いつか見果てぬ空へ(下)
2018.10/23 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。次回の更新まで少々お待ちください。
「前菜は、マロールの和え物です。お口にあえば幸いでございます」
客人たちの前に前菜の皿が行き渡ったのを見届けてから、ロイはそのように宣言してみせた。
わずか半月では、ヴァルカスの作法を踏襲できるはずもない。しかしロイは、数ヶ月に渡ってヴァルカスと弟子たちにまとわりつき、その調理のさまを見届けてきたのだ。前菜ぐらいは、何とか体裁を保つことができた。
王都から運ばれてきたマロールの乾物を水で戻し、煮込んだ肉をほぐして香草と油で和えている。また、その和え物をのせているのは、釜で焼きあげた薄いフワノの生地だ。これは、ヴァルカスが好んでよく使う前菜の作法であった。
貴族たちも、文句のない様子でその前菜をついばんでいる。きっと誰もがヴァルカスの料理を口にしたことがあるのであろうから、それを模倣した前菜で驚きの声をあげる人間はいなかった。
(ちぇっ。こっちは前菜ひとつでも、生命がけの覚悟で作りあげたっていうのにな)
しかし、賞賛や驚きを得ることはできなくても、不平や不満を述べられなかっただけ、幸いと考えるべきなのだろう。ロイとしても、勝負は次の皿からであった。
「お次は、ギバ肉とカロン乳を使った汁物料理となります」
ギバ肉と聞いて、客人たちの目の色が変わる。知らず内、ロイも心臓が高鳴ってしまっていた。
シリィ=ロウとボズルの手によって、新たな皿が並べられていく。それを目にしたエウリフィアが「あら」と声をあげた。
「これはまるで……アスタの作る料理のようね?」
「はい。森辺の料理人アスタの料理を参考にしつつ、自分なりの手を加えた料理となります」
それは、アスタが『クリームシチュー』と呼ぶ料理を参考にしていた。ロイにとっては、アスタがトゥラン伯爵邸で初めて作りあげた料理、という認識でもある。
ただし、あのときのアスタはキミュスの肉でこの料理をこしらえていた。それが長きの時を経て、ギバ料理として屋台で売られるようになったのだ。
そして驚くべきことに、屋台の『クリームシチュー』はレイナ=ルウの幼い妹が取り仕切って作りあげているという話であるのだった。
「ほうほう。しかしこれはやっぱり、アスタ殿とは異なる作法で作られた料理であるようだね」
そのように述べたのは、ダレイム伯爵家の第二子息たるポルアースであった。森辺の民やギバ料理とゆかりの深いこの貴族も、本日の晩餐会に招かれていたのだ。
汁物料理の皿をじっと見つめていたルイドロスは、不思議そうにポルアースを振り返った。
「ふむ。わたしもそのアスタの作る料理には心当たりがあるのだが……どうして食べもせぬうちから、アスタとは異なる作法だとわかるのかね?」
「それは、この香草の香りでありますよ。アスタ殿の料理はカロン乳や乳脂のまろやかさを前面に打ち出したもので、香草などはわずかにピコの葉ぐらいしか使われていなかったでしょう?」
ポルアースの言葉に、ルイドロスは「なるほど」とうなずいていた。
いっぽう、穏やかならぬ心地でいたのは、ロイである。屋台で売られている『クリームシチュー』など、せいぜいポルアースぐらいしか口にしたことはなかろうと考えていたのに、ルイドロスもエウリフィアも見知っているような様子であったのだった。
そんなロイの心情も知らぬげに、ポルアースはにこにこと笑っている。
「これと似た料理が出されたのは、たしか王都の監査官たちとの和解の会食でありましたね。ルイドロス殿は、あの場で初めてアスタ殿の料理を口にしたのでしたっけ?」
「うむ。この屋敷で行われた晩餐会で、ルウ家の息女らの手がけたギバ料理を口にすることはできたがね。アスタの料理を口にしたのは、そのときが初めてのはずだ」
このサトゥラス伯爵邸で行われた会食については、ロイもはっきりと覚えている。その場ではシリィ=ロウもレイナ=ルウたちのギバ料理を口にして、驚きに打ちのめされることになったのだ。
