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異世界料理道  作者: EDA
第三十九章 南の実りと東の颶風
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東の颶風③~逃走~

2018.11/26 更新分 3/8

「い、いまのは、東の民の声ですか? まさか、東の民の盗賊団が、森辺の集落に……?」


 俺から少し離れた場所で身を屈めたユン=スドラが、低い声でつぶやいていた。その腕に抱きすくめられたトゥール=ディンは、真っ青な顔で身体を震わせている。


「こんなに近づかれるまで、気配に気づくことができなかった。どうやら森辺の民ほどではないにせよ、気配を殺すことに長けた者たちであるらしい」


 俺のかたわらでは、ティアがそのようにつぶやいている。

 その小さな身体から、赤き民の狩人としての気迫がみなぎっていた。


「たぶん相手は、6人から8人ぐらいだ。木の壁が邪魔で、それぐらいしか感じ取れない」


「6人から8人……《颶風党》は、10人から20人ぐらいの盗賊団って話だったけど……」


「それならきっと、もう少し離れた場所にいるのだろう。ティアに感じ取れるのは、6人から8人ぐらいだ」


 そうしてティアと話している間も、俺は悪夢を見ているような心地であった。

 そこに、再び怒号が響きわたる。


「焼け死ぬ、望みか!? 逃げること、不可能だ!」


 俺から見て右手側の窓から、新たな火矢が射かけられてくる。

 その火矢も壁に突き刺さり、黒い煙をあげ始めた。


 そこで、「え、ええいっ!」と上ずった声があがり、煙をあげていた壁に大量の水がぶちまけられる。

 声の主は、マルフィラ=ナハムであった。マルフィラ=ナハムが身を屈めたまま、持ち前の怪力で水瓶の水をぶちまけたのだ。


 壁を燃やしていた火矢は、それであえなく消火される。

 が、安心したのも束の間、今度は逆側の窓から2本いっぺんに火矢が投じられて、壁に突き立つことになった。


「無駄だ! 我ら、外の壁、狙うこと、できる! 出てこなければ、火炙りだ!」


 声量はあるのに感情の感じられない男の声が、不吉に響きわたる。


「ファの家のアスタ、出てくれば、他の人間、危害、加えない、約束しよう! 我ら、目的、ファの家のアスタだけだ!」


 その言葉を聞いて、ユン=スドラが悔しげに唇を噛んだ。


「どうして、アスタが……アスタだって、山の民などとは顔をあわせたこともないのでしょう?」


「う、うん。そのはずだけど……どこかで俺の名前を聞きつけたのかな」


 しかし、そうだとしても、山の民などに狙われる覚えはない。

 そのとき、「ばうっ!」という悲痛な声が響きわたった。

 そして、雷鳴のように響いていたジルベの咆哮が、途絶えてしまう。俺は後頭部を殴りつけられたような衝撃に見舞われて、思わず身を起こそうとしてしまった。


「ジルベ! ジルベ、大丈夫か!?」


「立つな、アスタ。矢で狙われてしまう」


 俺の手首をしっかりとつかんだまま、ティアがそう言った。

 その目は紅蓮の炎のごとく、燃えあがっている。


「それに、このままでは家もろとも焼かれてしまう。外に出て、逃げたほうがいい」


「だ、だけど、外には6人以上の敵がいるんだろう?」


「逃げるだけなら、きっと大丈夫だ」


 低くつぶやきながら、ティアがユン=スドラのほうを見た。


「その足もとの棒切れを、こっちに放ってほしい」


 ユン=スドラの足もとには、40センチばかりの長さを持つ薪が落ちていた。それを拾いあげながら、ユン=スドラは心配そうにティアを見る。


「アスタを連れて逃げるというのは、わたしも賛成です。でも、それなら肉切り刀などを持っていくべきではないですか?」


「ティアは、『鋼』を使うことを許されない。それは、赤き民の禁忌であるのだ」


 そのように述べてから、ティアは不敵に微笑んだ。


「それに、矢を打ち払うなら、長い棒のほうが便利だ。その棒切れを、放ってくれ」


 ユン=スドラがうなずいて、地面を転がすようにして薪を届けてきた。

 ティアがそれをひっつかみ、俺の顔を見上げてくる。


「アスタは、あのトトスという獣にまたがって、走らせることはできるのか?」


「う、うん。アイ=ファほど、上手くはないけれど……」


「では、トトスが殺されていなければ、それで逃げよう。あの獣に追いつける人間はいない」


 すると、ユン=スドラとは反対の側でうずくまっていたフォウの女衆が、心配げな声をあげてきた。


