかったのだ。
「何か、不思議な運命、感じます」
と、今度はシュミラルが言葉をもらす。
「《アムスホルンの寝返り》、さまざまな運命、動かしました。ズーロ=スン、サイクレウス、シルエル――3名の大罪人、運命、動かされたのです」
ズーロ=スンは正しい行いを果たしたと認められ、サイクレウスは魂を返し、シルエルは――ひとときの自由を得たのちに、破滅した。同じ災厄に見舞われながら、確かに三者の運命は明確に分かたれたのだ。
「私、星読み、たしなみませんが、大きなうねり、感じます。眠れる大神の意思、何なのか……気にかかります」
「……大神の意思を、人の子が読み解くことはできない……」
俺たちは、みんなで息を呑むことになった。
ティアがうっすらと目を開けて、蚊の鳴くような声で囁いていたのである。
「ティ、ティア! 目が覚めたのか?」
「アスタ、無事だったのだな……ティアは、嬉しく思う……」
ティアの澄みわたった赤褐色の瞳が、すがるようにアイ=ファを見た。
「やはり、アイ=ファがアスタを救ってくれたのだろう……? アスタの身を守ることができなくて、申し訳なく思う……」
「何を言っている。お前がいなければ、アスタは私たちが戻る前にかどわかされてしまっていたはずだ」
アイ=ファはティアの手にそっと手を重ねながら、とても優しい声で答えた。
「お前は自分の生命を使い、アスタの身を守ったのだ。お前はもう、誰にその身を恥じる必要もない。傷が癒えたら、胸を張って故郷に帰るがいい」
「ティアは……己の罪を贖うことができたのだろうか……?」
「もちろんだよ。俺がこうして元気でいられるのは、ティアのおかげだ。ありがとう、ティア」
俺はティアの髪に手を触れながら、そのように答えてみせた。
ティアは弱々しく口もとをほころばせたかと思うと、こらえかねたようにまぶたを閉ざして、そのまま眠ってしまったようだった。
「こんなに早く、意識、取り戻す、思いませんでした。恐るべき生命力、思います」
「ふん。こやつは森辺の民にも劣らぬ、強き狩人であるからな」
アイ=ファは最後にきゅっとティアの手を握ってから、おもむろに身を起こした。
「さて。我々も昨晩は眠っていないのだから、順番に身を休めるべきであろう。まずは客人たるシュミラルに休んでほしく思うが……その前に、腹は空いておらぬか?」
昨晩は、サリス・ラン=フォウたちがこしらえてくれたスープと焼きポイタンだけで食事を済ませていたのだ。シュミラルは「多少」とはにかむように答えていた。
「かといって、干し肉だけでは申し訳ない。アスタ、何か簡単なものをこしらえてやるといい」
「うん、了解。それじゃあ食料庫から食材を持ってくるよ」
「うむ。私も手伝おう」
そうして俺たちは、連れ立って家を出た。
家の外では、ファの家の家人らが勢ぞろいしている。ギルルもジルベもシムの毒の後遺症もなく、いつも通りの元気な姿を見せていた。
ただしジルベは、いくぶん悄然とした様子である。俺の身を守れなかったことを申し訳なく思っているのだろうか。俺はジルベのもとに屈み込んで、そのたてがみごと首筋を撫でてやった。
「昨日はジルベもひどい目にあっちゃったな。ジルベが無事で、本当によかったよ」
「うむ。毒を扱う山の民では、相手が悪い」
そう言って、アイ=ファもジルベの背中を撫で始めた。
ジルベは「くうん」と甘えた声を出している。
毒を与えられたあげくにおもいきり転倒する羽目になったギルルは、素知らぬ顔で枝の葉を食んでいる。ブレイブとドゥルムアは、そのそばで棒のひっぱりっこに勤しんでいた。
いつも通りの、平和な情景である。
それが無残に踏みにじられなかったことを、俺はあらためて森と西方神に感謝することになった。
愛おしい家人たちに別れを告げて、俺たちは家の横手に回り込む。
その途中で、アイ=ファが「待て」と足を止めた。
