東の颶風⑤~真相~
2018.11/26 更新分 5/8 ・11/30 誤字を修正
「あの忌々しい鉱山で奴隷のように働かされていた俺たちは、《アムスホルンの寝返り》によって、逃げ道を塞がれてしまった。しかし、手もとには岩盤を掘り進めるための道具が山ほど残されていたのでな。それで文字通り、活路を切り開くことになったのだ」
飢えた獣のように両目をぎらつかせながら、シルエルはそのように述べたてた。
「もちろんそれは、楽な仕事ではなかった。周囲を取り囲むのは硬い岩盤ばかりであったし、火などはすぐに尽きてしまった。俺たちは、鼻をつままれてもわからない暗闇の中、何日もかけて穴を掘ることになったのだ。それがどれだけの労苦であったか、貴様などには想像もつくまいな、ファの家のアスタよ」
俺はまだ、目の前の現実を受け入れることができていなかった。
そんな俺を嘲笑うように、シルエルは醜く口を吊り上げている。
「しかし俺たちは、あのように深い穴の中で生き埋めにされたにも拘わらず、呼吸のすべを失うことにはならなかった。ということは、どこかで地上と繋がっていたのだ。入り口を塞いでいた岩盤には針を通す隙間もなかったので、きっと奥側に出口が存在するのだろう――そのように信じて、俺たちは来る日も来る日も岩盤を砕き続けた。1日が過ぎるごとに仲間の数は減っていき、脱出を果たしたのは、わずか18名――俺を除くすべてが、この山の民たちだった。俺以外の西の民などは、最初の数日であらかたくたばっていたことだろう」
「だが、あなた、いなければ、我ら、生きること、あきらめていた。あなた、2回目の生、与えてくれたのだ」
金髪紫眼の山の民が、感情のない声でそのように言いたてた。
彼らの本当の首領は、このシルエルであったのだ。その事実に、俺は戦慄していた。
(こいつらは、シムの山からやってきたんじゃなく……シルエルと同じ場所で苦役の刑に処されていた大罪人だったんだ。だから、いきなりセルヴァの最南部に姿を現すことになったのか)
もちろん、生き埋めになったはずの大罪人たちが脱出したなどという話は、伝えられていない。彼らは坑道を掘って掘って掘り尽くして、誰にも知られぬまま地上への脱出を果たしたのだ。
「だけど、どうして盗賊団なんかに……せっかく生きながらえたんなら、それを神に感謝するべきじゃあ……」
「馬鹿か、貴様は?」
俺の言葉は、シルエルに荒っぽくさえぎられた。
「俺たちは、苦役の刑に処されていた大罪人だ。再び兵士に捕らえられたら、また別の鉱山に送られることになる。それでは、生きながらえた甲斐もあるまい?」
「だ、だけど……」
「これを見ろ」と、シルエルは俺の言葉をさえぎった。
そうして右腕の篭手を脱ぎ捨てると、俺のほうに手の甲をかざしてくる。そこには青黒い染料で、奇怪な刺青が彫りつけられていた。のたうつ毒蛇のごとき不吉な紋様が、手の甲から前腕にまでびっしりと刻みつけられていたのである。
「これが、罪人の証だ。この紋様を消すことは、王都の刑務官にしかできん。この忌々しい紋様が両腕に残されている限り、四大王国に我らの暮らせる地はないのだ」
シルエルに視線でうながされると、金髪紫眼の男も同じように手をかざした。
皮膚のほうが暗い色合いをしているのに、そこにも青黒い刺青がくっきりと刻みつけられている。俺の知らない特殊な染料が使われているのだろう。
「だから俺たちは、四大神を捨てた。四大王国の民ではなく、自由気ままな流浪の民として生きる道を選んだのだ。……そもそも神を捨てなければ、全員があの暗がりで魂を返していたのだからな」
シルエルは、狂気を宿した顔で舌なめずりをした。
「俺たちが自由を得るために、どれだけの日を重ねたと思っているのだ? その間、岩盤の隙間に蠢く虫やギーズを捕らえるだけで、腹を満たせると思うのか? それに、咽喉を潤すものがなければ、3日と生きながらえることはかなわなかったことだろう」