しかし、別の場所でルイドロスやエウリフィアが『クリームシチュー』を口にしていたというのは、完全に計算外であった。
(まいったな。俺はヴァルカスばかりじゃなく、アスタとも比較されちまうのかよ)
張り詰めていた気持ちが一瞬、萎えそうになる。
しかし、ロイは何とか踏みとどまり、「お口に合えば幸いでございます」と述べてみせた。ロイとて、最善を尽くすために、この料理を献立に選出したのである。
もちろんアスタの料理を参考にはしていても、模倣まではしていない。とろみをつけるためにフワノ粉を乳脂で炒めて、それをカロン乳でのばす、という部分はアスタと同一であるものの、食材の分量は自分なりに調整していたし、具材も別のものに変更していた。
それにやっぱり一番の大きな違いは、ポルアースが指摘した通り、香草である。
城下町の民は香草を好んでいるのに、アスタは香草を使わないことが多い。それを物足りなく感じたロイが、考えに考えぬいて香草を投じてみせたのだった。
(だけどやっぱり、香草を主体にすると、まったく違う料理になっちまうんだよな)
よってこの料理にも、3種の香草しか加えていない。ピコの葉と同系列の香草で辛みを足し、カロン乳をひきたてるための甘い香りを足し、隠し味としての苦みを足したまでである。これならば、もともと『クリームシチュー』の持っていた魅力を壊さぬまま、味を調和させることができたのではないかと思われた。
そしてこの際は、ギバ肉も添え物になってしまっている。正直に言って、キミュスの肉に取り替えても大差のない味わいであることだろう。
しかしそれは、アスタたちの作る『クリームシチュー』でも同じことであった。アスタが一番最初に作ったキミュス肉の『クリームシチュー』でも、ロイが愕然とするぐらい美味であったのである。
果たして――銀の匙を口に運んだルイドロスは、「ふむ」と満足げに微笑んでくれた。
「あのときのアスタの料理もきわめて美味であったが、それに劣る味わいではないな。ひかえめに加えられた香草が、実に妙なる味わいを生み出しているようだ」
「ええ、本当に。それに、アスタの料理に城下町の作法で変化を加えるなんて、とても楽しい試みですわ」
そう言って、エウリフィアはかたわらの愛娘に視線を向けた。
「オディフィアも、あの汁物料理はお気に入りだったわよね。それなら、この料理にも文句はないでしょう?」
「うん。……でも、あのときのりょうりのほうがおいしかった」
その一言で、ロイは血の気が下がる思いであった。
しかし、エウリフィアは楽しげに微笑んでいる。
「それではこちらのロイに失礼ですよ、オディフィア。……ごめんなさいね。オディフィアはまだ幼いから、香草の辛みを少し苦手にしているのよ」
「滅相もございません。配慮がゆき届かず、汗顔の至りでございます」
「いいのよ。ギバ料理を食べたいと言ってついてきたのは、オディフィアのほうなのだから。たとえこれがヴァルカスの料理であったとしても、オディフィアは同じことを言っていたはずよ」
そうして語っている間に、他の客人たちも皿を空けた様子である。
内心で冷や汗をぬぐいながら、ロイは次なる料理に取りかかることにした。
「お次は、フワノ料理でございます。こちらには、アロウとアマンサを使用しております」
アマンサは、《銀星堂》の厨で初めて手にした食材だ。以前からトゥラン伯爵邸では取り扱われていたが、使用人のための料理を作らされていたロイには触れる機会がなかったのである。
しかし、使いにくい食材ではないし、珍しい青い色合いをしているので、このたびはケレン味を加えるために使うことにした。これは遥かなるマヒュドラから東の民を通じて届けられたもので、アロウと少し似た風味を持つ果実である。
アロウもアマンサも酸味が強いので、それを食べやすくしながら調和を保つために、砂糖と蜜で煮込んでいる。フワノの生地は泡立てた卵の白身を使ってふわふわの仕上がりにしており、その内にアロウとアマンサを封入した上で焼きあげていた。
これは舌を休める献立であるので、賞賛の声も不満の声もあがらない。
ただ、エウリフィアが笑顔でまたオディフィアに声をかけていた。
「これは甘くて、菓子のような仕上がりね。オディフィアの口にも合うでしょう?」