「ほ、本当に大丈夫なのかい? 男衆が戻ってくるまで、ここに隠れていたほうがいいんじゃないかねえ?」


「いや。外の連中がこの中に入ってきたら、アスタを守ることが余計に難しくなってしまう。……それに、お前たちの誰かが捕らわれたり傷つけられたりする危険もあるだろう」


 ティアは、とても静かな声でそのように答えていた。


「お前たちは、アスタの大事な同胞だ。お前たちが傷ついて、アスタが悲しむ姿を見たくはない。あいつらがアスタを狙っているならば、お前たちから離れるべきなのだ」


 ティアの落ち着いた声音を聞いている内に、俺も少しだけ冷静さを取り戻すことができた。


「俺も、ティアの言う通りだと思います。それに、集落への道は衛兵に守られているはずですから、きっと盗賊どももトトスは連れていないでしょう。それなら、逃げきれます」


 あの場には、100名にも及ぼうかという衛兵たちが密集していたのだ。それを蹴散らして集落にやってきたのなら、すみやかに追っ手がかかっているはずである。きっとこの盗賊どもは徒歩で森の端に踏み入って、枝葉や蔓草をかきわけながら集落にまでやってきたのだ。


(どうしてそうまでして、俺なんかを狙っているのかはわからないけど……みんなを巻き添えにすることはできない)


 そのように考えて、俺はティアを見つめ返した。


「ティア。外の連中は、森辺の狩人ぐらい腕が立つかもしれない。それでも、逃げきれるかな?」


「逃げるだけなら、大丈夫だ。ティアの刀さえ残されていたら、逃げずに戦うこともできたのだがな」


 ティアが所持していた黒い石の刀は、先日の大地震で折れてしまったのだ。


「それじゃあ、もしもトトスを使えなかったら? あんまり想像したくないけど……あいつらは、あらかじめギルルたちを動けないようにしているかもしれない」

 

「そのときは、森の中に逃げ込む。アイ=ファたちが戻るまで、森の中で隠れていればいい」


 ティアの言葉に、迷いはなかった。

 俺は気力をかき集めて、「よし」とうなずいてみせる。


「俺たちは、脱出します。あいつらがいなくなるまで、決して危険なことはしないでください」


 フォウの女衆は、張り詰めた面持ちでうなずいていた。

 ユン=スドラやフェイ=ベイムも同様であり、マルフィラ=ナハムは酸欠の金魚めいた顔、そしてトゥール=ディンは泣きそうな顔になっている。


「ア、アスタ、どうかご無事で……森と西方神に祈ります。絶対に、絶対に死なないでください」


「うん、ありがとう。トゥール=ディンたちも、気をつけて」


 俺とティアは、じりじりと入り口のほうに近づいていった。

 外の連中は様子を見ているのか、新たな火矢が射かけられることもない。

 そうして壁にべったりと背をつけて、外の様子をうかがってみると――ジルベが力なく横たわっている姿が見えた。

 くうんと悲しげな声をあげながら、漆黒のたてがみを震わせている。きっと、痺れ薬だか眠り薬だかを撃ち込まれたのだろう。山の民というのは、そういうものを吹き矢で仕掛けるのだという話であったのだ。


 その姿を目にした瞬間、俺の中の不安や恐れは、そのまま怒りへと転化した。

 何の罪もないジルベにこんな真似をするなんて、絶対に許せない。俺はこの身にアイ=ファたちのような力が宿されていないことを、心から悔しく思うことになった。


「トトスが繋がれているのは、この小屋の右側だったな。まずはティアが外に出るから、合図をしたら、アスタは壁にそって走れ。矢のことは気にしなくていい」


「うん、わかった。走っていいんだな?」


「うむ。トトスを目指して、真っ直ぐ走れ」


 言いざまに、ティアが入り口から飛び出した。

 同時に、左右から矢を射かけられてくる。

 それらは、ティアが一閃した薪で叩き落とされることになった。


「アスタ、行け!」


 俺は意を決し、飛び出した。

 ひゅんひゅんと矢が空気を引き裂く音色が響くが、脇目もふらずに地面を駆ける。俺にできるのは、ティアに言われた通りに行動することだけだった。


 かまど小屋の壁にそって、進行方向を転じる。

 とたんに、目の前を黒い影が飛来していったので、俺は立ちすくむことになった。

 しかしそれは、ティアの手にした薪であった。俺の正面から向かってきた矢を、ティアが払いのけてくれたのだ。


「大丈夫だ。走れ」


 俺はうなずき、再び地面を蹴った。

 その視界には、すでにギルルの姿が入っている。樹木の枝に手綱を繋がれたギルルは、きょとんとした面持ちでこちらを見やっていた。


(ギルル、無事だったか!)