「あ、あんたはいったい何を……」
「俺たちは、生き抜くために神を捨てた。四大神には決して許されない大罪を、あの暗がりの中で何度も犯したのだ。俺たちは、あの場で生き埋めにされた全員の生命を背負って生きている」
俺は、悲鳴をあげそうになるほどの恐怖を覚えた。
ティアの身体から伝わってくる温もりだけが、正気を繋ぎとめるためのよすがであった。
「そうして自由を得た俺たちは、何にはばかる必要もなく、生きるための糧を得た。これだけの山の民がそろっていれば、草原の民とて恐れるものではない。そやつらからシムの毒を奪い、いっそうの力を得て……そして、さらなる力を得るために、このジェノスまで出向いてきたのだ」
「それじゃあ……トゥランの北の民を仲間にしようとしたのも……」
「ああ。かつては卑しき奴隷と思っていた北の民も、神を捨てた後では憎むにも値しない。だから仲間にしてやろうと思ったのに、あやつらは俺が思っていた以上に愚かであった。だから、この手で斬り捨ててやったのだ」
シルエルは、身体をのけぞらせて高笑いした。
「あいつらの力を得られれば、力ずくでジェノスを滅ぼしてやったのだがな。その道は潰えたので、新たな手を打つ他ない。その要となるのが貴様なのだ、ファの家のアスタよ」
「どうしてだ……俺をさらって、いったい何の得があるってんだ?」
「貴様を人質にして、北の民の解放を要求する。そうして北の民の女どもを手にすれば、頑迷なる男どもを動かすことも難しくはあるまい。その力で、今度こそジェノスを滅ぼすのだ」
「お、俺なんかを人質にしたって、ジェノス侯爵が言いなりになんてなるもんか!」
「そのときは、貴様をなぶり殺しにする。そうしたら、森辺の民はどのように振る舞うだろうな?」
シルエルは、黄ばんだ歯を剥き出しにして笑った。
「ジェノス侯爵マルスタインの判断で、貴様は想像を絶するような痛苦の末に、魂を返すことになるのだ。この先は、森辺の民どももとうていジェノスの貴族どもと馴れ合う気にもなれまい。それを尻目に、俺たちは別の土地を目指して、力をたくわえることにする」
「……そんな真似をして、いったい何になるっていうんだよ?」
無駄と知りつつ、俺はそう問い質した。
シルエルは、嗜虐の喜びにひたりながら、口もとをねじ曲げる。
「俺を破滅させたのは、マルスタインと森辺の民だ。そして、そのふたつを結びあわせたのは、貴様とカミュア=ヨシュだ。貴様とカミュア=ヨシュだけは、決して許すことができん。もちろん、ジェノスの他の貴族どもや、森辺の民どももな。俺たちは今後の生のすべてをかけて、貴様たちに滅びを与える。そのためにこそ、俺たちは生きているのだ!」
俺は、無言でたたずむ山の民たちを振り返った。
「あんたたちは、どうなんだ? あんたたちは、ジェノスや森辺の民に恨みなんてないんだろう? それなのに、こんな無謀な行いに手を染めているのか?」
「……我らの長、シルエルだ。シルエルの喜び、我らの喜びだ」
俺は、目のくらむような絶望感を味わわされることになった。
ほとんど無意識のうちにティアの身体を抱きすくめながら、俺はシルエルに向きなおる。
「どうしてなんだ……あんたと同じように生き埋めにされて、あんたと同じように周囲の人間を助けたズーロ=スンは、心正しく生きようとしているのに……あんたはどうして、そうなんだ?」
「ズーロ=スンか。懐かしい名前だな。あのような軟弱者と、俺を一緒にするな。もちろん、愛しき兄君たるサイクレウスや、かつての族長ザッツ=スンともな」
色の淡いシルエルの目に、新たな激情が噴きこぼれる。
それは、俺の知らない、おぞましき激情の奔流であった。
「俺の魂は、最初から誰にも祝福されていなかった。俺はこの手で、自分の父親と兄君を殺したのだ。それでも俺は、恐怖に打ち震えることもなかった。慙愧の涙を流すこともなかった。俺の身には、最初から人間らしい心など備わっていなかったのだ」