「うん。……でも、トゥール=ディンのおかしのほうがおいしい」
「これは菓子のようだけれど菓子ではないのだから、トゥール=ディンと比べてはいけないわ」
6歳の幼子が言うことなので、主人のルイドロスも鷹揚に微笑んでいる。
しかし、火の上で綱渡りをしている心境であるロイにとっては、そのていどの言葉でもイラの葉のように刺激的であった。
(頼むから、あんまり余計なことは言わないでくれよ、お姫さん)
ロイの気も知らずに、オディフィアはぱくぱくとフワノ料理を食べている。どうしてこの幼き姫はこんなにも表情が動かないのか。せめて隣の母親のように表情豊かであれば、ロイもここまで脅かされずに済んでいたのかもしれなかった。
「……お次は、野菜料理でございます。こちらにも、多少のギバ肉を使っております」
野菜料理は、煮込みの料理にしていた。
タラパを主体にしており、そこに複数の香草を投じている。具材はギバの胸肉と、チャン、マ・プラ、タウの豆といったジャガルの食材で統一している。フワノ料理と続けて酸味を前面に押し出すのは避けたかったので、野菜の甘みや香草の辛みなどに主眼を置いていた。
「ふむ。ヴァルカスといえば香草使いと呼ばれるほど、香草の扱いの巧みさが際立っている。だからいつも、野菜料理では大きな驚きに打たれることになるのだが……本日は、そういう趣向ではないようだな」
ルイドロスが発言すると、そのすぐそばに陣取っていた第一子息のリーハイムも「そうだな」と賛同した。
「正直に言って、ちょっと拍子抜けだ。ま、そこまで出来が悪いってわけではねえけどよ」
この第一子息は、いささかならず口が悪い。これまでは大人しくしてくれていたので、ロイもほっとしていたのだが、ここに来て不満が生じてしまったようだった。
しかしさすがに野菜料理でヴァルカスを持ち出されては、ロイとしても弁解の余地はない。それで、自分の未熟さを詫びようと思ったのだが――リーハイムのひとつ隣に座していた若者が「そうなのですか?」と不思議そうに発言した。
「自分はそのヴァルカスという人物の料理を口にしていないせいでしょうか。これはとても、美味に感じられます」
「ふむ。レイリスとて、祝宴などではヴァルカスの料理を口にしているのではないのかな。何か野菜や香草を主体にした料理で驚かされた覚えがあるのなら、それがヴァルカスの料理なのだろうと思うぞ」
「そうなのですね。そう言われれば、心当たりがなくもありませんが……誰が作った料理であるかなどは、あまり気にとめない性分ですので」
それは、貴公子らしく凛然とした風貌の若者であった。すっと背筋がのびており、優美な中にも力強さが感じられて、リーハイムよりもよほど高潔に見えてしまう。
(しかし、レイリスってのは……たしか、森辺の民とたびたびもめていた貴族じゃなかったっけな)
先日の、サトゥラス伯爵家と森辺の民の和解の会食も、たしかこの若者の父親とリーハイムが原因で開かれることになったのだ。彼の父親は、それで騎士団長の座を失ったという話であるはずだった。
(だけどまあ、和解したんなら、どうってことないか。俺の料理をほめてくれるなら、ありがたいこった)
ロイがそのように考えていると、レイリスが毅然とした眼差しをこちらに向けてきた。
「それにこれは、何だか森辺の民の料理を思わせるような気がする。ギバ肉を使っているために、そのように感じられるのだろうか?」
「ああ、わたくしもそのように思っていたのよ。でも、ギバ肉ではなく煮汁のほうに理由があるように思うのよね」
エウリフィアまでもが、こちらを見やってくる。ロイは気を引き締めなおしつつ、それに答えてみせた。
「こちらはとりたてて森辺の料理人の献立を参考にしたわけではないのですが、ただ一点、下ごしらえの段階で影響を受けております」
「下ごしらえというと、ギバ肉の?」
「いえ、タラパの煮汁に関してです。……そちらは野菜の甘みや旨みを引き出すために、こまかく刻んだアリアをレテンの油で炒めたものを大量に使っております」
「アリア? まあ、アリアが使われていたとは気づかなかったわ。どこにも姿を見かけないようだけど」