 そちらに向かって走り寄りながら、俺は心から安堵していた。

 それと同時に、一抹の不安にとらわれる。この連中は、どうしてギルルを放置しているのだろう? ティアに気づかれる前にかまど小屋を包囲していたのなら、ギルルの始末をすることだって容易かったはずだ。


(いや、それでギルルが声をあげたら、俺たちに気づかれると思ったのかな。それとも、俺たちが強引に逃げだそうとすることまでは想定していなかったのか……何にせよ、俺たちにとっては大ラッキーだ)


 俺はギルルのもとに駆け寄って、枝に結ばれていた手綱をほどきにかかった。

 その間も、ティアは背後でぶんぶんと薪を振り回している様子である。しかし幸いなことに、刀で斬りかかってこようとする者はいないようだった。


「よし! 手綱がほどけたぞ!」


「アスタは、先に乗れ」


 俺はギルルをしゃがませて、その背に飛び乗った。

 それと同時に、ティアもふわりと俺の後ろに陣取った。


「いいぞ。トトスを走らせろ」


「了解!」


 俺がギルルにまたがるのは、ずいぶんひさびさのことだった。

 手綱を握り、腹の横を蹴り込むと、ギルルはすみやかに前進する。

 すると、俺の襟首が後ろからつかまれた。


「ちょっと支えにさせてもらうぞ。アスタは気にせず、トトスを走らせろ」


 どうやらティアはギルルの尻の上に立ち、薪を振り回しているようだった。

 俺の襟首をつかんではいるが、そこまで強い力ではない。それで疾駆するトトスの上に立てるなんて、恐るべきバランス感覚であった。


「うむ。矢に勢いがなくなった。もう後ろの連中は大丈夫だな」


 そのような言葉が聞こえるなり、俺の視界の端を薪の残像が走り抜けていく。今度は横合いから矢を射かけられてきたのだ。


(やっぱり、あちこちに潜んでるんだな。それなら森に逃げ込むより、宿場町を目指したほうが安全だ)


 俺はギルルを操って、森辺の道へと進路を取った。

 大きく切り開かれた地面の道を、南に向かって走らせる。そちらでは、左右から矢を射られることになった。

 しかし、ティアの薪は的確にそれを弾き返していく。ほんの20メートルばかりも進むだけで、それらの攻撃もぴたりとやんだ。


「ふむ。追ってくる気配はないな。あいつらは、トトスを持っていないらしい」


「そうだね。だったらこのままルウ家に向かって、危急を伝えてから、宿場町を目指そう。それで、衛兵たちに助けを求めるんだ」


「それはかまわんが、ティアを森辺の外に連れ出すのは、禁忌ではなかったか?」


「怒られたら、俺が謝るよ。こんな非常事態なんだから、きっとマルスタインだって――」


 俺はそこで、舌を噛みそうになってしまった。

 颯爽と地面を駆けていたギルルが、ふいによろめいたのだ。


 何の攻撃をされた気配もないのに、ギルルが足をもつらせる。俺はティアに声をかけるいとまもなく、鞍の上から放り出されて――そうしてしばし、意識を失うことになった。


                        ◇


「……気がついたか、アスタ?」


 気づくと、ティアが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 これまでのことは悪い夢であったのかと、俺はぼんやり身を起こそうとする。するとティアが、小さな手の平を俺の胸もとに押しあててきた。


「迂闊に動かないほうがいい。落ちたら、怪我をする」


「落ちたら、怪我って……うわあ、何だこりゃ?」


 俺の視界は、緑にふさがれていた。

 俺の身体は、高い樹木の上に担ぎあげられていたのだ。俺は太い枝にまたがる格好で、幹にもたれて眠りこけていたようだった。


 おそるおそる下を覗いてみると、5メートルほどの彼方に地面が見える。俺の正面にちょこんと座ったティアは、とても申し訳なさそうに眉を下げていた。


「いきなりトトスが倒れ込んでしまったので、アスタは地面に投げ出されてしまったのだ。頭を打たないようにティアが守ったが、アスタは意識を失ってしまった。どこも怪我などはしていないか?」


「う、うん、それは大丈夫みたいだけど……こ、ここは森の中なのかな?」


「うむ。矢を射かけてきた連中が追ってくる気配がしたので、森に飛び込んだ。ただし、アイ=ファたちが狩りをする東の側ではなく、西の側だ。東の側にはギバが多いし、あちこちに罠が仕掛けられているという話だったからな」