「だけど、そんな……」
「貴様にはわからんのだろう、ファの家のアスタ。人を愛し、人に愛されて、そこに喜びを見出すことのできる、そんな真っ当な人間に、俺を理解することはできん。俺は最初から、こうなのだ。父なる西方神とやらは、俺に人間らしい心を与えることを忘れたまま、人の世に放ってしまったのだ」
ぞくぞくと、冷たいものが背筋を走っていく。
恐ろしい言葉を述べながら、シルエルは恍惚たる表情になっていた。
その声は、まるで自分の罪を誇っているようにすら感じられた。
「貴様のように真っ当な人間を踏みにじることが、俺にとっては何よりの喜びであるのだ。俺は、そういう人間であるのだ。2番目の兄君たるサイクレウスなどは、俺にまたとない喜びを与えてくれたものだ」
「サイクレウスが、何――」
「サイクレウスも、ただ弱いだけの人間だった。卑屈で、脆弱で、利己的で、ギーズの鼠のようにちっぽけな男だった。それが俺の言いなりになって、俺と同じ泥沼に沈んでいく姿が、どれだけ俺に愉悦を与えてくれたことか……だから俺は、あの小男だけは殺さずにおいたのだ」
俺の心臓が、不規則な感じにバウンドした。
俺の作った『ギバ・スープ』を力なくすするサイクレウスの姿や、サイクレウスの死を告げるリフレイアの姿が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。
俺は、呼吸が苦しくなっていた。
怒りとも悲しみとも異なる激情が、血流にそって身体の隅々にまで行き渡っていくのを感じる。
そんな俺の視界の隅で、山の民たちがぴくりと身体を震わせるのを感じた。
「あの暗がりで神を捨てることによって、俺はようやく魂の自由を得た。俺の間違いは、西方神などを神として崇めていたことであったのだ。神の定めた規律など知ったことか。俺は俺の好きなように生きる。弱き者から奪い、この世の悦楽を味わい尽くして、最後は泥沼に魂を放り捨てる。それでおしまいだ。あとは誰かにこの首を斬り落とされるその日まで、自由きままに生きてやるだけだ」
「そうなのか。神を捨てたっていうあんたの言葉が、少しだけ理解できた気がするよ」
無意識の内に、俺はそう答えていた。
シルエルは「ほお?」と目を細めている。
「急に怯えることをやめたようだな。刀を持ち上げることもできない軟弱者の分際で、けなげなものだ」
「俺は確かに無力だよ。だけどこの世界で、みんなに同胞と認められるために、これまで必死にやってきたんだ。もともと神を持っていなかった俺は、母なる森と父なる西方神の子となるために、生きてきたんだよ」
ティアの頭を胸もとに抱え込みながら、俺はシルエルをにらみすえた。
「あんたのことだけは、許せそうにない。そして俺は、あんたの言いなりになんかならない。どんなに非力なかまど番でも、死力を尽くしてあんたにあらがってやる」
「俺のことを許せそうにない、か……それはこちらの台詞だな、ファの家のアスタよ」
邪悪に笑うシルエルの姿が、ひと回りも膨らんだように感じられた。
「貴様が西方神の洗礼を受けたという話は、俺も伝え聞いている。俺たちはなるべくジェノスに近づきすぎぬように気をつけながら力を蓄えていたのだが、しかし貴様の名はそのような遠方にまで、面白おかしく伝えられていたのだ」
「……それが、何だっていうんだ?」
「貴様は宿場町のみならず、城下町においても凄腕の料理人と認められたそうだな。そして、王都の監査官までもがその腕を認めて、貴様がジェノスの民になることを許したと聞く……俺からすべてを奪った貴様が、光り輝く未来と栄誉を得ることになったのだ。こんな愉快な話はあるまい?」
ぎりぎりと歯を噛み鳴らしながら、シルエルはなおも笑っている。