「はい。こまかく刻んだ上で入念に煮込んでおりますので、そのほとんどは煮汁に溶け込んでいるかと思われます。しかしそのアリアこそが、こちらの料理の土台を支えているはずです」
リーハイムは「ふーん」と気のない声をあげながら、銀の匙でタラパの煮汁をすくっていた。
「アリアなんて貧乏臭い食材を、ヴァルカスの弟子が使うんだな。だけどまあ……拍子抜けした分を差し引けば、十分に美味い料理だと思うよ」
ヴァルカスは、必要と思えばどのように安値の食材でもためらいなく使う料理人である。
が、このような場でそのようなことを述べても詮無きことなので、ロイはさきほど言いそびれた謝罪の言葉を口にすることにした。
「皆様のご期待を裏切ってしまい、忸怩たる思いでございます。これからも、師ヴァルカスのもとで腕を磨きたく思います」
その言葉をどう受け止めたのか、ルイドロスは「ふむ」と口髭をひねるばかりであった。
ロイの人生を懸けた綱渡りも、いよいよ大詰めに差し掛かっている。ロイはこっそりと呼吸を整えてから、宣言した。
「それでは、肉料理でございます」
本日はギバ肉料理が主役であるのだから、この献立こそが勝負の分かれ目である。
指先が震えそうになるのをこらえながら、ロイはその料理を取り分けていった。
その皿が手もとに届けられて、「まあ」と声をあげたのは、やはりエウリフィアであった。
「この料理もまた、アスタの料理とよく似た外見をしているようね」
「……はい。森辺の祝宴で口にしたギバ料理があまりに鮮烈であったもので、そちらを参考にさせていただきました」
そのように答えながら、これも貴族の間では知れ渡っているのかと、ロイは頭を抱えたくなってしまった、
ロイが参考にしたのは、『ギバ・カツ』と呼ばれる料理である。
ギバの肉を、フワノやポイタンの衣でくるんで揚げた料理であった。
(まあ森辺の連中も、これは自慢の料理って言い張ってたもんな。それなら、貴族にお披露目されてるのも当然か)
すると、にこやかに笑っているエウリフィアやポルアースの姿を見比べながら、ルイドロスが「ふむ?」と声をあげていた。
「わたしはこのような料理を口にした覚えはないな。エウリフィアたちは、どこでその機会に恵まれたのかね?」
「さあ、いつだったでしょう。ずいぶん古い話だったと思いますわ。ポルアースは、覚えているかしら?」
「そうですね。あれはたしか……うん、そうだ。アスタ殿とヴァルカス殿が初めて一緒に厨を預かった日です。だからおそらく、バナーム侯爵家の使節団をお迎えした歓迎会でありましょう」
「ああ、バナーム侯爵家の。それはずいぶん、懐かしい話だわ」
ロイは、そのような歓迎会に覚えはなかった。アスタとヴァルカスが同じ日に厨を預かったのは、マイムの腕に衝撃を受けたロイがひとりで修練を重ねていた時代であったのだ。
(くそ、ここでもアスタと腕を比べられるのか。……でも、かまうもんか。俺には、これしか思いつけなかったんだ)
貴き人々は、談笑しながらロイの料理を切り分けて、それを口に運んでいた。
そんな中、ポルアースが「おお」と声をあげる。
「まさか、この料理でも香草が使われているとはね。しかし、これは……」
と、そこで言葉を止めて、ふた口めを口に投じる。
これはの後は何なのだ、とロイは地団駄を踏みたい心境であった。
他の人々も会話をやめて、黙々と料理を食している。その沈黙が、ロイの肩にずしりとのしかかっていた。
すると、そんなロイを見かねたのか、シリィ=ロウが背伸びをして口を寄せてくる。
「しゃんとなさい。あなたは自信をもって、あの献立を選んだのでしょう?」
そんなことは百も承知もだが、貴族たちがいっせいに口をつぐんでしまうなどという場面は、これまでになかったのだ。
人のよさそうなポルアースも、おしゃべり好きのエウリフィアも、口の悪いリーハイムも、誠実そうなレイリスも、内心の読めないルイドロスも――全員が、黙然と料理を食べている。ついさきほどまで談笑の声が響いていたことを思うと、それは一種異様な光景であった。
ロイは辛抱たまらなくなり、「お味はいかがでしょうか?」と声をあげてしまう。