 ならば、このまま西に突き進めば、いずれは宿場町に出ることができる。

 しかしそれよりも、俺にはギルルが気がかりであった。


「いきなりギルルがふらついたのは、俺も覚えてるよ。吹き矢の毒か何かでやられちゃったのかな?」


「いや。そのような真似はされていないはずだ。おそらく、ティアたちが乗る前から、毒を仕込まれていたのだろう。特に苦しそうな様子ではなく、気持ちよさそうに眠りこけていた」


「そっか……ギルルも生きてるなら、何よりだったよ」


 俺がほっと息をつくと、ティアが表情をあらためて身を乗り出してきた。


「しかし、いつまでもこの場所にはいられない。アスタは、気配を殺すこともできないのだろう? あやつらは気配を殺すことができるから、気配を探ることだってできるはずだ。同じ場所に留まっていては、いずれ見つかってしまう」


「それじゃあ、このまま西に向かおう。けっこう歩くけど、いずれは宿場町に出られるはずだ」


「ふむ。最初はルウの家を目指すのではなかったか?」


「あれは、ギルルに乗っていたからだよ。ルウの集落で盗賊どもに追いつかれたら、狩人たちを呼び戻すひまもないからね」


 ルウの集落にはリャダ=ルウとバルシャが控えているはずだが、相手が10名から20名の山の民では、太刀打ちできないだろう。ならば、宿場町の衛兵を頼る他ないように思われた。


「わかった。ティアは、アスタに従おう。……アスタは木を降りることはできるか?」


「……この高さだと、ちょっと自信がないかな」


「それなら、ティアが背負っていこう。……こんなにアスタの身に触れたら、アイ=ファに叱られてしまうだろうか?」


「絶対に大丈夫だよ。俺が保証する」


 そんなやりとりを経て、俺たちは下界に帰還することになった。

 俺を背中にしがみつかせて、ティアはするすると高い樹木を降りていく。俺の体重など、まったく苦になっていない様子である。赤き民の怪力には、恐れ入るばかりであった。


「西は、こっちだな。アスタもなるべく足音をたてずに歩いてほしい」


 頭上には枝葉が折り重なって、大自然の天蓋に封じられてしまっているというのに、わずかに差し込んでくる木漏れ日だけで、ティアには太陽の位置がわかるようだった。


 森の端の西側に足を踏み入れるのは、俺にとっても初めての経験である。想像の通りに緑は深く、茂みや蔓草が足もとにまとわりついてくる。これではトトスを連れて歩くことなど、絶対に不可能であろう。普段、薪拾いや香草の収集で足を踏み入れている東の側とは、比較にならぬほどの難所であった。


(切り開かれた道を通っても、宿場町まで1時間ぐらいはかかるんだ。この調子じゃあ、倍ぐらいの時間がかかるかもな)


 獣道さえ存在しない険しい道で、しかもだんだん勾配がきつくなってくる。俺は蔓草に足を取られて転げ落ちてしまわないように、一歩ずつ慎重に進んでいくことになった。


「ティア、俺はどれぐらい気を失っていたんだろう?」


 俺が小声で呼びかけると、ティアは歩きながら小首を傾げた。


「そんなに長い時間ではない。アスタの使う大きな鍋で、火にかけた水が煮えるぐらいの時間だ」


「そっか。それじゃあまだ、三の刻の半にもなっていないぐらいだな」


 昨晩にトゥランを襲った《颶風党》が、今日はこのような昼下がりに森辺の集落を襲撃してきた。その事実に、俺は強い違和感を抱いていた。

 トゥランを襲った後、すぐに森の端に身を隠していたのなら、衛兵の目をくらますことはできたかもしれない。しかしそのためには、すべてのトトスを放棄しなければならないのだ。これでは、追い詰められる一方のはずである。


(だいたい、俺を襲ってどうしようっていうんだ? もしもティアがいなかったら、まんまと敵の手に落ちてたかもしれないけど……トトスも連れずにやってきたんなら、今度は森辺から逃げることだって難しいはずだ)


《颶風党》の目的が、さっぱりわからない。

 これでは、カミュア=ヨシュにいぶかられるのが、当然だ。

 もしかしたら――この連中は、本当に行き当たりばったりで動いているだけなのだろうか? そうだとしたら、思惑を探っても詮無きことである。


 しかしあいつらは、名指しで俺を狙っていた。

 俺の名前はジャガルのコルネリアにまで伝わっているぐらいであるのだから、どこで聞きつけていても不思議はないが、俺の身柄を奪うことで、どんな利益が発生するというのだろう。