「だから俺は、貴様を狙うことにしたのだ。貴様の存在を利用して、ジェノスの貴族と森辺の民の絆を断ち切る。北の民など、解放されなくともいい。むしろ、解放されないほうが面白いぐらいだ。貴様の築きあげてきたものをこの足で無茶苦茶に踏みにじってやったら、どれほどの愉悦を味わえるだろうな?」
「……そんな未来は、永久に訪れないよ」
「ふふん。どのようにあがいても、貴様に逃げのびるすべなどは残されておらんぞ?」
すると、金髪紫眼の男が、すっとシルエルに近づいた。
「シルエル。ファの家のアスタ、連れていくのか?」
「うむ? いまさら何を言っているのだ。そのためにこそ、俺たちはこんな場所にまで出向いてきたのだろうが?」
「しかし、この男、危険だ。……何故か、そのように思う」
「ふん。お前は星読みの技まで使えるのか? そうだとしても、こやつをただ斬り捨てるだけで済ますわけにはいかん」
「そうか。……あなたの言葉、従おう」
男は、半月刀を抜き放った。
「ファの家のアスタ。一緒、来てもらう。その娘、地面、置け」
「嫌だね。シルエルに従うなら、あんたも敵だ」
「……置かねば、目玉、えぐりだす」
半月刀の切っ先が、俺の目の前に突き出された。
その白銀のきらめき越しに、俺は相手をにらみつけてみせる。
「そうか。あんたは大神アムスホルンの怒りを恐れてるんだな。そういえば、あんたたちを苦役の刑から救ったのも、その大神の寝返りなんだもんな」
「……その娘、地面、置け」
「あんたにも、少しは人間らしい心が残されてるんだろう? 本当に、シルエルなんかと一緒に破滅するつもりなのか?」
男は力を振り絞って、何とか無表情を保っているようだった。
そこで、シルエルが「待て」と声をあげる。
「お前は本当に、大神の怒りなどを恐れているのか? 四大神を捨てた俺たちにとっては、その父たるアムスホルンも恐れる必要はないのだぞ」
シルエルは、邪悪な笑いをひそめた目つきで、男の顔を見やっていた。
男は刀を下げて、申し訳なさそうに目を伏せる。
「心、弱いこと、恥ずかしく思う」
「ふん。それでもお前たちは、俺にとって17人しかいない、最後の同胞だ。お前たちを統べる人間として、また俺が手本を見せてやる他ないな」
シルエルは、色の悪い舌で自分の人差し指を舐めた。
「ファの家のアスタよ、その野人めを地面に置け。俺が首を刎ね落としてやる」
「そんな風に言われて、俺が従うと思うのか?」
「従わなければ、俺はこの指で貴様の目玉をくりぬいてやろう」
「あんたの言葉には、絶対に従わない」
シルエルが、唾液にまみれた指先を近づけてきた。
俺はそれから逃れるべく、ティアを抱きしめたまま、腰を浮かせた。
俺の算段は、ひとつである。
このままティアとともに、背後の断崖から身を投じるのだ。
非力な俺がこいつらから逃れるには、もはやそれしか手段はなかった。
(ごめん、アイ=ファ。自分の生命を危険にさらすことになるけど……俺はどうしても、こいつの言いなりにだけはなりたくないんだ)
この断崖から、底に流れる川までの高さは、およそ20メートル。最初に見たときは足がすくんで、思わずアイ=ファにすがりついてしまったほどの高さである。
そんな高さから身を投じて、無事でいられるかはわからない。
ましてや、ティアは意識を失った状態であるのだ。
しかしこのままではティアが殺されてしまうし、俺の身柄はシルエルたちに奪われてしまう。俺の身柄が原因で、再び森辺の民とジェノスの貴族たちの間に大きな亀裂が走ってしまうだなんて、そんなことを自分に許せるはずがなかった。
(何としてでも生き抜いてみせる。だから、無謀な真似をすることを許してくれ、アイ=ファ)
脳裏のアイ=ファに謝りながら、俺が両足に力を込めようとしたとき――思いがけないことが起きた。
ティアの身体がばね仕掛けのように跳ねあがり、俺の手もとからいなくなってしまったのだ。
その勢いで俺は尻餅をつき、そこにシルエルの絶叫が響いた。