すると、ハッとした様子でポルアースが顔をあげた。
「ああ、ついつい言葉を失ってしまったよ。僕は美味だと思いましたけれど、みなさんはいかがです?」
「美味よ」「美味です」と、エウリフィアとレイリスが同時に答えた。
そこに、リーハイムの声が重なる。
「美味いことは美味いけどよ、お前はヴァルカスの弟子なんだろ? 森辺の料理人に弟子入りしたわけじゃねえんだよな?」
「はい。森辺の手法を取り入れてはおりますが、あくまでヴァルカスの弟子として料理を作らせていただきました」
「ふーん。まあ確かに、森辺の料理人でここまで香草を使うやつはいなそうだよな」
そう、その料理にも、ロイはふんだんに香草を使っていた。
肉と衣の間には複数の香草がはさみ込まれているし、肉の下ごしらえでも香草を使っている。アスタはタウ油を主体にした煮汁で味を作っていたが、ロイは香草で味を組み立てたのだ。
甘みも、辛みも、苦みも、酸味も加えている。ヴァルカスのように香草と野菜だけで甘みを作ることはかなわなかったので、そこは砂糖とミンミの果汁を使い、肉そのものに甘い下味をつけている。その下味と調和するように、ロイの持てる香草の知識を総動員したのが、この料理であった。
また、森辺においてはギバの脂で揚げられていたが、そのようなものは手に入らないので、ホボイの油を使っている。その豊かな風味も、この味には欠かせない要素であった。
「其方は……ヴァルカスに弟子入りする前から、ギバ料理の研鑽を積んでいたのかな?」
と、ルイドロスがふいに声をあげた。
ロイは心臓を高鳴らせながら、「いえ」と応じてみせる。
「ギバ肉を手にする機会はありませんでしたので、こちらはカロンやキミュスの肉を使って研鑽を積んでおりました。それをギバ肉に入れ替えて、調和を保てるように香草の分量を加減した次第でございます」
「ふむ。森辺の集落に通って、アスタやルウ家の息女らに手ほどきを受けたわけではない、と?」
「はい。森辺の集落には2度ほど足を運んで厨の見学をさせていただきましたが、手ほどきを受けたわけではありません」
「それでも、これほどのギバ料理を作りあげることはかなうのだな」
そう言って、ルイドロスは優雅に微笑んだ。
「いや、感服した。ヴァルカスの弟子という名に恥じない腕だな。これは、将来が楽しみだ」
「ええ。これはきわめて、我々の口に合う料理であるようですね」
ポルアースも笑顔でそのように述べてきた。
「それでいて、アスタ殿の伝える渡来の民の手法まで取り入れているものですから、実に不思議な仕上がりでありました。まだそれが、いささかヴァルカス殿の手法とぶつかっている感は否めないところでありますが……しかし、十分に美味でありましょう」
「そうね。味がちぐはぐというよりは、森辺と城下町の作法をともに取り入れてみせようという気迫を感じてしまったわ。このような気概を持つ若者を弟子にすることができて、ヴァルカスは幸福ね」
エウリフィアはゆったりと微笑みながら、ロイのほうに目を向けてきた。
「怒らないで聞いてほしいけれど、アスタやヴァルカスと味比べをしてしまったら、わたしはそちらに星をあげてしまうと思うの。でも、あなたの料理には、それにあらがおうという確かな熱情を感じたわ。アスタの料理にも、同じような気迫を感じたりもするのだけれど……あなたが城下町の料理人であるためであるのかしら。それがよりいっそう、まざまざと伝わってくるのよ」
「ああ、そうですね。アスタ殿の持つ熱情と、ヴァルカス殿の持つ精緻さが、ぎりぎりのところで調和を保っているのかもしれませんね」
ポルアースが、そのように言葉を重ねてくる。
すると、レイリスがいくぶん当惑したように両者の姿を見比べた。
「みなさんは、そのように難しいことを考えながら、この料理を口にしていたのですか? 自分などは、ひたすら美味だと感じ入っていたばかりなのですが……」
「うん。これはもう、アスタ殿の料理を口にした人間の宿命なのかもしれないね。アスタ殿の料理を食べていると、美味なる料理とは何ぞや、という命題を突きつけられたような心地になってしまうのだよ」
そう言って、ポルアースはにこりと微笑んだ。