「どうしたんだ?」と振り返ると、壁にぴったりと背中をつけて、これから向かおうとしていた方向をねめつけている。その姿に、俺はぎょっとすることになった。
「ど、どうしたんだよ? もう盗賊の残党なんていないはずだぞ?」
「そうではない。……この位置ならば、かまど小屋の窓から盗み見られることもあるまいな?」
「そりゃあ、こっちからもかまど小屋はまだ見えてないんだから、向こうからも見えないだろう。いったい何がどうしたってんだ?」
「いや。昨晩はずっとシュミラルとともにティアの面倒を見ていたので、アスタとゆっくり言葉を交わすこともできなかった」
壁に張りついたまま、アイ=ファが俺に視線を向けてくる。
その瞳には、思いがけないほど優しげな光が浮かんでいた。
「ユン=スドラから話を聞いたときには、目の前が闇に包まれた。それからアスタの無事な姿を見るまで、私は生きた心地がしなかった」
「うん。アイ=ファには心配かけちゃったよな」
「それは、お前の責任ではない。それに、お前は……まるで狩人のように目を燃やしながら、シルエルたちと相対していた」
そう言って、アイ=ファは花が開くように微笑んだ。
「お前はときおり、あのような気迫を見せる。しかし、あのときは……本当に、狩人もかくやという気迫であったのだ」
「うん、まあ、ティアがあんな目にあって、俺もかなり追い詰められてたからな。それに……シルエルの言い分が、どうにも我慢ならなかったんだ」
そんな風に言ってから、俺は頭をかいてみせた。
「だけどけっきょく何もできなくて、またアイ=ファたちに助けられることになって……本当に不甲斐ないよ」
「そのようなことはない。ティアやユン=スドラたちを動かしたのは、お前の力だ。お前がそのような人間であるからこそ、皆は危険をかえりみずに行動を起こすことがかなったのだ」
それは、ティアにも同じようなことを言われていた。
だけどやっぱり、それで自分を誇る気持ちにはなれそうにない。ただ、みんなに感謝するばかりであった。
「とにかく私は、お前が無事でいてくれたことを、心から嬉しく思っている。これ以上の幸福を望むつもりはない」
「うん。俺もアイ=ファと無事に再会できて――」
言葉の途中で、アイ=ファが俺につかみかかってきた。
いや、俺の両脇に腕を差し入れて、ぎゅっと抱きすくめてきたのだ。
一瞬だけあばらが軋み、それはすぐにやわらかい抱擁へと切り替えられた。
「……お前は忍耐強いのだな、アスタよ」
「うん、何の話かな?」
「……お前のほうから身を寄せてくると思ったのに、私のほうが我慢ならなくなってしまった」
アイ=ファが背伸びをして、俺の頬になめらかな頬をこすりつけてくる。
俺は鼓動を速くしながら、そっとアイ=ファの背中に両腕を回してみせた。
「……アスタ、いくぶん背がのびたか?」
「さて、どうだろう。ここには身長をはかる器具もないから、わからないよ」
「私よりも、また少し大きくなった感じがする。……家長をさしおいて、生意気なやつだ」
そんな風に囁きながら、アイ=ファはまた頬をすりつけてきた。
ティアの看病で張り詰めていた気持ちが解きほぐされて、深い安堵と幸福感が五体に満ちみちていく。
俺たちは、こんな幸福をも踏みにじられそうなところであったのだ。
アイ=ファの髪の甘い香りに陶酔しながら、俺は心の片隅で考えていた。
(人を愛し、人に愛されることを、幸福だと感じられないなんて……そんな気の毒な話はないよ)
もう俺は、シルエルの冥福を祈る気持ちになれない。
その代わりに、別のことを祈ることにした。
(俺たちには、シルエルを正しく裁くことができなかったみたいです。シルエルの魂は、あなたがたが裁いてください。……彼だって、もともとはあなたたちの子だったんですから)
そして、もうあのように悲しい存在が、この世で迷い子になりませんように――
俺としては、そのように祈ることしかできなかった。