ティアは、シルエルの右手首に喰らいついていた。
めきめきと、骨の軋む音色が響く。
「は、離せ! 離せ、この野人めがああああっ!!」
シルエルは残された左手で、ティアの顔面を突き離そうとしていた。
しかしティアの口はシルエルの手首から離れず、ぼぎんと不吉な音を響かせる。
シルエルの手首に喰らいついたティアは、獣のような形相になっていた。
しかし、シルエルのように醜い形相ではない。誇り高き狼のごとき形相である。
その赤き瞳に渦巻くのは、怒りと覚悟の業火であった。
俺が呆然としている間に、ティアが大きく足を開いた。
そして、シルエルの手首を噛んだまま、勢いよく身を屈めようとする。
ティアは、そのままシルエルを断崖の下に投げ捨てようとしているのだ。
俺がその事実を理解して、シルエルの足が地面からふわりと浮きかけた瞬間――金髪紫眼の男が、半月刀を振り上げた。
俺は「やめろ!」と絶叫し、男につかみかかろうとしたが、それよりも早く、白刃がきらめいた。
ティアの背中が、右肩からななめに斬りふせられる。
ティアは真っ赤な鮮血をほとばしらせながら、ぐしゃりと地面に崩れ落ちた。
「ティア!」
俺はティアの身体を抱きかかえた。
その腕が、温かい液体にまみれていく。
ティアはうっすらと目を開けて、俺の顔を力なく見上げていた。
「アスタは、無力ではない……ティアを動かしたのは、アスタの力だ……」
「しゃべっちゃ駄目だ! ティア、しっかりしろ!」
「ティアは、アスタに出会えて幸福だった……アスタもそうであったら、とても嬉しい……」
ティアは静かにまぶたを閉ざした。
その背中からは、信じ難いほどの鮮血が噴きこぼれている。
俺は再びティアの身体を抱きすくめて、その傷口を両手でふさいだ。
「こ、この、醜き野人めが、よくも俺の腕を……!」
だらんと直角に折れ曲がった右手首を抱え込みながら、シルエルが怒号をあげた。
「それをよこせ、ファの家のアスタ! 五体をバラバラに切り刻んでくれる!」
「うるさい! 俺は……俺は絶対に、お前たちを許さない!」
俺はシルエルでなく、ティアを斬り伏せた男をにらみすえた。
金髪紫眼のその男は、またぴくりと身体を震わせて後ずさる。
「何をやっている! その野人めをアスタから引きはがせ! まだ息があるなら、魂を失う前にありったけの苦痛を与えてやるのだ!」
その言葉を聞いて、別の男が刀を抜き放った。
「ファの家のアスタ。その娘、渡せ」
「嫌だ! 断る!」
「では、お前ごと、斬る。腕の1本、失っても、死なずに済む手段、知っている」
男が、刀を振り上げた。
俺は今度こそ、断崖から身を投じようと腰を浮かせる。
その足もとに、半月刀が転がった。
驚いて顔をあげると、男は苦痛に顔を引きつらせていた。
かつては東の民であったその男が、驚愕と苦悶に顔面を引き歪めていたのだった。
その理由は、すぐに知れた。
男の振り上げた右腕の前腕に、1本の矢が突きたっていたのだ。
そして、さらなる矢が飛来して、男の右すねと、左腿をつらぬいた。
男はうめき声をあげながら、地面に突っ伏すことになった。
「な、何者だ!」
シルエルが、背後の森を振り返る。
俺の近くにいたふたりの男と、少し離れた場所で刀をかまえていた3名も、同じように森を見ていた。
「……何者と問われるべきは、お前たちであろう」
その声が耳に飛び込んできた瞬間、俺は目眩のするような激情にとらわれた。
それは、俺がこの世でもっとも愛おしく思っている相手の声であったのだった。
「この森辺で悪さをする人間は、私たちが罰を下すことを許されている。いますぐに、私の家人から離れよ」
がさりと茂みを踏みながら、アイ=ファは森と岩場の狭間にまで進み出てきた。
その手には、さきほどの盗賊たちと同じように、弓と矢がかまえられている。
そしてアイ=ファの左右には、同じポーズを取ったライエルファム=スドラとチム=スドラの姿もあった。