「それでまあ、けっきょく美味なものは美味だという当たり前の結論に落ち着いてしまうのだけれどね」
「ふむ。わたしはそのようなことに頭を回していたわけではないが……とにかく、美味なる料理であったことに間違いはなかろう」
ルイドロスはアロウの茶で口を潤してから、ロイに微笑みかけてきた。
「ともあれ、最後の菓子で今宵の晩餐をしめくくってもらおうか」
「は、はい。承知いたしました」
フワノの焼き菓子を切り分けるために、ロイは刀を取り上げた。
が、指先が震えてしまって、狙いが定まらない。すると、シリィ=ロウが横からそっと刀を取り上げてきた。
「それではせっかくの菓子が台無しになってしまいます。あなたの仕事は果たされたのでしょうから、少し気持ちを落ち着けなさい」
客人がたには聞こえぬようにひそめられた声で、シリィ=ロウはそのように述べていた。
そうして、切り分けられた焼き菓子が各人に届けられていく。
「あら、これもアスタの手法を取り入れているのかしら?」
「はい。ギギの葉をこのような形で使うのは、森辺の手法かと思われます」
その焼き菓子には、ギギの葉を甘くて香ばしい汁に仕上げたものが掛けられていたのだった。
もちろん、こまかい分量などは聞いていないので、ロイが独自に研鑽を重ねた結果である。甘さはかなりひかえめであり、アスタやトゥール=ディンのこしらえるものよりも、さらりとした舌触りになっているはずだった。
「ああ、これも素晴らしい出来栄えね。オディフィアも、これは好みの味でしょう?」
「うん。おしろでたべるおかしとおなじぐらいおいしい」
それは、ジェノス城の料理長ダイアの菓子と同等である、という評価であった。
最後の最後で、ものすごいことを言ってのける幼き姫君である。
「それじゃあ、後の言葉は胸にしまっておきなさい。トゥール=ディンは、また茶会に招待しましょうね」
「うん」とうなずきながら、オディフィアは熱心に菓子を頬張っていた。口の周りが、ギギの汁だらけになってしまっている。
「いや、見事な腕前であった。其方を名代に選んだヴァルカスの目に、狂いはなかったようだな。ヴァルカスが多忙な際には、また其方やシリィ=ロウに厨を預かってもらうことにしよう」
ルイドロスによる、それが退室の合図であった。
ロイたち3名は一礼し、小姓の案内で食堂を出る。
とたんに膝が崩れそうになってしまったが、それはボズルが後ろから支えてくれた。
「お疲れさん。見事に大役を果たしたな」
小姓の耳をはばかって、小声で囁きかけてくる。ロイはそちらに、「ありがとうございます」と頭を下げてみせた。
そして、小姓とともにさっさと歩を進めているシリィ=ロウに追いすがる。
「シリィ=ロウも、ありがとうな。おかげで追い出されずに済むよ」
「……ふん。ジェノス城の料理長ダイアと同等と称されて、さぞかしご満悦なのでしょうね」
ロイのほうを見ようともせずに、シリィ=ロウはそのように述べていた。
ふらつく足でその横を歩きながら、ロイは耳もとに口を寄せる。
「だったらお前は、ダイア以上の腕ってことになるんだろうな。俺の菓子なんて、お前に手ほどきを受けた結果なんだからさ」
「さあ、どうでしょうね。賛辞を受けたのは、あなた自身です」
「あんな幼い姫君の言葉を真に受けるなよ。なあ」
と、ロイは横からシリィ=ロウの手をひっつかんだ。
たちまちシリィ=ロウは顔を赤くして、こちらをにらみつけてくる。
「な、何ですか。無礼ですよ。お離しなさい」
「やっとこっちを見てくれたな。礼を言うときは相手の目を見なさいって、生真面目な親にしつけられてるもんでね」
そう言って、ロイは笑ってみせた。
「本当にありがとうな。今日のことは、お前とボズルのおかげだよ。これからも不肖の弟弟子として、よろしく頼む」
「だ、だったらまず、口のききかたを何とかなさい」
「ふむ。兄弟子には、丁寧な言葉づかいを心がけるべきなのでしょうか?」
まだ赤い顔をしていたシリィ=ロウは、「ふん」と鼻を鳴らしながら、ロイの手を振り払った。
「気持ちが悪いので、言葉づかいをあらためる必要はありません。ただし、言葉の内容をあらためなさい」