(まあいい。とにかくいまは、逃げのびることだ。……トゥール=ディンやユン=スドラたちは、本当に大丈夫だろうか)


 そして、シムの毒に倒れたジルベやギルルも心配である。この事実を知ったら、アイ=ファがどれほど怒り狂い、どれほど嘆き悲しむことになるか――それを想像しただけで、俺は胸が痛くなってしまった。


「……アスタ。川の音が近づいてきたぞ」


「川の音? ああ、ラントの川に行き当たったのかな。この森辺には、あちこちに支流がのびているんだよ」


「それはティアも聞いているが、かなり大きな流れであるようだぞ」


 俺の耳には、まだどのような音色も聞こえてこない。

 だけど確かに、ファの家からもっとも近い道から宿場町を目指すには、吊り橋を経由しなければならないのである。もっと南に下らなければ、あの断崖が行く手をさえぎってしまいそうだった。


「それならいっそ、吊り橋を目指してみようか。こうやって茂みをかきわけていくよりは、早く町につけるはずだし……でも、そういう場所だと、待ち伏せされてる危険もあるのかな」


「待ち伏せの心配はいらない。さっきは小屋の壁が邪魔だったが、森の中ならあいつらの気配を見逃したりはしない」


「それじゃあ、ひとまず吊り橋に向かおう。待ち伏せされてたら、南の側から断崖を迂回するんだ」


 しかし、俺には現在地の見当がつかなかったので、まずは西を目指すしかなかった。断崖にいきあったら、それに沿って南に進むしかないだろう。

 毒虫や毒蛇はグリギの実の首飾りが追い払ってくれるはずであるが、こんな深い森の中を進んでいくだけで、確実に体力を削られていってしまう。しかし俺は弱音を吐く気にもなれず、黙々と道なき道を突き進んだ。ティアなどは、それこそ水を得た魚のように、ひょいひょいと森の中を進んでいた。


 と――ティアが背後に、鋭い視線を差し向ける。

 その赤い瞳には、再び溶岩のような光が灯っていた。


「まずいな。背後から気配が近づいてきている。アスタの残した足跡に気づかれてしまったようだ」


「それじゃあ、どうしたらいいんだろう?」


「あいつらよりも、早く進むしかない。もう音をたててもいいから、なるべく急ぐのだ」


「わかった」と応じて、俺は残存する体力をかき集めた。

 それでも転倒しないように気をつけながら、ティアのかきわけてくれた茂みの中を突き進む。すると、俺の耳にも底ごもる濁流の音色が聞こえてきた。


「アスタ、この先はいったん森が途切れて、岩場になるようだ」


「うん。それに沿って南に進めば、いずれ吊り橋に行き当たるはずだよ」


「しかし、見晴らしのいい場所に出ると、矢で狙われるかもしれない」


「だったら、森が途切れる前に、南に進路を変更しよう」


「いや……南の側にも気配を感じる。いま進めるのは、西か北だけだ」


 北に向かっても、おそらくはかなりの距離が断崖でふさがれていることだろう。そうだからこそ、吊り橋が掛けられることになったはずなのである。


「それじゃあ、西だ。吊り橋のところで待ち伏せされていないことを祈ろう」


 しかし、俺の祈りが聞き届けられることはなかった。

 森が途切れて岩場となり、全速力で南に足を向けてみると――その無情なる事実が鼻先に突きつけられることになった。


 もう俺たちは1年以上も使っていなかった、断崖の吊り橋――通る人間が毎回チェックをして、根気よく補修をしながら何十年も使われていた吊り橋が、支えの蔓草を断ち切られて、断崖の下に落とされてしまっていたのである。


 そして、森の中から矢が射かけられてきた。

 ティアが薪を振り回し、それを撃退する。


「南の側で動いていた連中か。……しかし、手回しがよすぎる。まるでティアたちの動きを察知していたかのようだ」


 そのように述べてから、ティアは小さく舌打ちした。


「そうか。さっきから鳥の声がやたらと聞こえるように思っていたが……後ろから追ってきていた連中が、鳥の声を真似て指示を送っていたのだな。ティアたちは、まんまと先回りされてしまったのだ」


 俺は、呆然と立ち尽くした。

 そんな俺に小さな背中を見せながら、ティアが薪を振り上げる。


「でも、案ずることはない。アスタの身は、ティアの生命を使って守る。誰にもアスタを傷つけさせはしない」


 決して昂ぶることのないティアの声には、俺を打ちのめすぐらいの強い決意が感じられた。

 そして――森の中から、ついにその者たちが姿を現した。

 シムの王国の山の民、《颶風党》と名づけられた、許されざる盗賊どもである。

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