「ああ、善処するよ」
シリィ=ロウは笑みをこらえているような面持ちでそっぽを向くと、小姓を追って歩き始めた。
ボズルに背中を叩かれつつ、ロイもその後を追いかける。その頃になって、ロイはようやく試練をくぐり抜けたのだという実感を抱くことができた。
◇
そうして、翌朝である。
昨日は帰りも遅かったので、ヴァルカスと顔をあわせるのは、これが初めてのことであった。
ロイが厨に入っていくと、ヴァルカスはすでにかまどの前に立っている。いや、ヴァルカスばかりでなく、シリィ=ロウもボズルもタートゥマイも頭巾をかぶって、それぞれの仕事に取り組んでいた。
「あれ? 遅刻はしてないはずですけど、みんなずいぶん早いんですね」
シリィ=ロウとボズルは振り返り、目だけで挨拶をしてくれた。それに挨拶を返してから、ロイはヴァルカスへと歩み寄る。
「昨晩の結果は、もうボズルたちに聞いていますよね? これで、俺を弟子と認めてもらえますか?」
鉄鍋で香草を煮込んでいたヴァルカスは、迷惑そうにロイを横目で見やってくる。
「はい。それではあなたも、作業に取りかかってください。今日は香草の新たな組み合わせ方を研鑽する予定です」
「ふん。ずいぶん、あっさりしてますね。あなたの仕掛けた無茶な試練を何とかやりとげてみせたんですから、他に言うことはないんですか?」
ロイがそのように述べたてると、ヴァルカスは頭巾の穴から溜息をこぼした。
「あなたであれば、このていどの課題をこなせないはずがありません。結果は最初から見えていたので、特別に言葉を重ねる必要もないでしょう」
「……だったら、どうしてそんな課題を出したんです?」
「あなたの慢心が失敗を呼び込めば、取りこぼす可能性もあるかもしれないという、一縷の希望にすがったまでのことです。残念ながら、わたしの願いは西方神に聞き届けられなかったようですね」
「…………」
「さあ、わたしの弟子を名乗る気があるのなら、さっさと作業に取りかかってください。きちんと頭巾をかぶってくださいよ?」
「はいはい、仰せのままに」
ロイが身を引くと、ヴァルカスは何事もなかったかのように視線を鉄鍋に戻した。
そこでロイは、タートゥマイがこちらを見つめていることに気づき、深々と頭を下げてみせる。タートゥマイがヴァルカスを諌めていなければ、ロイは問答無用でこの厨を追い出されていたのである。
頭巾のせいで表情はわからなかったが、タートゥマイはうっすらと微笑んでいるように感じられた。
そちらにもう一度頭を下げてから、ロイは懐に忍ばせていた頭巾をかぶることにした。
(タートゥマイも心情の読めないお人だけど、やっぱり一番の変人はヴァルカスなんだろうな)
しかしべつだん、ヴァルカスから温かい言葉をかけられることを期待していたわけではないので、どうということもない。こういうぞんざいな扱いに耐えられなければ、ヴァルカスの弟子などつとまらないのだ。
(それでもあんたは、一流の料理人だ。モルガの山なみに険しい道なんだろうけど、絶対に山頂まで登りつめてやるからな)
まずはヴァルカスと同じ場所に立って、同じ光景を見てみたい。それが、ロイの切なる願望であった。
さらにその先には、どのような光景が広がっているのか――シリィ=ロウやボズル、アスタやレイナ=ルウやマイムたちとも、同じ光景を見ることはできるのか。そして、ヴァルカス自身もそこに加わってこようとするのか。いまだ山麓で高い山頂を見上げているロイには、そのようなことを想像することもできなかった。
(もうちっと腕が上がったら、アスタたちにも俺の料理を食べてもらいたいもんだ。……でも、勝手にアスタの作法を真似ちまって、レイナ=ルウなんかには白い目で見られちまうのかな)
ロイがそのように考えていると、シリィ=ロウがキッとにらみつけてきた。
「準備は整ったのですか? 手を清めたら、こちらの作業を手伝ってください」
「了解。すぐ行くよ」
頭巾の内側で笑いながら、ロイは頼もしい兄弟子のもとへと歩を進めた。
香草の香りが充満したこの部屋で、今日も1日を過ごすことができる。その喜びをひそかに噛みしめながら、ロイは日常へと回帰した。